【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ >>911
>別に普通の集落があるだろうよ
>一体何が言いたいのやら
古墳時代の九州ははっきり言って特に目立たない、一地方にすぎない
王が東遷したとしても、それまでの王都があっという間に廃れるなんてことはないだろ?
町を残さず根こそぎ移動なんてできないんだから
「東遷後の九州の跡地」ってのは、元王都はどうなっているのか?ってこと
つまり、「>>911のいう東遷」後に残された元王都がないってことは、
最初から王都なんてなかったってことだよ >>920
>途中で征服されたんだよ
鏡も脳内妄想がはかどってるねぇ
征服されたっていう証拠は銅釧だけなのかい?ww >>919
>九州で鏡が多く出るのは2世紀初めまで
これがウソ
3世紀の中国鏡である位至三公鏡は北部九州が分布の中心
http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
>古墳時代は3世紀に始まっているし古墳時代にはもう畿内が中心
ゆえにこれもウソw
>>911のとおり、邪馬台国時代に盛行した銅釧が畿内にまで到達している
畿内は北部九州に征服された側
記紀のとおりだな >>921
そんなのは東遷の理由によるわな
狗奴国に劣勢だったから移転したのなら攻め滅ぼされて大したものが残らなくても全然不思議はない
実際畿内に移った後で熊襲討伐とかやってるんだからその可能性は高い >>919
どこからこんな間違った情報を得たんだろう
石塚山古墳をはじめ九州北部の多くの古墳から多くの鏡が出てくるのに
この人は九州の発掘成果を全く知らないんだろうな >>922
反論できずに強がりだけかい?w
だけも何も決定的だよ
銅釧の分布は日本海各地に瀬戸内海、大阪湾岸、尾張、はては関東にまで及ぶ
しかもその銅釧の鋳型は北部九州で出土してる
明らかに北部九州の勢力が地方統治のために派遣した有力者に授けたもの
銅釧出土地
http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png >>820
>筋の通らない屁理屈
>邪馬台国の怪が得意の「畿内と九州の間には時空の歪みが生じてて100年のズレがある論」をここでも展開するのか?www
意味不明で屁理屈にすらなっていない逃げ口上だなw
中国側の研究で3世紀が明らかな位至三公鏡よりも新しい鏡が出る遺跡は4世紀以降の遺跡
これは極めて論理的な結論だよw
>魏志では中国から日本列島に役人が訪れたと書かれているが、晋書にはそんなこと書いてないが?
アホ?「貢聘不絶」なんだから倭国から朝貢が継続的に来ていたのは明々白々
朝貢を受けたら返礼の使者に下賜品をもたせて派遣するのが朝貢外交だろうが
空白なのはお前の頭蓋骨の中身だけだw
>全部だよ
アホ?
10種の魏晋鏡はほぼ後漢とコンパチの形式なんだが?
それが西晋の鏡であると判明している位至三公鏡より新しいわけねーだろw
>そもそもおまえらが具体的な鏡を示してないが
おいおいアホの上にメクラかよ
グラフの右側に10種の魏晋鏡とはどれのことか列記してあるだろ
http://yamatai.cside.com/katudou/image/250-3.gif
文字すら読めないのかよw
>畿内説にイチャモンつけるために、位至三公鏡が西晋時代の鏡だと与太話を作ったが
位至三公鏡が西晋時代なのは中国側の専門家も認める事実ですが?
戦わなきゃ現実とw
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
略
> 位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(365〜316)に大層流行しましたが、
> 呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
> 日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に
> 中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊。傍線は安本。以下も同じ) >>926
想像以上に広範囲とアクセスしてたんだな
若狭湾も北部九州の手の内か チョウセイという軍事のプロの報告書を基に陳寿という記録のプロが書いたものを脳内で勝手に変換する膏肓 >>929
従来の陸地だけの勢力争いのイメージでいると驚くよな
だが北部九州が力を持っていたのは海上交通を支配した海人の力が大きいようだ
>>926の地図を見れば、日本海の海上交通を支配していたようだから、例えば糸魚川の翡翠も
北部九州の力を借りなければ手に入らなかっただろうし、もちろん大陸との通交にも航海術は必要だ >>825
>これ言い張ってるだけで、ソースはなかったよな
>福岡県で5、6枚出土したデータをもっともらしく載せてたけど(おそらくほとんどが後漢鏡)
ほらほらまたそうやって嘘をつくw
ソースはとっくに提示してるぞ、アホのお前がソースのソースを出せと騒いでいるだけでw
3世紀後半の位至三公鏡でさえ北部九州が中心なのにそれ以前の鏡が畿内中心なわけがないw
http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
>魏は銅鏡を作れたのか、作れなかったのか、どっちなんだよ?www
お前の脳は1か0かしかない1ビット処理かよwww
>>802で中国の専門家が「魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかった」と言ってるだろう
数は減ってもゼロじゃなかった、ただそれだけのこと
そしてそれら希少な鏡は北部九州を中心に分布している、ただそれだけのこと >>931
>>>926の地図を見れば、日本海の海上交通を支配していたようだから、例えば糸魚川の翡翠も
>北部九州の力を借りなければ手に入らなかっただろうし、もちろん大陸との通交にも航海術は必要だ
なるほどねぇ
山に囲まれた奈良じゃ航海術は育たないし、大陸と活発に交易していた邪馬台国は北部九州と見るべきか >>933
九州の海人が糸魚川まで行ってたなら、
邪馬台国は九州だけで収まらなくなるが、いいのか? >>930
また「膏肓」を「バカなやつ」というつもりで書いてる
これまでにも何度か指摘してやったのに、確認すらしていないww
膏肓は「病膏肓に入る」以外には使わない言葉だよ
そして膏肓は、「膏」は心臓の下部、「肓」は隔膜の上部であり、病がそこに至ると
容易には治らないという表現
多分、病身と同じような意味で使っているつもりなんだろうなww >>923
>畿内は北部九州に征服された側
だとしたら、北部九州の地場の土器が淘汰されて、
畿内様式の土器で統一されるのはどうしてなんだい?
その畿内様式土器には祭祀供献土器である精製器種を含まれている
つまり、畿内の祭祀様式を九州側が受け入れているってことだよ
祭政一致の時代に祭祀様式を受け入れるということは、政治的にも
傘下に入っていたと言うことなんだよ
主導権は畿内側にある
征服はしていないけどね >>927も>>932もソースが「邪馬台国の会」だけw
しかも情報が古い
九州説は自分のお気に入りの情報以外は全部ウソって言って否定して回らないと
自説を保つことすらできない絶滅危惧種 また「膏肓」を「バカなやつ:jqyVYHwu」というつもりで書いてる
するどいね あたりです >>899
そういう構造だと、
精度よく誤差少なくは無理ゲーだねー。
炭素年代測定とか水月湖みたいな革命が起きないかねー。 >>934
大丈夫。魔法の言葉「短里」を使えばなんとかなる
それが九州説 9の最後に復習
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>933
>山に囲まれた奈良じゃ航海術は育たないし、大陸と活発に交易していた邪馬台国は
>北部九州と見るべきか
日本海の交流を主導していたのは出雲だよ
大国主の神話が出雲神話なのは意味のないことではない
大国主の妻問の範囲が出雲の交流圏だろう
大国主は越の沼河比売から北部九州の宗像三神まで妻問している
そして丹波を経て、大和と通じている
魏志倭人伝の投馬国から邪馬台国の水行十日陸行一月は
出雲から丹波経由の大和行きとちょうど合っている
魏使は倭国第二の大国の出雲に寄ったあと、出雲と大和の往還路をたどって
王都である大和に向かったのだろう >>936
>だとしたら、北部九州の地場の土器が淘汰されて、畿内様式の土器で統一されるのはどうしてなんだい?
土器制作ってのは身分の低い者の仕事だ
征服された畿内から工人を連れて行っただけのことだろ
>祭政一致の時代に祭祀様式を受け入れるということは、政治的にも傘下に入っていたと言うことなんだよ
畿内には元々墓に豪華な副葬品を入れる文化は無く、それは三種の神器等を見れば北部九州から入った文化なのは明らかだ
お前の理屈だと畿内はやっぱり北部九州の傘下に入っていたんだなw
ちなみに、皇室の重大神事である大嘗祭に使用する小屋は九州以南にしか自生しないビロウの葉を屋根に使うそうだぞw
天皇が九州人なのは明らかだなw
http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html
>なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。
>まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。
>皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。
>なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか?
>おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する
>儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。
>この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。
>ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。
>ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。 >>936
当時の新世代は畿内に集中したんだろうね
巻向は大市と呼ばれていたように当時の物産が集中する地域だった
九州が中心では本州からの米や物産が届かなかっただろう
弥生時代の倭の諸国がクニと呼ばれていたのは地域完結型の社会だったからだが、大陸からの物産が届く北部九州を発端として交易が栄えだしたときクニの枠を越えて必然的に畿内に連合する流れが起こったのだろうと思う
伊勢遺跡から唐古鍵への変遷はそんな流通拠点の移動を表していると思うんだ
拠点が定まってくると各国の優秀な文化や人物が集まることになり、争いや競争も生まれる
祭祀や王はこういう過程で生まれたんだろうな >>937
>>>927も>>932もソースが「邪馬台国の会」だけwしかも情報が古い
だったら君のお気に入りの最新情報ソースで反論してご覧よw
それが出来ないから君はそうやって罵詈雑言を並べるしか出来ない苦しい立場なんだよw >>938
>また「膏肓」を「バカなやつ:jqyVYHwu」というつもりで書いてる
それ、日本語として完全に誤用で、まともな教養のある日本人なら
けっして間違わないおかしな使い方だぞ
自分自身がバカであるという告白にしかなってない
そしてこの部分にコメントしてないが「病身」の代わりに使ってるんだろ?ww
お里が知れるなw >>924
>狗奴国に劣勢だったから移転したのなら攻め滅ぼされて大したものが残らなくても全然不思議はない
では、九州倭国wの故地を滅ぼした狗奴国の王都はどうなったんだ?
そんな反映した王都の遺跡なんて九州では一切見つからないんだが?
一つ吐く嘘でまた、一つデタラメを積み重ねるww
九州説はそんなのばっかり >>947
卑弥呼の時代より前に、
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある
大和では、纒向石塚古墳で全長96メートル、 東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
九州説がよく王墓だという平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは、
有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある
この状況で、他の地域王権の発達した地方と比べられたら、
北部九州の首長が倭王に除正されることはないよ >>948
嘘も何も可能性の一つを提示しただけだが
未発掘の遺跡くらいまだなんぼでもあるだろうに何がそんなに不思議なんだ? 投馬国は出雲なんだろうな
これだけの大国を魏の使者が言及しないはずがないからね >>945
>だったら君のお気に入りの最新情報ソースで反論してご覧よw
>>887とか学術論文を引用で示しているのはたいてい私だよ
畿内説のソースは研究者の査読付き学術論文で
九州説のソースは素人のブログ記事ってのは有名な話 >>950
墓の大きさ=国力とか言われてもね
墓の大きさを誇る文化が無ければ無意味なものを持ち出して得意げになってもしょうがないだろ
副葬品の豪華さでは北部九州に比類するものは当時無いだろ
むしろこっちのほうが確実に豊かさを表している >>953
全然関係ない話のソースを出して何のつもりだこのアホはw
お前は俺に対して何一つソースのある反論が出来ていない
この現実は変わらないぞw >>954
大きな墓を作るということはたくさんの人間を動員出来たということ >>951
可能性が0ではないというのを否定しろっていうのは
「悪魔の証明」だからごまかせると思ってるだろ
可能性はあくまで可能性であって、論拠にはならないんだよ
古墳時代に入っても、北部九州には大きな古墳が作れるだけの首長権の発達が見られない
九州倭国wの故地も、それを滅ぼした可能性wのある狗奴国の王墓もない
つまり、九州には王都はなかったんだよ
魏志倭人伝に戸数二万戸の大国と記された奴国の首長墓は那珂八幡古墳として残っている
それより大きな七万戸の邪馬台国の首長墓が見つからない時点で
九州説は成立する余地がない >>956
で?
墓が大きくても嬉しくない、って文化の人には関係ないよねそれ
副葬品が超豪華な北部九州の方は確実に物が豊かだったと言えるけど 纒向遺跡を見るに東海から北部九州までは傘下に収めていたと見える
これが稲荷山鉄剣の時代には埼玉から熊本まで広がると
自然な一連の流れなんだよな >>959
大きな墓がある国は確実に大国だったと言える >>957
>可能性はあくまで可能性であって、論拠にはならないんだよ
アホ?
可能性があることを認めた時点で、九州に無かったという断定は出来ないんだよw
>古墳時代に入っても、北部九州には大きな古墳が作れるだけの首長権の発達が見られない
田舎ほど土地が安いもんだぞw
墓なんて非生産的なものに割く土地が余っていたのは田舎の証拠だ
都会の狭い土地には大きな古墳は作れない
また労役に駆り出す奴隷は被征服地に多く、本国には少ない
お前の理論は穴だらけだw
何より、九州の権威の証である銅釧が畿内のど真ん中にある唐古鍵遺跡から出てきてしまった以上、
畿内は九州に征服されてしまったとしか判断のしようがない >>964
むしろ南関東が分布の中心になってるぞww このスレって畿内が九州に征服されたなんてトンデモを真面目に議論するスレなんか?
そんな説どんな学者が唱えてんの? >>959
>墓が大きくても嬉しくない、って文化の人には関係ないよねそれ
古今東西で、王よりも大きな墓を臣下が作るのを許してる王朝、王権があったら
一つでいいから挙げて見せてくれ
大墳丘が作れる動員力があったら、同じく大軍勢が動員できるんだよ
壬申の乱の時、大友皇子が天智天皇の陵墓を作るためといって軍勢を徴発したのを知らないのかい? >>970
君は鉾をかき混ぜて島が出来たとか信じる人間なんか?w >>962
>可能性があることを認めた時点で、九州に無かったという断定は出来ないんだよw
これが詐欺師の手口w
可能世は0ではないを否定しろって言うのは「悪魔の証明」 >>973
いやお前が勝手に「悪魔がいないことを証明したぞ!」と喚いてるんだがw
不明なものは不明とするのが学問的態度ってもんだぞ
君には一番縁遠いものだがw >>972
都合のいいときだけ記紀を持ち出す畿内説の人間が言っても説得力ゼロだぞw
神話は神代、神武天皇は人代で全く別なんだがねw >>967
「弥生時代前期」に北部九州地域で出現したのち、中期後半頃になって「ゴホウラ製立岩型貝輪」として盛んにつくられました。
って書いてあるだろ?
卑弥呼の時代の600年以上前だぞ
九州説の人は弥生時代前期と卑弥呼の時代が、現代と室町時代くらい離れているのが
理解できていない >>927
>グラフの右側に10種の魏晋鏡とはどれのことか列記してあるだろ
10種の魏晋鏡とやらの定義というか、どの種類の鏡なのかは示した
しかし、福岡で出土したのが37枚がどれなのか(実際に出土した遺跡と鏡の種類)は示してない
棒グラフを何度貼り付けても信憑性ゼロ
で、おまえらの2枚舌詐欺をもう少し詳しく書いてやるよ
位至三公鏡は岡村編年だと6期と7期第1段階に分類される
おまえが貼った表にもあるが実際に、「弥生時代に出土」している
これが元々の岡村編年
5期 → 6期 → 7期第1段階 → 7期第2段階 → 7期第3段階 → 三角縁神獣鏡
ところが、日本出土の位至三公鏡も西晋時代の鏡だということにして、編年そのものをずらそうとしてる
漢鏡6期がずれれば、自動的に7期以降も全部スライドするというのがおまえらの理屈だ
ところが、2枚舌でスライドさせるものとさせないものにわけてる
・位至三公鏡と7期第2段階だけを後ろにずらす
・位至三公鏡以外の6期の鏡と位至三公鏡以外の7期第1段階の鏡はずらさない
邪馬台国の怪が改ざんした岡村編年
5期 → 6期 → 7期第1段階 →→→→→→→→→→ 位至三公鏡 → 7期第2段階 → 7期第3段階 → 三角縁神獣鏡
やってることは、日本出土の位至三公鏡も西晋時代の鏡だというデタラメ話をつくり、
そのうえで、年代をずらすものとずらさないものに分けるという、2枚舌詐欺なんだよ 九州説の言う悪魔の存在は確認できないと言っているだけだ
「可能性は否定できない」を根拠にしていいなら、何でもありにしかならないのは理解できるか?
まあ、膏肓を人に対して使うような知的能力ではきびしいかなww >>976
アホ?
北部九州で昔から宝とされていたものを象ったのが有鉤銅釧なんだよ
当然北部九州のお宝なわけだよ
発祥も九州だしな
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
と書いてある通り、銅釧が広まったのは邪馬台国の頃だ
しかも鋳型は北部九州からしか出ていない
これは北部九州が銅釧を授ける側であって、授かる側が地方に派遣された人間という関係性を証明している >>977
そもそも、位至三公鏡を重視するのが、邪馬台国の会の一派だけって
ことに早く気づけるといいね
十種の魏晋鏡とかいうのも同じ
紀年銘鏡は九州からは1枚も出ていない 次スレ
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★10
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542123148/ >>980
いや、ならんだろ
お前んとこで作ってるそれ、こっちよこせや、だろ >>932
>数は減ってもゼロじゃなかった、ただそれだけのこと
>そしてそれら希少な鏡は北部九州を中心に分布している、ただそれだけのこと
黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の成分分析をしたところ、後漢鏡や魏晋鏡の成分と一致した
魏は銅鏡を作れたし、魏鏡(原材料だけの可能性もある)も日本に入ってきたことが証明された
さらに言うと、魏の時代には、九州勢は中国鏡をほとんど入手できなくなっていたんだがな
邪馬台国の怪の作り話は、現代科学によって嘘八百だと確定したんだよ
残念でした
https://www.sankei.com/west/news/181013/wst1810130014-n1.html >>836
九州南部にいた蛮族みたいな印象だけど本当は列島全土に居た本来の倭人だと思う
熊本て焼くと簡単に鉄が取れる土があるんだけどそれで最後まで残ったんじゃないかね
農業に向かない土地だから自然に大きい国ができるような所じゃないし >>977
>しかし、福岡で出土したのが37枚がどれなのか(実際に出土した遺跡と鏡の種類)は示してない
それは「ソースのソース」の要求だと言っているだろ
こちらはソースを出したのだから否定したければ否定するソースをもってこい
もしくはソース元に問い合わせろ
>おまえが貼った表にもあるが実際に、「弥生時代に出土」している
3世紀半ばまで弥生時代だが?
後漢はとっくに終わってるぞw
>やってることは、日本出土の位至三公鏡も西晋時代の鏡だというデタラメ話をつくり、
デタラメなのは後漢期にはたった1枚のみであとは全て西晋時代の位至三公鏡を後漢鏡だと言い張ってる畿内説だがw
位至三公鏡より古い鏡については別にずらす必要性が無いだけ
なぜなら西晋時代の代表的な鏡である位至三公鏡をずらさないと三角縁神獣鏡が4世紀だとバレるから畿内説が捏造しただけw
でも中国側の研究があるからバレてしまいました、とw >>981
紀年銘鏡なんてものは後世いくらでも捏造できる代物
実際>>635の通り捏造品が出てるしな >>983
ねーよアホw
海人を要する北部九州相手に海を隔てた相手が圧力をかけるなんて不可能なんだよ 畿内説も九州説も物足りない穴があるんだよな
個人的には邪馬台国という名前さえ無ければ九州説だったと思う
奴国の継承としての存在感や魏史にある当時の祭祀や風俗も畿内より納得できる
でも邪馬台国という出来すぎた名前と最近の発掘成果で交易入り交じる多民族国家的な姿のヤマトが浮かび上がると畿内説も魅力的だ
卑弥呼が旧来の伝統的祭祀の象徴として擁立されたとすると、それゆえ縄文系も従えている→鯨面の人々がいてもおかしくない
弥生の人と縄文人が交易拠点とした唐古鍵と巻向を支配していた可能性も十分にある
そして親魏倭王の金印は唐古鍵でその効果を発揮したというのは想像できるな >>985
>熊本て焼くと簡単に鉄が取れる土があるんだけどそれで最後まで残ったんじゃないかね
それちょっと勘違いしてると思う
熊本の阿蘇黄土(褐鉄鋼)のことだと思うけれど、これは焼くと鉄が取れるんじゃなくて
焼くとベンガラになるんだよ >>984
邪馬台国の会を否定してるけど
彼らは単に中国の学者の研究を紹介してるだけなので
まずその研究を否定するのが普通だけど
そこには全く触れないのが悲しいね >>988
どうかこれでお許し下さい、かもね
すーぐ罵倒する。九州説はガラが悪いねw >>984
また詐欺師の手法だなw
>後漢鏡や魏晋鏡の成分と一致し
その比較対象の後漢鏡や魏晋鏡って岡村編年だろw
だったら実際には100年以上後にずれるわけだ
岡村編年では西晋鏡である位至三公鏡が後漢中期〜後期に100年以上古くされているからなw
あっという間に見破っちゃってゴメンねw >>991
違う
畿内の鏡は呉が滅んだあとの4世紀になってからのものだ
という邪馬台国の怪が作ったストーリーを否定してるだけだ
魏は銅不足に困っていたが、銅鏡を作れたし日本に輸出もできた >>992
反論できずに笑って誤魔化すだけかねw
間に海がある以上、海人の最大勢力を要する北部九州に圧力かけるのなんざ無理なんだよ
むしろ北部九州に媚びへつらわなきゃ当時国産されていない鉄も手に入れられない状況だったわけ
どう見ても畿内は服従した側なのw >>995
でも>>994で論破されちゃったからその目論見は外れてしまいました、とw >>995
それを中国の学者が研究で否定してるんだけど >>993
とぼけてないで「阿蘇黄土、ベンガラ」でググってごらん
阿蘇黄土(褐鉄鋼)は製鉄材料には向かないんだよ このスレッドは1000を超えました。
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