【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
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産経ニュース
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★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ 今の時代なら畿内説のような社会形態は可能かもしれないが、この現代の基盤は明治維新で構築されたんだぞ?
誰がやった?薩摩藩だろ?
一地方が国を乗っとったとも言える。
つい最近まで列島統一なんて実際には出来てなかったんだよ。 >>237
でたよ
都合のいいところだけ魏志倭人伝の記述を採用し、都合の悪いところは間違いで済ます
畿内派のお得意だね >>211
>彦姫制のヒメ王の職分だけが統一された状態だよ
ヒコヒメ制とか、わけわからん妄想を持ち出すから、
畿内説は理解されないんだよ。
畿内説も完全に立証できたわけでもないのに、
さらにヒコヒメ制などという仮定を持ち出すのは科学的ではない。 >>216
>そして邪馬台国は象徴的存在として卑弥呼を擁立し各国に承認させたと
九州説もだけど、卑弥呼はシャーマンとして象徴的に共立されたとか、
戦後の天皇が象徴として存在して、政府が実権を握ってるような状態が、
3世紀でも存在していたかのように考えられている。
全く、理解できない。
卑弥呼はシャーマンだったかもしれないが、同時に強権を発動できた政治家でもあった、と、なぜ考えない?
考える脳が無いから、ヒコヒメ制などというおかしな空想を持ち出さなくてはならなくなってる。 >>238
伊都国なら海のそばだから防衛や貿易拠点も兼ねてたんだろうな
女王国は連合国家の象徴的な存在だから実際の統治は各国でやっていた
現代で言えば連邦国家の首都、ワシントンD.C.とニューヨークのような関係だろう 卑弥呼のたった100年後の神功皇后でさえ、強権を握って、
朝鮮派兵まで行なってる。
そして、神功皇后も、占いで政治を行なっていたシャーマンだ。
女性が、実質的女王になれなかったなどというのは、偏見にすぎない。 マニアではなく、一般人は畿内説しかありえないじゃんという状況。それほど明白で当たり前のこと。
フツーに考えたら畿内でしょって、一般人はみんないってる。
幽霊は一般のひとはいないかな、と思ってるけど、幽霊いる派はなんか色々主張してるのと似ている。
テレビタックルに出てた大槻教授の気持ちがよくわかる。
でも、テレビタックルにでてる肯定派のひとも、確信犯でたまに幽霊なんていないと思ってるのが、透けて見えるときあるよね。
九州説のひとも、大半はそうなんちゃうかな。 >>244
神功皇后はフィクションだから
存在の史実がないし三韓征伐にも一切証拠がない
何百年後に作られた記紀だけにしかない >>246
途絶えた天皇の血筋を無理矢理繋げるために作った話だ >>242
倭人伝の記述では明確に支配するものされるものの記述があるのから
九州と畿内の緩い連合なんてありえないのにな >>245
一般人の偏見だと半々といったところでしょ >>246-247
残念だが、「七支刀」という物証が存在するので、神功皇后は実在の女帝と考えるべきだね。
日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに
「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。 むしろ象徴的な存在ってのは昔の方が成り立つ要素は大きい
神の言葉というものが信じられた時代ならなおさら
というかその神功皇后にしても本気で女が権力握って戦争を企画立案して軍を動かしたとか思ってるんかい
特に卑弥呼なんて上がって来た案件を神の言葉として吉凶を占ってた程度だとわかるだろ >>251
神功皇后を裏で操ってた人間がいると言うなら、それは誰のことか説明する必要がある。 >>250
だから記紀だけの記述だろ
記紀自体が創作だからそれに合わせて作ったんだろ >>251
「本気で女が権力握って戦争を企画立案して軍を動かしたとか思ってるんかい 」
女に政治は無理だとか、偏見の塊だよね。
およそ科学的ではない。
女性が古墳に埋葬されていた例だってあるのに。
卑弥呼を裏で操ってた男がいたとして、何十年もその状態に卑弥呼が甘んじてと考えるほうが不自然。
占いだって、あてずっぽうなら外れることのほうが多い。
外れた占いばかりしてたら、権威は簡単に失墜する。
占いというのは、綿密な政策立案をした上で、臣下に政策を認めさせるために、
「神のお告げがあった」として、利用するものだ。 >>252
裏で操るとかじゃないだろ
記紀を編纂した頃には尾ひれがついて武勇伝として伝わっていたというだけで >>253
卑弥呼や邪馬台国も、魏志倭人伝だけの記述。実在は証明されていない。
史書を否定するなら、全て否定してもらわないと困るね。 記紀は創作だというやつに限って、魏志倭人伝は一言一句正しいと妄信したりする。
魏志倭人伝で正確だと思われる記述は、
北九州までの道のりなど、実証されたものだけでしかない。
邪馬台国の戸数も、卑弥呼が衆を惑わしていたという記述も、墓の大きさも、誇張かもしれないのに。 >>254
政治と祭祀は近い関係だけど、というより軍事が無理
偏見云々を言ってるのではなく現実
たた神の言葉を伝えるという仕事自体、今とは比べ物にならないほど重要な仕事で、それは女にしか出来ない訳だから象徴的という言葉がカンに触るのかもしれないが重要な立場ということには変わりない
ただ実際に国を動かしていた人間は別にいると
卑弥呼は共立されたとある
つまり卑弥呼が自分の意思と力でトップの地位を勝ち取った訳ではなく祭り上げられた存在だということ >>225
「北」は文献内で整合性を持たせているだけだが
伊都国から南に邪馬台国がある
邪馬台国の北に伊都国がある
当時の地理観では日本列島が南北に長く、倭国というか文面の意味としては邪馬台国は会稽東冶の東のあたりと考えられていた
ここの方角が北でなかったら読者はわけわからんことになってる 議論がここまでこじれるのは邪馬台国探しの基準が違うからだろう
畿内説では、30ヶ国の連合を形成して、魏と外交をやって、魏から倭国の盟主と認定された国を探してる
九州説では、倭人一般倭国一般の風習風土として書かれている南国風の特徴を持った国を探してる
ざっくりまとめるとこんな感じじゃないか?
九州説基準の国なんか日本中どう探してもないけどな >>256
成立年代が無茶苦茶違うし邪馬台国に関しては魏志倭人伝だけでなく様々な史書にあるからね
記紀は何百年も前の話を途中経過もなくポッと創作しただけ >>258
>政治と祭祀は近い関係だけど、というより軍事が無理
全くの偏見で科学的意見ではない。
>卑弥呼は共立されたとある
>つまり卑弥呼が自分の意思と力でトップの地位を勝ち取った訳ではなく祭り上げられた存在だということ
3世紀の中国の文献で、
「共立」が実務を伴わない用法として使われてる事例を挙げてみろ。
話はそれからだ。 >>262
>邪馬台国に関しては魏志倭人伝だけでなく様々な史書にあるからね
あきれる。
その「様々な史書」とはなんだ?
3世紀に書かれた文献かね?
後世の引用ではないかな? このスレは関係する研究者が常駐して場外乱闘しているから伸びていると見た >>266
論破されたんだから、ひっこんでろカス。 キチガイは自分は証拠出さないで他人には上から目線で証拠出せだから呆れるわ >>263
科学的意見?
お前の卑弥呼が実質的女王になれなかったはずがないってのがすでに科学的意見ではないだろ
占い師の女が乱世に軍を編成して指揮し国々をまとめた例を言ってみ?
魏志で卑弥呼は鬼道についてふれて、政治は男弟が助けていたとある通りだ
当時は祭祀も重要なポジションだから裏で操るも何もなく、役割分担だ
ただ今の時代にも通じる国を動かす行為は男弟がやっていたということ >>269
男弟が卑弥呼の世話をしたのは、高齢になってからだ。
好き勝手に文献を都合よく解釈してもらっては困る。
九州説も畿内説も、都合の良いところしか読まないからな。 で、「ボクの考えた理想の卑弥呼像」のために、
物証があるにもかかわらず神功皇后は創作だと決め付ける。
科学的姿勢を貫くなら、物証の伴わない卑弥呼像のほうを否定すべきだ。 先に説をだして、あとでその説に合致するモンがでたらその説は正しいとするというのも、科学なんやけどね。
アインシュタインなんかはその例。
科学って言葉つかうと、何となく正しいこといってるように聞こえるからその気持ちもわかるけど >>270
弟が政治を補佐したのが高齢となってから?ソース出してみ
神功皇后のフィクション信じてる人間に何言っても無駄だろうがな >>274
男弟が政治の実務をしたという証拠はあるのか?
魏志倭人伝のどこを読んだらそう書いてあるのかね? 魏志倭人伝を一言一句正しいと思うなら、九州説で決まり。
畿内説の出る幕は無いんだよ。 >>271
物証ってのはそういうもんじゃないだろ
例えば国外の中国や半島の記録で半島と神功皇后が手打ちしたとかそういう記録あるのか?
いたという前提で記録をでっち上げるのは物証じゃない >>200
箸墓が卑弥呼の墓と言ってるのは近畿絡みの考古学者だけなのにナーニ言ってんだか
当のC14桃の種爺が前の方のスレで上げてた畿内説支持者リストを見直してみたら
まだどっちも立証できてないんだよ >>275
有男弟 佐治國
お前さっきから嘘ばっかだな
大体表に出ず男子1人が卑弥呼の言葉を伝えるために卑弥呼の部屋に出入りしているだけって状態で国の実権をもって動かしてたなんてどう考えたらそうなるんだか >>277
おまえが、卑弥呼も邪馬台国の存在も否定するなら、同意しよう。
金印が見つからない段階で、言えることは、
卑弥呼も邪馬台国も実在したかもしれない、という仮説だけ。
そのうえ、卑弥呼に政治能力が無かったと言い切るつもりなら、ただの妄想家だ。 >>276
「南は東の間違いだとしたら」
という条件のもとにスタートしてたのが畿内説。
その畿内説についていくら科学的解析を行ったとしても、結局はすべて想像で終わる話。 >>208 >>245
そのうちまた変わるってなぜ考えないの?
どっちも立証できてないのに
いわゆる従軍慰安婦なんか典型でしょ
(歴史に学ばないと) >>279
「年已長大」と書いてあるだろ。
政治家だって、歳を取ったあとは、実務は部下に任せるものだ。
若いときに、政治手腕を振るった経緯が無ければ、誰がババァの言うことを聞くか。 >>283
高齢になってから弟が政治を補佐したってソースを出せよ
関係ない文は貼らなくていい
シャーマンと政治手腕は関係ない
苦し紛れに余計なことは言わなくていい >>266 etc.
これはいくらなんでも >>256 etc. が正しい
ID:CuFy+Tg4の勝ち ID:LIHIBPyFの負け >>284
ご覧ください。
魏志倭人伝を一言一句正しいと信じ込んでると、
このような妄想家になってしまいます。
「ボクの考えた理想の卑弥呼像」以外は受け付けなくなってしまいます。怖いですね。
それはともかく、卑弥呼に政治能力が無かったというソースはいつ出してくれるの? >>285
こんなミエミエの自演して悲しくないのか? 卑弥呼に政治能力が無かったということにしないと、
畿内説の言う「ヒコヒメ制」が根本から成立しなくなるのだろう。
つまり、「ヒコヒメ制」という仮説が無ければ、畿内説は論証できないという、
砂上の楼閣だということでもある。
考古学視点で、3世紀を俯瞰したとき、
衰退していく九州と、勢力を固めつつある近畿という構図が見える。
これだけでは、畿内説は証明できない。
そこで導入されたのが、「ヒコヒメ制」という仮説だ。
「ヒコヒメ制」がどのように畿内説の証明に役立つのか?
それは全くわからない。
誰か、わかるように説明して欲しいものだ。 桃の種の年代が近かったから、邪馬台国だ!
って発想が無邪気だなw そもそも3世紀に畿内が力をつけたの大きな根拠が三角縁神獣鏡のばらまきだったけど
それが日中双方の研究で4世紀の日本で作られた鏡と分かってから使えなくなった
それ以降畿内説は完全に迷走してる >>276
どこをどう読んだら九州だと書かれている?
九州説は倭人伝の記述と不一致だらけなんだが
例えばこういう邪馬台国にかかわる直接の記述などに不一致
・邪馬台国が倭国の盟主の国
・30ヶ国の連合
・水行十日、水行二十日陸行一月
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸
・卑弥呼の墓が径百余歩
・一大率が刺史のごとく
・倭国の産物に丹 九州説でも北部九州だけはないよね
九州説でいま一番人気の候補は何? >>292
カスリもしない畿内説の人も掘るの手伝えよ。
伊都国から南のどこかを。 >>294
「南」と「水行十日、水行二十日陸行一月」を合わせると太平洋にドボン
どっちかが間違ってるということだ
そして行程の記述からではどっちが間違ってるかは不明
こんなの邪馬台国論争の基本中の基本だろが >>232
>一大率ってのは今で言えば総理大臣であり、女王が天皇みたいなもんだ。
>つまり伊都国が首都国で、邪馬台国は皇居のある国。
いろいろと妄想がはかどってるみたいだけど、邪馬台国本国には
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮と4人の官がいると明記されてる
総理大臣は第一の官の伊支馬だろ
一大率は、地方官だよ
もし伊都国が邪馬台国から近かったら、
一大率は刺史ではなく、司隷校尉のごときと書かれていないとおかしい >>287
第三者だよ
ひねくれないで素直に誤りは認めて学びとったほうがいいと思うけど
>>243とかわかりやすい説明のしかたができるのにもったいないよ >>292
畿内説もそれは同じでしょw
伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね! >>240
>都合のいいところだけ魏志倭人伝の記述を採用し、都合の悪いところは間違いで済ます
短里を捏造し、根拠なく島巡り仮説を採用し、
末盧国から伊都国の方角をアクロバット解釈する九州説には負けるよ
↑
こういう風に具体的に指摘してごらん
畿内説の「どこが都合のいいところ」なのかを具体的にさ >>298
>伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね!
文献内で整合性を持たせてるだけのこと
>>259に書いた通り >>241
>ヒコヒメ制とか、わけわからん妄想を持ち出すから、
ヒコヒメ制は、広く認められている概念だぞ
記紀にも彦姫のペアで地名を冠する人名が多数あるし、
魏志倭人伝の卑弥呼と佐治国男弟のペアも、彦姫の例とされている >>241
>卑弥呼はシャーマンだったかもしれないが、同時に強権を発動できた政治家でもあった、と、なぜ考えない?
それはね、当時の倭国の状況が、強権的支配だと考える理由がないからだよ
九州説がよく持ち出す、畿内が北部九州まで支配したとは考えられないってやつだ
実際、強権支配はしてないんだよ
そもそも、卑弥呼と会える人数が限られているんだから、強権的に軍隊に号令をかけたりはできないだろう
ただ、カリスマ性はあったと考えた方が、魏志倭人伝の記載と合う >>244
>女性が、実質的女王になれなかったなどというのは、偏見にすぎない。
卑弥呼の時代、崇神天皇の時代から、神功皇后までの記紀の記述は、
東征、西服、渡平海北の様子が記されている
卑弥呼のときにヒメ王・祭祀王の統一がなされたが、その後にヒコ王・世俗権力の
統一は別途進められなければならなかったんだよ
そして、その征服事業の仕上げが、神功皇后の事跡としてまとめられている >>246
>存在の史実がないし三韓征伐にも一切証拠がない
神功皇后の名は仮託だろうが、三韓征伐には広開土王碑という物証があるぞ >>265
>このスレは関係する研究者が常駐して場外乱闘しているから伸びていると見た
「九州説に関係する研究者」なんていないんだよ
専門の研究者で九州説を支持している人は現役の人は一人もいない
乱闘に持ち込もうとしているのは「邪馬台国の会」か「古田史学の会」のどちらかの「信者」だけ
もう、事実上破綻した九州説にしがみついて、半ばカルト化しているから始末に負えない 結局、卑弥呼って、
-擁立された象徴としての王
か
-力をもって政治力を振るってた王
なのか、どっちなんですか。 >>276
>魏志倭人伝を一言一句正しいと思うなら、九州説で決まり。
一字一句正しかったら、「日本にはない」ことにしかならないんだよ
遥か南海の海の上になるし、台湾ザルもミカドキジも日本にはいないだろ? >>295
狗奴韓国から末盧国まで3000里はあるわけだから、九州説どころか結局畿内説は影も形も無いわけだなw >>285ほか
ID:YgpmyS3sにはこの言葉をあげよう
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説 >>296
それでいくと伊支馬が東京都知事だろバカw >>289
>桃の種の年代が近かったから、邪馬台国だ!
>って発想が無邪気だなw
浅い理解で間抜けなことを書いていると、おつむの弱い人と見られてしまうよ?
もともと、古墳時代が始まってしまえば、倭国(日本)の中心が畿内であることは誰の目にも明らか
東遷説の親玉の安本美典氏主宰の邪馬台国の会も、そこには異論がない
そして、古墳時代の始まりの遺跡が纏向遺跡であることにも異論がない
ここまでを前提として、纏向遺跡の絶対年代=古墳時代の始まりの時期が
桃核炭素の、14C年代測定法で推定値が出され、2世紀後半から3世紀始めという結果が得られた
というのが、ここのスレタイ
つまり、畿内が倭国の中心である古墳時代の絶対年代が、卑弥呼の遣使よりも前になる
つまり、卑弥呼の遣使のときの倭国の中心は畿内という結論になるんだよ >>290
>それが日中双方の研究で4世紀の日本で作られた鏡と分かってから使えなくなった
>それ以降畿内説は完全に迷走してる
それがもう一回ひっくり返ってる
三角縁神獣鏡の形式編年研究が進んでいて、その最初期のものは魏鏡と見て矛盾がないとされている >>307
日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り
2000里は140Km 一里75m 日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました >>298
>伊都国、奴国、末盧国は邪馬台の北にある⇦これも抜かさないでね!
これは前にも説明しただろうが
何度も蒸し返すなよ
>>237参照
畿内説では、魏志倭人伝の行程記事が現実の地理と一致しているとはみなしていない
魏志倭人伝のいう「南」は、帯方郡から見て遠地であることを示しているに過ぎない >>298
>畿内説もそれは同じでしょw
同じじゃないよ
・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できるんだが? >>308
倭人伝を改竄して、騙そうとしてるのがみえみえ
実際に書かれているのは
狗奴韓国から對馬国まで1000里
對馬国から一大国まで1000里
一大国から末盧国まで1000里
そしてこの区間の実際の距離はバラバラ
それ以外の区間でも1里あたり距離はもっとバラバラ
倭人伝の「里」はあてにならないということ
もうこのスレで100回以上出てきてるのを、なぜしつこ繰り返す?
九州説は陳寿がやってない里の引き算をやってるが、倭人伝にかかれているのは「水行十日、水行二十日陸行一月」だ
難癖つけてるだけ >>309
違うぞ。九州説はそんなにまともじゃない
「俺たちの勝ちだ」って言い張る
それを認めないと打席にたたん。いつまで試合やってんだ終わりにしろ
だぞ >>315
>三角縁神獣鏡は日本製
三角縁神獣鏡の鏡式編年の研究について調べてごらん
編年の後半に当たるものは間違いなく日本製だけれど、
三角縁神獣鏡と十把一絡げにした上で全部日本製とするのはあたらない
そして、最初期の三角縁神獣鏡は、実は正確に言えば斜縁になっている
そして、大陸では三角縁神獣鏡は出土しないとよく言われるけれど、斜縁神獣鏡は複数出土している
最初期の三角縁(斜縁)神獣鏡は、魏鏡と見て問題ない >>317
>原材料は銅鐸w
後期のものはそうだね
同位体比の分析でも、いろいろな材料を混ぜて使っている様子が確認されている
まあ、そのいろいろな材料というのが銅鐸とは限らない訳だが >>320
では、もうちょっと長いバージョンを
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか 帯方郡(ソウル)から狗奴韓国(釜山)までの水行が約7000里。
狗奴韓国から九州北岸(唐津)までの航路が約3000里。
帯方郡から女王国までは道のりにして12000里だ。
よって九州北岸から女王国までの道のりは約2000里。
会稽東治の東という認識であった為、九州を丸ごと南にずらした感じだろう。
畿内?
居ないw >>316
またでた 勝手に方位を変更する馬鹿 奈良に多いのは此の手と鹿とモモノタネ 全国の今津や大津という地名と古墳の分布を比べてみるといい
古代日本は京都も東京も無人の荒野で今みたいな陸の国じゃない
港と港を線で繋いだ国が倭国
その中で当時広い農地になる土地は北九州くらいしかない >>323
出たスプリングハッチャンw
非科学的判定によろヒ素の種類特定で林マスミを犯人とでっち上げたゴミw
結局はバイアス判定に委ねるバカ学者w
それ使えないんだよ、残念ながら。 >>327
史書にもそう書いてあるよな。
倭国は互いに接していたと。 >>325
>よって九州北岸から女王国までの道のりは約2000里。
当時よく使われてた「1日30里」の公式で計算しただけだよ。
60×30=1800(約2000里) 九州説は最後は罵倒するだけといういつものパターンでしたw >>318
殉葬に関しては、12代天皇か14代天皇の頃にやめたという記述があるので
実際には殉葬は数回しか行われてない可能性が高い >>323
これって三角縁神獣鏡の比較対象として他の神獣鏡しか選んでない
三国西晋時代の鏡を神獣鏡だけで語るのはさすがにな
今じゃもう通用しない >>334
前漢後期〜後漢時代の鏡も分析してると書かれているだろ
具体的にそれが何かがこのプレスリリースで書かれていないが
典型的な前漢後期〜後漢時代の鏡だと内行花文鏡や方格規矩鏡あたりになるんだろう >>335
違うんだよ
三国西晋時代の中国鏡には神獣鏡しか使ってないとこっちに書いてある
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_16/
さすがに比較対象がそれだけでは今の時代じゃ通用しない
古い研究だから仕方ないけど >>336
・前漢後期〜三国鏡(紀元前1世紀〜紀元3世紀):Sb/Sn値0.005?0.013、Ag/Sn値0.002?0.005を中心に分布しています。
そのなかでも、とくに三国西晋時期の神獣鏡は、他形式鏡よりも分布が集中していることが注目できます。
↑
こう書かれているが
新たに測定したのが神獣鏡というだけの話でしょ 戦国時代から三国時代にかけての中国鏡、紀元3・4世紀の日本古墳時代の製鏡(日本鏡)それに、三角縁神獣鏡です。
↑
ちょっと違った
全部、測定してるわ
三国時代の鏡では神獣鏡以外がないというだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています