【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
サムネイル読み込み中···
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ >>788
ついでに
最低限専門分野たる魏志倭人伝の本場、中国に留学はしてるんだろうなあ?
それも精華北京や復旦同済で学位とは言わん、単位の一つでも得てるんだよなあ? >狗邪韓国から対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里と言う切りの良い数値が出てるので
実際に地図で見てもほぼ同じ距離だから
その距離をそのまま当て嵌めれば良いんだよな
そうすると九州北部ではなく九州南部になる ちなみに嘘でも「留学してました」とか「実は教授なんです」つってもいいからwww
まあ一番受けるのは「只の在野にいる何者かです〜」だけどなwww >>795
畿内で一通り熱が冷めたら
九州が主流になって行くだろうね
まだ未調査な場所がかなりあるから >>670
関西テリトリの考古学者ばかりで史料の読める歴史学者ゼロ 「魏志倭人伝」基礎知識
Q:「魏志倭人伝」という書物があるの?
A:ありません。これは『三国志』という大著の中の一部分で、
「三国志 魏書 第三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を略したものです。
「魏志倭人伝」は古代の漢文で書かれた、およそ2000字の文章です。 Q:へー、じゃあその『三国志』って誰が書いたの?
A:陳寿(ちん じゅ 233〜297年?)という人が書きました。
陳寿は初め蜀漢に仕え、その後、西晋に仕えました。 Q:『三国志』はいつ書かれたの?
A:280年代に完成したと推定されています。
いつから書き始められたかはわかりません。研究者によっては、
呉が滅亡した280年から書き始めたという意見もあります。
たしかに、中国の史書は前王朝が終わってから書かれるものではあるのですが、
『三国志』は計65巻の大著なので、それ以前から書いていた可能性もあるでしょう。 Q:『三国志』って史書としての評価はどうなの?
A:中国の正史というと普通、「二十四史」を指しますが、
『三国志』はその中でも評価が高いものの一つです。
評価が高い理由は、魏・呉・蜀の三国が興亡した時代から
それほど時を経ずに書かれたこと。それと内容が簡潔なことです。
簡潔というのは、事実かどうかわからない怪しげな逸話(エピソード)を排し、
史実を中心にして書き進められているという意味です。 Q:『三国志』はどうやって書かれたの?
A;中国の史書というのは、基本的に文献資料を集めて編纂したものです。
『三国志』も、先行する書、王沈の『魏書』、魚豢の『魏略』、
韋昭の『呉書』などを参考にして書かれたと考えられています。
現代のルポルタージュみたいに、陳寿自らが、
関係者にインタビューして回ったなんてことはないと思いますよ。 Q:編者の陳寿は日本に来たことがあるの?
A:いいえ。陳寿は四川省で生まれた内陸、中国南部の人です。
日本、当時の倭国に来たとは考えられません。 Q:『三国志』は皇帝の命令で書かれたの?
A:違います。中国の史書には官製のものもあるんですが、
『三国志』の場合は、陳寿が独自に書いたものが後に正史として採用されたんです。
『晋書』の陳寿伝では、陳寿が病のため65歳で死去した後、
群臣の勧めにより、皇帝の命で陳寿の家に遺されていた三国志が筆写され、
後世に伝えられたことになっています。 Q:「魏志倭人伝」以外に、邪馬台国の時代の倭国の様子が書かれたものってあるの?
A:邪馬台国と同時代の資料はこれが唯一と言ってもいいでしょう。
他に比較検討できるような文献はありません。
そのことが邪馬台国問題を難しくしているんです。これ以降に書かれた文献はみな、
「魏志倭人伝」の内容をほぼ踏襲していると考えられます。 Q:「裴松之注」って何ですか?
A:これは、裴松之(はい しょうし)という人が『三国志』につけた注釈のことで、
略して裴注と言います。『三国志』があまりに簡略であることを惜しんだ宋の文帝が、
429年、裴松之に命じて作らせたものです。『三国志』本文が37万字に対し、
この注は36万字もあります。陳寿が採用しなかった、
信頼性の薄いエピソードなどもこれには書かれていますね。 Q:『三国志』の編集で、陳寿はどっかをひいきにしたりしてないの?
A:これはいい質問ですね。陳寿は始めに蜀に仕え、その後に西晋(魏)に仕えたため、
どちらの君主も皇帝として書いていますが、呉に関してはそうではなく、
一段落ちる扱いになっています。このことは頭に入れておいていいかと思います。 Q:『三国志』の編集方針はどんなものなの?
A:前に説明したように、史実性の高い内容のみを簡潔に書くことです。
あと、三国時代には、儒教がどの国でもほぼ国教となっていました。
ですから「○○は生前、私財を蓄えず清貧のうちに過ごしたので、
その死後、妻子が金銭に困った」などという儒教的な価値観に基づいた話
がいろいろ出てきます。これも重要なことですね。 Q:「魏志倭人伝」はどうして、「倭国伝」や「倭伝」じゃないの?
A:それは・・・私見を述べれば、倭国と名乗っている国は「魏志倭人伝」には
出てきません。卑弥呼はあくまで邪馬台国の女王なんですね。
また、卑弥呼は魏から倭王の称号を受けましたが、
「魏志倭人伝」の中には卑弥呼に従わない国も出てきています。
ですので、それらを総称して「倭人」としたのではないかと思います。
Q:最後に『三国志』ってネットで読めるの?
A:読めます。自分がよく参照させてもらっているのは、「中國哲學書電子化計劃」
というホームページで、中国の多くの古典が原文(句読点あり)で読めます。
さらに全文検索もできるので大変に便利です。
下にリンクを貼っておきます。
中國哲學書電子化計劃
https://ctext.org/sanguozhi/zh 普通に考えて金印が1世紀に福岡ならば2世紀3世紀の邪馬台国も九州じゃね? Q:あ、忘れてた。もう一つ、現在読める『三国志』は、陳寿が書いたものと同じなの?
A:かなり違います。現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。
姚李農氏という研究者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。 こんな小さな島国のどこに邪馬台国が存在したかなんて、どうでもいいだろ? >>10
馬鹿なの?
たいした知識もなく
来ちゃ駄目だよここには >>1を見ると、関東から九州の一部までが大和の勢力なんでしょ
邪馬台国が九州だとすると日本史的にはどうでもいいよね
江戸時代の北海道みたいなもん
北海道は独立してたけど、九州は大和政権の傘下には入らず魏の傘下
日本史というより中国史でよくね >>819
1世紀の金印は奴国で邪馬台国とは国が違うから でも1世紀に大陸に使節を派遣できて金印を与えられるほどの朝貢をする事が可能だった
そんな力のある国が九州にあった
って事だよね
その当時は少なくとも大陸から見て日本を代表するほどの国力のある国が九州にあった
100年後にその国力を吸収して更に大きな国があったとすればやはり九州と考えるのが無理がない >>823
朝貢しただけで傘下あつかいするのは構わんが、その後も朝貢した倭の五王は?
隋に朝貢したのは?
大和政権とは関係ないか、もしくは宋や隋の傘下に入ったって事で理解していい? >>823
朝貢しただけで傘下あつかいするのは構わんが、その後も朝貢した倭の五王は?
隋に朝貢したのは?
大和政権とは関係ないか、もしくは宋や隋の傘下に入ったって事で理解していい? >>790
>「職員」か「教員」かに拘るトーシローはいねえよ
トーシローはこだわらないが、大学教員または大学職員が、自分の職を書き間違えることはないよww
専門を感じさせる書き込みも、知性を感じさせる書き込みも一つもないし
>>790 ID://kBFOmzを大学教員だと思う人はいないよww
ただのフカシだろw
なんでいちいちIDを変えて書き込んでるんだい?
そして、私が古代史あるいは考古学の研究者に見えるようではダメダメだろ?
古代史はただの趣味だよw >>797
>足してはいけません
>水行で十日、陸行で一月
>全く矛盾はありません
これ、前からこういう無理読みを主張する人がいるのは知ってるけど、
同じ構成で書かれている投馬国は陸行で行ったらどれくらいかかるんだい?
そして、同じ行程を重複して二重に書いてる記事というのを一度も見たことがないんだが、
「他にどういつこうていをにじゅうにかいているれいがあればおしえてくれ」 ゴメン、修正
「他に同一行程を二重に書いている例があれば教えてくれ」
これに答えてくれた九州説は一人もいないんだよなw >>825
その100年後には倭国大乱が起き畿内勢力と九州の力関係が逆転している 九州は女王の記述や祭神や逸話が数多い
宇佐八幡や宗像大社やなどなど
それもそれぞれ個性のある輪廓があるため複数の女王が居たことを示しているな
これが日本全域そうだったかというとそういう雰囲気は無い
それもその後畿内勢力と同化するため元来の文化の継続は失われたのだろう
九州の華の時代は半島との交易権を独占できた2世紀半ばまでということであり、倭国大乱は九州の制度変化をもたらしたものだと思う
逆に考えてみよう
畿内勢力は九州を制圧したというより、半島への交易権を奪ったと見た方が自然
それを達成するには鉄輸出の半島南部の港だけ押さえれば良い
それが後の任那なのでは 畿内も舟降りてから一月も歩かないだろ。まさか今更有り得ない日本海周り節で誤魔化すなよw >>802
>畿内で一通り熱が冷めたら
>九州が主流になって行くだろうね
それは無理だよ
九州説は「古墳時代が嫌い」すぎるから、まともなものの見方ができなくなってる
古墳時代に入る直前も入ったあとも、九州に王権があったとみなすに足る状況は全くない
九州は外部からの祭祀(前方後円墳)、土器様式(庄内式、布留式土器)を受け入れる側で
古墳も大きなものを作れていない >>829
引っ掛けってのがわかんねえのか
研究者でもない趣味道楽ごときが偉そうにすんなや
もっとも、元々研究者だったってなら話は別だが >>829
ついでいうと、考古学のスレで経済学や工学の話を引けらし始めたらそれこそそいつは変人だろうがよ
あとIDを変えるってなんだ?じいちゃん
出先でスポット変われば自然に変わるし、何よりお前も1日一回強制的に変わろうが >>833
>逆に考えてみよう
>畿内勢力は九州を制圧したというより、半島への交易権を奪ったと見た方が自然
>それを達成するには鉄輸出の半島南部の港だけ押さえれば良い
>それが後の任那なのでは
それはちょっと面白いな
九州を避けて半島に進出したなら日本海側の航路の確保が重要だったろう
大国主の国譲りとは大和から日本海側に進出して航路を確保する際の抗争や交渉などを象徴してるのかな
それが結果的に倭国全体の主導権争いの決定打になったので国譲りとか >>836
横だけど、おれも研究者でもない趣味道楽だけど書き込んじゃいかんのか?
ここはそういう奴も含めて書き込む掲示板だぞ
いや、むしろ研究者ならこんなとこウロウロしないで論文書いて発表しろよ、他人の尻馬になんか乗らないで
お前が凄いのはわかったけどそんな奴がいる場所じゃないぞ
小学生のサッカーに乱入して無双して楽しいのか? スサノオの話で考えると、高天原(北部九州)を追い出された勢力が
新羅を作って(紀元前57年)、その後に山陰にいって
その勢力が畿内を制圧して大国主の勢力を作ったという感じだと思う。
新羅を作ってるから当然加羅も制圧済みで、奴国が金印をもらった時は
新羅、加羅、奴国で倭国を形成していたから、奴国は倭国の極南界なんじゃないかな。 >>839
わざわざありがとう
趣味道楽の人全てを叩いてる訳じゃ無いんですよ
誤解を与えてしまって申し訳ないです
レスを辿ってもらうとわかると思うけど、親の仇かって位に自身の畿内説と相容れない九州説の研究者を叩いていたので、それが見過ごせなかったのです 奴国は新羅の建国に関わってるだけに関わりが非常に深くて
後の筑紫国との関係につながっていくんじゃないかな。
これだと秦王国が仲良く北部九州に存在していても不思議じゃないし
この秦氏がツクヨミとなっていて、記紀にツクヨミとスサノオが同一視
されている部分があっても不思議じゃないと思う。
逆に、南部九州は百済とのつながりが深そう。政治戦略上。 >>835
単に邪馬台国は九州か畿内かを論じるのに古墳時代は関係ない
そして無理も何も九州には既に金印が見つかっている、そこに王がいたのは紛れもない事実
それと畿内説論者は古墳自慢をしたがるが
なんの意味があるの?
ちなみに大きな古墳は偉い人と思いがちだが
古墳は稲作用に水路を築いた時に余った土を
盛り土としたついでに古墳も作っただけで
それが特別偉い王とは限らない
そして卑弥呼の墓は円墳
畿内に該当する古墳はない
魏志倭人伝に書かれてるのは誰が見ても九州
至ったてシンプル >>830
お前が無理読みしてるんだよ
なぜ「+』とか書いてないのになぜ足してんの? 現実に倭国の主導権が九州から畿内に移ったのは事実であって、それがいつかと言えば倭国大乱しかないよね
同時期の黄巾の乱や日本の戦国時代をみても大乱や戦国期というのは前王朝や覇権勢力の力が衰退したから起こる事であって、そうでなければ起きる事はない
そして3世紀には纒向勢力と九州は覆し難い力の差が出来ているし大陸からの技術者の交流も認められる
ターニングポイントは倭国大乱とそこに至った原因なんだろうと思う >>846
事実ではないってどういう事よ
大和朝廷は畿内で発展したろうよ 最近発行された「日本史の論点(中公新書)」によれば
畿内の大和政権と九州北部の邪馬台政権が同時期に存在していて、
どちらも大陸の王朝に対し「やまと」と名乗っていたらしい >>845
結局は、本州と九州での経済力の差なんだろうな
そして、九州は北部九州においても一枚岩ではなかったことも要因としてあるかも
畿内勢との連携に積極的だった奴国と消極的だった伊都国
3世紀は貿易港も博多湾にシフトしようとしていた時期でもある
畿内勢は奴国と組んで大陸との交易を進めてて、最終的には他の北部九州地域も飲み込んでしまったように見える >>848
対馬壱岐は女王国に属していて伊都国に置かれた一大卒で厳重に出入国管理してるのにそんな事は不可能だとわかる
北部九州を抑えた勢力が大陸との交流を独占できる
1世紀は九州奴国が抑えていた時代、倭国大乱を経て3世紀は畿内邪馬台国が抑えた時代 >>836
>研究者でもない趣味道楽ごときが偉そうにすんなや
えらそうにしてるのはID://kBFOmzだろ?
効いてる効いてるww
その趣味人に意味のある反論ができず、邪馬台国関連の書き込みを一切せずに
「季刊邪馬台国」に投稿している人を研究者だと言い張り、
大学教員と職員はどうでもいいとかありえない暴言を吐いてる人ww
Part 3の頃から、IDをころころ変えながら大量投稿してた人でしょ?ww >>834
>まさか今更有り得ない日本海周り節で誤魔化すなよw
どこがありえないのか「具体的な論証」をどうぞ
投馬国が音韻的に出雲の音訳として妥当なこと
投馬の上古音はdug-magであり、出雲の最初の母音が弱声化すればほぼ近い音になる
投馬国五万戸とされるが、日本海側の四隅突出墓の地域で考えれば無理のない数字になる
逆に、投馬国五万戸に比定できる地域は、出雲(四隅突出墓文化圏)以外は考えにくい
単に北部九州から畿内への移動だけならば、瀬戸内航路も妥当性が高いが、倭国の国情報告も
その任に含まれる魏使の行程としては、倭国第二の大国投馬国・出雲を実見する優先度は高く、
出雲経由の日本海経路は蓋然性が高い
また、日本海側三大古墳はすべて丹波にあり、また丹波の竹野姫が開化妃に見える
ことから、出雲から大和への往還路は出雲〜丹波の海路と丹波から大和の陸路だと考えられる
北部九州から出雲までと出雲から丹波までの距離は大雑把に2対1の比率になるし、
丹波から大和への陸路を1月かけると見れば、魏志倭人伝の行程そのままとなる >>844
同じ構成で書かれている投馬国は陸行で行ったらどれくらいかかるんだい?
そして、同じ行程を重複して二重に書いてる記事というのを一度も見たことがないんだが、
「他に同一行程を二重に書いてある例があれば教えてくれ」 俺は 日本国紀 アマゾンに予約して手に入れた。古代をどう描くか 古田武彦 『九州王朝 』
を無視するかどうか それが見てもたかった。著者は確かな目を持っている。
初版本だよ、25万部か 希少価値はないな。 記紀と倭人伝との整合が取れない時点で大和は邪馬台国では無いね。 >>1しじみ ★氏にお願い
もう、九州説のお世話が面倒になってきたんだけどさ
Part11はいらなくね? >>853
全く理解不能
なんで魏志倭人伝に書かれていないものを
教えなきゃならんのだ? >>855
>記紀と倭人伝との整合が取れない時点で大和は邪馬台国では無いね。
記紀の欠史八代の頃の記事に対して何かを言おうとするのは労多くして実り少ないだろ
書いてあることも、書いてないことも、どちらも当てにはできないよ >>853
詰んでる物をを一生懸命にほじくりかえしてるようにしか見えない
畿内説の人は絶対の自信があるのであれば
もう少し堂々としてる方が良いと思いますよ >>856
ですね、畿内説の人は
不利になると捏造のオンパレードだし
同意します >>849
壱岐や伊都国と勢力争いが起こるなか奴国と畿内(出雲と吉備含め)が連携することで那国有利となり伊都国の交流が制限される結果北部九州の衰退が進む
奴国はヤマトを名乗り交易を有利に進める
その経過に卑弥呼がいるのかもしれないな
その後物産は全て畿内に流れ国内勢力が一変
九州の女王祭祀も同時に移入し畿内祭祀文化が始まる
弥生中期より本州経由の物産が集まるような一大物流都市だった為、富の蓄積が大きかった
さらに畿内の人が文化に対する渇望があったのではないかと推測するね >>861
畿内で埋葬者が女性の古墳なんてあったっけ? >>862
トヨや斎王が祭祀を引き継いだと考えていいと思うけどな
古墳は現世的主張の意味が大きいので畿内の基本である大王墓が殆どだと思う
女王墓というと箸墓がエポックメイキングだけど他は確かに怪しい
天照が奈良にいた痕跡は皆無なので
古墳時代には既に伝説になってたのでは
九州の女王文化の逸話や豪華さに憧れたのではと思う 箸墓はモモソ姫の墓という伝承があるけど
モモソ姫の子孫は、大神氏でモモソ姫の一族が「大神」っていう認識だったようだ
朝廷内で一番偉いのも大神氏(モモソ姫を祖とする一族)だった。
>>43と>>57を読むとわかる通り
モモソ姫がアマテラスのモデルだろうね >>864
やっぱり一度箸墓は開けてみるべきだよな。
記紀の信憑性を裏付ける意味でも。 タウポ火山の噴火があった崇神5年に
つまりモモソ姫の登場と同時に
突然「天照大神」も登場する >>851
全てが間違ってる
効いてる効いてるとお前が叫ぼうが全く効いてない
以下にその理由を述べるわ
まずパート3から大量投稿をしているという人物ではない
「分類するなら理科二類」とか言ってた奴とも違うので悪しからず
次に邪馬台国関連の書き込みをしないのは門外漢だと再三言ってる
邪馬台国に関する知識で争ってんじゃないんだよ
このレスツリーでの論点は「九州説を唱えてるいるものに研究者はいるのか」「このスレには研究者が常駐している」という2点だ
まあお前の中では高島忠平は研究者ではなく、研究家なようだが、それは「お前の中ではそうなんだろう」
最後に、俺はお前の定義した査読付き雑誌に論文載ってるから
それも国内雑誌じゃなく国際雑誌でな
ついでいうと、その論文でニュースになり、この科学板でもスレ立ったんだよなあ
あー、別に「パート3からいる大量投稿者が戯言をほざいてる」とお前の中で精神的勝利しようがどうでもいい
これも繰り返すが、こんなとこでお前みたいな奴に私生活公的活動に影響するような情報は明かせない タウポ火山の噴火と崇神天皇と百襲姫とアマテラスが同時代だと言うのか、卑弥呼とスサノオもだよな
いくらなんでも同時代にオールスター過ぎるきらいがある >>866
タウポ火山による寒冷化は面白い見解だと思う
天候不順による飢饉が発生する中、人々は何を思ったか想像すると当時の情勢に筋道が見えるような気がするね
民衆の渇望する対象が太陽そのものに変化しその結果天照大神が信仰されるようになったという
では天照とは何物かと当時の人々が想像した時、かつての九州の女王文化を重ね合わせ、更に当時の現世的存在として適材のモモソヒメが祀り上げられたと思うんだな
モモソヒメが元祖天照さらには卑弥呼とするには記紀の表現などが回りくどすぎる
因みに神功皇后は祭祀を担当するというよりも祭祀を利用して人心を把握し軍隊化し現世利益を求めた所に革新性と伝説性を感じる
宇佐神宮や宗像大社に漏れなく神功皇后が合祀されており、これはかつての九州の女王文化を利用した形跡なのではないかと思っている 魏志倭人伝の位置がどう考えても畿内に当てはまらない
畿内から出てきた出土品や遺跡に邪馬台国を示す物が一つも無い
これはもう詰んでるでしょ >>869
アマテラスは古来男神だったという説もある
古事記には性別は記されておらず、日本書紀にスサノオがお姉さんと呼んだという1ヶ所のみ
世界でも大概太陽は男、月が女だ
中国でも陰が女、陽は男
あとアメノウズメのストリップに釣られてしまうのも女ではなく元々男だったからという説もあった
卑弥呼との繋がりを連想させるように日本書紀で意図的に改竄されたという見方もあるな 桜井市の住人に聞いてみた。
纒向が邪馬台国か?
→倭人伝に記載された情景に該当する出土品なし。
箸墓が卑弥呼の墓か?
→そもそも開けたことがないし、100人の殉葬者を伴う前方後円墳など有り得ない。 >>871
鏡祭祀や日ノ出の方向の山をご神体にすること、滅多に民衆の前に出ないこと
これらは九州と三輪山に共通する祭祀の方法でさらには伊勢神宮も同様だな
男だと足りない何かが在るんではないか
全体感としては原始信仰の延長ではなく神を迎え自分のところに鎮座して頂くといった考えが近いように思う
これは当時の考えとしてはユニークで、のちの仏教やキリスト教伝来に近い考え方だと思うんだ >>871
>>873
卑弥呼と方位学信仰との関連性が倭人伝に書いてあるのかな? そんな難しい話じゃないだろ
記紀というのはそれまで歴史を元にしてはいるけど結局現政権の正統性をうたうのが目的だ
記紀を編纂した時代には多くの女帝が立ったからそれを正当化するのが目的なんじゃないの?
神功皇后をでっち上げてアマテラスを女性化させれば先例があったって事で群臣を納得させられるみたいな ヤマトという単語ありきでは 真実へ近づけない
チクシ が倭という漢字を用いたのが最初
大倭 オオチクシ
若倭 ワカチクシ
古事記
インチキ日本書紀では 大和 若和 と改竄されている
普通の知性なら古事記を正しいとみる >>875
それ相当難しく考えてんだろ
この手の話で正当化云々が実証できた試しあんの?
記紀の編纂者は史実も疑わしいものもその時代に伝わっている伝承を素直に記しただけだと思うわ テンムの指示で最初 古事記ができた しかし 内容に倭国臭が残り 没として
其の後日本書紀をつくらせた
改竄度合いは日本書紀が遥かに強い インチキともいう まあ日本書紀はすべてがダメというわけではないがな
藤原北家の贔屓がみてとれるのはそうだが 東遷説なら、九州から東遷してきたことを、日本書紀が隠す必要が無い。
九州説なら、九州の邪馬台国をヤマト王権が征服したことを日本書紀が隠す必要が無い。
ようするに、日本書紀に「九州に邪馬台国があった」と書かれていないことが嫌ってだけじゃん。 百田尚樹著『日本国紀』に
「古田武彦・九州王朝」
出版不況の最中、驚愕の一書が出現しました。ベストセラー作家で映画「永遠のゼロ」「海賊と呼ばれた男」の原作者である百田尚樹さんの新著『日本国紀』(幻冬舎、有本香編集。2018年11月10日発行。1,800円)です。
同書の帯には「幻冬舎創立25周年記念出版」と銘打たれ、「私たちは何者なのか。」「当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!」とあり、表紙の印刷や紙質、製本は高品質・高級感に溢れており、
幻冬舎の並々ならぬ熱意が感じ取れます。
同書は出版前の18日間にわたり、アマゾンの「予約一位」が続くという驚異的現象を起こし、当初10万部を予定していた初版印刷は、幻冬舎社長・見城徹氏の「社運を賭ける」との決断により30万部に引き上げられ、更に10万部の増版を決定したとのことです。
わたしは同書の発行を事前に知り、注目していましたが、購入するか否かは決めていませんでした。ところが、『日本国紀』に古田先生の九州王朝説が紹介されていることを、
日野智貴さん(古田史学の会・会員)のFACEBOOKにより知り、昨日、出張前に京都駅構内の書店で購入しました。
509頁に及ぶ大著ですが、その第一章「古代〜大和政権誕生」の「朝鮮半島との関係」「倭の五王」「古墳時代」に古田先生と九州王朝のことが次のように紹介されていました。
日本の歴史を語る際に避けて通れないのが、朝鮮半島との関係である。(中略)もしかしたら、朝鮮の記録にある日本からの派兵は、地理的な条件を考えると九州の王朝からのものであった可能性が高いと私は見ている。(22頁)
(前略)この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれば、その名は讃、珍、済、興、武となっている。日本の歴史学者の間では、讃→履中天皇、珍→反正天皇、済→允恭天皇、
興→安康天皇、武→雄略天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。(中略)在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている。(27-28頁)
不思議なことは、なぜ巨大古墳が突如、大阪平野の南に現れたのかである。時期的には、前述の仲哀天皇から応神天皇の世に重なる。私は、九州から畿内にやってきた王朝が大阪平野に
勢力を広げたのではないか(九州王朝による二度目の畿内統一)と想像するが、残念ながらこれも文献資料はない。(29頁) 事実は案外シンプルなもんよ
普通にヤマト王権=邪馬台国
奴国の衰退により倭国大乱が起き纏向勢力が覇権を握ったと 九州王朝は面白いけど物証ゼロだからなあ
金印の時代は確実に九州王朝だけど >>847
いや和国の主導権が九州にあったという部分について言っているのだが .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 大和大乱前の時代の日本最大の遺跡
※大和大乱の時期は後漢書東夷伝より
※その他は遺跡調査、中国書物より
西暦100年〜
@妻木晩田 愛媛県(最大規模)
A纒向遺跡 奈良県
B出雲 大きくはないがこの頃から四隅突出型墳丘墓が多く見られる
西暦140年〜
大和大乱
西暦158年
有史以来初の皆既日食
西暦200年〜
239年 卑弥呼が魏へ朝献
248年 卑弥呼死去、有史以来2回目の皆既日食
250年 妻木晩田(島根) 集落衰退
200年〜 豪族(不明奈良)???
⇒250年〜 箸墓古墳(奈良) 大和大乱前の時代の日本最大の遺跡
※大和大乱の時期は後漢書東夷伝より
※その他は遺跡調査、中国書物より
西暦100年〜
@妻木晩田 愛媛県(最大規模)
A纒向遺跡 奈良県
B出雲 大きくはないがこの頃から四隅突出型墳丘墓が多く見られる
西暦140年〜
大和大乱
西暦158年
有史以来初の皆既日食
西暦200年〜
この頃から(年輪年代学による)奈良を中心に前方後円墳が全国に広まる
239年 卑弥呼が魏へ朝献(4,000枚の鏡を受けとる)
〜244年の間に収まって銘された鏡が畿内を中心に分布
248年 卑弥呼死去、有史以来2回目の皆既日食
250年 妻木晩田(島根) 集落衰退
250年 卑弥呼の後継(女性)壹與
西暦200年〜 豪族(不明奈良)???
⇒250年〜 箸墓古墳(奈良) >>887
ほー、そういうのなら興味深いな
それで? >>889
奴国が金印を受けた時点ではそうだろうよ >>880
悪いというか、あれでさえ卑弥呼に関しちゃあれが卑弥呼かもこれが卑弥呼かも
みたいなのですげえ曖昧してきてるしなあ
現存するのは、8世紀後半以降に大幅に内容が改竄されたのではないかという指摘も強いしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています