【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
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産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ >>361
熊野神社周辺では昔からそう信仰されてるし、
天照の使わした鳥だし、
中国には3本足の鳥が化身でいるよね、それを知らずに3本足の鳥と表現したのは考えにくい。
これがあってるかどうかしらんけど、紀記に乗ってないってだけの理由を書くだけってのはただのキチガイ。
その裏にどんな考えがあったとしても、その態度はキチガイ。
完全に論破してすまんな。 経済的先進地域北部九州と倭人の精神的拠り所大和地域。
戦国期の堺衆と畿内の雄、織田信長との関係のようなものだろう。 >>363
笑わせるな。
>熊野神社周辺では昔からそう信仰されてるし
昔っていつだ?
江戸時代か?
8世紀以前の史料なんて無いと思うがね。
>天照の使わした鳥だし、
記紀は創作だという人がいるので、論考に値しない。
>中国には3本足の鳥が化身でいるよね、それを知らずに3本足の鳥と表現したのは考えにくい。
記紀のどこにも八咫烏が三本足などという描写は無い。 >>352
>帯方郡から南ではない
それは水行の起点が帯方郡だとかいう、九州説にアクロバット読みの否定だね!
帯方郡から半島の循海岸水行で乍南乍東で東に行って、九州北岸でも東成分があって、
そこからはひたすら南に、会稽東冶の東まで行くんだから、玄界灘沿岸から先は
遠い国ほど南でいいんだよ >>339
>ID:9Q4+04X3 こいつ病気だな
そんなこと書く暇があったら、具体的な反論の一つも書いてごらんよ
まあ、邪馬台国の会の情報だけがソースじゃ太刀打ちできなくて困ってるんだろうけどさw 畿内説ほど帯方郡始点の方がまだ矛盾が少ないのに
南→東はちょっと致命的で正直聞いてらんない >>350
>一里 75mで計算しろ 馬鹿が
短里は捏造だよ
短里を使う理由のある人は3世紀にはどこにもいない
昭和以降になって、九州だというためだけに短里にすがっているカルトな人たちがいるだけ >>353
>神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年の出生(女系天皇)。
それどこ情報?
記紀の紀年で2年後誕生だから、春秋年(二倍年暦)があったとすれば
ちゃんと十月十日に収まるよ >>356
>記紀は創作だと主張する人がいたなあ。
記紀以外でも神社の祭神でもヒコヒメのペアが多く見られる
記紀は男系原理が強くなったのちの時代に書かれたもので、
彦姫制のヒコ王の系譜を大王系譜として記録している
崇神天皇以降のヒコ王の優位、ヒメ王の斎王化でヒメ王の権威が希薄化されている
そして記紀は推古天皇以前の女帝を認めていない
彦姫制は畿内説とは別の概念なんだが、こんなのまで九州説は否定しないといけないらしいな >>362
>甕棺とか関係ないのに…普通に集落から鉄なんて出土してるよ。
それ全部古いんだって
3世紀にはいる前に激減してる >>369
横からだが、短里とか無かったとしたら、誇張説になるだけだよ
倭人伝の記述からある程度の距離感の推測ができるじゃん?
それを無視したら駄目だろう
半島の大きさなんて昔から知っていただろうし
その対比で考えれば1万2千里は九州からは出ないだろうね
陳寿が足し算ができなかったら別だが >>372
だから、関係ないといっている
北部九州では3世紀に入っても鉄は住居跡からもアチコチに大量に出土するのだよ >>373
そもそも陳寿は邪馬台国のある場所を知らなかっただろうね。
12000里も途中から日数に変わってことからわかるように
魏志の資料からの推測だろうし。 >>375
日数部分が問題ではあるよね
直線的な行程で読む場合、急に日数表記になるのは解せないかな
並立的に読む場合、地理的説明での類例は多いのだけど >>374
>北部九州では3世紀に入っても鉄は住居跡からもアチコチに大量に出土するのだよ
例えばどこで?
具体的にどうぞ! >>376
>並立的に読む場合、地理的説明での類例は多いのだけど
並立的に読む例ある?
具体的に教えて >>305
Ciniiで検索して普通に居たけど
まあ専門外の部外者だしどちらでも心底どうでもいいが、お前らよく飽きねえな >>379
というか考古学研究者で邪馬台国にまで言及する人はほぼいない
畿内の一部の学者だけで全国的にも珍しい
九州の学者もわざわざ言及しない 短里なんてないよ
・陳寿は実際に日本に来たわけではなく、資料をもとに記載した
・三国志全般で普通の里を使っている
・帯方郡から伊都国までの里数がおかしい
というのが前提としてあり
A韓伝(といっても一箇所だが)と倭人伝のみ、なんの注釈もなく短里を使った
B帯方郡から伊都国まで行った人が間違えた
のどちらかになる
Bでしょ。そこだけ注釈なしに短里を使う可能性ある? 邪馬台国にまで言及する人はほぼいないのはその通り
そもそも九州説の学者が数えるほどしかいなく
畿内が前提になってるため位置論争が起きること自体ない >>381
陳寿が日本に来たわけはないしそもそも蜀の役人なんだから魏志自体がほとんど伝聞だ
しかも魏の初期まで帯方郡は公孫氏が支配していて魏の勢力圏外だったので伝聞の伝聞だ
その中で部分的に短里と長里が入れ替わってる可能性がある
三国志の中でも短里と長里が混在しているので当時は乱世で統治形態がバラバラだったので単位もそれによってまちまちだったとしてもおかしくはない もちろん魏志自体はあてにならないものじゃない
魏の文官は漢の文官がほとんど引き継いでいたし記録なども漢のノウハウをそのまま使っていたはずなので人材、技術ともに正確だったろう
しかし帯方郡の公孫氏は地方の豪族が勝手に半独立状態で作った政権なので魏ほど充実した体制はなかったと思う 邪馬台国論争とビッグバン論争
どちらも肯定派が定期的に勝利宣言するのはなぜだろう?
本当に真理なら、黙々と事実だけ公表すれば済むのに
何度も「〜の証拠」とか言うのは傍目には詐欺師の論法にしか見えなくてw >>102
金印の「委奴」をイトと読むのは新漢音
すなわち618年 - 907年の唐王朝時代の首都
長安=現代の西安の方言に基づいて
平安時代の遣唐使や遣唐使船に乗った僧侶が覚えてきた漢音読みならイド。
奈良時代の漢字には濁音始まりの音読み(隋音)があったが
倭名類聚抄が執筆された10世紀初めには漢字の音読みによる
万葉仮名で清濁の区別が無くなっている。
これは支那の北部が北狄と呼ばれた朝鮮エベンキに似たような蛮族に侵略された結果だ。
委奴=イトと読むのは菅原道真が遣唐使の廃止を思い始めた9世紀末期〜
源順が倭名類聚抄が執筆した10世紀初期の平安時代の音読み。
征夷大将軍の「大」をダイと読まずにタイと読むのが唐代後半の「新漢音」。
明治天皇の五箇条の御誓文の中で
「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。」の
「上下」をジョウゲと読むのは隋〜唐代前半の漢音読み。
ショウカと読むのが唐代後半の新漢音読み。 アマテラスがヒメでスサノオがヒコなんだろうな。
高天原(北部九州)は女王が治めていた。
畿内はまずスサノオ系の男王が国を作って(大国主)、
アマテラス系の天皇家がそのあとやってきた。
この時点で畿内にヤマト王権が移ったのか。 親魏倭王は魏の公式文書にあったわけだけど、
漢委奴国王は金印で確かめるしかないのでしょうか。 >>388
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。 >>385
天理市の天理教に奈良って桜井市には畿内珍理教というものが誕生した。
そゆこと。 ヒコヒメ制とかのたまう輩は、
古代の王墓の男女比が1:1であることを示してから論じてくれ。
俺の知るかぎりでは圧倒的に男の王墓のほうが多い。
女の王墓はとても珍しい。
だからといって、女が政治的権力を持ち得なかったという証拠にはならない。
物証からわかることは、
1.ヒコヒメ制などという分業制は存在しない。
2.女性が王となる例は存在する。
それ以上の言及は、全て妄想。 >>382
畿内説が前提なのは畿内方面だけで
東と九州では邪馬台国は九州北部が通説なのでは
前の方のスレで畿内説爺さんが貼ったリストみても
>>380 の方が説得力あると思うけど >>215
> 伊都国・奴国
九州説にとってはそれだけでも充分では?
(九州説といっても最有力なのは筑紫=九州北部説なんだから)
畿内説では2〜3世紀に鉄と絹は出土してるの? >>393
>九州説にとってはそれだけでも充分では?
>(九州説といっても最有力なのは筑紫=九州北部説なんだから)
魏志倭人伝に、伊都国・奴国と邪馬台国は明確に別の国として書かれていることを
無視している時点で論外
そして、伊都国千戸、奴国二万戸を足しても、どうやって邪馬台国七万戸にはならない
どうして、こんな与太話が通ると思ってるのか、不思議でしょうがない
伊都国・奴国を除いたら、北部九州に栄えているところはなくなる
その意味でも、北部九州説は成り立つ余地がない 疑問点
1。卑弥呼を大和百襲姫としたら崇神天皇が倭人伝の主役として書かれていないとおかしくないかな
2。大和百襲姫の統治を補佐する崇神天皇もおかしい感じ
3。記紀に任那とあり倭人伝に狗奴韓国とある、どういう関係か謎
4。そもそも卑弥呼は記紀でいう誰に当たるのか >>387
この話は神功皇后から応神天皇に当てはめるとぴったりなんだよね。
だから神武天皇というのはじつは応神天皇だったりして。
ということは巻向の三輪王朝はニギハヤヒの大国主の国になるけど
だから神功皇后とモモソ姫がダブってる感じかな。 詐欺まがいのバカが圧倒的に多い考古学会も体制を改めるべきなんだけどな。
総合的科学脳が必要となるのだが、その成果による社会貢献がほぼ無いので誰も寄り付かない。
よってバカの巣窟になってしまった。 「邪馬台国七万戸」とは言うけど、それは奈良のことなのか?
3世紀の住居遺跡がたくさん見つかったという話は奈良から聞かないけど。
最大級の唐古鍵遺跡も、1万人も住んでないだろ。 >>394
畿内説は魏志倭人伝を信じたり信じなかったり大変だな。 ヤマトの当て字に過ぎないのにヤマタイと読んだマヌケが原因でここまで無駄に時間を費やすとはねw >>383
>その中で部分的に短里と長里が入れ替わってる可能性がある
>三国志の中でも短里と長里が混在している
短里とかいう架空の単位が存在してたことを前提で書いているが
もちろん架空の単位なので存在しない
妄想書きたければラノベ板でどうぞ 別の国でも伊都国は邪馬台国の支配下にあるんだから問題ないし
近くなら尚更 >>392
>東と九州では邪馬台国は九州北部が通説なのでは
九州説は通説ではなく俗説 >>402 (アンカ忘れてたので訂正_(___)_)
>>394
> 伊都国・奴国と邪馬台国は明確に別の国として書かれている
別の国でも伊都国は邪馬台国の支配下にあるんだから問題ないし
近くなら尚更 >>392 >>403
なんにしても >>385 の言う通りで
付言すると九州説と畿内説の「勢力争い」の側面が大 >>398
それは曹軍100万と一緒で全ての国が10倍増しだろうね
ただ各国間の規模の比較には役立つ 所詮素人の言い争いだから現実には何も影響を及ぼさないんだけどどっちも負けたくないからね
ただ現実に九州説を唱えてる考古学者がほぼいないのは事実
だからここの九州説は考古学界をバカだと批判してる ID:DCTWF6cj
こいつ毎日考古学者が捏造してるだのバカだの中傷してるな
自分は隋書の記述を精霊流しだと決め付けるんだからお笑い >>408
これまでの考古学会の捏造体質考えればバカだろうね
神の手による旧石器捏造事件見りゃわかる
当時考古学界は捏造発覚以前の25年間、捏造を批判した学者や研究者を排斥したり圧力を加える事によって、事実上の学会八分(村八分)にして、捏造批判の声が噴出する気運を押さえつけた
〇〇原人ブームが全国で起きて、旧石器時代から日本に人がいた!
日本スゲー!という空気に抵抗できず・・・
この件で日本の古代史は数万年書き換えられ教科書も訂正された >>410
今の邪馬台国畿内論も似てるね
社会の右傾化の空気に逆らえず皇国史観復活に都合のいい畿内論ありき
もちろんそっちの方が補助金も得やすい そういや百田尚樹が日本国紀っていう本を出したんだが、邪馬台国は九州だと書いてた
九州爺さん、よかったな強力な援軍がいて 近代史すらよく知らんメロドラマ放送作家の本なんて読む価値ないだろ 例えばいまぽっとでのように北方領土の話が出てきてるけど
これを卑弥呼の時代用語で言うならば、鬼道ということになると思う。
たぶん日韓関係にからんだものだろうけど。 アマテラスという概念は現代でいう左翼に近いんじゃないかな。
スサノオは右翼。 だから当時の鬼道がやってたことは、現代のマスコミが
やってることと本質的には同じなんだろうな。 面白いのはスサノオが暴力を象徴していて
アマテラスが言葉で情報操作でっていうことを意味してんのかな 今も昔も世界史の中の日本史であって日本史は独立したものではない
それを無視して記紀の解釈だけで歴史などあり得ない
同時に意識し過ぎて世界の中で日本をことさらに大きく見せる必要も矮小化する必要もない
邪馬台国論争にはその意図が大いに見える >>410
残念ながら、その悪しき文化は自然と続いてるんだよ。
天理市の村八分、ボクシングの奈良判定などなど。
畿内説の学者も仙台出身だったな。 畿内説の学者も可哀そうではある
三角縁神獣鏡がこの説のよりどころだったのに国産どころか三世紀末以降の年代だと分かって
今ちょうど全てが崩れてるところだからね
東遷説の否定や古墳や土器の年代比定にも使われてたからまさに畿内説のバックボーンだった
最近慌てて1の記事のようにいろいろ出してきてるけどすぐ反論出来て説得力も何もない 想像の上に想像を重ねた挙げ句、これが事実だとか言い出す畿内信者もどう見ても頭おかしいよ。
大和王権を正当化する為に書かれた記紀にすら前方後円墳体制など出てこないのに。
捏造欲でもあるのか? >>412
ヤマトがシナに臣従していたとなるとマズイからだろ。九州の女酋長がやったことにしておきたい本居宣長と同じ発想。 >>379
>Ciniiで検索して普通に居たけど
>まあ専門外の部外者だし
それ、「専門の研究者で九州説を支持している人」じゃないw
現役で九州説支持の研究者は、文献史学にも考古学にもいないよ >>365
ばかじゃね。俺の反論理解してる?
ひとのコメントに紀記にのってないってだけで暴論はくのはキチガイっていってんの。
後で理由つけても、最初にそれを記載しない限りはキチガイっていってるよね。
なんの反論してんだか。
八咫烏の太陽の化身とかの信仰、3本足が後世の創作でもどうでもええわけ。八咫烏が後世に太陽と結びつくことは、そこに太陽信仰があったと推測することができるといっただけ。そう推測することもできるといってるだけ。
間違ってるかも知らんけど、
紀記にのってない、腹立つとか
自分の最初のコメントのキチガイ加減わかってる?
論点は既にあんたがキチガイかどうかになってるの?
そこに対する反論は?
ほんまに古代史とか一部のキチガイが学界の足を引っ張てる状況はホンマ腹立つ >>383
>その中で部分的に短里と長里が入れ替わってる可能性がある
ないよ
そもそも帯方郡は漢の直轄地
公孫氏も最後の直前まで、漢の官職、左将軍の地位にあった
漢の度量衡以外の「里」を使う理由がない
そもそも、魏志倭人伝の時代に、短里とやらを使う理由のある人が
どこにもいない
それなのに短里を言い出すから、捏造扱いされる
短里前提の立論はその時点でトンデモ説 >>391
>古代の王墓の男女比が1:1であることを示してから論じてくれ。
島の山古墳って知ってるか?
後円部の埋葬主体は盗掘済みだが、前方部にも埋葬主体があり、
その副葬品から女性が被葬者だと考えられている
後円部がヒコ王、前方部がヒメ王の彦姫が埋葬されている前方後円墳も
ありってことだ
西殿塚古墳でも、後円部、前方部に同形同大の方形壇があり、
それぞれに埋葬施設があると考えられている
ただ、崇神紀、垂仁紀に斎王の起源の記述があり、古墳時代に入るとともに
彦姫のヒコ王の強大化が進んでいる様子が伺えるので、最初期の古墳以外では
前方部の埋葬施設はそれほど多く確認はされていない
>>391は「邪馬台国の会」準拠の情報以外はまったく見ない聞こえない人だから、
この辺のことは一切知らないまま語ってるだけだと思うけどね
ウィキペディアのヒメヒコ制のページくらい読んでみればいいのに >>391
>1.ヒコヒメ制などという分業制は存在しない。
これは悪魔の証明だから、言うだけ無駄 >>392
>>380の「九州の学者もわざわざ言及しない」は、
「九州の学者も畿内説で一致している」からだよ >>398
>「邪馬台国七万戸」とは言うけど、それは奈良のことなのか?
ここまでのスレを全部読めとは言わないけれど、繰り返し書かれているよ
弥生時代後期の指標土器「第V様式」と呼ばれる土器が使われた時代に、
「畿内第V様式土器」が「大和+河内〜環大阪湾」の範囲で共通に使われるようになり
それまで在地様式のそれぞれの土器が使われなくなる
このときに、「大和+河内〜環大阪湾」の範囲で文化的な統一・一体化が行われ、
一つの勢力として実体を持つようになったと考えられる
この「大和+河内〜環大阪湾」の「畿内第V様式土器」を共通に使う範囲を
邪馬台国七万戸の範囲と考えるのが、畿内説の基本的な立場 >>402
>別の国でも伊都国は邪馬台国の支配下にあるんだから問題ないし
>近くなら尚更
伊都国の近くに、伊都国を支配下に置いた勢力の存在が、考古学的にまったく想定できないんだよ
最も栄えているのが、奴国と伊都国
それを支配下に置けるような存在は、周りにまったく見出すことができない
この時点で、北部九州説は詰んでいる
将棋で言えば雪隠詰めだな >>405
>付言すると九州説と畿内説の「勢力争い」の側面が大
勢力争いにもならないんだよ
既に九州説はオワコン
ただ、こういう匿名掲示板では、物量の大量投稿でその意見を持つ人が多数いるように
「見せかけることができる」ので、しつこく九州説で書き込む少人数の人たちがいるだけ >>429
環大阪湾というのなら、2〜3世紀の邪馬壹ではなく、7世紀の邪靡堆の話な。 ちなみに読み方はこうだ。
邪馬壹→シャマイ
邪靡堆→シャミトィ >>434
前方後[方]墳の分布も貼れよ。
纒向は東海勢力の傘下だとわかるから。 >>436
>前方後[方]墳の分布
最大の前方後方墳も、大和にあるんだよ
それで傘下ってことはあるまい >>429
>この「大和+河内〜環大阪湾」の「畿内第V様式土器」を共通に使う範囲を
>邪馬台国七万戸の範囲と考えるのが、畿内説の基本的な立場
それで納得する九州説派はいないと思うけど?
どうですか?みなさん。 >>435
現代の中国語
コカ・コーラ → 可口可楽(クコクラ)
アインシュタイン → 愛因斯坦(アイインスータン)
ケンタッキー → 肯コ基(ケンドァージィ) >>437
影響を受けた後期ほどデカくなるという摂理を知らんのか。
ゴミやな。 >>440
初期の箸墓が四段築成で一番豪華な作りだよ >>438
はいはい、毎回回答の得られない質問を繰り返しておくよ。
土器や祭祀の統一が書かれた部分はどの史書のどの部分だ?
分析や解析の基礎を知らないゴミでしかないんだよ、お前さん。 >>438
このスレ名物のいつものおっさんだろ
434の画像貼ってるやつの過去ログ読んでると
毎度毎度論破されてそのたび主張をコロッと変えて出てくるんだよ
河内と大和なんて庄内式土器でさえ広がる時点で大きくズレがある場所
それ以前に同時期に深い文化的つながりなんてあるわけない
真剣に考えるまでもない >>441
三段が天皇だったから、それより上の女王は四段にしたんだよな?
つまり箸墓は最古ではない。 >>440
>影響を受けた後期ほどデカくなるという摂理を知らんのか。
九州説の人に何度も訊いているのに答えがない質問
「古今東西を問わず、臣下に王よりも大きな墳墓の築造を許す王、王朝があったら教えてくれ」
巨大墳墓の造営は多くの人間を動員する必要があり、多くの人を土木工事に動員できるなら、
同じ人数を軍隊にも動員できる
壬申の乱のときに、大友皇子が天智天皇の陵墓造営の人員を徴発している=軍勢を準備しているというのが、
天武天皇が壬申の乱に立つ発端として記述されている
影響を受けた後期が大きくなるにしても、影響を与えた側はさらに大きくなっていないと
間尺が合わない
最大の墳墓があるところが、その文化の中心
特に前方後円墳体制は、そういう秩序がはっきり見て取れる
>ゴミやな。
これを書かなきゃならないあたりが、九州説の余裕のなさであり、自信がまったくないことを示している
効いてる効いてるってやつだw >>426
前方後円墳は、もともとは円墳部のみが墓。
前方部は陸橋(祭祀スペース)が進化したもの。
前方部に埋葬されている人は、ヒメではなく祭祀を行う巫女だろう。
https://i.imgur.com/dmUorAj.png
https://i.imgur.com/WgmofEq.jpg >>444
箸墓は最古ではないとしても最初期の前方後円墳だよ >>442
>土器や祭祀の統一が書かれた部分はどの史書のどの部分だ?
記紀は、神武天皇即位の最初から、倭国(やまと)は統一されていたという体になっているから
意味のない質問だな
そして、年代的にも崇神紀〜垂仁・景行紀が宮都の位置から纏向遺跡=邪馬台国時代だと
想定でき、畿内第V様式土器の統一はそれより前の年代になるので、記紀では欠史八代の時代になる
書かれていないのが当然 >>448
代表的なのが瀬田遺跡なだけで特殊な例ではない。 >>443
>毎度毎度論破されてそのたび主張をコロッと変えて出てくるんだよ
「どこ」で「何」が「どう」論破されているのか、「具体的に書いて」くれるかな?
こっちはずっと一貫して同じことしか書いてないぞ >>437
肝心の箸墓と邪馬台国の時期が違うからな
箸墓は3世紀後半
魏志倭人伝を信じれば卑弥呼はとっくに死んでる >>452
最新の科学的調査だと箸墓は2世紀前半で卑弥呼の時代と一致してる 墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されていたが、陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、
奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が多量に出土した。
これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280〜300年(±10〜20年)と推定している。
しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、
この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、
仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。
さらに魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具が出土していることも矛盾点である。 >>443
>河内と大和なんて庄内式土器でさえ広がる時点で大きくズレがある場所
畿内第V様式土器、庄内式土器、布留式土器と、共に期を一つにして移り変わっていくんだが?
そもそも、弥生時代の最初期から奈良盆地・大和の集落は、河内南部から大和川沿いに
入ってきた集団によって形成されていっているんだから最初からずっと文化的にも一体の領域だよ >>453
どういう調査で何をどの方式で調べたんだよ? >>449
>書かれていないのが当然
暴言すぎて草しか生えんwww
何が邪馬台国探しの出発点だと思ってんだよ?www >>451
自分で1から10までここの過去ログ読んでみろよ
恥ずかしいぐらいレスの中身がコロコロ変わってる >魏志倭人伝では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕から馬具が出土していることも矛盾点である。
これに関しては魏から張政がやってきた時
馬も連れてきたのでは。張政は軍人だから馬を連れてこないほうが不思議 >>454
馬具があったという時点で邪馬台国とは別の文化なんじゃないか?
それが後発の大陸から来たヤマト王権って事で
そもそも魏志倭人伝に残された邪馬台国とヤマト王権では文化がかなり違う >>455
ここまでのトンチンカンはなかなかいない
それぞれ時期がずれて河内と大和に広がっていくことすら知らないのか
良くそれで畿内説語ろうと思ったな >>452
>肝心の箸墓と邪馬台国の時期が違うからな
前方後方墳の話はどうなったんだ?
論破されたから、話題をそらしてごまかしてるってことでいいかな?
そして、箸墓に先行する纏向石塚古墳から東田大塚古墳までの纏向古墳群の
どれを採っても、築造時に列島最大の墳丘墓なのだから、この地に列島の
盟主が居たとみなすことに何の疑問もない
箸墓が卑弥呼の墓であるかどうかに、畿内説はこだわっていないよ
最新の編年に従うなら、卑弥呼の墓ではないだろうということになる
寺沢先生などはその立場
まあ、編年研究の進展次第ということになる
三日月湖年縞の14C年代がきちんと作られれば、絶対年代の確実な標準が得られるので
それを期待しているところ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています