【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ >>730
狭い範囲で研究者がいないから九州説は成り立たないとの主張が全く隠せてないよ >>731
>3世紀に至る前に、どうしようもなく没落(相対的に)したというのが
現在までに明らかになってきた「事実」だよ
オカルトじゃなきゃ
3世紀と7世紀の間違いだよな? >>732
魏志倭人伝を素直に信じれば
邪馬台国が中心だね、倭国(九州)の中心勢力 畿内説を主張する連中は邪馬台国がそのままヤマト王権になったって言う妄想だけがすべてなんだよな
現実問題、そんなすんなりな政権成長って難しいよね >>735
ただ、列島勢力の中心だったかは微妙というか、違うんじゃないかな?
ついでに言うなら、本当の大和王権に至るまでに数回はちゃんぽんやらかしてると思う そもそも、当時は大陸側はともかく、日本の村組織はそんな広い
範囲を統治把握できるような文明はなかったと思う
あれば、もっと、自国内でいろいろな記録が出てきて然り
そういう意味でも、邪馬台国ってのはこの辺での一大勢力ではあったけど、統括できる立場(そんな力もない)
ではなかったと考えるのが自然 列島をまたがって統治できるような機構を持つならその命令形のための文書がたくさん残ってるはずなんだ
中国が古代あれだけの広い範囲を統治できたのもの文字による情報伝達がきちっとできてたからなんだから
口頭伝聞だけでそんな広い組織は統治できない >>733
くっそ狭い範囲にいないから、成り立たない
その論拠は? >>739
男王は最前線移動型
女王は地域密着型
文字がない時代の基本行動はこんな感じかもな
大体記紀でも向かった先の女と結婚するパターンが多いしね
支配層の男は別の土地に根を張ってなんぼだったのかも
倭の五王や神功皇后もこのパターンかも
とにかく文字か無い時代特有の支配形態というものはあっただろうね 俺は中国地方だが、もう九州説の奴らは諦めろ
朝鮮人みたいって言われるぞ そういう時代は中央集権的な国は不可能だから
仮にその国の役人として派遣しても意思疎通に時間かかるからほぼ独立国の権限を与えて回させないと何もできない
そして、そうしちゃうと1世代変わるだけで、ぶっちゃけ独立国になってしまう
結局、あの時代にできるとしたら、豪族の盟主(緩い象徴的な意味での代表)が限界だと思う
そして、それも影響力が行使できる範囲はたかが知れてる >>742
どっちかというと1個の記事にしがみ付く人の方が朝鮮人っぽい
上のニュースを見ても「確定的なニュースは結局何一つとしてない」
っていう結論しか出てこないもの 巻向遺跡には山陰や北陸や東海など
各地固有の土器が発掘されている
各地の豪族などが揃って住んでいたらしい
九州には、そんな遺跡は無い >>745
それが時期的にいつの頃なのか?
大和王権が日本の中心になったのは事実なんだから
そりゃあるのは当たり前だ
問題はその政権と卑弥呼のつながりだってのに だから、上でも言ってるだろ?
畿内説派の主張の根拠は卑弥呼が大和王権に繋がってるはずだっていう
意味のない根拠しかないってね >>737
正直、本州は手付かずだと思います
九州は狗奴国と両雄並び立たずの状態だったかも知れません 左翼思想まるだしだな
畿内説は邪馬台国が大和にあったから大和政権との繋がりを考えてるだけ
中には違う政権とする人もいる。かなり減ったと思うが
事実が先ね
九州説は3世紀に大和政権につながる政権は嫌だ、という願望からきてる
願望で事実は覆せませんよ >>749
だから、その「邪馬台国が大和にあった」という話そのものが願望
その願望の前提でものごとを組み立ててる >>745
それは邪馬台国から大和王権への連続性が無い事をはっきりと証明していますね
そういう意味でも
邪馬台国=大和王権説は完全に破綻される そして、その事実から目を背け、勝手に
「俺の願望を認めないやつは、俺の考えが嫌いなだけだ」
って、自分の低い次元に相手を貶めようとしてる
もちろん、本当に畿内説で調査してる連中までそんな低い次元にいるとは考えたくないが
少なくとも、ここにいる連中はそういう連中
結局の所、相手に有無を言わせるような根拠はなにも出てきてないってのが現実 >>749
えー?大和に繋がろうが繋がらまいが
邪馬台国は九州か畿内か?が論点でしょ? >>753
まあ、ぶっちゃけると、その2つに絞られてるかどうかすら定かではない
あと、邪馬台国そのものが空想の産物である可能性も排除されてはないね
ただ、現実にあるとすればその2箇所くらいしか、ろくにその時代付近の文明物のようなものが出てきてない
って言うだけ ああ、空想ってのは、完全になかったというより
それと似ても似つかぬものを見た結果から
持ち上げまくってできた産物って意味な >>745
中国地方にも東海畿内九州の土器が出てくるところはあるし
出雲なんてその最たる例
当然九州にも東海にもそれぞれの地方の土器が出てきてる
纏向で出てくる程度なら別に畿内の専売特許じゃないんだよ
土器程度で豪族がそろって住んでたことになんてならない >>756
巻向の致命的一つが外来土器の中に北部九州の土器が殆ど出てこない事なんだよな
倭人伝記述と状況が合わない >>733
>狭い範囲で研究者がいないから九州説は成り立たないとの主張が全く隠せてないよ
狭い範囲も何も、古代〜先史時代を扱う論文が既にすべて畿内説前提なんだが?
まあ、日本国憲法で思想信条の自由は保証されてるから、好きなだけ
「いやなことは見ない聞こえない」してても構わないけどさ >>734
偉大なる大九州帝国
・鏡は5〜6期の古い鏡を打ち割った破鏡か欠損鏡、小型?製鏡が殆ど。古墳出土鏡を待つまで完形鏡がほぼ出ない
(西日本各地では完形鏡が出土するので既に九州に中心地など存在しない)
・平原の鏡も古い鏡を鋳つぶして作った?製鏡だらけ
・絹は中期の13遺跡から激減の1遺跡。しかも麻布よりも粗悪な糸くず片が一かけら出るのみ
・祭祀遺跡は柱を2本立てただけの小さなものくらいしかない
・当時採掘されていた丹山は存在しない
・宮殿など影も形もない
・全域が畿内の土器に塗り替えられ在地土器が変容(一方的に畿内の影響が入り込み九州から広まる様子はない)
・大型墳墓の歴史が無い状況で突然この時期に大型墳墓が持ち込まれる
すごいなー
九州は確実な証拠が山のようにあって驚きだなー
弥生時代通期で多いといっても3世紀には激減してるし
伊都国、奴国を除くとほぼ「何もない」のが北部九州
これをごまかすために倭国の中に女王国があって女王国の都が邪馬台国で
邪馬台国は伊都国と奴国だとかいう、謎のマトリョーシカ倭国を捏造しちゃうのが九州説 たった4ー50年だけ存続した王朝の派遣役人の文章に
必死になる人は、社会性に欠けると思うが。。。。 >>735
>邪馬台国が中心だね、倭国(九州)の中心勢力
九州だけの倭国が成り立たないのはいいかな?
吉備とも出雲とも北部九州は双方向のつきあいがあるのは認めるだろ?
そして、この時点で北部九州が中心というには戯れ言
大きな墳墓一つ作れないところに発達した王権はない >>758
>>古代から先史時代を扱う論文全て
は?
いや適当に雑誌読んでも、そんなの書いてあったりするのに当たらないよw >>760
>畿内説は既に破綻してる
>だってさ
そんなことを言う人はきっと機能的非識字者なんだろうね! >>759
別に偉大でもなんでもないよ
魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が九州を示しているってだけの事よ >>765
そのニュアンスは受け入れられる
だからこそ『皇帝』日本のミカドは偉大だったんだよな。
各地の王を束ねたんだから=ミカド=天皇
戦後のアホ教授達の『。。。だから大和朝廷は地方まで治めてない』『だから日本の記紀はウソだ』
こういう馬鹿と同じ空気さえ吸いたくない >>739
文字がなかったわけないじゃん
現存する最初の歴史書が記紀だってだけの話
記紀以前にも「帝記」があって記紀の元になり、それ以前にも蘇我馬子と聖徳太子が作った「国記」や「天皇記」があった
それらは全て失われた
蘇我氏が滅びて政権が変わったから都合の悪い歴史は無かったことにしただけ
この国では政権が変われば常に歴史が書き替えられてきただけ
邪馬台国だって中国に使節を送ったんだから漢字は使ってたはず
当然さまざまな記録も文字で残していたはずだし、その積み重ねが歴史だ
もしかしたらもっと早くから歴史書はあったのかも知れない
九州とか出雲政権とか崇神朝や応神朝、継体朝、政権は何度も変わって、その度に前の歴史は抹消されて「万世一系」の一部として組み込まれていった
のかも? >>762
そうよな。パッと現れた王族の墓を
庶民総出で何年も重労働するわけないでしょうにね
畿内で十数代数百年の 庶民からの愛しみと敬愛あって
始めて建立可能なのが大規模墓稜 >>766
>あと埋葬者への副葬品のしょぼさもね
畿内纒向古墳群の王墓級墳墓で埋葬主体がきちんと発掘されたものがないからね
桜井茶臼山古墳でもホケノ山古墳でも、九州のどの王墓よりも大量の副葬品が出てるのに
見ない聞かないしている九州説って本当に小児的 >>729
お前こそ時代背景わかってる?
魏は漢から禅譲を受けた
蜀は劉氏の血統を主張して漢の継続を宣言した
呉はまあ、みんな皇帝名乗ってるからうちもええんちゃう?
で皇帝が3人も立った時代なんだよ
易姓革命でカタがついたなら、血統を名乗って皇位についた蜀と正統を争う事はなかったろう
易姓革命では済まないそれが三国時代
しかもそれを晋が統一して終わったわけではなく、すぐに異民族の五胡がヒャッハーして十六国で十六人も皇帝が立った
易姓革命どころか中華思想も踏みにじられて正統はなくなったそんな時代を経ている
そこで正統を主張する
史書にはそういう意味もある >>765
>魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が九州を示しているってだけの事よ
短里を捏造しないと根拠一つないのにw >>773
長里で合えばいいのだけど、それでは説明ができないから、何かしらの理由があるのだろう
記述の比率で大まかに推測はできるかな
陳寿が足し算をできれば九州からは出ないね
部屋の中でゴキブリを見つけると
パヨク(ゴキブリ在日韓国人)を見たような
すごく嫌〜な気分になります!
勝手に人の家(国)に入り込んで来て
日本人に対する【言論弾圧】とか
悪さのやりたい放題で本当に迷惑です!
パヨク(ゴキブリ在日韓国人)には一日も早く
日本から出て行っていただきたいと思います
>>699
あーキチガイが満足げにしてるのが許せないから言っとくが、DC PDを話題に出した俺は普通にそれらとってるし、大学職員なんだけどな
つうかそれくらい取れない奴ってどうなんだよ
そりゃ大器晩成とか遅れ咲とかないとは言わんが、、、
正直。。。これ以上は言うまいwww >>778
>大学職員
大学教員ではないのか?
まあ、5ちゃんでは身分詐称も何でもありだから好きに言ってればいいさ
今どき九州説を支持している知的な人間はいない
この時点でお察しだ ついでに言うと、差別用語を平気で使う知的な人間もいないww まあ、日本人と価値観、道徳観が違うならこの限りではないがなw >>773
短里とか長里とかじゃなくて
距離については目安として魏志倭人伝に書いてある
狗邪韓国から対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里と言う切りの良い数値が出てるので
わざわざKMで換算しなくても邪馬台国のおおよその場所は割り出せるのですよ、距離と方角から考えて九州は出ないですね
この時点で畿内説は破綻してしまいます >>775
>何かしらの理由があるのだろう
晋の高祖、司馬懿の功績を讃えるための誇張だよ
つ「何かしらの理由」
>記述の比率で大まかに推測はできるかな
できないよ
渡海距離は実際の距離が倍も違ってても一律で千里だし
九州に上陸してからも、末盧国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で、
一里の長さを換算すると4倍くらい異なる値になる
比率もデタラメだよね >>779
そこは職員でも教員でもどっちでもええわ
で九州説を推す研究者が知的がどうかは預かり知らん
つうかお前自身は「専門家」でも「研究者」でもないんだろうw
自称すれば教授にもなれるぞwww
あー因みに俺が証拠を絶対に出さないのはこれが余興であり、更に私生活公的活動にお前みたいなキチガイサイコパスストーカーに目を付けられたくないからだよ >>782
短里があって、里程は正確という主張は放棄するということでよろしいかな?
すると、旅程で頼りになるのは「水行20日」「水行10日+陸行1月」ということになるが
これを矛盾なく九州に収めるのは無理だろww >>784
安心しなよ
ここまでのID:hKt1pjsK、ID:buYybdF9、ID:FMKsx2oa、ID:TisNw26+の一連の書き込みを見て、
まともな社会人生活を営める人格だと思う人は、九州説に研究者と同じくらいしかいないから
>>784が大学教員と職員の区別も付かない程度の人ってのも自爆してたし、
「自称大学職員」で「分類するなら理?」の学歴コンプレックスをこじらせた人だってのは
誰も疑ってないから >>787
>百径
徑百餘歩すらまともに引用できないのに、無理に書き込みしなくていいんだよ
まあ、百余歩も奴婢千人も、とても大きい、とても多い、程度の意味で正確な数字ではない
というのには同意 >>788
あー今更だけどその「文類するなら〜」とは違うからwww
統合失調症患者でもあるまいに二人の違う人物を同一視するなよw
あとな、「研究者」か「研究家」か、「職員」か「教員」かに拘るトーシローはいねえよ
お前どこぞの畿内説を推す「先生様」だろwww
この時点で俺の最初のレス「研究者が常駐してる」の「確からしさ」が証明されたじゃあねえか
まあ、ここでお前が「自分は在野の有象無象です」って言うのなら止めねえけどなwキチガイ先生www >>788
あー忘れてた
おたく、Hインデックスおいくつ? 我が国の歴史的偉人に
卑弥呼だの邪馬台国だの大陸由来の蔑称を
使い続けるのはいかがなものか。
卑しいだの邪悪だの…
日の皇子と大和国のことだろ 朝鮮は倭の領土の北端と取る方が分かりやすい
青森県大平山元遺跡の縄文土器( 放射性炭素年代から推定すると、約1万6千年前)はどこから伝わったの?稲作とセットで伝わったのかな? 纏向遺跡って邪馬台国と時代が同じってだけで別の国だよね。
纏向は大和朝廷の遺跡?
それとも東征前にあった土着の神話でいうニギハヤヒ政権の遺跡? >>788
ついでに言っておくわ
「詰み」状態なのはお前だからw >>786
>「水行10日+陸行1月」
足してはいけません
水行で十日、陸行で一月
全く矛盾はありません >>788
ついでに
最低限専門分野たる魏志倭人伝の本場、中国に留学はしてるんだろうなあ?
それも精華北京や復旦同済で学位とは言わん、単位の一つでも得てるんだよなあ? >狗邪韓国から対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里と言う切りの良い数値が出てるので
実際に地図で見てもほぼ同じ距離だから
その距離をそのまま当て嵌めれば良いんだよな
そうすると九州北部ではなく九州南部になる ちなみに嘘でも「留学してました」とか「実は教授なんです」つってもいいからwww
まあ一番受けるのは「只の在野にいる何者かです〜」だけどなwww >>795
畿内で一通り熱が冷めたら
九州が主流になって行くだろうね
まだ未調査な場所がかなりあるから >>670
関西テリトリの考古学者ばかりで史料の読める歴史学者ゼロ 「魏志倭人伝」基礎知識
Q:「魏志倭人伝」という書物があるの?
A:ありません。これは『三国志』という大著の中の一部分で、
「三国志 魏書 第三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を略したものです。
「魏志倭人伝」は古代の漢文で書かれた、およそ2000字の文章です。 Q:へー、じゃあその『三国志』って誰が書いたの?
A:陳寿(ちん じゅ 233〜297年?)という人が書きました。
陳寿は初め蜀漢に仕え、その後、西晋に仕えました。 Q:『三国志』はいつ書かれたの?
A:280年代に完成したと推定されています。
いつから書き始められたかはわかりません。研究者によっては、
呉が滅亡した280年から書き始めたという意見もあります。
たしかに、中国の史書は前王朝が終わってから書かれるものではあるのですが、
『三国志』は計65巻の大著なので、それ以前から書いていた可能性もあるでしょう。 Q:『三国志』って史書としての評価はどうなの?
A:中国の正史というと普通、「二十四史」を指しますが、
『三国志』はその中でも評価が高いものの一つです。
評価が高い理由は、魏・呉・蜀の三国が興亡した時代から
それほど時を経ずに書かれたこと。それと内容が簡潔なことです。
簡潔というのは、事実かどうかわからない怪しげな逸話(エピソード)を排し、
史実を中心にして書き進められているという意味です。 Q:『三国志』はどうやって書かれたの?
A;中国の史書というのは、基本的に文献資料を集めて編纂したものです。
『三国志』も、先行する書、王沈の『魏書』、魚豢の『魏略』、
韋昭の『呉書』などを参考にして書かれたと考えられています。
現代のルポルタージュみたいに、陳寿自らが、
関係者にインタビューして回ったなんてことはないと思いますよ。 Q:編者の陳寿は日本に来たことがあるの?
A:いいえ。陳寿は四川省で生まれた内陸、中国南部の人です。
日本、当時の倭国に来たとは考えられません。 Q:『三国志』は皇帝の命令で書かれたの?
A:違います。中国の史書には官製のものもあるんですが、
『三国志』の場合は、陳寿が独自に書いたものが後に正史として採用されたんです。
『晋書』の陳寿伝では、陳寿が病のため65歳で死去した後、
群臣の勧めにより、皇帝の命で陳寿の家に遺されていた三国志が筆写され、
後世に伝えられたことになっています。 Q:「魏志倭人伝」以外に、邪馬台国の時代の倭国の様子が書かれたものってあるの?
A:邪馬台国と同時代の資料はこれが唯一と言ってもいいでしょう。
他に比較検討できるような文献はありません。
そのことが邪馬台国問題を難しくしているんです。これ以降に書かれた文献はみな、
「魏志倭人伝」の内容をほぼ踏襲していると考えられます。 Q:「裴松之注」って何ですか?
A:これは、裴松之(はい しょうし)という人が『三国志』につけた注釈のことで、
略して裴注と言います。『三国志』があまりに簡略であることを惜しんだ宋の文帝が、
429年、裴松之に命じて作らせたものです。『三国志』本文が37万字に対し、
この注は36万字もあります。陳寿が採用しなかった、
信頼性の薄いエピソードなどもこれには書かれていますね。 Q:『三国志』の編集で、陳寿はどっかをひいきにしたりしてないの?
A:これはいい質問ですね。陳寿は始めに蜀に仕え、その後に西晋(魏)に仕えたため、
どちらの君主も皇帝として書いていますが、呉に関してはそうではなく、
一段落ちる扱いになっています。このことは頭に入れておいていいかと思います。 Q:『三国志』の編集方針はどんなものなの?
A:前に説明したように、史実性の高い内容のみを簡潔に書くことです。
あと、三国時代には、儒教がどの国でもほぼ国教となっていました。
ですから「○○は生前、私財を蓄えず清貧のうちに過ごしたので、
その死後、妻子が金銭に困った」などという儒教的な価値観に基づいた話
がいろいろ出てきます。これも重要なことですね。 Q:「魏志倭人伝」はどうして、「倭国伝」や「倭伝」じゃないの?
A:それは・・・私見を述べれば、倭国と名乗っている国は「魏志倭人伝」には
出てきません。卑弥呼はあくまで邪馬台国の女王なんですね。
また、卑弥呼は魏から倭王の称号を受けましたが、
「魏志倭人伝」の中には卑弥呼に従わない国も出てきています。
ですので、それらを総称して「倭人」としたのではないかと思います。
Q:最後に『三国志』ってネットで読めるの?
A:読めます。自分がよく参照させてもらっているのは、「中國哲學書電子化計劃」
というホームページで、中国の多くの古典が原文(句読点あり)で読めます。
さらに全文検索もできるので大変に便利です。
下にリンクを貼っておきます。
中國哲學書電子化計劃
https://ctext.org/sanguozhi/zh 普通に考えて金印が1世紀に福岡ならば2世紀3世紀の邪馬台国も九州じゃね? Q:あ、忘れてた。もう一つ、現在読める『三国志』は、陳寿が書いたものと同じなの?
A:かなり違います。現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。
姚李農氏という研究者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。 こんな小さな島国のどこに邪馬台国が存在したかなんて、どうでもいいだろ? >>10
馬鹿なの?
たいした知識もなく
来ちゃ駄目だよここには >>1を見ると、関東から九州の一部までが大和の勢力なんでしょ
邪馬台国が九州だとすると日本史的にはどうでもいいよね
江戸時代の北海道みたいなもん
北海道は独立してたけど、九州は大和政権の傘下には入らず魏の傘下
日本史というより中国史でよくね >>819
1世紀の金印は奴国で邪馬台国とは国が違うから でも1世紀に大陸に使節を派遣できて金印を与えられるほどの朝貢をする事が可能だった
そんな力のある国が九州にあった
って事だよね
その当時は少なくとも大陸から見て日本を代表するほどの国力のある国が九州にあった
100年後にその国力を吸収して更に大きな国があったとすればやはり九州と考えるのが無理がない >>823
朝貢しただけで傘下あつかいするのは構わんが、その後も朝貢した倭の五王は?
隋に朝貢したのは?
大和政権とは関係ないか、もしくは宋や隋の傘下に入ったって事で理解していい? >>823
朝貢しただけで傘下あつかいするのは構わんが、その後も朝貢した倭の五王は?
隋に朝貢したのは?
大和政権とは関係ないか、もしくは宋や隋の傘下に入ったって事で理解していい? >>790
>「職員」か「教員」かに拘るトーシローはいねえよ
トーシローはこだわらないが、大学教員または大学職員が、自分の職を書き間違えることはないよww
専門を感じさせる書き込みも、知性を感じさせる書き込みも一つもないし
>>790 ID://kBFOmzを大学教員だと思う人はいないよww
ただのフカシだろw
なんでいちいちIDを変えて書き込んでるんだい?
そして、私が古代史あるいは考古学の研究者に見えるようではダメダメだろ?
古代史はただの趣味だよw >>797
>足してはいけません
>水行で十日、陸行で一月
>全く矛盾はありません
これ、前からこういう無理読みを主張する人がいるのは知ってるけど、
同じ構成で書かれている投馬国は陸行で行ったらどれくらいかかるんだい?
そして、同じ行程を重複して二重に書いてる記事というのを一度も見たことがないんだが、
「他にどういつこうていをにじゅうにかいているれいがあればおしえてくれ」 ゴメン、修正
「他に同一行程を二重に書いている例があれば教えてくれ」
これに答えてくれた九州説は一人もいないんだよなw >>825
その100年後には倭国大乱が起き畿内勢力と九州の力関係が逆転している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています