【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
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産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ 神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年を経て出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が「養子」であられた記録あり。 >>143
宗像氏の成立はいつからなんでしょうね?
沖ノ島の遺跡は、4世紀以後みたいだけど。
宗像氏以前は、金印も出てた志賀島の志賀海神社の氏族〜阿曇氏が、海運を担ってたと思うけど、
ヤマト王権+宗像氏の登場で衰退したように見える。 当時の中国は三国志の時代で、魏が呉を包囲するためには、どうしても
日本の九州を味方につける必要があったしな。そうで泣けなければ、
弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。他に金印を送ったのは中東の大国だしな。
その意味で、俺は九州説だな。 >>149
>弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。
九州説にしちゃうから、倭国が弱小に見えるんだよ
九州から東海までの広い範囲の連合たる倭国は、>>149がいうほど弱小ではない >>148
名前からするともっと後の時代かな
宗像大社も初期の頃の沖ノ島祭祀との関連が見えないってことで
世界遺産から外されそうになってたし >>45
識者に教えて欲しいんだが、そもそも邪馬台って当時の中国の発音でもやまたいなのか?
卑弥呼は?
少なくとも卑弥呼をひみこと呼ぶのは日本人による後付けだと思うんだが、どう? >>106
>2000里は140Km 一里75m
一体どんな計算したらそうなるんだ >>150
平安時代になっても関東じゃ蝦夷が反乱起こしまくってたのにそんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない >>153
中国語 発音
くらいでネット検索すると、漢字を発音してくれるやつあるから
それで聞いてみて、 >>155
4世紀末には群馬まで、7世紀には宮城まで版図を広げてる
3世紀に東海まで勢力を広げてるのは自然な流れ >>155
少し上に勢力図が貼ってあるのに、なぜ見ないで統一国家を勝手に連想して文句をつけるんだ? >>43
神話の天の岩戸の話は日食じゃなく火山噴火による冬がモチーフって説もあるよね。
卑弥呼は天照大神そのものじゃないか。 邪馬台国は九州の国で卑弥呼がいた時代には既に大和には相当に大きな国があった。
で神話の神武東征は決してウソじゃなく天皇家の祖先は九州出身なのは事実。
だとすれば東征で大和朝廷成立、卑弥呼時代、大和が邪馬台国を征服の順なのか? >>70
この一連のスレの中で最も説得力のあるレス(考古学者のバカさ加減 >>120) >>155
>そんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない
九州説というかアンチ畿内説の人はよくこういう言い方をするけど、
権力は統一されてないんだよ
近代の国家概念に引きずられすぎ
>>146に示された範囲で、共通の土器を使い、前方後円墳(前方後方墳も可)という共通の
葬送祭祀を行うという合意が存在していた
この範囲が魏志倭人伝のいう倭国
これをまだ国家段階ではないという立場の人は「前方後円墳体制」という用語を使うし、
一方で近代国家とは異なるがこれも国の一つのあり方だという立場からは「前方後円墳国家」と
いう用語で呼ばれる
いずれにせよ列島の広い範囲で共通の墓制を持つという首長層の同意の存在は
前方後円墳の全国展開により確実
これが倭国であり、その中心が畿内にあるのもまた確実
これが決着なんだよ 神武東征自体フィクションだから考えるだけ時間の無駄
卑弥呼の時代、畿内勢力は九州と比較して圧倒的に規模が大きいから征服なんて無理だしそんな形跡もない
むしろ逆 >>161
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう
畿内説では通常、神武東征を史実とはしないが、史実とする立場の人でも邪馬台国時代よりも
神武東征は過去であり、魏志倭人伝の時代の倭国の中心は大和だと考える 纏向遺跡は大和にはあるがいわゆる大和朝廷(天皇家)の遺跡じゃない可能性あるのかな? >>163
> これが決着なんだよ
いつも決着バカジジイ
決着がついてたら10スレも続いてないって >>165
邪馬台国、東征(邪馬台国か他の九州の国かは諸説おり)、大和朝廷の順もありうるよね。 邪馬台国の時代は、朝鮮半島の南の方は日本の領土だった。任那。
それが、韓国人はあほだから、何度言ってもわからないのだ。
韓国人は漢字もわからないあほ人種。 >>138
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
>丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
>大和の纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートル
>という巨大墳丘墓が各地で作られている中、北部九州で王墓かもと候補になるのが
>平原1号墓の12×8メートル
九州のどんな勢力が何人で東征したら、畿内の勢力を征服できるというのかね?
東征ありきの人は、軍隊の数を見積もってみてよ。 時代が合っただけで別勢力だって思考が欠落してるのが宗教だよな まあ仮に九州に邪馬台国があったとした場合
近畿・瀬戸内海一体の中央政権とは別のはしっこの小勢力が邪馬台国だったという事になる >>173
それの何がイけないのか
そんなのが朝貢とかいう生意気な事したから自分らの功績にする為に
東征なんていう七面倒なエピソードひり出したんじゃねぇかと思う >>173
反対に畿内にあったとしたら畿内から北九州までも支配権が及んでたってことになるよね。
だって奴国や伊都国など北九州確定の国がそ邪馬台国連合を構成する国の一つなんどから。 >>999おるか
答えがわからないんならたたらを使わない原始的な製鉄について勉強してこいよ
なんで天孫降臨の舞台が山や平原じゃなく葦原かも考えてみるといいかもな
ついでに漢の製鉄についても知っとくと半島列島の勢力図が見えるぞ >>175
纏向遺跡の都市設計や染織などの渡来系技術者達は当然対馬経由で北九州に入り畿内にたどり着いたということになるし
そうでなければルートがない けど畿内説をとるなら使者は瀬戸内海を通ってやってくるはずなんだから
瀬戸内沿岸にあったであろう国についての記述が当然だとあるべきだろうなのにそれがない。
まあ倭人伝の行程の元資料を書いた人は北九州までしか行ってなくて後の行程は聞いた話っぽい。 投馬国は妻木晩田遺跡の可能性から日本海ルートも有力候補の一つ
不弥国までの記述が詳細なのは九州内の地理情報は元々把握していて帰国後それを記した
不弥国から先は事前データがなかったために行程にかかった日数をそのまま記したとみえる
だからすごく大雑把になっている >>174
卑弥呼って金印をもらってるからな。
中国は国力を調べるから、邪馬台国は超大国の首都しかありえないけどね。 >>181
画像検索しても投馬国の想定位置は邪馬台国以上にバラバラだよな。 >>170
崇神天皇の名前がミマキだから
それにちなんで任那(ミナマ)という国名にしたっていう伝説が残ってるね。
纏向(マキムク)遺跡も崇神天皇(ミマキ)がいるほうを向いてるから
マキムクっぽい >>170
そんな事は書いてないようだが
支配地だとしたら卑奴母離のような
日本語での監視者がいるだろうが、
卑奴母離は対馬までしか居ない訳だし
そもそも、考古学的な証明があるんだろうか?
任那の地にそれこそ倭人の古墳があるような
そういった証明が無いのなら
任那日本府なるものは無かったと見るべきだろう >>164
3世紀前半なら北部九州が文化的に上だし、出土物も国際色豊かで豊富
鉄の流通一つでわかってしまう 九州の発掘成果や中国での研究成果がどんどん上がってきて
畿内説の言い分が効かなくなってる 韓伝には、韓は東西は海に接し南は倭に接して海とは接していないとある
百済の地域で前方後円墳が見つかっても都合が悪いと埋め戻す国だから
考古学的に証明は難しいだろうけどね 現在の人類(新人類)が出来たのは2万年前
1万5千年前には人類最初の煮炊き用土器(縄文式土器)が極東の日本列島で開発され実践投入
1万年前には地球上の人類拡散し鉄器使った農耕生活開始
7000年前にはエジプトの人類最初の王国誕生
2000年前にはインドや中国やイランあたりに帝国勃興
悪くないスピードだろ
きっかけ作ったのは日本だけどさ 柿の種で決まるのか
柿の種は当時の文化風俗においてどの程度の位置づけなんだ >>159
単純に同じ様式の墓があったから統一国家があったと考えるのは短絡的
各地のバラバラな勢力が自分の権力の象徴として墳墓を作って競い合ったと考えてもおかしくない ふんボー! って鼻膨らませて競いあったんですね、分かります >>182
漢委奴国王印の金印が出土したのは九州だからな
そうすると少なくとも一世紀頃には九州に超大国の首都があったという事だな
そうすると逆に二〜三世紀に至るまで九州を中心とした超大国があっても不思議でもないな >>193
中国様がちゃんと調べて金印与えたならそうだろ
一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が中心だった
二世紀にはその国を滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
やはり九州にあったと考えるのが自然 一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が九州の中心だった
二世紀にはその九州を畿内勢力が滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
やはり畿内にあったと考えるのが自然 >>195
畿内で親魏倭王の金印が見つかればね
あとはお前の想像 物証がないのに中国の史書の記述に乗っかろうとするバカ 邪馬台国は大陸に近い九州だと思う
奈良は独自発展じゃないのかなぁ >>195
>一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が九州の中心だった
ここまでは文献を見る限り正解
>二世紀にはその九州を畿内勢力が滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
>やはり畿内にあったと考えるのが自然
二世紀後半に倭国大乱に相当する戦乱の時代があり、それを邪馬台国を中心とした連合政権が平定する
倭国大乱に関しては相当の時代に戦乱があった事は遺跡などからわかる
その範囲は九州から畿内に至るまでだった
しかしこれを制したのが近畿勢力であるとは考えにくい
理由は近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなったこと
近畿勢力が制したのなら銅鐸製造は継続され、逆に九州にまで及んでいたはず
近畿の銅鐸文化が終焉したということ逆に卑弥呼を中心とした九州の文化が近畿に及んだということ >>167
>決着がついてたら10スレも続いてないって
違うよ、バカだなぁ
決着はとっくに付いてるんだよ
でも負けを認めたくないっていって、30年前の情報にすがってまだ決着は着いてないにだーって
言い張ってる連中が大量投稿してるだけ
学問は勝ち負けじゃないんだけどねぇ
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説 >>189
Wikipediaみるに、日本が最初か怪しそうだがなぁ
>縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、
>世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域には
>同時期の土器文化の存在が知られ、
>東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に
>出現したとみられており、相互の関係が注目される。 >>157
ありがとう
だが、俺は現代中国語は出来るんだよ
だから当時の発音がどうなのかを識者に聞いたんだな >>189
そもそも、「新人類の2万年前」って定義が
よくわからんのだけどさ >>163
共通する土器を使ったら統一国家だというなら縄文時代にすでに日本に統一国家があったことになる
共通する墳墓の形式、つまり宗教があれば統一国家だというならキリスト教は世界最大最長の統一国家だよ ここだけ異空間なんだよ
邪馬台国論争はもう実質決着してるから、高校生は学校で邪馬台国は畿内が有力と習うようになった
教科書の記述が中立から畿内説寄りに変わった最初だからか、まだ控えめな表現に留まってるみたいだけど 実証できないから権威に頼るしかなくなったか
皇国史観再びか >>193
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かる。
西暦57年 倭人が新羅王になる。
漢委奴国王は新羅から九州北部までを支配した大王だったと考えられる。
西暦107年以降は「倭国王」という表現が出てくるので
この頃、西日本の大部分を支配するような大国が出現したと考えられる。
邪馬台国と奴国は同じ国と認識されていないので邪馬台国は大和だろうね。 >>175
>畿内から北九州までも支配権が及んでたってことになるよね。
何度も何度も同じことを蒸し返すのはやめよう
「支配」はしていないと何度言えば
当時の倭国は「前方後円墳体制」で、
祭祀の共通化・統一祭祀王たる倭王を共立、という段階
彦姫制のヒメ王の職分だけが統一された状態だよ
権力を持つヒコ王は統一されず各地の首長がそのまま豪族になっていく
支配してないんだから、何も問題ないだろ
同じことを蒸し返し続ける人がいるから、このスレを10まで続ける羽目になってるんだよ >>180
>けど畿内説をとるなら使者は瀬戸内海を通ってやってくるはずなんだから
いや、出雲・丹波まわりだよ
丸木舟で瀬戸内海は案外難しい >>211
だからそれを示す記録が一切無いんだろ?
記紀にすら書いてないんだから。 >>193
西暦181年 ニュージーランドの超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦184年 飢饉の影響によって黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦181年のタウポ火山の大噴火は、
日本の記録にも残ってるはずなので調べてみた。
崇神5年 疫病が流行し、人口の半分が死に至った。
崇神6年 農民が農地から離れる。農民の反逆が収まらなかった。
※農民が農地から離れていることから、この疾病は伝染病ではなく餓死であることがわかる。
崇神8年 百襲姫(卑弥呼と言われている)に奈良県の大神神社を祀らせる。 >>186
>鉄の流通一つでわかってしまう
何とかの一つ覚えのように、九州は鉄がーって言い続けてるけれど
鉄の出土も甕棺墓時代が多いのであって、甕棺墓が廃れたあとは、
九州での出土量は激減してるよ
それを弥生時代の通期で積算して、九州が多いって言ってるだけ
そして、伊都国・奴国は邪馬台国じゃないんだが、伊都国・奴国以外で
鉄がたくさん出ているところが九州にあるのかい?
3世紀限定で、伊都国・奴国を除くと、北部九州からは鉄も絹も銅鏡も出てないんだよ >>193
2世紀半ばには畿内と九州の力関係が逆転し、倭国大乱を経て北部九州は畿内勢力の傘下に収まったものと思われる
そして邪馬台国は象徴的存在として卑弥呼を擁立し各国に承認させたと >>187
>九州の発掘成果や中国での研究成果がどんどん上がってきて
そんなのがあるなら、具体的に貼ってくれれば議論が進むのに
九州説は決して具体的な根拠やソースを示さない
だから、ダメなんだよw
悔しかったら、「具体的な根拠・ソース」を示してね! >>211
邪馬台国がが伊都に一大率を置いて九州北部を支配してたという記述があるよ >>191
>各地のバラバラな勢力が自分の権力の象徴として墳墓を作って競い合ったと考えてもおかしくない
「共通の様式」の墳墓で、自分の権力の象徴を競い合っているのなら、
「比較の基準となる共通の基盤」があるってことだよね?
それが、前方後円墳体制であり、倭国の実態だよ
それが、東海から九州にまで及んでいる
http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010.jpg >>196
>畿内で親魏倭王の金印が見つかればね
>あとはお前の想像
九州では親魏倭王の金印なんて見つかってないだろ?
つまりは>>194はただの想像
九州説は卑弥呼の時代より、100年200年古いものしか根拠として出せない
3世紀には既に衰退している状況が明確 >>199
>その範囲は九州から畿内に至るまでだった
↑これと、↓これが、まったくつながってなくて笑えるww
>しかしこれを制したのが近畿勢力であるとは考えにくい
ただの主観じゃないかw
考古学的には、こうなっているんだよ
http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/4/d/4d3e1010.jpg >>218
>邪馬台国がが伊都に一大率を置いて九州北部を支配してたという記述があるよ
これ一つで、北部九州説は否定される
邪馬台国が北部九州にあるなら、一大率を置かずに直接統治すればよいだけのこと >>221
それはお前らのいう箸墓式だけの分布図に過ぎない
前方後円墳自体は当時のヤマト王権的には僻地の方の千葉とかで多い
むしろ権力基盤と古墳が結びついてるならこんなに多くの前方後円墳を作る事を権力側が許さないであろう
つまり前方後円墳の広がりは権力というよりも一種の祭祀、信仰形式の変化に従っていると考えた方が合理的 >>130
>九州説というのは、九州という括りにアイディンティティを見出したい、ただの願望だということ。
まさにそれだわ、合理性とか大局的な思考とか皆無
現在も北部九州は「修羅の国」といわれてるけど、2世紀から基本おなじ民族性を感じる
考古学発掘ではその時代の北部九州は戦乱の形跡が濃く、小さなムラの興亡が連続して
とても連合したクニの首都があったような形跡は無い
魏志倭人伝からイメージさせる「女王を共立することによって出来た連合」とは真逆な土地柄 >>222
はい、アウト
魏志倭人伝の原文にはこうある
「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国の北側には、特別に一大率(いちたいすい、いちだいそつ)を置き諸国を監察させており、諸國は畏(おそ)れている。女王は常に伊都国で治めており、中国(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだ。」
大和から伊都国(北九州)が北とは君は地図も見れない人なんだね >>222
一大卒を邪馬台国から派遣すれば直接統治なんじゃね。
世有王の地元の王に統治任せれば間接統治なのでは。 >>225
>女王は常に伊都国で治めており
原文には書いてない(笑) >>225
結局刺史の如しで>>222は辺境と判断したんだろうけど中国での刺史の役割は時代で大きく変わるからそれをもって辺境とするのはどうかね?
特に三国志の時代はいろいろと軍事政治体制も変遷してる
辺境と中心の概念は度重なる遷都で入れ替わってるし三国の建国後は体制もバラバラだった
刺史と牧はどちらも州の長官だけど刺史は牧に比べて権限は小さいが、それも三国バラバラで牧を任命したり刺史を任命したりしていた
陳寿があえて牧ではなく刺史の如しと言ってるのは牧よりも権限が小さいってくらいの意味じゃないかね >>227
詐欺師がいつもやる、トリックに引っかかるところでした。
ありがとう >>227
Wikiから持ってきたんだからWikiに言えよ
編集しとけ
でも北側という論拠には全く関係ないけどね >>229
論点とは関係ない場所の間違いを指摘して論点をずらすのが詐欺師の手口だよ 一大率ってのは今で言えば総理大臣であり、女王が天皇みたいなもんだ。
つまり伊都国が首都国で、邪馬台国は皇居のある国。
〜伊都国、又、至南邪馬台国。
伊都国の南を探せ。
吉野ケ里も外れでは無いかもな。 >>232
それが一番つじつまが合う
畿内派の論拠は想像だけ >>211
擁立したヒメ王はヤマトじゃなかったから記紀にも卑弥呼の話は載ってないんじゃね? >>223
>むしろ権力基盤と古墳が結びついてるならこんなに多くの前方後円墳を作る事を権力側が許さないであろう
本当に詭弁が好きだよな
権力の大きさは、墳丘の大きさで示される
小さいのはいくら作ってもいいんだよ
死んだ人の数だけ墓は必要なんだから、数を規制する意味はない 「結婚はエラい、子供がいればもっとエライ」と思う人へ...4ページのマンガが【話題】
http://niew.www.sitscape.com/107.html >>225
>大和から伊都国(北九州)が北とは君は地図も見れない人なんだね
畿内説では、魏志倭人伝の行程記事が現実の地理と一致しているとはみなしていない
魏志倭人伝のいう「南」は、帯方郡から見て遠地であることを示しているに過ぎない
現実の地理で北じゃないからおかしいとか、どこの子供だ?w >>226
>世有王の地元の王に統治任せれば間接統治なのでは。
官を派遣するまでもなく、通いで済むだろって話
邪馬台国が北部九州にあるならね 今の時代なら畿内説のような社会形態は可能かもしれないが、この現代の基盤は明治維新で構築されたんだぞ?
誰がやった?薩摩藩だろ?
一地方が国を乗っとったとも言える。
つい最近まで列島統一なんて実際には出来てなかったんだよ。 >>237
でたよ
都合のいいところだけ魏志倭人伝の記述を採用し、都合の悪いところは間違いで済ます
畿内派のお得意だね >>211
>彦姫制のヒメ王の職分だけが統一された状態だよ
ヒコヒメ制とか、わけわからん妄想を持ち出すから、
畿内説は理解されないんだよ。
畿内説も完全に立証できたわけでもないのに、
さらにヒコヒメ制などという仮定を持ち出すのは科学的ではない。 >>216
>そして邪馬台国は象徴的存在として卑弥呼を擁立し各国に承認させたと
九州説もだけど、卑弥呼はシャーマンとして象徴的に共立されたとか、
戦後の天皇が象徴として存在して、政府が実権を握ってるような状態が、
3世紀でも存在していたかのように考えられている。
全く、理解できない。
卑弥呼はシャーマンだったかもしれないが、同時に強権を発動できた政治家でもあった、と、なぜ考えない?
考える脳が無いから、ヒコヒメ制などというおかしな空想を持ち出さなくてはならなくなってる。 >>238
伊都国なら海のそばだから防衛や貿易拠点も兼ねてたんだろうな
女王国は連合国家の象徴的な存在だから実際の統治は各国でやっていた
現代で言えば連邦国家の首都、ワシントンD.C.とニューヨークのような関係だろう 卑弥呼のたった100年後の神功皇后でさえ、強権を握って、
朝鮮派兵まで行なってる。
そして、神功皇后も、占いで政治を行なっていたシャーマンだ。
女性が、実質的女王になれなかったなどというのは、偏見にすぎない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています