【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★11
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542123148/ 畿内説の最大の障害は「古事記日本書紀との整合性」
自分は古事記日本書紀は何らかの理由で「ねつ造された歴史書」だと思っているが ヤマタイコクではなく、ヤマトだろ。
何故にヤマタイと読む。 (1)大和朝廷は卑弥呼を無視したがっている。
(2)出大和朝廷は外来の征服勢力。雲王朝こそ日本土着の勢力。
(3)大和朝廷の日本征服は、卑怯で狡猾な手段で行われた。 邪馬台国畿内説というのは妄想過剰の結論ありきの説。
桃の種が同じ時代のものだからといって、
それが邪馬台国の根拠になるのか妄想以外は皆無。
魏志倭人伝に桃園のことでも記述されていれば、
その可能性云々はできるが、そんな記述はない。 >>998
お前の中でそう思ってるだけで、事実として海外留学している学者だよ
東大卒だろうが論文博士だろうがどっちでもいいが、お前をそういう人物だと信じている事とただ単に仮定することは違う
信じてほしいならID付きで学位証明書上げろ
>>999
お前がそう思うのならそうなんだろうお前の中ではな 古事記は参考にしてもよい
アマテラスは人が雛型ではなく、神格化された太陽そのものじゃないかな 朝倉台いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい 日本書紀を読んでも、大和朝廷とは陰険で粗暴な征服勢力の印象が強い。
いくら隠蔽しても判ってしまう。
日本の天皇家を誇りに思えない。 1世紀の漢委奴国王印の金印が九州北部で出てるから少なくとも九州北部には有力な国があった
それを吸収もしくは統合したのが邪馬台国だとしたらやはり九州にあったと考えるのが自然 まともな日本人が原文見れば、どうやっても ヤマタイとは読めない
邪馬壹國 やまとうこく、だとすればすべての問題は解決
ヤマタイコクなど初めから存在していないから、探しても時間の無駄
そもそも悪意たっぷりの当て字で表現された魏志倭人伝のすべてをうのみにすることが間違い ついでにもう一つ
アヘン戦争で負けた時も、イギリスが朝貢してきたと記録しているので
(ひどい側近などのせいで皇帝には国内のすべてが正しく伝わらない時代背景と思われる)
あちらの書物から実際にあったことをあったと仮定して話を進めるのは危険というか時間の無駄 一番非科学的な奴が来たな
そこまで言ったら記紀なんてもっと信用ならない とりあえずこっちでもやってるから貼っとくか
【歴史】「この鏡が邪馬台国や卑弥呼と関連のある物だと言って差し支えない」 大分・日田で邪馬台国との関係探る古代史サミット開催 ・
https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542738667/ >>20
壹はイチの異体字でイッと読む
当時の発音を勉強しといで。 年表
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 何度も桃種のつまらん証拠で近畿説有力と言ってるのかね。
むしろこんな説に頼るようじゃ、近畿説は自らデタラメと説明してるようなものだよな。 邪馬台国と畿内では習俗がかなり違うので別文化だと思う
習俗面で言えば邪馬台国の文化は琉球と共通点がある
卑弥呼は巫女だったが琉球にはノロという巫女が残っている
また邪馬台国には刺青を入れる習慣があったが琉球では明治まで女性がハジチという刺青を入れる習慣があった
そして琉球の創世神話の女神はアマミキヨ、別名アマミクという
これは卑弥呼が日巫女という意味であったとすれば、アマミクは天巫女という意味だったのではないか?
巫女の一族の系譜を思わせる
邪馬台国は大和政権が成立したあと、交流のあった奄美を経由して琉球に落ちのびたのかもかも知れない >>1
この時代最大の遺跡で関東から九州まで人が集まっていて宮殿跡から桃の種が出て時代が一致ってもう確定だろ >>10
どうでもいいから「弥生時代の九州」を研究している研究者じゃなくて、
邪馬台国九州説の現役の研究者を一人でいいから挙げてごらんって
大学にポジションがあってもなくても、企業研究者でもいいから、ちゃんと
ピアレビューの学術論文を書いている人を挙げてね
そう言われてciniiでググっただけで、季刊邪馬台国の論文ばかり出してきた時点で
はっきり言って>>10を軽蔑してるから >>28
>邪馬台国と畿内では習俗がかなり違うので別文化だと思う
というか、魏志倭人伝に書いてある習俗ははっきり南方系で
「所有無與儋耳朱崖同」とも書いてあるし、北部九州とも異なるんだよ
日本には台湾ザルもミカドキジもいないでしょ?
倭国のところに書かれているけれど、倭国の習俗と思わない方がいい
魏志倭人伝の信憑性はその程度 考古学が立派な学問だと思ってる奴がいるのが信じられん。 陳寿の記述は邪馬壹国
いつのまにか邪馬台国に変わった、って言うのは古田説、
これが一番精緻な追跡みたいな気がする >>30
お前が認めてないだけで、挙げた先生達は普通に「邪馬台国九州説の現役の研究者」だから
因みに研究者の定義はお前のと俺のとで乖離しており、埋まらない溝がある事を確認済みだ
とはいえ、「弥生時代の九州の研究者」という言質は取ったから
この先生方が邪馬台国九州説を唱えてるのは如何お考えで?
暴れたければ>>23のスレで、「この人らは専門家と報道されてるけど、実は専門家でも研究者でもないです」って叫んでこいよ 大和朝廷の前に政権があっては困る 公文書はあっったのか ネットウヨパヨ 神代の世界、法螺は程ほどに 邪馬台国はヤマタイコクではなく、ヤマトのくにと読む。
何故にヤマタイと読む。
台与をとよと読むくせに。 まともな日本人が原文見れば、どうやっても ヤマタイとは読めない
邪馬壹國 やまとこく、だとすればすべての問題は解決 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 邪馬台(やまとの)国論争
やまとの国はどこにあったのか
奈良県 「えっ」 大和は元文字は大倭だろう
大倭が市を管理したとあるから
地方王権とは別の緩い列島規模の商業ネットワークがあったと考えるのが自然 >>34
はいはい、ではその先生方が九州説を唱えているソースを出してくださいね
もう、厨二病のマウント志向の人(たぶん日本人とは価値観道徳観が違う)の相手は面倒なんだけどな >>41
巻向の古名は大市と言われてるからね
交易品が取引される場所だったろうね
だから東海地方その他の物産を入れた土器が集まったのだろう 卑弥子だったら、俺の隣で寝てるよ
ツイッターのアカウントは@himicco94
登録ヨロシク 畿内説終了のお知らせ
368 名前:日本@名無史さん 2018/11/20(火) 12:16:29.54
纒向遺跡 見学拠点の建設延期
2018年11月20日(読売新聞・奈良支局)
◇桜井市、財政厳しく
◇地方交付税、台風復旧費など影響
>桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向まきむく遺跡で、
>2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。財政難が原因。
>整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>松井正剛市長は取材に、「少ない予算で中途半端なものは作りたくない。
>5年ほど延期せざるを得ない」と話している。 >>33
江戸時代のマチムラとモトオリが何とかして奈良へ持って来たいとして ヤマイチとしか読めない原文を改竄した ソース出せだせという思考停止脳死ゾンビ
仮に提示しても信じない頑迷固陋脳 要するに
・畿内説は纒向
・九州説は西都原
が比定地でいいんだね
もう他の候補はなしで 邪馬台国はヤマトだと、中国人が認めてるんだが。
隋書倭国伝より。
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中
依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海
地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
東西五月、南北三月、つまり、西日本全域を治める国の都を邪靡堆と言い、
魏志倭人伝の邪馬臺のことだと言ってる。
そして、帶方郡から一萬二千里の距離であると認識している。
中国人がこのように、邪馬台国を大和国だと認識してる以上、九州説は根本的に成り立たない。 本居宣長は、隋書倭国伝読んでなかったんじゃねえの?w >>52
本居宣長は九州説じゃないぞ
例によって九州説の人が都合のいいところだけ取り上げて
九州説だーって言ってるだけ >>51
折角の原文提示も読めないでは破綻を来たす好例
帶方郡から一萬二千里の距離であると認識している だから博多に到着する というか、巻向と特定されてるなら
巻向の遺跡から魏との交流品が
もっと出てないとおかしい
使者が着てるんだからさ
それこそ、倭人伝に
載ってないようなものまでもさ
魏だけでなく、朝鮮半島の品とかも
そもそも個人間の交流なら
別に普通にあったろう
そういったもんじゃなくて
文書以上のものが無いといけない
まさか、そういうのは全部
盗掘された扱いにしてるんじゃないよね? >>53
そうだっけ?
本居宣長は、何て言ってたの? >>56
本居宣長は邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后と考えていて
九州の勢力が大和を騙って魏に使いを送ったという説
天皇及び皇后が朝貢して印を貰ったとは認めないという立場
広義の九州説にはなるかもしれないけど(なるかな?)邪馬台国が九州とは言ってない >>42
ちゃんと貼らないとリンクも踏めないか?
1 名前:樽悶 ★ [sage] :2018/11/21(水) 03:31:07.43 ID:CAP_USER9
【動画】弥生時代の鉄の鏡でシンポジウム
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20181120/movie/5070002480_20181120202104.html
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20181120/5070002480_20181120202104_m.jpg
日田市で出土した弥生時代後期の貴重な鉄製の鏡に関するシンポジウムが市内で開かれ、専門家から邪馬台国との関係を指摘する意見などが出されました。
「古代史サミットin日田」と題したこのシンポジウムは、全国の考古学者らでつくる協議会などが日田市立博物館で開いたものです。
6人の専門家がゲストに招かれ、昭和8年に日田市内の古墳で出土した弥生時代後期の鉄製の鏡「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」について意見を交わしました。
この鏡は、日本で唯一金と銀を埋め込む「象眼」という装飾が施された貴重なもので、国の重要文化財にも指定されています。
シンポジウムでは、元産業能率大学教授の安本美典さんが「当時の中国の状況などを照らし合わせると、この鏡が邪馬台国や卑弥呼と関連のある物だと言って差し支えないと思う」と指摘しました。
また、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発掘に取り組んだ、佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長は「この豪華な鉄鏡から、当時日田に高度な文化が根付いていたことがうかがえる」と述べました。
会場には、全国の考古学の愛好家などおよそ80人が訪れ、熱心に話に聞き入っていました。
この催しは、22日まで開かれ、日田市内の遺跡を巡るツアーや講演会などが行われます。
11月20日 17時51分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/20181120/5070002480.html >>59
ああ、偽僭説か。
金印をもらったのは、九州の小国で、勝手に大和王権(自称・邪馬台国)を名乗ったという説か。
九州説の「モトネタ」とは言えるな。 >>51
7世紀に編纂した本だぞ
邪馬台国から何百年もあとなのに信憑性あんのか? 中国としては、畿内の大和王権に金印を授けたつもりが、
九州の王が勝手に着服した、ということなら、
九州から金印が出てきたとしても、評価が難しくなるな。
考古学的には、ヤマト王権は3世紀に成立していたとしても。 >>65
それなら、魏志倭人伝はもっと信用できませんが? >>65
信用できるよ。
適当に書いてるわけではなく、大和の人々と交流して
エリート中のエリートが正史として調査してから書いてるからね。 隋書には阿蘇山があるって
はっきりと書いてあるけどな
(完) >>69
そりゃ、九州は邪馬台国(奈良)に支配されてたからね。
書いてあっても不思議じゃないわ >>55
魏の鏡や中国大陸原産のベニバナ花粉など見つかってるから交流があったのは間違いない >>24
基本は当て字 というのがわかってないのかな?
邪馬→よこしまなうま
卑→いやしい
そうとうな悪意がなければこんな字はつかわない
トウとする部分は原文にも数種類あるが、イチまたはツボ、トウフのトウ
日本人的なニュアンスではトウと読める
ただ、どうやっても台=タイにはならない
現代判明している当時の読み方でイツだとしても
当時、日本人の発音する音から、中国に住む人がしっくりするものを当てただけのこと
それを現代ではこう読む〜とかまったくもってばからしい >>61は、海外留学したエリート様の書き込みなの?
>>42で訊いている「その先生方が九州説を唱えているソース」というのは、
学術論文として発表されているものなんだが?
研究者の定義にこだわっていた人が、テレビニュースをソースだって言っちゃう訳?
しかも邪馬台国と言っているのは「邪馬台国の会」主宰の「研究家」(≠研究者)の安本美典氏だけww もうひとつ面白い話を
例えばコンピューターを中国で文字に表すと…
向こうにはカナがないから音も完全に一致せずに当て字をする
日本人的な感覚で考えれば、文字も漢字も意味も音も
一致してるのが自然だが、そうではない例は多々ある >>24、>>72
邪馬「壹」の表記は、12世紀の三国志の伝本で初めて出現するもの
それより古く魏志曰で引用している史書が軒並み邪馬「臺」となっているから、
本来は邪馬臺國だったのだろうというのが定説
臺→台は、単なる置き換え
藝→芸と、同じで現代日本語では旧字(繁体字)を使わないから便法として使っているだけ >>75
うむすばらしい
漢字探すの面倒で書かなったが、このように視野を広く持つのはとても良いことだと思います
人生もっと楽しめる >>69
この非論理的な書き込みは精霊流し厨だろう
火山は中国では珍しいから特記するわな
倭国の版図の中にあるものを書いてあるだけのこと
この記述から九州説を主張するんだから論理がアクロバティックすぎる >>71
>ベニバナ花粉
随分とミクロな命綱なんだな畿内説ってw >>73
>>995
>>>980
>>常松幹雄、七田忠昭、安楽勉、中村幸史郎、北郷秦道
>この諸先生方は、弥生時代の九州の研究をしている
>>30
>>>10
>どうでもいいから「弥生時代の九州」を研究している研究者
(研究者と明言した言質)
>>61及び
『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』 七田忠昭 著 纒向を掘れば掘るほど畿内説が不利になってしまい
現在ではマトモな研究者で畿内説を唱える者は皆無です。
「纒向学」なる新たな分野も生まれましたしね。 畿内説は巻向は離れた方がいいと思うな
北部九州の土器も僅かしか出てないし、大陸製品や鉄やはホケノ(布留0、3世紀後半)より以前は皆無
鏡文化もホケノ以前からあるわけではなく、銅鐸の欠片が出てるだけだし
共立後の卑弥呼時勢は3世紀前半なんだよなぁ >>82
そういう珍説はお仲間同士でやりあってるならいいが、
世間一般では通用しないからお引き取りください 卑弥呼⇒ひみこ⇒日皇子(日いづる国の天子)=天皇
邪馬台国⇒やまたいこく⇒大和国
卑、邪ともに中華思想による日本の蔑称にすぎない。
こんなのいつまで日本の歴史教科書に乗せてるんだって話。 そもそも邪馬台をヤマトとは読まない。
畿内説にこじつけるための説である。
双方は別物だ。 なんでこのスレだけ続いてんの?意味わからんもういいよ
新しいニュース無いの? >>68
つまり大和朝廷側の意見を反映して書いたんだろ
大和朝廷側は邪馬台国と繋がりがあることにしたい
記紀にもその意図が見える
万世一系捏造の一環だ >>90
早く現実を見つめてもらいたいよね。
九州さんは >>80
私はIQ150あるし、出身大学周りの同等に賢い人、学者も研究者も大勢見てきたけど
>「(研究者と明言した言質) 」
こんな情けない論理構成で何かを示した気になるような人はいないよ?
>『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』 七田忠昭 著
どうしてこれが九州説になるのか教えて欲しいわ
「邪馬台国時代の『邪馬台国ではない』クニの都」だろ?吉野ヶ里は?
まあ、時代も邪馬台国時代より吉野ヶ里は古いんだが
プロファイリング的にはうだつに上がらない大学職員の人が見知った言葉を使って
一生懸命背伸びして学者のふりをしてマウントを取ろうと躍起になってるってとこだな >>95
どっちが正しい関係なく
>>90 が言うように新しいニュースがないからだろうな。
陳寿の意図は当時の最新政治動向じゃなくて東夷の風俗に向けられてるし。 >>96
そうだよな
よくいう司馬懿の功績を褒めるためにっていうのがあれば
それこそ東に12000里と書くよな
西の大月氏に対して東の邪馬台国
会稽東冶の東じゃ遠く感じない >>85
この記述から近畿説を主張するんだから論理がアクロバティックすぎるよな >火山は中国では珍しいから特記するわな
倭国の版図の中にあるものを書いてあるだけのこと
阿蘇は弥生時代に噴火した記録が無いよ >>99
文字の無い弥生時代に火山噴火の記録があったと思うのか? 大倭という言葉について考えてみると
当時の物流拠点として、九州倭国が奈良に市を設けて
そこで本州の国々が交易していたとか。 そうすると交易都市ヴェネツィアみたいな感じなのか。
天皇家は九州から派遣された市長みたいな感じだったのかも。 >>101
これは失礼、隋書だから7世紀だったな
ごっちゃになった せっかく、火山の影響で3世紀初頭に飢饉があったことまで言及されたんだから、
そこから、九州が衰退し、近畿が九州に影響力をもたらすようになったと理解するのは簡単だ。
米の生産量は近畿が圧倒的だからな。 >>93
IQ150の証明持ってこいよ
もっとも、IQ150だろうがEQは著しく低いようだが
その本の紹介に「大発見以来、卑弥呼の住んだ宮都かと話題になってきた吉野ヶ里遺跡。
一時期の喧噪が終息したいま、あらためて集落の成立から拡大、終焉までの展開をくわしく追究し、「倭人伝」記事との対照、中国城郭の影響などの検討をとおして、邪馬台国時代のクニの都であると論じる。」とある
プロファイリングは下手だからやめておけ
ただでさえ前スレで違う人物と俺を混同して大恥をかいただろうに
ちなみに大外れだからな >>97
>それこそ東に12000里と書くよな
書いてあるだろ?
「倭人在帶方東南大海之中」って
真東ではないが、南東海上はるか彼方で、
「自郡至女王國萬二千餘里」だ 西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年 「井戸の中が凍ってしまった。」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦184年 飢饉の影響などによって「黄巾の乱」が勃発(漢が衰退した。)
西暦184〜189年頃 卑弥呼が女王になる。
西暦238年 卑弥呼が魏から金印「親魏倭王」を授かる。『三国志』
西暦247年頃 卑弥呼が亡くなる。『三国志』 「いまあらためて発掘成果と『倭人伝』の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」。
冒頭、筆者は記す。吉野ケ里には、倭人伝が描写する「宮室・楼観・城柵」に相当する建物群がある。
甕棺墓(かめかんぼ)で見つかった戦闘の犠牲者の人骨は「倭国乱れ、相攻伐する」との記述に符合する。
奈良の纒向(まきむく)遺跡の登場で畿内説は勢いづくが、筆者は九州説を曲げない。
=2017/03/26付 西日本新聞朝刊= 普通に考えれば凄く単純
九州に邪馬台国、畿内に大和国、中国地方に出雲国、北陸に越国、四国に阿波国
弥生時代はそれぞれ別の国々 >>110
2世紀末に大和国(邪馬台国)に統一したのが畿内の卑弥呼という話しだよ。 倭国には100余の国があった
九州で100ではなく畿内迄又はそれ以上で100と言う事 >>111
最近の近畿説は九州説を上回るほどの
ファンタジー史観が強いな
九州からの搬入土器がほとんど無いし
鉄の出土も無い、そんなに早くからの統一はあり得ません >>113
九州の土器が無いのは、九州からの東遷は無いという証拠。
そして、九州は2〜4世紀と続く王墓が存在しない。
近畿で生まれた前方後円墳を受け入れている。
九州説を立証する証拠は一切無いよ。 畿内とすると記紀に前方後円墳の「形」の謂れがあってもよさそうなものじゃないのかな。
埴輪はあるよね。それともどっかに書いてあるのかな。 >>114
それはどこまでいっても単なる状況証拠だからな
地理的にも風土的にも邪馬台国の記述と一致する箇所がないとな
畿内の古墳からはそのような遺物は全く出ていない >>116
畿内説を否定したところで、九州説の立証はできませんよ。 >>116
状況証拠で言えば九州が一歩リードかな
畿内は巻向遺跡の出土品でますます遠退いた感が否めない 関西のTV番組そこまで言って委員会によると
学者の99%は畿内説だと九州説の学者が言ってた。
その人は九州説やる人いないから、教授からお前がやれと言われて九州説になったと話してた。 学問的には畿内説で
九州説は夢をおいかけるファンタジーと思っておけば間違いない。 今年発刊された中公新書「日本史の論点」によれば
・九州の邪馬台国と畿内の大和政権は同時代に並立していた
・どちらも対外的には倭人の作った「ヤマト」と名乗っていた
・邪馬台国は大陸の北朝に、大和政権は南朝に朝貢していた >>122
何を根拠に言ってるんだろうね。
さすが夢をおいかけるファンタジー 飛鳥昭雄ですら畿内説だから、オカルト的にも無理筋になってるのが現実 >>119
九州説の状況証拠だとw
そんなものがどこにある?
倭人伝の記述は南国っぽいから強引に九州にこじつけるとか、
末盧国や伊都国や奴国が九州にあるから邪馬台国も九州だとこじつけるか
その程度だろ? ここまで畿内説の根拠は
畿内説を唱える(自称)学者が多いだけ
具体的な根拠は一切なし >>125
末廬国が九州にあるなら
邪馬台国はその南、これは動かぬ事実
こじつけではなく魏志倭人伝が
そう言ってるんだよ、これ以上の証拠はない >>127
唐津で末盧国の南にまた遺跡が見つかったらしいがそれが邪馬台国? >>127
九州のはるか南方海上にあると書かれてるな
だから、方角が間違ってるか、距離が間違ってるか、ってことになるでしょ >>128
それは知らんが
九州はまだまだ未知の遺跡が眠ってる
それらが調査出来れば良いんだがな >>129
里を現代の基準に当て嵌めたがる人は
そう言うが、狗邪韓国から対馬まで千里
対馬から壱岐まで千里と具体的な基準が出てるので九州中南部に収まるよ 九州もヤマトと言ったが合理的解釈に思えるけどな
なぜヤマトと言ったかが問題
畿内勢力が及んでいたのか
僭称したのか 一方畿内説の根拠は
・(現在のところ読みがよくわからない)古代中国の邪馬台国の読みと大和国の読みが多分同じだと思う
・(とりあえず今発見されている中では)邪馬台国と同じ頃の最大級の集落跡や古墳がある
だけだろ
家庭のまた仮定で話にならん 魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有
韓は帯方の南に在り 東西海をもって限りとなし 南 倭と接する 方4000里為るべし
韓は東西300kmで日本海と黄海に面する 南方は倭の領土と接している 奈良をいつからやまとと発音するようになったのか?
700年以降だが 倭国の歴史を成りすましで自己のものとしたかったテンムが古よりヤマトだったといい始めた
チクシ→倭→大倭(オオチクシ)→700年以降 大和(ヤマト)
なりすましは古よりか 700年以前は外交をしていない 奈良 比定する意味も無い 何の記録も残っていない畿内が邪馬台国の記録を奪取すべく必死になってる感じだね。
説の構成自体がおかしいし、他分野の学者に査読させて方がいいかもよ。 結局、九州説のいう状況証拠とはオカルトだけということだよな >>139
日本語読めます?
狗邪韓国から対馬まで千里
対馬から壱岐まで千里 現実的に九州に邪馬台国、畿内に大和国
至って普通の解釈
オカルトでもなんでもない >>7
何回も書くが、江戸時代中期までは当然ヤマトだと思われてた、
その定説を覆したのは本居宣長。
偽書だと言われてた古事記を
偽書じゃ無いと主張したあの天才。 >>144
千里は測量したの?
机上で作った数字?
どっち? >>141
でもなー、畿内だけ人種違うっぽいよな。
九州、四国と酒強いけど、近畿は全くそんなことないし。
近畿の人が後から来た侵略者って可能性は高いと思うけどなー
九州には聖地が沢山あるんだよね。
あれはなぜなのだろうか?
まあ、近畿と九州以外の奴らはお呼びじゃないってこと 確実に解っていることは
九州北部
九州中部
宮崎方面
吉備
出雲
畿内
少なくとも6か所で独立した王権があったわけだ
そして宮崎を先祖に持つ畿内が吉備と出雲を従え日本を統一した 卑弥呼⇒男王⇒台与
この間倭国大いに乱れるだ
地域を超えた政権移動があったと考えられる
卑弥呼が九州
男王が出雲
台与が纏向
こういう筋書きも考えられる >>148
そうだよ
下戸遺伝子と言って世界でも珍しい
稲の伝来と共に渡ってきたと思われる遺伝子なんだけど
畿内と呉の地方に多いのは事実 >>153
それ今の半島じゃないのか?
今の半島人と当時の半島人は全然ちがう人種だぞ モモは古代祭祀(さいし)で供物に使われた
出土した種の数により国内唯一で最大の祭祀が行われていた事が分かる さらに巨大な土坑が見つかった事により、一般人が立ち入れない部屋で巫女がいた事が分かる >>154
下戸遺伝子分布図かなんかで見てみたら
半島の人間が全滅していたとしても関係ない
呉の地方から同心円状に広がってる 遺跡は西暦135〜230年のもの
放射性炭素(C14)年代測定法
卑弥呼は248年には死去
さらに大型建物跡や運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
さらに同年代の最古級の前方後円墳6基が集中 >>148
単に近年の在日が多いだけだろ
古代の渡来人は日本列島全域に広がってるし
1000年以上前の帰化人(帰来人)とかはあまり関係ない気がする 仮説だが、九州の中央部が邪馬台国、倭人伝にあるように、邪馬台国の北と南は別勢力
それ以外の日本全土を近畿勢力が支配していたと考えられる >>155
つまり短里だと言い張ってるだけで根拠なしってことだな 神話の信憑性は全く無いな
ほぼ畿内大和が皇室を神格化させるための
ファンタジーと言っても差し支えないよな >>159
そもそも前方後円墳と卑弥呼の関連がどこにも記載されてないから証拠にならない
前方後円墳自体は中国にはないから卑弥呼の墓がそうであれば記載されてても不思議はない >>165
ヤマト王権が記紀より古い史書を焼き払ったからだろ
自業自得だな 神武の東征が紀元前660年、時代錯誤半端無いからこれは明らかな嘘
大和尊の時代は西暦100年頃、その時代から
畿内が九州まで支配していたのならその後の倭国大乱との辻褄が合わない
そもそも古事記、日本書記に倭国大乱についての記述が無い
搬入土器も無いし、軍で使ったであろうはずの
鉄器も無い、九州とはほとんど交流が無かったとしか思えない 邪馬台国は埼玉にある
なんとなくだけど俺の勘は当たる これだけ色んな説が乱造されるのって、邪馬台国なんて結局無かったんだろうな >>174
でも、マクドナルドやケンタッキーよりは英語の音に近いんじゃね >>175
奈良に邪馬台国があるのが許せないルサンチマンが、九州説にとびついてるだけ。 >>156
また出没した!
「〜が分かる」という文体の御仁 >>106
>邪馬台国時代のクニの都であると論じる。
これ、「どこにも邪馬台国の都って書いてない」のが分かるか?
奴国とか伊都国とかと同列の「名も知れぬクニの都」って書いてあるだけだぞ!
研究者がどうのと定義にこだわった挙げ句に、
「査読行き論文で九州説を主張しているソース」を出してと言われて、
一般向け書籍の紹介文でしかも邪馬台国九州説を一切主張していない文を出してくる辺り、
まったく知性を感じない
もういいから、経歴詐称の騙りでしたってごめんなさいしたら? >>128
>唐津で末盧国の南にまた遺跡が見つかったらしいがそれが邪馬台国?
もうちょっと具体的じゃないと何とも言えないな
千々賀遺跡とか、以前から知られていた宇木汲田遺跡遺跡から見れば南の内陸だけど、
通常の末盧国比定地内の南の方だよね?
末盧国南部に新たな遺跡が見つかった、ということでも末盧国の南にまた遺跡が、って表現になるし >>136
逆だろ?
>チクシ→倭→大倭(オオチクシ)
いつもこれを書いてるけど、倭をチクシと読んだ例は一切ない
根拠のない妄想!
妄想を何回書いても現実にはならないんだって! >>157
>さらに巨大な土坑が見つかった事により、一般人が立ち入れない部屋で巫女がいた事が分かる
これ初耳なんだが?
もう少しくやしく教えて? >>167
>ヤマト王権が記紀より古い史書を焼き払ったからだろ
すぐそういう妄想を本当のことのように思い込むww
前に禁書の根拠として続日本紀の「亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。」を挙げてたけど、
養老令雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。【所送者。不得載占言】
で、すぐに否定されてたじゃないか
ヤマト王権は記紀編纂後に、各地方に対して風土記の撰上を命じた側だよ
そして、出雲風土記を見ても分かるように、記紀とは異なる歴史観を平気で書いている 出雲の遺跡見てみ出雲大社の巨大柱とか
銅剣も腐るほど出土してるし真に不思議
あの地域が大和に屈服した意味が解らん >>138
え?九州説ってこんなレベルなんか?
他にいる?九州説にとって纒向や妻木晩田は何に比定してるん? >>183
無知をさらけ出してどうする
その『日本書紀』推古28年の是歳条に
皇太子(聖徳太子)・嶋大臣(蘇我馬子)共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
とちゃんと書いてあるわ
その後『日本書紀』皇極4年6月条に
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船史恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
とあり、天皇記は焼かれて国記は焼かれるところを火の中から取り出して中大兄に渡したとある
その後国記の消息はわからん
まあ多分蘇我が絡んでるので都合の悪い部分があったので処分したんだろう 天皇が命じて作らせた地方の風土記は、記紀の内容とは違うけどな。
特に出雲風土記。 卑弥呼の時代、最も先進的で大きな都市が纒向な時点でほぼ決まり 推古朝で編纂した国記、天皇記に続いて政変で権力を得た中大兄(天智天皇)は帝記、旧辞(一説には同一書物)が存在した
帝記は日本書紀の元になったと言われる
これらは記紀にも名前が出てくる
つまり
推古朝→天智朝→天武朝と政変が起きて王朝が変わるたびに史書を編纂していたということ
そして都合の悪い前政権の史書は抹殺してきた つまり、それ以前、継体〜欽明の頃にも史書が編纂されていた可能性もある
もしかしたらそれ以前にも
大陸と交流があったのだから文字を使っていたのは間違いないんだから記録もしていたはず
それが現代に残っていないのはなぜか?
万世一系の皇統をでっち上げるのに都合が悪いから
記紀には邪馬台国も皇統に組み入れようと意図した部分がある まあ文字が使われていたとしても基本的に外交とかで対中国向けに使われていただけじゃないの? そういう事実を確認しようもない陰謀論はいいよ
本当に都合の悪い歴史を消そうとしてたのに過去にこんな歴史書がありましたよなんて記録に残すはずないだろ
むしろ各地に残る大和朝廷の悪口書いてるような風土記を文化財として大事にするように指示してるくらいだ >>191
それはそうだが、それ故に記紀以前の歴史書は陽の目を見ることなく抹殺することができた
一般ではほとんど文字を目にすることがなかったから
しかし推古朝から仏教が入ってきて経典などで徐々に漢文が広まってきた
さらに天武朝では中央集権体制が出来上がって全国に役人が派遣されて税の徴収などの記録をとりはじめた
当然感じも広まった
よってそれまで可能だった史書の抹殺は不可能になった >>192
それは>>193に書いたように推古朝あたりから徐々に文字の使用が増えてきて存在そのものを抹殺するのが不可能になったから
ある程度担当部署以外にも史書編纂の事実が知れ渡っていたのだろう
そもそも確認しようがない陰謀論は邪馬台国畿内説の方だ
現在のところ邪馬台国の読みは確認できないし畿内の遺跡が邪馬台国だったという物証はない
ただ大きい遺跡があったという状況証拠だけ
古墳にも物証がない 続日本紀の「亡命山沢。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初
テンムは倭国の日本旧記から目ぼしい記事を日本書紀へ盗用してのち 焚書した さすが朝鮮人 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰い縁としました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました 世間無常の倭歌(詠み筑紫歌 チクシウタ
天地の 遠き始めよ 世の中は 常無きものと 語り継ぎ
ながらへ来たれ 天の原 ふり放け見れば 照る月も
満ち興きしけり あしひきの 山の木末も 春されば
花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交へ 黄葉散りけり
うつせみも かくのみならし 紅の 色も移ろひ ぬばたまの
黒髪変り 朝の咲み 暮変らひ 吹く風の 見えぬが如く
逝く水の 留らぬ如く 常も無く 移ろふ見れば にはたづみ
流るる涙 止みかねつも >>194
前半の歴史書に対する推理に推理を重ねる論調は真実から離れてく一方だろう
後半の邪馬台国云々は現在残る遺跡の発掘調査によって科学的に判断していくこと
そしてその中で纒向が最有力になっているだけの話 700年以降白村江の戦いで敗戦し滅亡した和国の紀元前からの歴史を 自己のものとして成りすました
奈良政権 其の証明として日本書紀をつくったが皇国史観の呪縛が解けるにつれ襤褸が出始め
人々は正しい歴史を知りはじめた >>199
推理じゃないぞ
日本書紀に書いてある事実だ
その内容が明らかになっていない理由は推論かも知れんが記載しなかったのは勝者の都合
歴史を作るのは勝者かも知れんがそれは政治的な話
勝者の論理だけでなく敗者の状況も踏まえて公平に推論するのが科学だ >>185
>え?九州説ってこんなレベルなんか?
九州説って未だに30年くらい前の安本東遷説や古田九州王朝説の亜流しかいなくて
最近の研究成果はすべて捏造っていう人たちだから、そんなモンだよ 記紀の真偽についてはなにぶん古いもんだから史実もそうでない部分もあるだろう
それらは残る遺跡や遺物などから一つ一つ判断していくしかない
その中で残された遺跡や痕跡から神武東征はない >>201
だからその理由が君の推理だと言っている
その理由があてにならないんだから歴史を消すため云々も意味がないということ >>195
だから禁書の内容は養老令に明記してあるっていうのにw
雜令第八 秘書玄象條:凡秘書。玄象器物。天文圖書。不得輙出觀生。不得讀占書其仰觀所見。不得漏泄若有徵祥災異陰陽寮奏。訖者。季別封送中務省入國史。【所送者。不得載占言】
歴史書は入ってないだろ?
都合の悪いものは全部隠滅されたっていう陰謀論は、トンデモ説の典型 >>197
>若倭 わかちくし 大倭 おおちくし
懲りないな、この人は
もう完全に工作員レベルw
倭をチクシと読んだ例は一例たりとも一切ない
あるというなら根拠を出してね
妄想は何度書いても現実にはならないんだよ >>201
>勝者の論理だけでなく敗者の状況も踏まえて公平に推論するのが科学だ
勝者の論理も敗者の状況も「自説の都合に合わせて勝手に決める」の間違いだろ
科学からはほど遠いw 箸墓の箸って6世紀に中国から輸入されたらしくて
250年前後の箸の名称は怪しい
だから箸墓の伝説伝承も古事記・日本書紀当時の「まとめ」だ
とすると
箸墓に眠っているのは誰だろう 第7代孝霊天皇皇女
倭迹迹日 百襲姫
(やまととと ひももそ ひめのみこと) 文献に新発見はない
文献を読み込む能力に関しては江戸期の国学者の方が凄かったと思う
けども皇国史観とか結論ありきの偏った見方があるのも否めない
現代は発掘と年代測定があるからとても有利に比定ができるはず
でも発掘で卑弥呼に近づいた事実は皆無というジレンマ
鏡や剣に関しては副葬されず別の手に渡ってる可能性が大きいので、朱塗りの棺が納められた径100歩の殉葬墓が一番の決定的材料だろうね >>208
そうそう
古墳の名称は日本書紀編纂後に作られた伝承を元にしているからかなり町起こし的な要素を含んでいる
江戸後期以降にも古事記日本書紀を参考にした地域名に改称した事例が幾つかあるから戸惑うんだよね
当時の本当の名前を知ることは不可能なんだろうかね
漢字が5世紀までの古墳内部に書かれた形跡ってあったっけな >>208
魏志倭人伝によると卑弥呼の墓は径百歩だろ
直径百歩の事だから間違いなく円墳
前方後円墳のような形状なら長径、短径もしくは周囲百歩と書くつまり箸墓ではない >>213
中国人には前方後円墳の概念が無いから、こだわる必要は無い。 >>213
径は「さし渡し」くらいの意味で使うから、別に円形とは限らない
三国志には「韋持大斧立後、刃徑尺」と斧の刃の大きさが、径尺と表現されている
あと運河の幅なども径で示す
径にはこみち(小径)の意味もあるので、小樽が中国の観光客向けに運河沿いの600メートルの小径を
運河の小径のつもりで「運河径600计」と書いたら、小樽運河の幅が600メートルと誤解されたって
笑い話もある >>188
>卑弥呼の時代、最も先進的で大きな都市が纒向な時点でほぼ決まり
それが大和王権なんだろ >>215
どうアクロバティックな解釈をしても箸墓とは全く合致しない
径百歩を周囲と解釈すれば周囲150メートル前後だから箸墓よりも小さ過ぎる 単に墳墓が大きかったから勢力が大きかったという理屈が成り立たない
それで言えば天智、天武朝の頃の方には中央集権国家が完成に近づいたわけで勢力は最大になった
しかし実際には天智や天武よりも仁徳天皇陵の方が大きい
墳墓の形式や規模は結局のところ祭祀や宗教観に左右される >>217
>径百歩を周囲と解釈すれば
径と書いてあるのにそれを「周囲」と解釈するようなのを、アクロバット解釈って言うんだよ? >>218
>単に墳墓が大きかったから勢力が大きかったという理屈が成り立たない
大墳丘墓を作れるだけの労働力が動員できれば、同じだけの軍勢も動員できる
また、生産現場からそれだけの労働力を引き抜くことが可能なだけの
剰余生産があることも同時に示している
大土木工事によるモニュメントの大きさがそのまま国力の大きさを示すのは常識
王より大きい墓を臣下に許した王朝があれば教えてくれ
>それで言えば天智、天武朝の頃の方には中央集権国家が完成に近づいたわけで勢力は最大になった
>しかし実際には天智や天武よりも仁徳天皇陵の方が大きい
仏教伝来以降は大寺院の建立の方に権力誇示の手段が移ったからだよ
最初期の仏教寺院の塔の礎石の下の埋能遺物は古墳の副葬品と共通している
同じ時期、同じ文化で比較して、小さな墳墓しか作れないのは弱小勢力 >>219
おまえバカだろ?
径が長径にしろ短径にしろ全く違う
円周率x150メートルだから470メートル前後の巨大古墳だ
箸墓とはかなり違う
それを恣意的に解釈して箸墓に持ってこようということ自体がアクロバティックなんだよ >>220
>同じ時期、同じ文化で比較して、小さな墳墓しか作れないのは弱小勢力
魏志倭人伝の記載では同じ文化じゃないよ
邪馬台国と近畿は別文化だな 九州邪馬台国と大和王権は全く別の国だったが
九州倭国が戦乱を繰り返している間にに畿内大和が
北陸、出雲、関東、東北を制圧し空白の四世紀、九州倭国の衰退を見計らって大和が九州をも制圧した、
皇室の権威を高めるためにあたかも九州と連続性があったように実在しない神武を日向出身と言う事にして大和が神話を捏造した >>160
下戸遺伝子って関西だと2割とかいるんだけど
流石にそんなに在日の人がいるわけじゃない
で、九州とかは1%しかいないんだよ。 >>213
直径25mの円冢です 高さは3m弱です >>168
嘘ってなんだよ。どこにもそんなこと書いてないぞ
単に丙午とかから算出したらそうなるっていうだけ。
むあ、帝の寿命は明らかに途中まで嘘だろうが
なんで、あんなわかりやすい嘘をついたのか不思議なほど >>227
いまの朝鮮及び在日の人は下戸遺伝子多くない
分布をみると中国の江南地方から直接畿内に来たと考えるのが自然
いつかは不明。どれくらいかも不明 古事記
大倭国 (おおやまとくに)
日女命(ひめみこと)
倭人伝
邪馬台国(やまたいくに)
卑弥呼(ひみこ) @時代別の人口分布
縄文時代、人口は東関東と北に集中
中国、四国、九州は人口が極めて少ない。
A勾玉の出土分布では、縄文初期は北と関東に集中
そこから近畿に移動 三角縁神獣鏡
第一段階は景初3年(239年)前後と推定
府県別の出土分布
奈良県の100枚を筆頭に、京都府の66枚、兵庫県の40枚以上、大阪府が38枚と、旧大和国を中心とした近畿地方の出土が多い
出土地は九州から東北まで全国に広く分布 そろそろ来そうだから言っておく、邪馬台国は西都原ではないぞ >>179
お前は直後の>>109の書籍紹介文も読めねえのか
前から思ってたが、自分の目の前におまんまがスプーンで運ばれてくるまで何も出来ない赤ン坊の様だなお前は >>179
ドブローイ『波動と運動』
シュレティンガー『波動力学についての4講』
レントゲン『新種の輻射線について』
ダーウィン『種の起源』
これらは書籍だが科学史における重要な記述がしてある古典本だ
更に最近でもドーキンス『利己的遺伝子』やホーキング『宇宙を語る』などがある
歴史学においてもダイアモンドやハラリを知らない訳でもあるまい
研究者の発表の場は学術論文だけではないんだよ
今ではネットというものもあるしな
象牙の塔に篭って視野狭窄になってるからもう少し教養を身につけたらどうだ?
もっとも、象牙の塔の歴史も詳しくないみたいだが D系「緑」の分布
ttp://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/07/20140730-141514-51314032.jpg そもそもどこにあるか分からん存在するかも分からんもんを誰が決めたんよ 現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。
それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人、一部の台湾原住民に存続するだけである。
参考 チベット民族
ttps://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_8f1/ayin/11030719.jpg チベットのカイラス山は標高6656m。仏教(特にチベット仏教)、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教で聖地とされており、信仰の山である為、登頂許可が下りない聖なる山です。
古代より太陽の都と呼ばれ
神の土地を意味するチベット・ラサ
今回の旅は、太陽の都チベット・ラサと青蔵鉄道 8日間|トラベルサライで行く 仏跡の旅 >>168
正統な王権を持つ人物が、大陸の西アジアから渡ってきたから、広義には正しい >>232
縄文期は畿内はほぼ無人
九州よりも人口少なかったよ
弥生になって九州も畿内も人が増えたけどその段階ではまだ九州の方が人が多かった
畿内は約3万周辺合わせて10万くらい
九州は10万超えていた >>184
渡ってきた謂れルーツが一致してたからだよ >>195
テンムは親新羅でテンヂは百済の傀儡
ちなみに持統も百済の傀儡 >>242
人口密度の話をしないと意味ないよね
急速には紀元前はほぼ無人というレベルだった >>245
天武は古来祭祀文化の伊勢を移動させたり記紀のなかで神話として出来るだけ残したりして倭国時代のアイデンティティを残す努力は見受けられるよね
消そうと思えば消せた
天智時代があまりに渡来文化に振ったのを壬申の乱で旧勢力を頼りに糺した印象がある >>242
九州に近づくにつれて人口が少なかった理由は気候変動。
住居跡などから割り出した日本の人口密度は狩猟採集社会としては、他に例がないほど高かった。
ところが縄文時代も晩期に入ると、その人口が一気に減少する。それも26万人の人口が、8万人にまで落ちてしまう急激な減少だった。 映画で神武天皇を撮るなら役は海老蔵にしたい もしかして直系かも知れないから >>248
へー。九州なんて温暖だろうに。
縄文時代の暖かい気候が終わったのかな
それとも、火山?九州では7,000年前以降に
火山とかあったのかな >>248
縄文晩期に人口が激減したのは関東から東海に至る地域だ
畿内は減るもなにも縄文期通してほぼ無人〜1000人単位
それに比べると縄文期の九州は微増して微減くらい ID:6WVDYetgの人は、人に絡むばかりで邪馬台国の話を一切しないから、無視したいんだが
そうすると勝ち誇りそうだから、かの国の声闘文化に屈しないためにも相手しないといけない
例えば
ドブローイ『波動と運動』
シュレティンガー『波動力学についての4講』
レントゲン『新種の輻射線について』
ダーウィン『種の起源』
これを挙げるのは単なる話題そらし
九州説の研究者だというなら、九州説の原著論文を挙げればそれで済むのにそれをせずに
周辺でグダグダ言ってるだけ
上記で挙げてある大家が、オリジナルペーパーを出してないと思ってるのか?ww
一般書も書いているのであって、業績の基本は原著論文だ
九州説の現役の研究者がいるなら、原著論文レベルのソースをつけて論じてくれと
スレ二つ分くらい前から言ってるのに、研究者の定義とか、シンポジウムの紹介とか
そんなのしかしない
この人は、かなりイタい人で、日本人とは道徳価値観が違うようだけれど、
いちいち反論しないといけないのが本当に面倒くさい
他所のスレから転載
>元産業能率大学教授の安本美典
⇒心理学者です、古代史は趣味でやってるだけで
基本的には門外漢の素人電波さんです
>佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長
⇒まともな学者は誰も支持していない九州説の中でも、
更にトンデモな吉野ケ里説の唯一の主張者です
ってか吉野ケ里遺跡に利権があって、観光客を呼び込みたいだけの人です
>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
⇒日田市で出土した弥生時代後期と主張されているけど、
実はどこでいつ発掘されたのかも不明な代物で
年代測定的に邪馬台国とは無関係なことだけは分かっている、
ってか贋作じゃねーの的な代物
もうひとつ
「会場の質を見れば語られる内容の真偽が想像できる…
こんなショボいシンポジウムの会場見たことねえよ。」 >>249
>三角縁神獣鏡 は日本製 チャイナでは出ない
それがな、斜縁神獣鏡は大陸でも出てるんだよ
例えば、これとか「張氏車騎神獣画像鏡」
http://livedoor.blogimg.jp/bfr4cadg/imgs/b/a/ba73498f50922bd0466f.jpg
日本で出土すれば、間違いなく三角縁神獣鏡とされるよ
そして、日本出土の三角縁神獣鏡の一番古いタイプは実は斜縁神獣鏡
これの外区1式というやつ
https://stat.ameba.jp/user_images/20150327/10/tskrtskr/cb/de/j/o0338045013257034783.jpg
ほかのたくさんある三角縁の鏡に連られて、斜縁のものまで三角縁神獣鏡と呼ばれている
言葉に引きずられて本質が見えなくなっている例だよ >>256
だから『研究者の定義』も『研究の発表の場』もそもそもお前個人の考えと世間の間に乖離があるのわかんねえかな?
ダイアモンドなんて『銃・病原菌・鉄』を発表するまで歴史学者としてカウントされてねえし、今でも生物学者とカウントされてたりする
ハラリも歴史学者で『サピエンス全史』を出しているが、そこに彼個人のオリジナルの学術論文がある訳ではない
更にいえば他スレのレスを引用しようがてめえ自身が「弥生時代の九州の研究者」と認めたのはどういう了見だ
もっと言えば、そういう主張をする研究者がいたところで何が問題なんだよ?それともあれか「現役の専門の研究者には畿内説しかいない」とでも言いたいのか? >>256
お前論理破綻しているのに認めねえ所が、かの民族そっくりなんだよ
まあ自身ではそれを毛嫌いしているあたり同族嫌悪だがな 斜縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だったのか。
謎はとけたぜ。
畿内説も安泰だ。 >>256
つうかオリジナルペーパーなるものをいちいち挙げて反論しろや
8人分全員のな >>256
まあ声闘を意識しているあたりお前自身がそういう出身だろう(皮肉) >>256
あとシンポジウムの質や研究者の質を問うてないレスツリーだという事を理解しような?
ここでの問題は質の良し悪しはどうあれ「量的に邪馬台国九州説を唱えている研究者がいるか」だからな >>256
いい加減に「畿内説以外にも現役で邪馬台国の所在地を唱えている研究者がいる」事を認めろや
こっちはもう大概赤ん坊のお守りは疲れてんだよ >>256
8人分の「書籍に記載している主張のオリジナル論文」だからなー
少しでも「オリジナルペーパー以外の主張が書籍に記載されている」ことがあったらアウトだから >>256
つうか一番大事なこと忘れてた
科研費を出している文部科学省は、学術論文以外の発表を奨励する事はあっても、これを卑下し障害になる事はねえから >>252
減ったのは関東
九州は縄文終始ほとんど人がいなかった >>256
で「畿内説以外の現役の研究者」はいるのいないの? >>256
さっさと答えて楽になれや
「畿内説以外の邪馬台国研究者」はいるの?いないの? 崇神から始まった邪馬台国は大和にあったが、九州から来て当初河内を根城にした応神王朝に滅ぼされた。
以上。 >>257
中国のどの地域から出てるか調べた?
魏の時代に魏の領域から出ていたかな?
神獣鏡が多く出土する地域と関連はあったのだろうが、それは中国のどこなのだろうね
まぁ、そもそも、三角の多くは布留1以降の墓からしか出土しないから、流行し始めたのは3世紀末〜にしかならんので、論外ではあるけど .
神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/
九州で決まったな すべての歴史学者に捧ぐ
古田武彦
はじめに
一九九一年八月三日、日本古代史上、重要な発言が出現した。木佐敬久氏の提言である。
(白樺シンポジウム、第三日)
氏は先ず、三国志の魏志倭人伝中にしるされた「 軍司令官、張政の倭国長期滞在」の記載に注目された。倭国の都(邪馬壱国)が隣国、狗奴国の攻撃を受け、危急に陥った。そのため、倭国の女王、 卑弥呼が帯方郡に救援を求めた。
帯方郡は、中国(当時は国号は魏)の政治・軍事上の拠点であり、現在の韓国の首都、ソウル近辺とされている。
このときの帯方郡の太守は王[斤頁]であった。彼は卑弥呼の求めに応じ、「塞曹[縁 糸偏nokawari手偏] 史」であった張政を倭国に派遣した。ときは、正始八年(二四七)であった。
倭人伝の未尾に、彼の帰国の記事がある。その帰国を送って、倭国の使が中国の都、洛陽に至った、その記事で倭人伝は終っている。その帰国年時は書かれていないけれど、彼の到来と帰国の間に、女王卑弥呼の死やそれにつづく
倭国内の混乱のあったことが書かれてあり、そのあと、年若い女王、壱与が倭国の王として即位したことが書かれている。
(この壱与の即位のさい、張政が“後立て”となっていたようである)
従って張政の倭国滞在期間が、かなり「長期間」にわたっていたことは疑いがない。
その上、晋書倭国伝によると、このときの倭国の使者の来訪は、魏朝をうけついだ、次の西晋朝の最初、泰始(二六五〜七四)のはじめだったことが知られる。その上、西晋朝の記録官の記載によると、
泰始二年(二六六)だったことが判明している。
従って張政の倭国滞在期間は、「正始八年(二四七)から泰始二年(二六六)まで」すなわち「二十年間」であったことが分かる。
問題の提起
以上の点を、木佐氏は指摘したのち、次の問題を提起された。
「倭人伝の最初に書かれている行路記事は、張政の軍事的報告書を背景にもち、中国側の軍事用の目的にかなうものとして、書かれているものと見なければならなぬ。
従ってそこに方角上の誤謬(たとえば、南と東のとりちがえ)や里程上の巨大な誤謬(たとえば、五・六倍の誇大値)があった、というような、従来多く行われてきた考え方は、ありえないと思う。
また何より、帯方郡から女王の都までの「總日程」が書かれていなければならぬ。 なぜなら、それなしには、中国側は、食糧の補給や軍事上の兵力増強などしようとしても、一切目算が立たないからである。」と。
いずれも、きわめて理性的な指摘である。一点の瑕瑾(かきん)もない。だが、この木佐提言によって、従来の「邪馬台国」論争の一切は、ふっ飛んだ。消滅したのである。
なぜなら、従来の論者は、あるいは「南」を[東」のまちがいとしたり(近畿説)、里程記事を〃五〜六倍の誇張〃としたり(近畿・九州各説)することによって、各自の目ざす地点へ「倭国の都」を引き寄せようとしてきていたからである。
その上、木佐提案によれば、もっとも肝心な眼目とされる「帯方郡から倭国の都までの總日程」を提示することができなかったのである。
これらはすべて、ありえざる解答、根本的な非現実的な解答にすぎなかったことが、木佐提言によって暴露されたのである。
これに対し、幸いにも、この提案を満足させえたもの、それは一九七一年に発表したわたしの 立場であった。
第一、方角にあやまりはない。
第二、里程は真実(リアル)である。
三国志は、秦、漠朝の里単位(一里=約四二五メートル)ではなく、魏・西晋朝の単位(一里=約七七メートル)によって書かれている。
第三、帯方郡から邪馬壱国までの「総日程」は四十日(水行十日・陸行一月)である。
以上の帰結は、「部分里程の総和は、総里程にならねばならぬ 。」という一事を至上命題とした結果、わたしの到達したところであった。そしてその帰結はすなわち、女王の都する邪馬壱国は“博多湾岸とその周辺”にあり、となす
回答へと、わたしを論理的に導いたのであった。「陳寿(三国志の著者)を疑わぬ 」立場だ。
はからずもこの、わたしの二十年来の主張は、今回の木佐提案によって支持されうる、唯一の回答となったのであった。 イト国は漢より金印を拝受した 漢字が通用していたと考えるのが当たり前の知性
当時の奈良には銅鐸が在った 橿原遺跡(かしはらいせき)は、奈良県橿原市の橿原神宮外苑にある。
少なくともその時期に当たる縄文時代晩期(紀元前)にはこの地域を中心に一つの勢力があったことが明らかになった。 ID:6WVDYetg
本当にすり替えしかしないな
オリジナルペーパーを示して九州説の現役の研究者がいることを示すのは
ID:6WVDYetgの責務だぞww
そんな簡単な論理も無視するやつが自分は留学したお偉いエリート学者で
ございって体で書き込みをしているのが笑える
でも大学教員ではなく大学職員らしいww 少し補足すると根拠にならないものを並べて認めろと言っても無意味
相手が認めるに足ると判断できるだけの根拠を示すのが、ある命題を論証する側の責務
今回は「九州説を支持する現役の研究者がいる」ことを認めろと求めているのが
留学エリ−ト君なんだから、それを認めさせるだけの根拠を示せばいい
その根拠として、「九州説を主張する査読付きオリジナルペーパー」があればでよいと
こちらは明確に示しているのだから立証責任のある留学エリ−ト君は、それを示しさえすれば
論破終了でいいよ
さあ、出したんさい? >>284
既に出している
出していないと思っているのはお前だけだ >>284
いい加減に負けを認めろや
どんな御託を並べようがお前にはその根拠がねえんだよ >>284
で、いつになったらオリジナルペーパーを出すんだ?
某野党野党でもあるまいに立証責任はてめえにあるぞ >>284
ダーウィンやホーキング、ドーキンス、ダイアモンドやハラリが「彼らの書籍では学術論文以上のことを述べていないこと」を証明しろ >>284
「九州説を主張する査読付きオリジナルペーパー」でないといけないと合意したつもりはねえからな >>284
つうか科研費の一つでも取ったことあるのかてめえ
そしたら学術論文以外の記入欄もあることを知っているだろう
知らないなら素人だから黙っておけよ こちらはすでにお前が研究者だと明言し特にその事に反論もしていない人物の書籍に九州説を主張している事を論理的に見せてんだよ
いい加減に将棋でいう詰み状態なの認めろや本当にみっともない >>284
で畿内説以外の研究者はいるの?居ないの? >>284
畿内説以外に居るのかいないのか
YESNOだぞ
はよしろ >>284
特別出血大サービス
「畿内説以外の現役の研究者はいる」
YES or NO >>289
お前が研究者の発表の舞台が査読付き学術雑誌だけというのも証明しような? つうかこういう論理的思考が出来ない輩が居るってのもちょっとこの業界触れたくないわ
俺の業界は医学生理学化学物理だから、こういう破綻者は生まれないもんなんだがねえ あ小保方とか居たか
まあゴッドフィンガーを擁護して発覚したら素知らぬ顔する業界だし、自殺して幕引きする方がマシか >>279
文字を使って中国と交流してたんだな
当然魏から金印をもらった邪馬台国は九州
一方近畿には邪馬台国を真似たヤマトー国があった >>308
魏志倭人伝には文字がないってあるから別勢力じゃね?
半島由来の勢力とか >>309
文字がないって独自の文字がないってことだろ
文字を使えなかったら使節を送って金印もらうとか無理だろ
親書とか誰かが書いたんだから 要するに文字を使った痕跡のない大和勢力は大陸と直接交流がなかった
金印をもらった邪馬台国ではない >>308
旧唐書にはかつて小さかった大和が
倭国を併合したと書いてあるし、戦争したとは書いてないから大和は倭国の親戚だろ
恐らく7世紀頃に無血開城のような事があったとしか考えられない >>279
朱印船の元祖みたいな物が弥生末期にあったのが胸熱
文字や文でなくても印が押せれば良いし○×みたいなマークでも十分機能的に使えたはず
特に交易では無いと考える方が不自然だね
しかし場所が絶妙だなw そういう交易を中心に九州北部が発達して邪馬台国に発展したと考えると自然だな
伊都国にいた一大率が交易を牛耳っていた可能性もある >>312
記紀には6世紀に磐井の乱があったと書いてある
「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」 大規模な戦争ではなくクーデターのようなものだったとする説がある
磐井が半島への出兵をする際に大和側が加勢を送るフリをして誅殺したという説 >>316
磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。
これはどう言う意味? 投馬国5万戸って25万から35万人だよね
いまの島根県68万人切った。。。 九州 倭国の天皇だった磐井が 継体の裏切りで暗殺された
奈良政権の広告塔 日本書紀では嘘を書く 歴史好きだから興味のある話題だったけど、地域の誘致合戦の色合いが強すぎて
関心がなくなった。 >>315
畿内説によれば卑弥呼の時代にはヤマト王権が伊都国に一大卒を置いて九州北部をガッツリ抑えてたはずなのになw
いったいどうしちまったんだ畿内説? まさか、一大卒が磐井で生意気こいて反乱起こしたのかなw 700年以降白村江の戦いで敗戦し滅亡した和国の紀元前からの歴史を 自己のものとして成りすました
奈良政権 其の証明として日本書紀をつくったが皇国史観の呪縛が解けるにつれ襤褸が出始め
人々は正しい歴史を知りはじめた >>317
近江毛野の出自はよくわからない
一説には秦氏と繋がりがある渡来系らしい
近江毛野は結局筑紫を討たなかった
結局君主である筑紫を討つのを拒否したんじゃないかね?
その理由は記紀に書くことはできないので、逆に同じ釜の飯を食ったなどと表現して同格である事を強調してるとか 邪馬台国の会の出している季刊邪馬台国に寄稿している人を研究者とは言わないんだよ
そして、研究者としての質は問わないとか論外
留学エリ−ト君が研究者と呼べるものではないことを確認しただけだな
こちらが示している研究者の定義は、プロの世界ではスタンダードだ
そこから話をそらして、自分とお前では研究者の定義が違うが
それは平行線といってごまかしている時点で、留学エリ−ト君の論旨は破綻している
まあ、安本美典氏が研究者と言いたいならなにをか言わんやってことだ
<*`∀´> 徴用工さまに、さっさとカネ払うニダ!
戦犯国の日本人は、永久に犯罪者ニダ!
広島長崎の原爆は、戦犯日本人への天罰ニダ!
偉大な韓国さまに、1000年後も謝罪と賠償つづけるニダ!
道徳的に劣った日本人に、指導してやるニダ!
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/aa/3cd4ff77cd2a2f91403cb2da7d7c7336.jpg
【祝】台風と地震で日本人がいっぱい死んで超うれしいニダ〜!
<ヽ`∀´>〜♪ 崇高偉大なる大韓民国さまは、国を挙げて
日本の地震・豪雨・猛暑・台風を【お祝います】ニダ〜!【祝】
<ヽ`∀´>「今日もお酒が美味しいニダ! ホルホル〜♪」
<ヽ`∀´>「日本人もっともっと死ねばいいニダ〜!」
<ヽ`∀´>「戦犯国の日本なんか沈没すればいいニダ〜!」
<ヽ`∀´>「日本人の不幸だけが生き甲斐ニダ〜!」
<ヽ`∀´>「新聞は朝日新聞が一番ニダ〜!」
<ヽ`∀´>「在日韓国人さまに選挙権を与えるニダ〜!」
<ヽ`∀´>「日本人は選挙で立憲民主党に投票するニダ〜!」
<ヽ`∀´>「在日韓国人さまへの生活保護を増額するニダ〜!」
<ヽ`∀´>「日本と通貨スワップを結んでやるから急ぐニダ〜!」
<ヽ`∀´>「日本人は永久に謝罪と賠償を続けるニダ〜!」
崇高偉大なる「世界13大経済強国」の大韓民国さまが
哀れな戦犯国の日本と【通貨スワップ】を結んでやるから
日本人は土下座して、全力でお願いに来るニダ〜!
ID:6WVDYetgみたいなレベルの低い人間が留学エリ−トの研究者だって名乗ったりするのは、
研究者の権威を下げて、14C年代測定とかを信頼できないというための深謀遠慮なのかな?ww >>329
で挙げられている8人の研究者が「学術論文以外の主張を書籍でしていない」証明はまだ?
つうかダーウィンの『種の起源』は初出だし、ドーキンスの『利己的な遺伝子』のミームという概念もこの本で初出
ついで言えばシュレティンガーの4講なんて講義をまとめたものだからな
まあもう答えなくてもいいわ
どうせ無駄に足掻くだけだし
簡単に聞いてやる
「畿内説以外の現役の研究者はいるのか」
YES?NO? >>329
つうか趣味道楽の人が何故プロを語ってんの?
嘘ついたの? >>333
自然選択やミームって学術論文で誰にも主張されていない概念なの? >>335
初出でないことを証明するのは簡単です
それより前のものを出せばいいのです >>336
初出が学術論文かどうかを誰が問題にしてるの? >>337
「研究者は学術論文以外にもその考えを主張する媒体がある」
この命題が真か偽かを争っている名無しがいましてね
あなたはどう思います?
百済新羅は、まだいまだに、どのような言語であったか不明
百済新羅には、文字も宗教も道徳も無かった
百済新羅は、ヤマトに朝貢していた
百済新羅からの朝貢品に、俘囚すなわち捕虜、戦争せずとも平和時に生きている奴隷の献上
朝鮮半島にいたのは、大昔も今も変わらない
扶余、すなわちツングースの、野生獣肉食である狩猟原始人がいただけだ。
朝鮮人韓国人というのは、生まれながらに悪質だ
朝鮮人韓国人ほど悪質な人種は、地球上にいない
朝鮮人韓国人には、文字も宗教も道徳も無かった
朝鮮人韓国人は、けっして相手にしてはいけない
朝鮮人韓国人は、暴力で排除しなければいけない
>>338
学術論文以外にも考えを主張する媒体があるとして
自然選択やミームって学術論文で誰にも主張されていない概念なの?
初出が学術論文かどうかを誰が問題にしてるの? 倭国と日本
旧唐書の倭国伝、日本国伝は、従来の歴史学者が主張してきた、いわゆる「定説」Dogma とは、根本的に対立する歴史像を記載している。それに拠ると、後漠の光武帝に金印を授与され、魏朝から卑弥呼が金印を授与され、
さらに隋朝の楊帝と対等に国交を結ばうとし、その結果、唐朝と白村江で一大交戦を行い、
完敗した「倭国」は、一貫して九州の地にあった。
これに対し、白村江滅亡後の「倭国」を併呑し、八世紀以降の日本列島(西半分)代表の王者となったのは「日本国」であり、上の「倭国」とは別 国である。本来、その「倭国の別種」であった。これがいわゆる「大和朝廷」であり、
現在まで“伝統”する、近畿天皇家の歴史である。ーー以上だ。
これは、従来の日本の大部分の古代史家が、三世紀もしくは五−六世紀以降の歴史を、たえず「近畿天皇家中心」に描いてきた歴史像と全く矛盾する。従来は、天皇家以前に、
「先在王朝の存在」を承認する歴史家などは、少なくとも大学の学者たちの中に見出すことは困難だったのである。 しかし、
その存在を、旧唐書は明白にのべている。わたしは従来、この旧唐書の記載する歴史像をもって、歴史の真実に適合するものと見なしてきたのである。 >>340
ちなみにダーウィンの『種の起源』では彼の持論の初出です
勿論歴史を紐解けば彼の祖父や、同時代の他の研究に影響を受けた事は否めません
ドーキンスのミームという造語は明らかに初出です
勿論それまでにそのような概念が無かったとは言いませんが、それを始めて言語化し名詞を与えたのです
で言い争いをしている相手は「九州説を唱える現役に学者はいない」と前スレから主張しているものです
詳しくはその人とのレスツリーを辿ってください >>342
それで
自然選択やミームって学術論文で誰にも主張されていない概念なの?
初出が学術論文かどうかを誰が問題にしてるの? >>343
?
何故同じ質問を繰り返しているのかわかりかねますが、勿論ダーウィンの進化論もドーキンスのミームも、その後一大研究分野となり学術論文が多数出た事は事実ですが、それによって「研究者の発表の舞台は学術論文以外にもある」という命題が偽になりますか?
争っている相手はレスツリーを参照ください >>346
九州説だけじゃないですよ
畿内説も他の地域を主張している研究者の本もあります >>347
自然選択説やミームも同じように九州説でも学術論文は出てるの? >>348
学術論文への異常なこだわりが面白いですねえ
KAKENで調べたらそういう研究課題があったかわかりますよ
勿論これから採択され、論文になる可能性は否めませんよ
原始信仰シャーマニズムのカルト邪馬台国などという
虚偽の存在自体が、我が国の 恥 である!
シャーマニズム原始信仰朝鮮信仰 の邪馬台国など
というもの自体、我が国とは全く何の 関係も無い!
魏志倭人伝 の位置に虚偽の妄想しまくっている者どもは、
敵国である 朝鮮半島系のヤカラであり、工作員スパイである!
朝鮮人である安倍が、G7の首脳を伊勢神宮に招いて( 恥! )
現在、訴訟を起こされている!
原始信仰シャーマニズムである朝鮮信仰の
神道などというものは、 明治以後の捏造である!
原始人シャーマニズムの朝鮮半島とは異なり、
我が国は古来、文字文明の国である!
仏教やキリスト教という世界公認の宗教が、我が国である!
>>350
そうですねえ検索しても少なくとも今は無いようですねえ
ただ面白い事に吉備説を唱える松木武彦や畿内説を否定している小澤一雅あたりはKAKENで検索して、研究費を貰ってるようですねえ >>353
今はないからといって今後も無いとは言えませんよ 政・宗・満の法則
今回、新たな証言が見出された。
その一は、「郭務[心hen宗]の証言」である。彼は唐朝の部将である。天智十一年(六六二)の白村江の完勝直後(九ヶ月あと。天智二年)、日本列島に派遣された。そして七ヶ月間滞在した。翌年(天智西年)再び来訪し、
五ヶ月間滞在した。そしてその年の十二月に帰国している。
すなわち、白村江で完敗した「倭国」へ、勝利者側の使者として三度来訪した。第一回は、中国の百済占領軍司令官、劉仁願の命、第二回は、唐朝の天子(高宗)の命による来訪であった。第三回(天智十年)も、同じである。
その軍事的・政治的報告書が資料の一となって書かれたもの、それが旧唐書の倭国伝であること、この一事は疑いがたいところであろう。とすれば、張政の場合と同じく、大筋において、
その「倭国」観を疑うことは不可能ではあるまいか。なぜなら、期間こそ、各何箇月にとどまりこそすれ、激しく交戦した相手国「倭国」の本体をとりちがえる、などということは、およそありえないからだ。
すなわちこの「倭国伝」の所述は、真実(リアル)である。そのように判断する以外の道はない。
その二は、「阿倍仲麻呂の証言」である。彼は「日本国」すなわち近畿天皇家の使者(遺唐使)として、八世紀初頭、唐朝に渡り、その後、「帰化」して唐朝の上級官僚として用いられ、
都(長安。今の西安)に「五十年」滞在した。そしてその地に没した。その旨、「日本国伝」に明記されている。
とすれば、この「日本国伝」の記載が、他の誰人より、この仲麻呂(中国名、仲満ないし朝衡)の情報乃至“裏づけ”によった、と考えて疑いはない。
とすれば、この仲麻呂が国家の大体(「倭国」と「日本国」との関係)について、全くの錯誤を犯していた、などということは、ありうる話ではない。人間の理性に拠る限りは、これ以外の理解の道はないのである。
すなわち、旧唐書の[日本国伝」の記載は、真実(リアル)なのである。以上、三つの証言をあわせ、その指摘する歴史像を、真実な、日本の古代史像の根幹とすべきである。これを「政・[心hen宗]・満の法則」と呼びたい。(張政・郭務[心hen宗]・仲満)
もしこれを非とし、古事記・日本書紀のしめす“大義名分”の立場(近畿天皇家中心の一元史観、"Tennology" と呼ぶべき、現王朝中心主義のイデオロギーの立場)を是とする学者、なおありとすれば、以上の論証のいずれが非か、
それを明らかにしてあとになすべきであろう。それが人間の理性と良心ある歴史学者に課せられた、本質的な義務ではあるまいか。 >>356
あ、すみません
KAKENでヒットした研究課題の研究代表者に九州説いましたわ
中堂観恵って人
あと三木太郎がKAKENでヒットしたが、こっちはわからないですねえ >>357
その人は学術論文で九州説を主張してるの? >>358
学術論文に異常な拘りを見せているようですが、何故ですか?
「KAKENから研究費を貰うためには学術論文が必要」だし、「研究費を貰ったからには必ず学術論文で発表する必要がある」とでもお考えでしか? >>359
それで
九州説は学術論文で主張されてるの? >>360
尻尾出すの早すぎですねえ
「九州説を唱えるのに学術論文は必須ではない」事がわかりませんでしたか?
それともKAKENで採択されようがそいつはアマチュアで研究者ではないと? 中原&佐川「今は学術論文ないけど今後もないとは言い切れないぞ」
オルシェフスキー「一理ある」 >>362
ソーカル事件ってのもあります
現場の人間なら査読の弱さも知っている
だからこそ科学系雑誌は国内誌よりも国際誌を重要視する
それでも絶対ではないですがね 邪馬台国の真実
研究課題/領域番号 X00220-----90412
研究種目 奨励研究(B)
配分区分 補助金
研究分野 歴史
研究機関 赤城宗徳事務所
研究代表者 中堂 観恵 赤城宗徳事務所
研究期間 (年度) 1975
研究課題ステータス 完了(1975年度)
配分額 *注記 100千円 (直接経費 : 100千円)
1975年度 : 100千円 (直接経費 : 100千円)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-X00220-----90412/
本当に現役なんか >>365
KAKENで九州説が採択されていたかどうか、これからされうるのか、という話の流れで出したものです
現役の研究者としては提示してませんよ >>366
仮に無いからといってどうだと言うのです? >>369
まだお分かりになってないようだ
あなたが「弥生時代の研究者だと認めた人物」が「邪馬台国九州説を唱えている」
これが全てです そもそも疑問なんですがね
たとえ畿内説以外の研究者がいたとして何が問題なんですか
むしろ沢山の説があった方が健全ですよ
少なくとも万人が認める証拠が出揃う迄はね 九州説は観念上の存在で立証しようがないわな、、。一方で畿内説も状況証拠ばかりで決め手はないよね。
その点は永遠の有力説止まり。それどころか、纏向は出ちゃいかん物まで出る始末。
思わせぶりだが絶対に卑弥呼の墓じゃないのが箸墓。畿内説もそろそろ別の場所掘らないと息切れするぞw >>371
その「あなたが認めた人」?は現役の研究者で九州説の学術論文を出してるの? >>373
私は門外漢なので、カールポパーの反証可能性に照らして、沢山の派閥が切磋琢磨しているのは微笑ましい
今回初めてこの業界の科研費の状況を検索しましたが、色々な立場の研究者を採用していてここからも、国としてはまだ決定してないのが伺えます
なので、自分の説と相容れないからといって無き者にする態度はどうかと思ってる次第です >>372
他の説があってもいいですが、畿内説以上に合理的な説はありません。
九州説は論外です。
四国説は、ちょっと面白いけど。 >>374
こういう人は研究業界では不健全そのもの
相手の説(九州説)を叩き潰したいなら、いちいち反証してやるものであって、相手を蔑ろにするものではないですよ >>376
論外なんですね
たしかに論が稚拙なのかもしれないですね、私にはわかりませんが
ただ、論が稚拙だからといってそういう研究者はいないと無き者にし罵倒、蔑ろにするのは違います
あくまでも仮説VS仮説です。そこにその仮説を唱える研究者を消すような、まるで地動説を消そうとする教会のような態度はダメですね >>380
心理学者の安本美典と佐賀城本丸歴史館の七田忠昭館長って邪馬台国九州説の現役の研究者なの? >>381
>>995
>>>980
>>常松幹雄、七田忠昭、安楽勉、中村幸史郎、北郷秦道
>この諸先生方は、弥生時代の九州の研究をしている
と言ってた人が居ましてね >>382
その人たちは邪馬台国九州説の現役の研究者なの? >>383
また堂々巡りですか
まあもう殆ど言いたいこと言ったんで飽きてきたところですが
本当に聞き分けの悪い餓鬼みたいですよ
これ以上言うこともない
あなたにとって研究者というものは些か世間とは乖離しているようだから、象牙の塔で篭っていた方がいい >>384
堂々巡りって>>382の人たちが邪馬台国九州説の現役の研究者だといつ示したの? >>385
(常松幹雄)
邪馬台国は、3世紀の第1四半期に、北部九州から畿内へ首都移転が実施されたと考えています。
(七田忠昭)
邪馬台国は、倭人伝の記述や、中国古代城郭の影響をつよく受けた集落構造、中国の権威を帯びた鏡や刀の出土などから吉野ヶ里遺跡を擁する佐賀の神埼地方にあったと推定します。
(安楽 勉)
九州北部の「伊都国」には巫女王が存在していることが知られており、倭国王ヒミコとかんがえれば、この地が主体となって連合し、畿内に初期ヤマト政権を樹立したことが考えられます。
(中村幸史郎)
邪馬台国は菊池川流域です。
(北郷泰道)
邪馬台国を都とする倭国の範囲は、大きく見ても北部九州から中国・四国の範囲。
はじめかから「畿内説」など、『三国志』の記述の外。そして、日向は卑弥呼に背を向けます。
「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム」【私の邪馬台国論】 >>387
かの人物は既に「弥生時代の九州の研究者」だと明言しています
邪馬台国の位置は論争がありますが、時代区分は弥生時代末期に含まれています
その上邪馬台国九州説を唱えている
これでまだ納得しないようなら、そもそも納得する気がない宗教の狂信者のそれです >>388
弥生時代の九州を研究している人が邪馬台国は九州にあったと言うと
邪馬台国説九州説の研究をしていなくても邪馬台国九州説の研究者になるの? >>389
吉野ヶ里遺跡の研究者がそこが邪馬台国であると、自身の研究から導いてるのです
それ以上に何が必要ですか? >>391
これを邪馬台国九州説の研究ではないと断言するなら、もはやごねているだけとしか言えないですね >>392
それで邪馬台国九州説の研究はしてるの? そもそも邪馬台国九州説の研究者を消そうとする意義がわからない
それで畿内説が揺らぐ訳でもあるまいに >>393
邪馬台国九州説の研究というんですよ
あなたが頑として認めないだけで >>396
『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』 七田忠昭 著 >>397
具体的に邪馬台国九州説のどんな研究なの? >>398
気になります?気になります?
どうしても中身が気になるなら、お近くの図書館なりで読んで下さい
あなたは敵情視察もすれば良いと思いますよ
まさか敵の内情も碌に研究してない訳ではないですよねえ >>400
>>109
まあこのやり取りで九州説の敵の情報を碌に仕入れてない事がわかったな >>402
困った、文盲でしたか
「いまあらためて発掘成果と『倭人伝』の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」。
とまあ吉野ヶ里遺跡での発掘成果と倭人伝とを用いた研究ですねえ
これくらいは読み取っていただけるものかと思ってましたが、過大評価だったようだ >>404
あなたのいう「具体的な研究内容」とは?
わかりやすく例示してください >>405
具体的にどの発掘成果のどの部分と倭人伝の記述のどの部分を具体的にどう比較検討したら具体的に共通している点はどの程度あってそうでない点はどの程度で
それらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>406
本書は5章構成で、1〜4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。
その中で両者の共通点として、@弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する
A卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている
B鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。
だそうです。
説の真偽についてはまた別の人と争ってください >>407
そうでない点はどの程度でそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>408
自分でどツボにはまっているの気が付きません?
詳細は本を読んで下さい
このやり取りの中において著書の細々とした記述は重要ではありません
あくまでも著者がそのような研究を著述しているかどうかです >>409
今のところ共通点を列挙していることしか示されてないけど
単に共通点を列挙するだけが研究なの? >>410
共通点を見出すのも立派な研究活動の一環です
もちろん反論に耐えうるよう様々な視点から研究することも大事ですが、これだけで「研究ではない」と断言することは不可能です >>411
単に共通点を列挙しただけで研究だと断言できるの? >>412
研究活動の一環だと断言出来ますよ
これを否定するようなら研究活動そのものについての認識にも違いがあると確認するだけですね >>413
研究活動の一環として共通点を見いだすことがあると
共通点を見いだしただけで研究したことになるの? >>414
それは語弊がありますね
共通点を見出す事で自身の主張する説の確からしさを高めるのです
もっと言えば、そもそもどうして共通点を見出す事が出来なのか
それは発掘研究や倭人伝などの第一次資料の研究に基づいています >>415
共通点を見いだしただけで研究したことになるというのは語弊があるなら
そうでない点はどの程度でそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>416
語弊があるいうのは「共通点を見出しただけの研究」という点です
この研究は「発掘研究や倭人伝などの資料研究を通じて共通点を見出し、九州説を主張した研究」だということです
「だけ」といのは過小評価です >>417
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? まぁ年代で決まるわな
九州は大陸やし卑弥呼の墓が出てくれば終わる話何やけどな >>418
そのような詳細な情報が今ここで必要ですか?
その必要性を説明してください >>420
発掘成果と倭人伝の記述を不明な方法で資料研究していくつかの共通点と不明な数のそうでない点を見いだし
それらの点を不明な考察をした結果として邪馬台国は九州にあったという主張をすると
一般的にそれが研究として認められるものなんですか? >>421
方法は直接原典に当たるべきです
非共通点もそれを元に対象の論者を説き伏せてばいいだけです
考察の詳細も同じく原典に当たるべきです
ここでは>>407以上の情報は瑣末です
そして一般的に十分研究活動とされるものですよ
発掘調査研究や資料研究が研究活動ではないというのなら別ですがね >>424
つまり共通点を列挙した以外は全て不明で何も示せないということ? >>425
そうは言ってないですよね
少なくとも「共通点を見出すような研究をしていた」それだけです
それ以上の事は原典に当たってください
もっとも、「発掘調査研究や資料研究は研究ではない」というのなら別ですが、これらの研究は真っ当な研究活動だと合意出来ますよね? >>426
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたのか示せないけど
不明な方法で資料研究したはずで不明な方法で考察したはずだから共通点の列挙以外不明でも研究だということ? >>427
もう一度聞きますが>>407以上の情報が必要ですか?
詳細は原典の本を読めばいいんですよ 研究者が一般向け書籍を書くことがある、というのは真だけれど、
一般向け書籍を書いたらその人も研究者、というのは真ではない
研究者は査読付き論文で評価されるのであって、
九州説の立場で書かれた近年の査読付き論文が示せないのであれば、
九州説の現役の研究者はいないということになる
これは悪魔の証明でもなんでもなくて、
「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」で
反証終わりになる極めて構造の単純な命題
これをせずにガタガタ話をそらし続ける留学エリ−ト君が、研究者だとはみなしていない
というか、どう見ても違うだろって話 >>429
つまり
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたのか示せないけど
不明な方法で資料研究したはずで不明な方法で考察したはずだから共通点の列挙以外不明でも研究だということなんだね >>430
では七田忠昭は研究者ではないと?
自身の言を翻すのか?
そもそもが七田忠昭を「弥生時代の九州の研究者」だと認めたところから出発しているのに >>431
そもそも七田忠昭が「弥生時代の九州の研究者」であると合意できるか? >>403
>困った、文○でしたか
方々で言ってるんだけど「非識字者」というように >>386の文章でググったら、そのシンポジウムを見に行った人のブログがヒットして
こんなことが書いてあったよ
「○パネリストを一見すると、沖縄を除く九州各県の考古学者が勢揃いして、さぞ盛大に邪馬台国論争が
行われたかのように思われるが、実際は寂しい内容であったと言わざるを得ない。と言うのは、
各パネリストの主義主張にしたところで、以下の【私の邪馬台国論】のようなものに過ぎず、
邪馬台国に関して、パネリスト自身に格別興味関心があるわけでもない。何か、来たくも無い
ところに無理矢理引っ張って来られたかのような印象さえ受けた。パネリストのシンポジウムに
対する熱意をまるで感じなかったのは私だけではあるまい。七田忠昭氏だけが唯一人、吉野ヶ里説を
力説された程度であった。」https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31684362.htmlより引用
七田忠昭氏は吉野ヶ里遺跡の発掘に佐賀県庁職員として「行政の立場」で関わった方
で、今でも吉野ヶ里邪馬台国説を唱え続けているけれど、吉野ヶ里を邪馬台国だという人は
このスレに出入りしている九州説の人にもいない
吉野ヶ里は時代が異なるから邪馬台国ではないというのは常識
他の人も書いてたけど、元県庁の人として、吉野ヶ里遺跡の「観光客の動員」に
一番の興味がある人だよ?
この方を現役の研究者で九州説っていいはるのにどれだけの意味があるんだい?
原著論文、書いてないし >>435
では七田忠昭が「弥生時代の九州の研究者」では無かったと自身の言を翻すと? >>434
つうか横レスで「非識学者」と言うのって何?
学者でも研究者でもない。趣味道楽の人じゃなかったの? 「文○」なんていう用語を平気で使うような人は、
高学歴の人にはほぼいない 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で51も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>438
>>439
で「非識学者」って何?「非識字学者」?
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?違うの? 二、卑弥呼の墓
次は卑弥呼の墓についてお話しします。
2009年5月29日に、NHKや民放各局それに新聞各社が一斉に、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表によるとして、奈良県桜井市にある
箸墓古墳(全長280メートル)が卑弥呼の墓の可能性が強まったとして報道されました。
それは同古墳の傍らから出土した土器が、
「放射性炭素(C14)年代測定法」により西暦240〜260年の物と測定されたことにより、卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場し、死亡した年代が一致した、としております。
それでは、卑弥呼の墓について、「魏志倭人伝」には一体どのように記されていたのでしょうか。
「卑弥呼以て死し、大いに冢ちょうを作る、径百余歩。」
とあります。これを箸墓古墳に当てはめて見ます。先ず、「径」とは円の直径を意味しますので、円墳でなければなりません。前方後円墳である箸墓古墳では全くおかしいことになります。
そのため発表では円形部分だけを指すと言っております。
その円形部分はおよそ150メートルなので、「百余歩」ですから一歩は約150センチメートルとなります。
皆さんこのような歩幅で歩けますか。とんでもないですね。そこで何と言っているかと申しますと、片足を一歩出しそれが75センチメートル、次いでもう一歩出して75センチメートル、つまり両足動歩で一歩とするのです。
ところが、この時代の中国では一里が300歩、一歩はその300分の1。そして、一里は77メートルの短里なので、一歩は約26センチメートルです。従って、卑弥呼の墓「径百余歩」とは、26〜30メートルとなります。
もう一つ「魏志倭人伝」に次の記述があります。それは、倭人の風俗を記した箇所に、
「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛りあげて冢をつくる。」
とあります。中国では、冢は墓よりも小さいものを指しています。そのことを示す有名な言葉があります。すなわち、三国の一翼を担う「蜀」の皇帝劉備玄徳は、白帝城で己が死に臨み、
「墓を造ることなかれ、冢で良い」と言いました。
つまり冢は規模とすれば塚です。
また、「大いに」の意は「大きい」ではありません。「大いに励む」とか「大いに○○する」で、「一所懸命○○する」の意です。これも勘違いのもとになっているのでしょう。
これらのことから、卑弥呼の墓は、箸墓古墳などの巨大古墳では決してありえないのです。
三、卑弥呼の鏡
次に、卑弥呼が魏の皇帝(明帝)から下賜された「銅鏡百枚」についてお話し致します。
通説は、日本各地から出土している、景初三年銘の「三角縁神獣鏡さんかくえんしんじゅうきょう」がそれである、とされています。果たして真実でしょうか。古田氏は次のように述べておられます。
魏の明帝は景初二年に死去しているので、景初三年はない。これを徹底検証の上、この種の鏡は中国本土からは一枚も出土していないことからも、中国製ではなく日本製である。10
と、そしてその後、中国の学者・王仲殊氏 11 も、三角縁神獣鏡は中国鏡(魏鏡)ではなく、日本製鏡である。
それにもかかわらず、「邪馬台国」近畿説の人たちは、今でも、この鏡が出土すると、「これは卑弥呼の鏡」とマスコミを煽り、大ハシャギをするのです。魏の皇帝から貰ったのは100面です。
ところがそれは、日本国内で既に700面以上も出土しております。これは出土している分だけなので、地下に埋もれているのは、
その何倍もしくは何十倍と考えなければならないでしょう。
それも殆どが近畿地方出土です。それに対して国内で170面ほどある漢式鏡(中国製)は、筑紫(福岡県)からの出土が圧倒的です。通説の「卑弥呼の鏡」は、もはや論理の外にあると言っても過言ではないでしょう。
なお、この他の考古学的遺物として、魏の皇帝(明帝)から下賜された絹がありますが、この時代のものとして出土する所は糸島・博多湾岸の王墓のみで、近畿地方からの出土例はありません。 "Galileo Gambit"とはインテリジェントデザインや創造論運動のような否定論や疑似科学の支持者たちが使うことがあるレトリックである。
このレトリックは、重要な科学理論は提唱されたときはdisられたことを指摘する。一般に使われる例は地動説である。
この詭弁を使う者は、自説をガリレオの地動説と並べた上で、
同様に、自らも、よく検討されずに拒否された有効な理論を発展させているのだと主張する。
彼らはまた、自らの理論を拒否した人々を、意固地でヴィジョンがないやつだと主張する。
このGalileo Gambitの初出Respectful Insolenceによる。
専門分野では、"Semmelweis Gambit"[イグナーツ・ゼンメルワイス]のような他の用語が同様のレトリックに使われる。 >>440
>で「非識学者」って何?「非識字学者」?
また教養のなさをさらけ出してる
>>434を再掲
「方々で言ってるんだけど「非識字者」というように」
「非識学者」ってなんだよ? >>444
あー非識字者な
字が学に見えてたわ
つうかディスレクシアdyslexiaの方が俺は親和性高いんだわ
留学していたもんでな
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>444
つうかグーグル検索でも「ディスレクシア」で22万件
「非識字者」で2万件だしなあ 俺は中国地方民だけど、九州説は無いと思う
邪馬台国は当時の中国の発音では「ヤマド」国と
読むらしい 後のヤマト「大和」じゃん 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で54も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>448
一方で文盲と言うな!非識字者と呼べ!
と言いながら、もう一方で他民族を馬鹿にしてダブルスタンダードな偽善者だな
で、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>445
dyslexiaと非識字者は別の概念だぞ
dyslexiaは学習障害、あるいは高次機能障害の一類型で
非識字者はilliteracyの訳語に視覚障害者を指す言葉を使うのがよくないとして
使われるようになったもの
非識字者をilliteracyではなく、dyslexiaだと思う時点で、英語圏の教養がないことが丸分かりだし、
英語圏で高等教育を受けていたらpolitical correctnessにもっと敏感でなきゃおかしい
ID:+SVnnjTfは騙りだとしか思えないw 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で55も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>450
ところが欧米のテストの回答用紙にはDyslexiaかどうかをチェックする欄があるんだよ
お前留学してたならそれくらいわかるだろう
グーグルでも”Dyslexia”で検索すれば1億5千万件ヒットするが、お前はこれを超えるような「一般名詞」を知っているのか?
つうか海外のテスト用紙も見たことなさそうだな
もし本当に”Dyslexia”を超えるような名詞が使われていて、テスト用紙にも乗っていたのならそれを提示しろ
>>451
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」かどうか、はやく答えろや >>450
ちなみに”illiteracy”はたかだが800万弱だったがな おっと1500万件だったわ、まあそれでも倍近くじゃねえか >>450
ついでにこれらはもちろんDSMに関わるんだが、
"illiteracy" "DSM"では6万件
"Dyslexia" "DSM"では38万件
つうか、"illiteracy"をDSMで診断出来るの? >>458
せっかくのソース悪いが、そもそも「文盲」を「視覚障害者」の意味で使ってねえから
そもそものところから違うんだよ
まあここ数日ずっとなにもかも平行線をたどっているんだけどな >>450
「A Review about Functional Illiteracy: Definition, Cognitive, Linguistic, and Numerical Aspects」 Reka Vagvolgyi
いやーちょっと勉強したら"functional illiteracy"と"Dyslexia"は違う脳機能が原因かもしれないらしいねえ
まあそれもまだ基礎研究の段階でコンセンサス取れてねえけど
"illiteracy"じゃなくて”functional illiteracy”を使えと言われたら、まあ一考したが、そもそも言われてねえしなあ
やっぱ”今はまだ”dyslexiaと文盲と呼ばせていただきますわ。
あ、日本語では「機能的非識字」らしいねえ
こっちなら腹に落ちるわ 「区間里程」概念図 邪馬壱国の行程図 合田洋一 『奪われた国歌「君が代」』古田武彦より
(2) 「部分と全体」
「倭人伝」には、魏使が行く国と国の間の里程が詳しく記載されています。そこで、その国と国の部分里程をすべて足した里程は、総里程(12000余里)となります。つまり、部分の総和=全体です。
このことから帯方郡治(韓国・京城附近)から不弥国まで、「魏志倭人伝」に記された部分里程を全て足した里程は10700余里であって、総里程12000余里に1300里足りないことが解りました。従来説は足りないまま論証していたのです。
このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」12 により、対海国(対馬・
下県郡)800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を見つけることが出来たのです。
次に「水行十日・陸行一月」については、「水行十日」は帯方郡治より邪馬壹国までの海路の総日程であり、「陸行一月」は帯方郡治から邪馬壹国までの陸路の総日程だったことを証明しました。
従来説は不弥国から邪馬「台」国まで「水行十日陸行一月」と解釈していたため、女王国の位置が遥か彼方の国内および国外に比定することになってしまったのです。
また、不弥国から邪馬壹国までは、里程が書かれいないため、これも大きな混乱を招く要因となってました。それは、「部分」の「区間距離」が不弥国で終わっているからです。
つまりその区間の里程は「0」 であり、従って「0の論理」により不弥国は邪馬壹国の玄関であった、と位置付けました。
そして、朝鮮半島内の里程は、「魏志倭人伝」の記述「韓国を歴ふるに乍たちまち南し、乍ち東し、その北岸狗邪韓国こやかんこくに至る7000余里」を忠実に読んで「階段式読法」で算出しました。右の古田説の論証をまとめて見ますと、次のようになります。
帯方郡治 -- 狗邪韓国(朝鮮半島内、水・陸行)7000里
狗邪韓国 -- 対海国(水行) 1000里
対海国(半周、陸行) 800里
対海国 -- 一大国(水行) 1000里
一大国(半周、陸行) 600里
一大国 -- 末盧国(水行) 1000里
末盧国 -- 伊都国(陸行) 500里
伊都国 -- 不弥国(陸行) 100里
不弥国 -- 邪馬壹(玄関) 0里
以上、帯方郡治から邪馬壹国までの総里程 -- 12000余里。総日程 -- 水行十日・陸行一月となります。
この陸行一月は、魏使が自らの足で踏破したものであり、当時の「魏」は既に「一倍年暦」であるので実数です。もしこれが倭人からの伝聞であるならば、「二倍月暦」(月の満ち欠けにより半月で一ヵ月)で半月という考え方にもなるのです。
なお、狗邪韓国は韓国南岸にあった倭人の国。末盧まつら国は松浦湾の唐津附近。このほか傍線行程として、伊都国 ーー 奴国100里。不弥ふみ国 ーー 投馬つま国水行二十日。投馬国は薩摩国の現・鹿児島市近辺。
また邪馬壹国との交戦国狗奴この国の所在地は、「銅鐸王朝」圈内(河内国・摂津国辺りか)にあり大阪府交野かたの市にある交野山このやまの「この」がそれに通じる、としております。 邪馬台国論争は結局のところ九州の所属問題だよね
畿内説だと倭国=日本で九州は大和の傘下
九州説だと倭国は日本に征服された半島系の別民族で九州和民は独立すべき
独立には人民開放軍も協力してくれるから、ウイグルのような状態を目指すか
金王朝の属国になるかお好きな方を >>463
そういう中国を意識した政治的意図を丸出しで語るから畿内説はますます胡散臭くなるんだよ
昔の大陸進出に利用された皇国史観そのままで
政治的意図と古代史の真相は全く別だから >>463
それを言っちゃえば九州だけじゃなく出雲など山陰も別の国だったし、関東、東北も古代から中世あたりまでは蝦夷だし、北海道沖縄は近代以前は別の国だ
近畿以外は全て征服されたと考えなきゃならないから全て中国様にあげるべきだと?
どこがどこを征服したとか今の国家とは関係ないよ
逆言えば今の中国には漢や魏の頃の中国人はほとんどいない
その後異民族の五胡に侵略されズタズタにされた
隋や唐も五胡の民族だしその後は元や清などの異民族が長く支配した
当時の中国人なんていない やっぱ九州一択だな
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 ・
https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ 五、邪馬壹国の所在地
それでは、女王・卑弥呼の国「邪馬壹国」の所在地を古田説に基づきお話しします。
邪馬壹国の玄関・不弥国は、伊都国から東へ100里、つまり7.7キロメートルです。基準となる伊都国は旧怡土村、今の前原市か糸島神社あたりとしますと、不弥国は今宿か姪の浜あたりです。そこが博多湾岸への
西からの入り口、つまり玄関となるので、邪馬壹国は博多湾岸一帯となるのです。
志賀島から朝倉までの線上の中心域がそれで、春日市を中心に博多駅から太宰府までの間は、数多の王墓や考古学上の豪華な出土物の密集地帯、いわゆる弥生のゴールデンベルトなのです。
従来の論者は、ここを3番目の大国「奴国」に当てていますが、じつはこの地こそ「魏志倭人伝」が記す第一の大国、
戸数七万戸に最もふさわしい所、女王の都する国だったのです。
六、女王・卑弥呼ひみか
「魏志倭人伝」に描かれた女王・卑弥呼の人物像は次のようです。
「邪馬壹国は元は男王でしたが、その70〜80年後(二倍年暦であり、実際は35〜40年)、倭国が乱れ、何年も互いに攻伐し合ったので、皆で相談して、
一女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼と言います。卑弥呼は、シャーマンつまり巫女でした。「年すでに長大」は、『三国志』の
「長大」の用法をすべて検証した結果、30歳ぐらいのことを長大と言っていたことが解りました(従来説の「老人」ではない)。独身で弟が政治を補佐していました。
いわゆる姉弟統治です。王となってからは見る者も少なく、婢千人をはべらせて、唯一人の男性が飲食の世話をし、
言葉を伝えるため居室に出入りしたと言っております。宮殿・物見楼・城柵を厳重にして常に兵が守っていました。」
と。謎に包まれた女王卑弥呼は、古来、天照大神あまてらすおおみかみ・神功皇后じんぐうこうごう・倭姫命やまとひめのみこと・倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことなどに当てられてきました。これについて古田氏は、
『よみがえる卑弥呼』 13 で次のように述べておられます。
「天照大神では時代が全く合わない。卑弥呼は中国錦や倭国錦をまとった「錦の女王」であり(なお、この当時の近畿地方からは絹の出土例はないので、このことからも近畿は後進地帯と言える)、
天照大神は布の時代「布の女神」である。神功皇后は『日本書紀』では
「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、卑弥呼は3世紀前半ないし中葉、神功皇后は4世紀前半ないし中葉の人物であり、卑弥呼に当てはめようにも到底無理である。倭姫命・倭迹迹日百襲姫命は、いずれも中心の権力者ではない。従って該当しえない。」
それではいよいよ卑弥呼の正体は如何に。
『筑後国風土記』逸文に「筑紫君」や「肥君」の祖「甕依姫みかよりひめ」が出ている。この甕依姫が卑弥呼であった。そして、「ヒミコ」と読むのではなく「ヒミカ」である、と。 九州説はイデオロギーの権化だから困る。
中央政権が大嫌いで、日本に属したくないというルサンチマンが根底にある。
「自分は世間に認められてない。だから世間(日本)が嫌いだ。」 縄文時代の恋愛事情
ttps://toyokeizai.net/articles/amp/251159?page=2 >>466
邪馬台国に繋がりがある出土品が
出てるのは九州なのに、なぜマスコミは
畿内ばかりクローズアップしたがるのか? >>470
その時代の中心が規模や出土品から纒向にあったことがわかってるからだよ
畿内説の場合、北部九州は邪馬台国連合の一部だから九州から何が出ても問題ない >>470
マスコミは大して調べないから、取材した研究者の考えに比重が傾きやすい
ある番組では倭人伝に狗奴国は邪馬台国の"東"にあると書かれている、と説明
さすがに呆れたが、番組を作成する側はそのレベルなんだろう 関連する学会教育界ほぼすべてが畿内説だからな
というか、偽書記紀を信奉していると自然に畿内説になる
バカな学者や研究者だらけでマスコミも逆らえない
まあバカな学会教育界は九州王朝説を全力で無視していたわけだが
百田のベストセラーで言及されていたおかげで今後は無視戦略は無効
バカな学会教育界は逃げきれず九州王朝説について議論を強要されることになる >>470
そこは奴国
ヤマト政権傘下にあった奴国ですずりが見つかったって話だよ
そこから九州説に持っていく理屈の方がアクロバティックすぎるだろ >>474
だって調べたら
畿内で硯は出てないし
鉄も鏡も3世紀前半はかなり少ないよね
卑弥呼共立後の時勢は3世紀前半なのにさ
悪いけど、当然ありえないよな〜、となる >>473
ただし、九州説を推したい人は百田を嫌いというジレンマ >>474
畿内説に自信があるなら
別に自演せんでも良いんじゃね? >>476
ひょっとして畿内説派の学者たちって
九州王調説をとると万世一系が8世紀までしか遡れなくなるのが嫌だから
直視したくない、とかそんな感じなのかな
いまさら皇室の歴史が多少短くなったからと言って
天皇の尊厳が損なわれるわけがないし天皇制の支持率が下がるわけでもないだろうに 纏向はちょっと違うと思うな。邪馬台国見つけたかったら他所掘らないと畿内説は。 三 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 -- 『旧唐書』が物語る
九州王朝倭国と近畿王朝との関係を決定づける史料に『旧唐書』があります。
これには「倭国伝」と「日本国伝」の二つの国を、別国として表記しています。
「白村江の戦い」の後、唐の進駐軍(『日本書紀』天智紀では9年間に6度に亘り数千人とあるが、事実は9年ではなく662〜701年の39年間 ーー
古田説)の司令官“郭務宗*”が4回わが国に来ての報告。
また、「遣唐使」の一員で唐に帰化して役人となった“阿部仲麻呂”の証言などを基に著されたと考えます。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0
その「倭国伝」には、
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里。新羅の東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。東西は五月行、南北は三月行。
世に中国と通ず。其の国、居するに城郭無し。木を以て柵を為し、草を以て屋を為す。四面に小島、五十余国、皆焉(こ)れに付属す。
其の王、姓は阿毎(あま・あめ)氏。一大率を置きて諸国を検察し、皆之に畏附す。官を設くること、十二等有り。(後略)」
とあり、また「日本国伝」には、
「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み改めて日本と為す。或いは曰う、
日本は旧小国、倭国の地を併す。」
とあります。これは正に、「倭国改め日本という名を、近畿の王朝が踏襲した」と。或いは、「日本(近畿王朝)は旧は小国で、倭国(九州王朝)の地を併せた」と言っております。
これで明らかなように、この『旧唐書』は、二つの王朝を見事なまでに、明確に表記しています。
また、『新唐書』「百済伝」でも、白村江の戦いでの唐の交戦相手は「日本」ではなく「倭国」としています。
ところで、中国の王朝は、外交ルールとして、その民族、その地域を代表する国「宗主国」と、正式な外交関係を結び、史書に記録するという方針を採っています。従って、
それまで中国の王朝と近畿王朝との交流はあったとしても、正式なものではないので記録されませんでした。
それが、倭国が滅びた段階で近畿の日本国(近畿王朝)は、大宝二年(702)に唐(事実は「周」)の則天武后に承認され、大宝三年(703)新たに正式な外交関係を樹立したのです。それは「唐朝」から始まりました。
このことからも、日本列島の旧の宗主国は「倭国」(九州王朝)であり、新の宗主国は「日本国」(近畿王朝)という構図が明確に描かれております。
即ち、新生「日本国」の成立は、大宝元年(701年)3月21日“文武天皇”に始まります。
如何でしょうか。今、見てきたとおり、これら中国の史書を先入観なしに素直に読み解けば、わが国古代史の実体、とりわけ九州王朝の存在が、誰の目にも解るはずです。
次に、「九州王朝」を証明する「国内の残影」を、具体的に述べてまいります。 白村江の戦いで唐と戦った倭国軍が天皇家大和政権の軍隊じゃなく九州王朝の軍隊?まさかね。 八 「白村江の戦い」敗戦の真実
七世紀に朝鮮半島の百済と新羅の戦争が勃発しました。当時の日本列島の主権者・九州王朝倭国は、国消滅の危機に陥っていた百済の応援要請に応えるためと、朝鮮半島南端部にあった“失われたわが国の領土「任那」”を回復するために、百済に加担したのです。
一方、新羅には唐が加担して両国軍の全面戦争となりました。
百済とわが国の連合軍は四度戦って全て負けました。この戦いには近畿王朝は参戦しませんでした。その訳は、九州まで出陣した斉明天皇が崩御したので、その喪に服するためとされています。
しかし事実とは大きく異なります。第四回『「にぎたづ」は何処に』 -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実(平成23年 7月 9日講演、『松前史談』第28号所収)で詳述しましたように、近畿王朝は唐と結託して九州王朝を裏切ったのです。
しかも、「斉明天皇は九州王朝の天子」であり、その崩御地は通説の「九州朝倉」ではなく、「越智国朝倉」であることも述べました。
また、後述しますが「崩御年」も違います。従って、「斉明天皇の喪に服する」などは全く関係がなかったのです。そして、この戦争の最後となる「白村江の戦い」(662年 ーー
古田説、『日本書紀』は663年)で九州王朝の摂政・薩野馬、伊予国関係では越智国主・越智守興、風早国主・物部薬なども捕虜となり、九州・中国・四国、それに関東の多くの将兵が海底に沈んだのです。
この後、郭務宗*かくむそう・沙宅孫登さたくそんとう率いる唐と新羅の戦勝軍数千人が、当時の「九州王朝・倭国」の首都・太宰府や博多湾岸、それに軍都・吉野ヶ里などに39年間で6回に亘り進駐して来たのです(郭務宗*は4回)。
この辺りの王墓はそれら進駐軍により徹底的に破壊し尽くされたと思われますが(敵の屍を暴くのは中国の慣習)、
唐の味方となった近畿王朝の領土には危害を加えなかったのです。近畿に巨大古墳が破壊されずに、存在しているのはその証左です。
郭務宗*かくむそうの宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0 ポリコレ棒による言葉狩りは嫌いな方だけれど、
教育機会のなかった、識字教育を受けていないことを示すilliteracyの訳語に
視覚障碍を示す文字を使うことは、単なる身体上の障碍を(識字に関する)「無能力者」
「能力の劣るもの」の意味で使うことになるので、真っ先に改めるべきもの
欧米先進国で高等教育を受けていたら、無神経に繰り返し書くような人格にはならないだろうに
北京大学ではないと言っていたけれど、上海大学とかソウル大学なのかな? 留学先は?
illiteracyとdyslexiaは異なる概念だと言われてからも、その違いを理解せずに、
グーグル検索のヒット数で比較反論するとか的外れなことをしているし、
ID:9DYnrbERが機能性非識字者である可能性はかなり高いな
漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国があるらしいけれど、
その国の道徳価値観とも重なるし >>454で
>欧米のテストの回答用紙
とか書いてるけど、illiteracyの人はテストを受けに来ないって理解してるか? >>483
A person is illiterate who cannot with understanding both read and write a short simple statement on his everyday life.
A person is functionally illiterate who cannot engage in all those activities in which literacy
is required for effective functioning of his group and community and also for enabling him to continue
to use reading, writing, and calculation for his own and the community’s development (UNESCO, 1978, p.183).”
"illiteracy"を"functionally illiterate"や"dyslexia"の人に対して使うと、"基礎的教育を受けていない無学で、無知な人間だから字が読めないんだろう"というニュアンスすら含まれるんだよ
ポリコレどころか侮辱、侮蔑してるって気が付かねえかな?
まあ耳学問だけのダブスタ野郎にはわかんねえか
>>484
そりゃ"illiteracy"な奴はテストを受けねえわなw
そもそもこちとら”無学者”として”文盲”使ってねえから >>472
>ある番組では倭人伝に狗奴国は邪馬台国の"東"にあると書かれている、と説明
>さすがに呆れたが、番組を作成する側はそのレベルなんだろう
いや、単純に呆れてちゃまだまだだよ
後漢書の東夷列伝倭条では「自女王國『東度海千餘里』至拘奴國」と書いてあるから
魏志倭人伝だけが大陸史書の倭人伝ではないことに注意が必要 >>482
九州王朝説を否定するわけではないが
唐新羅連合軍が九州に進駐したという文献がまったく無いんだよな
人麻呂の詩がそれだって言ってるけど、それだけじゃなあ >>486
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」かどうか、はやく答えろや ガードナー
「よこしまな中傷といわれのない攻撃がたえず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる」 三 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 -- 『旧唐書』が物語る
九州王朝倭国と近畿王朝との関係を決定づける史料に『旧唐書』があります。
これには「倭国伝」と「日本国伝」の二つの国を、別国として表記しています。
「白村江の戦い」の後、唐の進駐軍(『日本書紀』天智紀では9年間に6度に亘り数千人とあるが、事実は9年ではなく662〜701年の39年間 ーー 古田説)の司令官“郭務宗*”が4回わが国に来ての報告。
また、「遣唐使」の一員で唐に帰化して役人となった“阿部仲麻呂”の証言などを基に著されたと考えます。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0
その「倭国伝」には、
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里。新羅の東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。東西は五月行、南北は三月行。世に中国と通ず。其の国、居するに城郭無し。木を以て柵を為し、草を以て屋を為す。四面に小島、五十余国、
皆焉(こ)れに付属す。其の王、姓は阿毎(あま・あめ)氏。一大率を置きて諸国を検察し、皆之に畏附す。官を設くること、十二等有り。(後略)」
とあり、また「日本国伝」には、
「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み改めて日本と為す。或いは曰う、日本は旧小国、倭国の地を併す。」
とあります。これは正に、「倭国改め日本という名を、近畿の王朝が踏襲した」と。或いは、「日本(近畿王朝)は旧は小国で、倭国(九州王朝)の地を併せた」と言っております。
これで明らかなように、この『旧唐書』は、二つの王朝を見事なまでに、明確に表記しています。
また、『新唐書』「百済伝」でも、白村江の戦いでの唐の交戦相手は「日本」ではなく「倭国」としています。
ところで、中国の王朝は、外交ルールとして、その民族、その地域を代表する国「宗主国」と、正式な外交関係を結び、
史書に記録するという方針を採っています。従って、それまで中国の王朝と近畿王朝との交流はあったとしても、
正式なものではないので記録されませんでした。それが、倭国が滅びた段階で近畿の日本国(近畿王朝)は、大宝二年(702)に唐(事実は「周」)の則天武后に承認され、
大宝三年(703)新たに正式な外交関係を樹立したのです。それは「唐朝」から始まりました。
このことからも、日本列島の旧の宗主国は「倭国」(九州王朝)であり、新の宗主国は「日本国」(近畿王朝)という構図が明確に描かれております。
即ち、新生「日本国」の成立は、大宝元年(701年)3月21日“文武天皇”に始まります。
如何でしょうか。今、見てきたとおり、これら中国の史書を先入観なしに素直に読み解けば、わが国古代史の実体、とりわけ九州王朝の存在が、誰の目にも解るはずです。
次に、「九州王朝」を証明する「国内の残影」を、具体的に述べてまいります。 九州王朝説とか、歴史ファンタジー以下のたわごとはどうでもいい。 >>491
焚書不比等作のファンタジー日本書紀に比べれば幾分マシだろ まぁ普通に考えたらその後日本を治めたのはヤマト王権なんだから邪馬台国=ヤマト王権と考えるのが自然だわな
そして奈良から大きな遺跡が出てるのならまずそのものだろう
邪馬台国が九州だなんて言ったら纒向遺跡はなんだってことになる 殉葬が中止になったのがノミノスクネの時代
卑弥呼は3世紀の半ば
神武天皇が紀元前660と考えたらおかしい
いわれている231年だか241年説をとると
歴代天皇の寿命を考えても納得できる 九州説なんていう出口の無い迷路をさまよって人生を無駄にして、哀れな老人どもだよ。
考古学と、記紀を読み込むだけで、いくらでも古代史の真実に触れることができるのに。 日本国記を読んだ若い世代が
偽書記紀を読み込んだゾンビ学者どもをいずれ駆逐する ウチは九州じゃないけど
邪馬台国に滅ぼされた奴国は邪馬台国の
統治下にあったんではないかと思うと
九州説濃厚では?
地理的な説明を読んでも方位的に 記紀が秘密を隠してるとしたら、皇室と天火明命の関係のほうが重要。
古事記では、九州のニニギと天火明命を同格としてるが、
考古学においては、ヤマト王権と関係が深いのは、丹波と東海。
共に、天火明命のゆかりの地だ。
かわりに、九州の影響など、ヤマトには希薄。
神武東征は、めくらましの創作で、九州説や東遷説を信じてるやつのほうが、
記紀の創作に完全に騙されてるわけだ。 バーニング不比等の傀儡どもが
いかに九州王朝説を無視しようが、もう逃げられない
ベストセラーを読んだ10万人以上の読者は
とりあえず議論だけでもしたらどうだと思うだろう
もやは逃亡戦術は通用しない >>501
九州王朝説と、その提唱者である古田武彦に言及している 作家は九州説、学者は畿内説
百田もやっぱり作家だったw
最近は井沢のように畿内説に転向する作家も多いけどな
井沢みたいに歴史ネタで本を書いてる以上、ド素人丸出しの九州説じゃ本は売れんわ それだけ既存の学者やら研究者やらがバカだってことだろ
いまだに焚書不比等の偽書記紀を金科玉条のごとく崇め奉っているのだから 古田本人は「鹿児島宮崎は隼人塚の世界」としか言っていないので
正確には北九州王朝説と言うべきだろうな 不比等ほどの人物なら、当然自分の行為の罪深さに気づいていただろう
だから、書紀にいくつかの明らかな凡ミスを意図的に入れたのかもしれない
自分たちの近畿政権が日本の中央政権としての地位を盤石のものとし
歴史について自由な議論ができるようになった頃、書紀の信憑性に
疑問を持ってもらえるように
ところが後世の学者、とくに近年のバカどもは単なるビリーバーだった
記紀を聖典として崇め、出土品を記紀と矛盾無く結びつけることにのみ
血道をあげるような輩ばかりだった
間もなく没後1300年
不比等がこの惨状を見たら、どう思うだろう 不比等がどうのこうの言ってるやつID変えすぎ
それに誰も主張してない畿内説を自分で作って叩いてるが、
他の人はコイツ何を喚いてるのかさっぱり分からんだろうな 自分の教祖の極悪ぶりをさらけ出されたら
ファビョるのも無理は無い
同情する じゃあ俺も脳内九州説を
朝鮮半島にいた集団が二つに分かれ、九州に渡ったのが和民(わたったみん)
半島に残ったのが白木屋
百済は考え中 ほかの偽書記紀信者どもは必死になって無視して黙っているのに
反応しちゃった正直者が2、3人いるようだなw
正直なのは良いことだ >>503
逆もあるよ
歴史学者の故門脇禎二氏は2008年頃の最後の書籍で、九州説に転向 古事記
ヤマトタケルの息子と神功皇后、結婚しました。
ある日、熊襲を攻めに行くと、お告げがありました。
『新羅を治めなさい。』
息子それとなく断りました。
呪い殺されました。
代わりに神功皇后、新羅行きました。
治めました。
めでたしめでたし。 日本書紀
神功皇后(女性)
『魏志』によると、景初3年6月、倭の女王は使いを「帯方郡」に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという 磐井の乱で
九州と畿内に有力勢力があったのは
明白じゃん、少なくとも5世紀までは
九州主導の王朝が続いて大和は分家勢力
6世紀の磐井の乱で分裂、そして白村江の九州の大敗で大和勢力が力関係を逆転した >>515
白村江の戦いに敗れた倭国軍は九州政権の軍隊って。マジかよ!? >>516
そうだよ。彼らは魚民と呼ばれる水軍だったんだ オウスのミコトはおとうさんの言う事を聞かないオオウスのミコトの手足をもぎ取り八つ裂きにしました >>515
もう3世紀には畿内が九州を傘下に組み入れてる >>485
>そもそもこちとら”無学者”として”文○”使ってねえから
ここまで言われてまだ書くか?
高学歴の人でここまで配慮のできない、知性のなさ丸出しの人は私の見聞の範囲にはいないよ
まあ、実際日本人とは道徳・価値観が違う人なんだろう
この部分に対しては否定してこないから、逆に誇りに思ってるんだろうな >>498
>邪馬台国に滅ぼされた奴国は邪馬台国の
>統治下にあったんではないかと思うと
奴国はいつ邪馬台国に滅ぼされたの?
奴国に首長家がおそらくそのまま筑紫君の家系になってる
磐井の乱の時に糟屋屯倉を持ってるし、これが奴国の後嗣そのものだろう >>520
どうしたの文盲さん(ネットスラング的な意味で)
普通5chで文盲(ネットスラング)と煽られたら、「無学者だから非識字」としてではなく、「読解力のない人」という意味で使うんだよ
それを文盲(ネットスラング)を勝手に文盲(辞書的な意味で)=「illiteracy」とした上で「非識字者」と直せというなんて、
これ文盲(ネットスラング的な意味で)じゃなくてなんだというのか
で日本人の道徳・価値観というがお前さんにもそのようなものがあるとはとても思えないね
他派閥の研究者を貶し、侮辱、侮蔑し、研究者ではないと言った挙げ句存在を消すような発言
更には他民族に対してもとてもとても道徳的とは思えないがね
あえてスルーしていたのに自分で掘り起こすとか、自分自身のことをよほど道徳的だと自負しているらしい
で、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>519
残念ながらそんな証拠は皆無だ
さすがにそれは無いよ オウスのミコトはおとうさんの言う事を聞かないクマソタケルを女性に化けて近づき
お尻から真っ二つに切り裂きました、命乞いをするクマソタケルの弟の手足をもぎ取り、八つ裂きにしました >>524
オルシェフスキー「そらそうやろ」
中原&佐川「せやせや」 大和尊の神話って何なん?
まるで金親子、これが日本人のルーツ? ネットスラングだからって理由で差別用語を使うのを正当化するような人は
きちんとした教育を受けた人にはいないんだって!
「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:9DYnrbERの負けだよ
ごまかし続けてるけどさ
一人でいくつ書き込みしてるんだろうね
本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw
欧米先進国で高等教育を受けていたら、無神経に繰り返し書くような人格にはならないだろうに
北京大学ではないと言っていたけれど、上海大学とかソウル大学なのかな? 留学先は?
漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国があるらしいけれど、
その国の道徳価値観とも重なるし 纒向はスゴイ、でも邪馬台国ではない。
これでOK? 九州はスゴイ、でも邪馬台国ではない。
纒向はしょぼい、でも邪馬台国である。 >>521
自分も奴国=磐井じゃないかと考えてて前スレにちょっと書いたんだよね
金印の出た志賀海神社が新羅と関係深い神社で磐井の乱が新羅のために戦った戦という事と糟屋屯倉とも近い
恐らく家宝としていた金印を乱の前か失敗直後に神社に預けたのではないかと
この想像が合ってたら日本書紀の皇別という表記は間違いという事だけど >>515
「同じ釜の飯を食った」だから
九州と大和は近しい関係にあったのは明白
恐らく元々は九州が本家で大和が分家
防衛上、5世紀以前から倭王が軍と中心的政治権力者を九州に残して、倭王のみ大和に移動していた可能性がある
倭王と九州の有力豪族又はお家騒動がたびたび燻っていて磐井で対立が決定的になった >>533
>この想像が合ってたら日本書紀の皇別という表記は間違いという事だけど
記紀の歴史観では、皇統の地上での行跡は九州から始まることになっているし、
神武の東征説話は九州の血筋であることが倭王になる(共立される)時に必要だったからの
ように見える
まあ、いずれにしても 旧事本紀国造本紀の
筑志國造.志賀高穴穗朝御世,阿倍臣同祖-大彥命五世孫-田道命,定賜國造.今筑前‧筑後.神名帳云,筑前國御笠郡筑紫神社.田道命,或本作日道命.
とは、合わないけれどね >>530
「きちんと教育を受けた人」はオフラインで差別用語は使わんよそりゃ
オンラインでも実名や顔出ししているところでは言わんわ
しかしここ5chだぞ?まさか5chでそんなこと気にするやつがいるとはな
J-stage検索
フィルター:ジャーナル、および、査読付き
日本前近代の交通史研究の素描と展望 : 陸上交通を中心として
丸山 雍成
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/84/0/84_KJ00009977005/_article/-char/ja
フリーアクセスだから詳しく知りたければPDF落として読め
相変わらず「彼の民族」だの、「上海大学とかソウル大学」だの、
「漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国」だの、
ネガティブなニュアンスを強く示唆した上での発言
とても差別用語を気にするリベラリストや善なる人間の発言とは思えないなあ
まあ文盲(ネットスラング的な意味で)さんだし、仕方ないか
あ、今挙げた論文は副題に(韓国国際学術大会基調講演)ってついてるから無効とかいい出しそう
おーこわ、ダブスタの偽善者は
ちなみにだいぶ前に述べた3つの世界大学ランキング全てで東大より上ってのは、英米スイスしかないぞ
それくらい前の発言から推察しろよ
まあお前「おまんまがスプーンで口の前に出されないと食べられない赤ん坊のような人間」だったもんな
あとこいつを擁護するような自演なのかわからない単発共
おまえらがこいつと同じく自称「趣味道楽人間」なら勝手にしろと思うが、
アカデミックにいるなら今すぐ消えろ、お前ら科学の発展に邪魔だから
ところで、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」でYES or NO 桃の種よりこっちの方がリアルだよな。
畿内説なんて相変わらず都市伝説のままだよ。
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ >>538
大陸と交流があったってことだな
纏向がいくらデカくても大陸との交流の痕跡がなければ邪馬台国ではない >>539
大陸と手紙のやり取りをしていた地域だからこそ、硯が出土しているわけですね。 そしてその北部九州は纒向連合の傘下
纒向に大陸との交流の痕跡があることは纒向→北部九州→対馬壱岐が一つの勢力圏に属していることを意味する >>541
3世紀に畿内で文書を作成していた証拠は出土したんか? 畿内説が本当なら纒向から硯どころか筆や木簡なんかも出土するはずだよな。
文献と一致する出土品が無いのに畿内説だとか図々しい奴だなw >>541
それはもっと後だね
どちらが支配していたとかじゃなくて
魏志倭人伝に書かれている「邪馬台国は何処にあったか」
この一点にフォーカスしてほしい 纒向は初期のヤマト王権の遺跡だろうけど、大陸との交通の少なさや、倭国大乱と卑弥呼死後〜台与が共立されるまでの戦いの痕跡がなさすぎるから邪馬台の都とは違うんじゃないか? >>545
そうなると大和王権の起源に関する記録が記紀しか無いことになり、考古学者は飯が食えなくなる。
そこをゴッドハンドで乗り切ろうとしているのが考古学者。 >>544
>魏志倭人伝に書かれている「邪馬台国は何処にあったか」
そうだね
九州説は魏志倭人伝の重要な記述をことごとく嘘だとしないと成り立たないけどね
・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ
・30ヶ国の連合は嘘だ
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ
・水行十日、水行二十日陸行一月は嘘だ
・一大率が刺史に例えられているのは嘘だ
・卑弥呼に1000人の従者が仕えるとあるのは嘘だ
・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ
・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ 畿内は成り立たないが
九州は全部成り立つ事ばかりだよな >>547
偉大なる畿内説
・史書も記紀もすべて改ざんされたものである。
→都合の良い部分は信じる
・前方後円墳による祭祀統一は政権の統一の証である
→その後も多種多様な墓が乱立し、全然統一されていない
・中国由来のベニバナの花粉が発見されたのは中国と交流があった証である
→交易品に付着していたとか、飛んできたという事は全く想定していない
・箸墓は卑弥呼の墓であり、あそこに殉葬者100名も埋まっている
→畿内では殉葬の前例も無いし、そもそも箸墓を掘ったことがない
・畿内珍理教の布教活動の手段は5chと毎日新聞
→アンダーグランドすぎw >>548
魏志倭人伝の解釈ひとつとっても
九州説だと具体的な場所はどこだって議論になるけど
畿内説だとどうやって畿内に結びつけるかという議論になる >>549
偉大なる九州ネタのパクリだろうけどデタラメすぎる
やり直し >>552
きみは人生をやり直すべきだと思うよ
やり直しの人生で、またしても偽書記紀に毒されたら意味ないけどな 神武が鯨面の家臣を連れて東征したら
そこでは驚かれたというから
古代の奈良にそういう風習はなくて
逆に九州では一般的だったということでしょ >>552
FA?
声が小さくて聞こえませんが?w >>554
まあ、大規模な部隊を引き連れて東征したというのはにわかに信じ難いが、イワレビコは九州出身で、奈良盆地にひっそり移住したんだろうな。
それを無理矢理に邪馬台国の王が東遷したことにしなくても良い気がする。 北に伊都国、東に倭種の国
南にクナ国(クマ?)があって
卑弥呼と仲が悪かったというし
日女もクマ国と仲は悪かったらしいから一致するし >>556
そうじゃなくて
ギシ倭人伝に男は皆、鯨面 て書かれているということ >>554
鯨面の物証がどこで見つかってるか分布図
https://i.imgur.com/Ny6b5m9.jpg
この時代の九州には鯨面の風習があったことは確認されていない
もし鯨面の記事が魏使の記録にもとづき書かれているなら、その目撃場所は吉備か尾張になる
ただし、会稽東冶の東にあるという記述に関連してるから、鯨面の信ぴょう性はかなり疑問だが >>556
歴史の古さを以て、自分たちの存在に箔をつけるため。
記紀はそのために作成されたようなものだから。 隋書にも黥面らしき記載があるよ
裴世清は明らかに大和まで行ってるからね >>559
畿内にある鯨面埴輪のモデルは身分の低い者であると言うのが定説
ヤマト王権は鯨面を刑罰として取り入れていたので支配階級は鯨面をしていなかったはず
埴輪は支配階級の副葬品なので支配階級に使える人たち、階級の低い奴隷などがモデルになっていたと思う
一方九州では八世紀頃まで入れ墨の習慣があったことが隋書で明らかになってる つまり鯨面習慣のある先住民族系の国が邪馬台国で
その先住民族を制圧した外からやってきた鯨面習慣のない民族がヤマト王権だということ
両者は別物 卑弥呼の時代では畿内ではまだ装飾として入れてたけどな 邪馬台国は奈良にあった大和王権のことです。
はやく目を覚ましてくださいね。
ご老人の方々。 >>562
随は6世紀じゃん
卑弥呼が亡くなったのが249年ぐらいでしょ
>>559
日本書紀に神武が顔に入墨を入れた
家臣を連れてた話があるから
無いことないのでは
>>565
卑弥呼の時代を何年に想定した話? >>563
>一方九州では八世紀頃まで入れ墨の習慣があったことが隋書で明らかになってる
はい、嘘確定な
隋書に入れ墨がどこの風習かなんて書かれてない >>567
神武って実在したの?
実在だとしたら、いつくらいの人物と考えてる? >>567
隋書の時代でも飛鳥に入れ墨の風習が残っていた
つまり黥面は畿内になかったというのは間違い
九州説の唯一の根拠である九州っぽいからってのが否定される >>559
ここにもあるのもあるが、九州でも下記の出土があるし、矛盾は無いよ
福岡県糸島市「上鑵子(ジョウカンツ)遺跡」より『黥面』入墨顔の人物が刻まれた“人物線刻板”が出土。??
福岡県北九州市小倉南区「長野小西田遺跡」より『黥面』入墨顔描かれた鐘形(頭部?)“土製品”が出土。??
熊本県上益城郡益城町「秋永遺跡」より『黥面 』
宮崎県児湯郡新富町「新田原58号分」百足塚より『黥面』入墨顔に線刻が描かれた“埴輪”が出土 神武が引き連れていったのは 糸島の軍勢を主力として 宗像 大分 岡山の兵
奈良で橋頭堡を築きスジンまでで奈良盆地を征服し スジン以後周囲へ進出した 次に、大和王朝の最初の天皇と言われた神武天皇についてお話しします。
残り時間もありませんので結論を簡単に申し上げますと、実在の人物であり、出身は九州王朝の一員と見られます。大和遠征の出発場所は博多湾岸「日向ひなた」地方です。大和王朝の開祖ですが、九州王朝の分家だったのです。
最後に、そののち日本列島の主権者となる天皇家の大和朝廷成立に至る過程を略述しますと次のようです(天皇名は全て後世の諡号、天皇位は天智天皇からか、それまでは王または大王)。
神武天皇から9代の開化天皇まで(但し全て実在とは限らない)は大和盆地の一豪族として存在、10代の崇神天皇から盆地の外に出て近隣の制圧に入るのですが、25代武烈天皇に至って王統が断絶しましたので、
これを「大和古王朝」と呼んでおります。それも中国の史書にあるごとく、王朝最後の帝は暴君とされたように、わが国もその例に漏れず、武烈は悪逆非道の天皇として国史に留められたのです。
替って、越前三国えちぜんみくにの豪族であった男大迹王おおどのおうが、20年の歳月を経て大和に入り「大和新王朝」を開いて26代継体けいたい天皇となってから41代持統じとう天皇まで九州王朝支配圏の一王朝として、近畿地方を支配したのです >>575
仲哀でも断絶してるだろ
確実なのは天武以降じゃないか? ここまで九州説は完全否定の意見多数、近畿説も否定意見あり
関東説は否定意見なし
最も可能性が高いのは関東ということかな 「韓国国際学術大会基調講演」
よくもまあこんなに探してきたなぁw
丸山雍成先生は「日本近世史、交通史」がご専門で、九州大学を1996年に定年退官されていて現在85歳
この方を、現役の九州説の研究者として挙げるというのかい?
紹介されていた論文、読んでみたけれど、邪馬台国の比定地も投馬国に比定地も挙げられていない
もともと近世の交通史がご専門だから、古代の道のことはちらっとしか触れられていない
確かに(形式上は)九州説の立場の査読論文だけれど、逆に現役の九州説に研究者が探しても
見つけられないないことを示してるよなww >>537
高等教育を受けた人間は、オンラインでも匿名でも差別用語は使わないんだよ
やはり日本人の価値観ではないし、noblesse obligeの感覚も持たないんだろうな
日本で頭のいい人は、国内の大学で学位を取ってから留学する人の方が多い
どこで学位を取ったか言えない人だからなぁ
オフラインで匿名なのにねw >>545
>戦いの痕跡がなさすぎるから
九州説のいう闘いの痕跡って、鏃の刺さった甕棺墓遺体とかでしょ?
九州にも3世紀の戦いの痕跡なんてないよね?
あったら教えて >>582
倭国大乱は2世紀だな。
2世紀末には卑弥呼は既に女王になってるんだから。 >>562
>隋書にも黥面らしき記載があるよ
これのことかな
男女多黥臂點面文身 没水捕魚
この部分は魏志倭人伝の
今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異。
を引用しただけのように思う
隋書の頃の倭国側の記録に文身が多かったという話はないだろう >>580
予想通り敬老精神にかけるようだな
前近代日本の交通と社会 (日本交通史への道 1)2018/10/31
つい先月出版された本であり、まだまだ現役で活動している
ちなみに前近代交通史の研究から九州説の立場と取っていることに加え、
「地図 2 邪馬台国の方角と律令官道 (一部改変)」から、九州説を援用している
これらのことから(現役研究者の)「九州説の立場で書かれた査読付き論文」以外の何物でもない
ちなみにノーベル医学生理学賞を受賞した大村智は御年83だし、利根川進も79だ
年齢は関係ないし、実際に活動しているかどうかなんだよ
「高等教育を受けた人間は、オンラインでも匿名でも差別用語は使わないんだよ」
↑ちょっとこれ証明してみ?誰が見ても間違いないような証明をな
なんだったら論文引っ張ってこいや
まあ心理学の研究探せばむしろ逆の結果が見つかりそうだがな
>>581
noblesse obligeとかそもそも日本の文化じゃないのに何いってんだ?
つうかお前の発言に日本人の価値観も露程も感じないんだが、耄碌してきたか?
まあ文盲(ネットスラング的な意味で)だし仕方ねえか
そんなに出身大学が気になるならちょっと推理してみろよ
当たり外れくらいは答えてやる
既にヒントとしては米英スイスの大学、出身学部のノーベル賞は5人近く、大学総数30人近くが過去レスで出てる
これ以上ヒントをくれてやるつもりはない
ところで、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なのかどうか、いつになったら答えるのか 邪馬台国は関東で決まり
関東では無いという証拠だせる人いる? 魏志倭人伝の記述はすべて伝聞であって
内容の真偽は保証されない
編集の際に少なくとも数か所の国の事実が混在させられていて
その内容に合致する国は存在しない
あるわけがないのである
たとえば沖縄より南方、オセアニア辺りの叙述もあって
九州北部の叙述もある
だからそんな記述の「完全に」一致する国は「存在しない」
つまり邪馬台国は「存在しない」 >>589
単なる屁理屈
要は細かい違いはどうでもよくて魏から金印をもらった国はどこか?って話 >>590
>要は細かい違いはどうでもよくて魏から金印をもらった国はどこか?って話
となると、除正使の梯儁さんが来て、倭国を検分した上で卑弥呼を倭王として
倭国内からは文句が出ないことを確認してるんだから、倭国の範囲内の最大国の
首長が倭国の盟主であり、そこに卑弥呼がいたと考えればよい
という時点で自動的に、ヤマト国七万戸の王都に卑弥呼がいたことになるんだよ >>585
ここまでID:jJqOOw7の書き込みを読んできた人には、この人がただの詭弁使いで
まともな人格じゃないのが分かってるよ
留学がどうとか、学歴がどうとか言ってるけれど、それこそ匿名掲示板なんだから
嘘だろうがなんだろうが吐き放題
留学先ひとつ明かさないし
かなりの学歴コンプレックス持ちなのは間違いなさそう >>593
畿内珍理教の布教活動は捗ってるのか?w やりあってるやつら
君らの無駄なレスのお陰でたくさんの人がドン引きしてる ★11まで来てるので、もう過去レスは一切読んでないけど、
奈良からいろんなものが発掘され、大和が当時周辺地域と交流があり、
日本列島では非常に発展していた地域の一つであり、
周辺地域の中では中心的存在だった事が証明されていったとしても、
古事記・日本書紀に記載されてない矛盾を説明できない限り、
畿内説は非常に貧弱だと思ってしまうな。
畿内説派は、古事記・日本書紀に書かれてないことをどう考察してるのかな? >>596
記紀の記述が創作・潤色に満ちているにせよ、まったく取っ掛かりすら見当たらないとこを見るとヤマト王権と魏志にいう邪馬台は別個の勢力だろうな。 >>598
魏志倭人伝によれば、
邪馬台国は魏の援助がなければ狗奴国と戦争できない一見貧弱そうな国に見えるが、
畿内説派は、なぜそこまでして大和政権と結び付けたがるのだろう? >>569
紀元前660辛酉の年といわれるけど
231辛酉という記録があって
その方が照合して考えると
しっくりする >>599
最初の倭国から魏への使者も魏の権威を背景にした支援・調停要請だよ。
これから発展し、勢力を拡大して行く国というより、レームダックという印象を受ける。 そりゃそうだろう
その後の日本の歴史を見れば畿内を中心とした国家になっていくんだから
畿内派はヤマト政権以外は一時たりとも日本の歴史に認めたくないんだろうな >>602
戦争は基本数の勝負だ。
周辺諸国が味方になって参戦してくれて、敵国以上の戦力を整えられるかが鍵になる。
狗奴国と同等以上に戦うための戦力を備えるためには魏から倭国王の指定を受け、
それを魏の役人に証明してもらう必要があったと考えたと思えるし、
魏からの援軍も期待してたのではないかとも思える。
畿内説なら女王国が治める南に位置する強大な狗奴国は紀伊半島だ。
一体、どれほどの人口を持つことができると言うんだろう。
邪馬台国時期の大和が強大な勢力を持ってたと証明すればするほど、
魏志倭人伝との矛盾すら出て来るように思える。 年表
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>606、>>607
識字障害でも持ってんの?
台をトと読む文化は中国にも日本にも存在しません。 >>609
旧書体における旁の豆や至が当時トウとか読まれてたので、
旧書体における台や壱もトウって読まれてたはずって説を読んだことあるけど、
その話じゃない?
ただ、ヤマトって地名は神武の先祖の出身地と同じにしたって可能性があるんだから、
邪馬台=大和で同じ国にって部分にこだわる必要は無いように思えるが。 >>608
なんで日本人が黒潮に乗ってやって来たことにこだわるの?
移民第一波はまず南方から日本に入ってきた可能性は高いとは思うけど、
氷河期の頃は朝鮮半島も台湾も無く、日本は陸続き
もしくはほぼ陸続きとみなせるような状態だったんだから、
短期的に比較的暖かくなれば、
南方から陸に沿って多くの人がやって来ただけのように思うけど。 一、 壹と臺(台)の探究
それでは最初に、邪馬壹国か邪馬臺国かについてお話し致します。「魏志倭人伝」に、
「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。」
とあります。倭人伝中、この国名が出てくるのはこの文面一個所だけです。そこには「邪馬壹国やまいちこく」と書いてあり、「邪馬臺国やまだいこく」とは書かれていません。では、なぜ「邪馬臺国」に変わったのか、
歴史上「邪馬臺国」と国名が記録されたのは『三国志』の後に編纂された『後漢書』 6 です。
「国皆王を称し、世世伝統す。其の大倭の王邪馬臺国に居す。」
ここでは明らかに「臺」と記されています。
『三国志』の成立は、西晋の陳寿ちんじゅが三世紀末に著わし、一方の『後漢書』は、南宋の范曄はんようが五世紀半ば近くに著わしました。この両著の間は一世紀半の開きがあります。ちなみに、
国の成立は「後漢」の後が三国時代の「魏」ですが、史書の成立は、その逆で『後漢書』よりも『三国志』の方が古いのです。
古田氏は『三国志』を徹底検証した結果、原文はあくまでも「壹」であり、「臺」ではなかったことをつきとめ、更に「壹」の字は天子に忠節を尽くす者に対して、敵対する者・二心ある者を「弐」(憎悪の対象)で表すことも証明しました。
卑弥呼の後を受けた姪の「壹与」の名は、東の夷蛮(中国は世界の中心という所謂中華思想の下、周辺の国は蛮族扱い)の王で最も忠節を尽くす者としての「壹」と、中国風一字名称の「与」を組み合わせたものです。
従って「邪馬壹国」とは、「邪馬(山)」という国名と、魏の天子に忠節を尽くす「壹」を組み合わせたものだったのです。
一方「臺」の字は、本来は「盛土・高地」の意味から、漢代になると「宮殿」の意味での用法が目立ちますが、魏代はすべて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を意味するものでした。
『三国志』では、魏の天子の宮殿はすべて「 ーー臺」と記されていますが、他の二国、蜀の劉備や呉の孫権の宮殿は、臺とは記されていません。つまり二人共「天子」とは認められていなかったのです。
それでは倭国と魏の間はどうなるのでしょうか。「倭人伝」では魏と倭は対等ではなく卑弥呼は「親魏倭王」であり、臣下なのです。決して「天子」とは見做されていなかった。それ故に、
魏代において崇高なる「臺」の字を、夷蛮の国に使用することなどありえなかったのです。
ところでわが国では、誰が何故原文を改定して「壹」を「臺」に変えてしまったのでしょうか。
それは、江戸時代初期の京都の町医者・松下見林が『異称日本伝』 7 で、「壹は臺の誤り」として原文を改定したのです。そして「臺」は「台」であり、これは「と」と読めるとして「邪馬臺やまと=大和やまと」としました。
何としても「万世一系・大和朝廷一元史観」の立場から「邪馬〈臺〉国」として、近畿の大和(奈良県)に持って来たかったようです。
それを受けて、江戸時代の学者・新井白石は、初めは『古史通或間』 8 で大和説に立ち、後年『外国之事調書』 9 で筑後山門(やまと・福岡県)であると九州説を打ち出しました。
これらが半ば「定説」化され、卑弥呼の国は近畿だ九州だという争いになったのです。 現在の日本が海洋民族という事実
神社の建物が南方系の高床式(これは天孫降臨族という征服者側)
米がチャイナ南部からが最初のもの
現在でも生存環境の厳しい北方では人口が多くなく 移動する動機が乏しいが
南方ではうっかりすると黒潮にのり潮流に流され日本列島へ漂着する 或いは島伝いに移動してくる
海峡民族は移動が生存の要件 陸続きだったのが、徐々に海で分かたれてったんだから、
お互い交流を保とうとして海洋技術が発達しても、別におかしくないと思うけど。 1万5千年くらいまでは陸続きで、華南地域と自由に交流できた日本は、
現代で言うところの華北地域に比べれば数段先進国だったろうしな。 船舶技術の発達した現在でも日本の周辺国で海洋民族といえる国は日本くらい チャイナ 朝鮮は陸上型民族
琉球パラオあたりが海洋民族 ここらが日本の先住民族と思う 日本列島に先住していた南方系 更に ニンポー台湾琉球あたりからきた アマテル族が倭国を博多につくりました 紀元前 倭国が半島に固執したわけ
鉄が必要だったから 後 チャイナもきました モンゴル人に牛耳られてた時や共産党配下の中国は海洋技術が低かったかもしれないが、
元々、中国の海洋技術は発達してたようで、
平安時代後期には日本の金を求めて日本に巨大な船で商売に来てたみたいだし。
古代において朝鮮半島南部の人々も高い海洋技術を持ってたと思うが、
現代の朝鮮人はおそらくその民族の子孫ではないだろう。 海で分かたれた後も元々交流の深かった華南人と細々と交流し続けた結果、
水田稲作等も伝わったし、
華南人と古代日本人の混血として天孫族が存在してたと思うけどな。 金属が伝わったのは華北から朝鮮半島経由だと今のところは思ってるかな。
金属はペルシャ辺りが起源で、むしろ金属を求めて移動を繰り返した結果、
最終的に到達したのが日本なんじゃないかなと今のところは思ってるかな。 >>1
争いがない社会なら
鳥か魚ぐらいしか知らん!!! 更に、アメリカ大陸にも行ってたやつがいて、
平安〜室町時代にかけてかなり本格的になってったとも思ってるけど。 邪馬台国との関係性を示す出土品が皆無の畿内説が息をしていない件w
【邪馬台国】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡[11/23]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1543122053/ 俺はNASAに勤めていたIQ300越えのエリートだが、物証・統計に基づいて理論的に考えると、邪馬台国は中部地方方面にあってほしい 畿内からは二級品だらけ
一級品は4世紀後半から多くなる 狗奴国との争いがそんな大戦争だったようには見えないんだが >>598
よくこれを九州説の人は言うけれど、欠史八代の頃は大王系譜すらまともに残っていないのに
外交記録が残っていると思う方がおかしい
あとヒコヒメのヒコ王の系譜を大王系譜にしているから、卑彌呼は大王としては記録されていない
これだけで説明できるんだよ >>629
というのはアンタの一人説ね
おめでとう >>630
ということにしたい九州説の人であったw
九州説は「短里を使う人がどこにもいない」ことと、
投馬国の比定地が九州に置けないことをもっと真剣に考えた方がいいよ >>630
記紀は推古天皇以前の女帝を認めない
飯豊青皇女も神功皇后も政務を執ったとしているのに天皇とはしていない
皇族の女性が朝廷の代表者となることがあるのは明記されている
ヒコヒメは共同統治だがどちらが上位かはそれぞれのヒコヒメ次第だろう
しかし記紀はヒメ王を大王、天皇とはしない
それだけのことだよ >>596
3世紀は古すぎて単純に伝承が残ってないだけだろう
崇神天皇の墓が行燈山古墳で正しいとすると、記紀に3世紀のことで書かれているのは箸墓の築造に関わる逸話のみ
代わりに欠史八代を創作して系譜を盛ってる
欠史八代の天皇を纒向に王都を置いた人物とみなすのは無理筋すぎる
3世紀の古墳が被葬者不明で残ってる状態
行政組織がなかったころは、先祖の伝承を残してくれる人物は子孫以外いない
初期の頃は王権の世襲が確立されてないので、王権が他の一族に移ったら、それまでのことは何も残されない
赤の他人の家系の先祖を後世に伝えてくれるわけがないってこと >>629 >>633
なぜ、欠史八代の頃と同じ時期だと推定するのか、根拠が良くわからない。
Wikipediaの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を参照すれば、
卑弥呼の時代の頃に卓淳国に使いを送ってる事が日本書紀に書かれているが、
魏と倭の女王とのやり取りは魏志倭人伝によればっと言った書き方で、
どうも大和のことじゃないよって言いたげで他人行儀に感じる。 現時点の畿内説は箸墓から殉葬者100人ぐらい掘り出さないと発言すら出来ないレベル。 仲哀天皇か神功皇后かどっちだったっけ?
九州に遠征して従わなかった女族長の国を滅ぼしたって話があるけどこれが邪馬台国なのかな? 調べたら滅ぼしてなかった。
大分で景行天皇に与して道案内した地元の女猶、速津媛のことだった。
周防国の女猶、神夏磯姫といい女性リーダーの国が多いのは北九州の特徴? 魏志倭人伝によれば女王を立てたのはどちらかというと一時的な措置のようなもんじゃなかったか? >>634
まず、行燈山古墳は4世紀前半の築造
崇神天皇の墓がその行燈山古墳で正しいとすると、3世紀は欠史八代の時代になる
纒向周辺には3世紀に造られた200m超の大型古墳がいくつかあるが、本当の被葬者は不明
大型古墳が大王墓とすると、3世紀には記紀には載ってない大王がいたことを意味する
多くの人が記紀にはすべての天皇が漏れなく載ってるという先入観を持ってるようだが、
それが間違いだということを示してるわけだ
畿内説前提だと、記紀に載ってない3世紀の大王のうち一人が卑弥呼になるということ >>640
崇神天皇の墓が行燈山古墳であるとする明確な根拠が分かるまでは、
その説は納得しがたいな。
古墳のすべてが天皇の墓ってわけでもないだろうし。 >>629
だからヤマト王権と邪馬台国は別だったって事だろ? >>641
記紀を最大限信用した場合でも3世紀は大王の記載がないということ
記紀を信用しないなら、卑弥呼が載ってないから云々の理屈は最初から無意味
古墳が全て大王の墓ではないが、200m超の大型古墳は大王の墓とみなしていいだろう
陵墓指定されてなくて発掘できた桜井茶臼山古墳にはあれだけ大量の副葬品があったのだから
そもそも、古墳が河内に移る仲哀天皇より前の天皇は、欠史八代を除くと4人しか
記紀には載ってないのだから、記紀に漏れがあるのは確実なんだがね
200年近く政権が続いてるのに4人しかいないのはありえないだろ >>643
Wikipediaによれば、神功皇后が摂政についていた年月が長いだけで、
後半には応仁天皇が即位してしるし、
>>634 にも書いた通りそれなりに出来事の記述もある。
古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物で、
その事業を先導した者の墓になったという説聞いたことがあり、それが本当なら、
一人の天皇の時に複数の大型古墳ができたとしても特に不思議とは思わないけどな。
Wikipediaによれば、3世紀は仲哀天皇より後だし。
僕も1年を2年として数えてたって説は知ってて、半分くらいは信じてるけど、
それでも神武即位はせいぜいキリストが生きていた辺りの時代で、
卑弥呼を欠史八代の時代とするのにはちょっと無理があると今のところは思ってる。 >>644
>古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物で
学校で習ったはずの基礎的な日本史さえ真っ向から否定して、そういうトンデモを信じたければご自由に >>645
古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物という説が
真っ向から否定している学校で習ったはずの基礎的な日本史の事柄って何だろう? 天孫族が水田開拓事業のノウハウを持ってたことが権力を持てた事の大きな要因の一つであり、
日本を豊かな国にしていったことが評価されて天皇は日本の国家元首となっていったと考えれば、
結構合点がいくけどな。 >>647
ヤマタノオロチ征伐とか草薙の剣は治水事業を象徴してるとも言われてるよね
あり得る話だと思う >>648
僕はスサノウが天孫族ではないと思ってるから、
スサノウが持っていた治水事業のノウハウは水田開拓事業によるものではないだろうと思ってるけど、
大陸から来た民族だと考えれば、水田事業のノウハウもそれなりに持ってても不思議はないかな。 もしくは、天孫族はアマテラスの一族とスサノウの一族両方を含み、
結局、日本列島を統括できたのは水田開拓事業を全国各地で推し進めた
アマテラスの一族の子孫だったと考えた方がいいかな? >>650 の続き
アマテラスの一族:華南人と古代日本人の混血(水田稲作系)
スサノウの一族:華北人と古代日本人の混血(金属器系)
が今のところなんとなく信じてることかな。 >>650
日本は水田に向かない地質が多く、全国に当時の水田跡ないけどね >>650
プラント・オパールの発見状況から、約3000年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたと考えるのがもはや通説じゃなかったっけ? >>654
九州南部の土地はやせてるとかいう表現が古事記にあったとは思うけど、
水田稲作が西日本に一気に広がったのは通説だと思うんだけど。
東日本ではスサノウの子孫の一族と懇意にしてた古代日本人が多くいて、
アマテラスの子孫の一族による水田稲作の広がりに対して
抵抗感があっただけなんじゃないかと思うんだけどな。
当時の水田跡がない地域ってどこのことなの? >>655
陸稲による稲作は日本が陸続きだった頃からあったとしても、
特に不思議は無いようにも思うけど。 2008年農業生物資源研究所
イネの遺伝子「qSW5」を用いて解析
温帯ジャポニカは東南アジアから日本に伝播したことを確認
論文としてネイチャー ジェネティクスにも発表 北里大学の太田博樹准教授
(人類集団遺伝学・分子進化学)
下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が沖縄を経由して日本に到達した >>641
>古墳のすべてが天皇の墓ってわけでもないだろうし。
天皇陵とは言わないが、各世代最大の古墳は大王墓であると推定できる
箸中山古墳(280m)→西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)
→行燈山(242m)→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)
→佐紀陵山(207m)→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)
→百舌鳥陵山(365m)→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)
→岡ミサンザイ(245m)
この辺が大王墓なのは揺るがない
箸墓前の纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、東田大塚の4つも王墓級 >>658
稲には詳しくなくて申し訳ないが、言葉から察するに、
熱帯ジャポニカが熱帯地域で生まれ、陸伝いに北上し、
中国辺りで温帯ジャポニカになったんじゃないの?
陸続きのころまでに熱帯ジャポニカが伝わってれば、
黄河・揚子江の河口は九州付近にあったと思ってるので、
当時の中国側の熱帯ジャポニカ栽培地は
東シナ海に沈んだんだろうなと推測してしまうかな。
中国で温帯ジャポニカが栽培され始めたころには日本は海で分かたれてたので、
日本で本格的に栽培され始めるのはかなり遅れたのかなと思ってしまうけど。 >>660
僕の意見に対し何を言いたいのか明確にわかってないかもしれんけど、
>>644 に書いた通り、古墳は水田開拓事業によるものという説を結構信じてるので、
時期によって水田開拓事業の規模も異なり、天皇の墓でも大きさは時期によって違うだろうし、
一人の天皇に対し複数の古墳があっても不思議とも思わないかな。 西暦350年頃、大和政権が出雲を征服したってのは、
武光誠先生が書いてました
そこから三韓征伐の時代に移行するわけです
西暦400年前後
邪馬台国はそれよりはるかに以前である 考古学の○○先生のご意見とか
歴史学の△△先生の論文とか言うのは意味が無い
記紀原理主義者の意見など論ずるに値しない 誰の意見であろうと根拠が存在するなら、聞く耳を持つ価値はあるよ。
その根拠を検証した結果、論ずる価値があるかどうかが決まる。 >>667
九州王朝説を全力で無視している自称学者研究者教育者の方々は耳が痛いだろうなw 交流が絶えてかなり経ってから書かれてる様なコピペ文もあったけど
ギシでは夫子はいなかったと思うけど、他の文献では卑弥呼には男子が二人有と書かれてるものがたしかあったはず?息子を指すとしたらキキでは孫とかだったりするニニギもアエズも神武も実は日女尊の子で息子が四、五人という話がある。
ニニギ、アエズは九州に墳墓があるけど神武は陳寿が来日する前に東遷してて古事記だかでは兄も同行してるよね。他の記録では知らないけど >>598
邪馬台国が188〜
ヤマト政権が3世紀頃から
神武即位が231年として由来してる可能性はどうだろう? 男王はさんで宗女のトヨが、てのは
アエズ王朝からトヨウケ姫ということでは?
モモソ姫にしても神功皇后にしても
男王の次を継いだ宗女って誰?となる どこにあったかじゃなくて、九州から中国、近畿までの広範囲にあったんじゃないのかな。
現愛知県の尾張国は日本の端ってことで
終わり=尾張がネーミングの由来らしいし >>659
僕は、上海から九州北部へ向かう航海より、
むしろ沖縄から九州へ向かう航海の方がリスキーなんじゃないかと考えてる。
上海から東に向かって航海すれば海流の影響でかなり高い確率で対馬の方に向かうだろう。
対馬海峡で対馬/九州北端/朝鮮南端の山をほぼ確実に発見できるだろう。
対して、沖縄から九州に向かった時、下手に黒潮に乗ってしまった場合、
アメリカ西海岸まで流されてしまう可能性がある。 >>675
ゴホウラ貝という沖縄、奄美地方でしかとれない貝を材料にした腕輪がが九州北部から出ている
弥生時代初期から九州北部などでゴホウラの殻を縦切りにして製作した貝輪が盛行し、当時の権力者(主に男性)のステータスシンボルであったと考えられる。
また生息地近くの沖縄本島などでこの貝輪を生産したと考えられる遺跡が多数知られており、ここで粗加工され交易されていたと考えられる。
つまり弥生時代には沖縄、奄美と九州北部は直接交易してたんだよ
貝の分布図を見ると明らかに太平洋側は通っていないhttps://i.imgur.com/w7WoJuj.jpg >>675 の続き
更に、DNA調査の結果を見て、本土人が中国人との混血になってる間も、
琉球人は近代近くまでほぼ純血を守り抜いてたんじゃないかと思ってる。
元々台湾辺りを拠点としていた琉球人は侵略され沖縄に追いやられた過去を持ってて、
大陸人に対してかなり強い拒否反応を持ってたんじゃないかと推測してる。
中国からの文明・文化の流入を拒絶する一方、九州から少しづつ得てたんじゃないかと。 >>676
もちろん、琉球人が黒潮に流されて九州や日本に漂着することは多々あったろう。
しかし、リスキーであり、上海周辺ー九州北部より沖縄ー九州の方が
交流が細かったんじゃないかと推測してる。 >>671
>他の文献では卑弥呼には男子が二人有と書かれてるものがたしかあったはず?
それたぶんこれでしょ?
隋書俀国伝
桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名彌呼 能以道惑衆 於是國人共立爲王
有男弟佐彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面者 唯有「男子二人」給王飲食通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 爲法甚嚴 自魏至于齊梁代與中國相通
夫とか子供とかという意味ではないと思うな いつまで果てしない文献解釈に明け暮れるつもりだろう 神社伝承とか地元の言い伝え、古地名は対象外なのかな 九州島の外まで倭国と認める場合、吉備、出雲、丹波、大和の方が大国だから中国まで行って、媚びてる必要がない。
金印もらって、中国から倭国王と認めてくださいなんて、弱小国九州部族がやる外交。
大和国=D1b系部族がペルシャ方面から沖縄経由で来てたササン朝の有力部族。神武天皇 伊勢神宮
出雲国=インド系部族らが島根拠点にし、大和に滅ぼされ東北へ。出雲大社
吉備国=古墳文化もあり仏教徒の騎馬民族で東欧から日本まで支配していた突厥系。福井から上陸して来たんだわ。応神天皇 氣比神宮
それぞれ立派な神社があり、中国以上の文化技術。 挨拶行ったら勝手に金印くれたんじゃないの
張成の檄も原発事故のときの菅直人みたいな感じで、現場は迷惑してたとか >>683
僕はスサノウの先祖がペルシャ出身なんじゃないかと思ってる。
一つの仮説として、スサの王族の次男坊、三男坊辺りがペルシャ辺りに養子に出され、
またその次男坊、三男坊辺りが新しい金属鉱脈を求めて他の地域に移り、
そういったことを繰り返し東方に移動してきた民族が日本に到着したとき、
スサノウを名乗ったんじゃないかなと想像してる。
D1bとかは、元々の古代日本人が持ってたDNAだと思ってるかな。 >>685
古墳が水田開拓とかスサの王とか、多分お前の情報源分かったわ >>687
スサノウの出身地を昔はイスラエル/トルコ辺りと思ってたのをペルシャに変更したり、
水田開拓事業と古墳の関係についての説は近年の話だが、
全部が全部その情報源に頼ってるわけじゃないよ。 >>678
貝の分布を見れば実際に交易していたわけだから流されてきたわけじゃない
流されたら商売にならないだろう
上海周辺からの交易の跡が何かあるのか? >>688 の続き
発端は小学生のころ有間皇子の処刑に興味持ったり、
高校時代にワーテルローの戦いで金儲けした一族があった話を聞いたりしたことだから。 >>690
まぁいいんじゃない。別に非難したいわけじゃないし
ただ、聞いたことある話だったから >>689
まず1万5千年前くらいまで日本は陸続きで、
黄河、揚子江の河口は九州付近にあったと信じてるから。
海面上昇のより徐々に海で分かたれてったが、
交流を続けようとする努力のおかげで航海技術が発達したと信じてるから。
黄河流域との交流は1万年前には既に途絶えてたろうが、
揚子江流域とは細いながらも弥生時代まで続いてたと信じてるから。
九州北部ー上海周辺を航海で行き来するのは、
九州ー沖縄間や日本ーアメリカ大陸間を後悔するより容易だと思ってる。
もちろん、九州ー沖縄間の交流を否定する気はさらさらないよ。
九州北部ー上海周辺より細かったろうと思ってるだけで。
そして、DNA調査の結果から、
中国ー沖縄間の交流はほとんどなかったんじゃないかと思ってるから、
上海あたりから日本に直接来たと思ってるし。 >>692 の続き
そうそう、かなり後の時代の話になるが、古事記か日本書紀よれば、
仲哀天皇が筑紫で聞いた御神託は朝鮮じゃなく西に向かう事だったみたいなんだよね。 >>691
僕は学者じゃないから、いままで読んだり聞いたりしたいろんな情報から、
自分なりに最もあり得そうなストーリーを推測してるだけだからね。
自分が新発見した情報は皆無で、世界中の情報をすべて集めることができれば、
すべて見覚えのある情報ということになるだろう。 >>680
文献見なくて良いから、桃の種以外のやつ発掘してみてね!
柿の種かw 九州:硯出土、水城C14測定結果AD240年
近畿:桃の種C14測定結果AD125〜230年
大いに拮抗しておるではないか 畿内を中心に東海から九州北部まで勢力圏に治めてたわけだからな >>698
畿内が、というか囲まれてましたって感じだな。
いろんな勢力の協同墓地だろ。 大和が強大だと証明されればされるほど、狗奴国との戦争と称し、
紀伊山地に分け入ってまで熊・猿・鹿を狩ろうとする卑弥呼の愚行は、
援助を頼まれた魏の役人も周辺諸国の王も、
人里まで降りてきて人に危害を加え始めたら、人里で駆除すりゃいいじゃんっ!
と思ってたに違いないと想像してしまう。 硯出土を九州説の根拠にするってどんな理屈だよ?
意味不明すぎる
どういう場所で出土したかも理解してないんだろうな 輸入漢鏡:8割九州/鋳造銅矛:9割九州/金印:九州/最古銅鏡鋳型:九州/最大サイズ銅鏡:九州/最古鋳鉄:九州/最古硯:九州/最古銅柄飾:九州/最古有柄銅剣鋳型:九州/最古戸籍木簡:九州/最古暦実用象嵌大刀:九州
桃の種:奈良 >>701
倭人伝に文書が使われていた記述があるんだからその証として該当するじゃん。 702ニュースソース検討中@自治議論スレ2018/11/28(水) 16:59:40.30ID:/CD7RHIE
輸入漢鏡:8割九州/鋳造銅矛:9割九州/金印:九州/最古銅鏡鋳型:九州/最大サイズ銅鏡:九州/最古鋳鉄:九州/最古硯:九州/最古銅柄飾:九州/最古有柄銅剣鋳型:九州/最古戸籍木簡:九州/最古暦実用象嵌大刀:九州
ガラス壁 錦 (春日市だけ
桃の種:奈良 ショウトクタイシとは倭国の天子タリシホコの日出天子を盗用したことで有名な人物
17条の憲法も盗用 >>709
聖徳太子が盗用したというより、偽書日本書紀が
タリシホコの功績を聖徳太子の功績であるとウソをついている
焚書捏造改竄で後世を欺く不比等の大罪 前方後円墳体制という祭祀統一を果たしたとする大和の位置
https://imgur.com/a/fkJcpUE
どっちから見ても端っこww >>710
君は論理的思考が欠如してるからじゃないの?w
当時、文書を作成するのはそれなりの人達がいる、それなりの場所だよなw
>>713
纒向遺跡で東海式土器が大量に出てくる理由がわかったよ。 >>714
じゃ論理的思考ができると言うなら、硯の出土から九州説につなげるロジックをきちんと説明できるか?
どうせ、九州はこんなに凄いんだぞー、だから邪馬台国は九州だー、というレベルだろうけど >>715
君が同時代における畿内での書類作成の証拠を示しなさい >>715←布教に失敗した畿内教の典型的行動パターン
相手にするな >>716
はい逃げたw
苦しくなると話題をそらすか、相手に筋違いの要求して誤魔化すw 邪馬台国とまったく関係ないモノを根拠だと言って騙すのは詐欺常習犯の九州説らしい
ニュース記事にも九州説につながる発見だなんて一言も書いてないのは、
記者も九州説とは関係ないことを理解してるからなんだがね
九州説の頭の悪さをまた証明してしまったな >>715
わざとだろお前w
傳送文書賜遣隋
海外と手紙のやり取りがあったわけよ。
文書でのやり取りをしたという記述は他の文献にも記載されているよな?
畿内て文書のやり取りをしていた痕跡はあるの? >>723
まだこんなトンチンカンなこと言ってるわ
救いようのない頭の悪さw ID:tgdn2ojz
↑
畿内説ってこんなのばっかw >>725
自分からは畿内での文書のやり取りの証拠も示さず逃亡&逆ギレ
議論するだけムダ
もはや宗教 >>725
>>723のどこに九州説につながる根拠が書かれているんだよw
「九州はこんなに凄いんだぞー、だから邪馬台国は九州だー」そのまんまだろがw >>727
お前畿内説からも見放されてるんだろw
庄内土器とか前方後円墳とか語ってみろよw >>715
前方後円墳体制だの祭祀の統一も現代人からみた後付けのナンチャッテロジックだがなw >>723
倭王因使上表答謝恩詔
魏使に対して卑弥呼は上表文送ってるから文字使用は間違いないはず。帰化人に代筆させたのかもしれんがね。まさか、魏使に対して口頭で皇帝によろしく!とは言わんだろう。 >>728
はいはい、反論できなくなったときの典型的なパターンw
「苦しくなると話題をそらすか、相手に筋違いの要求して誤魔化す」ってやつな 一部の畿内説過激分子のおかげで畿内説全体がうさんくさく見えてしまう
まあ九州説派から見れば好ましいことではある 隋書に文字を知らず百済に仏典を求めて知る、とあるから
邪馬台国の時代は文字の使用はなかったんじゃない?
伊都国は中国との交易があるから例外的に使用していたとは思うけど この硯が九州説の根拠になると思ってるやつは、
記事に九州説のきの字も出てきてないことをどう考えてんだろうな?
記者のことをバカ扱いしてんかな
バカは自分なんだけどw >>734
邪馬台ではなく、邪靡堆でしょ。
しかも遣隋使の時代だから7世紀頃の話。 >>735
メディアと共謀して歴史捏造を試みる畿内説とは違うんだよ。 >>735
隋の時代は日出ずる国で有名な文があるでしょ
その前の話として文字がないってこと
邪靡堆は邪馬台国って書いてあるんだが >>733
wikiにはこんな記述があるのだが…
>以下の3つの中国正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。
>『梁書』
>『隋書』
>『北史』 >>733
大和は文字を知らんかった
邪馬台は知ってた
別の国じゃね? >>739
んなわけあるかw
いくら自説を通したいからといって根本的な歴史的事実を捻じ曲げんな >>741
いやでも隋書で邪馬台国を語ろうとしている時点で君も 昔の中国人が、邪馬台国はヤマトだと言ってるんだよなあ。 隋書は資料価値ないと切り捨てるが、なぜか旧唐書や三国史記を持ち出したりするんだよなw
しかも一部だけを切り取って >>736
畿内説が関連学会で主流になりつつあるのは確かなことだと思う
どちらが正しいのかは分からんが
>>744
おまえはもういいよ
黙ってろ >>146
本居宣長が間違ってるんだよな
古事記も平安時代の偽書だというのが真実だし >>648
それは歴史を隠蔽したくて言ってるだけだぞ
コシノヤマタノオロチは、日本海を渡って越国に渡来した製鉄技術を持ったオロチ族だよ 遣隋使が出入りするようになった時代に、編纂されたり写本されたものは怪しいというだけだろ。
悪気がなくとも改ざんされてしまったとも考えられる。
遣隋使の時代も実はよくわからず邪馬台国が自分たちの国だと思ってた。
梁書編纂の頃にたまたま朝貢に訪れた使者が邪馬ト国はもっと遠いですよ
とか言って水行何日とかが追記されたのかもよ。
さらには魏の時代から邪馬ト国の場所は変わってませんとか聞いて
魏志倭人伝の写本にも追記してしまったとかw
何となくわかるだろ?
両者ともボケボケなんだよ、方角間違えてるしw >>749
要するに文献だけでは限界がある
地方の伝承とか神社に伝わる縁起とか地名とかを
総合的に見ないとね
て言うと特に畿内派からめちゃくちゃ叩かれるんだよなあw
古田武彦の方法そのものだからかな
九州王朝説の評価は別としても、その方法は見習うべきだと思うんだけどね >>701
桃の種とか全く関係ないものをこじつける奴らに言われてもなぁ >>745
西新町遺跡という全国から人が集まってくる貿易拠点のあった場所で硯が見つかり、
それを九州説の根拠だという論理飛躍を指摘しただけなんだがな
奴国と伊都国の間と記事には書かれているが、博多湾に散らばってた貿易拠点を
ここにまとめたものなので、おそらく奴国の領域
硯を使っていたのは、交易のために来ていた韓人かもしれないし、
奴国の人間かもしれないし、奴国以外の人間かもしれない
ここは楽浪土器が出てないので、帯方郡からきた魏や晋の役人ではないであろう
判明してるのは奴国の領域で硯が見つかったということだけ
そして奴国は邪馬台国ではない
奴国から何が見つかろうが、そこは奴国であって、邪馬台国ではない
奴国の出土品から九州邪馬台国を投影するのはただの論理飛躍だっつーの >>750
>>752
ちょっと借りてきたが、遣隋使以前の何の手も加えられていない文章はかえって信頼できるかもしれない。
イ妾(倭)國東南陸行五百里、到伊都國。又南至邪馬嘉(台)國。
百(自)女国以北、其戸數道里、可得略載。
次斯馬國、次巴百支國、次伊邪國。
安イ妾(倭)西南海行一日、有伊邪分(久)國。
無布帛、以革爲衣。
盖伊耶國也
早良区の場所は伊都国の南と言える場所なんだから邪馬台国が出てくるかもしれないぞ。
可能性はゼロでは無いな。 >>754
またそれか
何度も何度も何度も指摘されてるだろが
その大元のソースは倭人伝か魏略
伊都国の南に信憑性なし 桃の種といえば
2千個ですが
つまり箸墓の被葬者が没したときは都合よく夏だったのかな?
当時冷蔵庫なんてなかっただろうし
2千個も保存できるとも思えない >>756
大森貝塚と同じで住民が食った桃の種を一箇所に吐き捨てまくったんじゃないか? >>749
決め手はない、しかし遺跡みれば纒向が有力ってとこでしょう。
纒向が邪馬台、しかしヤマト王権とは無関係って説の人はいないと思うが、ヤマト王権と繋がりあるってなのなら記紀に言及がないことを別途明らかにしないと説得力ない。
記紀があてにならないのはわかるが、どの部分が何故あてにならないのかを言わないとますます胡散臭い独自説でしかないと思うが、、 輸入漢鏡:8割九州/鋳造銅矛:9割九州/金印:九州/最古銅鏡鋳型:九州/最大サイズ銅鏡:九州/最古鋳鉄:九州/最古硯:九州/最古銅柄飾:九州/最古有柄銅剣鋳型:九州/最古戸籍木簡:九州/最古暦実用象嵌大刀:九州
桃の種:奈良 >>756
>桃の種といえば
>2千個ですが
これ、どこから出土したと思ってるの?
辻地区の大型建物近くの祭祀土坑から出たものだよ
もちろん、桃が実る時期に行われた祭祀の跡
果肉が付いていたことが確認できるものもある
九州説の印象操作がひどいけど、「桃の種が出たから邪馬台国」なんて言ってる人はいなくて
桃の種で年代推定したら纒向遺跡の年代が卑弥呼の遣使よりも前だったっていうのが正しい >>759みたいなのは、北部九州全土の弥生時代全期間の積算でこんなにいっぱいって言ってるんだよな
でも、「3世紀」限定で、「伊都国、奴国を除く」と九州からは見るべきものが何も出ていない
古いものがいくらあっても3世紀になくなっていたら意味がないし、
伊都国や奴国でいくら出てもそこに邪馬台国はない >>754
福岡市西区のヨシタケタカキがニニギの宮殿と墓
春日市のスクオカモトがヒミカの墓
後 太宰府へ首都は移転します 700年まで 二、卑弥呼の墓
次は卑弥呼の墓についてお話しします。
2009年5月29日に、NHKや民放各局それに新聞各社が一斉に、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表によるとして、奈良県桜井市にある箸墓古墳(全長280メートル)が
卑弥呼の墓の可能性が強まったとして報道されました。それは同古墳の傍らから出土した土器が、
「放射性炭素(C14)年代測定法」により西暦240〜260年の物と測定されたことにより、卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場し、死亡した年代が一致した、としております。
それでは、卑弥呼の墓について、「魏志倭人伝」には一体どのように記されていたのでしょうか。
「卑弥呼以て死し、大いに冢ちょうを作る、径百余歩。」
とあります。これを箸墓古墳に当てはめて見ます。先ず、「径」とは円の直径を意味しますので、円墳でなければなりません。前方後円墳である箸墓古墳では全くおかしいことになります。
そのため発表では円形部分だけを指すと言っております。その円形部分はおよそ150メートルなので、
「百余歩」ですから一歩は約150センチメートルとなります。皆さんこのような歩幅で歩けますか。とんでもないですね。そこで何と言っているかと申しますと、片足を一歩出しそれが75センチメートル、
次いでもう一歩出して75センチメートル、つまり両足動歩で一歩とするのです。
ところが、この時代の中国では一里が300歩、一歩はその300分の1。そして、一里は77メートルの短里なので、一歩は約26センチメートルです。従って、
卑弥呼の墓「径百余歩」とは、26〜30メートルとなります。
もう一つ「魏志倭人伝」に次の記述があります。それは、倭人の風俗を記した箇所に、
「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛りあげて冢をつくる。」
とあります。中国では、冢は墓よりも小さいものを指しています。そのことを示す有名な言葉があります。すなわち、三国の一翼を担う「蜀」の皇帝劉備玄徳は、
白帝城で己が死に臨み、「墓を造ることなかれ、冢で良い」と言いました。つまり冢は規模とすれば塚です。
また、「大いに」の意は「大きい」ではありません。「大いに励む」とか「大いに○○する」で、「一所懸命○○する」の意です。これも勘違いのもとになっているのでしょう。
これらのことから、卑弥呼の墓は、箸墓古墳などの巨大古墳では決してありえないのです。 >>675
それは知らんし、どうでもよい
DNA分析には関係ない >>765
僕は >>677 にも書いた通り、むしろ九州から沖縄に稲作が伝わった可能性を
今のところは信じいてるだけ。
勉強不足で申し訳ないが、DNA分析でどっちの稲作の方が早いかわかるのかな?
それとも、沖縄の方が稲作が早かったという証拠が他に存在してたりすんのかな? 記紀ってめったに古墳や遺跡物に言及しないけどわざとなのかな
ダったら積極的に破壊してもいいようなものの >>758
巻向はなぁ…大型建物が出土した当時は、外来土器の割合も多かったから期待されたのだけど、
その後が続かなかった
卑弥呼共立後の3世紀前半、外来土器の中に北部九州の土器は殆どない、大陸製品もない、鏡文化もない、鉄も無い、出たのは銅鐸の欠片のみ
3世紀前半は本当に田舎だったんだよ…
ホケノ以降に外から鏡や鉄文化が入ってくる
外部勢力の入植だね
ホケノは布留0からになるから、3世紀後半から外部勢力が入ってきたのだろう >>768
この時期の巻向への入植の方法が論点になるよね
畿内の祭祀や文化レベルが急上昇する
古墳もそう
平和的なのか征服なのか
何となくだけど初期は自由市場のようなものだった気がする
弥生民は米を、海進縄文系は物産を、九州や出雲は祭器や鉄で、それらを集約する市場は自ずと一ヶ所に集中する
唐古鍵や近江伊勢遺跡と直結する系譜とそうでないものの差がはっきりすると明らかになりそう >>769
戦乱の跡が無いから、高文化地域からの平和的入植だったのだろうね
婚姻?同盟?支配?等は謎だけど
巻向は受け入れた側だろう
文献では箸墓はモモソ
ホケノとほぼ同じ時期の墓とみられている
モモソは崇神天皇時代の人
このあたりがヒントだろうね
どちらにしてもやはり卑弥呼には関係ないかもしれんな >>764
短里だけでなく短歩も捏造するのかよw
それなら短尺、短寸も創らないといかんだろうw
ファンタジー九州説は小人の世界だな >>672
邪馬台国が188〜とか、神武即位が231年とか、なんでそんな話に急になるのかよくわからんな。
僕が見た資料なら、231年頃は河内湖は非常に入り江が狭くなり淡水湖になってはずだから、
河内湖から大阪湾への流れが常に存在してたはずだと思うので、
それを遡ろうと必死で漕いでる神武の船団はそこを狙われてたはずなんじゃないかなと思うかな。 >>770
記紀に書かれてたことが本当なら、朝鮮から神功皇后について来た、
もしくは神功皇后が朝鮮にいた時に親しくなった者たちが
後から訪ねて来た可能性は十分考えられると思う。 >>773
面白いね
移入文化=ルーツは他の地方になるからそのルーツの逸話は伝聞や伝説化しやすくなる
記紀はそういうのを集めたのかもな まぁ邪馬台国が後のヤマト王権なのは明らかだわな
3世紀の時点でヤマトと名乗っていたことにもなるな >>768
>大陸製品もない、鏡文化もない、鉄も無い
>ホケノは布留0からになるから、3世紀後半から外部勢力が入ってきたのだろう
こういうデタラメ書いてるんだから情報ソースは察しがつくな
邪馬台国の会とか九州説の個人ブログとかWikiあたりだろう 現状、纒向遺跡が最有力なのは計画的に作られた都市に大陸との交流があったことが大きいな
中国大陸原産のベニバナ花粉が大量にでてるのは染織り技術者の招聘を意味している 東遷説の強引なストーリーも面白いな
纒向が邪馬台国と関係ないことにしたいから北部九州の土器がほとんどないことを強調する
でも、邪馬台国の時代の直後には北部九州からの移住があったことにしたい
今度は纒向に北部九州の土器がないことがネックになってしまうという矛盾
まずは、畿内説を否定しないと次へ進まないからいろいろイチャモンつけてるが
どういう移住ストーリーにするか先を考える余裕がないのだろうか >>778
記紀に書かれてることが正しかったら、
斜め読み程度で読んだことがあるだけなのでちゃんと読めてたかどうか自信はないが、
神功皇后が筑紫から帰ってきた後、大和周辺で悶着起こしまくってたはず。
神功皇后や筑紫から一緒にやって来た連中が大和であまり歓迎されなかったことが伺えるが、
それを東遷と解釈するにはちょっと飛躍があるかなと思うかな。 鏡に関していえば九州で初期の鋳型が発掘されているけど、本格的に仿製鏡が生産されるのは唐古鍵にある鏡作神社に代表されるように畿内だと思う
三角縁の頃は正にその経過点
九州でも畿内でも多く出土される
これは中国への憧れとは違う意味での爆発的ニーズがあったことを伺わせる
ただしそれが卑弥呼の権威のために使われたかと考えると疑問を持たずに要られないが、100枚の鏡というのは仿製鏡を生産するための生産実験としては最適だったかもね
鏡は貴重な大陸文化の化身から、オリジナリティ性の高い祭祀のための道具へと進歩したのだと思う
移入文化を自国で発展させるという誠に後世の日本らしい文化を鏡を通して伺う事が出来るね
卑弥呼の朝貢は、逆に日本のアイデンティティを醸成するためのきっかけと文化伝播を推進したのかもしれない 鏡の価値は女性が化粧や着飾ったりして男性を魅了するため、
男性は鏡を女性にプレゼントすることで女性にもてたいからじゃだめなの? >>781
本当の当時の感覚がわからない以上その可能性もあるね
ロレックスからセイコーへみたいなw
モノが解ってくると恥ずかしくなってつけなくなるみたいなのもあったかもw >>782
金やダイヤモンドだって同じような構図で価値が上がってたと思うからな。 鏡は三種の神器の一つ
鏡、剣、勾玉の組み合わせはまさに古墳時代前期の副葬品そのもの
鏡の伝世の概念は三種の神器に通じるものがある >>781
ないない
銅鏡なんてその時代は女がおしゃれのために持てる時代じゃない
銅という最新の素材と最高の職人の技が必要だった
今の感覚で言ったら庶民が自家用機持つようなもの
気軽に女性にポンポンプレゼントできるもんじゃないよ >>770
倭国大乱、狗奴国と互いに攻擊し合った件、卑弥呼死後の国中が不服で千人が誅殺された事件
邪馬台国も決して平穏ではなかったはず。
でも纒向には痕跡見当たらないな。 >>750
伝承とか神社の縁起とかは、お話として聞くもので鵜呑みにしちゃいけない
参考程度にするのはいいけど、そこをベースにするのはオカルトの世界
古田氏が晩年、東日流外三郡誌に夢中になってオカルト扱いされたことが
その手法の危なさを物語っている >>763
>春日市のスクオカモトがヒミカの墓
卑弥呼をヒミカと読むのは古田史学系の人の特徴w >>771
>短里だけでなく短歩も捏造するのかよw
短里の証明として周髀算経を持ち出すと、
周髀算経の中で、300歩=1里、1800尺=1里とされてるから、
短歩、短尺を認めないといけなくなるw
でもそうすると、影を計る八尺棒も短くなって、
一寸千里の一寸がミリ単位になるというマヌケさ
一応、比例式だから話の筋としては通るけれど、そのミリ単位の寸を計る
ものさしが出てない以上、短寸も短歩も短尺もない
もちろん短里もない 半島や倭地を大きく表現しろと指示されたとすれば、
数値で表すものを大きく見せるのが手っ取り早いでしょう。
里数、戸数、日数はそれぞれ対比された比率を重視すればいいんじゃない? 言葉は九州から南西諸島に伝播したらしいので
稲作も言葉と同様
九州から南西諸島に伝播したのかもしれない >>784
銅鏡と並んで弥生時代の出土品として教科書に載るメジャーな存在なのに銅鐸は大和朝廷側の文献には一切出てこないんだよな。
飛鳥時代や平安時代に出土した記録があるが同時にの人間には理解不能だった。
畿内は銅鐸がよく出土してるのに2世紀あたりからいきなり出なくなる。
九州勢力の東征で大和朝廷ができた時に銅鐸文化圏を駆逐したって本当? >>794
今となっては情弱な話だよ。
半島からの渡来人が日本海沿岸から浸透し、4世紀頃に大和政権を発足させた。
渡来人の流入は8世紀頃まで続いてたとか。
天孫降臨は渡来人とみて間違いない。 >>788
偽書記紀をベースにする既存の関連学会および教育界は超絶オカルトの世界
というか不比等のファンタジーワールド >>794
確かに優秀な技術者を少人数畿内に受け入れてた形跡はあるね
難民化した半島系のほとんどを関東に土地を与えて体良く追い払ったとある
まぁ、一番大量に難民として押しかけてきて居座ったのは九州だけどね >>794
遺伝子の解析が進んですで科学的に判明してるだろ。
日本人の30〜40%が中国や朝鮮とは全く関係ないD1b遺伝子(ユダヤ人と共通する遺伝子)
日本人の30%は8000年前に日本列島で独自に発生したO1b2a1(O-47z)遺伝子
朝鮮半島からの渡来人が日本で爆発的に増えた可能性はすでにゼロ >>770
西暦181年にタウポ火山の大噴火が起きていて
日本の記録にも残ってるはずなんだが
一致するのは崇神紀
つまり崇神天皇は181年頃にはすでに即位していた。モモソ姫も崇神と同時代の人。
卑弥呼が女王になったのが184〜189年なので
卑弥呼とモモソ姫が活躍した時代はピッタリと一致する >>793
仮に1年を2年と数えるやり方で日本書紀が書かれてたなら、
神武東征はキリストが生きてた頃になり、
銅鐸文化圏の消失を説明できそうってやつだよね。
半分くらい信じてるかな。 >>798
縄文時代は朝鮮半島南部にも同民族が住んでたと考えるのが自然だと思うけどな。
その後現代に至るまでに朝鮮半島から消滅したことが分かるだけで。
同民族が朝鮮半島から追い出され、難民として日本列島になだれ込んできた可能性は
否定できないとは思うけどな。 >>793
銅鐸文化が消滅したのって卑弥呼が女王になった時期と同じだから
倭国大乱後の新王朝(卑弥呼が女王)が銅鐸文化を滅ぼしたんだと思うよ。 >>802
もちろん朝鮮半島からの移民がいたことは否定しないけど
科学的な調査の結果、朝鮮半島からの移民の遺伝子は日本列島では増えてないんだよ >>748
原住民のようなオロチ族や周辺部族が製鉄技術があったとは、考えにくい。
当時の製鉄技術で最強部族は突厥(テュルク人)だよ。
貿易で盛んでゾクド人、ユダヤ人など多民族国家の突厥がオロチ方面からきたが正しいのではないか?
越国で生産された鉄で大和が朝鮮半島にも攻めている。 >>804
同じ遺伝子を持つ民族がなだれ込んできても、同じままだという話だけど。 実を言うと、邪馬台国は今でもあるよ
大都会岡山の地下に
今の首長は卑弥子96世 >>793 3世紀に九州部族が 東征ではなく、北陸地方から上陸した突厥族が西征して朝鮮半島まで支配した。
いきなり古墳文化が生まれ、馬の埴輪や、中央アジアみたいな、民族衣装、鉄の鎧がでてくる。 >>803 >>808
奈良県での出土は1世紀辺りから激減してるんじゃなかったっけ? >>810
見つからないだけだろ。
その上の遺跡までしか掘ってないとか。 銅鐸が銅鏡に取って代わられたと話を作って東遷説が唱えられたことがあった
何十年も前のことだけど
ところが、畿内で銅鐸がなくなるは意外に早く1世紀ごろ 銅鐸の消滅を理由に東征/東遷説を主張するには、
時期を紀元前後1世紀辺りにする必要がありそうだよな、現時点では。 奈良県での銅鐸出土の激減時期についてはうら覚えなので自信ないけど。 >>809
銅鐸文化は楽器で、インド系の出雲族の文化と認識しているんだが。
1世紀頃は近畿あたりまで、出雲国の勢力支配下。
沖縄あたりから、近畿に来たペルシャ系大和族が国を開いた。
次に北陸から鉄文化のテュルク族がきて大和と一緒に西征朝鮮へ。
最後、白村江で負け、唐の中国軍勢が大和にきて、唐文化で支配された。
銅鐸と邪馬台国は関係ないとみたほうがいい。 >>814
神武即位は現実的にたどるとAD56年という説かある。
>>816
板違い。
オカルト板にでも行け。 >>815
農耕民族はスサとその周辺に住んでたはずで、
ペルシャに住んでたのはスサと交流してた金属器系山岳民族だと推測してて、
むしろ出雲属の方がそれに該当すると思ってる。
上海あたりから水田稲作を伝来した民族が九州北部で古代日本人と混血になり、
次男坊、三男坊とかが従者を引き連れ領域を拡大していった結果、
日向から大和に一気に東征したと思ってる。
大阪平野の成り立ちと記紀の記述の一致が信頼性を高めてるし。
1年を2年と考える方法は銅鐸の消滅を説明するのにかなり有力とは思うが、
神宮皇后の朝鮮進出を機会に外来人が来た話がもっと後になってしまうので、
現時点ではどうなんだろうと思ってるってとこかな。
応仁、仁徳天皇辺りの古墳が確定し、建設時期が一致してたら納得ってところかな。 >>815
白村江敗戦を契機に防人置いたんだから、
唐の中国軍勢が海を越えて大和まで来たとは考え難いかな。
唐がそこまでして侵略したいと思うほどの物が当時の日本列島にあったとも思えないし。 >>809
畿内では早くから消滅していて、その畿内勢力が倭国大乱を制したということ >>820
で、魏の援助を得て、狗奴国征伐と称し紀伊山地に熊や猿を狩りに行ったと? >>821
狗奴国はのちの時代でいう蝦夷勢力
征夷はこの頃から始まってたということ >>823
魏志倭人伝の其南有狗奴國はどうすんのよ? >>822
魏志倭人伝の其南有狗奴國はどうすんのよ? >>819
防人は倭の五王時代から半島の高句麗との戦いに備えるもの
実際激戦していた 鉄の入手の為に
白村江で負けて唐軍の進駐を受け不要となった
唐は倭国の領土内に留まり 裏切りの奈良政権は安泰だった 普通に東に読み替えてるだけ
日本列島が南北に伸びていると認識していたのは会稽の東と記していることからもわかる 方角間違えたんやろうな
そもそも九州に狗奴国に近い地名ないでしょ
熊襲と狗奴国じゃトマトとたまごくらい違う
どっちもどっちやない? >>828
狗奴国=犬野郎どもの国
自称することは無いだろうな >>826
倭の五王とか、どの歴史書を根拠に語ってんのよ? 日本書紀は奈良政権の正当化を目的として倭国の歴史を盗用改竄したもの その倭の五王と防人のことが載ってる歴史書のリンク教えてよ。 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立
検索ででるかも >>819 郭務悰=マッカーサーに当たる人物が、唐の関係者を2000人以上引き連れ日本に来て帰国していない。
大宝律令で一気に法律も税制、文字も漢字で統一された。
GHQの占領軍なみの出来事だぞ。
遣唐使=朝貢使として貢物を送っている。 ガセというなら奈良のこと
ガセ! 俺のことかと奈良が言う 倭の五王は九州倭国の事だろうよ。
畿内倭国は遣隋使まで朝貢には行かなかったと。
旧唐書の日本人のぎこち無さは朝貢の経験が浅いという事だろう。
邪馬台国の末裔だったなら、散々世話になった中国に軽率な発言はしないだろうからね。 >>840
漢字使用は既に決定済みで、遣唐使送ってたと考える方が自然ちゃう? まともな人がいなくなって、トンデモ度が濃縮されてきてるな
ざっと見たところ、こいつらやばい
ID:DYQBabBw
ID:YFNe87SM
ID:Zuj/N7tD >>845
よう!脳内考古学者!
仕事さぼってないでしっかり布教活動しろ!w >>844
>漢字使用は既に決定済みで
九州で硯が出土してるね。 倭国のイト国王が金印を貰ったのが57年 当然漢字を使用していた ヒミカ時代まで下がると 立派な上表文書を書いている 金印から200年後 こんなんで、よう破門にならんかったな。
↓
>>826 >>799
天の岩戸の神話、日食じゃなくて火山の冬がモチーフだとする説あるよね。
日食は数分で終わり実害ないから。
卑弥呼がアマテラスというのは間違いじゃないのかも。 >>826
白村江の戦いに敗れた倭国軍は大和朝廷じゃなくて九州の独立政権の軍隊?
そんなバカな。 邪馬台国の話題になると詳しいやつが沸きまくるのはなぜ?
ニュー速みたいな中卒ボリューム層では考えられないんだけど
どこかの専門板から出張中? >>835
なぜ天孫降臨が大和朝廷が何度も征服に乗り出した南九州の高千穂なのか?ってなるよね。 古田派もたいがいだけど
偽書記紀を信ずる愚昧な自称学者どもに比べればマシ >>855
ココに来る自称専門家は高校中退の負け組だよ。 >>854
倭国の家来筋 本家倭国 分流奈良 倭国の官位の大倭オオチクシ 若和ワカチクシなどの称号を拝受していた 奈良天皇号にある >>857
>偽書記紀を
この「偽書記紀」という書き方が大好きな人は、
日本が長い歴史のある国なのが嫉ましくてしょうがない人なのかな? 天孫降臨は九州の島を拠点として 九州へは糸島が橋頭堡 次にヒナタ山を東に越えて 福岡平野西部ヨシタケタカキへ進出
先住民リーダーのサルタヒコと戦い後懐柔する
其の後東南へ移動し春日市スクオカモトへ此処がヒミカの宮殿と墓 次に倭の五王時代では太宰府へ首都を移す
倭国終焉の700年まで 700年以降白村江の戦いで敗戦し滅亡した倭国の紀元前からの歴史を 自己のものとして成りすました
奈良政権 其の証明として日本書紀をつくったが皇国史観の呪縛が解けるにつれ襤褸が出始め
人々は正しい歴史を知りはじめた 朝鮮イデオロギーを持ち出すなら 現在の天皇家は継体以降 朝鮮人だが サルタヒコを祀る神社が福岡市西新にあり今も賑わいを見せている
ニニギがきたとき簡単に降伏しておれば人々の尊崇を集める事はなかったと思う
抵抗したからこそ2000年後の今も祀られている >>829
熊野はない
山ばかりで農業生産性もへったくれもないだろ
そんな弱小蛮族に悩まされる邪馬台国に跳ね返ってくる話だわ 【福岡】「畿内説と違って九州説は“おらが町の邪馬台国”的に百花繚乱」 豪族「筑紫の君」に焦点、「邪馬台国八女説」持論の高校教諭
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1543496504/ 卑弥呼死去の後には、越前から天皇が出現している(継体天皇)
より東に勢力があったと考えるのが普通 当時の人は、日本列島は福岡あたりから見て、東南の方向に近畿や関東があったと認識してました。
なので、魏志倭人伝の記述を素直に読めば、畿内説もあながち間違いとは、言い切れない。
そして東遠の東というのは、今でいう北にあたる >>869
>東南の方向に近畿や関東があったと認識してました。
これを証明するような文献が無い >>871
継体天皇は527年没(古事記と九州年号) >>860
ここには様々な立場の者がいるが
さすがにそんな間抜けなことを言うのは
お前くらいだな >>869
まぁ普通に考えたら日本列島の形状が南北に伸びているという認識だったであろうことは会稽の東と記されていることからもわかる
現在の完璧な地図を元に考えても真実には近づけん >>874
会稽の人が海を渡った東に倭国があることを知ってるって情報をもとに書いたんだろうから、
方角が分からないアンポンタンの擁護には使えんよ。 >>875
なんだその意味不明の妄想は
どういう想定だよw >>876
大和の人間にはとてもナンセンスな話だったみたいだが、
筑紫の人は西の海の向こうに非常に豊かな土地があることを知ってたみたいだし、
会稽の人が知ってても不思議は無いよ。 だいぶ南に進んだから位置的には会稽の東辺りだろうという判断だろ 確かに、倭人伝を書いた魏の役人が現代で言うところの小学校レベルの算数が理解できるなら、
奴国が会稽の東辺りにありそうかなくらいはわかったろうな。 >>776
事実だよ
反論できるデータは無いでしょ? >>799
箸墓がモモソだったら、出土物とかなり年代の開きがあり、説明できない >>878
その道程を計ると、まさに会稽東冶の東に在る。
と書いてあるもんね。 鶏と卵じゃないけど、三輪山あっての巻向なのか巻向あっての三輪山なのかを探ることは意味があると思うんだよね
前者なら祭祀の移入があったということになり、後者なら巻向が都市化したなかで祭祀が始まったことになる
卑弥呼を巻向と直結させるにはこれを探るのが近道 寺沢氏によれば三輪山祭祀は3世紀後半以降
だから纒向が先 ヤマト政権は4、5世紀からだった
確か卑弥呼が二人の男子を召し抱えてた
ような文があったと思ったけど確認のため
探し直そうと思ったけど見つかんない >>885
なるほど
そうすると巻向からの初日の出(冬至)の三輪山を祀ったのは都市化して以降だということだね
巻向は祭祀に関係なくそこにあって、そこから日ノ出が拝める三輪山を聖地とした
それが2世紀後半なら解るが、三世紀後半ということは巻向と三輪山は卑弥呼との関連がかなり薄まる
卑弥呼に関連した祭祀を別の場所から移入させたと考える方が自然だね >>184
爺ちゃんがイタズラで銅剣をみんな隠しちゃって大和が攻めてきた時抵抗できなかったんだ
爺ちゃん曰く「いっけねー やっちった やっべー みんな、ごめんね!」 >>887
纏向が都市化した痕跡は皆無だろ情弱w
纏向から住居跡がいくつ出てきたんだ?w >>889
そういえばそうだね抜けてたわ
では卑弥呼が生きていた2世紀末から3世紀初めまでの三輪山の祭祀形態が出てこないということは、巻向では別の祭祀が行われていたか普通の市場を伴った権力者の施設だったということになるかな
どちらにせよこの時系列のズレが興味深い >>891
纏向で東海・伊勢の土器が多く出土してるから東の勢力との交流拠点であった可能性もある。 >>891
何が言いたいのかというと、畿内説の場合の卑弥呼の祭祀と巻向遺跡の関係性に考証的なズレがあるということ
箸墓が唯一の祭祀遺跡と考えるのもおかしいしね
どちらかというと吉備の影響が強いわけだし
一つ可能性があるのは、巻向に居住していた誰かがキリスト教の成立のようにかつての卑弥呼の事績を伝説化させ三輪山祭祀に昇華させたことかな
このストーリー以外だと畿内に卑弥呼が居たという可能性は凄く低くなる >>893
なぜそうなる?
マキムクから祭祀用神殿も出てるだろう。 >>887
>巻向は祭祀に関係なくそこにあって
>卑弥呼に関連した祭祀を別の場所から移入させた
この辺まったく意味不明
単に自分勝手なストーリー作ってるだけだろうが >>892
三輪山の脇に初瀬街道があって名張経由で伊勢まで抜けられたからその可能性は高い
というかこのルートで初瀬で関所を設置すれば東海の物資移入はほぼ独占だったと思われる
東海の産物を独占で仕入れ、初瀬川で麓の巻向や橿原まで運び、大市で売りさばく
そうやって富を蓄積したのではないかな >>895
唐古鍵遺跡も巻向遺跡も、三輪山の日ノ出ラインという特異な立地
ちなみに橿原や葛城は夏至ライン
普通に考えると三輪山を主体として計画された立地に思える
でもその考えは考証的には逆と考えた方が良い
巻向遺跡が2世紀後半から隆盛したとして卑弥呼がそこに居たとすると、祭祀の女王である卑弥呼の存在理由である三輪山祭祀がすでに始まっていないとおかしい
その痕跡がなく三世紀後半から三輪山祭祀が始まるということは、巻向の立地から見て適した位置にあった三輪山に何処からか祭祀ごとを持ってきたと考えた方が辻褄が合うと思うんだ >>895
別に学術研究の場でもないんだし
もっと気楽にしろよ
ID:5aEGotlzの説、魏志の果てしない解釈論争に比べれば
なかなか面白いじゃないか >>898
ペラペラな知識しかないやつが自論と称して、与太話をダラダラ書いてるだけ
科学ニュース板でやることではないよ >>903
ソースが科学ニュースかそれに近ければ良いんだよ
ネットの片隅の匿名掲示板で何言ってんだw >>903
不比等のペラッペラな出来損ない捏造小説日本書紀を基礎として
成り立っている関連学会や教育現場のほうがはるかにひどいだろ 会稽の東治は倭国がチャイナに優れた政冶を行っているという称賛 奈良ではないよ すまん東遷説でも九州説でもない
本当は機内説ですw
だからこそ畿内での卑弥呼の痕跡を認めたいのだが、どうやら三輪山祭祀ではそれを追いかけられそうにない
矛盾を解決したくてもなんの痕跡も説話もないから今後の発掘に期待してる
古墳や土器や副葬品は後世に目立つだけにそれにとらわれすぎてると当時の価値観の観測を間違える様な気がする >>909
「卑弥呼の祭祀」を過大評価しすぎ。
自分の想像と現実が違うから、矛盾だ、という考えは、九州説のメンタリティと同じ。
現実を直視して考えろ。 >>909
機内説なんて書いてるんだから、今さら無理するな どうせ最初は九州説だったのが、論破されて畿内説になったのだろう。
でも、悔しいから、畿内説の穴も指摘したいと。
まず、自分の勉強不足を恥じるべきだ。 >>910
そういうのは有るかもしれないな
特に主義主張なくポイントを絞って考えてみるがなかなか筋が通らないものだよ
銅鏡の分布や出土状況の存在感を思うと当時の祭祀は権力に直結していて決して軽視されるものではないと思うけど、それは前レスのタウポ火山が影響しているからかもしれないね
権力としての祭祀は巻向で隆盛したあと三輪山祭祀と同時進行で巨大古墳が進められる。
これらは祭祀の性格が実在の人物を祀る性格に移行する転換期だと言えると思う
その流れで八幡大社や猿田彦などの人を祀る神社建立ブームを経て、その集大成としての始祖神天照が伊勢に移設される
記紀などの文献に出てこないこれらの痕跡の連係を探るのはとても面白い >>910-912
なんだおまえら
九州説東遷説だから気に入らないって考えか
先入観バリバリの時点で学問をする資格が無い
>記紀などの文献に出てこないこれらの痕跡の連係を探るのはとても面白い
これでいいんだよ
出土物を偽書記紀と矛盾の無いように解釈するバカな学者教育者どもと
比べればずいぶんマシな考え方じゃないかね? モモソヒメ(かぐや姫のモデル)は卑弥呼の子孫
讃岐の国は「竿調国」と呼ばれていたが、かぐや姫が竹から出てきたのはここからきたと言う事かもな。
かぐや姫の事が姫巫女の子孫と呼ばれていたのは卑弥呼からきたと言う事かもな。
吉備津彦信仰にもあるように、卑弥呼は瀬戸内海全域を鏡を使用した遠隔連絡網で掌握していたという事だな >>913
百襲姫と大物主と三輪山は関係あるでしょ
崇神天皇が太田田根子に三輪山で祭祀を行わせたとある
むしろ卑弥呼と三輪山信仰に関連があるのかが不明じゃない? 五,天武天皇の称号「真人」(「八色姓」)は臣下第一等を意味する
天武天皇の諱(いみな)は「天渟(あまのぬ)中原(なはら)瀛(おきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)」であり、「八色姓やくさのかばね」の「真人」の称号を名乗っています(「紀」)。
「八色姓」とは「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師((みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の八つの姓(かばね)をいい、天武天皇十三年(六八四)に制定したとされています(「紀」)。
しかしながら、この六八四年時の宗主国は、まだ九州王朝倭国なので、この記事は矛盾しております。しかも「八色姓」を制定した天武天皇自身が、臣下第一等の「真人」を自らの称号にするということは、全くおかしい話です。
従って、この「八色姓」は近畿天皇家の制定に係るものではなく ☆九州王朝☆ の制度であり、これは大海人皇子(天武)の九州居住時代の称号だったのです。 >>916
記紀は今の考察の考慮のなかに入れていないです
記紀を取り入れると巻向古墳群の在り方や年代感が難しくなるので
モモソヒメは前は卑弥呼だと思っていましたよはい
でも箸墓の逸話以上の事は記紀に何も出てこない
ってことは卑弥呼の伝承は無いか消されていると言う事
畿内説を記紀で紐解くには無理がある 卑弥呼の前の時代に書物に登場する人なんて名前だっけ? 僕、第21代までは捏造だと思うんです
欠史は20代まであって
第10代崇神の四道将軍派遣と
第13代成務の子どもヤマトタケルとの両者による全国制覇は
第21代雄略によって成立した事業を
分散させて創作したんだと思います 根拠も無く思うのはただの空想。
他人の同意が欲しければ物証を出して証明せよ。 2062年から来た未来人知ってるか?
それによれば対馬の厳原 >>918
畿内説になりすました九州説の方ね
結論ありきで妄想膨らましてるから、第三者には意味不明だよ ムー編集長 UFO「存在する」「自衛隊は隠してる」「米国は正体を知ってる」「生きているうちに分かる」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1543627498/l50
マYトレーヤはもう現れている、おまえが見ようとしないだけだ! >>924
纒向遺跡を有力候補と思ってる人たちは、百襲姫で騒いでる人たちと同類なの? 謎は謎としてないと一部の解ってる中から答えを出そうとして拗れる
その上で今ある情報を整理して推測するのは無駄ではないと思うけどね
マスコミの事件報道で身内が犯人と決めつけがちなネット民にはよくあることだが >>927
それは証拠を集めた上での「仮説」としてなら認められるが、
証拠も提示できない「推測」では、話しにならない。 大嘗祭で継体の子孫が云々しているが もともとは倭国の行事だった
他には曲水の宴も然り >>929
最有力というより、現状唯一の候補だと思う
九州説に聞いても九州のどこか、としか返ってこないし >>929
で、百襲姫で騒いでる人たちと同意見なの? >>930
完全に血を絶やしたことを確認できん限り、
神武の子孫である確率も無視できんほど高いで。 神武の子孫は存在するだろうが 権力の座から追いやられたことは確か
神武の子孫は同和とされたと予想する >>931
春日市ノスクオカモトがヒミカの宮殿と墓です >>932
>で、百襲姫で騒いでる人たちと同意見なの?
誰でどう騒いでるん? ムー編集長 UFO「存在する」「自衛隊は隠してる」「米国は正体を知ってる」「生きているうちに分かる」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1543627498/l50
ブッシュも安倍も、世界教師マ¥トレーヤにはかすりもしない! 当時、近畿から九州を支配していた勢力。最も大規模な近畿にいるのが自然な答えだろうな。
九州とするならそれを覆す何かが必要。 >>805
文化は伝播するから
突厥経由でオロチが製鉄技術を持っていたとしても何もおかしくないよ >>815
>>817
ペルシャのスサ→スサノオ
インドのナムチ→オオナムチ
インドのヤマ→ヤマト アメリカは日本の不幸の元凶である。
・アメリカはインディアン殲滅と土地略奪、奴隷貿易で成立したキチガイ国家である。
・その汚らしい歴史を薄めるため、ありもしない南京大虐殺と従軍慰安婦の罪を日本に被せ、自らは正義面をし世界に
アメリカ流をゴリ押ししている。
・中国共産党と北朝鮮そして韓国はアメリカが作った傀儡国である。
・アメリカはこれらの三か国に反日と憎悪を煽り日本への破壊行為の手助けをしている。
・北朝鮮にミサイルを打たせてるのはアメリカである。中国の日本領海の侵入を後押ししてるのもアメリカである。
・日本へのタカリ根性と乞食根性が染みついた韓国北朝鮮中国をとことん甘やかし増長させてるのもアメリカである。
・アメリカは日本を滅ぼす行為を裏で操りながら、守ってやると偉そうに米軍基地を置き日本を監視し独立を
阻害している。
・GHQ体制以後、アメリカは在日朝鮮人を日本の間接支配の道具とし、様々な重要ポストを与え日本人を牽制かつ毀損し
日本人の監視を行わせている。
・芸能界において人気がないにもかかわらず、在日やハーフもしくは白人が起用されるのはアメリカの圧力があるからである。
・アメリカは貿易黒字のドルを金へ兌換することを日本に許さず。エンドレスに米国債を買わせアメリカ経済とドルを
支えることを強制している。
・アメリカは緊縮財政と消費増税かつ東京一極集中を日本政府に行わせ、日本人を貧乏かつ疲弊させ、国力低下と日本人削減を
徹底的に行わせている。
・アメリカは日本政府に移民を大量に入れることを命令し、日本の文化と秩序を壊し、日本を東南アジアのような貧乏かつ
売春大国にしようとしている。
・アメリカは自ら作った国際緊張で日本を脅し、日本の法律と憲法の上に位置するTPPもしくはFTAを結ばせ、日本の主権を奪い
日本人を奴隷にしようとしている。
上の文章を理解できた方は、アメリカを国際金融資本として読んでください。アメリカを操ってるのは国際金融資本(ユダ金)だからです。
日本を滅ぼそうとしてる親玉は国際金融資本です。安倍政権はもっともユダ金に忠実な史上最悪の日本破壊政権。 >>944
私は空気よめない馬鹿なんです
まで読んだ 中国は知識人を排除するような事件あったみたいだし、
古代韓国人は当時の日本以上の文明・文化を持ってたかもしれないが、
近代ではそうじゃなかったみたいだからな。 古代韓国人て家の真ん中に糞尿ためて喜んでた人たちでしょ
略奪ばっかりやって周りの民族から嫌われてたって魏志にあるよね 帯方郡の近くに住んでたのは古代韓国人じゃなく別民族だと思うけどな。
水行の途中で立ち寄った所で見た古代韓国人や狗邪韓国人がそうだったって書いてたの? いわゆる三韓は燕の遺民と秦の難民で中国語を話していた中国人
狗邪韓国は倭人の国だと思う
今の韓国人の祖はワイ族(エベンキ)だと韓国の学者が主張しているけど
遺伝子的にはユウロウ族(のちの女真族といわれている)に近いらしい
>>947はユウロウのことね
李氏朝鮮は女真族国家。韓国ではタブーらしいけど >>950
燕に秦か。
その辺の人間が出雲に文明・文化を伝えた可能性が高いだろうな。
九州は華南人との混血の勢力下だったろうし。
特に秦の方が可能性高そうに思うかな。 >>951
李氏朝鮮は一部の貴族とそれ以外は別民族じゃないの?
まあ、そうだったとしても、もうかなり混ざっちゃってるだろうけど。 >>950
李氏朝鮮は一部の貴族とそれ以外は別民族じゃないの?
まあ、そうだったとしても、もうかなり混ざっちゃってるだろうけど。 李氏朝鮮の支配層と被支配層は別民族と言われているけど、まざったんだろうね
遺伝子調査で現代の韓国人はユウロウ族の住んでいた地域の洞窟で発掘された人骨の
遺伝子とほぼ一致するという結果がでたそうだ
どこまで正確な調査かはわからないけどね まあ、支配層はほんの一部だったって話だし、そうなら、
その前の高麗人がそのユウロウ族だったってことになるのかな。
もし、現代の韓国財閥一族が元支配層だったりするんなら、
別に統計取ったら、ひょっとしたら違いが出たりするんかもしれんな。 >>951
出雲が交易していたのは今の北朝鮮を支配していた中国(紀元前〜) 五、邪馬壹国の所在地
それでは、女王・卑弥呼の国「邪馬壹国」の所在地を古田説に基づきお話しします。
邪馬壹国の玄関・不弥国は、伊都国から東へ100里、つまり7.7キロメートルです。基準となる伊都国は旧怡土村、今の前原市か糸島神社あたりとしますと、不弥国は今宿か姪の浜あたりです。
そこが博多湾岸への西からの入り口、つまり玄関となるので、邪馬壹国は博多湾岸一帯となるのです。
志賀島から朝倉までの線上の中心域がそれで、春日市を中心に博多駅から太宰府までの間は、数多の王墓や考古学上の豪華な出土物の密集地帯、
いわゆる弥生のゴールデンベルトなのです。従来の論者は、ここを3番目の大国「奴国」に当てていますが、
じつはこの地こそ「魏志倭人伝」が記す第一の大国、戸数七万戸に最もふさわしい所、女王の都する国だったのです。
六、女王・卑弥呼ひみか
「魏志倭人伝」に描かれた女王・卑弥呼の人物像は次のようです。
「邪馬壹国は元は男王でしたが、その70〜80年後(二倍年暦であり、実際は35〜40年)、倭国が乱れ、何年も互いに攻伐し合ったので、皆で相談して、
一女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼と言います。卑弥呼は、シャーマンつまり巫女でした。「年すでに長大」は、
『三国志』の「長大」の用法をすべて検証した結果、30歳ぐらいのことを長大と言っていたことが解りました
(従来説の「老人」ではない)。独身で弟が政治を補佐していました。いわゆる姉弟統治です。王となってからは見る者も少なく、婢千人をはべらせて、
唯一人の男性が飲食の世話をし、言葉を伝えるため居室に出入りしたと言っております。宮殿・物見楼・城柵を厳重にして常に兵が守っていました。」
と。謎に包まれた女王卑弥呼は、古来、天照大神あまてらすおおみかみ・神功皇后じんぐうこうごう・倭姫命やまとひめのみこと・
倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことなどに当てられてきました。これについて古田氏は、『よみがえる卑弥呼』 13 で次のように述べておられます。
「天照大神では時代が全く合わない。卑弥呼は中国錦や倭国錦をまとった「錦の女王」であり(なお、この当時の近畿地方からは絹の出土例はないので、
このことからも近畿は後進地帯と言える)、天照大神は布の時代「布の女神」である。
神功皇后は『日本書紀』では「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、卑弥呼は3世紀前半ないし中葉、
神功皇后は4世紀前半ないし中葉の人物であり、卑弥呼に当てはめようにも到底無理である。倭姫命・倭迹迹日百襲姫命は、いずれも中心の権力者ではない。従って該当しえない。」
それではいよいよ卑弥呼の正体は如何に。
『筑後国風土記』逸文に「筑紫君」や「肥君」の祖「甕依姫みかよりひめ」が出ている。この甕依姫が卑弥呼であった。そして、「ヒミコ」と読むのではなく「ヒミカ」である、と。 >>950
ユウロウ族がエベンキのアリラン歌うのは、なぜ? >>958
というか古田史学の会のウェブのコピペだろw
「ヒミカ」とか書いてたら古田史学の会w 九州王朝節を擁護するわけではないが
古田と聞いただけで発狂するのも如何なものか
少なくとも偽書記紀べったりのバカな自称学者研究者どもに比べればマシだろう >>962
そりゃ査読者の大半は焚書不比等の傀儡たる書紀信者の畿内派だからなあ
日本の既存の関連学会、教育界は既に崩壊しているんだよ 古田説を突き詰めれば 現天皇家の否定に繋がると考えるものが多い
皇国史観の毒いまだ消えやらぬ日本
真実は700年以降1300年間の歴史を紀元前より現天皇家だったとしたい儀網 >>965
それはあるかもしれんな
8世紀までしか遡れなくなったからといって
いまさら皇室への支持が弱まる分けでもなかろうに
皇族方からみれば余計なお世話も甚だしいといったところか >>939
まぁ卑弥呼が倭迹々日百襲姫の説が1番強いからそうだろうな
別に騒いでないやん バカな偽書記紀信者の畿内派学者研究者どもも
自分たちの主張のいかがわしさに多少は気づいているのだろう
だけど今更偽書記紀&畿内説を裏切ったら出世の望みが断たれてしまい
生活にも影響が出ちゃう
だから生き恥をさらしながら虚説を声高に主張するマゾヒストにならざるを得ない
少しは同情する
まあ自業自得だが 日本書紀とチャイナや半島の文献と照合も出来ないでは真実の歴史には近づけない 卑弥呼が倭迹々日百襲姫なら
卑弥呼がかぐや姫
竹取り物語の登場人物は全て史実からとったもの ボクのかんがえた邪馬台国ストーリー
畿内は2世紀より弥生と縄文文化が交差した交易が発達していたがブレイクスルーの無いまま富の蓄積が行われ、文化への渇望があった
九州は大陸から交易するため文化レベルは高く祭祀の先進地だったが富の蓄積がままならず飢饉のため新天地が必要だった
出雲や吉備は日本海交易と渡来文化の受け入れに加え鉱物が産出したため銅器や鉄生産などの工業技術に長けていた
これらの文化が争いながらも連合し三位一体が3世紀に行われた
卑弥呼はその連合の象徴として推戴された
それを進めたのは巻向に地盤を築いていたオオクニヌシで、巻向において初めての連合の都を築く
卑弥呼は元は九州奴国の祭祀の女王
王権の都とされた畿内へ派遣されることを拒否し九州の地に引きこもり他界
ヤマト王権は権力掌握時に朝貢することが通例だったため卑弥呼の名において、実質権力は巻向のヤマト王権として朝貢した
卑弥呼の死後祭祀はトヨに引き継がれ王権の体裁を保っていたが、巻向のヤマト王権を磐石とするため、祭祀は卑弥呼の死後数十年後に巻向に祀られる
その巻向での祭祀を受け継いだのがモモソヒメ。
オオクニヌシと卑弥呼が創始したヤマト王権を後世に残すため独自の祭祀が行われた。
その後卑弥呼は、その存在を知らない巻向の人々によって王権祭祀の始祖天照大神として語り継がれることとなった 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 YouTubeによれば
古事記日本書紀編纂者は邪馬台国を消去したかったとか 卑弥呼の墓は出てこないだろう
何故なら残された権力者にとって過大に卑弥呼を崇拝されることは不都合だから
だけど王権にとって祭祀の形式は民衆を纏めるために必要だったジレンマがあったと思う
4世紀に神功皇后が九州で勢力を拡大したとき、九州に残る卑弥呼の威勢を借りて半島に軍を進めた可能性がある
卑弥呼の痕跡を消すタイミングがあるとしたらここだ
陵墓を神社などに改編された可能性もあると思う
北九州各地の重要地に神功皇后を祀る神社があるが、これは卑弥呼の痕跡を上書きした痕跡ではないだろうか
記紀はこの事績をもって卑弥呼の朝貢の事実を確信的にごまかしたのでは
この時神功皇后がとった足跡はまんまかつての奴国の権力範囲だから
ヤマト新王権にまつろわぬ旧倭国勢力を三韓征伐に駆り出す意図があったように思えてならない >>967
日本書紀では時代の違う百襲姫と、どういった根拠で時代合わせするのか聞いてみたいかな。
もしかして、崇神天皇陵とみなされてる古墳が4世紀と推定されてるからとか? 難しく考えすぎなんだよ。
古墳時代初頭で、最大級の古墳がモモソヒメの墓だという確固たる伝承。
男王よりでかい古墳なのだから、実質的女王なのは確定。
その時代の女王の存在の記述は、魏志倭人伝にある。
よって、モモソヒメ=卑弥呼となる。
なんで、こんな簡単な話しが理解できないのか。 銅鐸は金属製の鈴にとってかわられたんじゃないだろうか。
またぞろ渡来人がーて話になるけどさ。 >>1の記事で邪馬台国が大和である可能性は高くなったけど100%ではない
ただし、東征説は100%否定された
まぁ東征説を真面目に追ってた人はいないだろうけどね >>981
出土品が検討違いだから確率は下がったんだよ。
畿内説を推してる毎日新聞だから、こういうタイトルになったわけ。
現地はシラケムード。 >>979
日本書紀のその伝承の部分を読んだことがなかったからだよ。
だから、百襲姫の存在も最近知った。 >>979
箸墓は殉葬の気配無し。
よって埋葬者を卑弥呼に関連付けるのは無理。
ゴリ押しすれば歴史捏造。 記憶が正しければ、奈良県における銅鐸の出土数が1世紀辺りから激減してて、
神武東征がこの前だろうという推測や、
百襲姫の伝承から崇神即位が3世紀中頃〜後半という推測の他に、
日本書紀の年代が西暦でいつ頃と推測されてる件、何があるの?
(仁徳・履中・反正天皇陵が百舌鳥野にある事から年代推測できそうなのも知ってる。) >>982
おまえの情報ソースどんだけ偏ってるんだよ
デマ流しまくってる九州説のサイトしか見てないだろ 確かに何回歩いても百人も殉葬されている
感じではないな
箸墓は >>988
桜井での話だが聞いてないのか?
唐古鍵の方が適切だという意見は意図的に無視されてるんだろ? >>989
周りを歩いて分かるなんて超能力者かw
発掘してないのに殉葬なしってなんで決めつけられるんだよ >>990
現地で聞いた?
誰に?
そんなの発掘担当者じゃないと分からないことだろ? 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 >>992
逆に確率が高いという話を聞いたのはいつだよ?
ずいぶん昔の話だよな?
一旦は立ち消えになったが、忘れられないようにこの桃の種で存在をアピールしているだけ。
出土品の分析などが進むにつれ、邪馬台国とは関係なさそうだとわかってきたわけ。
あと、ただでさえ桜井市の予算は市税で賄えないんだからお察しください。 殉葬が行われてるとしても古墳の外周に沿って上半身を残して埋められたんだから骨は残ってないだろう
死後は犬や鳥に食われたらしいし まぁなんにしても纒向遺跡が邪馬台国なんだろうな
投馬国が妻木晩田遺跡で >>994
捏造はやめろ
一旦立ち消えになったとか嘘が酷すぎる 百人も殉葬しているのは春日市スクオカモトです 疑う向きは一度現地へいきましょう このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 12日 2時間 33分 26秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。