【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★7
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1537259478/ >>396
古墳も九州が起源ってことにしたいのか
ただのトンデモだよ
もちろん九州説もトンデモ >>380
>主要機能を九州に置いて邪馬台国だけが奈良にあったとするのが畿内説かw
誰もそんなことは言ってない
今日の捏造要員はID:vYltSC/rか?ww >>387
>遺跡が物語るその後の歴史の連続性の有無というのが大きい
甕棺墓時代には、舶載鏡もたくさん出て、鉄も絹も出土数が多いのに
3世紀には舶載鏡が手に入らなくなって、鉄も絹も出土例が激減する、
過去の栄華が衰退し、歴史の断絶が遺物から明白な九州の悪口はそれまでだ! >>388
>朝貢国が過去には100ヵ国あったが30ヵ国に減ったというのは、70ヵ国による畿内連合国が出来たから。
ブ、ブー!
そうじゃなくて、拠点集落+衛星集落くらいが一つの国だとして数えられていた100余国時代から、
水系単位、平野単位で利水、治水のための権力集中・王権の拡大を見て、より広域が一つの国として
機能するようになった時代が、30ヶ国と書かれている時代だよ
例えば福岡平野周辺でも、吉武高木遺跡の頃は室見川流域の早良平野には自立したクニがあったと
見られるが、魏志倭人伝の頃には早良平野の中心集落は野方遺跡に移っていて、伊都国から奴国へ
移動する経路上にあるけれど、そこに国があるとは魏志倭人伝に書かれていない
早良国(仮称)は奴国の一部になったと考えられる
こうして国の数え方が変わっただけで、倭国の範囲は変わらないよ >>392
>日本の歴史教科書は嘘ばかり
疑うこと、妄信しないことは大事だけれど、
自説に都合の悪いことは「全部ウソと決め付けること」は、
さらにダメダメな最悪の態度だよww >畿内に拘泥する朝鮮人 其の理由 朝鮮人天皇継体
こういうのは意味ないよ
ID:nAJQCbd5
ID:vYltSC/r >>396
>鐙が出るということは4世紀だ。
はい、これもウソ
鐙がどこからどのように出たかを論じないと意味がない
鐙は周濠のそこに有機物が堆積し始めて相当な時間が立ってから
周濠に入ったことになる
また、鐙が4世紀というのは「金属製の鐙」についてのことで、
木製の鐙の編年は具体的なものはない
まあ、一般に鐙と呼ばれているけれど、本当に鐙かどうか分からないと思うけどね
案外纏向勝山古墳近くで出土したU字形木製品と同類なんじゃないかと個人的に思っている 畿内説信者が根拠の無い反論で孤軍奮闘してるの哀れwww >>404
>根拠の無い反論
根拠のない反論だと思うなら、「具体的な根拠を示し」て再反論すれば
ぐうの音も言わせずに黙らせられるんだよ
具体的な根拠を挙げて、再反論しておくれよ
そうすれば議論が深まるから
さあ、「具体的な根拠」プリーズ!ww >>404
九州派が強力な代替説を出せばOK
出せないなら近畿説の勝利 >406
強力な八女説出したろう
反論してもいいぞ 伊都国=糸島とするからおかしくなる
糸島は伊都国の端っこ・入り口で、そこから上陸して東南方向に行けば太宰府に行く
一大率はのちの大宰帥に相当する
そこはかつて後漢から金印をもらった(倭)奴国の都があったところでもあり
邪馬台国に一大率が置かれたことにより奴国と切り離された 畿内に拘泥する朝鮮人 其の理由 朝鮮人天皇継体
其れを補佐する朝鮮人 藤原
公地公民とは倭国の土地と人民を朝鮮人の支配化におくことだった >>359
二字縛りは奈良時代、風土記を書いて朝廷に提出しろと
命令を出した時の条件だから
先行資料執筆時には制約を受けない。
これは日本史のGrundbegriffe=基礎概念である。
>>400
律令体制の拠点集落は郷で50戸
衛星集落は50戸に満たない餘戸と呼ばれた。 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國
次有奴國 此女王境界所盡
もう40時間はこれを見て考えてる
斯馬國志免町 伊邪國伊賀駅 支惟國香椎宮 好古都國博多
こんな解釈は無いだろうが
那国の東の方は倭人伝で手薄だな香椎宮から世界遺産宗像まで広がってるのに >>407
>強力な八女説出したろう
見た覚えないぞw
八女に大きな墳墓が作られるようになるのは飛鳥時代直前
確かにその頃には奴国首長家の末裔、筑紫君の本拠地はその辺りのようだけれど、
3世紀の遺跡・遺物でめぼしいのは八女にはないだろう
あと、邪馬壹国が正しいと言い張って、ヤマイ⇒ヤメという人もいるけれど、
もともとの地名がヤメだったら、イはどこから来るんだって話
で、強力な八女説ってのはどこにあるんだ? 具体的に示してくれよな! >>408
>邪馬台国に一大率が置かれたことにより奴国と切り離された
その邪馬台国は、どこにあるんだい?
具体的に比定地を示して、どうぞ >>409
>畿内に拘泥する朝鮮人 其の理由 朝鮮人天皇継体
>其れを補佐する朝鮮人 藤原
この文章、日本人なら多分こうは書かない
日本人じゃない人の願望の書き込みなんだろうww >>411
>那国の東の方は倭人伝で手薄だな香椎宮から世界遺産宗像まで広がってるのに
ということは、九州だけで考えるのが間違っているんじゃないのかな? 俺も筑後川流域に一票!
174 名前:ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 17:39:19.99 ID:nVrwK+xj [1/2]
魏志倭人伝の距離は移動しながら書いてるんじゃないかな?
数はすべて10倍ルールに基づき表記されている。
・狗奴韓国から海を渡って対馬を見ながら壱岐に移動
・壱岐から見える唐津-伊都国の陸上距離が500里
・壱岐から博多湾に移動し、東南に奴国を見ながら東の不弥国に入る(海岸から100里)
・不弥国から南に移動し、奴国を経由して邪馬台国入口(鳥栖あたり)に至る
・有明海沿岸を南に水行2日(※)で投馬国(雲仙市 吾妻)に至るという話を聞く
・お迎えが来てすぐ南の邪馬台国に入る
ここが女王のいる12000里の場所(朝倉市-久留米市-うきは市の三角地帯)だろう。
※水行10日、陸行一月については里数変換の定義とみて、水行1日は1200里、陸行1日は400里(該当なし)
当時の久留米市あたりは有明海の海岸であり、投馬国までの水行は2400里≒104km 鉄の出土状況一つで畿内説は否定されてしまうんだよな
卑弥呼共立は200年前後
しかし、3世紀前半、畿内にはわずかしか鉄が入ってきていない
都?
わるいが文化的にちょっとありえない >イはどこから来るんだって話
教えて欲しいか?
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
卑弥呼と卑弥弓呼の関係は?
與あた-える、あずか-る、くみ-する、ともに
ここまで言えば、あとはわかるよな >>418
トンデモ説を唱えるような頭のネジがはずれたやつの発想を理解できるわけないだろ 行灯山、渋谷向山がそれぞれ崇神、景行の可能性が高いので、
箸墓を卑弥呼墓というなら、崇神以前の数十年前の台与や、
その数十年前の卑弥呼という人物を記紀から特定できるはずだ。
なにせ女王なんだからね。
見つけようと頑張ればいいのに何で頑張らないのかな。
俺は特定したぞ。
女王2人が住んだ王都は纏向ではない、葛城だ。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
径百余歩で奴婢が埋葬されてる塚もある。https://goo.gl/maps/N4DcTNSnv8D2
何も難しい事はない。
古代天皇の100歳を超える年齢などは別としても、記紀に記載されているその居住地から邪馬台国はわかるはずだ。
卑弥呼や台与が住んだ王都とは葛城だ。 記紀は年代を遡れば遡るほど信憑性が低くなる
3世紀となると信憑性はゼロ同然
よって邪馬台国関連について記紀からのアプローチは無意味
愚の骨頂 >>411
>好古都國博多
言語学、日本語音韻史を知らない素人の語呂合わせは危険www
素人ほど大音声(だいおんじょう)で嘘を喧伝する。
好古都國=博多は初心者が陥りやすい罠、落とし穴で
邪馬臺国、卑弥呼関係でよくある素人トンデモ説の代表例だ。
一度図書館で藤堂明保著学研大漢和辞典を調べて来いよ。
それと橋本 進吉の「古代国語の音韻に就いて」(岩波文庫)モナー
古代から安土桃山時代まで日本語にはha、hi、hu、he、hoという
発音は無かった。
なので古代支那語のh(簡易表記)音は日本語ではkに置き換えた。
支那人も単一民族ではないので「黄」という漢字の発音も
北部の支那語ではkhに近いhuangで「黄砂」の「コウ」だし
北京語の「黄」の発音↓
https://ja.forvo.com/word/%E9%BB%84/#zh
江南の支那語ではhが弱くなってほとんど聞こえなくなり
uang>wang/wong=日本語で「黄土色」の「ヲウ」となっている。
広東語の「黄」の発音↓
https://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/Canton/sound/wong4.wav
ホーロー語と呼ばれる厦門=アモイ、台湾東南アジアの南部福建方言=閩南語では
ng=[ŋ]・・・軟口蓋鼻音だけになっている。
https://ja.forvo.com/word/%E9%BB%84/#nan
飛鳥、奈良時代以前の「はひふへほ」は「ぱぴぷぺぽ」だった。
平安時代のいつごろかはハッキリしないが
ふぁふぃふふぇふぉに変わり安土桃山時代まで続いた。
江戸時代に入ってからha hi fu he hoに変わった。
幕末から明治にかけて横濱を拠点に活動した宣教師J.C.ヘボンが
考案した英語ベースのヘボン式日本語ローマ字は「ふ」だけがfuで
ハヒヘホの子音がhだ。 >>423
古代の発音なんてどこまでいっても想像だから >>422
崇神墓が古事記の記述通りとして行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半、
古事記の没年干支を信用して318年没、
大和盆地で環濠集落が終り土師器・古墳時代が始まるのが庄内0期=2世紀末(2015久住編年)
崇神以前、約120年のスパンを説明するには崇神以前約6世代が実在したとしなければおかしい。
いわゆる欠史8代の時代だ。
記紀では崇神から神武まで遡ること9世代だが、先代旧事本紀の物部や鴨の系図では6世代。
欠史8代は世代では6世代、最新考古学とも整合する。
おまえの言うことは昭和の高度成長期に流行った津田史学者たちの戯言。
古臭い、失せろ まあ、しかしなんだ……邪馬台国の北に一大卒が配置され
つねに伊都国を治めてるって時点で、九州から出ないよな。
ここに誤字を想定するとしても、ちょっと文章をいじった程度だと
畿内に写すことは不可能……っていうか
邪馬台国と伊都国で、そんな距離があるはずがない。
ぶっちゃけた話、音なんてのは空気の波で
あいまいなモノなんで、有る時代の同じ地域の者同士でも
ちょっとずつ音は違ってた思われる。
https://www.youtube.com/watch?v=myLpxK279HI#t=52
同じ音ですら個人によって違って聞こえる。
きっちりと、この時代の人はこの音しか言わない
…とか言うのは意外と無いんではないかと。
(あくまで、その時代の主流派の発音があるだけで)
というか放送やテープも無い時代だったんで
現代よりいい加減だったと思った方が良い。
個々人によっては後年、こうナマるって言い方を
先んじてナマってる場合も有ったろう。
つべにある、自動生成の字幕をみても
機械ですら、音を正確に拾えてない。
(実際みてみれば、いかにひどいかわかる。
ちょっといい加減…ってレベルですらない) 魏志倭人伝はヤマトなどという言葉は何処にも書かれていないこと、倭や倭地は倭国という意味ではないことを念頭に置いて読むべきだよな。
畿内説の曲解は空想でしかない。 >>420
>別に理解しろとは言ってないが
つまり具体的な説明ができない、他人には理解不能なトンデモ説だと自分でも認めるってことだね
まあ、九州説はいつでもどのスレでもそんなもんだ 仕方がない八女説を開陳するかのう
女王の都とする処は邪馬国です
何か疑問質問はありますか? 女王に合うのは男一人侍女1000人は顔も見てない
そんな女王が巨大集落に住むのは好まないとするのが一般的
つまり都市規模としては適切な規模で最小限がいい 倭国大乱のベースが
古代から連綿と続く福岡地方と熊本地方の気質や人種の違いによる争い中原が筑紫筑後平野
九州中央部の卑弥系の王権が奴国まで占領したのが所謂邪馬台国
卑弥呼の死と伊都系台与の擁立は九州の盟主が熊本から福岡に移ったと見ていい >>426
>まあ、しかしなんだ……邪馬台国の北に一大卒が配置され
>つねに伊都国を治めてるって時点で、九州から出ないよな。
一大率が配置されている時点で、直接統治が及ばないほど遠地だって確定するよな
伊都国に一大率がいる時点で、北部九州はない >>434
一大率の意味がわからないんでしょ。
大とつくのは代理という意味で倭王の代理のような役割の事。
倭王は糸国の南にいる卑弥呼。
よって畿内のキの字も存在しないってことだね。
もし倭地全体の王を示すなら倭地の王と記述されるはずだ。 邪馬台国の卑弥呼っていつまでそんな気持ち悪い漢字使ってんだよ
大和国の日巫女だろ普通に考えて
漢字が嫌だったらひらがなかカタカナで書けよ
中国の奴隷かよ気持ち悪い 【風VS火土水、気象戦】 日本が風船爆弾を飛ばすと、アメリカは焼夷弾と人工地震津波兵器でやり返した
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1538444502/l50
熊本に北海道、大地震の震源は、なぜ、陸自駐屯地と一致するのか? >>437
なぜ広東語?
しかも現代人の方言を持ち出すお前の脳回路がわからん。
呉語は今の上海語だ。 >438
おまえがまずそっせんしてかんじつかうなよ >>435
>倭王は糸国の南にいる卑弥呼。
すぐ南に王が居たら、代官を億必要はないだろ? 古田武彦信者へ
卑弥呼の「呼ho/hu」が「カ」に聞こえるなら脳梗塞の疑いがあるから脳や循環器専門病院へ逝ったほうがイイ。
江南支那語の代表的閩南語 =厦門アモイ方言による卑弥呼の「呼」の発音
ttps://ja.forvo.com/search/%E5%91%BC/nan/
河北支那語の代表的北京語による卑弥呼の「呼」の発音
現代語の暁(あかつき)は万葉集には「阿加等伎アカトキ」と万葉仮名(当て字)で書かれている。
万葉仮名で「等」は乙類の「ト」を表わすとされている。
甲類、乙類説を支持する国語学者も甲類、乙類の具体的な音を示すことができない。
支那各方言による「等」の発音
https://ja.forvo.com/word/%E7%AD%89/#cjy
琉球方言は日本共通語のオ段母音がuに、エ段母音がiに対応している。 >>442
鉄の鏡なんて漆でも塗らないと
すぐに錆びるだろ。
漆塗ったら鏡の役目(機能)を果たさないし。
莫迦じゃないのかw
青銅鏡は磨いて錆びないようにすれば金ピカだ。 >>443
卑弥呼は引きこもって滅多に顔も見せないって書いてあるやん。
なんで畿内派はこんなスカスカな奴ばかりやねん? >>445
鉄鏡は、調べた方がいいな。魏から
もらった銅鏡のなかに、鉄鏡が、あるかもな。
いずれにしても、鉄鏡は、魏と関係する
ものかもな。
銅鏡ばかり、みていたが、鉄鏡が、
すごいとは、思わなかった。
しかし、日田のは、どこのやろかな。 >>445
ウィキには、曹操のくだりも書いていて、
鉄鏡をつけていたみたいだしな。
ウィキには、書いていないが、
銅鏡と鉄鏡の価値がまるでちがうな。
後漢、曹魏時代は。 >>446
>卑弥呼は引きこもって滅多に顔も見せないって書いてあるやん。
有男弟佐治國 と書いてあるな
実際の政務は男弟が見ている訳だ
それが伊都国のすぐ近くにあったら、代官を置く必要がないだろ
官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 とあって、
邪馬台国には、実力者もたくさんいるんだから隣国くらいはその威光で治められるだろう
>なんで畿内派はこんなスカスカな奴ばかりやねん?
九州説の人間は、文句を言うばかりで検証作業をまったくしないから
脳みそスカスカなんだろうな 《曹操全书·上杂物疏》によれば、
後漢の建安元年196年に、曹操は、
皇帝に送る賜物のなかに、
1尺2寸の金错铁镜一枚,
皇后には、纯银错七寸铁镜四枚,
皇太子杂纯银错七寸铁镜四枚,
贵人至公主九寸铁镜四十枚。
この史書の鉄鏡を計算したら、
49枚は、皇帝一族に
鉄鏡をおくり
銅鏡1枚は、皇子に送っている。
つまりは、支配層トップの鏡やね。 >鉄の鏡なんて
現代の資源価格の感覚で鉄鏡が貴重ではなく安物と思ってる畿内説
漢字使うなと漢字で書いたり
畿内説はそんなレベルかw >>449
伊都国と邪馬台国がそんなに近いのか?
当時の交通事情で毎日通えるほど近い所に邪馬台国があるというのなら、ついでに比定してみれば?
仮に畿内だとした場合、卑弥呼に判断して欲しいことがあったら往復3ヶ月近くもかけて聞きに行くのか?
畿内脳はスカスカやなwww 金のみが、皇帝。
純銀が、皇后。
雑銀が、皇太子。
错をほどこされたもの。
貴人は、错されていない鉄鏡。
金と銀が混じって错された
日田のは、なんですか? 鉄鏡の金错が、トップ(皇帝、支配者)を
表し、
銀错が、女性、皇后を表しているとしたら、
日田のは、鏡に、金と銀が、あるし、
日本では、ただの一枚しか、でてないけど。 イト国は現在の糸島市 ヤマイチ国は春日市 地図で見ましょう
古代でも日帰りの距離です >>452
そうだよ。伊都国から畿内までは水行20日と水行10日陸行1月かかるからね
往復4カ月であってるよ >>457
台風の季節に作物を収穫するタイミングを占ってもらうのに4ヶ月もかかってたらどうするんだろうね? >>458
ん?何の話?
伊都国から邪馬台国までの往復の日数の話だよね
だから>>458の言う4カ月であってるよ >>440
お前が魏晋時代の呉人が臺(台)を発音してるサイト探してリンク貼れよ。
その前に西晋は北は燕京、河北・中原から南は華中、粤(広東)、瓊(海南島)まで支配した王朝なんだが・・・
標準語は何語? 2か月かけて卑弥呼に報告しに行った一大卒が那国に忘れ物をしたらどうする、取りに戻るのか? 俺の説
反論していいぞ
邪馬台国奴国北限で筑紫筑後平野、伊都国は半独立
女王の都八女辺り
卑弥呼の墓伊都国 八女市と春日市では出土品が違いすぎます
最大の違いは 絹が日本で唯一春日スクオカモトに出たことです
ヤメツヒメの子孫の可能性もあるひみかですが首都は春日市です
八女市は6世紀の装飾古墳と岩井天皇のガトウ事跡があります
ついでに岩井の息子が継体を追い払いましたが 其の墓は津屋崎と思います >>463
伊都国と邪馬台国は敵対してたんじゃ?
敵国に卑弥呼の墓はヘンじゃね? >>464
さよですか。
どうしても筑後川の南側としか思えないんだよ。 筑後川の南からは 曲水の宴の跡がでました 是は太宰府の君が遊んだと思います
是も唯一ここだけです 高良山も防御地点の一つですが 誰を祭っているかは不明の古い神社です
700年以降奈良が倭国の神社を奈良と無理に関連させようとしました >>469
ID:Lwqi4C2gも反論できなくて逃走中w >>461
上海語も北京語も大差ない。
古代の発音なぞ絶対に確定出来る要素じゃないんだから、二の次だと思うぞ?
どうしても気になるなら中国人に聞けば?
今は国慶節やから連休明けにでも。 俺の八女説反論していいぞ
>伊都国と邪馬台国は敵対してたんじゃ?
>敵国に卑弥呼の墓はヘンじゃね?
戦争⇒卑弥呼⇒男王⇒争乱⇒伊代
卑弥呼を盛大に祀るのは民衆ではなく後継者
クナ国との闘いからの一連の事象は北部九州の政変と考えてるからね 難升米って北部九州の王で確定でしょう
この人ばかりが外交を取り仕切ってるから伊都国王と思うんだがな
そして最後には色々預かってるから卑弥呼の後継者選定を主導したと考える
難升米と13歳の伊代、この流れは外交が手馴れてるんだよね >>472
卑弥呼の死後に冢が築かれ→男王→更々相誅殺→卑弥呼の親族の壱与(張政の報告)
仮に(考えられないが)伊都国に卑弥呼の墓をつくったのなら張政がそのように報告するのでは >>473
>難升米(中略)この人ばかりが外交を取り仕切ってるから伊都国王(以下略)
ありえない
難升米は邪馬台国の大夫
それに伊都国は邪馬台国に敗れた側 >卑弥呼の親族の壱与
これが思考に引っかかるんだよ
親族ならば、正当な王位継承者ならば、「卑弥与」でも「卑弥壱与」いいわけだし
俺は九州中央筑後+肥後から筑紫に政権が移動したと考える
たぶんクナ国との戦争で卑弥呼は殺されたんだろうが
クナ国の男王「卑弥弓呼」なんで卑弥呼と同系統の名称と疑問を持つべき
想像するに邪馬台国の最大領土は
福岡平野+筑紫筑後平野+肥後平野だったんじゃないかなあ 卑弥呼が死んでワンクッション男王となり収まらくて伊代が担ぎ出された
俺は民衆一人一人の自然的で民主的で自発的な推戴などとファンタジーな考えはない
男王の所属する勢力(伊都か那)が政治的意図をもって13歳の王統の少女を担ぎ出したと推測する
政権の移動(筑後川流域から福岡平野)、後継の正当性の主張、国内と海外への誇示
これらの事を考えれば卑弥呼の墓は北部九州の北岸と推定する 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
俺は卑弥呼の親族は宗女伊代ではなく
狗奴國男王卑弥弓呼だと考える ID:/eI3RfyW
物証ゼロで文献珍解釈して物語を作ってる妄想野郎
珍解釈どころではなく文献改竄だな
NGぶっこんだ NGから出すなよ
どうせ別のおまえが反応するんだろうがw >>477 >>479
卑弥呼は卑弥氏(族)で名は呼かな?
同様に考えると卑弥弓呼は同族の卑弥氏で名は弓呼か?(しかし名は一字のような)
壱与を「親族」と書いたけど「宗女」だから正統の血縁と書くべきだったかな
卑弥壱与と考えられなくはないがそれならちゃんと卑弥壱与と書くような気もする
年十三という点で氏を名乗らず壱与でもいいかなという気もするし
壱すなわち壹(臺)は邪馬壹(臺)国の壹(臺)と関係して名は与(與)一字のような気もするし
壱与のその後の消息は不明だし
………わからないことだらけでわからない 魏志倭人伝の七万戸とか五万戸とかの
記述は、ほんとにそんなに
人がいたというのかね?
それが、現代の数としてみたら、
当時を間違えて、とらえるんやないかな? >>484
九州説に圧倒的に不利だもんな
そもそも九州説と畿内説では想定する1国の大きさが違う
九州説は、九州の中に30国
畿内説は、関東から九州の中に30国
5倍から7倍くらい違うんじゃないかな
そのうえで出雲で5万戸、大和河内で7万戸が畿内説
北部九州説なんか福岡に伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国だからね
さらに好古都国も福岡にいれるのw 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
卑弥呼の死を以って大きな墓を作る100余歩
生前から数十年かけて卑弥呼が自分の巨大古墳を作っていたというより
卑弥呼の突然の死後を以って「誰か」が作ったと読めない?
その「誰か」で墓の場所は変わると思うんだが
こういう点でも巨大古墳は考えられないんだよなあ
女王に都に行ってない九州説に立場からよく解らないと言っている地域より使節がよく知る伊都国地域
大きさも適当に区切りの良い100なら分るが「餘歩」この言葉は詳しく観察したとしか思えない。 >>482
せやな。「国」というのは中国人の解釈だし。
孔明の罠のように陳寿の罠なのかもしれん。
まあ勝手に落ちただけだろうけど。 >>484
実数として正確であるかは不明だけど、韓伝と比較してみれば数字の大きさは妥当だよ
韓地では合計15万戸、それに対して倭国では倭人伝に記載のある15万戸に加え
旁国や狗奴国や倭種の住んでる地域もあるから合計20万戸や25万戸もありえる
倭国を関東から九州までを想定すれば丁度いい数字
九州説をゴリ押しするには戸数は嘘としなければならない >>488
面白いのをみつけたよ。
清 袁枚
《随园随笔·勋阶封号食邑实封之分》
:"其食邑与实封有别者,
如 余襄公 食邑二千六百户,
实对二百户是也。
"参阅《宋史·职官志十》 畿内説による涙の反撃www
卑弥呼と同じ時代の桃の種が出土したニダ!
畿内にはきっと魏志倭人伝の記述と同じ規模の集落があったニダ!
だから邪馬台国は奈良ニダ!
池沼レベルwww 水行20日および水行10日陸行1月といったな
あれは嘘だ
投馬国5万戸、邪馬台国7万戸といったな
あれは嘘だ
丹有りといったな
あれは嘘だ
一大率は刺史の様なものだといったな
あれは嘘だ 方角の南が最後の砦
九州説が成り立つためには、倭人伝の主要な記述をことごとく嘘だとしないといけない 魏志倭人伝は「東」と書くべきところを「南」と間違えた。
それですべて筋が通る。
投馬国は、出雲、丹波、但馬あたり(四隅突出古墳出土地域)。
纏向遺跡(年代一致)、箸墓古墳(径百歩)という候補地も
魏志倭人伝の記述と矛盾がない。 >>417
九州説には不都合な遺跡、淡路島で発見
https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/gossa-iseki.html
五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡は、今からおよそ1,800〜1,900年前の弥生時代後期に
鉄器づくりを行っていたムラの跡です。
発掘調査では23棟の竪穴建物跡が見つかり、その内の12棟で鉄器づくりを行っていたことがわかりました。
100点を超える鉄製品をはじめ、多数の石製鍛冶工具類なども発見されており、
当時の鉄器づくりの様子を詳しく知ることができる遺跡。
https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC1602O_X11C12A0000000
邪馬台国支えた?
2007〜08年度、水田整備に伴う発掘で計23棟の建物跡が見つかった。
うち12棟で鉄鍛冶の炉跡や台石、敲石(たたきいし)などの道具類、
鉄のおのや矢じり、鉄の破片といった遺構や遺物を発見。
最大の建物跡は直径10.5メートルで、中に10〜11基の鍛冶炉が並んでいた。 >>486
>卑弥呼の死を以って
また勝手に自分だけのストーリーを作ってるんだな
「卑弥呼以死」の「以」は「已=すでに、もはや」と同音の漢字。
こういう代用漢字は中国の古典「戦国策」にも
「早」の代わりに「騒」を用いた例がある。
「卑弥呼の死を以って」と解釈するためには「以卑弥呼死」という語順でないと逝けない。
日本語は語と語の文法関係を決める助詞(助辞)が発達しているから
「名詞+助詞」のユニット(文節)単位で語順は比較的自由だが
中国語や漢文(古典中国語)は「語順」が語と語の文法関係を決定する大きな鍵になる。
中国人が書いた文章を日本語の発想で曲解するのは大きな間違い。
厳に慎むべきだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています