【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★7
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1537259478/ 鏡はのちの勘合貿易の割り符の様な役目を果たしたんじゃないだろうか。
魏の帯方郡と取引するには割り符として卑弥呼の鏡が必要だった。
粗大が変わると劣悪でも新しい鏡が必要で、
亡くなった首長の鏡は悪用されない様に割って服装したとか? 卑弥呼のいた年代に他の国も有ったんだからなんでこういう結論にするのか意味がわからない >>155
>殉葬の跡は春日市スクオカモトにあります 100基
ウソをついちゃダメだよ
須玖岡本遺跡からは、甕棺墓は確か6基しか出てなかったと思う
まあ、その後発掘が進んだのかもしれないが、それでも100基にはならないし、
殉葬と考えるべき理由もない
そして、須玖岡本遺跡は2世紀初頭の遺跡で、3世紀には奴国の中心は
もっと下流の比恵・那珂遺跡群の方に移っているから、そんなところには
卑弥呼の墓もないし卑弥呼の死に伴う淳葬墓もないよ >>165
思うのはかってですが 其の前に現地に行ってみれば解ります
スクオカモト 斜面上になり水害も無くよいところです
古代からの住宅地です
ついでにニニギの墓 ヨシタケタカキへの行かれることをお勧めします
ここも福岡が展望できる高台でよい住宅地です 単純に出土数からみると、画紋帯が卑弥呼の鏡の有力候補。
三角縁の500枚以上は多すぎる。 >>166
>思うのはかってですが 其の前に現地に行ってみれば解ります
思うじゃなくて、発掘記録で甕棺墓は6基だったはず
そうじゃないというなら、ソースを示してくれ
>スクオカモト 斜面上になり水害も無くよいところです
それはただの感想
発掘調査の結果として、3世紀の奴国の中心はもっと下流の
比恵・那珂遺跡群に移っている 早く首都を関西に戻してくれ。東京一極集中なんとかせーや。 現地主義です 是非行かれることをお勧めします 春日市です >>145
>大和の人で、神武の血筋だろ?
神武の血筋なら名前を言えるだろ、言え。 墓はどこにあってもおかしくない、次の政権台与を擁立した勢力(伊都国)正統性を誇示するために領内に建てたかも。だから1号古墳が怪しいと思う。卑弥呼とクナ国の卑弥呼呼の名前の類似性、後継者トヨとは系統が全く異なる不思議。 >>169
江戸時代から関西は江戸の搾取地域だぞ
江戸時代の文献に、寛永飢饉による京の飢饉の様子を伝えた「福斉物語」があるが
それには人々は餓鬼のようで、野垂れ死にした人の屍骸の山が積み重なり
軒下には、赤子が捨てられ、幼児は飢え死にして、犬にむさぼり食われたとある
天明の飢饉では奉行所が京や大阪からも米を集め将軍様のいる江戸に回送した
京や大阪でも毎日、数百人の餓死者が続出して大塩平八郎の乱はあったが幕府軍が数時間で鎮圧
京や大阪も江戸幕府の搾取対象だったからな 魏志倭人伝の距離は移動しながら書いてるんじゃないかな?
数はすべて10倍ルールに基づき表記されている。
・狗奴韓国から海を渡って対馬を見ながら壱岐に移動
・壱岐から見える唐津-伊都国の陸上距離が500里
・壱岐から博多湾に移動し、東南に奴国を見ながら東の不弥国に入る(海岸から100里)
・不弥国から南に移動し、奴国を経由して邪馬台国入口(鳥栖あたり)に至る
・有明海沿岸を南に水行2日(※)で投馬国(雲仙市 吾妻)に至るという話を聞く
・お迎えが来てすぐ南の邪馬台国に入る
ここが女王のいる12000里の場所(朝倉市-久留米市-うきは市の三角地帯)だろう。
※水行10日、陸行一月については里数変換の定義とみて、水行1涛は1200里、陸麹s1日は400里(該当なし)
当時の久留米市あたりは有明海の海岸であり、投馬国までの水行は2400里≒104km >>145
>2世紀王統の断絶をやたらに気にしているけれど、大国主がやたら広い範囲で妻問いしているように
倭国の首長層は通婚により一族意識があった可能性がある
なにを言ってるのだ。
共立とは「共に立てる」、つまり2世紀前半の男王の王権Aと、相争ってたB族が共に立てたということ。
という事は、2世紀前半の男王の王権Aは断絶していないどころか、そのA王権から女王が出て、それを相争ってたB族が納得したという話だ。
おまえやアホの寺沢が言うように纏向の各地域の首長が女王を共立したという話とは全然違う。
つまり纏向に卑弥呼はいない。
2世紀前半から大和にあった王権Aは事代主神や鴨王がいた鴨王朝、場所は葛城だ。
神武という男はその王朝の婿だ。
卑弥呼とはヒメ、のちに踏鞴と五十鈴を付け加えられ姫蹈鞴五十鈴媛とよばれる初代皇后だ。 倭人伝の中だけでも使者が何往復してる、伊都国からたいほうぐんまで、手慣れた路線だよ、わからない事は伊都国王に聞けばいいしね。 2世紀前半の其国の男王の王朝が九州なら、その祭器は鏡だろう。
そして其国の男王の王朝が大和なら、その祭器は銅鐸だろう。
中国側が中国発祥の鏡祭祀を鬼道とは呼ばない。
なにやら得体のしれない祭祀、つまり銅鐸祭祀だから鬼道と呼んだのであろう。
邪馬台国とは大和であって、しかも鏡祭祀の纏向ではない。
葛城なのだ いや、卑弥呼に鏡プレゼントした上で怪しげな鬼道言ってるが いまは4説あるのかな?
九州北部説、九州東南部説、畿内桜井説、畿内葛城説
もう1800年ぐらい経ってるんだから何度も整地されて無くなってるかもね。
あと自然災害で埋まったり流されたりしたかも。 結論
ID:esoFc9yOは頭が悪い
晉人共立昭侯子平為君、是為孝侯。
晉人復立孝侯子郄為君、是為鄂侯。
晉人共立鄂侯子光、是為哀侯。
晉人乃立哀侯子小子為君、是為小子侯。
とほとんど差異がなく、この4例とも国人の相談の上で後継が決められたと見てよい。
つまり、“共立”とは臣下が相談の上でそのボス(君や王)を決める事であるが、臣下が相談の上で
そのボス(君や王)を決めたとしても必ずしも“共立”という言葉を使わなくてもよい、ということが
ここからわかる。なお、『晉人が(その君を)立てた』と書かれているのは晋世家ではこの4例だけで、
この期間がいかに異常な時期であったかがわかる。
史記全体(表・書を除く)では“共立”は全部で23例あるが、その時の状況はいずれも似ている。
たとえば、周本紀で共和のあとに宣王を立てるところに『二相乃共立之為王、是為宣王。』とある。
共和というのは、『迷惑暴虐』と書かれた周の脂、を国人が追放して周公・召公による政治が
おこなわれた時期で、ここの“共立”は周公・召公のふたりが相談の上後継を決めた事を指している。
高祖本紀では義帝を立てたことを“共立”と表現している。(『發使者告諸侯曰:「天下共立義帝、
北面事之。今項羽放殺義帝於江南、大逆無道。・・・・』)他に、項羽本紀では宋義誅殺後、
項羽を仮上将軍とする所に『乃相與共立羽為假上將軍』とある。王侯の類だけでなく、一将軍の場合にも
“共立”を使っていいようで、とにかく皆で相談して自分たちのボスを決める事が“共立”であるらしい。
少し変わった所では、仲尼弟子列伝に『孔子既沒、弟子思慕、有若状似孔子、弟子相與共立為師、
師之如夫子時也。』とある。“師”でもいいらしい。 早稲田の先生の福岡市に一大率(地方軍団司令部)が置かれてたから、
九州は首都圏ではなく、王都はないという説は強烈
もう畿内説のライバルという地位すらあぶなくなってきた 東海説以下に
いやまてよ 室町幕府は京都にあったな ぜったいないとも言い切れないか 九州北部説でも
九州北部北説
九州北部筑紫説
九州北部南説
大まかに3個ある なんにしろ畿内説の人は九州勉強してないから九州の事柄は議論にもならないよ、知識が無い 畿内説は畿内勉強してるなら畿内の王権の推移くらい説明できるだろう、それが無い、卑弥呼ばかりが歴史じゃないぞ。 >>178
>九州北部説、九州東南部説、畿内桜井説、畿内葛城説
>もう1800年ぐらい経ってるんだから何度も整地されて無くなってるかもね。
いや九州には何もない。
ミカン畑だった所(平原)から大きな鏡が出て騒いでいるだけ。
畿内桜井(纏向)には王権の謂れが10代崇神(4世紀前半)以降しかない。
それ以前は物部の謂れしかない。
物部は王権ではない。
葛城には神武が来たし、そしてそれ以前の王権の謂れがある。
また10代崇神(4世紀前半)以前の式内・名神大社が複数、葛城にのみ存在している。
何よりも高天原最有力地有力地=御所市高天がある。
そこにある日本最古の神社の境内に径百余歩の塚があり周りに奴婢=土蜘蛛が埋葬されている。
邪馬台国の王都は葛城で決まりなのだが。 葛城に神武が来たなら、その時期を特定してくれ、畿内勉強してるならわかるだろ、俺はその回答と九州の流れを鑑みる。 >>186
そんな事は簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
庄内0期。 200年頃に神武が九州から来たのか、卑弥呼全盛期だな、やはり伊都国系という事だな。 高説立派だが出るものがサッパリでない奈良
大半は北部九州からの出土
やっと出たと思ったらモモの種 >>147
「拜假倭王」の「拜假」は臨時に官職や爵位を賜ることだから
弓遵又は梯儁が「臨時に倭国の王」となったんじゃね。 >>189
>出るものがサッパリでない奈良
国宝・中平銘鉄刀。
卑弥呼が貰った五尺刀としか考えられない。
出たのは天理市和爾の東大寺山古墳。
和邇氏の系譜にヒミコやトヨがいるという仮説が成り立つ。
いるし。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>142
>遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米為檄告喩之
太守の王頎が張政等を倭に派遣し難升米を臨時倭国王として承認任命し、
これを檄(=木簡、竹簡に認め)し告喩した=民衆に知らしめた。
【告喩】とは
史記.卷八.高祖本紀:「乃使人與秦吏行縣郷邑告喻之,秦人大喜。」
とあるように「或る内容をそれぞれの縣や郷や邑(むら)の「秦人(シンひと)」に
あまねく知らしめたのだ。 >>183
>なんにしろ畿内説の人は九州勉強してないから九州の事柄は議論にもならないよ、知識が無い
残念でした
九州の遺物遺跡すら知らないのが九州説なんだよ
平原遺跡と平原1号墓の区別のついていないし
三雲遺跡群と曽根遺跡群の区別も付いていない
九州説は九州説の古い言説しか読んでいなくて、
現実と離れたところで夢を見ているだけの人たち >>186
>俺はその回答と九州の流れを鑑みる。
入力ミス?
でなければ日本語の不自由な人だなw >>144
槨=椁 中国で二重の棺桶の内、外側の棺桶のこと。
湯母曰:“ 湯為天子大臣,被污悪言而死,何厚葬乎!”
載以牛車,有棺無椁。——《史記·張湯列伝》
載せるに牛車を用いて棺(内側の「ひつぎ」は有るが)槨=椁(外側の「ひつぎ」)が無い
「張湯」武帝時代の官吏の取り締まりを厳格にしたことで有名。 >>193
いや東大寺山古墳は神功時代の難波根子武振熊命あたりだろう。
和爾の語源が王(わう」だという説もある。
4世紀は空白の4世紀。
そしてトヨは中国から刀を貰ってない。
ならば中平の時代以降、刀を貰った日本人は卑弥呼しかいない。
だから発見者である故・金関 恕(かなせき ひろし】さんは2017年3月の考古学雑誌で卑弥呼の五尺刀ではないかと言われた。
また和田萃さんも和邇氏の系図に卑弥呼がいるのではという見解を述べられているようだ。 「有棺無槨」「有棺無椁」は中国で「手厚く葬っていない」ことを意味する。 俺は偽卑弥呼が九州にいたと推測するわ
正確には卑弥呼の後に出てきた女将軍
すなわち天皇に嫁いだ那国王族の出身神功皇后
これが三韓征伐したから巻向の女王と口伝が混ざり合ってしまった
400年文献なしだとそんな事も起こるだろう 収租賦有邸閣 國國有市
交易有無 使大倭監之
租や賦役の徴収、官舎の穀物倉庫、
国々の市をみて、交易えきのあるなし、
これらを大倭に、監察させてる。
この交易有無は、
國國有市にかかるんやと
思う。國國に、
市があるかを確認し、
それぞれの國國が、
どの國と交易があるか
ないか。それが、税、租を
徴収する上で
重要。使大倭監之の使は、
使役動詞やから、
大倭にさせる意味。
監察を大倭に、させる。で、何を?
前にある単語全て。 収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
個人的には、上の文章は、
魏略やないかとにらんでる。この文章の数段前に、語注を書いて、魏略曰くと書いていた。魏略に書かれている倭に
関する文章は、短い。どの説明も一文に
近いかな。
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
↑これは、大倭を含む文章の次にくる
段落(あえて段落としている)。
自から始まる文章は、長く、丁寧な傾向がある。つまりは、陳寿さんが、詳しく
書き記したことやと思う。
大倭とかいた魏略(個人的な意見)を、
陳寿さんが、倭は、大率と読んでるらしい。
魏の刺史と同じやなあと
噛み砕き説明したんやないかな。
ちなみに、大率は、偏師を束ねる将だから、
指揮命令系統は、更に上がいる。
使大倭と書いた文章も、それをみたら、
じゃ誰が大倭に、命じた?とすぐに
考える文章。
つまりは、大倭も大率も邪馬台国から見た視点になり、
同じ内容を書いているようにみえる。 >>203
つまり、大倭が税を徴収して市の管理をしていたってことでしょ
大倭=邪馬台国ってことだよね >>203
つまり、大倭が税を徴収して市の管理をしていたってことでしょ
大倭=邪馬台国ってことだよね >>205
大倭は、指揮命令を受けているから、
トップは、卑弥呼か邪馬台国。
大倭は、大率と、同じと思う。
同じ大がつくのも、筆者の意図があると思う。
税、賦役は、連合国のなかでも、
他国に委託はできないから、トップの國が、
徴収していたと思う。 >>205
大率が、他に使われている
古代の書物に、
墨子·迎敌祠》:
“五步有五长,十步有什长,百步有百长,旁有大率。
があり、これも偏師をいみしている。
連想しやすいのは、
曹操に対しての曹仁の位置かな。
主力に対して、脇を固めていく。
曹仁 偏師。 邪馬台国の卑弥呼体制の脆弱性を指していると考える
軍事警察権は一大卒だが畏怖されるとは畏怖させる、逆に考えれば民心が付いてきてない
徴税と市場管理の謎の大倭に委託
外交は伊都国王難升米に委託
南はクナ国と連年争い 九州説信者「九州説支持します、なぜなら日本史板では九州説が多数派だからです。学術論文やデータなんか関係ありません!(キリ 」
ソースは5ch・・・wwwwwwwwwwwwwwww 卑弥呼が祭祀を司ったことは宗教上の意味とは違う部分も含んでいると思うんだよな
まつろふ→まつる(祀る、奉る)という儀式的な言葉と行動を利用して、神に捧げる儀式をそのまま徴税制度として利用する概念が弥生末期に確立された。
単なる宗教を信じるという概念ではなく、卑弥呼の道に従うこと、すなわちそれまで存在しなかった「徴税制度」を含む組織に加入する現実的な意味を含んでいたのだと思う。
それが理念として各地の豪族が最も受け入れやすい手段であった。
税の徴収システムを当時の庶民に理解させることは難しかった。
そこで女王を神格化して捧げる行事を「祭り」として皆で祝うことで納得させた。
だからそれを納得させるにふさわしい女王が選ばれたのではないかと思われる
そう想定すると軍事を司る機関は別の弟が担い、「祭り」の主催者である卑弥呼が擁立された理由として納得できるものになる。
わざわざそういう形式となったのは、「徴税」の概念を自然に浸透させる初期段階だったからであり、やがて徴税の概念を祭祀で誤魔化す必要が無くなったとき女王の役割も終えたのだろう。
その役割は神社建立などの形式的な物と代わり、やがて徴税の概念が物質的、開発的な律令制度に結び付くと完全に分断されることになった。
そんな企画を具体的に進められるのが、畿内の巻向だったと思う。
そして、「祀る」必要の無かった九州倭国は結果的に独自文化を守る結果となった。 それまで存在しなかった徴税制度って70年以上の男王統治時代は無税だったんか 魏に遣いを送ったということは
いざという時にすぐ魏の役人か兵が駆け付けうれる距離に邪馬台国があるんじゃないの?
倭人伝に出てくるの九州の土地ばかりだよね
だから九州にあると思ってたけど
纏向あのかな >>212
文献や証拠がないのであくまで想定だけど、
弥生中期から米をはじめとする産物を富と見立て、苗の貸し出し、飢饉の時の食物の貸し借りや、賊に対する防衛のための武器の貸し借りが起こる。
それぞれの専門職が増えるにつれ、その中で力を付けて交易や市場を支配したのが地元の豪族
これは徴税の初期段階だが、他地方を奪うほどの力をもつまでには至ることが出来ない仕組みだった。
その中で農作物の暦を知っていたり青銅器を使える技術を持ったものが、自然崇拝を利用して作物の出来を占いを駆使して演出し、賊を追い払う仕組みを約束する。
その演出に民衆は崇拝しただろう。
豪族はこの力を利用して「マツリゴト」として徴税することで以前よりも利益を得ることが出来ただろう
その方法論を確立し他の地方に広げていったのが卑弥呼の一派であり、結果的に連合王国を作るに至る力を付けたというのが今の考察点 畿内は外野です。
帯方郡から女王国まで12000里、周旋5000里で巡回可能。
桁違いに範囲外ですね。 もう少し飛躍して考えます
後世に卑弥呼が神格化され記紀に記載されることが曖昧な理由
軍事を司る大王が戦乱を繰り返す課程で強大な権力を持ったとき、女王の権利である徴税機構を取得するためには、祭祀の女王が徴税を司る機関だということを無くしたかったのではと推察
古墳時代初期まで軍事は男王が、財産は女王が管理する二頭制だったと想定する
建前として徴税の財産は連合王国共有のものであり、その徴税機構や市場の管理などの実務を大王に一元化して「天皇」になるためには、祭祀を利用した初期の徴税システムを誤魔化す必要があった
そのために女王の存在はあくまで神として奉った方が都合がよかった
そして徴税が慣例化したところで男王に一元化し、天皇となり巨大古墳を造営する権力を持つに至った。
かくして卑弥呼、トヨが崩御した後、女王という機関は古墳時代の頃には神格化されその本来の役割が抹消されてしまったため、記紀の時代には意味不明なものとなった
みたいな仮説
何故記紀に登場しないのかという理由を根本に考察してみた 養蚕が盛んで日本海気候で温暖な北九州は絹の足袋を履いてたんだろ >(卑弥呼が)何故記紀に登場しないのかという理由
登場してるが気づかないだけ。
というか簡単に気づかれないようにした。
ヒミコの時代を大きくずらし、神武東征紀を日本書記のメインに持ってくることで、
まさか神武の時代が女王国だったなんて誰も気づかないようにされた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
7世紀に出来た天皇皇后という称号も、魏志に書かれた女王を格下げし皇后に、
女王の婿を天皇に置くことで、魏志に書かれた女王を隠したのである。
ヒミコとは初代皇后、
トヨは4代皇后。 魏志に書かれた邪馬台国とは九州ではない。
纏向でもない。
ヒメ(踏鞴五十鈴)やトヨ津が住んだ葛城、奈良県御所市である。
高天原(御所市高天)にある日本最古の神社境内に、
径百余歩の塚があり、魏志倭人伝に書かれている通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/vzat7mmZVA52
ヒミコの時代に土蜘蛛を征し、束ね、カシハラに住んだ男がいた。
日向から来た神武である。
その土蜘蛛の末裔はヒミコの時代から1700年後に声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間(じんかん)に光あれ」
この地が水平社運動の原点となる。
だから今でもカシハラでは水平社博物館と神武天皇社が並んでいるのだ。
https://www.progoo.com/bbs/data/himehultukenn/img/40_tn_61c33f808a.png >>211
>神に捧げる儀式をそのまま徴税制度として利用する概念が弥生末期に確立された。
これ、根拠出せるかい?
それともタダの想像? >>211
>九州倭国は結果的に独自文化を守る結果となった。
守ってないだろ?
祭祀用供献土器の精製機種を含む庄内式、布留式土器を受け入れ、在地形式の土器を放棄し
前方後円墳体制にそのまま入っていくんだから
嘘はダメだよ
九州倭国なんてない
九州は倭国の一部 >>215
>周旋5000里で巡回可能。
周旋は一周したり元の場所に戻ったりしないよ
周旋の解釈について三国志の他の記述との比較
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf#search=%27%E5%91%A8%E6%97%8B+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%27
「各地を転々として、巡り歩く」という意味で使われている
他にはあっせんする交渉するなどの用法もある(cf 現代の周旋屋に近い意味)
一周するという意味で使われている箇所はない 結局さあ、神武が九州狗奴国の出身だとしたら、西日本は九州政権で治まったという話じゃん。 個人的に邪馬台国はロマンでしかないが、
モモソ姫が卑弥呼の千人の巫女団の幹部なら、
畿内に邪馬台国の文化をもたらした文化英雄の線はないのだろうか。 >>224
>結局さあ、神武が九州狗奴国の出身だとしたら、西日本は九州政権で治まったという話じゃん。
神武が九州狗奴国の出身じゃないから、そんな話にはならないよ
神武は卑弥呼の5世代、100〜150年前
そして卑弥呼が畿内で、狗奴国はその向こう(大陸中華から見て)なんだから、
狗奴国は九州にはないし神武の出身地でもない 魏志倭人伝の邪馬台国は九州の話。
その頃機内では新羅の天下り連中がそのノウハウを活かして朝廷制度を根付かせる→後の蘇我氏。
しかし渡来政権による歴史捏造と横暴さに嫌気のさした天武と各地の豪族が反乱を起こす→壬申の乱
歴史捏造とは、古代邪馬台国に成りすまし、その功績を我が物にしていた事を含む。
天武は正しい歴史を伝える為に、各地の豪族に伝わる歴史と中国の史書に基づいた記紀の作成を指示する。
8世紀にようやく国内向けの古事記と国外向けの日本書記が完成。 機内説は奈良に邪馬台国が存在したことを証明するのがどんだけ難しいか考えたことないのかな?
冷静な学者に聞いてみなよ?
箸墓も纒向も関係ないと言うはずだ。 まぁ卑弥呼は韓国人だけどな
日本は元々韓国領だった。
それを倭人が侵略して今の日本があるんだ。 >>232みたいな、日本の歴史を短くして、より小さな国として始まったことにしたい、
日本sageが目的の人が九州説には入り込んでいるんだよな
大陸や半島の指導・影響力の下で建国したと言いたがる人たちが >>221
すみません大体想像ですw
ただし国が連合する過程において祭祀を強要されることに人として納得できたかどうか?というのが考察の出発点です
そこに互いの利得が存在していたとしたら、技術と防衛の供与に裏付けされた現人神を祀り、神に貢ぐという形式で徴税するという概念だったのではないかと推察した
ある意味での平和的侵略だね
調べても日本での徴税の成り立ちは律令制以前はなかなか不明なんだよね
新嘗祭や初穂料は徴税の初期の名残なのでそこからヒントを得てる
そして生産者から徴税するという方式は神によって禊がなければ実行出来ないようなケガレ的な側面もあったと思う >>230
>機内説は奈良に邪馬台国が存在したことを証明するのがどんだけ難しいか考えたことないのかな?
「証明」は無意味だろ?
それこそ魏皇帝詔書の封泥でも出土しない限りは証明にはならないよ
ただもう、3世紀の倭国の中心が大和纏向にあって、北部九州までその文化圏に
入っていることが考古学的に明白になっているから、それ以上話を進める必要も
ないところまで来ている >>233
先祖が大陸や半島から渡来したことは否定する余地がないだろ。
個人的妄想で日本ホルホルしたいなら東ア板に行けよ。 >>235
それが藤原氏のやってきたこと。
日本ホルホル朝鮮族が歴史捏造に走ってるだけ。
今の朝鮮人と一緒だ。 >ただもう、3世紀の倭国の中心が大和纏向にあって、北部九州までその文化圏に
いきなり卑弥呼が3世紀に居ましたと言われても
1〜2世紀の歴史の流れを畿内説は言わないからな
邪馬台国は卑弥呼が創設したのではないのだよ >>222
確かにそうですね認めます
九州と畿内の関係性については出土状況による想定通りでしょう
その上で、どういう意識で連合が叶っていったかに興味があるので拙いながらいろいろ想定している所です >>238
だよな。
奈良では連続性の無い遺跡がほとんどだ。
倭国大乱の痕跡も皆無。
鉄も届かない文化連盟とか言ってる奴は頭おかしい。 >>240
九州のどこに倭国大乱の痕跡?
まさか田原坂じゃないよな 倭国大乱は伊都国のお家騒動に各地の有力豪族が絡んじゃないだろうか。
戦場は伊都国周辺。
結果、王制は廃止され邪馬台国の一大率の管理に置かれた自由貿易都市になったとか。
そうなると当時の対馬、壱岐あたりがどうだったかが問題になるかもしれないが。
壱岐も管轄下にあったので、陳寿氏は一大国一大率とそろえたとおもったり。 >>240
>奈良では連続性の無い遺跡がほとんどだ。
その通り。
纏向なんて2世紀末に突然現れたわけで、それ以前との連続性はない。
ただし遺跡で言えば葛城は別。
名柄遺跡は弥生中期。
当地の長柄神社は式内・名神大社であり当然今も続いてる。
というこては卑弥呼の時代にもあった。
祭神はシタテルヒメ、神武以前の王族だ。
だいたい発掘許可がおりるのは謂れのない所。
そこから出て来た遺跡、例えば纏向遺跡の大型建物が卑弥呼の宮だとか言われても、
ハイそうですかとはならない。
卑弥呼の王宮跡とかは今では式内・名神神社になってるはず。
崇神時代の大神神社以前、つまり卑弥呼やトヨの時代、
あるいはそれ以前の式内名神神社は日本でたった一か所、葛城にのみ集中する。
高天彦神社、高鴨神社、葛城御歳神社、長柄神社などなど。
邪馬台国とは葛城なのだ。 機内政権を牛耳っていたのは半島からの流れ者だ。
なんたって儒教を知ってるからな。
働かずに食うことしか考えない連中の生きる術だ。
だから前方後円墳なんて外観は違うが中身は半島式だろ?
ちなみに卑弥呼は公孫子の親戚とも言われるぐらいだから中国系渡来人だよ。
中国語も話せて文字の読み書きも出来たんだろう。 >だから前方後円墳なんて外観は違うが中身は半島式だろ?
前方後円墳の発祥は東瀬戸内。
中身は吉備。 >>236
>先祖が大陸や半島から渡来したことは否定する余地がないだろ。
縄文人って知ってるか?
一万年以上列島に土着していた人の祖先が
半島から来たっていうことにどんな意味がある? 〉〉243
葛城説は卑弥呼の時代の200年頃に神武が纏向から葛城に天孫降臨した話だろう
卑弥呼全盛期に神武も全盛期で一緒の場所にいたでは説としておかしい >>246
お前さん耳垢が乾いてるだろ?
それが半島人の証だよ。
ドロッとした松ヤニのような耳垢なら縄文の血を引いている混血だよ。 >>248
>お前さん耳垢が乾いてるだろ?
>それが半島人の証だよ。
そういうのはどうでもいいんだよ
日本列島の人間の祖先は大陸から来たに決まっているというのは意味がないってこと
その前から日本列島上には、広域の交易圏が存在していたし文明社会だった >>249
それを証明するものが機内に何もないから邪馬台国にしがみついているんだろ?
しかも捏造したくてウズウズしてる。
迷惑な話だ。 前方後円墳の起源も機内って事になってそうだな。
すでに捏造されてるぞ。
箸墓なんて中を見た奴もいないのによ。 卑弥呼が朝鮮半島から来たというのはただの妄想だからどうでもいいが
祖先が半島から来たことをやたら強調してるやつは年代を考えたことあるのか?
邪馬台国の時代より1000年前のこと
3世紀の人たちの帰属意識は日本列島の住人だよ >>252
土師器(庄内 布留)の内面削りは吉備の強い影響。
また竪穴式石槨の発祥は吉備。 >>247
>葛城説は卑弥呼の時代の200年頃に神武が纏向から葛城に天孫降臨した話だろう
何を言ってるんだ、恥を知ってるならもう黙っておれ。 >>254
畿内の漢字すら間違えてるんだから、日本語苦手な人たちだよ >>248
シミになりやすい肌は縄文人の特徴
美白化粧品がよく売れるのは縄文人の血が流れている証拠 >>232
騎馬民族征服説はイマドキ誰も相手にしないよ
縄文人のルーツはシナチョンのルーツよりもっと前に
パプア・ニューギニア人と共通のルーツから枝分かれした。 >>174
どう考えても九州からは出ないよな。
機内説では2国だけ南を東?
周旋五千餘里だけ長里?
定義なき曲解のオンパレード。 「有倭人以时盟不(否)」という
会稽にいた曹家一族の
曹君の墓に刻まれた文字は、時代がながれて、
魏志倭人伝の檄と黄幢になって
現れてくる。
つまりは、同盟を結ぶ相手として
見ていた。それをまとめてもらい、
連合国として、鏡やら金印を
送った。檄文を送るのは、戦地の要衝地。
つまりは、狗邪韓國などは、
魏からしたら、帯方郡で、睨みをきかせて
いたため、同盟せずも、問題なしとみた。
倭国は、要衝地のため、同盟を結ぶ
国。これだけでも、朝貢体制のみでは、
ないことがわかる。
案外、邪馬台国に、
張政さんがずっといたのは、
大率、大倭などの租庸調などの
基礎を築き、度量衡などの
システムを持ち込んだかもね。
独自に検閲や税などのシステムは、
つくりにくいかな。
大率をおそれたのも、魏軍が
帯方郡にいる後ろ盾があるからこそ。
でなければ、また、倭国大乱は、おきる。 吉野ケ里歴史公園の楼観などは稲吉角田遺跡や唐古・鍵遺跡の
建物が描かれている土器を参考にでっち上げたwww
↓吉野ケ里歴史公園のHPより
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
吉野ケ里からは楼観を描いた出土品が無いから稲吉角田遺跡や
唐古・鍵遺跡の絵からパクって魏志倭人伝の記述に合わせて捏造。
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