【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542779166/ 纒向を中心に吉備出雲九州東海を話し合いで統合してた邪馬台国
これが畿内説でいいのかな >>935
>古墳は順番に造られたわけではなくて
古墳が作られた順番ははっきりしてるよ
箸墓→西殿塚→桜井茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲津山→百舌鳥陵山→誉田御廟山→大仙→土師ニサンザイ→岡ミサンザイ >>950
>僕の場合、記紀は、6世紀に暦の専門家を連れてくるまで年代に問題があった可能性がありこそすれ、
>書かれてる内容自体は基本本当のことが書かれてると信じたいところがあるから、
古事記の編纂が日本書紀に書かれていない理由は、何? >>951
自分でも邪馬台国が何処に在ったかよく分からないんだよ。
出土物などから畿内はかなり有力と思うけど。
文献を読む限り少なくとも中国側は当時の倭の中心は九州だと認識してたんではないか?と。
七世紀の白村江の戦いの後に実際、唐軍は北部九州を占領している。
見てみぬ振りの畿内のヤマト王権と言い事実誤認してるのか知らないけど元締めであったろう
畿内を占拠しない中国にも違和感。 >>910
共立されてから50年前後生きてたという
証拠は何だ いたかもどうかわからない卑弥呼の論争ってどうよ?
そもそも人柱にするための卑しい身分だったんじゃね?ってのが中学で初めて学んだ時の感想だよ。 遠方の固有名詞に蔑称のような文字を用いるのは中華思想としては当たり前だという説
東夷北狄西戎南蛮や匈奴とかもかな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 >>954
書かれてるのかどうかも知らないし、
歴史書にはどういった事柄を書く習慣があるのか正確にはよく知らないけど、
書物の編纂のことが歴史書には普通書かれるものなの? 西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。
太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。
所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である[16]。
この銘文については、「法興」という私年号の使用や、「法皇」「仏師」という語が推古朝にあったとは考えられない等の観点から、疑わしいとする説もある。福山敏男は1935年の論文で、釈迦三尊と東の間の薬師如来の光背銘はいずれも疑わしく、
推古朝の作ではないとした[17]。福山は推古朝には「天皇」の語はなく、したがって「法皇」という用語もなかったとするが、これについては、
栗原朋信(1965年の論文)が推古朝に天皇号がなかったとは証明できないとして批判した[18]。藪田嘉一郎は、「仏師」の語が使用されるのは天平以後であることから(「仏師」の初見は天平6年・734年の正倉院文書)、
釈迦三尊光背銘は疑わしいとし、笠井昌昭も同様の説を述べている[19]。これについて大橋一章は、そもそも正倉院文書以前の文字資料は乏しいので、推古朝に「仏師」の語がなかったとは証明できず、むしろ
釈迦三尊光背銘が「仏師」の初見であろうとして反論した
☆法隆寺其の物も太宰府観世音寺を移築したもの 釈迦三尊はタリシホコを写したもの
観世音寺は612年ごろ創建された 記紀と並べて書くけれど、古事記は正式な史書扱いじゃないんだよ >>960
>書物の編纂のことが歴史書には普通書かれるものなの?
国家事業として行われたことなら書かれる >>952
・日本列島の盟主の国が
・7万戸を想定できる領域を持ち
・水行二十日、水行十日陸行一月に妥当な距離であり
・30ヶ国の連合に相当するような政治連合をつくり
・3世紀前半には北部九州まで進出して
・伊都国や奴国を傘下に置こうとしていて
・魏や帯方郡とも交流をしていたことを裏付ける物証もあり
・邪馬台国の都に想定できる纒向遺跡があり
・邪馬台国の発音に近い国名であるヤマト国である
というのが畿内説の主な根拠 >>963
まだ、書籍の編纂のことが歴史書に書かれてるのをたぶんまだ見かけたことがないので、
何とも言えんかな。
安全保障、外交等一般的に重要なことが書かれるのは当然だと思うが、
どこまで細かいことを書くかは、編者の気分次第みたいなとこもあるだろうしな。 >>964
奈良をヤマトと言い出したのは何時からですか >>964
魏志倭人伝の水行10日水行20日陸行1月が正しいとすると
一大卒との連絡は往復4ヶ月程度になるけど、みんなのんびりしてたんですかね。
どうなんでしょうね。 >>949
思想なのか先入観なのか意地なのか分からんが
今でも九州説で残ってるのは理屈が通じない人たちだな 暇だから考えてみた。
不弥国から海で南へ20日かかり投馬国さらに南へ10日で邪馬台国につく。
帯方群から使節がきて伊都国(福岡佐賀あたり)から陸を歩き、さらに30日も海の上を行くのは常識的に九州ではない。
東に向かうなら近畿方面だが、1年中野菜が取れ、入れ墨、長命で、百歳や九十、八十歳の者。
>「古事記」(約712年)によれば、「神武天皇紀」に、「伊波礼彦尊」(後の神武天皇)からの求婚の使者(大久米命記)に「入れ墨」があったため、「伊須気余理比売が驚いた」との記述があります。
伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)の近畿のあたりは、入墨の風習がなかったのかと。
南を考えてみた
・女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊イワレヒコ=神武天皇
・求婚の使者(大久米命記)
・久米の 姓 ハヤト系もしくは沖縄 人名力などで久米家の由来がわかる
・久米氏は神武天皇の護衛、戦闘部隊 氷上姉子神社=熱田神宮の尾張氏につながる
・久米氏と大伴氏がニニギイの東遠征
・天孫降臨の段に登場する「笠沙之御前」笠沙岬は鹿児島の港笠沙
・ニニギイがここでコノハナサクヤヒメと出会い、神武天応の祖父にあたるホヲリを生む
古事記からも見ていくと投馬国へ20日が奄美、邪馬台国へ10日が沖縄が妥当ではないだろうか。
・投馬国、邪馬台国が口語当て字の可能性
中国の文章で一番やっかいなのが漢字
始皇帝や斉国と漢字でかかれていると中国人かと思うが、実際ペルシャ系DNAが違う。
中央アジアや日本に対して意味なく口語から当て字をしていることも多い。
始皇帝の父は呂不韋(ロフィー)
琉球・奄美の方言を調べた
ヤマタイ、ヤマト、ヤマチュ、ヤマンチュ アマト、アマンチュ、トゥマ・
・アマンチュ(天人)=130 歳である福人の大主の前にアマンチュー(天人)が現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/wordpress3/wp-content/uploads/2013/05/h2801.pdf
アマミキヨ=アマテラスがペルシャ系徐福伝説につながる。
・沖縄・奄美の方言では ヤ=家 トゥ=港 マ=馬 タイ=松明
・トウマ、港のある国。ヤマタイコク、港の家国で東鯷国の拠点。
・アマトゥコク 海女の港の国。
・アマンチュ(天人)国 中国からみた秦、斉徐福らの巨人のいる国。
・ヤマタイコク 家タイマツ
女王卑弥呼の孫であるイワレヒコ神武天皇。
神武天皇の祖先は沖縄。沖縄の久米氏らニニギを護衛しながら東へ遠征。
途中鹿児島の港笠沙でコノハナサクヤヒメと合う。
といった流れではないだろうか。
参考
・東鯷国(沖縄・奄美)は中国大陸から朝鮮半島、房総あたりまで交易していた
・東鯷の集落にユタのシャーマンがいる
・寒冷化によりペルシャ系始皇帝がで東征で、中国支配で徐福の集団もペルシャ人系の東征の続き
・斉国からペルシャ系のDNA https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12053850958.html
・ゾロアスター教やユダヤ教と天皇家や秦氏
・徐福の沖縄・奄美渡来ルートと神武東征がかぶる
・沖縄・奄美のイザナミやらアマテラスの神々と大和の神々がかぶる
・葦原中津国も沖縄・奄美か?
・高天原と斉のルーツがある西アジア?
・天忍日命の子孫道臣命=大伴氏 しかし焚書不比等の偽書記紀信者の畿内派ども、まだ反省しとらんようだな
お前らが研究界教育界を牛耳って日本の古代史を崩壊させているというのに
いまだに良心の呵責すら感じないとはどういうことだ
今のお前らに必要なことは、まず反省することだ
その次に改心し、方針を改めるか
または現職を辞するかのいずれかだ
少しでも良心があるなら考えたまえ、焚書不比等の偽書記紀信者の畿内派ども 大和から見れば遠い僻地を降臨の地としてそこを日向と呼び、そして大和自身の地を魔鬼向(纏向)と呼ぶ。おかしいと思わない? そして八百万のヤに纏向のマ、それに都を加えてヤマト。
古墳の形も鏡と銅鐸の合体墓。出雲の国譲りそのもの。天孫族は出身地を隠しに隠して、ヤマトから遠く離れた日向に降臨と偽装。そこまで隠したかった高天ヶ原は富山近辺から見た日本アルプス。 >>967
遠いから一大率を置いたんでしょ
刺史のごとくと書かれてるし、陳寿は一大率が邪馬台国から遠い場所にあるという認識を持っていたことがわかる
こういう状況は飛鳥時代でも大して変わらなかったのだろう
だから隋書に東西五月行と書かれている 記紀を信じたい立場の人間としては、
本来、出雲の国譲りで約束したように出雲は畿内に干渉してはいけないことになってたが、
時を経て遠い昔の約定はほぼ忘れられた状態になり、
出雲の失地回復の目論見と所詮奈良盆地の一部が勢力圏だった天皇家の勢力拡大志向が
これを機に互いを利用し合うことにより大きく前進し始めた時代だっただけで、
九州北部を牽制したい出雲と朝鮮に拠点を築きたい天皇家の思惑が九州への介入につながり、
邪馬台国が魏に使いを送った時期とほぼ同期しただけだと思うけどな。 邪馬台国の7万戸は、それだけの人口を養える農地があっただけで、
実際には5万戸にさえ満たなかったんじゃないだろうかと推測する。
余った米は朝鮮で鏡や金属器等と交換されてたが、
奴国や伊都国等にかなりピンハネされてたんじゃないかとも推測する。
それでも一応機能してたのだが、そこに目を付けたのが出雲ー大和連合。
そそのかされた邪馬台国は急速に不満を募らせ、九州北部に争いが起こり始める。
更に出雲ー大和連合は日向を介して狗奴国もそそのかし始める。
こんな感じを想像するかな。 他人の意見を否定したいため、畿内にまで届かない行程を主張し始めたり、
畿内を原始的な地域と主張し始めたりする畿内説はラノベ発表会にさえ程遠いもんな。 >>956
後漢書
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立於是共立為王
桓靈間(147年??-??189年) >>947
【九州北部説】
鈴木靖民 佐藤信 倉本一宏
(日本古代史学会主流) 【畿内説(桜井市纒向箸墓説)】
近畿圏のB級C級考古学者 >>974
いや違うな。
七万戸だなんて有り得ない、五万戸、二万戸、、、ですら怪しい。
有ったとしても、かなり盛ってる。
翻って「邪馬台国」、果たして倭国にそんな大きな国が存在したんだろうか?
思うに邪馬台国とは倭国そのもので一地方国家のことではないんじゃないか、と。
卑弥呼に授けられという金印は「親魏倭王」だ。
分からないけど邪馬台国と書いて「ヤマト国」と読むんじゃないの?
片言の中国語しか喋れない土人(倭人)の説明で中国の役人が「倭国」と「邪馬台国」は別の国
、、、と理解しちゃったとか、ねw >>983
僕が一戸6人で計算したところ、現在の筑紫平野の半分を田畑として使うなら、
10万戸を養える食料を調達できそうだ。
魏の役人もその壮大な穀倉地帯を見て納得して報告した可能性が考えられる。 僕も神武天皇の先祖の出身地が筑紫平野内でヤマトと呼ばれる地域だったので、
その名を畿内の新しい自分のテリトリーに名付けた可能性を考えてるかな。 それから、魏の役人は倭国が九州を示し、
邪馬台国がその中の最大勢力の国と認識してた可能性が高いと思う。 正直、戸数はかなり怪しい気がする
もっと、ずっと後の時代ですら
まともな戸数なんて出てきてないのに
どうやって調査したのかと
九州地方は、畿内より文字文化が早く入ってきてたとしても
それでも、そんなに多くの記録が出来たとも思えない。
当然、数字にしてもそんな多くが扱えるとは思いにくい。 崇神天皇が初めて戸籍調査をしたとあるから、把握しててもおかしくない
正確さは置いといてね
税を取るのに戸数を把握するのは基本だと思うけどね >>988
でも文字を持っていなかったんだよ、当時の倭人。
仮に一部の役人は文盲ではなく読み書き(漢文)出来たのなら可能だろうけど、、、
ソレならソレで木簡や竹簡、土器に書き込んだ文献の出土に期待するw >>989
キープというのがあって、 縄の結び目で情報を残してたんだよ
南米にもあるし、日本でもあった。隋書にも書かれてる
縄だから残りにくいとは思うけど、発掘されて欲しいな 57年の金印が証明すること
其の一 漢字を使用していた
其の二 イトコクの倭を訓読みでチクシと読んでいたこと
其の三 九州倭国が当時の日本列島の代表政権として外交を行っていたこと 皇太子を東宮や春宮と呼びます
太宰府が首都で国東くにのさきに在って奈良への出入り口の別府を次の天子が防御していました
太宰府から見れば東にある宮で東宮と呼び始めました
あまのかぐやまは鶴見岳であり鴎や湯気が倭歌に詠まれています 新しい歴史教科書をつくる会の目標は敗戦後の自虐史観の是正にあったと思う
思想根底は皇国史観でもあったようだ
皇国史観の過ちが敗戦であり 羹に懲りて吹く膾が自虐史観では是正の方向性も疑わしいもの
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