【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★7
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1537259478/ >>40
科学的w
お前にとっての科学なw
考古学に科学的な検証なんて存在しないから。
もしかして体育会系?w >>41
そう思ってるんなら、ここ科学板なんだから
出ていけばいいじゃん。バイバイ あるあるシリーズ第2弾
九州説のやつらのよくある勘違い・間違った認識・オモシロ論法
・魏志倭人伝は簡単に言うと邪馬台国旅行記である
・倭人の風習、倭国の風土として書かれているのは邪馬台国の風習風土である
・ヤマトという地名が九州にないことを指摘されると山門を持ち出してくるが、なぜか邪馬台国を別の場所に比定する
・東の海の先に倭種が住んでいるという記述に合う場所として大分県を持ち出してくるが、なぜか邪馬台国を別の場所に比定する
・倭国の風習風土は南国のイメージで、南九州ならぎりぎり当てはまるけど、なぜか邪馬台国を北部九州に比定する
・旧唐書に倭国と日本が別種と書かれていることを強調するが、その旧唐書には国名が雅でないから改めたと書かれていることや
隋書には魏志でいう邪馬臺であると書かれていることはなぜか無視する 中国では卑弥呼を大王みたいに考えていたが、実は卑弥呼は珍しモノ好きな小国の神主 魏志倭人伝は司馬懿の子孫が禅譲うけて晋皇帝になってから書かれたもの
司馬懿は家臣のまま死んだが孫が過去にさかのぼって皇帝にした
倭人伝には周辺民族のことを正しく描こうとか、客観的事実を残そうとか
そんな気持ちはまったくないらしい 司馬懿が魏の家臣のとき大貢献しただけ
ほかに比較できる資料もないし、事実と虚構の仕分けは困難を極める 桃の種が見つかっただけじゃ科学に関係ない。
梅の種やシーラカンスの方が古いだろ 桃といえば桃太郎の吉備
桃の種が発掘されたことで纏向は吉備の強い影響下にあった事がわかる
纏向=大国吉備の殖民地説
殖民地が金印なぞ持てるわけないので
化学的にも畿内説は崩壊したと言っていい まずは奴国が最南部で女王国以北〜とくればもう筑紫周辺でしかないでしょ。
邪馬台国だけとんでもなく離れた奈良にあるだなんて仮説というより妄想だよ。
虚言癖持った考古学者に釣られたんじゃないの? これ経路の記述が直線だった仮定で場所特定してるけど
当時の技術で直線で100km単位を計れると思うか?
道のりの距離を測ると半分以下の距離になるのに馬鹿なの? >>39
当時の日本語って、
どんな言葉?
音読み?訓読み?
出雲文字?
筑紫文字?サンカ文字?カタカムナ文字?
神代文字をいってるの? 邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 邪馬台国が畿内なら、それは天皇家の歴史であり、初期大和朝廷成立という日本の歴史の話し。
九州なら、地方に怪しいイタコがいたというだけの話し。
本居宣長らが、邪馬台国を「やまと」と読まず、「やまたい」と読ませた意図がそこにある。 >>64
>本居宣長らが、邪馬台国を「やまと」と読まず、「やまたい」と読ませた
それは時代背景による制約だから仕方がない
当時は長崎出島で日清貿易してて北方系清人(シンひと)或いは日本人通事=通訳に
「臺」を清語でどう読むかと尋ねれば「タイ」と答える。
もし南方系広東人に尋ねれば「トーイ」と発音して
ヤマトとなったはずだ。 業績はトロイの木馬やポンペイに匹敵する日本歴史上の大発見やね
本居宣長も調べていくうちに九州の方がヤマトと呼ばれていたことに驚いたであろう
事実を受け入れれば歴史の根底が覆るから理解しても受け入れられなかった
彼は歴史上最初の畿内厨と言える真実は解っているけど受け入れることはできない自分に悩んだだろう
2ちゃんにいる畿内信者も同じ、信仰を捨て現実を受け入れるべき。 >>58
どこが痛々しいのか、言えば?
痛々しいのは纏向説だが。
なぜなら纏向は2世紀末から始まっているので、
2世紀前半の其の国の男王時代を説明できないからだ。 718日本@名無史さん2018/09/28(金) 22:02:38.73
安本美典さんは5世紀から8世紀の延べ20人の天皇の平均在位が10.88年だと言ってます。
5世紀の天皇の在位って記と紀で違うのだが何を根拠にしたのだろうか。
そしてその10.88年を、古くなると在位が短くなるという理由で10年にしてます。
このあたり恣意的。
そしてその10年を実在確かな用明天皇以前に当てはめてます。
いや全然意味が分からない。
用明天皇を基点にするなら用明天皇から30代あたりの平均在位を計算して当てはめればいいだけ。
やってみます。
31代用明天皇585年即位。
30代後は60代醍醐天皇930年まで在位。
930-585=345
345÷30=11.5
「平均在位11.5年」
31代用明天皇から神武まで、神功皇后を確実な一代と見なし、31代遡ります。
11.5×31=356.5
用明天皇即位年585−356=229
神武即位229年。
やはり神武と卑弥呼は同時代。
卑弥呼とはヒメ。
のちに踏鞴と五十鈴を加えられ姫蹈鞴五十鈴媛と呼ばれる女性です。 魏志倭人伝抜きの考古学的資料だけで
当時の日本の有り様を一度誰か再現しないかなぁ >>67
>2世紀前半の其の国の男王時代を説明できないからだ。
畿内説は、邪馬台国がヤマト国だと言っているだけで、
倭奴国や倭面土国が畿内だという主張ではないよ
西暦57年に光武帝から漢委奴國王の金印をもらった人物や
西暦107年の朝貢の北宋版通典で倭面土國王と記された人物は
北部九州のローカル首長だろう
それが倭國亂ののち、多くの地域首長の談合によって共立された
統一祭祀王がヤマト国の卑弥呼だというのが畿内説の基本 >>69
>魏志倭人伝抜きの考古学的資料だけで
>当時の日本の有り様を一度誰か再現しないかなぁ
それ、事実上「固有名詞をなしにした畿内説」とほぼ同じものになるよ >>68
それをやるなら、分散、標準偏差まで計算して、推定値の幅、信頼区間も付けないと >>68
記紀にある天皇の系譜に間違いもなく漏れもなく、年代だけが間違ってると勝手に決めつけた計算は無意味
おまえがやってることは記紀を恣意的に改竄してることと同じ
論外の外 場所的に機内は無いとおもうんだけどなぁその当時の地方の有力者はいたと思うけども >>71
>それが倭國亂ののち、多くの地域首長の談合によって共立された
だから主語が変ってる。
この場合の主語はあくまで「2世紀前半からある其の国の男王の王権が」になる。
ところがいつのまにか「多くの地域首長が」に変えてるわけだ。
纏向遺跡に各地域の搬入土器があるのは事実。
その状況に無理やり当てはめているからそのような小癪な意見になるわけ。
最初から纏向に卑弥呼がいたことにしたいからそういう意見になるわけだ。
「2世紀前半からある其の国の男王の王権が」は銅鐸族である葛城の鴨。
神武が大和に来た時には事代主神や鴨王もいた。
王と神がいた、すなわち王権。 >>71
>西暦107年の朝貢の北宋版通典で倭面土國王と記された人物は
>北部九州のローカル首長だろう
北部九州のローカル首長が160人もの生口を差し出せるのか。
こんな大量の奴婢を差し出せるのは強い王権があった証拠だ。
王都と奴婢郷の両方が存在するところこそ帥升のいた場所だ。
倭国王帥升=スサノオ=迦毛大御神(かものおおみかみ)は葛城の高天原だ。
同時に麓は後の水平社運動の原点にもなる奴婢郷がある。
九州にそんな場所があるものか。 朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、
女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。 小銅鐸は九州→山陰
大銅鐸への発展は四国→畿内
巨大古墳は山陰・北陸→畿内
最古の前方後円墳は滋賀、静岡、奈良
奈良発祥て何かあったっけ?
畿内説を推す人ってさ、やけに起源にこだわるどっかの半島人みたいでいやらしいよね。 畿内説・九州説とも以下の手順を全うしてなきゃ信憑性無いよね。
@倭国大乱の範囲特定=倭国の範囲
A倭国大乱の終わった時期特定=女王国誕生の時期
B該当する時期の遺跡を調査
C卑弥呼の居た場所を特定→邪馬台国
D卑弥呼の墓を特定 >>75
航海技術も考えると、海外に近い分、九州のが発展してそう >>78
ずらしたならばれないように年齢100歳越えにする必要もなく間に数代挟めばええだけやん >>78
>これが日本の歴史の真相である。
最後の一言で「畿内説は妄想説」という認識が深まるだけだな。 日本書紀を書いた人は、卑弥呼を神功皇后に比定している。
恐らく、その当時から魏書にある「卑弥呼」とはだれなのか天皇家周辺の人にも
ミステリーだったのだろう。 >@倭国大乱の範囲特定=倭国の範囲
倭国が全部争ったわけではないだろう
九州以外は争った形跡乏しい
畿内説も争った形跡が無いから戦争もなく首長談合による平和的統合としているし
大乱の範囲は九州北部から中部(投馬が戦争に関与していたら南部も)するのが一般的
北部九州の緩やかな妥協的政治的統合が邪馬台国(奴国〜筑紫筑後)
・出雲系の宗像一族
・歴代強力な伊都国
・海賊マツラ国
これらは政治的統合することはできなかったから一大卒の巡検体制 >>82
いない人物を創作して挟み込むって?
それはダメ。
帝紀に書かれていたであろう人物を創作なしに書いた。
しかし時代を正直に書くことはできなかった。
その結果が100歳超える天皇になったわけ。
創作していいなら100歳超えない。 >>84
>その当時から魏書にある「卑弥呼」とはだれなのか天皇家周辺の人にも
>ミステリーだったのだろう。
いや分っていた。
だから女王国であった時代を、神武東征紀で猛々しい男王国に変えた。
「サザエさん」を「マスオさん」に変えたようなもの。 >>80
>@倭国大乱の範囲特定=倭国の範囲
倭国の範囲は銅剣や銅鐸の青銅器文明圏。
この大きな国の主は大国主。
http://book.geocities.jp/piezo_comic/9shumapnew09.jpg
>A倭国大乱の終わった時期特定=女王国誕生の時期
2世紀末。
>B該当する時期の遺跡を調査
卑弥呼の王宮などは式内・名神大社になってるはず。
謂れのない場所を掘って建物跡が出てきてもそれは卑弥呼とは直接関係がない。
>C卑弥呼の居た場所を特定→邪馬台国
高天原(金剛山)のふもと、式内・名神大社の長柄神社(別名・姫の宮)だと思う。
>D卑弥呼の墓を特定
高天原(御所市高天)の日本最古の神社・高天彦神社の境内。
径百余歩(150m)の塚の周りに魏志の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛。
https://goo.gl/maps/mMgwDev5pCP2 >>84
卑弥呼が一代で築いて遺した遺産と失われた情報がダイレクトに反映したのが古墳時代
女王選考システムは権力の引き継ぎに欠陥があった。
だからこそ後の世は軍事メインの男子継承システムに変更された
国家が拡大する課程で王族が大量に必要となったのだろう
男子継承は王の種をばらまけるからな >>76
>この場合の主語はあくまで「2世紀前半からある其の国の男王の王権が」になる。
くどいなぁ
史記の例は示しただろ?
私の考察じゃないけれど
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/bunken.html
史記 晋世家より
晉人共立昭侯子平為君、是為孝侯。
晉人復立孝侯子[(メ/(ナ<ム))β]為君、是為鄂侯。
晉人共立鄂侯子光、是為哀侯。
晉人乃立哀侯子小子為君、是為小子侯。
とほとんど差異がなく、この4例とも国人の相談の上で後継が決められたと見てよい。
つまり、“共立”とは臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決める事であるが、
臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決めたとしても必ずしも“共立”という言葉を
使わなくてもよい、ということがここからわかる。
王家自身が後継を決めるのは共立とは言わない 史記全体(表・書を除く)では“共立”は全部で23例あるが、その時の状況はいずれも
似ている。たとえば、周本紀で共和のあとに宣王を立てるところに『二相乃共立之為王、
是為宣王。』とある。共和というのは、『迷惑暴虐』と書かれた周の脂、を国人が追放して
周公・召公による政治がおこなわれた時期で、ここの“共立”は周公・召公のふたりが
相談の上後継を決めた事を指している。
高祖本紀では義帝を立てたことを“共立”と表現している。(『發使者告諸侯曰:「天下共立義帝、
北面事之。今項羽放殺義帝於江南、大逆無道。・・・・』)
他に、項羽本紀では宋義誅殺後、項羽を仮上将軍とする所に『乃相與共立羽為假上將軍』とある。
王侯の類だけでなく、一将軍の場合にも“共立”を使っていいようで、
とにかく「皆で相談して自分たちのボスを決める事」が“共立”であるらしい。
少し変わった所では、仲尼弟子列伝に『孔子既沒、弟子思慕、有若状似孔子、
弟子相與共立為師、師之如夫子時也。』とある。“師”でもいいらしい。 >>83
>最後の一言で「畿内説は妄想説」という認識が深まるだけだな。
>>78は鴨厨の人で、いわゆる畿内説の人じゃないよ?
まあ、鴨葛城も畿内だから本人は畿内説だと言っているけどさ >>92
>祭祀の断絶をどう糊塗するのかね。
糊塗も何も、卑弥呼は邪馬台国王ではなく、倭王として共立されたんだから、
倭王としての新しい祭祀を創始したんだよ
それが前方後円墳祭祀であり、それを認める範囲が前方後円墳体制=倭国の範囲 以前から、卑弥呼が居た場所として有力視さていた纏向遺跡。
そこの年代が、出土した遺物の科学分析で邪馬台国の時代と一致することがはっきりした。
これで、各地方が文献や地名の響きだけで、おらが村の邪馬台国を主張できる時代は終わった。
これからは、そういう主張をすると、かえってその地域の恥になりかねない。
韓国人が唱える起源説のように扱われるだろう。 畿内説も新しい候補地を探して纏向は切り捨てた方がいいんじゃないか
200回位調査して桃の種では明らかに足かせになってる
纏向説ではなく纏向学
纏向自体が学問とかちょっとガイキチな感じがする >>14 九州には邪馬台国の証拠となる遺跡や出土品が山ほどある
話はオカルト的になるが、九州には自分が卑弥呼の血を受け継いでいるという女が結構居るんだ。
そういう人は何人もいて、皆が自分には不思議な力があると感じているようだ。
感覚だから何の証拠も無い。
しかし、日本には必要な人材であると思う。 オレは指原莉乃さんに、自分に不思議な力があると感じるか聞いてみたい。 >>96
>纏向説ではなく纏向学
纏向学は、桜井市の町おこしのための名称
畿内説とは区別して、おらが町の遺跡として研究しますよという、言い訳なんだよ
だから、商標登録してあるw
目くじら立てるようなものではないよ どんなに頑張っても金印がフェイクと立証されない限り決定打にならない >>102
>どんなに頑張っても金印がフェイクと立証されない限り決定打にならない
漢委奴國王の金印なら本物だよ? >>101 祭祀土坑でググったらこんなんでましたw
http://zenyamaren.org/yamaren20-045.pdf
遺跡名 出土総数 出土数(弥生時代〜古墳時代)
上東遺跡 9,608 9,608 波止場状遺構
津島遺跡 2,415 2,415 河道
百間川沢田遺跡 460 460 井戸401井戸50
百間川米田遺跡 400 242 土坑76井戸52井戸43
百間川今谷遺跡 384 38 溝316水田63
鹿田遺跡 33 7以上
百間川原尾島遺跡 22 22
雄町遺跡 10 10
南方遺跡 多数 多数
纒向遺跡(奈良県) 土坑2,765 弥生後期
布留遺跡(奈良県) 流路上層1,546 古墳後期
南滋賀遺跡(滋賀県) 溝520 古墳後期
前田遺跡(島根県) 河道408〜古墳後期?
桃核の出土数ね 金印 カンノイトコクオウ と呼びます
現在の糸島です 伊都国は邪馬台国ではないわけでそこに一大率をおいた。
邸閣があり国々に市場があり大倭が監督してた。
大倭はそのまま大和になって、大和言葉だとやまとになったのかも。
この場合3世紀の邪馬台国は大和じゃないということにるのかな。 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 >>31
知らざー言って聞かせやしょー
香港語≒広東語なら邪馬臺はヤマトと読める。
九州説一味は知識不足www >>106
金印に刻まれた「委奴」の「奴」をドとかトと呼んだのは
盛唐(712〜765)より後の漢音だ。
盛唐は日本で言えば奈良時代になるけど
奈良時代に日本で漢音は普及してなかった。
記紀万葉風土記の中で和語は倭人伝に書かれた日本の地名人名のように
魏晋音による万葉仮名が使われている。
イトなら糸島市の一部の旧怡土郡。
だがしかし「委奴」は漢代の発音でヤマト言葉の女性をあらわす「ヲウナ」「オミナ」を
万葉仮名的に漢字で書き表したもの。
つまり「委奴國」は「女王国」を意味する。 一般的な九州説の人はほとんど残ってないな
九州王朝説みたいに日本の歴史を根底から否定してる人の比率が異常に高い >>94
>糊塗も何も、卑弥呼は邪馬台国王ではなく、倭王として共立されたんだから、
>倭王としての新しい祭祀を創始したんだよ
2世紀前半の男王の系譜はどこに行った?
君の説は纏向の様相に無理やり卑弥呼を当てはめてるだけ。
>それが前方後円墳祭祀であり、それを認める範囲が前方後円墳体制=倭国の範囲
棺あり槨なしだから前方後円墳と違うだろうね。 前方後円墳だったら倭国の範囲外だよな。
倭人伝読んで無いんじゃね?
そもそも「倭国」なんて一言も書いてないし。 >>113
俺は2世紀前半の男王の直系の男系男子だよ
国譲りで天皇家に国を譲ったよ
ちなみに天皇家は関東からやってきたよ .
神功皇后の実子・応神天皇の父親は天皇ではない(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>107
俺が懸念したのはまさにそれよ
監督が国々や蔵に掛かるかわからんが最低でも大倭が市場を監督したと読める
弥生時代に北九州を軍事的に制圧できる勢力はないが
倭国内交易は他所が一元管理してたとしてもおかしくはない
畿内厨が言う土器ネットワークにも関連してくるし
纏向は纏向大市と古代の市場と言われてるしな 魏志倭人伝には韓国の南部が日本の土地だと書いてある。
韓国人が魏志倭人伝を読んだら火病になるだろう。
彼らが漢字を廃止したのもそれが理由。
本当の歴史を知りたくないから。 大倭 オオチクシと読みます
奈良もこの権威称号を有難がり喜んで倭国の君から拝受しました >>90
>“共立”とは臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決める事であるが、
臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決めたとしても必ずしも“共立”という言葉を
使わなくてもよい、ということがここからわかる。
へ理屈ばっかりこきやがって。
ならば男王は断絶ということかだな。
卑弥呼はどこの人でどこの出身かな? 金関さんが東大寺山古墳で発見した国宝・中平銘鉄刀は、
金関さんが言うように卑弥呼の五尺刀としか説明できない。
(考古学雑誌2017年3月)
それに伴い、橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも和邇氏の系譜に卑弥呼がいるのではという見解を出されてるようだ。
和邇氏の系譜にヒミコもトヨもいる。
何が纏向だ馬鹿たれが、そんな瀬戸内下人の土地に卑弥呼がいるものか。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
高齢の卑弥呼の後に男王が立ち、乱れて13歳のトヨだから、ヒミコとトヨの世代間は3世代以上、ひいばあちゃん世代と推定される。
見事に符合してるだろ。
卑弥呼もトヨも葛城だ。
纏向って(笑) 寺沢薫という男の失敗は、上田正昭さんや森浩一さんたちが復権を言ってた、
先代旧事本紀を無視し続けてたこと。
寺沢自身が纏向を筑紫、吉備、讃岐、播磨と言ってるのだから、
纏向が瀬戸内海洋集団・物部の遺跡だと分かりそうなものだが、
彼は気が付かないようだ。
纏向に卑弥呼はいない、あきらめろ。 邪馬台国とは別に大倭 オオチクシという交易管理機構が存在したのではないか?
九州内では覇権争いしてたが列島全体ではそんなでもないからな >>68
>卑弥呼とはヒメ
じゃあ「呼」は何なんだ >>108
西都原は単なる墓場
ゲゲゲの鬼太郎なら居たかもしれないが
卑弥呼女王様はいなかった 魏志倭人伝の温暖という記述と近畿説をどう折り合い付けるかだな。
和歌山県南部ならかなり暖かい、邪馬台国の中央は奈良、南端は和歌山県説なんてのも有るそうだが。
(連合国家と考えればなんとか)
第二の規模の投馬国が出雲国と考えると使者は日本海側を通ったので、邪馬台国南部については直接見聞きしたのではなく
伝聞と解釈する人も多い。 難升米を洛陽に遣わした時は「詣京都」と書いてある
金印もその他宝物も難升米に(を通して卑弥呼に)
張政の詔書も黄幢も難升米に授ける
>傳送文書賜遺之物詣女王
一大卒が文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届ける
結論
卑弥呼とあらゆる外国人は会ってないと言える
女王に合いに都まで旅行とかあり得んよ これらのことを俺が考えるに
卑弥呼の都って北部九州の栄えてた筑紫とかにではなく
ちょっと南の過疎り気味の八女方面(筑後川南岸)じゃないかと思う
邪馬(クニの一つ)の壹(中心政庁)の国
墓は一号古墳と思ってるけどね >>128
真冬でも、野菜を生で食べるほど
温暖な地域だよ。
そりゃ、邪馬台国自体は、九州南部しかないでしょ。伊都国などの九州北部の
はっきりした場所から、
南へ下り、冬場にも生野菜食べる場所
みただけでも、温暖な場所。
畿内説の
東を南として見た場合、
冬場に、露地栽培で、霜枯れせず、
生でたべれますかね?
広葉樹林帯は、同じ植物として、
落葉せず、越冬する。
野菜も同じ。
冬場に、落葉する木々は、寒さが
厳しいときに、光合成の大切な
場所を捨ててまで、いきのこる。
それは、葉の気孔を、捨て根から吸い上げた
水分上昇を防ぎ枯れないため。
水は、寒いとこでは、4度ぐらいで、
体積膨張するし、凍れば吸い上げにくい。
冬場に、野菜食べている場所は、
落葉しない。葉野菜や根菜類も果菜類も
立ち枯れしなく、光合成できる場所。
★★パチンコ換金営業は明白な刑事犯罪(賭博罪)です!
警察官OBは定年退職すると
パヨク(在日韓国人)パチンコ屋に天下りして
年金が出るまで3〜5年ほど雇ってもらいます
警察の風営法検査の日時情報を漏らしたり
ヤクザから店を守る手伝いをします
そんな警察官OBは、最も卑劣な売国奴です
パヨク(在日韓国人)パチンコ屋の犬です
パヨク(在日韓国人)パチンコ屋の社長(金持ち)は
そんな警察官OBをトコトン馬鹿にしています
「警察官OBは使い捨ての犬ニダ!」なんて言ってます
それでも警察官OBは文句が言えません
年金が出るまで、ひたすら我慢です
その分、日本人には威張り散らしています
警察は自分たちの利権(天下り先)を守るために
重大な犯罪行為(賭博)を「見て見ぬフリ」しています
パチンコ換金営業は明白な刑事犯罪(賭博罪)です
今すぐパチンコ換金営業を全面禁止すべきです!
パヨク(ゴキブリ在日韓国人)に甘い「親韓政治家」は
次の選挙で「普通の人」になってもらいましょう
自分の選挙区の政治家さんたちが
パヨク(ゴキブリ在日韓国人)に対してどんな姿勢でいるか
次の選挙のために、冷静に観察しましょう
★★パチンコ換金営業は明白な刑事犯罪(賭博罪)です!
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 纏向遺跡からは西は九州から東は関東までの土器がじゃんじゃんでてる
もうあの時代には関東にもりっぱな国があったんだよ
そうなると九州って、連合王国の王都しては西の端っこすぎる・・・ >>131
檄とは
1) 《説文解字注》李賢注光武紀曰。說文以木爲書。
長尺二寸。謂之檄。以徵召也。與前書高紀注同。此葢出演說文。
《顏師古曰》檄者,以木爲書,長尺二寸,用徵召也。
顏師古の曰く「檄とは、木をば書となし、長さ1尺2寸、
徵召=teng-tiàu(支那最古の方言による発音) To enroll compulsorily 徴兵に用いる。」
2) 《韻會》陳彼之惡,説此之コ,曉諭百姓之書也。
彼の悪を述べ、此れの徳を説き、百姓(おほみたから)にlet it clearly be known to all
知らしめる書(尺牘=1尺四方の木札)なり。
倭人伝の「檄」は2)の意味で使われていると思われ、必ずしも面会したとは言いかねる。 もとい
>>126
そこまで細かく考える必要もなし。 卑弥呼といえば鏡だ。
三角縁や画紋帯など、100枚の鏡に該当しそうな出土鏡の科学分析をもっと行うべきだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています