ビットコインなどの仮想通貨が投機的な熱狂を巻き起こしていることは、誰の目にも分かりやすい。より難しく、重要な問題は、この種の暗号通貨には、実際の「貨幣」としての未来があるのだろうか、という点だ。

主要中央銀行のバランスシートが激しく肥大化しており、政府債務の増大に加え、超低金利政策がもたらす多くの副作用によって、伝統的な通貨の安定性が脅かされる中で、仮想通貨にそんな未来があるという考えは魅力的に聞こえるだろう。

だが、ビットコインを筆頭とする仮想通貨は、貨幣ではなく、根本的な変化がない限り、今後も決してそうはならない。

ビットコインは、本来の通貨が持つべき特性の多くを備えている。分割したり、蓄えることが可能であり(怪しげな仲介業者に預託してしまい、その責務が虚空に消えてしまう場合を除くが)、譲渡することもできる。そして、供給も限定されている。

貨幣は、過去にさまざまな形態を経てきたとはいえ、1つの社会的技術に過ぎない。ポール・アインツィヒが70年前の著書「Primitive Money(原始的貨幣)」で紹介した、過去に貨幣の役割を果たした奇妙な貨幣の例としては、酒のジンやジャム、マルベリーケーキ、ねずみ取り(コンゴでの例)、キツツキの頭皮などが挙げられる。

私たちが現在使っている貨幣のほとんどは、すでに銀行における電子帳簿上の費目として、デジタル形式で保有されている。第1印象としては、分散型台帳データベースを持つビットコインは、単に、現代の金融テクノロジーの発展型のようにもみえる。

暗号通貨の熱心な支持者は、さらに大きな希望を持っている。暗号通貨によって、国家が統制する貨幣の時代は終焉を迎える、と彼らは主張しているのだ。この考えは、オーストリアの経済学者フリードリヒ・ハイエクに倣ったものだ。

貨幣の脱国営化を構想したハイエクは、それがインフレとデフレの双方を終わらせ、失業問題を解決し、安易に紙幣増刷する中銀を廃止することで、政府による統制が限定されると考えた。何も不都合な点はなさそうだ。

問題は、ビットコインの熱心な支持者が、貨幣の特性とその本質を混同している点にある。これは難しいテーマだ。主流の経済理論では、貨幣とは何かという点にほとんど触れないまま、単に物々交換の手間を省くための仕組みだと想定している。

紙幣が金との兌換性を保っていた時代には、ほとんどの人が、貨幣には、貴金属である金が持つ本質的価値があると信じていた。だが、18世紀初頭に起きたミシシッピ会社「バブル事件」の元凶となったジョン・ローが指摘しているように、「商品を交換する際の価値基準が貨幣なのではなく、貨幣という価値を求めて商品が交換される」のだ。

要するに、金は、貨幣として用いられることによって、その価値の大半を獲得しているのであって、その逆ではない。では、貨幣はその価値をどこから得ているのだろうか。

ごく初期の頃、すなわち紀元前3世紀のメソポタミア文明において、すでに貨幣は債務支払いのために政府が認可した計算単位として定義されていた。貨幣の国家理論では、貨幣とは国家主権によって発行される信用であり、その価値は、納税目的で使用可能である、という事実に由来しているとされる。

政府はこの計算単位に対する統制を固く維持しており、それが国家主権の重要な側面となっている。法律では、この公式貨幣が債務返済のための法定通貨であると規定している。

ローや彼と同時代の人々は、もう1つ別の考えも抱いていた。つまり、信用は、それが流通するときに貨幣として振る舞う、というものだ。18世紀のイングランドで「貨幣」を構成したものの多くは、商人が将来の受取りの代価として発行する為替手形だった。

同時に、初期のイングランドの銀行家は、融資を通じて貨幣を創出することを学びつつあった。この銀行貨幣は、現実の経済価値に対する請求権によって裏付けられていた。貨幣の信用理論によれば、貨幣は単に流通する信用にすぎない。

「通貨は、はかなく表面的だ。通貨は、貨幣の本質である信用勘定と決済の基礎的なメカニズムだ」とフェリックス・マーティン氏は、2013年の著書「21世紀の貨幣論(原題:Money)」で説いている。

「資本主義」という共通名称で呼ばれる経済システムは、信用関係の広大なネットワークによって構成されている。信用貨幣は、その重要な特徴である。
以下ソース
https://jp.reuters.com/article/markets-bitcoin-breakingviews-idJPKBN1F40GJ