【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542779166/ >>274
>君の信じる日本書紀を読めば 一書に曰と数十回も記載されている
>是が倭国の日本旧記です
日本書紀に一書曰で引用できるなら、燃やされてないじゃん?ww
自己矛盾、お疲れ様w >>276
>日数については、伊都国放射説採用。
オールドタイマーの人だね
中国人でも放射読みをする人はいないよ >>284
>最初は円墳だったが前方後円墳が流行して前方後円墳に
>デザインが変更された。
最初の地割の時点で前方後円形の土地が確保されてるから、デザイン変更説は採れない
箸墓古墳に先行する纏向石塚古墳で既に前方後円形になっているしね
ただ、築造の手順としては、後円部を作って埋葬主体を構築して、
それから前方部の盛土という流れだから、後円部が墓だと認識された可能性はある 日本人に生まれた幸運
https://www.youtube.com/watch?v=tqJfmMKyW-4
知能と技術が”圧倒的に世界一の日本”※一般人が、あの人達を超えました※ >>285
>北部九州の弥生遺跡の多さや密度考えたら九州説やね
これ、奈良文化財研究所の、遺跡データベースだろ?
これは、報告している自治体ごとに基準が異なるから、単純な数では比べられないんだよ
例えば、福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
でも、遺跡の数としては、汐井掛遺跡という共同墓地一件だろ?
奈良の唐子鍵遺跡が一件として登録されているのに対し、
糸島の三雲遺跡群は合計二十四件の登録がある
でもそれは、糸島に唐古鍵クラスの遺跡が24倍あることを意味しない
実は、九州の3世紀の遺跡は、邪馬台国ではないことが確定している末盧国、伊都国、奴国を
除くと、ほとんど何もないんだよ
奴国を上回る規模の国を想定できる遺跡はどこにもない
九州説は考古学的には考えることすらできないもの、ということになる >>294
そして該当しそうな遺跡も出土品も何一つ無いのが畿内な。
現時点、確率で言えば九州説が50%で畿内説が0%だ。 >>288
>「歩」という漢字は、成り立ちからして「複歩」(今で言う2歩)を示す文字
これは殷墟から出土した甲骨文字の研究から解ったことで
周王朝の初期まで使われてたらしい(by wiki)が
その後は中国史から消えてしまい、説文解字の著者の許慎も知らなかったこと。
説文解字によると「行也。从止相背。行く事なり。(篆書体の「歩」の字形を踏まえて)相(あ)い背(そむ)く」コト
歴史に再登場したのは1899年、だ。
つまり魏晋南北朝〜隋唐〜宋、明、清朝末期まで誰も甲骨文字を知らなかった。
甲骨文字の発見と研究は天動説から地動説に転換したのと同じ位のインパクトがあった。
陳寿や「魏略」の著者も「複歩」説を知らなかったので「複歩」説は成立しない。
「複歩」説は時代考証錯誤の一種だ。 < < < 東 日 本 大 虐 殺 > > >
2008年 12808万人 + 5万 △
2009年 12803万人 − 5万 ▼
2010年 12806万人 + 3万 △
2011年 12780万人 −26万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2012年 12752万人 −28万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2013年 12730万人 −22万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
2014年 12709万人 −21万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
https://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a618afaa0113f2a33fbc495f48a2b8c4
移民政策の本当の本音は、原発事故が原因による人口減少を隠して、
「原発事故では被害がなかった」と正当化するための統計的整合性を確保したいのだと私は考えている。
東海アマブログentry-376.html
【アマルガム】 有毒廃棄物として処理される水銀を、口の中ならOK、と歯に詰めた歯科医を逮捕すべき
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1544495072/l50 いやいや奈良の文化財研究所が出してる資料ではなく
伊都国歴史博物館が出している普通の本というかパンフレットみたいな感じ
糸島の全体に弥生遺跡が満遍なく散らばってる、海側から山側まで東西にも地図が示す範囲全体に
こんなの見るとあの辺り全体が弥生時代の都市とも思えてくる >>282
末廬国4000余戸に対し、東松浦半島周辺はそれほど平野には恵まれてない。
これから、漁業で栄えてた国と推測される。
九州北岸から壱岐に渡ろうとしたとき東松浦半島の先端から行くのが最も楽だろうから、
朝鮮南部との交易の拠点としても栄えてたはずであり、
東松浦半島の先端に末廬国の中心的港町があったと考えるのは自然だと思うし、
ここから糸島半島平野部は東より若干南向きで、誤差は45度未満になる。
会稽→九州北岸は非常に難しい船旅ではあるが、
100年に数回行って帰って来た者があれば、知識として残るには十分だろう。 >>286
アンカ遡って話の流れ確認した後、>>273 読んどいて。 >>287
山から掘りだした土をも基本開拓・工事関係に使われたと思われるので一緒。 >>260
その長文自体がくやしさ全開であることを如実に示している
正直でたいへんよろしい この期に及んでいまだに偽書記紀信奉の無惨な畿内派がわめいているとはどういうことだ
焚書不比等の偽書記紀を信奉している時点で研究者としても教育者としても終了しているというのに
そのことにすら気づかないというのはここ数日の寒さで脳みそが凍ってしまったのだろうか? >>304
偽書であろうと真説であろうと
文献無しで土器や古墳の編年は難しい。
吉野ケ里も楼観の痕跡すら出土してないのに
信奉する魏志倭人伝に合わせて楼観をゴッドハンドした。
考古学の限界を露呈してるw >>296
>陳寿や「魏略」の著者も「複歩」説を知らなかったので「複歩」説は成立しない。
>「複歩」説は時代考証錯誤の一種だ。
あんまり笑わせないでくれるかな
説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
「𣥂」というのが「止」の反字(裏返しの字)で、これがそれぞれ足跡を示すので
説文解字も、複歩だという説明そのものだぞ
少し古い字体だと「歨」http://www.zdic.net/z/1c/js/6B68.htm
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ
長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺
周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
これを複歩ではないというやつは、インチキと断じてよい >>301
>山から掘りだした土をも基本開拓・工事関係に使われたと思われるので一緒。
おいおい、
最初は「開拓した時に出た残土を摘んで古墳を作った」説を採用って言ってたじゃないか
開拓⇒残土が出る⇒盛土⇒古墳 という因果だ
「山を掘り出した土」⇒「開拓に使う」というのは
「古墳を山の尾根を切り出して作る」⇒「山を掘り出した土」⇒「開拓に使う」という順序になるので
話の流れが完全に真逆になる
詭弁としても通らないよ >>302
それ、単に「現代日本語」で「思いつき」を書いただけじゃないかww
史書の旅程記事を放射読みで読む理由がない
放射読みの場合は地理紹介記事では普通にあるが、その場合は「方角と距離」が基本で
移動を示す語句(水行、渡海、陸行、泝流など)は付かない >>303
>その長文自体がくやしさ全開であることを如実に示している
長文てw
各項目は2行、3行しか書いてないのにw
九州説の人の読解力の限界はそのあたりにあるんだねw
そして、反論なしの情緒的な言い返しだけしかできない、とwwwww 奴国を上回る規模の国はどこにもないと
邪馬台国連合の最大の国は奴国でいいのかな
畿内纒向は奴国を超える規模の国じゃないと畿内説的にはいけないのではないか? >>304
「偽書記紀」って書くのが大好きな人は、九州説なの? >>298
https://youtu.be/49Vo9D04VE4
ここが天孫降臨の地です ニニギの墓はここから東方へクシフル岳を越えたヨシタケタカギにあります >>310
いや偽書記紀原理主義の畿内派と議論するだけ無駄だろ
原理主義とはそういうものだ
わかりましたか? だいたい名指しもしていないのに>>304に思わずレスしてしまった
>>305 >>312のしょくんは図らずもみずから
わたくしこそは焚書不比等の偽書記紀の信奉者でございます、おそれいりやしたと
自白してしまったようなものだ
他人に噛みつく前にまずチミたちがやるべきことは
パブロフのイヌ的な反応をしてしまったみずからの不覚を呪い、猛省を誓うことである >>308
溝・池等を掘れば残土が出るし、提等を作るには土が必要。
同じ場所で両方を同じだけ作る場合はいいが、
どちらかだけを作る場合は古墳が形成されることになる。 >>309
住処までの旅程を記した後、住処からの各地の場所を記すのは自然だと思う。
魏の役人が残り1300里を水行1月、陸行1月で行くのに、
1日20里強で妥当だと考えたとも思えないし。 >>317
1日20里強というのは、ものすごく妥当
むしろ水行30日と陸行30日から1300里を出した可能性まである >>318
魏において1日20里強の旅程が一般的だったならば畿内説が真であり、
そうじゃない場合は畿内説が偽であるということだね。 >>319
20から25里のように幅はあったとは思うけど妥当な数字
ただ、それだけで畿内説を真というのは早くない?
いや俺は畿内説だからいいんだけどさ >>320
真であるかどうかはどうでもいいが、ここでは1日40〜50里が
一般的だと認識されてたなら畿内説が偽であることを認めるかどうかが本題だ。 >>321
なんや納得してなかったんか
一般的という言い方が分からんけど、軍の行軍が1日30里だから妥当
だから畿内説が真でいいね >>322
まずは >>321 を認めるかどうかに質問に答えてよ。
認めるなら畿内説が偽であることと、君が畿内説派でないか、
中身を知らないかを証明して見せるから。 >>324
日数から里数を出した可能性はないとなるだけで
実際20里強が妥当なんだから、君がどんな資料出しても意味ないよ
だから認めないよ で、俺が納得できる資料がなければ畿内説を真を認めるってことでいい? >>325
逃げるんかよ。
ほんで、早く気づけよ。
20里強はおそらく伊都国放射説を否定する九州説派の言い分で、
伊都国放射説を採用する九州説派と畿内説派の共通の敵だよ。
理解した後、>>300 を読んで、結局同じことを繰り返してることを悟りなさい。 >>326
君が畿内説派だというなら、資料を提供するのは君だよ。
畿内説の中身を否定すると言ってるんだから。 >>321
横レス失礼
中国での1日の移動距離は30里あるいは50里だよ
それと畿内説が成り立つ、成り立たないは関係ない >>320
最後の行は、畿内説の中身を確認してから発言して。
その上の行の信頼性まで失わせることが目的なんかもしれないけど。 アンカ間違えた
>>329
最後の行は、畿内説の中身を確認してから発言して。
その上の行の信頼性まで失わせることが目的なんかもしれないけど。 結局、この件については僕は伊都国放射説を採用する九州説が優位にあると思ってるけど、
どの三説のどれにも一長一短があり、>>233 に書かれてるイーブンに帰結する。 >>332
畿内説が不弥国から邪馬台国へどういった旅程で行ったと思ってるの?
一度検証してみたら。 >>327
何説がどうとか関係ない
1日20里強が妥当という話。整備された街道ならともかく、当時の日本を進むのに妥当だろという話
土佐日記によると1日6km程度、魏晋里で言えば15里ほど
伊都国放射説だとまずいのか?そんなことないだろ(推測)
伊都国放射説以外の九州説は短里前提だし、20里強ということで
何説が有利になるとは思えないから
>>それだけで畿内説を真というのは早くない?
と書いたんだよ。だから逆もそうで、違ったからといって偽でもない
とはいえ俺は20里強が妥当だと思ってるけどね >>335
まず、不弥国から邪馬台国へ水行20日、水行10日、陸行1月の
起点-終点をどこと仮定し何里づつだったと想定してるのかを答えてくれる? >>336
そんなことより、街道でもない整備されてないところを一般的に40から50里ってのを
早く出してよ
出せなかったら認めるって言ったよね >>337
他人の書いてる文をよく読めよ。
結局「>>233 に書かれてるイーブンに帰結する。」と主張してるんだから。
実際が20里くらいだろうが40里くらいだろうが結論は変わらん。
そもそも、一般的に40から50里ってのは伊都国放射説を否定する九州説を
否定するための材料であり、畿内説の武器としてるところだろ。 >>338 の続き
20里くらいという話なら、
伊都国放射説を採用しない九州説がこの件においては優位に立つことは認めるけど。 >>315
あなたのことはこれから「偽書記紀」君と呼ぶことにするよ
で、「偽書記紀」君は、九州説なの? >>316
だから、そんなもの関係なしで、作られている初期大古墳がたくさんあるんだけど?ってこと
>>271の「現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」は、成立しません
その説は、放棄しましょう
自分の間違いが認められるかどうかで、知的水準が分かるよ >>299
>漁業で栄えてた国と推測される
>朝鮮南部との交易の拠点としても栄えてたはずであり
>東松浦半島の先端に末廬国の中心的港町があった
末盧国を東松浦半島の先端に持ってきたいために作った根拠のない妄想
しかも東松浦半島の先端にはほとんど遺跡もなく、4000戸を想定することは全く不可能
末盧国は遺跡や出土品、平野面積から唐津であることはほぼ確定
あとは遺跡レベルでの特定が必要だが
末盧国から伊都国への方角は、90度近くズレているのが結論
>100年に数回行って帰って来た者があれば、知識として残るには十分だろう
これも根拠のない妄想
伊都国放射説は、水行陸行で合計60日が九州では無理だから文献を曲解してるだけ
著者である陳寿の立場で考えたとき、読み方を突然変えて、読者を混乱させる動機がない >>333
>僕は伊都国放射説を採用する九州説が優位にあると思ってるけど、
伊都国放射説は、もう採る人がほぼいない否定された説だと思っていたけれど、
まだ信じている人がいるんだw
それ、九州にするために無理やり考え出された無理読みだよ
「(現在地)移動方向、移動方法、距離、到達地点」がセットで書かれているのは
順次式で読めばよい
そして、到達地点が次の旅程の出発点(現在地)になる >>341
>>287 のは2つしか確認しなかったけど、じゃあ、その初期大古墳を列挙してよ。
そして関係ない理由もちゃんと説明して。
それから、残りの確認に入るよ。 >>342
根拠は書いた通りで、一応遺跡があるってことだし、
もちろん唐津の平野を含めて末廬国だったと思ってる。
魏の役人は伊都国への道中で唐津の平野に一泊して様子を観察しただろうな。 >>349
東松浦半島先端部は入り江が多く港には最適に見えし、壱岐に近い地理的優位もある。
横浜や神戸が糞田舎だというなら、そういう人にとっては妄想としか思えんのだろうけど。 >>350
そもそも唐津にある遺跡を無視して、漁業で4000戸を支えてたというのが妄想なんだよ
証拠も出さずにひたすら妄想が史実だの妄想が根拠だとゴリ押ししてるだけ >>351
唐津にある平野だけじゃ、4000戸を養う農作物の生産は難しそうでしょ。
当時どれだけの平野部分があったんだか。
4000戸を疑問視するか、漁業で補ってたかどちらかになる。
魏志倭人伝に書かれてることを信じるなら、漁業中心と考えるのが自然。 >>352 への追加
漁業と貿易の拠点としての収入中心やな。 >>352
宇木汲田遺跡、桜馬場遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡などいっぱいあるでしょ
東松浦半島の先端にはほとんど遺跡もない
そんな国の端っこを起点にするのは方角を正しいと言い張りたいためのこじつけ
4000戸の根拠となる遺跡、漁業で4000戸を支えていた根拠、貿易で稼いでいた証拠を出せばいい
何も出せないなら、妄想をごり押ししてるだけのこと >>354
遺跡じゃ人は食えんよ。
当時の平野部が50km^2くらいあったのなら、認めるが。 1000〜2000戸くらいは養える農産物を作ってたかもしれないが、
実際住んでたのはその半分くらいとかで、
残りの米で遺跡で出土するようなものと交換してたと考えるのが妥当だろう。 >>355
遺跡があるということは人が住んでいたということ
結局、東松浦半島の先端が末盧国の中心であった証拠は出せないんだな
所詮こじつけのための根拠のない妄想ということだ
末盧国から伊都国への方角は90度近くズレているというのが結論
いくらゴネても証拠を出せなかったおまえの負け
議論終了 >>357
魏志倭人伝の記録が真実かでたらめかの議論で、
「最終的に >>233 に書かれてるイーブンに帰結する。」という話。 なんとなくわかってきたが、
畿内説って魏志倭人伝の都合のいいとかだけしか議論せず、
後は妄想だの遺跡がどうたらでごまかそうとするんやな。
詳しくはないが、畿内説は魏志倭人伝の記録をすべて保証する遺跡あんのか? >>358
方角と距離(日数)がイーブン
邪馬台国7万戸を含む邪馬台国連合で15万戸は九州説前提では不可能
百余歩の墓、邪馬台国の都の候補は九州説では見つかってない >>360
残り1300里を不弥国〜邪馬台国までの行程にどのように振り分けるのかを説明してから、
方角と距離(日数)がイーブン と言ってもらえる。 >>361
魏志倭人伝に1300里だとは書かれていない
文献の改竄は不可
水行二十日、水行十日陸行一月と書かれている >>360
筑紫平野には7万戸余裕で養える平野あるし、
熊本平野だって問題ないだろう。
他産業で補えば7万戸行けそうな平野は他にもたくさんある。
当然、2万戸、5万戸程度なら候補地は多々ある。 >>362
「自郡至女王國、萬二千餘里(帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である)」
と書かれており、不弥国までの距離を引けば1300里になるのは小学生でもわかる。 >>360
むしろ、投馬国の5万戸を養えそうな平野が畿内説の行程にないぞ。 エベンキの国から棄民で北海道に白丁移民で来た、リカチョン
歴史無しの三界に家なし >>363
北部九州と中九州で15万戸だと?
記載のない旁国も含めたら20万戸や25万戸になるだろう
100万人相当の人口になる
九州では逆立ちしても不可能 >>365
投馬国は吉備あるいは出雲
具体的には特殊器台の分布域、あるいは四隅突出型の分布域 >>367
九州平野部の農作物だけではどんなに見積もっても
せいぜい50万戸くらいが限界だろうが、
20万戸や25万戸くらいなら妥当といっとこだろう。 >>369
農作物だけで養うとしたら末廬国といい勝負だろう。
山陰と瀬戸内の平野全部足せば5万戸養えるくらいにはなるんだろうけど。 >>370
九州では不可能
近代以前の日本の人口統計というWikipediaを確認してみな イメージだけで九州説を主張してる人は多いが
畿内説と九州説でイーブンなのは方角と日数のみ
それ以外の点では圧倒的に畿内説が有利なんだよ >>372
仮に500万人で一戸10人なら50万戸、
その半分が九州に住んでたなら25万戸、特に問題は見えんけど。
一戸当たりの人数は10人より少ないと思ってるけど。
九州説の僕としては魏志倭人伝の卑弥呼の時代は九州が中心で、
その頃から7世紀まで人口がほとんど変わってないと思ってるし。 >>375
弥生末期は日本の総人口の半分が九州に住んでたとか、妄想がどんどん酷くなってるなw
しかも学者が遺跡ベースで推定した数値を無視か
九州説は妄想を前提にしなければ成り立たないということだよ >>376
遺跡で全戸数・人口どうやって測るんよ?
日本全域を掘り返して確認したんか?
話次第では、なんか日本の考古学者のレベルが怪しくなってきたかも。 >>376
6,7世紀辺りなら、7,8割が九州・畿内に住んでたと思ってるだけだけどな。
九州25万戸にこだわる必要もないし、Wikiが参照したデータが正しいわけでもなく、
魏志倭人伝に出てくる戸数がすべて九州でカバーしてたとしても
何の不思議もないという話だけどな。 >>373
で伝統の「黥面文身」はイツ頃止めたの? >>344
初期の大王墓と考えられるのが
箸墓古墳、西殿塚古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳、の6つ
箸墓古墳まで(纏向石塚古墳から箸墓古墳までの纏向古墳群)では、弥生時代の伝統通りに
集落と同じ空間に大墳丘墓を作っていたけれど、箸墓古墳でこれは大変だ、となって、
それ以降の西殿塚古墳から行燈山古墳までは山が盆地に接するところの尾根を切り取って
墳丘に仕立てているんだよ
箸墓古墳、西殿塚古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、渋谷向山古墳、行燈山古墳の立地や
どんな古墳なのかも知らずに、邪馬台国論争に参加してるってところにちょっと驚きを禁じえない
それで、「開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」を信じてたら嗤われるだけだよ
さっさと間違いを認めましょうw >>383
学者としては無能、社会にも馴染めない考古学者がバカの壁に張り付いてるだけ。 >>383
それ以外の古墳は開拓・工事のために作られたということでいいのか? >>383
まず箸墓古墳をグーグルマップで確認したが、周りには田畑が多く、
500m離れたところを大和川が流れてる。
当時古墳の半径数キロメートル以内がすべて集落で田畑がなかったとか、
大和川が5km以上離れてたとかそういった証拠提出してから、
”「開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説」を信じてたら嗤われるだけだよ
さっさと間違いを認めましょうw”と言ってくれる?
以後、同レベルのレスだったら無視するから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています