【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
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産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ >>83
これまた痛々しい反論だなw
だが心配無用。
君が信頼する考古学者というのもその程度だからw >>84
お前みたいに反論すらできないヤツは
みっともないから引っ込んでろ。 >>77
仮説のいみしってる?
他のみんな、特にあんたのいう学者までもが、
あんたと同じ仮説と同じ意味で使ってるって思わないほうがいい
そら、良心的な学者なら、決定的な証拠が出るまで、仮説ていうわな >>86
文献が間違っているという仮説の上にさらに邪馬台国が大和王朝の源だという仮説←畿内説
文献から推測された仮説←九州説 なるほど新羅本記では
卑弥呼の時代に
朝鮮に使者を出し難民が出るほど飢饉になり倭軍が朝鮮を攻めたことになるのか
卑弥呼意外に忙しい人生だな >>81
笑ったよw
墓を大きく造ったという事は、その前に小さい墓があったという事だから、箸墓古墳より小さな前方後円墳の方が古いという事も言えそうだね。 考古学を捏造と決めつけてるやつが短里を捏造する
おもしれー >>23
>「青大句珠」の「大句」は何を指してるのかね?
青い大きな「句玉=勾玉まがたま」だよ >>46
>『魏志倭人伝』って中国の正史の一部だからね。
>他の資料とは価値が違う。
とはいえ、最初から正史として編纂された訳ではなく、
元来は陳寿個人による私撰史書だよ
それが唐代に史書を正史として整備しようという流れの中で、
三国時代の正史として陳寿の三国志が選ばれた、というもの
唐代に至るまでの間は、特に公的な書物でもなかったし、
伝本も多くは作られていないようだ
現状の底本とされている「紹煕本」「紹興本」が、陳寿が書いたとおりかどうかは
確かめようがない >>64
>57のレスが興味深いな
>タウポ火山の噴火
これが181年
大陸史書では、混乱の時代という意味で、桓霊の間という言い方をするけれど
霊帝の西暦184年に起こった黄巾の乱も、この火山噴火による寒冷化による飢饉が
その原因と見られているからね >>72
>173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。
>※卑弥呼は、173年には、女王になっていたようです。
これのソース、三国史記(1145年完成)だろ?
12世紀成立の書で、2世紀のことを語るのは、信憑性なかろ? >>77
>畿内はまず記録上の道程で外れるんだから完全に仮説だ。
何度か貼っているけれど、これが一番、整合性が高いと思う
距離はヤフーマップで適当に直線(折れ線)で計っているから適当
福岡付近から、出雲まで水行20日
ただし出雲の場所が決めがたく、
出雲大社や西谷墳墓群がある出雲平野か、
熊野大社や出雲国府が置かれた松江平野か、
あるいは妻木晩田遺跡のある大山付近か、いずれかが候補
そこから丹波へ行くまでが水行10日
丹波の上陸地点は、網野銚子山古墳のある網野町か、神明山古墳のある丹後町竹野の竹野川河口付近
地名からすると記紀に丹波竹野媛(開化天皇妃)があることから竹野が有力、地形的には離湖という潟湖がある網野かな、とも思う
どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
水行中の日数は、夜に浜辺で休んだ日数や潮待ち、天気待ちも含むと思う
投馬国滞在日数は含まないんじゃないかな これはあくまで「かな」程度
陸行部分は、途中の集落の滞在日数も含むと思うが、そんなに大きな町も途中にはなさそう
あっても、丹波国の竹野付近と与謝野町くらいかな
遺跡の分布や神社の名前からして、出雲と大和の往来はこのルートでいいんじゃないかと思っている
ただ、丹後半島を縦断するより、回りこんで若狭湾に入った方が楽かもしれないとも思う >>96
>タウポ火山による神武東遷!
神武東遷は、もっと古くしないと年代が合わないと思う
古系図研究家の宝賀寿男氏は、他の豪族の世代との対照・比較から
神武から崇神まで五世代と推定している
>>57の書いてくれている
「崇神5年 疫病が流行し、人口の半分が死に至った。
崇神6年 農民が農地から離れる。農民の反逆が収まらなかった。 」
が、タウポ火山噴火の影響と見た方が年代が合うと思う >>98
わざわざ、返信と訂正ありがとう!
思考停止して、記事の内容そのままかいちゃいました。 昨日のことって覚えてるよね。1000年前も昨日の積み重ねなのにどこで分からなくなるの? >>95
中国の記録を写している可能性がある3世紀頃の部分は信じるしか無いのでは?
少なくとも丁度この時期をはぐらかしている日本書紀よりはマシでしょう。 ガラス製の青い大きな壁です 春日市付近で作成されました
奈良ではありません日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>101
>中国の記録を写している可能性がある3世紀頃の部分は信じるしか無いのでは?
>少なくとも丁度この時期をはぐらかしている日本書紀よりはマシでしょう。
「中国の記録を写している『可能性がある』3世紀頃の部分」
可能性がある、を根拠にしたら、何でもアリにしかならないんだよ
可能性の有無、さらに言えば可能性がないことを立証するのはほぼ不可能だからね
いわゆる「悪魔の証明」というやつになる
そして、「2世紀の卑弥呼」を「中国の記録では確認できない」にもかかわらず
「中国の記録を写している可能性」を言うのは、牽強付会に過ぎるだろう
三国史記が成立した12世紀は鎌倉時代直前の源平争乱の時期
平安時代までに大陸の史書を遣唐使が輸入しまくった日本側にもそんな記録がないのに
三国史記を根拠に2世紀の卑弥呼を語るのは無理がある >>100
>昨日のことって覚えてるよね。1000年前も昨日の積み重ねなのにどこで分からなくなるの?
君は、3歳の誕生日の前の日のことを覚えているかい?
覚えていないなら、そこで分からなくなっているんだよ 大田田根子というひとがポイントで
このひとは下野した旧勢力(大国主)の中枢にいたひとで
国内の事情を知り尽くしているこのひとの一族を祭祀(諜報)集団として雇ったために
うまくまわるようになったということなのかな。 日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り
2000里は140Km 一里75m 日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました
テンムの部下は実際の距離を知らなかったのですね 当時は唐制の里単位でした 古事記も日本書紀も中国の王朝みたいに王朝交代があって
新たに編纂した歴史ということなのか。 古事記と日本書紀でヤマトの表記が違うらしくて
古事記は推古天皇までらしい。
古事記は倭の記録で推古天皇までが倭だったんだろうな。
あとヒルコという神の扱いにも差があるようだが。 >>103
多少のズレはあったとしても、後漢書でも倭国大乱は2世紀終盤に卑弥呼を女王に立てて終息したことが書いてあるんだから、2世紀に卑弥呼が女王になったと言えるでしょ。 >>97
南の投馬国が東の出雲だと言うのであれば、さらに東に至る邪馬台国は北陸辺りになるんじゃないの? >>110
>多少のズレはあったとしても、後漢書でも倭国大乱は2世紀終盤に卑弥呼を女王に立てて終息したことが書いてあるんだから、2世紀に卑弥呼が女王になったと言えるでしょ。
言えないよ
魏志倭人伝には
「其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。」と
あるだけで、二世紀末とも後漢末とも書いていない
後代史書には後漢書「桓靈閨@倭國大亂」、晋書「漢末倭人亂攻伐不定」、
梁書「靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年」とあり、これを根拠に2世紀末だとするのが
半ば定説になっているけれど、「桓靈閨vというのは「乱世を示す常套句」として
使われており、後漢書でも5世紀成立で200年後のもので、どこまで信頼できるかは不明
卑弥呼の没年(248年)から考えて、50年を超える在位は考えにくい >>111
>南の投馬国が東の出雲だと言うのであれば、さらに東に至る邪馬台国は北陸辺りになるんじゃないの?
>>97に示した経路だと、陸行の最後の奈良盆地に入るところが平城山越えで南向きになる
最後の行程は南に陸行してヤマト国に至ることになる
案外、投馬国・出雲までの水行には方角が付いていなくて、この最後の京都盆地から
奈良盆地へ向かう陸行の南向きに釣られて、全部「南至」にしてしまった可能性まで
あるんじゃないかと思う 竹取り物語の起源が桜井市なのは偶然?
第11代垂仁天皇と年代がかぶるが、どちらがおさめていたのか?
当時の天皇の妃「迦具夜比売命」がかぐや姫であり卑弥呼? >>113
それなら方角が変わった陸行部分は至西と書きそうなもんだが?
または、素直に東に水行、又東水行、至南陸行と書くだろうよ?
律儀な陳寿さんなら。 水行陸行で気になるのは戸数表記の部分。
[有]弐萬餘戸でなく[可]弐萬餘戸と変化している。
やはりこの投馬国と邪馬台国の部分だけ改竄されたと思うな。 >>115
>または、素直に東に水行、又東水行、至南陸行と書くだろうよ?
>律儀な陳寿さんなら。
律儀な陳寿さんが自らヤマト国を訪ねたなら、そう書いただろうよ?
でも、陳寿さんは大陸から一歩も出ていなくて、
倭国は「當在會稽、東冶之東」という大陸地理観の常識の下にある
魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
この3.の記録に、投馬国までの方角がなかったら、陳寿さんは南と書くより
ほかにないし、ヤマト国までの方角もどこまで細かく書かれていたかは疑問
当時は木簡や竹簡に書いていたのだろうけれど、あんまり大量には持ち運べないだろうし もしそうであれば、かぐや姫に求婚して難題を突きつけられて困ってしまった5人の貴族と実在の人物の名が一致するのも頷ける
(登場人物名) (実在の人物)
・石作の皇子→丹比真人嶋(たじひのまひとしま)
・阿倍御主人→阿倍御主人(あべのみうし)
・石上中納言→石上麻呂(いそのかみのまろ)
・車持の皇子→藤原不比等(母は車持君国子)
・大伴大納言→大伴御行(おおとものみゆき)
・かぐや姫を育てた竹取の翁
「讃岐造麿呂(さぬきのみや」⇒?
・天女の羽衣⇒大嘗祭の麁服?
・菊の御紋⇒天皇家の紋様? 中国の記録
紀元前230年頃に、秦の始皇帝の命を受けて徐福が不老不死の薬がある日本(徳之島)へ最初にやってきた。そこは「蓬莱の島」であり、その四百年後に『魏志倭人伝』に記す卑弥呼の邪馬台国が出来た
⇒確かに年代は一致する >>70
それは言える旧石器時代のゴッドハンド誰も否定できずに定説になってたんだよな >>113
一月はかからんからアンタの当て推量は弱いね >>119
しかし徳之島は名前に島と入っており、奈良ではなく島の気もする
つまり邪馬台国は島という可能性 >>115
不弥国までは詳細に記してあるのにその先途端にアバウトになるのは不弥国までの地理関係はすでに把握していたものを帰国後参照して記したものと思われる
その先の地理関係の情報はなかったため行程にかかった日数を記したと思われる >>112
>卑弥呼の没年(248年)から考えて、50年を超える在位は考えにくい
中国の歴史書にもついに卑弥呼が亡くなったって書いてあるから
よっぽど長生きだったんだろ。
卑弥呼は、184年頃に女王になり、248年頃に没 >>109
>古事記は倭の記録で推古天皇までが倭だったんだろうな。
日本の歴史では無かったことになってるが
聖徳太子は、倭国(わこく)から俀國(たいこく)に国名変えたと思うよ。
中国の歴史書でも倭国(わこく)から俀國(たいこく)に変わってるでしょ 歴代天皇でも在位70年以上は一人もいないんだし、
三国史記の記録を鵜呑みにする理由はないわな >>31
君がもう少し頭の良い人なら、
>>6
>邪馬台国の時代に北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
九州〜東海までが、邪馬台国連合の傘下だったという可能性も考えられると思わないかね?
邪馬台国連合の首都(卑弥呼の居城)が奈良にあったというのが、畿内説。
ここで、首都が九州にあり、かつ、西日本全域が邪馬台国連合の傘下だったと論じることもできる。
が、九州説と言えば、首都は九州で、邪馬台国連合の範囲も九州の中だけということになってる。
俺は、そのほうが奇妙だと思うね。
なぜ、九州説は、九州の中だけで考えようとするのか? 不弥国から水行20日と水行10日陸行1月かけて
どうやったら北部九州に着くんだい? >>127
しかしながら、普書だと倭国は互いに接しているんだよ。
九州説の方が全うだよ。 九州説というのは、暗黙の了解として、
奈良を邪馬台国連合に含めたくないと考えている。
それはとても、奇妙で、科学的とは言えないんだよ。
邪馬台国の時代に、九州の都に卑弥呼がいて、
東海まで九州を主体とした邪馬台国連合が形成されていたと論じたほうが、いろいろ辻褄が合う。
でも、そのような九州説を唱える人は、学者でも在野でも、皆無なんだよ。
結局、九州説というのは、九州という括りにアイディンティティを見出したい、ただの願望だということ。 >>128
魏略だと水行も陸行も無いから単に不彌国の南と解釈するのも有り。 ついでに廣志によると伊都国の南に邪馬台国があるらしい。 つまり邪馬台国は福岡南部あたりとする情報があるんだから、畿内説のような強引な想像説ではない。 >>130
九州説は日本を小さくする方向にはどんな珍説でも飛びつくけど
大きくする方向には絶対に否定するよね 九州説というのは、すぐ隣の山口県すら、邪馬台国の連合に入れないからな。
それでいて、九州勢力は関門海峡を封鎖していたから、
畿内勢力は関門海峡を通過できなかったとか、支離滅裂なことを言うんだぜ。 ・倭人伝の奴国が九州ではなかろうか
漢書や後漢書や山海経ではそう書かれているし、九州で発見された金印もそう書かれている。
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
・『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現しているし、正しい地理観に基づいている
・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。 >>121
>一月はかからんからアンタの当て推量は弱いね
陸路170キロ、途中の集落で歓待を受けながら、であれば一月はまあ妥当だと思うがね
東海道をわき目も振らずに歩くわけじゃないんだから >>127
>なぜ、九州説は、九州の中だけで考えようとするのか?
当時既に、
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
大和の纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートル
という巨大墳丘墓が各地で作られている中、北部九州で王墓かもと候補になるのが
平原1号墓の12×8メートル
吉備や出雲や丹波は大和と比べられたら、北部九州に倭王の地位が認められることは
ないので、「本州は無関係と言い張らないといけない」のが九州説なんだよ
だから、九州説の倭国は必然的に九州限定になる >>129
>しかしながら、普書だと倭国は互いに接しているんだよ。
「普」書って、どうやって入力したんだ?
「晋書」しんじょ、だよ?
まあ、それはさておき、原文は
「舊有百餘小國相接」 至魏時有三十國通好
だから、魏志倭人伝でいう「舊百餘國、漢時有朝見者」の頃のこと
この頃の国は、環濠集落一つが一つの国扱いだろうと言われているので、
相い接するでも特におかしくない
日本中そんな様子だよ 九州説は文献に忠実と言うけど実際は曲解してるだけだしな
漢の時代の倭国の状況について説明したものを3世紀の状況だと曲解したり
意図的にやってるわけだから曲解というより改竄捏造だよな >>131
>魏略だと水行も陸行も無いから単に不彌国の南と解釈するのも有り。
その魏略は翰苑の註として引用された逸文
そして、「分軄命官 統女王而列部」に対する註の引用だから、
伊都国の「至伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰洩渓觚柄渠觚 其國王皆属王女也」という
官名まで引用したところで終わっている
水行、陸行が魏略になかったかどうかは分からないが、その伝で行けば魏略には奴国も
なかったことになるし、そのように考えるのは不合理 >>130
これ本当不思議だわ
じゃあ纒向遺跡はなんなんだ?と聞くと
狗奴国とか言うのもいたり、魏も知らない国だったとか言い出すのもいたり
だけど九州が中心の邪馬台国連合の傘下と言うのは1人もいないね
もう九州なんて狭い範囲で収まる話じゃないってのが本気でわかってないんだろう 九州説がすぐ隣の山口県さえ入れないのは
同じ北部九州の強烈な個性を放つ海人宗像氏の説明ができないからだろうな 神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年を経て出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が「養子」であられた記録あり。 >>143
宗像氏の成立はいつからなんでしょうね?
沖ノ島の遺跡は、4世紀以後みたいだけど。
宗像氏以前は、金印も出てた志賀島の志賀海神社の氏族〜阿曇氏が、海運を担ってたと思うけど、
ヤマト王権+宗像氏の登場で衰退したように見える。 当時の中国は三国志の時代で、魏が呉を包囲するためには、どうしても
日本の九州を味方につける必要があったしな。そうで泣けなければ、
弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。他に金印を送ったのは中東の大国だしな。
その意味で、俺は九州説だな。 >>149
>弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。
九州説にしちゃうから、倭国が弱小に見えるんだよ
九州から東海までの広い範囲の連合たる倭国は、>>149がいうほど弱小ではない >>148
名前からするともっと後の時代かな
宗像大社も初期の頃の沖ノ島祭祀との関連が見えないってことで
世界遺産から外されそうになってたし >>45
識者に教えて欲しいんだが、そもそも邪馬台って当時の中国の発音でもやまたいなのか?
卑弥呼は?
少なくとも卑弥呼をひみこと呼ぶのは日本人による後付けだと思うんだが、どう? >>106
>2000里は140Km 一里75m
一体どんな計算したらそうなるんだ >>150
平安時代になっても関東じゃ蝦夷が反乱起こしまくってたのにそんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない >>153
中国語 発音
くらいでネット検索すると、漢字を発音してくれるやつあるから
それで聞いてみて、 >>155
4世紀末には群馬まで、7世紀には宮城まで版図を広げてる
3世紀に東海まで勢力を広げてるのは自然な流れ >>155
少し上に勢力図が貼ってあるのに、なぜ見ないで統一国家を勝手に連想して文句をつけるんだ? >>43
神話の天の岩戸の話は日食じゃなく火山噴火による冬がモチーフって説もあるよね。
卑弥呼は天照大神そのものじゃないか。 邪馬台国は九州の国で卑弥呼がいた時代には既に大和には相当に大きな国があった。
で神話の神武東征は決してウソじゃなく天皇家の祖先は九州出身なのは事実。
だとすれば東征で大和朝廷成立、卑弥呼時代、大和が邪馬台国を征服の順なのか? >>70
この一連のスレの中で最も説得力のあるレス(考古学者のバカさ加減 >>120) >>155
>そんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない
九州説というかアンチ畿内説の人はよくこういう言い方をするけど、
権力は統一されてないんだよ
近代の国家概念に引きずられすぎ
>>146に示された範囲で、共通の土器を使い、前方後円墳(前方後方墳も可)という共通の
葬送祭祀を行うという合意が存在していた
この範囲が魏志倭人伝のいう倭国
これをまだ国家段階ではないという立場の人は「前方後円墳体制」という用語を使うし、
一方で近代国家とは異なるがこれも国の一つのあり方だという立場からは「前方後円墳国家」と
いう用語で呼ばれる
いずれにせよ列島の広い範囲で共通の墓制を持つという首長層の同意の存在は
前方後円墳の全国展開により確実
これが倭国であり、その中心が畿内にあるのもまた確実
これが決着なんだよ 神武東征自体フィクションだから考えるだけ時間の無駄
卑弥呼の時代、畿内勢力は九州と比較して圧倒的に規模が大きいから征服なんて無理だしそんな形跡もない
むしろ逆 >>161
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう
畿内説では通常、神武東征を史実とはしないが、史実とする立場の人でも邪馬台国時代よりも
神武東征は過去であり、魏志倭人伝の時代の倭国の中心は大和だと考える 纏向遺跡は大和にはあるがいわゆる大和朝廷(天皇家)の遺跡じゃない可能性あるのかな? >>163
> これが決着なんだよ
いつも決着バカジジイ
決着がついてたら10スレも続いてないって >>165
邪馬台国、東征(邪馬台国か他の九州の国かは諸説おり)、大和朝廷の順もありうるよね。 邪馬台国の時代は、朝鮮半島の南の方は日本の領土だった。任那。
それが、韓国人はあほだから、何度言ってもわからないのだ。
韓国人は漢字もわからないあほ人種。 >>138
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
>丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
>大和の纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートル
>という巨大墳丘墓が各地で作られている中、北部九州で王墓かもと候補になるのが
>平原1号墓の12×8メートル
九州のどんな勢力が何人で東征したら、畿内の勢力を征服できるというのかね?
東征ありきの人は、軍隊の数を見積もってみてよ。 時代が合っただけで別勢力だって思考が欠落してるのが宗教だよな まあ仮に九州に邪馬台国があったとした場合
近畿・瀬戸内海一体の中央政権とは別のはしっこの小勢力が邪馬台国だったという事になる >>173
それの何がイけないのか
そんなのが朝貢とかいう生意気な事したから自分らの功績にする為に
東征なんていう七面倒なエピソードひり出したんじゃねぇかと思う >>173
反対に畿内にあったとしたら畿内から北九州までも支配権が及んでたってことになるよね。
だって奴国や伊都国など北九州確定の国がそ邪馬台国連合を構成する国の一つなんどから。 >>999おるか
答えがわからないんならたたらを使わない原始的な製鉄について勉強してこいよ
なんで天孫降臨の舞台が山や平原じゃなく葦原かも考えてみるといいかもな
ついでに漢の製鉄についても知っとくと半島列島の勢力図が見えるぞ >>175
纏向遺跡の都市設計や染織などの渡来系技術者達は当然対馬経由で北九州に入り畿内にたどり着いたということになるし
そうでなければルートがない けど畿内説をとるなら使者は瀬戸内海を通ってやってくるはずなんだから
瀬戸内沿岸にあったであろう国についての記述が当然だとあるべきだろうなのにそれがない。
まあ倭人伝の行程の元資料を書いた人は北九州までしか行ってなくて後の行程は聞いた話っぽい。 投馬国は妻木晩田遺跡の可能性から日本海ルートも有力候補の一つ
不弥国までの記述が詳細なのは九州内の地理情報は元々把握していて帰国後それを記した
不弥国から先は事前データがなかったために行程にかかった日数をそのまま記したとみえる
だからすごく大雑把になっている >>174
卑弥呼って金印をもらってるからな。
中国は国力を調べるから、邪馬台国は超大国の首都しかありえないけどね。 >>181
画像検索しても投馬国の想定位置は邪馬台国以上にバラバラだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています