【邪馬台国】「邪馬台国はどこにあったのか」 考古学界で優位の近畿説に反論 九州説の「逆襲」相次ぐ理由は★2 [しじみ★]
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中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国は、女王卑弥呼(ひみこ)の存在とともに多くの歴史ファンを魅了してきた。しかし、「邪馬台国がどこにあったのか」という最大の謎については、江戸時代以来、論争が続く。大きくは九州説と近畿(畿内)説の二つに分かれる中、近年になって相次いでいるのが九州説を唱える書籍の出版だ。考古学界では近畿説が圧倒的優位に立つ中、なぜ九州説の「逆襲」ともいえる状況が生まれているのか。【西部学芸グループ・上村里花】
「『九州説ですか』と聞かれた時は『7割は九州説、3割が近畿説』と答えている」。昨年12月に「続・邪馬台国論争の新視点」(雄山閣)を出版した福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん(考古学)は、邪馬台国の所在地についてそう語る。では、その「3割」とは何か。片岡さんが挙げるのが、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を中心とした遺跡、遺物の多さだ。
そもそも纒向遺跡が邪馬台国の最有力候補に躍り出たのは、卑弥呼が活躍したとされる3世紀前半の大型建物跡が2009年に見つかったのがきっかけだ。同時代の建物跡としては国内では最大級で、佐賀県の吉野ケ里遺跡で最も大きな「主祭殿」の約1・5倍となる。3棟の大型建物群が東西に一直線に並ぶ計画的な配置に「これこそ卑弥呼の宮殿」とヒートアップ。18年には建物群の近くで出土したモモの種が、放射性炭素(C14)年代測定で、卑弥呼の活動時期(190年ごろ女王となり、248年ごろ没)に一部重なる分析結果(135〜230年)が出たことから「近畿説で決まり」といった論調まで飛び出した。
その後も、祭祀(さいし)に使ったとみられる多量のモモの種や、各地から献上されたらしい多数の動物や魚の骨など、同遺跡の勢力範囲の広大さを示す遺物が確認されてきた。
一方、片岡さんはこの「纒向遺跡の立派さ」こそが、逆に「邪馬台国らしくない」と指摘する。
倭人伝によれば、2世紀ごろ、倭国が乱れ、戦乱が続いた。そこで、クニグニが一人の女子を王に立てた。それが卑弥呼であり「卑弥呼が都する」所が、約30のクニで構成される連合国の一つ、邪馬台国となる。片岡さんは「纒向遺跡には次のヤマト政権につながっていく強力な権力の集中が見られる。一方、九州には突出した遺跡はなく、小さなクニグニが連立していたさまが見てとれる。これは『魏志倭人伝』に書かれたクニグニが連立する倭国の状況により近い」と主張する。
片岡さんは、卑弥呼の性格や死後の状況からも九州説を取る。
倭人伝で晩年の卑弥呼は、1000人の侍女をはべらせ、常に警護がつくなど、強大な力を持った姿で描かれる。しかし、それは半世紀近くの治世の間に生まれた権力で、当初はクニグニに「共立」された弱い存在に過ぎなかった。さらに卑弥呼の死後、倭国は再び戦乱に陥り、卑弥呼の親族の女性である台与(とよ)を共立することになる。
片岡さんは「卑弥呼の時代に纒向的な強大な中央集権的政権が生まれていたのであれば、こうした乱は起きなかったはず。卑弥呼の死後、再び女王が共立されたことこそが、突出した権力が生まれていなかった当時の北部九州の状況に当てはまる」と指摘する。
続きはソースで
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/07/21/20200721k0000m040055000p/9.jpg
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/07/21/20200721k0000m040054000p/9.jpg
https://img.guideme.jp/i/pGnVrrwbm06yKMgX1JNl2vjbR06p9wiP7ZnmKtAd8D7Hgm4F+4VBw3H3BkrNHImAP+IHqShs+pIK7ZzPAt9M3Mhe8Ft36Mxqi/0jKzpangJAwXjRBpJlC+w1+TErt5tR.jpg
https://mainichi.jp/articles/20200721/k00/00m/040/051000c
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1595813618/ >>83
邪馬台国と大和王権は別物だよ。
記紀はあくまでも大和朝廷とその元となった大和王権の歴史書。
滅んだ泡沫地方豪族の事をわざわざ丁寧に紐解いて書く必要がない。
大和王権と別の豪族集団が、邪馬台国以外に存在しなかった訳でもないけど、いちいち書いてないでしょ?
藤原氏陰謀論も論外
藤原氏のルーツについて、記紀では瓊瓊杵尊に随伴し天下った天児屋命とされている。
天津神の子孫が中臣であり藤原であり、わざわざ邪馬台国の存在を改変するまでもない。
藤原氏による陰謀だ、為政者による捏造だと言うのは、「陰謀史観」と言う思考停止行為。 つづき
では、邪馬台国はどこにあったのか?と言うと、やはり記紀にそのヒントを見出すことができる。
日本書紀、神功皇后の段より。
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。
然聞其妹被誅而逃之。
筑紫国山門郡に田油津媛と言うと土蜘蛛が出てくる。
土蜘蛛とは大和王権に従わなかった小さな地方集団の通称。
山門郡にいたこの土蜘蛛の女酋長の名前が田油津媛。
卑弥呼本人なのか、台与なのか、またはその後継者なのかまではわからないが、山門郡にいた田油津媛とその兄夏羽を討ったとある。
女王とその男兄弟による姫彦制による集団。
邪馬台国とイメージは一致する。
因みに田油津媛を葬ったとされる墓が、福岡県みやま市の老松神社にある。
卑弥呼なのか台与なのか、更にその後継者なのかわからないが、もしかしたら卑弥呼の墓なのかもしれない。
福岡県を中心に、老松神社と言う神社が多数あるのも、何か関係があるのかもしれない。
吉野ヶ里遺跡のすぐ近くにも老松神社があるし、糸島市にもある。
結論、何が言いたいかというと
1.邪馬台国と大和王権は別物である。
2.邪馬台国は九州北部にあった。
3.邪馬台国は後に大和王権に討伐された。 >>87
>陳寿の倭人伝は大部分が先行する魚豢(ぎょくゎん)が書いた魏略のコピペwww
根拠なし
お前の思い込みに過ぎない >>82
お前の個人的意見とかどうでもいいんだよ猿
「証明」の意味すらわからんのに意見してんのか?単細胞
>邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していない
これが立証だ近畿の恥さらし >>89
大体良いけど3番が間違いだな
近畿日本は九州倭国を討伐などしていない
なぜなら磐井の乱ですら結局は許しているのだから
磐井を筑紫の君と呼び、太宰府(倭京)を遠の朝廷と呼び
「反乱(?)」したのに許している
討伐には全く見えない
九州倭国は自滅したのであって、近畿日本も自滅を辛抱強く待った
簒奪者にならないように最大限の配慮をしていた
中大兄皇子があのように即位を遅らせたのも
白村江の戦いで九州倭国が破滅するまで待ったからだ
(因みに近畿日本は白村江の戦いには参戦していない)
また田油津媛は末裔などではなく卑弥呼の騙りだろう
そして成敗したのは九州倭国であって近畿日本ではない
田油津媛の成敗の話しは近畿日本の騙りだろう 畿内説だろうと九州説だろうと、立証なんてまだできてないよ。
明確に邪馬台国、卑弥呼の墓と確定できる物証が何もないんだから
邪馬台国遊びをやってるだけだよ。 田油津媛は蘖(ひこばえ)みたいなもんだろう
親の株(九州倭国)が弱って来たので生えて来た
しかし親の株からみたら単なる逆賊、カタリだ
だから討伐したのは九州倭国のはず
大体が、磐井ですら許した近畿日本が
大した勢力の無い田油津媛を討伐するために
軍隊をわざわざ近畿から九州へ送るとかやるわけがない >>92
討伐といっても基本大和王権は根切りまではやってないので
降伏した相手は生かしてる事がほとんどだよ。
ただ土蜘蛛は磐井のように大きな勢力ではなく
もっと勢力の小さい集団を蔑む意味も含まれてるので
磐井を比較対象にするのはどうかと思う。
後、誤解されやすいけど「君」は大和王権が磐井に与えた姓(かばね)だから
文献にもそう書いてあるんだよ。
磐井の乱で派遣されたで物部荒甲大連と大伴金村連には
大連、連って姓(かばね)がついて書かれてるでしょ 或いは田油津媛は本当にひこばえのように卑弥呼の血族だったのかも知れない
九州倭国が大きな勢力になるのを恐れて若芽の内に摘み取って
再発しないように土蜘蛛呼ばわりして民衆に忌避させた、
そして近畿日本はこれ全部を自分の事績として記紀でパクった
そういう事かも知れない
田油津媛は近畿からワザワザ軍を率いて誅殺して土蜘蛛呼ばわりして忌避させたワリには
どこか話しが全てヨソヨソしくて他人事だ
話しが頭から尻まで全部ただのパクリだったと考えたら納得し易い >>95
祇園山古墳からは卑弥呼との関連性を示す物証が何も出てないよ。
てか出てればさっさとこんな話解決してるよ。 >>100
証拠だらけだ
魏志倭人伝の記述とぴったり合うのは祇園山古墳だけ
卑弥呼の墓は祇園山古墳で間違いない >>96
一度記紀の該当部分を読んで欲しいんだけど
田油津媛を討伐するために派兵したのではないよ。
仲哀天皇/神功皇后が筑紫の橿日宮にいた頃
鷲を獲ろうとしていて、ついでに討ったまでだよ。 >>101
卑弥呼の墓の記述に状況が似ているだけで
墓から卑弥呼と断定できるものは何も出てないよ。
立証というには、もっと決定的な証拠が必要。
(卑弥呼の名前の書かれた石なり、木簡なり)
俺は、祇園山古墳は卑弥呼の墓候補としての可能性は低いと思うけどね。
1.墓の形が合わない
2.大きさが合わない
3.周囲の墓は殉葬ではない*1
*1
墓の周りの被葬者の副葬品に勾玉や剣なども出ていたり
朱塗りが施されていたり、夫婦二体入った甕、サイズの小さな子供用の甕など
奴婢100人の殉葬とするには飛躍がある。
現状、卑弥呼の墓”らしき”ものの候補はいくつかあっても
物証を伴って立証されたものは存在しない。あくまでも空想の世界。 >>102
そこら辺の話しは全部ただの捏造
穴戸を神功皇后が開削して船が通るようにしただとかね
関門海峡が出来たのは遥か以前の話しで
本居宣長の「古事記伝」の、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、
潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」
これとか大ウソ
三韓征伐も全部ただの作り話し
そもそも神功皇后の時代は九州倭国が健在なのであって
近畿日本の軍隊が筑紫に入れるわけがない
欠史八代の後、
武内宿禰、神功皇后、ヤマトタケルなど仲哀周りでやたらめったらスーパーマンが現れるのは
仲哀暗殺が原因だ
天皇の事績は捏造せずに無能を晒したままなのに
なぜ仲哀周りの非天皇に対しては散々っぱら事績を捏造して
よいしょするのか?
この奇妙極まりない記紀の著者の行動を説明出来るのは
オレの神武雇われ天皇+神武バカ殿説だけだ
>>104
ウソをつかないように
1.墓の形が合う
2.大きさが合う
3.周囲の墓は殉葬であり、祇園山古墳のように百近くの殉葬者を持つ墓は祇園山古墳以外に全くない
因みに卑弥呼の墓は前方後円墳ではないから
箸墓は卑弥呼の墓ではない >>105
あなたの根本にある「九州倭国」ってのが、そもそも空想の産物。
その範囲はどこからどこまで? >>104
問題なのはあそこ以外に現在解っている古墳が無い事
祇園山を覆すなら他に的確した古墳を見つけるしかない
自分的にはもう壊されて無くなってると思うけど >>108
お前が妄想
少なくとも中国の正史やそれに準ずる書物や古地図などに
九州倭国と近畿日本は複数回併記記載されている
>>110
ずっと物証がないと何度も書いてるんだけど、わかってもらえるかな? 神武は血筋の良さを買われて近畿に雇われて頭に据えてもらった雇われ店長だ
そして、王族でありながら自分の祖国と敵対する可能性のある国に寝返る人間などクズでしか無かった
欠史八代がその現れ
神武のタネは無能を極めた
だから仲哀は暗殺されたのだ
衆目の合意の下
>>112
自己紹介乙近畿パーwww
>>108
お前が妄想
少なくとも中国の正史やそれに準ずる書物や古地図などに
九州倭国と近畿日本は複数回併記記載されている
無能を極めた神武のタネとはまるで隔絶して
十代崇神は有能を極めた
仲哀暗殺は無能の権化の神武系から
有能を極めた崇神の母方系へ
血筋を変えるためのクーデターだ
>>109
>祇園山を覆すなら
覆すってどういう意味?
形も大きさも年代も殉葬の記述も全部違うのに、覆すものって何だ? >>90
>根拠なし
自分の知らないことはこう言って否定する
阿保馬鹿間抜けの自白w >>109
今現存する古墳の中からどうしても選ばなくちゃいけないという
強迫観念にとらわれてない Shift+Enterで途中送信になってしまった。
>>109
今現存する古墳の中からどうしても選ばなくちゃいけないという
強迫観念にとらわれてる人もいるけど
古墳なんて多くは既に壊されてしまっているので
卑弥呼の墓が残ってない可能性だってある。
墓の実物に卑弥呼の墓とでも書いてない限り
そもそも墓の特定なんてほぼ不可能だしね。
墓や遺跡を特定するにも3つの手法があって
1.文献を読み漁る
2.実地調査で昔からの伝承を拾っていく
3.現地を掘り返して、遺物を探す
この3つをミックスして確度の高いところを探さないといけない。
祇園山古墳はこの1〜3のどれにも当てはまらない。
ちなみに>>89に書いた田油津媛を葬ったとされる老松神社にある墓は
大正になるまで女王塚と呼ばれていた。 >>110
中国の正史が正しいと妄信するのが間違い。
魏志倭人伝でもでたらめな事が書かれているし
話し半分程度にとらえて考えた方がいい。
倭国と、大和王権の併記は新旧唐書にあるけど
唐の一つ前の隋の時代の隋書には面白い事が書いてある。
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與?耳相近
昔は楽浪郡や帯方郡から一万二千里離れていると言われていた。
=それは迷信だったと訂正している。
唐の前の隋の時代には九州倭国なんて出てこないけど
唐の時代になったら急に二つの国になる。
その程度に中国史書の日本に関する記述はアテてにならない。 >>114
>>89で九州だって書いてんのに近畿パーって?
しかもあなたが一番最初にレスした内容なのに?
2〜30レス前の事も忘れる鶏頭さん? 魏志倭人伝は漢字で書かれていて、魏の言葉で記録された物をではない。
それぞれの民族が自分の言葉と文字を持っていたから他国にも理解出来るように漢字
で書かれた。例えば、清は満州人で、文字はアラビア文字を縦書きにした様な文字で
辞書もあった。さらに漢字のルピは20世紀に出来た。現在でさえ北京はなくベギン
なのである。
魏の正当性、優位性、威厳の為に、他国からの朝貢は大袈裟に誇大表記された事は
間違いないし、それよりもっと古い時代に日本から渡っていった記録もあり福岡で
金印も見つかっているので、邪馬台国だけが朝貢に行っていた訳ではないし、魏の
言葉を誰が通訳したのかな?
少なくても魏の文字で書かれた物が見つからないと、邪馬台国の存在自体怪しい。
いや、邪馬台国は無かったと思う。 >>122
九州説同士で争ってんの?
僕も畿内説を葬った後の次のターゲットは九州説で3〜4世紀に遷都したとかほざいてる連中かな。 神功 応神 継体
『日本書紀』によれば、生没年は四五〇―五三一、五〇七―三一在位。諱は男大迹(おおど)、
袁本杼・乎富等とも書く。応神天皇の五世の孫と伝えられる。父の彦主人(ひこうし)王は近江国にいたが、
越前坂井郡の三国にいた振媛を妃とし、継体天皇を生んだ
応神は仲哀の朝鮮人の妾で仲哀を殺し正妻の息子二名を殺した神功の息子
神功 応神 継体 天智 天武 現代へ至る
銅器時代の支配者 出雲が継体で天孫族から政権を奪い返した >>124
はあ?
現実世界では九州説なんてとっくに葬られてだろが 近畿、吉備、出雲、東海などの諸勢力が定期的に集合して祭祀を行ったのが
纏向
初期の祭祀には神社のような常設の設備はなかった。
「社」の「示」偏は供え物を乗せる台を表わし
旁の「土」は供え物の土饅頭を表わしている。
「祭」という漢字の左上の「ニクヅキ」は供え物の「肉」、
右上の「又」は肉を捧げる「手」を表わしている。 >>124
九州説にも2種類いるんだよ。
>>126
畿内説も、九州説も決定的な物証がないので、葬りようがないと思うよ。
俺が畿内説ではなく、九州説のスタンスなのかも
物証はないので個人的な感想でしかないけどね。 >>128
畿内説は否定証明済み
お前らは反論不能状態
はい、論破w >>126
葬られているのはお前らウソつき近畿パーだよアホw >>122
涙拭けよウソつき近畿パーw
>>108
お前が妄想
少なくとも中国の正史やそれに準ずる書物や古地図などに
九州倭国と近畿日本は複数回併記記載されている
>>122
お前が妄想
少なくとも中国の正史やそれに準ずる書物や古地図などに
九州倭国と近畿日本は複数回併記記載されている
邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>133
だから俺は九州説だと言ってるだろうが。
単に幻の九州王朝説に釣られてるか、釣られてないかの差だ。 元伊勢から伊勢に神宮を持ってきた
倭妃命がヒミコだと思う
ヤマトの天皇がいて
宗教的には神宮を収めてた巫女
魏志倭人伝に記載されてるようにあるように西は海
来たには津
伊勢の北の津市は三重県の県庁所在地 倭妃命(やまとひめのみこと)
っていう呼び名も
倭が中国から呼ばれたような名前で
あっちと交流があったように思う >>137
イミフだ猿
>>122
お前が妄想
少なくとも中国の正史やそれに準ずる書物や古地図などに
九州倭国と近畿日本は複数回併記記載されている
ここまでのまとめ
1 畿内説は否定証明済み
2 東遷も東征も無い 考古学的に否定済み
3 卑弥呼の墓は九州御井の祇園山古墳
纏向は調査が進めば進むほど魏志倭人伝の記述とまるで合わないことが分かるばかり
邪馬台国畿内説の学者は纏向学と名前を変えて邪馬台国論争からは遁走
「邪馬台国なんてどうでもいい」とほざきながら
畿内説を支持する証拠はほぼゼロ
全く何もない(あると言うなら一つでも挙げてみろw)
おまけに>>136のように論理的に否定証明されて反論出来ず沈黙遁走する状態
邪馬台国畿内説は学説としては完全に否定された
可能性は全くない
ゼロ
ファンタジーとしてのみ存在している
一方九州説は日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡一つでも十分な証拠だろう
中国の皇帝の曹操が持っていた鏡と同レベルの鏡であり
卑弥呼の鏡と考えなければ全く説明のつかないもの
邪馬台国論争は九州説で完全に勝敗はついているのであって
小保方ばりのウソつき野郎が否定しているだけだ
ヒミカの時代には奈良は盆地内に逼塞せざるを得ない状況にあった
周囲は呉の支援を受けた銅鐸圏国であり 呉が滅亡するまでは盆地から出られなかった
マキムクというが時代は後代にずれる 魏志倭人伝をもう1000以上は読んだと言う人達が集まって、YouTubeで座談会開いて欲しい。 >>130
いつものコピペw
魏志倭人伝は魏略のコピペ
12世紀宋代の三国志魏書倭人伝は
最初の版が「邪馬臺国」
再販が「邪馬壹国」
古田の爺はヤマトと読ませたくないから
初版の「邪馬臺国」は無かったことにして
再販の「邪馬壹国」をゴリ押し
九州王y調節をゴリ押し >>146
イミフだキチガイの猿
畿内説は否定証明済み
>>136
>>144
それでも九州でも銅鐸は出土してるがなw
銅鐸圏とか銅剣、銅矛圏という色分けは
発掘数が少なかった半世紀前の話
九州頭は半世紀遅れwww >>118
自分の妄想を正しいと思い込んでるお前が馬鹿で脳みそカチンカチンなだけ
しかもお前は渡邉氏さえ無知呼ばわりしてたよな
雑魚の分際で何様のつもりだ
倭人伝の方が詳しかったりするから共通資料があったとみなす見解もある >>148
九州は極初期の銅鐸文化が通過して
少数の小さい銅鐸と鋳型が見つかってるけど
あまり興味もない感じ。
中国地方から近畿地方では
大量の銅鐸が見つかってね。 >>148
涙拭けよ否定証明済みの近畿パーwww
お前ら近畿脳は始まってすら居ないがなww あと、九州は80m×1200mの水城があるから
それだけの土木工事をする能力はあるが
同時期の古墳は30m程度。
やはり、古墳の大型化にはあまり興味がない。 >>150
そう
九州倭国が従属国である東部の国々の文化のサンプルとして所持してただけじゃないのかな >>152
それな
あの絢爛たる出土品の宝庫の平原遺跡だって背丈以下のショボイ盛り土に過ぎないしね
卑弥呼の墓の祇園山古墳だって質素なもんだよ >>136
>邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は
邪馬台国は伊都国の上様でないとあれほど
だから畿内に邪馬台国があっても矛盾しないのよ 邪馬大国は九州になかったし、
卑弥呼は畿内にいなかったし、
邪馬台国は女王国の大都市であり、
卑弥呼は初代女王であった
この線で仮説を組み立てればなんら矛盾しない 邪馬台国は女王国の主都であったのであって、
卑弥呼がいることの首都であったのではない
妥当な空想からの推論のみが正論に埋まるのであって、
妄想の土台から論理を組み立てても砂上の楼閣になる
妄想の土台とはすなわち、
邪馬台国が九州にあったと考えることだ They say it was in India… だいたい魏と交渉してたのは卑弥呼であって、
どこにも邪馬台国とやりとりしてたなんて記されてないんでしょ? この時代に関門海峡が発達しないのが不可解なんだよな
宇佐は瀬戸内からの九州上陸拠点だし
この時代やはり穴戸だったのかもと思う 倭国=日本なのはわかった
ハクソンコウで百済と組んだ倭国は負けた
で唐に使者送りづらいんで、日本と言う国名に改めた
「倭国は俺たち日本国がやっつけた!」と言う理由も加えて
やーばいでしょ、これが真実 卑弥呼とその弟の話が沖縄の聞得大君と琉球王の関係に似てるよね よく言われる古事記は国内向け、日本書記は国外向け
古事記だけで良かったものがハクソンコウで負けて
日本と言う国名に改めたので
古事記も改めて編纂せざる得なくなった
元倭国=現日本国がバレないような国外向けをw
ヤマトタケルの名前一つとっても変更改名の意図からわかるね >>160
倭人伝のページを開いて「邪馬台国」を検索してみ
「邪馬台国」は1回しか出てこない。
あとは似たような言葉として「女王国」があるだけ。
>>164
推古天皇二年正月異朝(イテウ)隋国の牒状到来その文ニいはく皇帝和王ニ問聖徳太子此状を御らんして天子と書す(=書かず)して*和王とかける事をにくミてその使を賞せす
*和王とかける事 これは朝鮮が小中華思想で「日王」と書くのと同じ。
同十六年八月又異朝隋煬帝の書にいはく皇帝和王にとふかく無礼なりといへとも返牒をつかハしていわく東天王西皇帝に申とかゝる隋煬帝これをミて悦すと云々
斉明天皇七年高麗の王の牒状ニいはく大高麗国謹白大和国天皇ニ高麗ハ本朝にしたかへる国也無礼のよし沙汰あり ニニギが最初に橋頭保を築いた糸島 其処から日向山ひなたやまを越えて東側に広がる田園をわが物にせんと欲し 先住のサルタヒコと戦い勝利する
糸島から博多方面への海岸線は長垂が狭隘で通りにくく少し南方の日向山越えが便利だった
山を下った所がヨシタケ高木遺跡であり 此処がニニギの墓と推測される
糸島や博多も当時は出雲の支配下にあり銅鐸の片々が出土するのは当たり前のこと 旧唐書日本条
日本國者,倭國之別種也。
以其國在日邊,故以日本爲名。
或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
或云:日本舊小國,併倭國之地。
ちゃんと原文を読めば、唐側も倭国と日本の関係性をよくわかってないことが書いてある。 >>169
日本書紀をもう一度読み直すことをお勧めする。
瓊瓊杵尊は筑紫州の日向国の高千穂に天下っている。
(天降於日向襲之高千穗峯矣)
その後吾田の長屋の笠狭の岬に到着。
(到於吾田長屋笠狹之碕矣。)
事勝国勝長狹から国を譲られて居を構えた。
(故皇孫就而留住)
https://goo.gl/maps/N8PHwMssfkYq4BRC6
そこで娶ったのが鹿葦津姫。別名、神吾田津姫またの名を木花之開耶姫。
(鹿葦津姫。亦名神吾田津姫。亦名木花之開耶姫。)
一文だけ切り取って日向峠だとするのは滑稽ですらある。 壱岐対馬を本拠地とする天孫族がなんで宮崎くんだりまでいく必要があるの
当時はクマソの支配下にある宮崎 >>172
あなたの解釈と日本書紀の原文が一致していないから仕方がない。
天孫族なんて明確に定義されているものでもないので
色んな人が色んな天孫族の解釈を持っているしね。 宮崎は現在も不便で辺鄙なところ 奈良も然り
今後も同じことだろう 限界集落
そのような所に何故危険を冒して侵出する必要があるのか
港も無い
糸島の平原へ行けば日本最大の出土品を見ることが出来る
宮崎は後代の遺物が僅かに出土しただけ 日本書紀を盲信しては歴史は見えない
一
『日本書紀』が九州王朝の史書を盗用して編纂されていたことを、古田武彦氏が指摘されて久しいが、それら九州王朝系史書が「禁書」として大和朝廷に収奪されていた痕跡として、『続日本紀』の次の記事が、これもまた古田氏によって紹介されている。
「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、復(また)罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(七〇八)正月条
ここに記された「禁書」が九州王朝系史書を含むものと考えられるが、とすれば「山沢」とあるのも、大宰府や筑紫平野を囲繞するように点在している、あの神籠石山城のことではあるまいか。防衛施設という性格とその必要性から、神籠石には内部に水源としての沢や池が配置されていることは著名であり、「山沢」と表現するにふさわしい。その神籠石に九州王朝残存勢力が「禁書」や王朝ゆかりの神器を持って立てこもった。それに対して、元明天皇は百日以内に投降することを命じたのが、この記事の真相(深層)ではなかったか。
この記事の十二年後、養老四年(七二〇)に『日本書紀』は成立する。九州王朝の記事が大量に盗用された結果、『古事記』とは大きく趣の異なった史書として、『日本書紀』は大和朝廷の正史となるのだが、裏返せば、盗用部分に残された九州王朝史の復原にとっても『日本書紀』は貴重な史料といえよう。
二 >>176
日本列島の端っこより中心の方が交易するのに便利ってだけだろう。
東北、関東、東海、近畿、中国、九州
縄文後期から東北は寒冷化して住民が関東に南下してきてたことも加味すると
近畿がちょうど真ん中になる。 >>176
おそらく当時の大阪の海岸線は現在のかなり内側まで浸食されている湿地地帯
その大和川流域をさかのぼり奈良との県境の山(それはまさに「山門ヤマト」と称される景観であったであろう)
を越えたことから見渡せる、山々に囲まれた開けた大地を見て古代人も思ったであろう
「こんなに美しい土地はない」と
私は大阪より第二阪奈道路の県境から奈良の盆地を見渡すときにつくづく思うのである 昔からの認識
万葉集 992 巻6
古郷之 飛鳥者 雖有 青丹吉 平城之 明日香乎 見楽思好裳
大伴坂上郎女
故郷の春日にある 飛鳥だが ど田舎の 奈良にも明日香があったのね 日本列島に居住する人々が長い年月使ってきた言葉 漢字が到来した時の倭人の発音に
似た漢字をを当て嵌めた ヒミカと呼ぶのは筑後風土記にミカヨリ姫(甕依姫)という存在から
この人は福岡県矢部村のヤメツヒメの係累と思われる
佐賀県基山の狭隘な地点と通行する者が賊の被害に遭うことが多いため
チクシの君とヒの君の共通の祖先をミカヨリ姫に祭祀してもらったという記事から
ミカヨリ姫はヒミカと同じ人物と思われる >>177
そもそも筑紫国出身を日向国出身と偽った歴史書を作り上げる意味がない。
元明天皇の治世とは丁度記紀編纂の頃
武器や禁書を持って山奥に隠れていた者に対して
百日以内に出頭しなさいという勅令が何回も出ている。
続日本紀の文面もこれにあたる。
なので、特に筑紫に隠れ住んだという解釈は飛躍してると思う。
禁書の件は、そもそも古事記編纂の詔ではっきりしている。
各地の豪族がそれぞれ独自の歴史書を作ってしまって
何が正しのかはっきりしなくなってきているので
一度整理する必要があったという事。
代わりに豪族独自の歴史書の内容は、日本書紀に別伝扱いで収録している。
少なくとも10冊以上の、豪族の歴史書が日本書紀に収録されている。
九州王朝については、あまりにも独創的過ぎて収録する場所もなかったんだろう。 ヤメイ国だから筑後から八女地方が邪馬壹の領土。
倭王として選出されたが、ヤマト系の日向が黙っていなかった。 >倭人伝によれば、2世紀ごろ、倭国が乱れ、戦乱が続いた。そこで、クニグニが一人の女子を王に立てた。それが卑弥呼であり「卑弥呼が都する」所が、約30のクニで構成される連合国の一つ、邪馬台国となる。片岡さんは「纒向遺跡には次のヤマト政権につながっていく強力な権力の集中が見られる。一方、九州には突出した遺跡はなく、小さなクニグニが連立していたさまが見てとれる。これは『魏志倭人伝』に書かれたクニグニが連立する倭国の状況により近い」と主張する。
倭人伝によると邪馬台国は7万戸の巨大都市なので、遺跡が立派なことが邪馬台国にふさわしくないとは言えないだろう
2世紀に起きたことは、高地性集落の瀬戸内周辺から畿内や東海への全国的な広がり、3世紀前半で前方以降円墳の九州北部から関東までの広がり
つまりこれらの事実から考えると、倭国大乱は九州に収まるものではなく、瀬戸内中心とした西日本全域での戦乱であったと推測できる
その後、共立して卑弥呼を長とした九州北部から近畿東海までの連合政権が誕生し、前方後円墳がこの領域にひろがったと考えられる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています