【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
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産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ >>294
「南」と「水行十日、水行二十日陸行一月」を合わせると太平洋にドボン
どっちかが間違ってるということだ
そして行程の記述からではどっちが間違ってるかは不明
こんなの邪馬台国論争の基本中の基本だろが >>232
>一大率ってのは今で言えば総理大臣であり、女王が天皇みたいなもんだ。
>つまり伊都国が首都国で、邪馬台国は皇居のある国。
いろいろと妄想がはかどってるみたいだけど、邪馬台国本国には
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮と4人の官がいると明記されてる
総理大臣は第一の官の伊支馬だろ
一大率は、地方官だよ
もし伊都国が邪馬台国から近かったら、
一大率は刺史ではなく、司隷校尉のごときと書かれていないとおかしい >>287
第三者だよ
ひねくれないで素直に誤りは認めて学びとったほうがいいと思うけど
>>243とかわかりやすい説明のしかたができるのにもったいないよ >>292
畿内説もそれは同じでしょw
伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね! >>240
>都合のいいところだけ魏志倭人伝の記述を採用し、都合の悪いところは間違いで済ます
短里を捏造し、根拠なく島巡り仮説を採用し、
末盧国から伊都国の方角をアクロバット解釈する九州説には負けるよ
↑
こういう風に具体的に指摘してごらん
畿内説の「どこが都合のいいところ」なのかを具体的にさ >>298
>伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね!
文献内で整合性を持たせてるだけのこと
>>259に書いた通り >>241
>ヒコヒメ制とか、わけわからん妄想を持ち出すから、
ヒコヒメ制は、広く認められている概念だぞ
記紀にも彦姫のペアで地名を冠する人名が多数あるし、
魏志倭人伝の卑弥呼と佐治国男弟のペアも、彦姫の例とされている >>241
>卑弥呼はシャーマンだったかもしれないが、同時に強権を発動できた政治家でもあった、と、なぜ考えない?
それはね、当時の倭国の状況が、強権的支配だと考える理由がないからだよ
九州説がよく持ち出す、畿内が北部九州まで支配したとは考えられないってやつだ
実際、強権支配はしてないんだよ
そもそも、卑弥呼と会える人数が限られているんだから、強権的に軍隊に号令をかけたりはできないだろう
ただ、カリスマ性はあったと考えた方が、魏志倭人伝の記載と合う >>244
>女性が、実質的女王になれなかったなどというのは、偏見にすぎない。
卑弥呼の時代、崇神天皇の時代から、神功皇后までの記紀の記述は、
東征、西服、渡平海北の様子が記されている
卑弥呼のときにヒメ王・祭祀王の統一がなされたが、その後にヒコ王・世俗権力の
統一は別途進められなければならなかったんだよ
そして、その征服事業の仕上げが、神功皇后の事跡としてまとめられている >>246
>存在の史実がないし三韓征伐にも一切証拠がない
神功皇后の名は仮託だろうが、三韓征伐には広開土王碑という物証があるぞ >>265
>このスレは関係する研究者が常駐して場外乱闘しているから伸びていると見た
「九州説に関係する研究者」なんていないんだよ
専門の研究者で九州説を支持している人は現役の人は一人もいない
乱闘に持ち込もうとしているのは「邪馬台国の会」か「古田史学の会」のどちらかの「信者」だけ
もう、事実上破綻した九州説にしがみついて、半ばカルト化しているから始末に負えない 結局、卑弥呼って、
-擁立された象徴としての王
か
-力をもって政治力を振るってた王
なのか、どっちなんですか。 >>276
>魏志倭人伝を一言一句正しいと思うなら、九州説で決まり。
一字一句正しかったら、「日本にはない」ことにしかならないんだよ
遥か南海の海の上になるし、台湾ザルもミカドキジも日本にはいないだろ? >>295
狗奴韓国から末盧国まで3000里はあるわけだから、九州説どころか結局畿内説は影も形も無いわけだなw >>285ほか
ID:YgpmyS3sにはこの言葉をあげよう
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説 >>296
それでいくと伊支馬が東京都知事だろバカw >>289
>桃の種の年代が近かったから、邪馬台国だ!
>って発想が無邪気だなw
浅い理解で間抜けなことを書いていると、おつむの弱い人と見られてしまうよ?
もともと、古墳時代が始まってしまえば、倭国(日本)の中心が畿内であることは誰の目にも明らか
東遷説の親玉の安本美典氏主宰の邪馬台国の会も、そこには異論がない
そして、古墳時代の始まりの遺跡が纏向遺跡であることにも異論がない
ここまでを前提として、纏向遺跡の絶対年代=古墳時代の始まりの時期が
桃核炭素の、14C年代測定法で推定値が出され、2世紀後半から3世紀始めという結果が得られた
というのが、ここのスレタイ
つまり、畿内が倭国の中心である古墳時代の絶対年代が、卑弥呼の遣使よりも前になる
つまり、卑弥呼の遣使のときの倭国の中心は畿内という結論になるんだよ >>290
>それが日中双方の研究で4世紀の日本で作られた鏡と分かってから使えなくなった
>それ以降畿内説は完全に迷走してる
それがもう一回ひっくり返ってる
三角縁神獣鏡の形式編年研究が進んでいて、その最初期のものは魏鏡と見て矛盾がないとされている >>307
日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り
2000里は140Km 一里75m 日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました >>298
>伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね!
これは前にも説明しただろうが
何度も蒸し返すなよ
>>237参照
畿内説では、魏志倭人伝の行程記事が現実の地理と一致しているとはみなしていない
魏志倭人伝のいう「南」は、帯方郡から見て遠地であることを示しているに過ぎない >>298
>畿内説もそれは同じでしょw
同じじゃないよ
・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? >>308
倭人伝を改竄して、騙そうとしてるのがみえみえ
実際に書かれているのは
狗奴韓国から對馬国まで1000里
對馬国から一大国まで1000里
一大国から末盧国まで1000里
そしてこの区間の実際の距離はバラバラ
それ以外の区間でも1里あたり距離はもっとバラバラ
倭人伝の「里」はあてにならないということ
もうこのスレで100回以上出てきてるのを、なぜしつこ繰り返す?
九州説は陳寿がやってない里の引き算をやってるが、倭人伝にかかれているのは「水行十日、水行二十日陸行一月」だ
難癖つけてるだけ >>309
違うぞ。九州説はそんなにまともじゃない
「俺たちの勝ちだ」って言い張る
それを認めないと打席にたたん。いつまで試合やってんだ終わりにしろ
だぞ >>315
>三角縁神獣鏡は日本製
三角縁神獣鏡の鏡式編年の研究について調べてごらん
編年の後半に当たるものは間違いなく日本製だけれど、
三角縁神獣鏡と十把一絡げにした上で全部日本製とするのはあたらない
そして、最初期の三角縁神獣鏡は、実は正確に言えば斜縁になっている
そして、大陸では三角縁神獣鏡は出土しないとよく言われるけれど、斜縁神獣鏡は複数出土している
最初期の三角縁(斜縁)神獣鏡は、魏鏡と見て問題ない >>317
>原材料は銅鐸w
後期のものはそうだね
同位体比の分析でも、いろいろな材料を混ぜて使っている様子が確認されている
まあ、そのいろいろな材料というのが銅鐸とは限らない訳だが >>320
では、もうちょっと長いバージョンを
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか 帯方郡(ソウル)から狗奴韓国(釜山)までの水行が約7000里。
狗奴韓国から九州北岸(唐津)までの航路が約3000里。
帯方郡から女王国までは道のりにして12000里だ。
よって九州北岸から女王国までの道のりは約2000里。
会稽東治の東という認識であった為、九州を丸ごと南にずらした感じだろう。
畿内?
居ないw >>316
またでた 勝手に方位を変更する馬鹿 奈良に多いのは此の手と鹿とモモノタネ 全国の今津や大津という地名と古墳の分布を比べてみるといい
古代日本は京都も東京も無人の荒野で今みたいな陸の国じゃない
港と港を線で繋いだ国が倭国
その中で当時広い農地になる土地は北九州くらいしかない >>323
出たスプリングハッチャンw
非科学的判定によろヒ素の種類特定で林マスミを犯人とでっち上げたゴミw
結局はバイアス判定に委ねるバカ学者w
それ使えないんだよ、残念ながら。 >>327
史書にもそう書いてあるよな。
倭国は互いに接していたと。 >>325
>よって九州北岸から女王国までの道のりは約2000里。
当時よく使われてた「1日30里」の公式で計算しただけだよ。
60×30=1800(約2000里) 九州説は最後は罵倒するだけといういつものパターンでしたw >>318
殉葬に関しては、12代天皇か14代天皇の頃にやめたという記述があるので
実際には殉葬は数回しか行われてない可能性が高い >>323
これって三角縁神獣鏡の比較対象として他の神獣鏡しか選んでない
三国西晋時代の鏡を神獣鏡だけで語るのはさすがにな
今じゃもう通用しない >>334
前漢後期〜後漢時代の鏡も分析してると書かれているだろ
具体的にそれが何かがこのプレスリリースで書かれていないが
典型的な前漢後期〜後漢時代の鏡だと内行花文鏡や方格規矩鏡あたりになるんだろう >>335
違うんだよ
三国西晋時代の中国鏡には神獣鏡しか使ってないとこっちに書いてある
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_16/
さすがに比較対象がそれだけでは今の時代じゃ通用しない
古い研究だから仕方ないけど >>336
・前漢後期〜三国鏡(紀元前1世紀〜紀元3世紀):Sb/Sn値0.005?0.013、Ag/Sn値0.002?0.005を中心に分布しています。
そのなかでも、とくに三国西晋時期の神獣鏡は、他形式鏡よりも分布が集中していることが注目できます。
↑
こう書かれているが
新たに測定したのが神獣鏡というだけの話でしょ 戦国時代から三国時代にかけての中国鏡、紀元3・4世紀の日本古墳時代の製鏡(日本鏡)それに、三角縁神獣鏡です。
↑
ちょっと違った
全部、測定してるわ
三国時代の鏡では神獣鏡以外がないというだけ >>336
こう書かれてるな
三国・西晋時期の中国鏡についても、今回は神獣鏡のみに留まっており、
神獣鏡以外の形式の魏・西晋鏡の測定も不可欠です。
というか15年前の研究かよ
古すぎるわ 普通に考えると、大神氏が残ってるってことは
伝承としてまずモモソ姫の墓であるのはほぼ間違いないよね。
というか記紀も正しいんだろうな。だって伝承を残すのが神社の仕事だよね。 九州は土器からして大陸系だろう
神武東征から卑弥呼まで統治者は機内だな 公文書偽造してしらばっくれてる民族性だしな
日本書紀も年代偽造あるし
第三者的な中国古代文献の方がまだ信頼できそう 馬鹿にされたくなければ倭人伝の方位と距離を其のままに検証するべき 馬鹿は勝手に方位を変える テンムの部下にサガワが居たのか 納得 この場合テンムの指導だったが >>180
そもそも邪馬台国に行ったという根拠すらない >>316
倭人在帯方東南大海之中
帯方郡から南ではない
はい論破 .
神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 巻向で三輪山を祀る新たな祭祀が生まれたところは全く異論ない
前方後円墳はヤマトを祀ったという意思表示のためなのも間違いない
だがそれ以前の三輪山に原始的な神秘性や複層的な祭祀の痕跡が感じられないのが謎でありどうも腑に落ちない
そこをもう少し掘り下げて、別の場所にプロトタイプがあったとしたらと考えてみる
墳墓の形状のモデルとなった吉備と、鏡祭祀の原点となる北九州や久留米あたりの平野に広がる遺跡や伝承はヤマト祭祀のプロトタイプな可能性を示唆している
特に山と太陽に関す原始的な祭祀はもっと研究されてもいいと思うわ >>301
>記紀にも彦姫のペアで地名を冠する人名が多数あるし、
記紀は創作だと主張する人がいたなあ。
記紀が正しいとなれば、神功皇后は、シャーマンであり政治家であり将軍だ。
ヒコヒメ制など、考える必要など無い。 >>303
>卑弥呼のときにヒメ王・祭祀王の統一がなされたが、その後にヒコ王・世俗権力の
>統一は別途進められなければならなかったんだよ
東遷説なみに酷い妄想だな。
「ヒメ王・祭祀王」
「ヒコ王・世俗権力」
こんな妄言吐いてる論文があるなら見せてもらおうか。 >>360
>八咫烏も太陽の象徴
そういうデタラメは本当に腹立つ。
自分で調べもしないで、他人の受け売りを信じてしまってる。
何を根拠に「八咫烏が太陽の象徴」などと言えるのか?
記紀にそんな言及は無いぞ。 >>215
あらら、認識がちょっと…ちゃんと調べた方がいいよ。
甕棺とか関係ないのに…普通に集落から鉄なんて出土してるよ。
北部九州のアチコチでね。
熊本の北部も凄い。 >>361
熊野神社周辺では昔からそう信仰されてるし、
天照の使わした鳥だし、
中国には3本足の鳥が化身でいるよね、それを知らずに3本足の鳥と表現したのは考えにくい。
これがあってるかどうかしらんけど、紀記に乗ってないってだけの理由を書くだけってのはただのキチガイ。
その裏にどんな考えがあったとしても、その態度はキチガイ。
完全に論破してすまんな。 経済的先進地域北部九州と倭人の精神的拠り所大和地域。
戦国期の堺衆と畿内の雄、織田信長との関係のようなものだろう。 >>363
笑わせるな。
>熊野神社周辺では昔からそう信仰されてるし
昔っていつだ?
江戸時代か?
8世紀以前の史料なんて無いと思うがね。
>天照の使わした鳥だし、
記紀は創作だという人がいるので、論考に値しない。
>中国には3本足の鳥が化身でいるよね、それを知らずに3本足の鳥と表現したのは考えにくい。
記紀のどこにも八咫烏が三本足などという描写は無い。 >>352
>帯方郡から南ではない
それは水行の起点が帯方郡だとかいう、九州説にアクロバット読みの否定だね!
帯方郡から半島の循海岸水行で乍南乍東で東に行って、九州北岸でも東成分があって、
そこからはひたすら南に、会稽東冶の東まで行くんだから、玄界灘沿岸から先は
遠い国ほど南でいいんだよ >>339
>ID:9Q4+04X3 こいつ病気だな
そんなこと書く暇があったら、具体的な反論の一つも書いてごらんよ
まあ、邪馬台国の会の情報だけがソースじゃ太刀打ちできなくて困ってるんだろうけどさw 畿内説ほど帯方郡始点の方がまだ矛盾が少ないのに
南→東はちょっと致命的で正直聞いてらんない >>350
>一里 75mで計算しろ 馬鹿が
短里は捏造だよ
短里を使う理由のある人は3世紀にはどこにもいない
昭和以降になって、九州だというためだけに短里にすがっているカルトな人たちがいるだけ >>353
>神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
それどこ情報?
記紀の紀年で2年後誕生だから、春秋年(二倍年暦)があったとすれば
ちゃんと十月十日に収まるよ >>356
>記紀は創作だと主張する人がいたなあ。
記紀以外でも神社の祭神でもヒコヒメのペアが多く見られる
記紀は男系原理が強くなったのちの時代に書かれたもので、
彦姫制のヒコ王の系譜を大王系譜として記録している
崇神天皇以降のヒコ王の優位、ヒメ王の斎王化でヒメ王の権威が希薄化されている
そして記紀は推古天皇以前の女帝を認めていない
彦姫制は畿内説とは別の概念なんだが、こんなのまで九州説は否定しないといけないらしいな >>362
>甕棺とか関係ないのに…普通に集落から鉄なんて出土してるよ。
それ全部古いんだって
3世紀にはいる前に激減してる >>369
横からだが、短里とか無かったとしたら、誇張説になるだけだよ
倭人伝の記述からある程度の距離感の推測ができるじゃん?
それを無視したら駄目だろう
半島の大きさなんて昔から知っていただろうし
その対比で考えれば1万2千里は九州からは出ないだろうね
陳寿が足し算ができなかったら別だが >>372
だから、関係ないといっている
北部九州では3世紀に入っても鉄は住居跡からもアチコチに大量に出土するのだよ >>373
そもそも陳寿は邪馬台国のある場所を知らなかっただろうね。
12000里も途中から日数に変わってことからわかるように
魏志の資料からの推測だろうし。 >>375
日数部分が問題ではあるよね
直線的な行程で読む場合、急に日数表記になるのは解せないかな
並立的に読む場合、地理的説明での類例は多いのだけど >>374
>北部九州では3世紀に入っても鉄は住居跡からもアチコチに大量に出土するのだよ
例えばどこで?
具体的にどうぞ! >>376
>並立的に読む場合、地理的説明での類例は多いのだけど
並立的に読む例ある?
具体的に教えて >>305
Ciniiで検索して普通に居たけど
まあ専門外の部外者だしどちらでも心底どうでもいいが、お前らよく飽きねえな >>379
というか考古学研究者で邪馬台国にまで言及する人はほぼいない
畿内の一部の学者だけで全国的にも珍しい
九州の学者もわざわざ言及しない 短里なんてないよ
・陳寿は実際に日本に来たわけではなく、資料をもとに記載した
・三国志全般で普通の里を使っている
・帯方郡から伊都国までの里数がおかしい
というのが前提としてあり
A韓伝(といっても一箇所だが)と倭人伝のみ、なんの注釈もなく短里を使った
B帯方郡から伊都国まで行った人が間違えた
のどちらかになる
Bでしょ。そこだけ注釈なしに短里を使う可能性ある? 邪馬台国にまで言及する人はほぼいないのはその通り
そもそも九州説の学者が数えるほどしかいなく
畿内が前提になってるため位置論争が起きること自体ない >>381
陳寿が日本に来たわけはないしそもそも蜀の役人なんだから魏志自体がほとんど伝聞だ
しかも魏の初期まで帯方郡は公孫氏が支配していて魏の勢力圏外だったので伝聞の伝聞だ
その中で部分的に短里と長里が入れ替わってる可能性がある
三国志の中でも短里と長里が混在しているので当時は乱世で統治形態がバラバラだったので単位もそれによってまちまちだったとしてもおかしくはない もちろん魏志自体はあてにならないものじゃない
魏の文官は漢の文官がほとんど引き継いでいたし記録なども漢のノウハウをそのまま使っていたはずなので人材、技術ともに正確だったろう
しかし帯方郡の公孫氏は地方の豪族が勝手に半独立状態で作った政権なので魏ほど充実した体制はなかったと思う 邪馬台国論争とビッグバン論争
どちらも肯定派が定期的に勝利宣言するのはなぜだろう?
本当に真理なら、黙々と事実だけ公表すれば済むのに
何度も「〜の証拠」とか言うのは傍目には詐欺師の論法にしか見えなくてw >>102
金印の「委奴」をイトと読むのは新漢音
すなわち618年 - 907年の唐王朝時代の首都
長安=現代の西安の方言に基づいて
平安時代の遣唐使や遣唐使船に乗った僧侶が覚えてきた漢音読みならイド。
奈良時代の漢字には濁音始まりの音読み(隋音)があったが
倭名類聚抄が執筆された10世紀初めには漢字の音読みによる
万葉仮名で清濁の区別が無くなっている。
これは支那の北部が北狄と呼ばれた朝鮮エベンキに似たような蛮族に侵略された結果だ。
委奴=イトと読むのは菅原道真が遣唐使の廃止を思い始めた9世紀末期〜
源順が倭名類聚抄が執筆した10世紀初期の平安時代の音読み。
征夷大将軍の「大」をダイと読まずにタイと読むのが唐代後半の「新漢音」。
明治天皇の五箇条の御誓文の中で
「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。」の
「上下」をジョウゲと読むのは隋〜唐代前半の漢音読み。
ショウカと読むのが唐代後半の新漢音読み。 アマテラスがヒメでスサノオがヒコなんだろうな。
高天原(北部九州)は女王が治めていた。
畿内はまずスサノオ系の男王が国を作って(大国主)、
アマテラス系の天皇家がそのあとやってきた。
この時点で畿内にヤマト王権が移ったのか。 親魏倭王は魏の公式文書にあったわけだけど、
漢委奴国王は金印で確かめるしかないのでしょうか。 >>388
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。 >>385
天理市の天理教に奈良って桜井市には畿内珍理教というものが誕生した。
そゆこと。 ヒコヒメ制とかのたまう輩は、
古代の王墓の男女比が1:1であることを示してから論じてくれ。
俺の知るかぎりでは圧倒的に男の王墓のほうが多い。
女の王墓はとても珍しい。
だからといって、女が政治的権力を持ち得なかったという証拠にはならない。
物証からわかることは、
1.ヒコヒメ制などという分業制は存在しない。
2.女性が王となる例は存在する。
それ以上の言及は、全て妄想。 >>382
畿内説が前提なのは畿内方面だけで
東と九州では邪馬台国は九州北部が通説なのでは
前の方のスレで畿内説爺さんが貼ったリストみても
>>380 の方が説得力あると思うけど >>215
> 伊都国・奴国
九州説にとってはそれだけでも充分では?
(九州説といっても最有力なのは筑紫=九州北部説なんだから)
畿内説では2〜3世紀に鉄と絹は出土してるの? >>393
>九州説にとってはそれだけでも充分では?
>(九州説といっても最有力なのは筑紫=九州北部説なんだから)
魏志倭人伝に、伊都国・奴国と邪馬台国は明確に別の国として書かれていることを
無視している時点で論外
そして、伊都国千戸、奴国二万戸を足しても、どうやって邪馬台国七万戸にはならない
どうして、こんな与太話が通ると思ってるのか、不思議でしょうがない
伊都国・奴国を除いたら、北部九州に栄えているところはなくなる
その意味でも、北部九州説は成り立つ余地がない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています