【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ 記紀では女性がトップとして記されてる卑弥呼の存在を隠すこともなく皇后であろうとしてるところからも後の大和側からしても不自然ではなかったということ
祭祀を行う象徴としての倭迹迹日百襲姫と実権を握る崇神天皇は今の天皇と首相のような関係だったんだろう
まぁ現実的に考えて乱世を女が自分の意志と行動力で治めるなんてのはあり得ないから言われるがままに占いをしてる存在だったと想像する 文献の内容の確からしさというのは、手がかりとなる物証があって、はじめて研究を始めることが出来る。
卑弥呼がヤマトトトヒモモソヒメとわかったなら、
男弟は、大田田根子だというように。
と、なれば、トヨはトヨスキイリヒメだと理解することが容易にできる。 >>612
>実権を握る崇神天皇
記紀を信用しすぎだな。
歴史的事実として金印をもらったのは卑弥呼なのだから、卑弥呼が実質的権力者とみなすべきだ。
崇神天皇は、卑弥呼の甥でしかない。
3世紀当時に大王を名乗れるはずがないし、魏の使者もそんな認識は無かった。
男弟と、男王は別人だ。
古墳が小さいのも、王族のひとりにすぎなかったからだ。 >>609
そうなるわな
殊に外国に関しては、ヒコの出番はなくなり、普段は専ら祭祀に従事するヒメが対外的な首長として使者を送ったり、印綬を受けたりしてることになるなw >>614
本気で占い師の女である卑弥呼が政策を考えて軍事計画を立て命令を下していたと考えるんか?
非現実的だろう
実権を持つものが立てた政策、軍事計画の吉凶を占う存在と見るのが自然だろう
金印もらうのは実質的権力者である必要はないよ
悪く言えばお飾りでもトップはトップなんだから >>616
矛盾してるぞ。
卑弥呼の存命中に、実質権力者として崇神がいたなら、
卑弥呼が死んだところで、実質権力者の立場は全く変わらない。
軍や官を掌握したまま、自分が大王になることができる。
そうならなかったということは、崇神は実質権力者ではなかったということだよ。 卑弥呼は、シャーマンであり、優れた政治家でもあったと見なすべきだ。
だからこそ、記紀でも神話として大きく取り上げられるほど記憶に残った。
シャーマンが実権を失うのは、次のトヨの治世から。
いくらなんでも未成年の少女では、政治家としての手腕は振るえない。
占いが常に的中するわけでもないから徐々に臣民が離反していったことだろう。
そこから、男王が実質的に権力を掌握していくことになる。
ちなみに、トヨは天照大神を祭っていたが、
古墳時代のヤマト王権が、天照大神の祭祀を行なっていたという記録は記紀には無い。 >>617
それは「隙あらば大王になることを」狙っているという前提があってこそだろう
卑弥呼がいても死んでも自分が実質的権力者であることは変わらないし、
共立とされていたって現実は邪馬台国の実質権力者が誰を立てるか決めたことくらい想像できるだろう
台与は豊鍬入姫命とみているが、卑弥呼が死んだあと飢饉が起きた形跡があり国内の農民の反乱を抑えるために再度象徴的なトップを立てている
卑弥呼にしろ台与にしろ国の混乱を抑えるために祭り上げられた存在であってその二人が自らトップに立とうとしたわけじゃないのはわかるだろ?
であれば実質的な権力なんてなかったのもわかるだろう >>617
>矛盾してるぞ。
>卑弥呼の存命中に、実質権力者として崇神がいたなら、
>卑弥呼が死んだところで、実質権力者の立場は全く変わらない。
>軍や官を掌握したまま、自分が大王になることができる。
>そうならなかったということは、崇神は実質権力者ではなかったということだよ。
卑弥呼の共立が、ヒメ王・祭祀王の統一であって、ヒコ王・政務王は各地の首長が
そのまま実権を握っている形であることが重要
祭祀王が倭王を名乗るのは構わないが、政務王が倭王となることは許されない
崇神が掌握していたのは倭国全体の軍や官ではなく、ヤマト国の範囲の政務王
それが倭王を名乗ることには卑弥呼に共立メンバーからも抵抗があり、
新たに祭祀王を倭王に立てて、卑弥呼存命時の常態に復したという理解でいいだろう >>619
>国の混乱を抑えるために祭り上げられた
間単に言うけど、テレビもインターネットも無い時代に、
どうやって、倭国の数十のクニに対して、「倭王は卑弥呼様しかいない」と納得させられると思うの?
卑弥呼が自分一人で諸国を練り歩いて、「自分を女王にすれば国が治まりますよ!」と演説して回ったとでも?
農民がみんな「卑弥呼様」と呼んで崇拝してたとでも?
違う。
諸国の有力者、大王が直接ヤマトに出向いて卑弥呼に参拝し、卑弥呼の政治的実力を目の当たりに出来てこそ、
皆が「倭王は卑弥呼しかいない」と共立に賛成するわけ。
影の実力者が卑弥呼以外にいたなら、最初からその人を王にすればいい話し。 >>620
>祭祀王が倭王を名乗るのは構わないが、政務王が倭王となることは許されない
卑弥呼に政治家としての能力が無かったと断定する根拠には、全くならない。
卑弥呼に政治家としての能力が無かったという前提が、「ヒコヒメ制」の根拠なのだから、
卑弥呼に政治家としての能力が無かったという証拠を出して欲しいな。
でなければ、「ヒコヒメ制」など、ただの妄想。 >>610
>だいたい、男女ペアで治世したとして、寿命は同じではないので、
>どちらかが必ず死ぬ。
>すると、その時点でヒコヒメ制は成立しなくなる。
ここが既に頭が悪い
ヒコヒメは、宗族の男女というだけで、夫婦と決まっている訳ではない
兄妹の場合もあれば、母と息子の場合もある
片方が死んだら、一族の中の実力者が葬儀を仕切り、それによって次のヒコヒメが
お披露目されるが片方はそのまま引き継ぎということも多かっただろう
例えば、武埴安彦命の乱では、母親の埴安媛と、埴安のヒコヒメのペアを作っているし、
実際の乱の時には武埴安彦と妻の吾田媛が二人で乱を主導している様子が描かれている
彦姫制の存在は、状況証拠以上のものがないから実証はできないと言えばできないが、
>>610のはただのイチャモンで、何の否定にもなっていない >>621
演説なわけないし>大王が直接ヤマトに出向いて卑弥呼に参拝し、卑弥呼の政治的実力を目の当たり・・こんなのもありえん
倭国大乱が終わった時点で戦国時代が終了してるんだよ
つまり武力でまとまった状態ということ
邪馬台国が卑弥呼を象徴とするといえば周りは承認するしかないし、それも共立と呼ぶ
君は倭国大乱でも決着はつかず、皆が知恵を出し合いカリスマ占い師をトップに立てることで皆が納得したみたいなストーリーを信じてるん?
>影の実力者が卑弥呼以外にいたなら、最初からその人を王にすればいい話し。
この時代の吉凶を占う存在というのがそれだけ大きかったってこと 奈良派は記紀を信ずることで理論構築が出来なくなっている
記紀特に日本書紀は倭国の日本旧記を基に作成されているから
もしかして何等の記録もなしにヒエダアレの記憶だけで書かれたとでも思うのだろうか 膏肓たちは もともとは宮崎県あたりにいたのがヤマト族。
そして鹿児島や熊本にいた熊襲や隼人族と戦いを繰り返していた。
のちにこの両民族を従えて東遷して飛鳥地方に住み着いた。
ヤマトは「山門」に通じる。熊襲は今も熊本に地名が残る「球磨」
隼人は漁労民族。
いずれにしても北九州はほとんど関係ない。 >>625
>つまり武力でまとまった状態ということ
支離滅裂だな。 倭国大乱は武力でまとまったのかな
後継者争いで卑弥呼が一番納得しやすい存在だったんじゃないの?
トヨのときの争いは1000人しか死んでないから、戦争というより政変か反乱
謀反的な戦いくらいはあったかもしれないけど
まぁ所詮外国から見た文献だから、どこまで実態がわかってたかは微妙だよね 畿内説だと九州にまで武官を配置できてたのかって話が昔からあるが未だにまともな回答が返ってこない。畿内ですらろくに防御固められてなかったのに九州?ほんとかよ。 >>626
>膏肓たちは
前にも訊いたけど、>>626は日本の正規の教育を受けてないでしょ?
「膏肓たち」などという使い方は日本語にはない >>631
庄内式土器持った人がいっぱい畿内から九州に移住してるじゃない。
それで、奈良の地名が九州に移植されたわけだし。 >>633
九州が畿内を支配したから陶工が奴隷として連れて行かれたってことじゃん
それで九州の地名が奈良に移植されたんだし >>604
それ後世の捏造品w
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する
>卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。
>畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。
>安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。
>この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。
>つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。
ここから分かるのは、「かの三国志の時代の鏡」という肩書は当時既にわざわざ年号を捏造したくなるほどのブランドであったこと
つまり捏造品を作る動機は充分に存在していたという事実
三国時代の紀年鏡は眉唾ものだってこと >>599
ウソは畿内説しかつかないよw
文字記録により確実に年代の分かる中国側の研究で西晋鏡とされている位至三公鏡を漢鏡だと捏造している畿内説しかねw
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年〜316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-11.gif
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-12.gif
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。
> 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、
> 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
> そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。
> (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。
> 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照)
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
> (2)「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(「長宜子孫」銘内行花文鏡など。そのなかに、魏代の鏡がふくまれているとみられる)も、
> 北九州を中心に分布する。
> (3)九州出土の「位至三公鏡」は、弥生時代の遺跡から出土しているものがあるが、九州以外の遺跡から出土した「位至三公鏡」は、まず、
> 古墳時代の遺跡から出土している。九州以外の地の「位至三公鏡」は、九州方面からもたらされた伝世鏡か、あるいは、踏みかえし鏡であるにしても、
> 九州よりもややのちの時代に埋納された傾向がみてとれる。
>
> (4)これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の西暦300年ごろまで、鏡の出土分布の中心は一貫して北九州にあったといえる。 根拠として出してくるのが全部時代遅れの「邪馬台国の会」の
ウェブページだけってところでお察しだわな >>637
反論できないからお察しとか言って逃げる雑魚wwww >>632
膏肓からの返信 奈良はモモノタネと鹿で満足すべき >>639
論理的に反論できないからそうやって誤魔化すしかないんですね分かります
畿内説の人っていつもそうですよね >>636
こうも書いてあるな
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)・
>盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・至位三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(365〜316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に
>中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
じゃあ、邪馬台国が受け取った鏡は位至三公鏡かそれより以前の鏡ってことだな
年代観については文字記録がある中国の方が圧倒的に信頼性が高いし
位至三公鏡が北部九州を中心に分布する以上、北部九州が邪馬台国と考えて差し支えないだろう >>642
>位至三公鏡が北部九州を中心に分布する以上、北部九州が邪馬台国と考えて差し支えないだろう
そうとしか言えないでしょうね
これはトドメの一撃ですね >>639
東遷はアメリカの権威あるドキュメンタリー番組で肯定してたぞ
BC660年に神武が東遷してヤマトを建国した
ご丁寧に日本地図まで出して東京のあたりにYAMATOって書いてた
ちなみに八咫烏は宇宙船で八咫の鏡はiPadのようなものらしい
まぁ、九州説の言う東遷説はこれに比べるとトンデモでお笑いだけどな 自分で「鏡は捏造」と言ってるくらいだから、何の証拠にもならないと考えるべきだね。
やっぱり、土器編年が一番信用できるというわけだな。 >>638
>反論できないからお察しとか言って逃げる雑魚wwww
武士の情けでマイルドな否定にとどめてやったのにw
邪馬台国の会に詳しい人に聞きたいんだが、
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフで、
福岡県が37枚になっている
この37枚の内訳は
「表2 弥生時代終末期〜古墳時代初めごろの鏡」のどれを数えたら37枚になるのか教えて欲しい こいつのネタばれ行こうかね
「ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフの、福岡県が37枚」
表2の抜粋だが、
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓 福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓 福岡県 連弧文鏡 △1
汐井掛遺跡28木棺墓 福岡県 飛禽鏡 △1
汐井掛遺跡203土壙墓 福岡県 連弧文鏡 △1
平原遺跡 福岡県 方格規矩四神鏡 ●32
連弧文鏡 ●2
キ竜文鏡 ●1
連弧文八葉鏡 ●5
と、庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
『ひと頃までは』、この平原遺跡の40枚のうち、大型の連弧文八葉鏡5枚は仿製鏡とされ、
キ竜文鏡1枚は前漢鏡、連弧文鏡2枚のうち1枚は後漢鏡で1枚は仿製鏡とされていた
とすると、平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚と、その他の遺跡で1枚ずつの5枚を合わせて、
「福岡県は37枚」としていたと考えられる
たぶんこれで合っているだろう
ただ、問題は、同じ邪馬台国の会のウェブページで、この鏡のグラフだけを示したページがある
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/206kagami.htm
このページでは、福岡県の37枚が、「およそ邪馬台国時代」の20枚と、「およそ古墳時代」の17枚に分割されている
福岡県の枚数が多いのは単に平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚を数えているから多いだけで、
20枚と17枚に分けるのであれば、必ずこの32枚のうちの何枚かが「およそ邪馬台国時代」
別の何枚かが「およそ古墳時代」に分割されていることになる
ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、
説明は一切ない
つまり不適切なデータの扱いということになる
さらに、ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htmの表2では平原1号墓の鏡の枚数が
「40枚」になっていて、このページ自体は2002年の「季刊邪馬台国」のデータの転載だと考えられる
平原1号墓の鏡の枚数は、長らく「39枚」されていたが、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」での
「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので問題はないように見えるが、
この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と漢鏡3期の
四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は『全て仿製鏡』」とされている
鏡の枚数が40枚になっているところを見ると、2000年の報告書を参照していると見られるが、
それならば平原1号墓の鏡は全て外れるので、卑弥呼の銅鏡百枚候補の「10種の魏晋鏡」の
福岡県の枚数は「5枚」でなければおかしい
先に『ひと頃は』とカギカッコを付けたのはそういう意味
新しい報告書を参照しながら、九州説に都合の悪い部分はデータを更新しないままにしてあるのは、
誠実な態度ではないと思う
結局「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない」とセットで九州だったらいいな説の人がいう
「10種の魏晋鏡は福岡県が圧倒的」というのは、平原遺跡出土鏡だけに依拠したものであり、
現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている以上、まったく根拠が
ないことになる
そして、桜井茶臼山古墳の方が「10種の魏晋鏡」でも圧倒的に多い
安本美典氏の九州説は、エンターテイメントとして需要があるから意味のある仕事だと思うけれど、
きちんと考古学的資料・報告書を見て、学会誌などでピアレビューを経た論文をしっかり読めば、
九州説はオワコンっていうのは「素人でも判断できる」んだよ >>645
捏造してるのは畿内説だけだろ
九州説は中国側の専門家の意見に照らして正しい >>647
>そして、桜井茶臼山古墳の方が「10種の魏晋鏡」でも圧倒的に多い
まーたそうやって嘘をつくw
桜井茶臼山古墳 奈良県
方格規矩四神鏡 1
半肉彫四神鏡 1
単キ鏡 1
画文帯環状乳式神獣鏡 1
画文帯同向式神獣鏡 1
画文帯球心式神獣鏡 1
画文帯神獣鏡 1
斜縁神獣鏡 1
三角縁同向式神獣鏡 1
三角縁神獣鏡 9
http://yamatai.cside.com/katudou/image/250-3.gif
上記のうち10種の魏晋鏡にあてはまり得る鏡は方格規矩四神鏡の1枚だけじゃん
ウソしか言えない畿内説こそまさにオワコンw >>647
そしてお前の妄想が間違いであることも証明してやろう
表2は大阪府立弥生文化博物館の小山田宏一氏による論文「3世紀の鏡」がソース
>下表は、大阪府立弥生文化博物館の小山田宏一氏による論文「3世紀の鏡」(『倭人と鏡(その2)』埋蔵文化財研究会発行所載)の中の
>「弥生時代終末期〜古墳時代初めごろの漢鏡7期の鏡」という表から作成したものである。
ところがこれは全ての出土鏡を反映していない
「10種の魏晋鏡」に含まれる位至三公鏡が表に一枚も含まれていないのがその証拠だw
おかしいと思わなかったのかよw
位至三公鏡の出土は北部九州が中心w
http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
そして何より「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフには大阪府が12枚となっているが、
表2に大阪府は一枚も存在しないw
http://yamatai.cside.com/katudou/image/250-3.gif
つまり「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」は表2以外のソースからもカウントしているのは明らかであり
お前が妄想した
>庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
は全く根拠ゼロ
表2の他にもソースがあることも同じページ内で言及されている
>庄内式土器の時代の鏡について、表2の小山田宏一氏以外にも、樋口隆康氏、奥野正男氏などがデータを発表している。
よくページを読めば全部書いてあるのに妄想でレッテル貼りした挙げ句、簡単に見破られちゃうとか恥ずかしいやつw >>650
証明九州説も近畿説も無理だろ
実に下らない論争に成りつつある
邪馬台国論争 >>635
>「かの三国志の時代の鏡」という肩書は当時既にわざわざ年号を捏造したくなるほどのブランドであったこと
これ根拠あるの?
>この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。
日本史板でこれが嘘だと見破られてた
使用例の画像もあった >>653
>日本史板でこれが嘘だと見破られてた
ソース出せ >>655
このサイトにアクセスできません
itest._2ch.net のサーバーの IP アドレスが見つかりませんでした。 【古代史】「邪馬台国」時代の鉄器生産工房…「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541840994/
>邪馬台国の時代の畿内は、鉄器の過疎地帯だったが、淡路島で盛んに鉄器が作られていたことが分かって、
>邪馬台国畿内説の証拠になるのではないかと騒がれている。
>しかし、畿内から鉄はほとんど出てこないのだから、それはまちがいだ。
>さらに、淡路島から出土した銅鐸は、出雲のものと兄弟関係だったことが分かっている。
>淡路島に鉄の素材を流していたのは、出雲だろう。ここに、淡路島の立場が示されている。
>弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄を独占的に入手していた。
>連載中述べてきたように、北部九州は天然の要害に守られたヤマトの発展を恐れ、
>策を練って出雲と手を組み、関門海峡を封鎖して鉄の流通を止めたのだった。
>さらに、「北部九州+出雲連合」は、淡路島に鉄を流し、味方につけ、明石海峡を支配して、通せんぼうをしていたのだろう。 >>657
元の記事に関裕二って書いてあるんですがw >>659
正始二年は西暦505年だが?
全く反論になってないと言うか、リンク先でまで畿内説の捏造を見せつけられて損したわw
http://kohkosai.com/rinsyo/hokugi%20100.htm
>豫州刺史李簡子墓誌
>正始二年(505) >>662
お笑いなのは散々に論破されて何にも反論できない畿内説()だろw >>661
(ノ∀`)アチャー
畿内論者は捏造しすぎだろこれ 鏡 奈良のは国産
肝心の錦がでた春日市スクオカモト >>661
嘘が見破られたのは畿内説のほうだったか 鏡で決着は無理だって。
いくらでも捏造したりできるらしいからな。
土器だよ土器。
庄内式土器という決定的証拠が全て。 九州説がデタラメな理由。
庄内式土器が九州発祥と決め付けてるのは、安本ただ一人。
以上だ。 >>670
この時期は九州説はシフト交代の時間やからちょっと待て >>668
土器こそ畿内説が捏造しまくりじゃん
銅鏡は中国で研究された年代が正しいからそれを使えばいいだけ
それを適用すると畿内のめぼしい遺跡は大半4世紀だけどなw 畿内論者はいい加減邪馬台国を忘れろ
大和は日本になるまでどのように各地を平定していったか、それだけを考えろ >>674
畿内信者の願望ワロスw
実際はこのスレを見ても分かる通り九州説の圧勝
畿内はもうゴッドハンドしか頼れるものがないw 奈良は1年前後神武が侵入し東鯷人を殺戮し盆地の一隅に拠点をつくる
其の後欠史8代迄の間盆地を制圧する
この間約220年程 しかしミマナから来たスジンにより神武の末裔は駆逐される
それまでの王の名は大倭(オオチクシ)若倭(ワカチクシ)の倭国の後ろ盾を現すものだったが
スジン以降絶える スジンは周辺を制圧し版図を広げる 其の後福井の半島人継体がオウジン5世
の孫と自称し政権簒奪に成功する
味を占めた継体は半島での戦いの応援と称し九州へ無傷で乗り込む事に成功し
倭国の君イワイを殺すことに成功するが 肥の国の軍勢に攻められ倭国簒奪に失敗する
時は移りタリシホコの時代になり隋を侮り天子を自称しシンの後継者足らんとし大陸との関係を
壊した倭国に見切りをつけた奈良政権は密かに唐に通じ裏切る
白村江の戦いに惨敗した倭国は弱り700年に滅ぶ
以降が奈良政権が列島の代表政権となる >>636
これ何度も貼ってるが意味あるのか?
・位至三公鏡は後漢時代に出現し、魏や晋の時代に流行した
・日本には後漢時代に入ってきた(一部は魏の時代にも入ってきているかもしれないが)
・3世紀後半になると楽浪土器の出土が激減し、中国との交流が停滞する「空白の150年」が始まる
・当然のことながら、中国鏡は日本にほとんど入ってこなくなる
・西晋時代に中国で位至三公鏡がいくら流行しようと日本には入ってこない
安本は年代をずらそうと必死のようだが、別の場所での鏡のピーク時期を比較してるだけで
原因は日中間の交流が停滞しただけのこと
ついでにもう一つ安本がおかしなこと言ってるのを指摘しておくと、位至三公鏡の年代がずれると
岡村編年の7期以降の鏡もところてん方式でずれると主張してるところ
別の系統の鏡なので編年には全く影響はない
両方とも詐欺師の論法だわな 台与以降の九州王権が衰退し、その間にヤマト王権が西日本の卓越的政権に成長した…でいいじゃん。
単純にその間に中国に使者派遣した国が日本にはなかったんだろ。
とにかく、畿内説はヤマト側の記録に整合しないのが難点。
魏志倭人伝の正確性を否定するか記紀を眉唾物と疑うしか繋がりを保てないのが痛いところだろ。倭人伝も記紀も間違いはあるだろうけど、畿内土建屋の希望的観測で溝を埋めなきゃならんところが最大の弱点だ。 >>651
>つまり「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」は表2以外のソースからもカウントしているのは明らかであり
で、福岡県で「10種の魏晋鏡」が37枚のソースはないということだな
10種の魏晋鏡とやらのソースとして安本が載せているデータをまとめるとこうなる
どう足し算しても37枚にはならないのだが
・小山田宏一氏 45枚 → この中で平原40枚のうち38枚は国産鏡なので除外すると、残りは7枚
・樋口隆康氏 5枚
・奥野正男氏 6枚
しかも3氏はこれらが魏晋鏡とは言っていない
弥生時代終末期や庄内期という言い方しかしてないので、後漢鏡として考えてるものもあるはず
実際に表には漢鏡7期と書かれているものもあるのだから
ソースとして載せてるデータと違うのだから、福岡で10種の魏晋鏡37枚を信用しろと言われても無理な話
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm >>649
桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡 26面
内行花文鏡(国産) 10面
内行花文鏡(舶載) 9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡 5面
環状乳神獣鏡 4面
だ龍鏡 4面
細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面
単き鏡 1面
盤龍鏡 1面
で、九州説の人が、三角縁神獣鏡の前の鏡が重要って言ってた鏡種が全部揃ってるよ
だ龍鏡とか、盤龍鏡とかは、古墳時代の前の鏡なんだろ?
邪馬台国の会のデータは古いんだよ
邪馬台国の会以外は全部ウソって思い込んでるから自己洗脳で思い込んじゃってるんだよ
科学的思考をする上ではダメダメな態度 >>676
>大倭(オオチクシ)若倭(ワカチクシ)
こういう捏造を書いてるうちは九州説の信憑性は0だよ
倭がチクシと読まれたことは一度もない そもそも「十種の魏晋鏡」っていうのが、特に根拠らしい根拠のない、
邪馬台国の会が勝手に決めた括りだからね 奈良よりは四国の方がまだ信憑性あるわ。奈良派は本当に信じてんのかね。 奈良には、近畿を中心として地方のクニの土器が集まってきてるからな。
奈良以外に、多くのクニと交流のあった形跡のある土地はない。
だから、邪馬台国は奈良なんだよ。 あっはっはっはっは、まだどーでもいい くだらん話をやってるのか!? ttp://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1510/kj00000275.html
この逆さ日本地図をみてごらん。
朝鮮半島から見たら、倭国は九州だけしか目に入らないなんてことはない。
九州から山口県は、ほぼ陸続きのように見えるだろう。
そして九州のほかに、近畿を中心に多くのクニが連合していたとなれば、
九州なぞ、地方の小国にしか見えない。
使者が出雲を知らないわけがないし、出雲を知っていれば、当然ヤマトの話も耳にする。
九州より大きな島に、大きな連合国が隣接してる状態を無視できるわけがない。
「倭国大乱」を、瀬戸内海の高地性集落と関係付けるならば、
なおのこと、「倭国大乱を経て、倭国を統一した邪馬台国」というクニは、
九州から瀬戸内海沿岸を掌握したクニと考えなければ、辻褄が合わないだろ。 俺は関西人で当然畿内説支持だが、
九州には確かに神聖な場所が多い
多分畿内より多いんじゃないかな >>688
公孫氏を滅ぼして魏使が日本列島にやって来た頃には、博多湾沿岸に畿内系住人がいっぱいいたわけだし
魏使が最初に接触したであろう伊都国や奴国の王様からもヤマト国のことを聞かされたはず
九州説の場合は、伊都国や奴国の王様が魏使に嘘を教えたという陰謀論になるw >>595
作られ始めた鏡の種類の編年に何の意味があるのかわからん
手に入れた時期はそれではわからんからな
畿内説の鏡はほとんどが布留0以降の遺跡からの出土
古墳時代でも後漢鏡形式の鏡等沢山出てくるのだよ
それらを本人が手に入れた時期は後漢の時代ではないだろ?
例えば、卑弥呼の時代ではあれば、布留0より前の庄内期に作られた遺跡からの出土物でしか、本当にその時代に存在した証明にはならない
それに、魏では後漢鏡が好まれていたことを知らないのかい? >>688
使者は出雲を知らない、大和も知らない
九州の情報しかなかったんだよ
知ってたら魏志倭人伝に書いてある >>508
この情報も教育も行き届いた現代にても100年前の
福沢諭吉の評するシナ人お役人の状態は同じなのに
2000年前だろうとシナ人お役人は同じ。
対馬で食って飲んで寝て
島の住人から聞いた話しを書いただけって事よ
そこを押しきろうとする時点で
心は大和民族以外の人種だろうね >奈良以外に、多くのクニと交流のあった形跡のある土地はない
だから、邪馬台国は九州なんだよ。
が文脈的に正しい 邪馬台国は九州の国で後に大和朝廷に征服された、でオーケー? 3世紀半ばの卑弥呼や壱与の時代のヤマト政権ってどのぐらいの規模だったの?
中国四国の国々までも支配権が及んでたら北九州の邪馬台国連合としては無視できないと思うんだが。 >>691
・鏡は日本では威信材だけど、中国では日用品であり商品として売買されるもの
中国からはるばる日本列島まで100年落ちの中古品を売りに来たという主張は非現実的
・九州では7期第2段階以降の鏡はほとんど出土しないので、新しい鏡は入手できなくっていたと考えるべき
・平原なんかがいい例だが、副葬品に国産鏡が代用されている現実は、九州勢が中国鏡を入手できなくなっている
苦しい状況を示している
・魏の時代に作られた後漢鏡の復古鏡はデザインの細かな違いにより5期や6期の鏡と区別されている
よって、九州勢が3世紀以降も中国鏡を入手できていたという主張は通らない
>古墳時代でも後漢鏡形式の鏡等沢山出てくるのだよ
>それらを本人が手に入れた時期は後漢の時代ではないだろ?
畿内勢がいつ入手したかは不明
ただし、日本では鏡は威信材であり伝世があるので、入手時期は後漢時代〜3世紀の間だろうな
九州勢から中古品を買い取ったという可能性もある
>例えば、卑弥呼の時代ではあれば、布留0より前の庄内期に作られた遺跡からの出土物でしか、本当にその時代に存在した証明にはならない
その通りではあるが、5期や6期の鏡が出土しても何の意味もない
魏の時代に作られた鏡が庄内期の遺跡から出土すれば、魏の時代に帯方郡や楽浪郡との交易があったことの証明にはなる
もっと厳密にいうと、239年以降に作られた鏡が庄内期の遺跡から出土すればほぼ完璧 >>677
また論破され尽くしたウソをつくw
>・日本には後漢時代に入ってきた(一部は魏の時代にも入ってきているかもしれないが)
ソースなし
位至三公鏡は後漢晩期が1枚見つかっただけでそれ以外は全て西晋時代のもの
日本にだけそれより早く大量に入ってくるなどあり得ないw
>・3世紀後半になると楽浪土器の出土が激減し、中国との交流が停滞する「空白の150年」が始まる
土器は必要なくなったから輸入しなかっただけだろ
3世紀後半に流通した位至三公鏡が北部九州を中心に出土するのだから、空白なのは畿内だけw
>当然のことながら、中国鏡は日本にほとんど入ってこなくなる
上記の通りお前の妄想であり間違い
>・西晋時代に中国で位至三公鏡がいくら流行しようと日本には入ってこない
後漢期には中国でさえほとんど流通していなかった位至三公鏡が日本にだけ後漢期に入ってくるわけがない
お前の頭が湧いてるだけで中国鏡は4世紀までずっと北部九州に入ってきていた
>位至三公鏡の年代がずれると岡村編年の7期以降の鏡もところてん方式でずれると主張してるところ
>別の系統の鏡なので編年には全く影響はない
鏡は単独で出土するわけではなく、土器などと共伴して出土している
位至三公鏡と共伴する土器と三角縁神獣鏡と共伴する土器を比べれば後者のほうが後の時代の鏡なのは明白
ゆえに三角縁神獣鏡の年代は当然後ろにずれる >>679
お前が挙げた他にも位至三公鏡などが存在するだろw
具体的なソースが知りたきゃ邪馬台国の会にでも問い合わせればいい
>ソースとして載せてるデータと違うのだから、福岡で10種の魏晋鏡37枚を信用しろと言われても無理な話
グラフの枚数を表2がソースだなんて誰が言ってるのかね?
お前一人が信じなくても何の問題も無いよ >>680
>で、九州説の人が、三角縁神獣鏡の前の鏡が重要って言ってた鏡種が全部揃ってるよ
>だ龍鏡とか、盤龍鏡とかは、古墳時代の前の鏡なんだろ?
そうだよ
でも伝世鏡だなw
なぜそう言い切れるか、それは古墳から出土する副葬品の埋納年代は、それらのうち「最も新しい物」の年代で決まるからだよ
例えば3世紀に埋めた古墳から4世紀の物品が出てくるわけがないからな
で、>>698の通り三角縁神獣鏡は西晋時代の位至三公鏡よりも新しいので4世紀以降の鏡だ
これが出てきた以上、その古墳の年代は4世紀より古くは出来ない
桜井茶臼山古墳は4世紀の古墳であり、そこから出てきた古い鏡は伝世したものでしかあり得ない
これが科学的思考だw >>682
ほらほらまた嘘をつく
中国側の研究者が魏晋鏡の特徴を書いてるだろ
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm
> 魏の時代の鏡について、徐苹芳氏は次のようにも述べている。
> 「三国の魏が成立しますと、尚方が再建され、このうち『右尚方』が銅鏡製作の任を負いました。かくて銅鏡の鋳造は回復されたのですが、
> それほど大きな進展があったわけではありません。この時代に鋳造された銅鏡、例えば方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡・盤竜鏡・
> 鳥文鏡・双頭竜文鏡などは、すべて後漢以来の「旧式鏡」に属します。
>
> もっとも、後漢のものと比べてみますと、方格規矩鏡の文様は、簡略化の傾向をたどっておりますし、内行花文鏡の鈕座が、
> 多く蝙蝠(こうもり)の形になり、獣首鏡の獣首文様にも変化が生じました。河南省の洛陽で、後漢末期と三国魏の時代の墓が数多く
> 発掘されましたが、そこから出土した銅鏡は、内行花文鏡・獣首鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などでして、最も数多いのが内行花文鏡と
> 変形獣首鏡でした。」
>
> 「方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方で流行していました。
> ただ、様式的にはいくつかの変化が現れます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、
> また獣首鏡の文様も全く獣首らしくなくなりました。」
>
> 「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡・盤竜鏡・
> 双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いまあげた一連の銅鏡の範囲を
> 越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。」 で、結局畿内説は一番肝心の
「3世紀以降も銅鏡の入手は北部九州が中心だった」
という事実に何ら反論が出来てないんだがw
3世紀前半の後漢末〜曹魏の時代は内行花文鏡や獣首鏡が中心、3世紀後半の曹魏末〜西普時代は位至三公鏡が中国での主流だと
中国の銅鏡の専門家が言ってるわけだが、これらの種類の鏡は日本ではみんな北部九州が分布の中心w
畿内で出土するときはいつもそれよりもっと新しい時代の鏡が一緒に出てくるので後世に埋めた伝世鏡だとはっきり分かるw >>698
ただの与太話じゃねーか
おまえの話を日本の歴史に反映させるこうなる
・九州を含めて日本の歴史年表は3世紀以降すべて100年後ろにずれる
・3世紀後半から4世紀までの「空白の150年間」に日本と中国は活発に交易をした
・位至三公鏡より後に編年されている「10種の魏晋鏡」とやらももちろん100年後ろにずれる
・帯方郡や楽浪郡から来た人は飯を食わなかった
畿内説憎しで与太話を作ったが、日本の歴史を全否定するだけでなく、九州説さえも否定するという自爆wwwww >>697
不思議なんだけどさ、
九州が交易できなくなった
っていうのが不思議なんだよね
そんな時代にそんな中央集権的な
政府が作れるのか?
交易なんてどんな時代でも
自由にできるもんだろ?
中国との貿易を政府が独占するのは
室町時代になってから
と習った気がするんだが… >>704
>そんな時代にそんな中央集権的な
>政府が作れるのか?
中央集権的な政府じゃないと何度言えば
近代の国家観に引きずられすぎ
3世紀の倭国は祭祀連合状態で各地の実権は各地の首長が担っている
まだ国家段階ではないという見方を重視する場合は「前方後円墳体制」という用語が
用いられる 都出比呂志
近代とは違う様相の国家を認める立場からは「前方後円墳国家」という用語を
使う研究者もいる 広瀬和雄 >>692
>使者は出雲を知らない、大和も知らない
出雲⇒投馬国
大和⇒邪馬台国
ちゃんと書いてあるじゃないか
道里も戸数も官名も書いてある
九州に違いないって決め付けて呼んでるから、訳の分からない結論になるんだよ >>700
>そうだよ
>でも伝世鏡だなw
伝世鏡だという「ことにしても」、該当時期の鏡が直接畿内に届いていたことは確実
この時期の鏡の入手経路は畿内直結なんだよ
ごまかしてるけど>>649の「邪馬台国の会」のデータは、
古くて間違ったものだったってまず認めないと
九州説の人は思い込みが強すぎて、新しい情報を入れてないから、
九州説というオワコンを信じ続けてるだけ 横だが
それぞれ信じている説で論破を試みようといろいろ書き込んでるが、ここ見ている第三者は情報がまともなのかフェイクかどうか解らんから結局単なる駄文の応酬に見えるんだよな
結局両論あるということは決定打に欠けるってことになる
でも自分が知らなかった新たな知見は凄く面白いよ
調べることが増えるけども信じることはできんわw >>709
畿内説側の貼る根拠
ピアレビュー(査読)を経た専門家の学術論文
九州説側の貼る根拠
素人の解読結果(勝手解釈)のブログ >>709
>結局両論あるということは決定打に欠けるってことになる
両論なんてないよ
学術的にはもう決着が付いている状態
現役の研究者で九州説を支持する人はもう20年くらい居ない
あるのは定説とイチャモンだけ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています