【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★12
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542779166/ 彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。
公認の学会は彼に講演させることを拒む。
雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。
こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には 全く思い浮かばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルキー(自分達の正統思想がひっくり返される事を恐れる科学の高僧たち)の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信している。
よこしまな中傷といわれの無い攻撃が絶えず自分に向けられている、と彼は主張するのが常である。
彼は自分を、異端のかどで不当に迫害されたジョルダノ・ブルーノ、ガリレオ、コペルニクス、パスツールその他の偉人になぞらえる。 今年の紅白歌合戦で決めたらどうだ
白が勝てば奈良で赤が勝てば九州だ 資料1】
=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
邪馬一国時代のすずり5個出土
交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
邪馬一国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、
柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、
まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。
弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、
「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、
古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。
5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。
長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10.4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0.5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4.4〜5.4センチ。
3個には朱を使った跡があるという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。
柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している >>167
白:奈良、赤:九州の必然性が分からないから、
来年のJ2リーグのアビスパ福岡・V・ファーレン長崎・大分トリニータ・徳島ヴォルティスの直接対決と、
JFLの奈良クラブ・ヴェルスパ大分・テゲバジャーロ宮崎の直接対決で決めよう。
J2とJFLの違いは大分トリニータ=ヴェルスパ大分と考えて
勝ち点が何%上回ってたとかで決めればよい。 >>133
「倭と書いてちくし 」なんて
強引過ぎるw >>162
>教科書から畿内説が消えない理由
それが現時点で最も妥当だと考えられるからだよ
まあ、学説は一つの発見でがらっと変わることもあるからがんばれ
例えば記紀神話で出雲が重要視されていたのは単なる伝説だと思われていたのが
加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の発見で、実際に弥生時代に栄えた国があったことが立証されたりしてるし 文献資料で残ってた出雲大社の巨大神殿の話でも誇大と思われてたが事実だったしね。 >>162
九州説が教科書から消えるから、それでいいのでは? 教科書は1度にまとめて変わるのではなく、少しずつ数年かけて変わっていく
聖徳太子から厩戸王(聖徳太子)への変更も1回で行われたのではなく、段階的に変わっていった
かつては、聖徳太子が超人的な活躍をしたかのような記述だったが、
現在は推古天皇と蘇我馬子と強調して政治を行ったような記述になってる
有名な肖像画ももう載せてない
邪馬台国の記述も同じようなことになると思うけどな
畿内説か九州説かで、教科書が中立の立場を崩した1回目だから、まだ控えめな表現に留まってるが、
今後は改訂のたびに、畿内説寄りの表現を強めていくと思うわ >>175
>巨大神殿、復元する予定とかあったりするんかな?
池上曽根遺跡は巨大神殿、復元して「いずみの高殿」って名前まで付けてる
結局、所在地自治体の財力次第なんだよな
安土町にお金がないから安土城は再建されないけれど、
名古屋市は本丸御殿に続いて名古屋城天守閣も木造で再建することにしたよ >>181
11mか。結構高いな。
高さ約48mと言われる出雲の木造神殿を見てみたいが、
作っても大きな地震あったら倒れてしまうんやろな。
何十年に一度近くを通過する超大型台風とかでも倒れるかもしれんしな。 >>178
チョセン、チョセンとパカにするなアルカニダ >>154
そんな朝鮮の12世紀のウリナラ歴史小説を根拠にするのは頭が可笑しいわ そろそろ本気で邪馬台国とか卑弥呼とかいう
日本を蔑む表記をやめさせたほうがよい。
邪悪の邪。卑しいの卑。いずれも大陸から日本を蔑視した表記である。
ヤマト国。そして、日の皇子(日出処の天子)である。 >>184
遺跡発掘
2世紀後半から3世紀にかけて、近畿から瀬戸内一帯までの広域に出現した高地性集落
瀬戸内海周辺で2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている
同時期にあったとされる倭国大乱
瀬戸内海が中心であった可能性が高い
倭人伝
3世紀に邪馬台国と魏の間で外交使節の行き来があり、国書の交換があった 既存の情報だけで仮説立てるから矛盾だらけになる、当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。 >>185
そもそもその考えを根本から改めた方がいい、邪馬台国がヤマト王権の基板とは限らないしまったくの別系統という可能性すらある。 >>187
>当時の日本列島に現在は名も残ってないような大国がまだ複数個あってもおかしくないはず。
「はず」を言い出したら、何でもありにしかならないから、確認できる情報を基礎として
考えていくしかない
それに、昔も今も住みやすいところは変わらず平野部だし、開発時に遺跡が出たら
報告が義務付けられているから、「まだ見ぬ大遺跡」というのは可能性としてはかなり低い
みやま市周辺には大遺跡はないよ 畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
論法が朝鮮人的で相撲もソメイヨシノも全て朝鮮半島が起源、、、と言うのと同じじゃね? >>190
ホンマそれ。
仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
何の事実かわらんやんw >>191
>畿内説の人の論理円展開の仕方は強引すぎる。
どこが?
具体的に指摘してくださいな
>なら江戸時代に福岡で発見された金印についてドー言う見解なの?
漢委奴國王の印だろ?
本物の、後漢書にも記録のある西暦57年の光武帝への朝貢のときのものだよ
卑弥呼の遣使の約200年前
紀元前から2世紀初頭までは、北部九州が大陸との交流の中心だった
それが倭国乱を経て、3世紀の卑弥呼の遣使の頃にはすっかり倭国内での
相対的地位が下がっていて、従属的な役割しか担えなくなっている
何も問題ないよ
そして北部九州の代表的な国が、伊都国であり、奴国である以上、
北部九州に邪馬台国七万戸が入る余地はない >>191
>仮定に基づいた希望的観測による推測を述べた後に、それが考古学的事実ですとか言うとるw
順序が逆
畿内様式土器が列島の広い範囲で共通に作られるようになって、同じ範囲で共通規格の
前方後円墳を作るようになる
これが考古学的事実であり、この秩序の中心が畿内にあることは間違いない
この時期の編年が3世紀前半から、となれば、魏志倭人伝に書かれた倭国の中心も
畿内ということになる
この部分が推定
考古学的事実が先で、そこから推定してるんだよ >>192
僕は、古墳こそある時期に始まった開拓時に
作られる物だったんじゃないかと思ってるから、
畿内にある数多くの巨大古墳は古墳時代の始まりにおいて
それだけ未開の地があったことを意味するんじゃないかと思われるので、
その頃はまだ九州北部の方が国力が高かったと思うんだけどな。 >>190
金印は黒田藩の殿様か家老が贋作を命じて捏造したという説がある。 >>195
ID:KpujqOKwは自分で全く気付かない頭おかしい奴やから何言うても無駄やで。 纏向遺跡は桃の種の年代が合致しただけ。
文献に記述された邪馬台国と考え得るような出土品も無く、大規模な住居跡も無い宗教施設。
出土した土器類からすると、九州や大陸と交易していた形跡も無い。
福岡で発掘された硯のように、文書をやり取りしていた痕跡も無い。
箸墓古墳はそもそも内部調査をしたこともなく、文献に記述されている
殉葬者100名を伴う様子も無く、前例も無い。
畿内説はまず、話になるものを発掘しろよ。
話はそれからだろ? >>201
それも一つの手やな。
古代出雲歴史博物館にでも誰か進言しといて。 >>203 の続き
設備的にはこんな感じかな。
>>200
おまえ、ここまで嘘を並べて何をしたいんだ?
嘘を書き続ければ否定できるとでも思ってるのか? >>205
ずいぶんと横暴な言いがかりだな。
>>200に関する学者の見解を説明してみろよ。
「鉄が出ない→鉄は錆びて溶けました」
なんて子供の言い訳みたいなのは無しでよろしく。 本当に、九州説カルトのインチキでたらめの訂正を入れていくのは大変なんだよ >>207
そんなに画力を褒めてもらって、照れるな。
ついでに、いくつかのスレに書かれてたこと読んで考えた
古墳時代前期の今のところの持論についても描いとく。
これだけ、纏向調査して
まともな証拠が出ないんじゃ
むしろ、「纏向は違うよな」って話になるよな >>211
お前の固執ポイントが畿内説とズレとんのが笑えるわ。
たまには人間社会と接しなアカンで。 スレタイに「最有力!」って書いてあって
根拠が桃の種じゃ、大抵の国民は
「なんじゃ、そりゃ!?」としか思わんだろ?
いや、畿内説の人間ですら
内心、そう思ってるからこそ、必死こいて
「最有力!」を押し通そうとしてるような状況であらめ?
誰もが納得できるほどの証拠だったなら
こんながんばんなくていいはずだ 好太王碑
由来朝貢
而倭以辛卯年
来渡海
破百残新羅
以為臣民
倭国の武王のとき半島へ攻め込み新羅と百済を臣民とした と高句麗の金石文 漢は金印を倭国にのみ授けた
半島にはやっていない
東夷の代表として九州倭国へ授けたこと
当然半島も倭国の支配するところ 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 崇神天皇のときに殉葬が初めて行われ、次の垂仁天皇のときに廃止された
箸墓が百襲姫の墓なら殉葬はされている
ただし、その殉葬は結構エグい
宮内庁としては箸墓は特に発掘を許さないと思う >>177
君の知性が普通になることを祈念する 頑張れ >>214の考える、>>211の固執ポイントってどこなんだい?
具体的に指摘してくれよw 九州説は、文句を言うにしても「具体的な指摘」をせずに
ごまかして逃げるから、議論が進まない >>225
初めて来たような顔すんなや。
バレバレじゃどアホ。 魏志倭人伝で邪馬台国の位置が特定できる情報は基本的には4つしかない
・帯方郡からの行程
・7万戸
・卑弥呼の墓
・邪馬台という地名
この中で一番まぎれが少ないのが卑弥呼の墓
約150mの古墳で殉葬100人
殉葬は発掘しないとわからないため、約150mの古墳があるところが候補の最低条件
さぁ、みんな探せ >>223 >>225
関連学会を牛耳り
自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
総力をあげて無視してその存在自体を抹殺しようとしていた九州王朝説が
色々いわれつつもベストセラーとなった日本国記において言及されてしまい
その存在が周知されてしまったことが効いてる効いてるwなのだろうか!? いや〜俺は九州説信者ってワケではないから。
只、畿内(関西)から卑弥呼や邪馬台国と同じ時代の遺跡が発掘される度「畿内で決まり!」と
ばかり宣う畿内説の主張が理解できないだけ。
もちろん畿内の可能性もあると思うけど現段階で断定するには未だ早すぎるんじゃないの? >>229
そうそう畿内の可能性も無いではないが
畿内説論者が支離滅裂な事を言うから
だんだん九州寄りになってくる >>200
吉野ヶ里も楼観、望楼が出土してないのに
唐古鍵出土の土器の絵をパクって復元してるwww 太宰府が倭国の首都の機能を発揮しだしたのはヒミカ以降です
其の後700年まで続きます
その間コウゴイシで有名な太宰府を取り巻く防衛の為の城が造られました
太宰府の首都機能の証明はトトクフ跡の都府楼です
又 正倉院の倍近くある蔵もありました 礎石が証明しています
タリシホコの像も持ち去られ法隆寺に現存します >>227
九州北部の古墳状況は良く知らないが、魏の役人が直接確認しなかったため、
倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
いろいろ考えられるので、これで畿内説の方角間違えたのとイーブンと言ったとこだろう。
そして、7万戸も候補をかなり絞れる情報だと思う。
これを可能にできる平野があるのは、おそらく九州、畿内、中京だと思えるが、
畿内は以後の古墳出現からまだ未開の地が多くそこまで達してたとは思えず、
中京もそこまで開拓が進んでたとは思えない。
消去法的に残るのが九州かな。 出雲大社って高すぎると思っていましたが
国分寺跡にしても高さは40m前後はあったらしくて
柱も40センチくらいで
であれば
出雲大社の高さもあり得ると思いました 畿内は大人しく魏史ではなく記紀の検証をやったらよろしい
その方が結果的に成果が大きいはず >>236
吸収派はまだ出土してない楼観、楼閣を発掘しなさい。
楼観、楼閣のない弥生遺跡は邪馬臺國じゃないからw そうやって予断を以て断定してしまうところが畿内説のダメなところだ。
論理に飛躍があるんだよ。
それがドー卑弥呼や邪馬台国と結び付くと言うのか?
現状ではプレヤマト王権の痕跡でしかないだろうに。 根底が仮定なうえ、希望的観測で論文を発表出来てしまう畿内説なんて異常だよな。 >>240
>論理に飛躍があるんだよ。
何度も説明されてるのに、おまえが理解してないだけだよ
そもそも畿内説を認めたくないのが本心なんだろうがな
一つ一つ理詰めで追い詰められてしまうと、最後は、ヤマト政権なんか認めない、
前方後円墳なんか認めない、と平気で開き直ってたやつだろ?
トンデモ野郎が一人で喚いてるだけ 狗邪韓国
↓海を1000余里
対馬国 1000余戸
↓海を1000余里
一大国 3000
↓海を1000余里
末廬国 4000余戸
↓東南に陸行500里
伊都国 1000余戸←世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所
↓ 東南に100里
奴国 2万余戸←大きい
↓東へ100里
不弥国 1000余
↓南へ水行20日
投馬国 5万戸余←大きい
↓南に水行10日と陸行1月
女王の都のある邪馬台国 7万戸
このまま読み取ると伊都国以降の方位と距離、位置がどうもしっくり来ない
既に天体観測は行われ天文図が存在した時代、方位に大きな誤差があるとは考えずらい
しかし正確に測量した地図は存在しない
当時の日本列島の認識を示した地図
http://inoues.net/mystery/kokusi_zu2.jpg
日本列島は東北方面へ伸びておらず
朝鮮半島から南へ伸びている
つまり不弥国より南へ水行20日という事は投馬国は出雲
更にそこから南に水行10日という事は丹後半島辺り、陸行1月で奈良周辺へ
と考えると辻褄が合う 九州説にも畿内説にも論理の飛躍はあるだろう。
纏向がヤマト王権に連続するのは認められるが、
そこが邪馬台国であると結論づけるのは、なお証拠が足らないと思う。
宮内庁の陵墓の指定がどうなんでしょうと思う程度には纏向=邪馬台国は不確定な気がするが。 他の歴史的事項なら邪馬台国は大和(異説あり)って言い切る段階だと思うけどな
この問題はむしろ論争がメインみたいなところがあるから慎重になってる
九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
そんな意図があるんじゃないかな まぁ畿内、九州の地を幾ら掘り返したところで決定打となるものは出て来ないよ。
もし、そんなもんが出て来るとしたら中国からだ。
今は魏志倭人伝の記述だけだから揉める原因にもなっている。
然るべき(由緒正しい)所から卑弥呼や邪馬台国に関する新たな竹簡でも出てくれば特定されるかもねw >>245
>九州説を主張してる方がみんなご高齢だし、そのままそっとしてれば自然と九州説もなくなる
それ言っちゃダメw >>243
東北地方まで書き込まれてるとこを見ると、
平安時代以後の日本の知識で書かれてると思われるので、
当時の日本列島の認識とは思えないかな。 >>246
要するに、天皇家には関りの無いことだったから伝承されなかったとみるべきだと思うけどな。 捏造の記録を正当化するため過去の史書は燃やしたんだよ 10年タダ飯食ってきた考古学者ってもはや生活保護不正受給者でしかない。
「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」 >「2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。」
この大型の建物が、宮殿か神殿と言いきれれば、纏向=邪馬台国はずっと現実味を増すけど、そう言い切れないのが泣き所じゃね。 ネイチャー・サイエンスに邪馬台国か卑弥呼を主題にした論文を一等はじめに掲載した説を推すわ ◆何故淑人は「太良」にいたのか
なぜ「多良(太良)」なのか。先生は次のように述べる。【白村江の戦いに沢山の軍船が九州に集まり出港していったはず。博多湾では敵国の眼があり軍事上無理だ。有明海・佐世保湾・大村湾・伊万里湾であろう。
郭務悰は九州王朝の軍事拠点を制圧するために有明海に来たのではないか】と。しかし
有明海は国内第一の干満差のある水域として知られている。大型軍船が自由に動き回れる水域ではない。この袋小路的な海域を拠点にしたら、被占領地の反乱分子によって、場合によっては殲滅される危険性があるのに、何故?
これらの謎について、海域の特性については、国土交通省のこの水域の海底地形図によって、太良町の竹崎港の付近が有明海北部で唯一の自然良港ということが理解できた。近くに、竹崎城(行基開設伝説もある)復元施設もあった。
また、駐留軍の司令官郭務悰がこの袋小路的なところに駐留できたのか、当時の東アジア情勢と唐軍の百済統治政策を調べてみて、理解することができた。
弥生時代以前の小型の船ならばともかく、7世紀の4,50人も乗れるような大型船では、吃水1メートル程度を確保できる接岸施設の確保は難しかった、と思われる。近代になって、
明治41年完成の三池炭鉱の石炭積出港として三池港ドックができるまでは、有明海北部沿岸には大型船舶が直接接岸できる港は、太良町の竹崎港以外はなかったのだ。
以上の事柄、干潟になる海域・古代諸施設など関係個所を地図に表わしてみた。 郭務悰を知らない人へ
白村江で負けた九州和国へ戦後進駐してきた唐の軍人 都合4回来ました >>226
ずっといるけど、ずっと議論にならないんだよ
九州説は罵倒の言葉ばかりで、議論のための「具体論」がない
具体的な議論になると、瞬殺されるからってのは分かってるけどさw >>228
九州説の認識では、そういうことになってるんだw
>関連学会を牛耳り
牛耳るも何も、九州説が一人もいないんだが?
偉い人が畿内説なんじゃなくて、上から下まで全部畿内説だよ
>自称査読によって九州説を徹底的に排除し続けるという
自称も何も、査読というのはピアレビューだよ
学会という内輪での信用だけで成り立つものだ
そして、排除するしないの前に、九州説の論文を書く人がいない
>学者研究者にあるまじき下劣な態度でのぞんできたにもかかわらず
下劣なのは、こういう邪推を根拠なく垂れ流す側だろ?
誰も訴えたりはしないだろうが、名誉毀損の構成要件は満たしてるぞ
>なぜそれほどまでに焦りマル出しなのか興味深い
誰も焦っていないよ
嘘デタラメは、できるだけその場で訂正しようとしているだけ
一見さんがだまされたらもうしわけないからねw >>232
>ヒミカ以降です
「ヒミカ」表記は古田史学の特徴ww >>233
>魏の役人が直接確認しなかったため、
>倭人が歩を歩幅と勘違いしてたとか、周りの長さを伝えたのに径だと誤解したとか、
記録が漢字で残されているし、それを記録したのが魏の役人なのだから、歩の定義が
違うというのは想定外だろ
倭人に歩や里の定義を伝えた様子は、魏志倭人伝にはないし、隋書の時点で
夷人不知里數但計以日と書かれているのを見ても、里も歩も倭人には
伝わっていないとする方が妥当 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています