【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542779166/ >>203 の続き
設備的にはこんな感じかな。
>>200
おまえ、ここまで嘘を並べて何をしたいんだ?
嘘を書き続ければ否定できるとでも思ってるのか? >>205
ずいぶんと横暴な言いがかりだな。
>>200に関する学者の見解を説明してみろよ。
「鉄が出ない→鉄は錆びて溶けました」
なんて子供の言い訳みたいなのは無しでよろしく。 本当に、九州説カルトのインチキでたらめの訂正を入れていくのは大変なんだよ >>207
そんなに画力を褒めてもらって、照れるな。
ついでに、いくつかのスレに書かれてたこと読んで考えた
古墳時代前期の今のところの持論についても描いとく。
これだけ、纏向調査して
まともな証拠が出ないんじゃ
むしろ、「纏向は違うよな」って話になるよな >>211
お前の固執ポイントが畿内説とズレとんのが笑えるわ。
たまには人間社会と接しなアカンで。 スレタイに「最有力!」って書いてあって
根拠が桃の種じゃ、大抵の国民は
「なんじゃ、そりゃ!?」としか思わんだろ?
いや、畿内説の人間ですら
内心、そう思ってるからこそ、必死こいて
「最有力!」を押し通そうとしてるような状況であらめ?
誰もが納得できるほどの証拠だったなら
こんながんばんなくていいはずだ 好太王碑
由来朝貢
而倭以辛卯年
来渡海
破百残新羅
以為臣民
倭国の武王のとき半島へ攻め込み新羅と百済を臣民とした と高句麗の金石文 漢は金印を倭国にのみ授けた
半島にはやっていない
東夷の代表として九州倭国へ授けたこと
当然半島も倭国の支配するところ 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 崇神天皇のときに殉葬が初めて行われ、次の垂仁天皇のときに廃止された
箸墓が百襲姫の墓なら殉葬はされている
ただし、その殉葬は結構エグい
宮内庁としては箸墓は特に発掘を許さないと思う >>177
君の知性が普通になることを祈念する 頑張れ >>214の考える、>>211の固執ポイントってどこなんだい?
具体的に指摘してくれよw 九州説は、文句を言うにしても「具体的な指摘」をせずに
ごまかして逃げるから、議論が進まない >>225
初めて来たような顔すんなや。
バレバレじゃどアホ。 魏志倭人伝で邪馬台国の位置が特定できる情報は基本的には4つしかない
・帯方郡からの行程
・7万戸
・卑弥呼の墓
・邪馬台という地名
この中で一番まぎれが少ないのが卑弥呼の墓
約150mの古墳で殉葬100人
殉葬は発掘しないとわからないため、約150mの古墳があるところが候補の最低条件
さぁ、みんな探せ >>223 >>225
関連学会を牛耳り
自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
総力をあげて無視してその存在自体を抹殺しようとしていた九州王朝説が
色々いわれつつもベストセラーとなった日本国記において言及されてしまい
その存在が周知されてしまったことが効いてる効いてるwなのだろうか!? いや〜俺は九州説信者ってワケではないから。
只、畿内(関西)から卑弥呼や邪馬台国と同じ時代の遺跡が発掘される度「畿内で決まり!」と
ばかり宣う畿内説の主張が理解できないだけ。
もちろん畿内の可能性もあると思うけど現段階で断定するには未だ早すぎるんじゃないの? >>229
そうそう畿内の可能性も無いではないが
畿内説論者が支離滅裂な事を言うから
だんだん九州寄りになってくる >>200
吉野ヶ里も楼観、望楼が出土してないのに
唐古鍵出土の土器の絵をパクって復元してるwww 太宰府が倭国の首都の機能を発揮しだしたのはヒミカ以降です
其の後700年まで続きます
その間コウゴイシで有名な太宰府を取り巻く防衛の為の城が造られました
太宰府の首都機能の証明はトトクフ跡の都府楼です
又 正倉院の倍近くある蔵もありました 礎石が証明しています
タリシホコの像も持ち去られ法隆寺に現存します >>227
九州北部の古墳状況は良く知らないが、魏の役人が直接確認しなかったため、
倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
いろいろ考えられるので、これで畿内説の方角間違えたのとイーブンと言ったとこだろう。
そして、7万戸も候補をかなり絞れる情報だと思う。
これを可能にできる平野があるのは、おそらく九州、畿内、中京だと思えるが、
畿内は以後の古墳出現からまだ未開の地が多くそこまで達してたとは思えず、
中京もそこまで開拓が進んでたとは思えない。
消去法的に残るのが九州かな。 出雲大社って高すぎると思っていましたが
国分寺跡にしても高さは40m前後はあったらしくて
柱も40センチくらいで
であれば
出雲大社の高さもあり得ると思いました 畿内は大人しく魏史ではなく記紀の検証をやったらよろしい
その方が結果的に成果が大きいはず >>236
吸収派はまだ出土してない楼観、楼閣を発掘しなさい。
楼観、楼閣のない弥生遺跡は邪馬臺國じゃないからw そうやって予断を以て断定してしまうところが畿内説のダメなところだ。
論理に飛躍があるんだよ。
それがドー卑弥呼や邪馬台国と結び付くと言うのか?
現状ではプレヤマト王権の痕跡でしかないだろうに。 根底が仮定なうえ、希望的観測で論文を発表出来てしまう畿内説なんて異常だよな。 >>240
>論理に飛躍があるんだよ。
何度も説明されてるのに、おまえが理解してないだけだよ
そもそも畿内説を認めたくないのが本心なんだろうがな
一つ一つ理詰めで追い詰められてしまうと、最後は、ヤマト政権なんか認めない、
前方後円墳なんか認めない、と平気で開き直ってたやつだろ?
トンデモ野郎が一人で喚いてるだけ 狗邪韓国
↓海を1000余里
対馬国 1000余戸
↓海を1000余里
一大国 3000
↓海を1000余里
末廬国 4000余戸
↓東南に陸行500里
伊都国 1000余戸←世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所
↓ 東南に100里
奴国 2万余戸←大きい
↓東へ100里
不弥国 1000余
↓南へ水行20日
投馬国 5万戸余←大きい
↓南に水行10日と陸行1月
女王の都のある邪馬台国 7万戸
このまま読み取ると伊都国以降の方位と距離、位置がどうもしっくり来ない
既に天体観測は行われ天文図が存在した時代、方位に大きな誤差があるとは考えずらい
しかし正確に測量した地図は存在しない
当時の日本列島の認識を示した地図
http://inoues.net/mystery/kokusi_zu2.jpg
日本列島は東北方面へ伸びておらず
朝鮮半島から南へ伸びている
つまり不弥国より南へ水行20日という事は投馬国は出雲
更にそこから南に水行10日という事は丹後半島辺り、陸行1月で奈良周辺へ
と考えると辻褄が合う 九州説にも畿内説にも論理の飛躍はあるだろう。
纏向がヤマト王権に連続するのは認められるが、
そこが邪馬台国であると結論づけるのは、なお証拠が足らないと思う。
宮内庁の陵墓の指定がどうなんでしょうと思う程度には纏向=邪馬台国は不確定な気がするが。 他の歴史的事項なら邪馬台国は大和(異説あり)って言い切る段階だと思うけどな
この問題はむしろ論争がメインみたいなところがあるから慎重になってる
九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
そんな意図があるんじゃないかな まぁ畿内、九州の地を幾ら掘り返したところで決定打となるものは出て来ないよ。
もし、そんなもんが出て来るとしたら中国からだ。
今は魏志倭人伝の記述だけだから揉める原因にもなっている。
然るべき(由緒正しい)所から卑弥呼や邪馬台国に関する新たな竹簡でも出てくれば特定されるかもねw >>245
>九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
それ言っちゃダメw >>243
東北地方まで書き込まれてるとこを見ると、
平安時代以後の日本の知識で書かれてると思われるので、
当時の日本列島の認識とは思えないかな。 >>246
要するに、天皇家には関りの無いことだったから伝承されなかったとみるべきだと思うけどな。 捏造の記録を正当化するため過去の史書は燃やしたんだよ 10年タダ飯食ってきた考古学者ってもはや生活保護不正受給者でしかない。
「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」 >「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」
この大型の建物が、宮殿か神殿と言いきれれば、纏向=邪馬台国はずっと現実味を増すけど、そう言い切れないのが泣き所じゃね。 ネイチャー・サイエンスに邪馬台国か卑弥呼を主題にした論文を一等はじめに掲載した説を推すわ ◆何故淑人は「太良」にいたのか
なぜ「多良(太良)」なのか。先生は次のように述べる。【白村江の戦いに沢山の軍船が九州に集まり出港していったはず。博多湾では敵国の眼があり軍事上無理だ。有明海・佐世保湾・大村湾・伊万里湾であろう。
郭務悰は九州王朝の軍事拠点を制圧するために有明海に来たのではないか】と。しかし
有明海は国内第一の干満差のある水域として知られている。大型軍船が自由に動き回れる水域ではない。この袋小路的な海域を拠点にしたら、被占領地の反乱分子によって、場合によっては殲滅される危険性があるのに、何故?
これらの謎について、海域の特性については、国土交通省のこの水域の海底地形図によって、太良町の竹崎港の付近が有明海北部で唯一の自然良港ということが理解できた。近くに、竹崎城(行基開設伝説もある)復元施設もあった。
また、駐留軍の司令官郭務悰がこの袋小路的なところに駐留できたのか、当時の東アジア情勢と唐軍の百済統治政策を調べてみて、理解することができた。
弥生時代以前の小型の船ならばともかく、7世紀の4,50人も乗れるような大型船では、吃水1メートル程度を確保できる接岸施設の確保は難しかった、と思われる。近代になって、
明治41年完成の三池炭鉱の石炭積出港として三池港ドックができるまでは、有明海北部沿岸には大型船舶が直接接岸できる港は、太良町の竹崎港以外はなかったのだ。
以上の事柄、干潟になる海域・古代諸施設など関係個所を地図に表わしてみた。 郭務悰を知らない人へ
白村江で負けた九州和国へ戦後進駐してきた唐の軍人 都合4回来ました >>226
ずっといるけど、ずっと議論にならないんだよ
九州説は罵倒の言葉ばかりで、議論のための「具体論」がない
具体的な議論になると、瞬殺されるからってのは分かってるけどさw >>228
九州説の認識では、そういうことになってるんだw
>関連学会を牛耳り
牛耳るも何も、九州説が一人もいないんだが?
偉い人が畿内説なんじゃなくて、上から下まで全部畿内説だよ
>自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
自称も何も、査読というのはピアレビューだよ
学会という内輪での信用だけで成り立つものだ
そして、排除するしないの前に、九州説の論文を書く人がいない
>学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
下劣なのは、こういう邪推を根拠なく垂れ流す側だろ?
誰も訴えたりはしないだろうが、名誉毀損の構成要件は満たしてるぞ
>なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
誰も焦っていないよ
嘘デタラメは、できるだけその場で訂正しようとしているだけ
一見さんがだまされたらもうしわけないからねw >>232
>ヒミカ以降です
「ヒミカ」表記は古田史学の特徴ww >>233
>魏の役人が直接確認しなかったため、
>倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
記録が漢字で残されているし、それを記録したのが魏の役人なのだから、歩の定義が
違うというのは想定外だろ
倭人に歩や里の定義を伝えた様子は、魏志倭人伝にはないし、隋書の時点で
夷人不知里數但計以日と書かれているのを見ても、里も歩も倭人には
伝わっていないとする方が妥当 >>233
>畿内は以後の古墳出現からまだ未開の地が多くそこまで達してたとは思えず、
>中京もそこまで開拓が進んでたとは思えない。
この部分、理由が「思えない」だけでは意味がないな
大古墳が作れる時点で、それだけの労働力を動員できるだけの生産力があったことが明確
最も大きな人口集積を想定できるのが畿内だよ >>240
>現状ではプレヤマト王権の痕跡でしかないだろうに。
そのプレヤマト王権=邪馬台国じゃないと、タイムスケールに合わないんだよ
卑弥呼の時代・弥生終末期と古墳時代は一続きで間に断絶はない
というより、古墳時代草創期という概念では完全に卑弥呼の時代と重なってしまう >>250
>捏造の記録を正当化するため過去の史書は燃やしたんだよ
>>240にこんなことが書かれているよ
「そうやって予断を以て断定してしまうところが畿内説のダメなところだ。 」
ダメなのは、九州説の方だったみたいだね
「捏造の記録」 ←予断
「過去の史書は燃やした」←予断
どちらも一切根拠なしじゃないかw 邪馬台国が北九州〜東海を勢力圏に持つ奈良を首都とするヤマト国のことだということが認められると
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命ということが成立して
崇神天皇以前の天皇の実在性が明らかになるから
頑なに認めようとしないんだね
それは同時に崇神天皇が初代だという俗説をも屠り
神武天皇まで芋蔓式に存在が立証される契機となる
倭迹迹日百襲姫命の弟が吉備に派遣された彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)だから
桃が巻向から出土してるんだよね >>264
>タイムスケールに合わない
これは異なことを仰る。
それは「天皇は万世一系」を前提にしてる世界観なの?
違うよ。
倭の各地で都市が出現し群雄割拠していた時代だよ。
或いは三世紀、その最大の都市は畿内に有ったかもしれない、、、
だからと言ってソレが邪馬台国とは限らないと言ってるんだよ。
邪馬台国が九州や四国、中国、千葉、、、に有ったとしても全く問題がない。
邪馬台国とは関係なく畿内でヤマト王権が成立するのは可能だろう。 >>262
魏の役人が直接確認せず、倭人からの聴取した情報が記録されたって話。
”里も歩も倭人には 伝わっていない”からこそ、そういった齟齬が起きる可能性を言ってる。 九州は田舎だから発掘できるけど奈良の国宝や大阪はそうはいかないもんな >>268
実際に見て驚いたから報告したんだよ
小さな墓ならわざわざ報告しないし、倭人から大きい墓ですと聞いてもそのまま信用しない
径100歩という具体的な数字もでない >>263
僕は、現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説を採用しており、
大雑把に言えば>>212 >>216 のような考えを持ってる。
よって、魏志倭人伝の卑弥呼の時代大和は開拓に忙しく戦争などやってる余裕は無く、
魏とのやり取りは九州北部勢力の話とした方が自然。
学者ではない自分が持つ情報の範囲内で最もしっくりくるストーリーなだけなので、
断定的な表現を避け、「思えない」といった表現を用いる必要があると思ってる。 >>270
行って直接計測したという証拠がない限り、そうでない可能性は否定できない。
それは、畿内説の方角を間違えた可能性を完全に否定できないのと一緒。 >>265
君の信じる日本書紀を読めば 一書に曰と数十回も記載されている
是が倭国の日本旧記です >>273
可能性は否定できないけどさ
方角に関しては
・方角と日数の通りに行くと海の上になる。方角か日数のどちらかが間違ってる
・方角の間違いは他でもある
・陳寿が女王国を会稽東冶の東にあると考えていた
という根拠があるんだよ
個人的には方角と日数だったら日数を間違える可能性は少ないと思うけど
それは意見が分かれるところ
畿内説が方角を間違いとしているから、九州説に都合の悪いところはすべて間違い
とするのはおかしいと思わないかい >>275
方角については東→南とする以外は30度〜45度程度の間違いで、
いろいろ理由は考えやすいが、畿内説には無理がある。
日数については、伊都国放射説採用。
会稽から東に向かって漕ぎ続ければ海流の影響で対馬辺りに着く可能性が高いだろう。
呉の地域に会稽の東に倭国があるといった情報があったんじゃないかと推測してる。
南に水行20日とあるので魏の役人が倭国南端を東治の辺りと推測したと考えてる。 桃が出た!
→邪馬台国は畿内で確定!
ゴッドハンドかよw
日本の学者って狂人ばっかなの? www >>220
>カンノイ【ト】コクオウ
委奴の「奴」を「ト」と読むのは唐代後半の長安語の発音=音読みである。
唐代前半は「奴」を「ドndo」と発音していた。
万葉集の中で「奴」は「ぬ」を表わす。
3693番の和歌 「夜杼里【奴】流 やどり【ぬ】る 宿り【ぬ】る」の【ぬ】
3691番 遣新羅使,挽歌,雪宅麻呂の和歌「月日毛伎倍【奴】ー月日も来経【ぬ】」
己呂毛弖【奴】礼弖 ころもで【ぬ】れて=衣手【濡】れて
日本では8世紀末に遣唐使が「唐の役人と会話するには長安語音でないと通じない」
と言い始め、5世紀〜8世紀まで漢字は呉音読みが主流だったが呉音で読むべきか
漢音で読むべきかという大論争が起きて収集がつかなくなった。
そこで延暦11年(792年)閏11月、遂に桓武天皇が裁定し、勅令を渙発した。
(原文)勅。明経之徒、不可習吳音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。
(訓読)勅す。明経(めいけい)の徒(と)、呉音ごおんを習(ならふ)可(べ)からず。
発声(はっせい)・誦読(しようどく)、既に訛謬(かびゆう)を致(いた)せり。
漢音(かんおん)を熟習(じゅくしふ)せよ。
しかし仏教の僧侶は依然として民衆に普及した呉音を使い続けた。 今のところ畿内説に根拠なし
by wiki
[箸墓古墳]
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」
と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫
は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。
[纏向遺跡]
世紀を通じて搬入土器のがあるが、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで
生産された搬入土器で占められるものの、九州北部からの土器は少ない。
祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達しするが、大陸との交流を示す銅鏡や刀剣類が非常に少ない。
このことは当時に北九州や大陸には関係の薄い地方王権がこの纒向地域にあったと考えられる。
2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀に建造されたとされる建物の柱穴が100箇所以上にわたり検出された。
建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられる。
一方で、奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、
また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は
北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で
大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な
半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている >>276
>方角については東→南とする以外は30度〜45度程度の間違いで
末盧国から伊都国は90度近くズレている
>会稽から東に向かって漕ぎ続ければ海流の影響で対馬辺りに着く可能性が高いだろう。
当時は沿岸航行の時代であり、東シナ海横断は無理
しかも、船の上だと飲まず食わずということになり、人間は数日で死ぬ 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 >>272
最初は円墳だったが前方後円墳が流行して前方後円墳に
デザインが変更された。
吉野ケ里も楼観、望楼が出土したという証拠が無いのに
望楼がが有った「はず」ニダと復元建築されている
朝鮮クォリティwww 北部九州の弥生遺跡の多さや密度考えたら九州説やね
糸島半島だけで30くらいあるのには驚いた
畿内は未開地に大きめの遺跡がボツボツあるけど
九州は面で広がってる >>268
>魏の役人が直接確認せず、倭人からの聴取した情報が記録されたって話。
ここに無理がある
建忠校尉の梯儁は、封泥で封印された皇帝詔書と親魏倭王の金印を携えて、
卑弥呼を倭王とするために出向いた除正使なんだから、倭女王の都、邪馬台国まで行ってるよ
そしてそこまでの道里戸数は略載されてる
これを、魏使は確認していないというのはただの強弁
途中で日数になるのは、水行時の距離を測定する手段がないため >>271
>僕は、現時点では開拓時の残土が積まれて古墳が作られたという説を採用しており、
では、その説は棄てましょう
渋谷向山古墳や行燈山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳を見れば分かるように、
初期の大古墳は「盛土量が少なくて済むように」山の尾根を切り取って整形することで
大墳丘を作っている
それにそんな山の尾根を開拓する必要はどこにもないだろ
ということで、大古墳を作り始めた時点では、開拓残土という説は成り立たない >>272
>径100歩は25mです 直径25mの円墳
「歩」という漢字は、成り立ちからして「複歩」(今で言う2歩)を示す文字
複歩で25センチってのはどうやっても無理だよ >>274
>君の信じる日本書紀を読めば 一書に曰と数十回も記載されている
>是が倭国の日本旧記です
日本書紀に一書曰で引用できるなら、燃やされてないじゃん?ww
自己矛盾、お疲れ様w >>276
>日数については、伊都国放射説採用。
オールドタイマーの人だね
中国人でも放射読みをする人はいないよ >>284
>最初は円墳だったが前方後円墳が流行して前方後円墳に
>デザインが変更された。
最初の地割の時点で前方後円形の土地が確保されてるから、デザイン変更説は採れない
箸墓古墳に先行する纏向石塚古墳で既に前方後円形になっているしね
ただ、築造の手順としては、後円部を作って埋葬主体を構築して、
それから前方部の盛土という流れだから、後円部が墓だと認識された可能性はある 日本人に生まれた幸運
https://www.youtube.com/watch?v=tqJfmMKyW-4
知能と技術が”圧倒的に世界一の日本”※一般人が、あの人達を超えました※ >>285
>北部九州の弥生遺跡の多さや密度考えたら九州説やね
これ、奈良文化財研究所の、遺跡データベースだろ?
これは、報告している自治体ごとに基準が異なるから、単純な数では比べられないんだよ
例えば、福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる
でも、遺跡の数としては、汐井掛遺跡という共同墓地一件だろ?
奈良の唐子鍵遺跡が一件として登録されているのに対し、
糸島の三雲遺跡群は合計二十四件の登録がある
でもそれは、糸島に唐古鍵クラスの遺跡が24倍あることを意味しない
実は、九州の3世紀の遺跡は、邪馬台国ではないことが確定している末盧国、伊都国、奴国を
除くと、ほとんど何もないんだよ
奴国を上回る規模の国を想定できる遺跡はどこにもない
九州説は考古学的には考えることすらできないもの、ということになる >>294
そして該当しそうな遺跡も出土品も何一つ無いのが畿内な。
現時点、確率で言えば九州説が50%で畿内説が0%だ。 >>288
>「歩」という漢字は、成り立ちからして「複歩」(今で言う2歩)を示す文字
これは殷墟から出土した甲骨文字の研究から解ったことで
周王朝の初期まで使われてたらしい(by wiki)が
その後は中国史から消えてしまい、説文解字の著者の許慎も知らなかったこと。
説文解字によると「行也。从止相背。行く事なり。(篆書体の「歩」の字形を踏まえて)相(あ)い背(そむ)く」コト
歴史に再登場したのは1899年、だ。
つまり魏晋南北朝〜隋唐〜宋、明、清朝末期まで誰も甲骨文字を知らなかった。
甲骨文字の発見と研究は天動説から地動説に転換したのと同じ位のインパクトがあった。
陳寿や「魏略」の著者も「複歩」説を知らなかったので「複歩」説は成立しない。
「複歩」説は時代考証錯誤の一種だ。 < < < 東 日 本 大 虐 殺 > > >
2008年 12808万人 + 5万 △
2009年 12803万人 − 5万 ▼
2010年 12806万人 + 3万 △
2011年 12780万人 −26万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2012年 12752万人 −28万 ▼▼▼ ▼▼▼▼▼▼
2013年 12730万人 −22万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
2014年 12709万人 −21万 ▼▼▼ ▼▼▼▼
https://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a618afaa0113f2a33fbc495f48a2b8c4
移民政策の本当の本音は、原発事故が原因による人口減少を隠して、
「原発事故では被害がなかった」と正当化するための統計的整合性を確保したいのだと私は考えている。
東海アマブログentry-376.html
【アマルガム】 有毒廃棄物として処理される水銀を、口の中ならOK、と歯に詰めた歯科医を逮捕すべき
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1544495072/l50 いやいや奈良の文化財研究所が出してる資料ではなく
伊都国歴史博物館が出している普通の本というかパンフレットみたいな感じ
糸島の全体に弥生遺跡が満遍なく散らばってる、海側から山側まで東西にも地図が示す範囲全体に
こんなの見るとあの辺り全体が弥生時代の都市とも思えてくる >>282
末廬国4000余戸に対し、東松浦半島周辺はそれほど平野には恵まれてない。
これから、漁業で栄えてた国と推測される。
九州北岸から壱岐に渡ろうとしたとき東松浦半島の先端から行くのが最も楽だろうから、
朝鮮南部との交易の拠点としても栄えてたはずであり、
東松浦半島の先端に末廬国の中心的港町があったと考えるのは自然だと思うし、
ここから糸島半島平野部は東より若干南向きで、誤差は45度未満になる。
会稽→九州北岸は非常に難しい船旅ではあるが、
100年に数回行って帰って来た者があれば、知識として残るには十分だろう。 >>286
アンカ遡って話の流れ確認した後、>>273 読んどいて。 >>287
山から掘りだした土をも基本開拓・工事関係に使われたと思われるので一緒。 >>260
その長文自体がくやしさ全開であることを如実に示している
正直でたいへんよろしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています