【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
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■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1541409918/ もしそうであれば、かぐや姫に求婚して難題を突きつけられて困ってしまった5人の貴族と実在の人物の名が一致するのも頷ける
(登場人物名) (実在の人物)
・石作の皇子→丹比真人嶋(たじひのまひとしま)
・阿倍御主人→阿倍御主人(あべのみうし)
・石上中納言→石上麻呂(いそのかみのまろ)
・車持の皇子→藤原不比等(母は車持君国子)
・大伴大納言→大伴御行(おおとものみゆき)
・かぐや姫を育てた竹取の翁
「讃岐造麿呂(さぬきのみや」⇒?
・天女の羽衣⇒大嘗祭の麁服?
・菊の御紋⇒天皇家の紋様? 中国の記録
紀元前230年頃に、秦の始皇帝の命を受けて徐福が不老不死の薬がある日本(徳之島)へ最初にやってきた。そこは「蓬莱の島」であり、その四百年後に『魏志倭人伝』に記す卑弥呼の邪馬台国が出来た
⇒確かに年代は一致する >>70
それは言える旧石器時代のゴッドハンド誰も否定できずに定説になってたんだよな >>113
一月はかからんからアンタの当て推量は弱いね >>119
しかし徳之島は名前に島と入っており、奈良ではなく島の気もする
つまり邪馬台国は島という可能性 >>115
不弥国までは詳細に記してあるのにその先途端にアバウトになるのは不弥国までの地理関係はすでに把握していたものを帰国後参照して記したものと思われる
その先の地理関係の情報はなかったため行程にかかった日数を記したと思われる >>112
>卑弥呼の没年(248年)から考えて、50年を超える在位は考えにくい
中国の歴史書にもついに卑弥呼が亡くなったって書いてあるから
よっぽど長生きだったんだろ。
卑弥呼は、184年頃に女王になり、248年頃に没 >>109
>古事記は倭の記録で推古天皇までが倭だったんだろうな。
日本の歴史では無かったことになってるが
聖徳太子は、倭国(わこく)から俀國(たいこく)に国名変えたと思うよ。
中国の歴史書でも倭国(わこく)から俀國(たいこく)に変わってるでしょ 歴代天皇でも在位70年以上は一人もいないんだし、
三国史記の記録を鵜呑みにする理由はないわな >>31
君がもう少し頭の良い人なら、
>>6
>邪馬台国の時代に北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
九州〜東海までが、邪馬台国連合の傘下だったという可能性も考えられると思わないかね?
邪馬台国連合の首都(卑弥呼の居城)が奈良にあったというのが、畿内説。
ここで、首都が九州にあり、かつ、西日本全域が邪馬台国連合の傘下だったと論じることもできる。
が、九州説と言えば、首都は九州で、邪馬台国連合の範囲も九州の中だけということになってる。
俺は、そのほうが奇妙だと思うね。
なぜ、九州説は、九州の中だけで考えようとするのか? 不弥国から水行20日と水行10日陸行1月かけて
どうやったら北部九州に着くんだい? >>127
しかしながら、普書だと倭国は互いに接しているんだよ。
九州説の方が全うだよ。 九州説というのは、暗黙の了解として、
奈良を邪馬台国連合に含めたくないと考えている。
それはとても、奇妙で、科学的とは言えないんだよ。
邪馬台国の時代に、九州の都に卑弥呼がいて、
東海まで九州を主体とした邪馬台国連合が形成されていたと論じたほうが、いろいろ辻褄が合う。
でも、そのような九州説を唱える人は、学者でも在野でも、皆無なんだよ。
結局、九州説というのは、九州という括りにアイディンティティを見出したい、ただの願望だということ。 >>128
魏略だと水行も陸行も無いから単に不彌国の南と解釈するのも有り。 ついでに廣志によると伊都国の南に邪馬台国があるらしい。 つまり邪馬台国は福岡南部あたりとする情報があるんだから、畿内説のような強引な想像説ではない。 >>130
九州説は日本を小さくする方向にはどんな珍説でも飛びつくけど
大きくする方向には絶対に否定するよね 九州説というのは、すぐ隣の山口県すら、邪馬台国の連合に入れないからな。
それでいて、九州勢力は関門海峡を封鎖していたから、
畿内勢力は関門海峡を通過できなかったとか、支離滅裂なことを言うんだぜ。 ・倭人伝の奴国が九州ではなかろうか
漢書や後漢書や山海経ではそう書かれているし、九州で発見された金印もそう書かれている。
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
・『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現しているし、正しい地理観に基づいている
・『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。 >>121
>一月はかからんからアンタの当て推量は弱いね
陸路170キロ、途中の集落で歓待を受けながら、であれば一月はまあ妥当だと思うがね
東海道をわき目も振らずに歩くわけじゃないんだから >>127
>なぜ、九州説は、九州の中だけで考えようとするのか?
当時既に、
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
大和の纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートル
という巨大墳丘墓が各地で作られている中、北部九州で王墓かもと候補になるのが
平原1号墓の12×8メートル
吉備や出雲や丹波は大和と比べられたら、北部九州に倭王の地位が認められることは
ないので、「本州は無関係と言い張らないといけない」のが九州説なんだよ
だから、九州説の倭国は必然的に九州限定になる >>129
>しかしながら、普書だと倭国は互いに接しているんだよ。
「普」書って、どうやって入力したんだ?
「晋書」しんじょ、だよ?
まあ、それはさておき、原文は
「舊有百餘小國相接」 至魏時有三十國通好
だから、魏志倭人伝でいう「舊百餘國、漢時有朝見者」の頃のこと
この頃の国は、環濠集落一つが一つの国扱いだろうと言われているので、
相い接するでも特におかしくない
日本中そんな様子だよ 九州説は文献に忠実と言うけど実際は曲解してるだけだしな
漢の時代の倭国の状況について説明したものを3世紀の状況だと曲解したり
意図的にやってるわけだから曲解というより改竄捏造だよな >>131
>魏略だと水行も陸行も無いから単に不彌国の南と解釈するのも有り。
その魏略は翰苑の註として引用された逸文
そして、「分軄命官 統女王而列部」に対する註の引用だから、
伊都国の「至伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰洩渓觚柄渠觚 其國王皆属王女也」という
官名まで引用したところで終わっている
水行、陸行が魏略になかったかどうかは分からないが、その伝で行けば魏略には奴国も
なかったことになるし、そのように考えるのは不合理 >>130
これ本当不思議だわ
じゃあ纒向遺跡はなんなんだ?と聞くと
狗奴国とか言うのもいたり、魏も知らない国だったとか言い出すのもいたり
だけど九州が中心の邪馬台国連合の傘下と言うのは1人もいないね
もう九州なんて狭い範囲で収まる話じゃないってのが本気でわかってないんだろう 九州説がすぐ隣の山口県さえ入れないのは
同じ北部九州の強烈な個性を放つ海人宗像氏の説明ができないからだろうな 神功皇后の実子・応神天皇は先帝死後3年を経て出生(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が「養子」であられた記録あり。 >>143
宗像氏の成立はいつからなんでしょうね?
沖ノ島の遺跡は、4世紀以後みたいだけど。
宗像氏以前は、金印も出てた志賀島の志賀海神社の氏族〜阿曇氏が、海運を担ってたと思うけど、
ヤマト王権+宗像氏の登場で衰退したように見える。 当時の中国は三国志の時代で、魏が呉を包囲するためには、どうしても
日本の九州を味方につける必要があったしな。そうで泣けなければ、
弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。他に金印を送ったのは中東の大国だしな。
その意味で、俺は九州説だな。 >>149
>弱小の邪馬台国に金印を送るわけがない。
九州説にしちゃうから、倭国が弱小に見えるんだよ
九州から東海までの広い範囲の連合たる倭国は、>>149がいうほど弱小ではない >>148
名前からするともっと後の時代かな
宗像大社も初期の頃の沖ノ島祭祀との関連が見えないってことで
世界遺産から外されそうになってたし >>45
識者に教えて欲しいんだが、そもそも邪馬台って当時の中国の発音でもやまたいなのか?
卑弥呼は?
少なくとも卑弥呼をひみこと呼ぶのは日本人による後付けだと思うんだが、どう? >>106
>2000里は140Km 一里75m
一体どんな計算したらそうなるんだ >>150
平安時代になっても関東じゃ蝦夷が反乱起こしまくってたのにそんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない >>153
中国語 発音
くらいでネット検索すると、漢字を発音してくれるやつあるから
それで聞いてみて、 >>155
4世紀末には群馬まで、7世紀には宮城まで版図を広げてる
3世紀に東海まで勢力を広げてるのは自然な流れ >>155
少し上に勢力図が貼ってあるのに、なぜ見ないで統一国家を勝手に連想して文句をつけるんだ? >>43
神話の天の岩戸の話は日食じゃなく火山噴火による冬がモチーフって説もあるよね。
卑弥呼は天照大神そのものじゃないか。 邪馬台国は九州の国で卑弥呼がいた時代には既に大和には相当に大きな国があった。
で神話の神武東征は決してウソじゃなく天皇家の祖先は九州出身なのは事実。
だとすれば東征で大和朝廷成立、卑弥呼時代、大和が邪馬台国を征服の順なのか? >>70
この一連のスレの中で最も説得力のあるレス(考古学者のバカさ加減 >>120) >>155
>そんなに早い時期に東海まで統一した国が存在するはずない
九州説というかアンチ畿内説の人はよくこういう言い方をするけど、
権力は統一されてないんだよ
近代の国家概念に引きずられすぎ
>>146に示された範囲で、共通の土器を使い、前方後円墳(前方後方墳も可)という共通の
葬送祭祀を行うという合意が存在していた
この範囲が魏志倭人伝のいう倭国
これをまだ国家段階ではないという立場の人は「前方後円墳体制」という用語を使うし、
一方で近代国家とは異なるがこれも国の一つのあり方だという立場からは「前方後円墳国家」と
いう用語で呼ばれる
いずれにせよ列島の広い範囲で共通の墓制を持つという首長層の同意の存在は
前方後円墳の全国展開により確実
これが倭国であり、その中心が畿内にあるのもまた確実
これが決着なんだよ 神武東征自体フィクションだから考えるだけ時間の無駄
卑弥呼の時代、畿内勢力は九州と比較して圧倒的に規模が大きいから征服なんて無理だしそんな形跡もない
むしろ逆 >>161
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう
畿内説では通常、神武東征を史実とはしないが、史実とする立場の人でも邪馬台国時代よりも
神武東征は過去であり、魏志倭人伝の時代の倭国の中心は大和だと考える 纏向遺跡は大和にはあるがいわゆる大和朝廷(天皇家)の遺跡じゃない可能性あるのかな? >>163
> これが決着なんだよ
いつも決着バカジジイ
決着がついてたら10スレも続いてないって >>165
邪馬台国、東征(邪馬台国か他の九州の国かは諸説おり)、大和朝廷の順もありうるよね。 邪馬台国の時代は、朝鮮半島の南の方は日本の領土だった。任那。
それが、韓国人はあほだから、何度言ってもわからないのだ。
韓国人は漢字もわからないあほ人種。 >>138
>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
>丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
>大和の纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートル
>という巨大墳丘墓が各地で作られている中、北部九州で王墓かもと候補になるのが
>平原1号墓の12×8メートル
九州のどんな勢力が何人で東征したら、畿内の勢力を征服できるというのかね?
東征ありきの人は、軍隊の数を見積もってみてよ。 時代が合っただけで別勢力だって思考が欠落してるのが宗教だよな まあ仮に九州に邪馬台国があったとした場合
近畿・瀬戸内海一体の中央政権とは別のはしっこの小勢力が邪馬台国だったという事になる >>173
それの何がイけないのか
そんなのが朝貢とかいう生意気な事したから自分らの功績にする為に
東征なんていう七面倒なエピソードひり出したんじゃねぇかと思う >>173
反対に畿内にあったとしたら畿内から北九州までも支配権が及んでたってことになるよね。
だって奴国や伊都国など北九州確定の国がそ邪馬台国連合を構成する国の一つなんどから。 >>999おるか
答えがわからないんならたたらを使わない原始的な製鉄について勉強してこいよ
なんで天孫降臨の舞台が山や平原じゃなく葦原かも考えてみるといいかもな
ついでに漢の製鉄についても知っとくと半島列島の勢力図が見えるぞ >>175
纏向遺跡の都市設計や染織などの渡来系技術者達は当然対馬経由で北九州に入り畿内にたどり着いたということになるし
そうでなければルートがない けど畿内説をとるなら使者は瀬戸内海を通ってやってくるはずなんだから
瀬戸内沿岸にあったであろう国についての記述が当然だとあるべきだろうなのにそれがない。
まあ倭人伝の行程の元資料を書いた人は北九州までしか行ってなくて後の行程は聞いた話っぽい。 投馬国は妻木晩田遺跡の可能性から日本海ルートも有力候補の一つ
不弥国までの記述が詳細なのは九州内の地理情報は元々把握していて帰国後それを記した
不弥国から先は事前データがなかったために行程にかかった日数をそのまま記したとみえる
だからすごく大雑把になっている >>174
卑弥呼って金印をもらってるからな。
中国は国力を調べるから、邪馬台国は超大国の首都しかありえないけどね。 >>181
画像検索しても投馬国の想定位置は邪馬台国以上にバラバラだよな。 >>170
崇神天皇の名前がミマキだから
それにちなんで任那(ミナマ)という国名にしたっていう伝説が残ってるね。
纏向(マキムク)遺跡も崇神天皇(ミマキ)がいるほうを向いてるから
マキムクっぽい >>170
そんな事は書いてないようだが
支配地だとしたら卑奴母離のような
日本語での監視者がいるだろうが、
卑奴母離は対馬までしか居ない訳だし
そもそも、考古学的な証明があるんだろうか?
任那の地にそれこそ倭人の古墳があるような
そういった証明が無いのなら
任那日本府なるものは無かったと見るべきだろう >>164
3世紀前半なら北部九州が文化的に上だし、出土物も国際色豊かで豊富
鉄の流通一つでわかってしまう 九州の発掘成果や中国での研究成果がどんどん上がってきて
畿内説の言い分が効かなくなってる 韓伝には、韓は東西は海に接し南は倭に接して海とは接していないとある
百済の地域で前方後円墳が見つかっても都合が悪いと埋め戻す国だから
考古学的に証明は難しいだろうけどね 現在の人類(新人類)が出来たのは2万年前
1万5千年前には人類最初の煮炊き用土器(縄文式土器)が極東の日本列島で開発され実践投入
1万年前には地球上の人類拡散し鉄器使った農耕生活開始
7000年前にはエジプトの人類最初の王国誕生
2000年前にはインドや中国やイランあたりに帝国勃興
悪くないスピードだろ
きっかけ作ったのは日本だけどさ 柿の種で決まるのか
柿の種は当時の文化風俗においてどの程度の位置づけなんだ >>159
単純に同じ様式の墓があったから統一国家があったと考えるのは短絡的
各地のバラバラな勢力が自分の権力の象徴として墳墓を作って競い合ったと考えてもおかしくない ふんボー! って鼻膨らませて競いあったんですね、分かります >>182
漢委奴国王印の金印が出土したのは九州だからな
そうすると少なくとも一世紀頃には九州に超大国の首都があったという事だな
そうすると逆に二〜三世紀に至るまで九州を中心とした超大国があっても不思議でもないな >>193
中国様がちゃんと調べて金印与えたならそうだろ
一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が中心だった
二世紀にはその国を滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
やはり九州にあったと考えるのが自然 一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が九州の中心だった
二世紀にはその九州を畿内勢力が滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
やはり畿内にあったと考えるのが自然 >>195
畿内で親魏倭王の金印が見つかればね
あとはお前の想像 物証がないのに中国の史書の記述に乗っかろうとするバカ 邪馬台国は大陸に近い九州だと思う
奈良は独自発展じゃないのかなぁ >>195
>一世紀頃に金印を与えた奴国または委奴国(諸説あり)が九州の中心だった
ここまでは文献を見る限り正解
>二世紀にはその九州を畿内勢力が滅ぼした、又は併合した邪馬台国が存在
>やはり畿内にあったと考えるのが自然
二世紀後半に倭国大乱に相当する戦乱の時代があり、それを邪馬台国を中心とした連合政権が平定する
倭国大乱に関しては相当の時代に戦乱があった事は遺跡などからわかる
その範囲は九州から畿内に至るまでだった
しかしこれを制したのが近畿勢力であるとは考えにくい
理由は近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなったこと
近畿勢力が制したのなら銅鐸製造は継続され、逆に九州にまで及んでいたはず
近畿の銅鐸文化が終焉したということ逆に卑弥呼を中心とした九州の文化が近畿に及んだということ >>167
>決着がついてたら10スレも続いてないって
違うよ、バカだなぁ
決着はとっくに付いてるんだよ
でも負けを認めたくないっていって、30年前の情報にすがってまだ決着は着いてないにだーって
言い張ってる連中が大量投稿してるだけ
学問は勝ち負けじゃないんだけどねぇ
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説 >>189
Wikipediaみるに、日本が最初か怪しそうだがなぁ
>縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、
>世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域には
>同時期の土器文化の存在が知られ、
>東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に
>出現したとみられており、相互の関係が注目される。 >>157
ありがとう
だが、俺は現代中国語は出来るんだよ
だから当時の発音がどうなのかを識者に聞いたんだな >>189
そもそも、「新人類の2万年前」って定義が
よくわからんのだけどさ >>163
共通する土器を使ったら統一国家だというなら縄文時代にすでに日本に統一国家があったことになる
共通する墳墓の形式、つまり宗教があれば統一国家だというならキリスト教は世界最大最長の統一国家だよ ここだけ異空間なんだよ
邪馬台国論争はもう実質決着してるから、高校生は学校で邪馬台国は畿内が有力と習うようになった
教科書の記述が中立から畿内説寄りに変わった最初だからか、まだ控えめな表現に留まってるみたいだけど 実証できないから権威に頼るしかなくなったか
皇国史観再びか >>193
西暦57年 金印「漢委奴国王」を授かる。
西暦57年 倭人が新羅王になる。
漢委奴国王は新羅から九州北部までを支配した大王だったと考えられる。
西暦107年以降は「倭国王」という表現が出てくるので
この頃、西日本の大部分を支配するような大国が出現したと考えられる。
邪馬台国と奴国は同じ国と認識されていないので邪馬台国は大和だろうね。 >>175
>畿内から北九州までも支配権が及んでたってことになるよね。
何度も何度も同じことを蒸し返すのはやめよう
「支配」はしていないと何度言えば
当時の倭国は「前方後円墳体制」で、
祭祀の共通化・統一祭祀王たる倭王を共立、という段階
彦姫制のヒメ王の職分だけが統一された状態だよ
権力を持つヒコ王は統一されず各地の首長がそのまま豪族になっていく
支配してないんだから、何も問題ないだろ
同じことを蒸し返し続ける人がいるから、このスレを10まで続ける羽目になってるんだよ >>180
>けど畿内説をとるなら使者は瀬戸内海を通ってやってくるはずなんだから
いや、出雲・丹波まわりだよ
丸木舟で瀬戸内海は案外難しい >>211
だからそれを示す記録が一切無いんだろ?
記紀にすら書いてないんだから。 >>193
西暦181年 ニュージーランドの超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦184年 飢饉の影響によって黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦181年のタウポ火山の大噴火は、
日本の記録にも残ってるはずなので調べてみた。
崇神5年 疫病が流行し、人口の半分が死に至った。
崇神6年 農民が農地から離れる。農民の反逆が収まらなかった。
※農民が農地から離れていることから、この疾病は伝染病ではなく餓死であることがわかる。
崇神8年 百襲姫(卑弥呼と言われている)に奈良県の大神神社を祀らせる。 >>186
>鉄の流通一つでわかってしまう
何とかの一つ覚えのように、九州は鉄がーって言い続けてるけれど
鉄の出土も甕棺墓時代が多いのであって、甕棺墓が廃れたあとは、
九州での出土量は激減してるよ
それを弥生時代の通期で積算して、九州が多いって言ってるだけ
そして、伊都国・奴国は邪馬台国じゃないんだが、伊都国・奴国以外で
鉄がたくさん出ているところが九州にあるのかい?
3世紀限定で、伊都国・奴国を除くと、北部九州からは鉄も絹も銅鏡も出てないんだよ >>193
2世紀半ばには畿内と九州の力関係が逆転し、倭国大乱を経て北部九州は畿内勢力の傘下に収まったものと思われる
そして邪馬台国は象徴的存在として卑弥呼を擁立し各国に承認させたと >>187
>九州の発掘成果や中国での研究成果がどんどん上がってきて
そんなのがあるなら、具体的に貼ってくれれば議論が進むのに
九州説は決して具体的な根拠やソースを示さない
だから、ダメなんだよw
悔しかったら、「具体的な根拠・ソース」を示してね! >>211
邪馬台国がが伊都に一大率を置いて九州北部を支配してたという記述があるよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています