【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]
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邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、
女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。
遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。
この桃の種を、名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
それぞれ放射性炭素を使った年代測定を行ったところ、
いずれも西暦135年から230年の間のものの可能性が高いことがわかりました。
卑弥呼は中国の歴史書「魏志倭人伝」で、3世紀前半ごろに邪馬台国を治めていたとされ、
今回の結果は卑弥呼の時代と一部、重なっています。また、桃は古くから神聖な果物とされていたことから、
卑弥呼が行った祭しで供えたのではないかという指摘もあるということです。
桜井市纒向学研究センターの寺澤薫所長は、「魏志倭人伝の記述にある卑弥呼の時代と重なり、
纒向遺跡について考えるうえで重要な資料だ」と話しています。
■邪馬台国九州説の研究者「卑弥呼 明確には結びつかず」
邪馬台国が九州にあったとする説を唱える、佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は、
「参考になる研究成果だが、邪馬台国の所在地や卑弥呼と結びつく明確な材料はなく、
今回の成果で論ずるのは無理があるのではないか」と話しています。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html また卑弥呼の話か。みんな好きだねぇ。
だいたい中国の昔の本にちょっと書いてあった程度で、大和朝廷との関係を勘ぐる理由が分からないんだよ。考古学シロートだからさ。
当時の日本に無数にいた豪族の一人ってだけじゃないの?どこにいたにしてもさ >>1
>>1
日本での研究はロケット、戦闘機、核、コンピュータのみに集中しよう 纏向遺跡には出雲大社と同じ大社つくりの建物と、伊勢神宮と同じ神宮造りの建物があったらしい。 古い遺跡があるんだから古い桃の種があっても不思議じゃなくね? 桃って外来種だろ?
中国との交易があった証にはなるな 邪馬台国は存在しないし 卑弥呼もいなかった・・・・・これが正解(笑) 中国北方から朝鮮回りで伝わったのか、長江方面から来たのか品種で分かれば有力な
資料になるんでね? >>1
倭国(九州)と大和国(近畿)は別の国。
一つになって日本国が出来た。 8年前に発掘されているのにどうして今までかかったの?
都合のいい結果が出るまで何度も何度もやり直したからだよね? >>16
炭素14は誤差が大きいからな
自説に都合のいい結果になるまで8年間延々と再測定を繰り返したんだろうな >>2で書き込む割にはアホだな
大和にあったとしたら、大和から一豪族が中国まで何回も使者を送れるわけないだろ じゃあ狗奴国はどこよ。黒歯国は?
近隣の証拠を集めないと主体は浮かび上がって来ないが? .
邪馬台国は、宮崎県の西都原(さいとばる)で、決定しております。 日本語の形成(大野晋説)
1. 縄文時代(期間13000年程)
オーストロネシア語族の一種
母音終りで母音四つ
八の愛好(ex. 八雲,八重垣,八島,etc.)
創世神話の類似
2. BC1000年頃〜(弥生時代)
タミル文明(南インド)の伝搬(←インダス文明←シュメール文明)
稲作・鉄・機織とともにタミル語を話す人達が★九州北部(ヤマト)★に渡来
基礎となる文法と助詞・助動詞・名詞・形容詞・副詞が照応
係り結びの法則の一致
五七五七七の歌の形式と韻律も受け入れ
3. 遅くともAD500年頃〜(古墳時代)
シナから漢字を導入して和語の表記
儒教などシナ文明の導入
ex. 萬葉集(万葉仮名),日本書紀,古事記,etc.
4. 900年頃〜(上古上代)
漢字から仮名文字を作り漢字仮名交じりの文字体系完成
ex. 源氏物語,枕草子,古今和歌集,etc.
(ソース:『日本語の源流を求めて』岩波新書 2007年刊) 倭と中国には呼ばれたが倭國(大和國)は纏向にあって神武天皇東征して崇神の頃に日本国
作るわけだけど それまでは卑弥呼、トヨと姻戚関係にあったけど天皇家はずっと力なかった。 掘り当ててみないと邪馬台国がどこにあったかは断定できないとは思うけど。
ただ奈良の盆地の有力者は安東将軍倭国王に対抗するために親魏倭王とのつながりを強調はしたと思う。 九州説
・陸行1月だと九州をはみ出る(糸島から鹿児島まで14日)
・卑弥呼が集めていた大量の鏡がない=三角縁神獣鏡が出土しない
・前期の大古墳(100歩古墳)がない
畿内説
邪馬台国がその後どうなったのか記紀に記載がない。 九州説のじじい、ほんと早く氏んでほしい。
こいつらのせいで研究が進まない。 邪馬台国は九州。ただし日本全国を統一した国ではなかった。
九州一帯のみの統一。
大和朝廷とは別の系統の国家。 >>27
それだと「東に向かった」記紀の母体勢力=ヤマト王朝の出自が空白になる
矛盾しまくり
邪馬台国が東に向かったなら記紀の母体は卑弥呼になり
その次の王はトヨになる。
記紀はそう書いてない。
畿内の卑弥呼が倭国大乱の後 倭王になった。
はい、この時点で九州は畿内に服属してます。
九州が畿内の卑弥呼に服属してるから、素通りできて朝貢できたのだろう。
あと九州は渡来人だらけで女王=巫女の文化はない。
縄文系の文化は 大規模噴火で縄文文明が全滅した九州に残ってない。
「で、鏡は?」 鏡も古墳もないから無理なんだよ、諦めろ。 邪馬台国は九州ね
だって今でも九州では語尾にタイがつくったい! >>30
「あのコンモリしたものはなにかね?」
「ヤマたい!」 少なくとも名目上は親魏倭王の継承者を主張したんじゃね。
結局大和の王権の完成者あるいは革新者である天武天皇は安東将軍倭国王も親魏倭王も必要とせず
日本国の天皇を自称して大陸と交渉したんじゃないだろうか。 桃を食する姫巫女が135−230年に居て西を正确に向いている館に住んでいた そのまんまやん
九州説のあほ古田はいいかげんアキラメロン それから宮内省のバカはええかげんに「天皇陵」の調査の邪魔をすんな 商売屋的には
さっさと場所を決めて欲しいよな
候補地じゃいまいち宣伝にならん >>17
恐らくこれ
新聞読んでどーせ炭素14だろなあー思ってたらそれだったw
あれ化学科の分析化学の講義じゃ、精度がダメで生物のいた痕跡とかには使えませんねえて
習うんだけど
なんで考古学だとあんなに使われてんの? × ヤマタイ
○ ヤマトゥ
卑弥呼⇒日の巫女⇒天照大御神を演じる係の女性
こんなことは今や、常識の範疇でしょうに >>30
台は「タイ」と読まないよ
「トゥ」に近い発音 卑弥呼は九州の古い豪族だと思うんだよな
畿内は新興の成金貴族が作った人工都市 >>40
どうでもいいかどうかは貴方様が一方的にお決めなさってよろしいことではございません。 炭素14の補正曲線みると、200年代でむっちゃ無理しててワラタ
後漢の滅亡を基準にすりゃいいのに、そうしたくない力を感じる >>37
分野の蓄積だからな。先行研究を踏まえて矛盾なくつなげないかん
精度は5000-10000年以上前ならアリだけど、
たかだか2000年弱前の数十年スパンに当てはめるってのは無理ゲじゃねとも思う
けど、一旦主張しちゃったら合理的な証拠ないと覆せない 九州説は自説に都合の悪い話はみんな捏造にするからなあ。 現在の日本の桃は明治時代に輸入された水蜜桃系(上海水蜜桃など)を品種改良したものがほとんど あのさ、どうして魏志倭人伝ばかりに拘るのだ?
旧唐書には後漢書の奴国が発展して大和朝廷になったと書いてある。
遣隋使とか交易海洋民族とかから大和朝廷のことをしっかり情報収集しているだろう。
魏志倭人伝より情報は確かだと思うがな。
新井白石が悪いのだ。常陸国が発祥地だというのだろう。
奴国の発展系が大和朝廷でいいじゃないか。 2018/03/20
【古墳】「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県][03/20]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1521543101/913 当時の桃はスモモなんだっけ?
観賞用か薬用なんだっけ
それが2000粒
樹はあっても使い道ないから経年で貯まったって感じだよね
薬としてもさほど使ってなさそう、何に効くんだろう? イザナキがヒラ坂で
追ってくる醜女に投げつけたな
俺も持っておこう
いや息子にも持たせておこう .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 >名古屋大学の中村俊夫名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲さんが、
こういう時には権威が必要なんだから、失うものがたくさんある現役の学者に出てきて欲しいところだが… >>27
それはないな
仮に邪馬台国が九州にあるとしたら魏の使者は邪馬台国よりはるかに規模の大きい妻木晩田遺跡や纒向遺跡を完全スルーで一言も残していないうえに九州の小国を倭王にしたということになる
九州のどこよりも規模の大きな遺跡が出てしまった時点で九州説は成り立たない 誇張されいい加減に書かれた魏志倭人伝の内容をすべて信じているバカ
支那はいまだに嘘つき国家だろ。
なんでもオーバーに書くし嘘のオンパレード
地道に遺跡調査していく方がいいだろう 邪馬台国は、和人の「ヤマト」「大和」の発音を
大陸の支那人が聞いてのアテ字だろう。
そのアテ字を現代日本人が読むから「ヤマタイコク」となるからややこしい。
当時の支那人が「邪馬台国」をどう発音してたかに興味がある。
全国にいくつもそこそこ大きな国があるのに、
近畿ヤマト国が日本の代表みたいな顔して支那に行ったかもしれない。
当時は正確に物事を伝える、正確に記録するなんてことなかっただろうし
見栄とハッタリが全ての支那の書物を信じるのはどうかと思う。 >>59
福岡の弥生銀座のほうがそれらより遥かに規模が大きいからその反論は成り立たない >>62
それのどこが妻木晩田遺跡や纒向遺跡よりも大きいって?
大体福岡にある時点で論外だろ 中国でも桃は「邪気」を祓う神性な食べ物
なので卑弥呼が儀式に使っても不思議はない。
桃太郎が鬼退治をする話が生まれたのは、桃に邪気をはらう効果があるため。 >>62
奈良や京都は、掘ると遺跡だらけなんで
遺跡が見つかっても工事が進まなくなるからそのまま埋めちゃうんだぞ >>21
素直に考えて、西都原だと思う
だから日向三代がいたと言われる場所になったんだろう >>65
弥生時代の鉄器の出土の数
九州:畿内で100:1くらいだぞ
あるなら掘れよ 畿内説が日々考古学的物証を積み重ねているのに対して
それに対しヒステリーを起こすだけの九州説
まぁ九州説を真剣に推してる学者なんてほとんどいないから無理もないけど九州説に必要なのは畿内説にケチをつけることではなく
九州説内で統一して比定し、考古学的発見を積み重ねることでしょう >>65
奈良はそうと兵庫人でも思うけど、九州も同じ状態らしいぞ。知らんかったけど。 >>75
畿内推しの人には残念だろうけど、魏志倭人伝に記載された倭国の文物の出土状況をビッグデータ解析した結果、
邪馬台国は99.9%以上の確率で福岡だって結論が出ちゃってるんだよね
https://ironna.jp/article/4548?p=7
◆邪馬台国が、福岡県にあった確率
広島大学名誉教授であった川越哲志氏のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたものである。鉄器についての、膨大なデータが整理されている。
『魏志倭人伝』には、倭人は、「鉄鏃(てつぞく)」を用いる、などとある。『弥生時代鉄器総覧』の鉄器出土地名表を見ると、
福岡県には49ページ割かれている。これに対し、奈良県には1ページも割かれていない。
「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的な違いが目に入らないのだろうか。
例えば、弥生時代の鉄鏃の出土数をみれば、図5のようになる。『魏志倭人伝』に記されている事物(鎧・絹・勾玉など)で、
遺跡・遺物を残し得るものはすべて、出土数において福岡県が奈良県を圧倒している。
https://ironna.jp/file/d4c399889c0b962f241b7957292bbe0d.jpg
図5のような分布を示すいくつかのデータから、邪馬台国が福岡県にあった確率や、奈良県にあった確率を計算によって求めることができる。
県ごとの確率は、表1のようになる。
https://ironna.jp/file/b918d0f424991e886db129418cce67d2.jpg
これについて詳しくは、拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(勉誠出版、2015年刊)を、ご参照いただきたい。
この確率計算にあたってご指導、ご協力をいただいた現代を代表する統計学者、松原望氏(東京大学名誉教授、聖学院大学教授)は述べている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています」 鉄が九州説最後の砦らしいですが淡路と彦根で製鉄所跡地が発掘されたそうです >>77
東大の名誉教授の学説をお前ごときが否定できませんw
畿内厨残念w >>78
淡路の鉄工房は九州の影響下だってさw
この分だと畿内の勢力も九州の傘下だろうなw
畿内厨残念w
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 >>83
妄想乙
畿内厨は現実に負けすぎて妄想の世界へ逃げ込んでしまったようですw >>76
何で福岡なのか。
そもそも九州説が大加速したのは吉野ヶ里遺跡だろ。 https://www.youtube.com/watch?v=eEAkOh3lsY0
考古学に携わる人が5000人いるうち九州説を唱えてるのは片手で数える程度だとw
ここに出てる九州説の学者も若いころ九州説論者が全くいないので教授に言われて嫌々始めた言ってるぞw >>120
九州にはなんであんなに神聖なところが多いんだろうな。俺は纏向畿内説を支持してるけどそれは不思議に思う。東征と関係あんのかな 東征自体は全くの作り話に過ぎないから東征のお話を作った後に神聖とされる場所を九州各地に指定していったんだろうな
倭人伝に出てくる奴国は2万戸というかなり大きい国でおそらく九州北部ということを考えても漢委奴国王の奴国と同一だろう
そのうえ畿内との間にはさらに投馬国5万戸という奴国を上回る規模の国がある
こんな大国2国をスルーして九州から畿内に国を移すとか国替えの命令でも受けない限り無理だからな 当時の中国が日本全土を把握してたなんて無理だろ。
日本内でさえまだ未開の地がいっぱいあったのに。
邪馬台国は九州地域の統一王朝だろ。そのころヤマト圏には別の王朝が出来つつあった
ってとこだと思うよ。c炭素の年代測定は誤差ありすぎであてに出来ない。 九州説にしがみついているアホはもういい加減にセイヨ >>86
https://ironna.jp/article/4548?p=6
箱式石棺の分布
宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者、奥野正男氏は述べている。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を、二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる
九州北部の国々の墓制である」(『邪馬台国発掘』 PHP研究所、1989年刊)
「邪馬台国=畿内説」の考古学者、白石太一郎氏(大阪府立近つ飛鳥博物館長)も述べる。
「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、
石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する」(「墓と墓地」、『三世紀の遺跡と遺物』 学生社、1981年刊所収)
このように、邪馬台国時代の九州での墓制は、甕棺の次の箱式石棺の時代であった。そのことは、邪馬台国「九州説」の学者も「畿内説」の学者も、 ともに認めている。
最近、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博氏の大著『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)が、刊行された。
『箱式石棺』の本により、九州本島で、箱式石棺の出土数の多い「市と町」を示せば、図4のようになる。朝倉市がトップである。
https://ironna.jp/file/886f3d9474aad798c3d88c42befb738c.jpg
また、箱式石棺の分布の様子を、地図上に示せば、地図5のようになる。箱式石棺は、朝倉市を中心として、分布しているようにみえる。
https://ironna.jp/file/ffdad4ae37096d6f05a3e4b2dea1647a.jpg
なお、『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について「棺あって、槨(かく)なし」と記す。箱式石棺であれば「棺あって、槨なし」に合致する。
奈良県の纒向遺跡のなかのホケノ山古墳は木槨があり、『魏志倭人伝』の記事に合わない。
ホケノ山古墳よりも、時代的に後とみられる箸墓古墳も、竪穴式石室(石槨)」の時代のものとみられ、『魏志倭人伝』記述の墓制の時代よりも、後のものとみられる。 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫
卑弥呼の墓=箸墓古墳
男弟=崇神天皇
邪馬台国=磯城瑞籬宮=纏向遺跡
投馬国=出雲
狗奴国=毛野国
卑弥呼の時代、静岡あたりまでは連合国の勢力圏だったのはわかってるから九州北部から東海地方一帯までが連合国の版図になるな 三種の神器は三国統一をしたの王の証
九州邪馬台国 鏡
出雲 剣
糸魚川 玉 >>96
そんな大国が狗奴国一国にやられて魏に助けを求めるわけないじゃん
畿内説は根本が破綻してるな >>96
それと、君のその妄想が正しければ対狗奴国の最前線は東海東部から関東西部あたりになるはずだが、
そのあたりからは当時の武器の出土数が少ないのはどう説明するんだい?
逆に前線を遠く離れているはずの九州北部が一番武器の出土が多いんだけどw >>98
やられてなんてどこに書いてあるんだ?
飛躍しすぎだろ
時代が下って大和朝廷成立後でも蝦夷討伐は征夷大将軍を任命するほどの国家の一大事だぞ >>99
歴史に記されてる限り遡っても大和朝廷に従わない勢力は北に北に追いやられていくこと自体は史実なんだから、その流れは始まってると考えるのが自然だからな
高尾山古墳をみても卑弥呼の時代、すでに静岡県辺りまでは連合国の安定的勢力圏だったことはわかる
境界がその北とすると、やはり関東になるかなという考えだよ
毛人55国=狗奴国=毛野国ってね >>101-102
必死に話を逸してるとこ悪いんだけど、武器が出土しないのはどう説明してくれんの? >>103
武器が出土しないってなんの妄想を話してるんだ? 原材料は海外から輸入していたわけで、その加工工場が北九州に置かれることは自然なことだから当たり前っちゃ当たり前
北九州で作って各地に運ばれたと
国産砂鉄からの製鉄技術が確立してからは出雲が増えたね
いずれにしろ原材料を入手しやすいところに工場ができる、決して前線付近に工場ができるわけではない 俺は邪馬台国は北部九州で大和朝廷は近畿説だと思ってる
卑弥呼が死んで北部九州と南部九州の争いが激しくなって北部九州が衰退するのと同時に大和朝廷が九州北部から逃げた人と合わせて大きくなったんじゃないかと思う
当時は直接船が乗り入れられる場所に交易で人が集まったんじゃないかな >>108
工場のあるところに製品が固まるのは当たり前な https://dotup.org/uploda/dotup.org1546397.jpg
これを見ても同じ弥生時代の間でも時代の経過によって鉄器を必要とする地域が西から東へ移っていくのがわかるだろ .
邪馬台国の所在地は、宮崎県の西都原(さいとばる)で決まり。 当時は近い距離なら歩いて移動したかもしれないけど道も整備されてなくて山賊とか出たと思うし警察もいない自衛する世界なら大量に荷物を運べる船が鉄でも食べ物でも運ぶための手段だったと思う
船なら視界も陸地より良いから陸運よりも安全じゃないかな
なんか拠点から拠点へ荷物を積んだ船が行きかう姿を想像すると胸熱だわ >>113
山賊でるなら、普通に海賊もでるとおもうぞ。 >>111
鉄器は、西から東へだが、
時を同じく「北九州発祥」の横穴墓群も
西から東へ移動。
水町遺跡をみたことがあるが、
横穴墓と記載されるから、墓と認識する。
しかし、よくよく実際みてみれば、
横穴と横穴を仕切る土塁の両側面にも、
小さな横穴がある。
墓にしては、そんな場所に埋めるもかと
思う。コの字型としたら、
すべての側面に、穴があり、6〜7箇所にも
なるからなあ。
そのタイプが、隣同士で、何基もある。
つまりは、たたら製鉄後だな。
だから東へと鉄器拡大とあうわけだな。
横穴墓は、元来装飾品や人骨がでにくい
質素な墓ともいわれているのは、
用途が、たたら製鉄だからかな。その
後から
鉄器や鏃まで、九州は、でている。 桃の種の年代も必要かもしれないが、
ここ数年、分析法が確立され、
有意義な結果も見られる
「錫同位体測定」も抑えるべきでは?
数本論文でているが、
八咫鏡や神獣鏡などは、青銅鏡。
鉛同位体もされた論文あるが、
産地が多い鉛は、青銅鏡の産地特定は、
難しい。
しかし、錫は、朝鮮半島には、ない。
中国は、無錫市。昔は有錫市として、呼ばれていたが、取りすぎてなくなった。
あとは、2000年前からある
雲南省の錫鉱山。
日本は、鹿児島県錫山、大分県傾山、
高千穂祖母山(神話の里)が、
古来より知られた場所。
雲南省の錫と日本の錫には、同位体の
変動が、見られる。
いずれ日本の銅鏡の錫を同位体測定したら、
日本産か中国産かは、わかると思う。 >>110
東海と関東の境で戦争やってたのに生産された武器は工場に置きっぱなしで
最も需要のあった前線にはなぜか送られませんでした、と?
やっぱり畿内説論者の言うことは根本から破綻してるねw >>111
いや全然
単に弥生中期まで関東には鉄器文明が及んでなかったとしか見えないが
当時の鉄は朝鮮半島からの輸入品だから無理もない 平地と違って海なら遠くに海賊が見えたらすぐに逃げれる
重要な積み荷は当時最速の船を使って護衛の兵士もいたはずなので海賊にはやられない 平地と違って海なら遠くに海賊が見えたらすぐに逃げれる
重要な積み荷は当時最速の船を使って護衛の兵士もいたはずなので海賊にはやられない このザマみたらもう掘ってもたいしたもん見つからんのだろうな。桃の種で深読みするしかねーんだから。 >>120
北九州より船にて、運ぶとしたら瀬戸内海とおるから、逃げれない。
狭間をとおるから、やられやすい。
実際、後に村上水軍がでてくるから、
海賊には、格好の場所。 卑弥呼の名前の「卑」は、高貴な名前だったんだなあ。最初は、卑金属を扱うからと思って
「卑」とつけたと思ったが、やはり、系図をたどると、高貴なとこに、たどりつく。
さらには、橿原市の遺跡でも九州各遺跡でも、呉をベースにした画文鏡などが、出土するのも
繋がっているなあ。 邪馬台国の「邪」も発音自体、xie.ya.ye.などの発音で、意味が変わるし、発音でみれば、方角を表しているんやないかな。 >>122
だから九州より東に鉄器が少ないんだね
瀬戸内海から東は文化の発達も遅くなるよね >>127
畿内に倭国があれば、魏志倭人伝の通り、
海の民、入れ墨などの表記から、もっと海運
などの発展があったと思う。しかし、淡路島には、鉄鏃などの武器や船用の鉄器は出ず、鉄製の釣り針みたいなものしかでない。
入れ墨は、素潜りするため、潜むサメなどを
威嚇するためだし。 >>128
そうなるとますます邪馬台国が畿内にあるのは難しいかも
邪馬台国は戦争もしてたから当時最先端の武器は沢山使っていたはずだから当然 鉄製の矢じりなんかも沢山使っていたはずだね
出土分布とかあるのかな? 神獣鏡が、国産とした場合、
畿内説では、何処の銅山、何処の錫山を
使用したと説明するんだろ?
奈良近くには、錫山ない。
古事記でも
イシコリドメが、鏡をつくるが、国産
錫山ない箇所で、権威の象徴の
銅鏡がつくれないとなると、矛盾が生じないかな。 【話題】考古学で用いられる「放射性炭素年代測定」の精度は調査する場所によって変わるので議論の余地があるという指摘
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1528411799/ 邪馬台国は、邪馬臺国ともかきますが、
taiとは、発音しているが、
yiとも発音する。古代では、
yiと発音した場合は、central officeの
意味になる。
つまりは、臺国は、邪馬のHQといういみかな。 邪馬臺国の邪馬になるのだが、
これは、ヤマとよんでいるから、
yaと呼ばれた意味で捉えるべき。
xieとよばれたら、日本でのジャと呼ぶ意味があるが、
ヤと呼ぶため、ヤの古代として、捉えるべき。 秦の始皇帝は、現在の青島南方あたりに、琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国をたてた。
古代は、「邪」は、東、日が出る場所と認識される。 ここで、卑弥呼とつながる。
元来、卑弥呼は、ビミと呼ばれたと推測する。
なぜなら、魏志倭人伝には、曰、、、卑弥呼とかいており、曰、、、呼とのセットの文法。
だから、卑弥になる。姓氏制度は、
大化改新でなくなるが、
それ以前は、姓氏として、捉える切り口も必要かと。
となると
卑は、beiの発音てわなく、biと呼ぶ。
そうすると、卑という姓氏は、あるのかと
つながる。 魏略では、倭人は太白の子孫とかいている。つまりは、周王朝に通じる。
卑の氏をたどると「姬」に、語源があるとなる。姫とは、漢字が違うため注意。
で、姬は、周王室につながるとの説明。
さらには、卑は、台湾にはなく、中国でも希少な名前である。
ルーツをたどると3つほどあり、
「通志氏族略」にも書いてあり、泰山から
始まったルーツとも書いている。
邪馬台国なんて無かったのさ。
なんかの事情で適当に口から出まかせぶっこいたのさ。
本居宣長が、邪馬台国をヤマトでは無いって看破した根拠ってなんなん? そもそも桃の種がたったの2000個見つかったくらいで邪馬台国である結論にはならないでしょ 機内にも大国があったでも邪馬台国ではないとなぜ認められないんだろう ヤマトでない政権がなぜ邪馬台なとと紛らわしい自称を名乗るのよ 山門だったからだろ
ヤマトなんて地名はどこにでもあるんですよ いや地方名じゃなく国を代表する勢力名でしょ
紛らわしい名前なんて名乗るわけない 邪馬台国の邪馬は、山だったんだ。
邪は、東の意味もあるが、山なんだ。
山台国。丘台国ではない。山なんだ。 倭人は、半島南部で、鉄器などを、生産して、
その生活の後は残っている。
その半島南部で、倭人は祭祀をおこなうのだが、その場所は、後の高霊伽耶即ち大加羅=意冨加羅(オホカラ)の地にある「大伽耶山」。
で、ここに、「弁辰彌烏邪馬国」がある。
この邪馬は、山の意味がある。
山の漢字は、韓国語にはなく、高いからくる
岳。
ヤマ」は、「岩波古語辞典」によれば、
「地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。古く、神聖なるものとされ、神が降下し、、また神が領有すると信じられた。」場所。
つまりは、邪馬台国は、
邪馬=山
台=本部「セントラルオフィス」
やまの中にある。高い山だね。
神聖な山にまつわる話が多いのもわかります。 魏が、何故半島南部より、邪馬台国と同盟を考えていたか。鉄器などは、豊富に半島南部にもあり、北九州などとも大差ないとおもわれる。
銅も朝鮮半島には、大量に存在する。
北九州にも、大量に、存在だとする。
唯一違うのが、
「錫」 これは、錫山が、半島にない。
錫は、メッキできるため、腐敗が進まない。
不老不死ともつながる。
「九錫」という錫の格別高い表現もある。
始皇帝は、不老不死にいいと思い、
水銀飲んで、体調崩していく。
錫は、祖母山でとれ、イシコリドメの
鏡でもでてくる。神聖な山。邪馬。
その地に神楽があり、祭祀がある。 錫、すず、連呼しているが、統治する側からしたら、かなりの戦略物資なんだが。
銅鏡も必ず、錫が入る青銅。人民を統治するのに、神獣鏡などをつくるには、広大な東アジアで、1500年前では、雲南省か日本の阿蘇山「イシコリドメの記述」から南しかない。
さらには、仏教がはいり、大仏様を鋳造していくが、ここにも錫がいる。奈良の大仏様には、銅500トン、錫10トン。錫なければ、作れない。
つまりは、銅は、産地が多いため、変えがきくのだが、錫は、武力で鉱山を抑えるしかない。
それが、権利の基盤にもなる。 >>146
大和も地方名だが?
そこにいた勢力の名が地名として残るのはよくあること
それに魏志倭人伝をちゃんと読めば当時のクニは旧郡くらいの小規模なものだと分かる >>143
九州が邪馬台国だとすると、魏の使者が、畿内のヤマト王権を記述しないのは不自然だから。 >>141
江戸時代の国学者はネトウヨだから
天皇家が中華皇帝に朝貢していたはずがないニダとかいう立場 >>156
そこまで行かなかったら記述しないのは当然だろ
女王国の東に海があって千里渡海するとまた倭人の住む別の土地があると書かれているし
むしろこの記述は邪馬台国が畿内ではないことを意味している >>159
近畿のヤマト王権を、伝聞ですら知らない、過小に評価するというのは、魏への報告書として体をなしません。 >>151
本来の発音は「ピミフォ」なので、「巫女」という意味にはなりません。 >>160
それはお前に都合のいい自分ルールに過ぎない
女王国の東については倭人がいる以上の情報はないのだから書かれなくて当然
もっと近い出雲や吉備さえ書かれてないのに畿内だけは書かなきゃおかしいってのは妄想にもほどがある >隋書俀国伝
>都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
「邪靡堆」とは、ヤマト王権を指し、魏志倭人伝の邪馬台国のことだと言ってる。
こういう決定的証拠をみんな無視してるのがおかしい。
論客として不誠実極まりない。 >>159
陳寿が日本は南北に長いと思っていた説に納得する結局掘り当ててみないとわからないと思ってる派ですが。
女王国の東の海は伊勢あたりからの太平洋で別の倭人は房総の住人かもしれないじゃないですか。
東海道はないわけで当時の移動は海が主流だったのかも。 >>163
だからこそ、魏の時代(または、3世紀末に書かれたものから)の状況から、後漢、隋と時間が過ぎていくうちに、邪馬台国東遷説が、でてくる。
邪靡堆の原文を訳せば、邪馬台国とは、言っていない。
邪靡堆を都とし、魏志倭人伝でいうところの
邪馬臺の人々と言っている。
国とは言わず、すでに安定した都と認識している。そこに住んでるものが、
魏志倭人伝の邪馬臺の人々だということ。 >>81
九州と近畿が別のクニだという主張と自己矛盾する。
九州に邪馬台国があったなら、近畿まで九州が支配下に置いたと主張すべきだが、なぜしない?
邪馬台国を九州内部だけにとどめようという大前提がそもそも、九州説のおかしなところなんだよ。 >>165
>邪馬台国東遷説
中国の史書には、倭国の権力中枢が「移動」したなどという記載は無い。
記紀にある神武東征は、紀元前の話しである。 >>164
日向に、神武天皇お船出や、
大御神社(おおみ)がある。この神社は、
君が代の二番まで、完全に合う場所。
さざれ石がいわおに、なった場所がある。
ここから、東をみると約70キロには、清水町などの高知県がある。
日向、延岡は、五ヶ瀬川で、そのまま高千穂に
つながる。
神武天皇の東征が、始まる場所。 【福島認知症、認定″】 12日、交差点(52) 11日、通学路(75) 10日、スーパー(55) 9日、線路(70?)
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1528765728/l50
4日連続で、アクセルとブレーキの、踏み間違え死亡事故、発生、原因は放射能しかありません! >>168
その日向三代は、天から地上を支配するためにニニギが降臨したという伝説に基づくが、
なぜ、ニニギが初代天皇ではなく、神武が初代天皇なのか、説明できないだろ?
答え。日向の伝説は作り話だから。
天から人が降臨するわけないだろ。 >>170
天孫降臨は、神仙思想。呉の太白の廟をみたらわかる。神社の狛犬が、2対向き合っている。
狛犬は、神仙思想からきて、それが、神獣鏡に
刻まれていく。
その祭祀の場所は、高い山になる。 ようするに、ヤマト王権の初代王として、カムヤマトイワレヒコ(神武)が知られており、
あとから権威付けのために、天孫降臨神話が作られ、日向を聖地に選んだわけ。
なぜ、日向かと言うと、大和王権の王は、日向から姫を迎えているから。
日向がヤマト王権に服属した見返りに、日向にも権威を付与したのだ。
日向なんて、ヤマト王権以前は、遺跡的にも何にもないところだぞ。 >>172
神獣鏡の錫は、国産なら、どこで入手した? 邪馬台国は宮崎県の西都市(西都原古墳群)で決まり!
原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」を読んで理解したらどうかな。。。。。 >>173
>神獣鏡の錫は、国産なら、どこで入手した?
その質問には、何か特別な意味があるの?
銅製品なら、銅鐸つくる技術はずっと前からあったけど? >>174
どうせ、ニニギが初代天皇でない理由なんて書いてないよね。 >>172
日向は国名というより方角だと思うわ。
太陽は東から昇り、西に沈む。
太陽神の子孫が天から下るなら西という考え方じゃね。
古事記には編纂者の思惑がてんこもりじゃないかな。 >>175
青銅で、できた銅鏡は、銅だけでは、
絶対つくれない。 古代日本の国際(国境線も民族国家もないのにw)交易航路が東夷伝の半島対馬壱岐北九州ルートだけとはかぎらない。
東夷伝はとりあえず邪馬台国へのルートだしな。 「魏志倭人伝」に記載の邪馬台国は大和国を報告した中国人が耳で聞いて勝手な漢字を当てただけだから奈良の纏向でいいがな >>178
ttp://pcrescue.b.la9.jp/bunseki.html
これを見ると、銅鐸にも錫は含まれてますよ?
東海に行くほど、錫は減少してるようなので、錫は西方から輸入されてると見るのは正しいでしょう。
邪馬台国以前からも、東西交易がなされていたという証拠にはなりますが、
それが九州説の何の根拠になるのでしょうか? >>182
銅鐸も青銅器。錫が入るから、青銅器。
それほど錫が、貴重だから、産地からはなれたら少なくなる。
錫は、朝鮮半島に、ないよ。
1500年前は、中国は、雲南省しかないよ。 >>182
無錫市が、呉の太白がいたとこにあるが、
2000年前は、有錫市だったが、錫取り過ぎて、
名前をわざわざ無錫市にその後かえた。
どこでも、ここでも取れない代物だよ。 >>182
そこで、錫には、放射性同位体がある。
最近同位体を分析した論文がでてきている。
鉛同位体の鉛は、産地が多いため、厳密には、産地を比定しにくい。
錫の同位体分析では、雲南省の錫と中国内の銅鏡の錫は、雲南省と見られる結果がでている。
ちなみに、日本の錫と雲南省の錫には、
有意義な変動があるようだ。 古事記の「天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津まらを求ぎて、イシコリドメノミコトに科せて鏡を作らしめ、』をグーグルでみながら、高千穂に天安河原があり、その上流みたら、祖母山があった。
で、金山の鉄は、都城にあるし、銅は、日之影町に、岩戸銅山あるし。祖母山調べたら、
錫がとれた。
古事記で、書いた鏡をつくる材料は、調べてみたら、揃っていた。敢えて、堅い石と書くのは、錫が、戦略物資だから。 >>182
九州説でも畿内説でも東遷説でもない。
物流していた物資、鉄や銅鐸、神獣鏡を
中国とのつながり、半島のつながり、
古事記、魏志倭人伝と見て行くうちに、
錫に、興味を持っただけ。
なぜなら、錫は、青銅、大仏として、
必ず含まれている代物なのに、
あまりに記述がない。八咫鏡が、
国産なら、錫はどこ産?とおもうだけ。 >>172
ヤマト王権以前に日向が、なにもないとか。
正倉院という中に入れない場所があるが、
日本で唯一中に入れる西の正倉院がある。
正倉院と同じレベルの遺品がある。
なぜ、そこに王族がにげてきたか。
その地域が、それほど、人を惹きつける力があったから。 >>186
鏡を作ったイシコリドメを祀る有力な神社が九州に無いってのが悲しいね。
せめて、九州に古来からある神社で、イシコリドメが祀られてたら拝聴する価値はあるんだけど。 ttp://nihonsinwa.com/page/1021.html
>石凝姥神(イシコリドメ)を祖先とする大和朝廷の部署。
>銅に錫(スズ)・鉛・亜鉛を加えて強くして、鏡だけでなく他の道具を作る技術者集団のこと。
>弥生時代には技術者はいた。それを古墳時代に大和朝廷がまとめて部署を作った。
>「カガミ(覚美・香美・各務)」という地名は鏡作部にちなんでいる(彼らが住んでいたと思われる)。
>大和・伊豆に鏡作郷という集落があった。また摂津・美濃・美作・安芸に
>カガミ(覚美・香美・各務)が地名として残っています。
イシコリドメを祖とする鏡を作っていた集団は、九州にはいませんでした。
記紀神話を引き合いにだすなら、こうした伝承にも知見を広げて考察してください。 イシコリドメを祖とする鏡作部は、近畿を中心に活動していたのだから、
もっと古代には銅鐸を作っていた集団の流れと見るべきです。
天の岩戸神話では、そのものずばり、「オモイカネ」という銅鐸を意味する知恵の神様がいることをお忘れなく。 時代が流れば、集団が生まれるだろうが、
八咫鏡は、国産なんだし、錫は、輸入していたら、国産と言うかな?
集団は、統一王権できたら、まとめれるが、
初期の技術者が、国産八咫鏡として、作れる場所が他にあるかどうかを考察しているだけ。 国産八咫鏡の銅、錫、なまりなどは、
輸入品でなければ、畿内あたりなら、
つくれますか?古事記にかいてあれば、
より、把握しやすいと言うスタンス。 実際、どこで作られても、個人的には、いい。
ただ、どの産地のどの原料で、
国内初の技術がうまれたのか、
その場所をしりたいだけ。
奈良でも、四国でも、畿内でも、九州でも
どこでもいい。 国内初の技術?が何を意味するのかわかりませんが、
銅製品を作る技術というのなら、
大陸から北部九州に初めに伝来したと見るべきでしょう。
それだけで、邪馬台国の位置など論じられませんが。 問題を整理すれば、
1世紀の倭国では、中国から金印をもらったのは九州です。
その後、倭国大乱を経て、卑弥呼が共立され、
中国から金印をもらったのは、九州か、畿内か、どっちだ?ということです。
九州説の立場では、1世紀から3世紀まで、九州が中国との外交窓口だったとされ、
畿内説の立場では、2世紀頃に、中国との外交窓口が畿内のヤマト王権が担うようになったということです。
では、考古学的に、九州の1世紀から3世紀の様子はというと、めぼしい遺跡は廃棄され、
王権が綿々と続いた様子はなく、北部九州は衰退していったと見るべきです。
一方、畿内では、大規模な遺跡が次々と作られてヤマト王権が着々と力を付けていった様子が伺えます。
このように、総合的に見ることで、3世紀に力を付けていった畿内のヤマト王権が邪馬台国であると、
疑う余地は全く無くなってしまったというわけです。 >>184
無錫市から錫を輸入してた可能性を考えるのは面白いと思います。
もともと、あのあたりは古代から倭人の往来があったようです。 畿内のヤマト王権と邪馬台国とは別物で
邪馬台国は出雲族の国だったが、卑弥呼の亡き後
九州から来た天孫族が、出雲族と戦い、国譲りを受けて
邪馬台国を乗っ取った。
天孫族と卑弥呼は繋がりがないので。記紀は卑弥呼の存在を隠した。 311から急に人口減少、減少幅は毎年30万人! (データあり)
【気の弱い方、注意″】 2010年 3万人増加△ <累計死者200万人!> 2011年 26万人減少 ▼▼
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1528680727/l50 >>197
商の青銅器の錫同位体分析した結果、雲南省の錫鉱石と類似した変動が見られる。
青銅技術は、その後半島経由で、技術集団が
いただろう。
そのような学べる技術のなかで、その当時には
銅鏡の祖と呼ぶ存在はおらず、
その後イシコリドメが、祖になる。
青銅の技術は、鋳造は、3000年も前よりあり、
卑弥呼より1000年も前に技術ある。
にも関わらず、イシコリドメを祖としているのは、雲南省の錫ではなく、国内の錫で、
初めて作ったんやないかと思い、
初めての技術といったわけ。
古事記のイシコリドメの記載を
グーグルでみてみたら、よりわかりやすい。 >>198
魏志倭人伝の倭人の紋身や鉄器の出土数、
二回魏より邪馬台国を訪れた張政が、卑弥呼の死後、臺与をたて、乱を治めたり。
まだまだ、議論は深くなるかと思います。 >>164
> 女王国の東の海は伊勢あたりからの太平洋で別の倭人は房総の住人かもしれないじゃないですか。
残念、畿内説は短里説を否定しているからそれは成り立たないんだな
畿内から長里で1000里東に進むと犬吠埼よりも東の太平洋ど真ん中w
九州説は短里説を採るから大分あたりから1000里東でも四国か山口の瀬戸内側に到着できる
つまり畿内説は成り立たないんだよ >>200
とすると当時の三輪はなんと呼ばれてたのだろう
狗奴国? >>205
短里とか長里とかいって、現代の地図帳で、定規で測ってあれこれやってるようだけども、
3世紀の測量技術が現代に匹敵するという前提で語ってるところが滑稽だね。
中国周辺の地理も正確に記録できない中国人が、どういう測量技師を連れて、
その里数を測ったと考えているのかね? アマテラスは卑弥呼 卑弥呼の墓は皇室宗廟である宇佐神宮の丘
ちなみに宇佐神宮の主祭神は比売大神
>>208
周髀算経と三国志は、短里で書かれている。
偶然の一致ではないよ。
その時代は、短里だよ。 宇佐神宮は、秦氏など渡来系の人々が祀った神社なので、卑弥呼とは関係ありません。
宇佐神宮の沖合いにある姫(ヒメ)島は、朝鮮半島から渡ってきた娘の伝承に由来するものです。
宇佐神宮の比売(ヒメ)大神も、この伝承に由来すると見るべきです。
もうすこし、日本書紀を読み込んでください。
ttps://www.travel.co.jp/guide/article/15805/
>垂仁天皇の時代、意思加羅国(当時、現在の朝鮮半島南部にあった国)の皇子である都怒我何羅斯等が
>牛を連れ歩いていたのですが、牛から目を離したすきに郡公に捕らえられて食われてしまいました。
>皇子が郡公に賠償を求めたところ白い石を渡されます。皇子がそれを持ち帰って寝室においたみると、
>石はたちまち美女へと姿を変えたそうです。皇子は美女に求婚しましたが断られ、
>立ち去った美女は現在の大阪を経由してここ姫島に移り住み、神となりました。
>彼女はなぜかお姫様とも呼ばれていて、「姫」島という名前はこの女性に由来していると言われています。 >>210
3世紀にどのような測量技術があったのか、先に論証してください。 >>211 皇室の祭祀である三種の神器(玉、鏡、剣)のルーツは朝鮮半島錦江流域
錦江流域出土品の年代は戦国初・中期(BC5−4世紀)と見られる古いものです。
そしてその3点セットは日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡からも
見つかっています。ここで発見された多紐細文鏡は朝鮮半島で作られたもので、この遺跡自体は
朝鮮半島から来た渡来人の王族のものであろうと考えられています。
つまり、皇室は天皇自ら語ってる通り半島からの渡来人
宇佐神宮が渡来系であることと全く矛盾しない どうせ、3世紀の測量技術についての考察など考えずに、短里がどうのとほざいてるのでしょう。
当然、三角測量などしてないわけで、徒歩なり馬なりで、日中にどれくらい移動できたかという、
大雑把な距離感でしかありません。「1000里」なんてのは、報告する場合において
「すごく遠い」程度の意味しかありません。
平坦な大陸で数日かかるのと、山道しかない倭国で数日かかるのとでは、距離感も大きく異なります。
距離感をどう捉えるか、報告者の感性でしかなく、全くあてにはなりません。 >>212
周髀算经》是这样表述“千里一寸”
千里を一寸としている。
夏至南万六千里,
冬至南十三万五千里,
日中立竿测影,此一者,天道之数。
周髀长八尺,夏至之日晷一尺六寸。
髀者,股也。正晷者,句也。
正南千里.句一尺五寸,
正北千里.句一尺七寸。” 1、日晷“尺有六寸 ”的地方;
在此线上,“夏至之日晷尺有六寸”的地点是:
――如果满足“尺有六寸”这一条件,那么,其时其地的夏至太阳高度角的正切值为8/1.6;这个角度为78.69006°。
“由太阳高度=90±23.43816-地理纬度”的公式得出此地的维度为:
90°+ 23.43816°-78.69006°≈34.74810°;(其中的23.43816°为1976年国际天文学会公布的2000年的北回归线的维度。)
东经113.15°线上北纬34.74810°的点在巩义市 竹林镇佛山沟附近 >>213
>皇室は天皇自ら語ってる通り半島からの渡来人
騎馬民族説でも唱えているのでしょうか?
朝鮮半島を南下した騎馬民族が、そのまま倭国の王となったと?
全くありえない話しですね。
倭国には、馬がいませんでしたから。 2、北“一寸”的地方,即“尺有七寸”的地方;
―― 如果满足“尺有七寸”,那么,其时其地的夏至太阳高度角为78.00309°,该地为北纬35.43507°
该地点在泽州县柳树口镇张角村附近
以地球极径12713.510km(7),每一维度平均距离为111.2km来计算,此地与“尺有六寸”的巩义市竹林镇佛山沟相距为:
(35.43507°-34.74810°)×111.2km/°≈76.391km 以上的数据,笔者经过了反复的测算,
其结果都在78km不足与大于76km之间。
综合以上数据得:
影差一寸约合实际距离为77km左右。是154市里。
若,千里一寸,那么一里约为77米。
这个77米如果要勉强按照古人“
步天”的习惯去丈量的话,大约为60步。
この様に書いているよ。 >>215
尺度の定義を示したところで無意味です。
その尺度で、たとえば当時の西安と長安の距離を、
正確な里数で表記した3世紀の史料があるなら提示してください。 >女王国の東に海があって千里渡海するとまた倭人の住む別の土地がある
宇佐神宮の前は周防灘でそこから東に瀬戸内海をたどればヤマトに至る
これは魏志倭人伝の記述と一致する
247年 ごろ亡くなっているから、生前食べていたか、前からタネを
保存していたものだったと思えば、合っているんだろ?
80歳ごろまで生きていた。 >>220
尺度の定義ではないです。良く読んでください。一里が何メートルかを導くための式です。 >>223
>一里が何メートルかを導くための式
それが尺度の定義だと言ってる。
実際に、中国大陸の中で、A地点とB地点の里数を記録した資料を提示してください。
現在の地図上で、その里数が正確かどうか、すぐにわかります。 >>221
「陸行1月」という記述を無視して、九州の中に邪馬台国を求める根拠は何ですか? >>213
陛下が言及されたのは桓武天皇の生母の高階新笠の話で、それ以前の話じゃないだろう。 >>224
泰山学院学报》2011年第二期
の中に、書いてあるよ。
かなり、納得できるし、学報として、
掲載しているから、デタラメとは、
思えないし、読めば、理解できる。 >>227
尺度の定義を示しただけでは無意味だと言ってるわけ。
実際に、中国大陸で運用した結果、A地点とB地点の距離を正確に導けているのか問うている。 神武東遷伝承と祭祀が違うだろう。この矛盾に応えよ。
旧唐書に天皇は天氏で奴国から発展して奈良盆地に移動したと書いてある。
魏志倭人伝ばかり重視するのはいかがなモノか。
日田に財津町がある。ここの財津氏は神武天皇直系の系図を持っている。
なぜか。神武天皇の本拠地がこの近辺にあったことを物語る。 >>228
そうやって数箇所の場所から、
計算されている。
短里でも長里でもいいが、その時代の
距離に
切り込んだ視点なんだから、
把握して、理解したら、議論が更に深まるよ。 >>230
それ以前に、「陸行1月」の説明が欲しいね。 >>213
その時代だったら朝鮮半島に住んでいたのは
大陸から半島に移住した古代の中国人だよ。
彼らが大陸の文化と技術をもって日本に来た。 陸行1月は帯方郡からの総旅程だよ
もしヤマトだとしても対馬海峡を航ってきた連中が蛮族がうようよいる陸を行くわけないだろうが >>1
この桃の種は発芽しないもんかねえ(´・ω・`)オオガハス… >>233
その理屈は無理です。
>南至投馬國、水行二十曰。
>南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
全行程が「水行十日、陸行一月」なら、前段の「水行二十曰」と辻褄が合いません。
「南」と方角を指してるのが奇妙ですが、
古地図にある倭国が南北に長く描かれてるものがあることはご存知でしょう。
↓に掲載されてますが。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3
この古地図では、南に行くということは、近畿に行くという意味になります。
当時の中国人の日本列島の認識はこの程度なんですよ。 一つは水行と陸行の中身だろうかな。
水行には対象の行程の全水行が含まれるのか。
水行には気象待ちの日数も含まれるのか。
陸行には川を利用した移動も含まれるのか。
個人的に仮に宇佐→近畿だとすると、豊予海峡わたって四国を通って紀伊水道をへて倭かなと思ったり。
海を2回わたる分を合わせて10日とする。四国の瀬戸内側の河川をたどって1か月。大和へも川伝い。
当時舗装された道はなかったんじゃね。あと馬車や荷車はあったんだろうか。 南の投馬国に行くのは水行20日と参考までにかいてるにすぎない いずれにしても、我田引水で解釈してる結果、
何十年かけても、九州説の中でも場所が統一できないという現状を見れば、
魏志倭人伝の行程を重視しても何かが決まるわけではないと、結論が出ています。
では、何を決め手にすればいいかと考えれば、
考古学的に、九州に強大な王権は存在せず、畿内にヤマト王権が生まれている、その事実だけを直視すべきです。 ヒミコの話と古墳時代とは年代がずれるよね
東征の伝説も正史に書かれてるしな >>239
いずれはヤマト王権にいくのは、わかっている。しかし、同時期に鉄器の出土、北九州発祥の横穴墓の全国展開。福岡の国内最大の銅鏡。
銅鐸文化圏の銅剣が、鉄器、鉄剣などさかんに出ている地域を力でおさえれるか?
など、過渡期を感じるだけ。 3世紀の距離認識なんて当時でさえ検証不能な数字だろ
誰もがおかしいなぁと思いつつ個々人の判断で生きてたレベルでしょ
方角もそう
太陽の運行をカレンダーという形で確定できるだけで王朝の長になれる時代よ
それよりも国名や内容
投馬国はどこなんだと
さらに言えば
出雲の国譲りと神武東征が何の歴史的事実に対応するのか考古学的解釈が知りたいので教えろください >>241
>力でおさえれるか?
まず、武力で制圧するという発想を捨てたらどうですか?
東遷説にしても、九州勢力が畿内を武力制圧したような痕跡は一つも発見されていません。
九州の銅剣や鏃が畿内で大量に見つかったなどという話しは聞きません。
逆もまたしかりで、
ヤマト王権が九州を制圧できたのは、武力によるものではありません。
近畿中心の経済圏に、九州が参画しただけのことです。 >>242
>出雲の国譲りと神武東征が何の歴史的事実に対応するのか考古学的解釈が知りたいので教えろください
神武東征の考古学的証拠はありません。
神話でも、神武の率いる少数部族が、先住民の抵抗にあいつつ、
なんとか奈良盆地の橿原に住み着いたというだけのことです。
けして、神武の軍隊が、近畿のクニグニを制圧したなどという勇ましい話しではありません。
出雲の国譲りは、記紀神話と、出雲風土記の内容が異なっているために、
後世の創作であることは明白です。
出雲のご当地の伝説では、「国ゆずり」という大事件を、記録していません。 記紀神話で有名な、スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説にしても、
出雲風土記には登場しません。
ほかの地域の人が、スサノオの伝聞をふくらませてヤマタノオロチ伝説が創作されたことは明白です。
国譲り神話は、ヤマト王権に出雲が服属することを強調して、記紀の編纂時に創作されたと考えるべきです。
逆に言えば、記紀の編纂時においても、出雲がヤマト王権に完全に服従してなかったという傍証にもなるでしょう。 最も重要な点があります。
卑弥呼=アマテラスと考える方が多いと思われますが、
アマテラスもまた、後世の創作にすぎません。
卑弥呼=アマテラスとして考察する余地が無い以上、東遷説は成立しません。
ヤマト王権でアマテラスを初めて祭ったのは崇神天皇ですが、
崇神天皇は、アマテラスの神威が強すぎるというので、大和国から追放してしまいます。
そして、各地を転々として、今の伊勢に落ち着き、伊勢神宮が作られたのは7世紀の事です。 そのようなわけで、出雲風土記には天照大神は登場しません。
かわりに、出雲国造神賀詞には、高天の神王高御魂命が最高神として登場します。
出雲国造というのは、天津神の子孫の家系なので、天照大神のことは知っていないといけませんが、
神賀詞では触れていないわけです。
あくまでも、出雲国造の立場では、高天原の最高神は、高御魂命であり、アマテラスではないというのが立場なのです。
ここで、アマテラスを最高神とする7世紀のヤマト王権と対立してくるわけです。
ちなみに、アマテラスを皇祖神として祭ったのは、天武天皇ということになります。 記紀神話をよく読めばわかりますが、
高天原の最高神は、タカミムスビと、アマテラスの2柱となっています。
出雲国造が高御魂命として奉っていたように、もともとは、タカミムスビが倭国の最高神でした。
そこに、アマテラスをもぐりこませて、最高神を2柱体勢にしたのが、7世紀のことです。
壬申の乱で、天武天皇が天下を取ったときに、そのように神話を作り変えました。
もともとアマテラスは、八百万ある神の一人、伊勢の地方神でしかなかったのですが、
天武天皇はアマテラスの太陽信仰に傾倒したわけです。
そして、天武天皇以後、倭国の国号を、「日本」と改める流れになります。
日本からの遣唐使の井真成墓誌に「日本」という文字が初めて書き残されることになります。 では、アマテラスとスサノオの「誓約」とは何か?
アマテラスが後世の創作なので、この神話も基本的に後世の創作です。
出雲風土記に登場しない話しなので、異論は無いでしょう。
早い話、アマテラス=ヤマト王権と読み替えてください。
出雲がヤマト王権に服属したことを象徴的に述べていることになります。
誓約の結果、何が起きたかとというと、ヤマト王権は、宗像氏を取り込むことに成功しました。
宗像氏は、もともと出雲と同盟関係にあったわけですが、
出雲がヤマト王権に取り込まれたことで、宗像氏もヤマト王権のためにマツリゴトをするようになるのです。
宗像氏が祀る宗像三女神は、記紀神話では、アマテラスとスサノオの誓約で生まれたことになっています。
世界遺産にもなった沖ノ島は、宗像氏の聖地です。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6
>沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、4世紀後半頃と推測される。
>391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。
>また、宗像氏がヤマト王権の力を背景に朝鮮半島や中国(当時は北魏)との交易に乗り出したのも同時期であり、そうした遺物も確認されている
というわけで、誓約神話の成立時期も、古墳時代前期以後と考えられるでしょう。 誓約神話のキモは、アマテラスとスサノオの誓約で、宗像氏の宗像三女神が生まれてること。
宗像氏は九州の氏族なので、
邪馬台国九州説で、アマテラス=卑弥呼なら、
出雲を服属させた後で、宗像氏を従属させるなどという、まだるっこい手順は必要ないでしょう。 アマテラス=卑弥呼とすると神武はその5代後 天皇の平均在位が15年くらいだから
卑弥呼没年248年+15x4=308年で4世紀初頭の古墳時代の始まりと良く合致する
東征神話も当時の古奈良湖畔沿いでの戦いの記述が続いていて水位線以下での記述はない
記紀の書かれた8世紀には奈良湖は消滅していたから東征の話がでっち上げとは
考えられない 水位の記憶と、東征が史実かは、全くの別問題。
いまだに東遷説に騙されてる人が多いのは、哀れというかなんというか。 皇室の出自が九州で東遷してヤマトを収めた、なんて話を正史である記紀にわざわざ書くのは
それが事実である以上の動機がないだろ
大和が発祥なら大和発祥と書くはずで祖先は九州から来ましたなんて話を役人が創作して
書くはずがないわ
神武東征は史実と主張しつつ、その後の八代天皇は架空だと言ったり、
都合の良い解釈のオンパレードで、まともな思考をしてるなら、一笑に付す。
いまどき東遷説信じてるのは、昭和で頭が固まった爺さんだけだよ。 >>253
なぜ、最初に天孫降臨したニニギが初代天皇としてカウントされてないのか、
おまえの大好きな東遷説のセンセイは何か理由を語ってるかね? 神話には真実が含まれると言ったのはレヴェ・ストロースだ
しかし記紀には真実と同時に嘘も含まれる 嘘は年代詐称
中国の歴史に伍するため紀元前600年に神武を持ってこようとして
欠史8代をねつ造したり天皇の寿命を180歳とか有り得ない寿命にしてる
記紀には嘘と真が混じってるんだよ
先に書いたがアマテラス=卑弥呼として平均在位15年をかければ記紀の記述は
史実と合致する(欠史8代を除いて) 「記紀には真実と同時に嘘も含まれる」
これは事実だが、どれが史実で、どれが嘘か、どのように区別できるのかね?
詭弁に詭弁を重ねて、都合の良い解釈を並べてるだけで、話を聞くだけ時間の無駄。
それが東遷説。 アマテラス(卑弥呼)という女の始祖がいて、その5代後の神武が九州から大和に攻め入り
初代王朝を確立したという事実
繰り返すが皇室の出自が大和なら正史にわざわざ九州から来たなんて書く理由がない
もし理由があるなら教えてくれ >>258
最初に天孫降臨したニニギが初代天皇とされていないのは、なぜなのか説明しなよ。
東遷説を唱えるのなら、納得のいく説明をしてからだ。 またか それで陸行1月は納得したのかい(´・ω・`)
お前にちゃんと説明したって反論出来なくなると黙るから面白くないんだよw
ところで、東遷説のセンセイは、今も庄内式土器が九州発祥とか言ってるわけですかね?
神武東征に伴って、九州で作られた庄内式土器が畿内にもたらされたそうですが。
知らないうちに自説を引っ込めてたりしてたら、恥ずかしいですね。 ニギハヤヒの一族が有力氏族として残ったってことはヤマトの王族が外から来たのは事実だろうけど
その出自を大陸に近い西に求めたのは創作でも不思議じゃないね
なるほどです
彼が考古学的にどの遺跡の主にあたるのか興味津々です 日本人は主に沖縄経由の東南アジア系と中国韓国方面の勢力と北海道から南下した勢力の3種類の混血だとDNA解析で分かっている
畿内の大集落は北と大陸の終着点で共に交易で栄えたんじゃないかな
逆に沖縄経由組と大陸組は九州の真ん中で対立したんだよね
俺の予想では卑弥呼の死後に大陸組の勢力は衰退して畿内に集結して大和王権を作ったと思ってる 思うのは勝手だが、事実だと決め付けるのは間違ってる。
神武東征だって、「神武が九州から来た」という伝承を天皇家一族が伝えていて、
それに対して誰からも異論はでなかったために、記紀に記されただけ。
当時の役人は、天皇の言うことだし、否定する材料もないので、言われるままに書いただけ。
ここからわかることは、天皇一族は、「ヤマトに直接、天孫降臨してきた」とは言えない事情があった。
天皇一族は、ヤマトの住人から見たらヨソ者で、神武が来る前は、他の王(ニギハヤヒ)が統治していたことを、
ヤマトの先住人は皆知っていたということである。
そして、ニギハヤヒから平和的に権力の移譲を受けたという主張をしている。
実際に、神武が九州から来たかどうかは不明だが、当時の天皇家は、そう主張していたということだ。
そして神武は、「自分は、九州の女王の何代目の王である」とは、宣言していない。
あくまでもヤマトの初代王という立場だ。
これは、東遷説にとっては、奇妙な話しである。
九州を支配していた王の末裔であることを隠す必要などないし、
その後、わざわざ九州討伐にヤマト王権は軍を送っている。
神武が九州を支配していた王の末裔であるなら、ヤマトは九州勢力の一部になっただけであり、
九州のクニはヤマトに抵抗する理由が無い。
しかし、歴史上、九州は、幾度と無くヤマトと敵対していたことは事実である。 いや、タラミの桃缶詰工場が奈良県にあった歴史的な証拠じゃないのか? >九州を支配していた王の末裔であることを隠す
誰も隠してないぞ
記紀に神武は日向から来たアマテラスから5代目の王だと明確に書いてある。
>>266
なんで九州に天孫降臨したニニギが初代天皇じゃないのか、説明しろっての。 神武以降は大和にいたから後の大和朝廷は神武を最初の大和の王としただけで大した意味はない
>>268
魏に金印もらった卑弥呼女王の系譜を否定する理由は何よ?
日向に降臨したニニギを含む三代の存在をおろそかにする理由は何よ?
もともと九州にあった、ナ国と、ヤマトの関係が記紀に記されてない理由は何よ? そんな事はどうでも良い
問題はアマテラス=卑弥呼で、卑弥呼から5代目の神武が東征して大和を制圧し
大和で古墳時代が始まったということだ
卑弥呼没年 258年+15年x4 = 308年
都合が悪い話しは、どうでもいいで片付けるわけね。
これだから東遷説は相手されないんだよ。 だいたい、神武がヤマトを制圧って、
ヤマトの遺跡のどこから、九州の鏃やら銅剣やら銅矛が出てくるのかな?
九州の墓制である、カメ棺は、ヤマトで出てくるのかな?
ヤマトの考古学者は、九州との関係を調べるべく必死に発掘調査してるけど、
ヤマトには九州と関わりのある痕跡が全く無いんだよなあ。 学者にしても些末なことに拘って日本古代史のメインプロットを見誤っている奴らが大杉なんだよ
中国の史書にも記録が残る有名な女王、倭の卑弥呼と皇室の始祖たる女神アマテラスが
同一人物とすれば邪馬台国を含む古代史の謎は氷解する
>>264
だから、そこで、八咫鏡につながるんでしょ。
物的な裏付けや新たな視点が。
八咫鏡が、イシコリドメ「鏡作りの祖」によって、つくられたが、錫がとれないと
無理。古事記に書かれた内容は、ぴったり合う。そんな場所、高千穂以外の
日本の他にあるかな。
錫だよ。華北、華東、華南のほぼ、全土の中国になく、半島になく、日本でも極端に錫鉱山ないのに。雲南省から大仏の錫10トン輸入した? >祭し
祭祀くらい漢字で書いてくれんと一瞬戸惑ったわ。 >>275
卑弥呼とアマテラスは同一人物ではありません。
もともとアマテラスは男神なので。
ちゃんと民俗学も含めて調べてください。
浅知恵で何か主張しても、無知をさらすだけで格好悪いですよ。 天の岩戸伝説では、岩戸にとじこもったアマテラスをおびきだすために、
アメノウズメが裸踊りしてます。
それを覗き見しようとしたアマテラスは引きずり出されるわけですが、
この伝承は、太陽神を男とみたてて、女性の巫女に奉仕させるという古代の儀式の名残です。
伊勢神宮のアマテラスも、けして女性として祭ってるわけではありません。
伊勢神宮に参拝したことが無いなら、一度は行ってみてはいかがですか?
アマテラスを女性に見立ててるようなグッズは一個もありませんから。 >アマテラスは男神
ほほう、雑誌のムーにでも書いてあったのかねw
猿女君という、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族がいます。
アメノウスメはその始祖とされております。
ニニギが天孫降臨した折に、サルタヒコと出会い、
アメノウスメはサルタヒコと共に伊勢に降臨したことになっています。
つまり、アメノウズメは伊勢を拠点としていた祭祀氏族で、
伊勢で祭られていたアマテラスに仕える巫女ということになります。
ということは、アメノウズメが活躍する天の岩戸伝説は、実は伊勢の民話だったという話しになります。 岩戸は季節のお祭りのうち冬至のお祭りだろう。
太陽が死んで再生する物語。
岩戸自体は真床追衾の原型かもしれんと思ってる。
前年の太陽役の女性と今年の太陽役の女性が同じ岩戸にはいって出てくるよな感じ。
アメノウズメは太陽を生む役目かな。 なぜ、アマテラスが女性になったかというと、
記紀が書かれた時代背景を知らなくてはいけません。
壬申の乱で、天武天皇が天下を取ったことで、自分が天皇を名乗り、
倭(やまと)国を「日本」として国号を改めました。
これは、天武天皇が伊勢のアマテラス信仰に傾倒したことによります。
壬申の乱でも、勝利を祈願して、アマテラスを拝んでいるわけです。
そして、伊勢神宮を新しく建立しています。
天武天皇の次に時統天皇が女帝として登場するわけですが、
ここで、アマテラスを女神に見立て、時統天皇はアマテラスの威光で天下を統治することになります。
その流れで、記紀が編纂されていきます。
よって、記紀には、わざわざスサノオがアマテラスを「姉」と呼んだり、女神としてのキャラ付けをしてるわけです。 伊勢なんてアマテラスの祟りを収めるために垂仁天皇25年に建立された新しい御宮だよ。
皇室の本廟は宇佐で皇室は明治天皇まで伊勢には参拝していない。
以下、Wiki
崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を
皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後各地を移動し垂仁天皇25年に
現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。 天の岩戸伝説は西暦247年3月24日に北部九州で観測された皆既日食と
卑弥呼がその年に没した事を合わせて創られた神話
これもアマテラス=卑弥呼の重要な証拠の一つだな
天照大神は男神として古代から伊勢で崇められていましたが、
女神として天照を呼び直したケースがあります。
「天照日女尊」
万葉集の長歌で、柿本人麻呂が謳ったものですが、
もともと天照大神が女神なら、わざわざ「天照日女尊」(アマテラス+ヒメ)と呼びなおす必要はありません。
『天地の初の時ゆ久方の、天の河原に八百万、千万神の神集ひ、集ひ居まして神分り、
分りし時に天照日女尊、天をば知しめしぬと葦原の、瑞穂の国を天地の、依相の極み知しめす、
神の命と天雲の、八重掻別けて神下り坐し奉りし』
柿本人麻呂は、時統天皇を意識して、アマテラスを女神として称えたわけです。 >>1
昔若い遺跡研究者の講演を聞く機会があったけれど、
時間を忘れて話され、止めが入った時にも
まだ話したいことがあったのにと残念そうだった
そういう研究の情熱が奈良にはあるのだなと思ったわ >>286
>皇室の本廟は宇佐で皇室は明治天皇まで伊勢には参拝していない。
ウソをついても、すぐバレますよ?
あなたより、知識の豊富な人はいっぱいると思いますし。
時統天皇は、なんども伊勢参りをしてます。
伊勢神宮の建立事業をした人ですからね。
ただし、アマテラスを祭った天武・時統の系譜はこのあと途絶えてしまいます。
ttp://www.i-live.ne.jp/~jkimura/history/tenji-tenmu.html
>ところが、この「泉涌寺」の歴代天皇を祀る仏間「霊明殿」から、
>不思議なことに天武系の9人の天皇即ち、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌だけが除外されており、
>天智からいきなり光仁、桓武へと続いているそうである。
せっかく天武が、アマテラスを祭ったのに、後世の天皇は、伊勢神宮に参拝することを遠慮したようですね?
なぜかというと、もともと、アマテラスと天皇家は、縁もゆかりも無い間柄だからです。
天武天皇が、アマテラス信仰に傾倒して、勝手に皇祖神にアマテラスを置き、記紀神話を書かせたのです。
はい、アマテラス=卑弥呼説は、ここで完璧に論破されました。 宇佐については、>>211で書いたように、
渡来人によって奉られた聖地です。
卑弥呼とは何の関係もありません。
関係があるのは、秦氏とかですね。
八幡神社とかね。 皇室は渡来人の王でその始祖のアマテラス(卑弥呼)も渡来人
宇佐が皇室の宗廟であり卑弥呼の墓であることになんの矛盾もない
ちなみに歴代天皇皇后は必ず宇佐参りをしている (ただし雅子妃だけは例外)
宇佐は皇室にとって朝鮮人の言う本貫の地なのだよ
興味深いのは宇佐の神殿のある丘の前に皇族下車の立て看板がある
天皇であれ始祖卑弥呼の墓に参る場合には徒歩で行けってことだな
神殿の丘は古墳で頂上の神殿のある場所には巨大石棺が埋設されていることが
昭和改修の際に確認されている これが魏志倭人伝に記されている”棺ありて郭なし” 卑弥呼の棺だな
>>293
そういう方向性でいくわけね。
まあ、がんばれ。 皇室が渡来系じゃなくて縄文先住系であったら新嘗祭で稲作を祭ったり
皇后が蚕を育てたりするわけないだろ
三種の神器の系統からも皇室が朝鮮をルーツとする渡来系であることは明らかだよ
>>290
伊勢神宮は、日向の大御神社じゃないかな。 伊勢神宮を三重県に置いたのは、垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ)が、神武天皇が青春時代を過ごした日向の伊勢と同じような場所を探して、天照大神を鎮めたため。
高千穂峡から、五十鈴川をおりてきたら、日向市だし。
日向の伊勢ケ浜の真横に、大御神社がある。 日向市の伊勢ケ浜とすると古事記にある「神風の伊勢ノ海」という箇所は、矛盾がなくなる。
さらには、伊勢ヶ浜横の大御神社の宮司は、
下記のように言っている。
平成11年に国登録有形文化財指定される前に、文化庁から言われて、神社屋根裏を見たところ、『天照皇大神宮』と書かれた祈願札が出て来た。つまり、200年前までは大御神社ではなく、そう呼ばれていた。今、天照皇大神宮と呼ばれているのは伊勢神宮内宮だけです。 古事記を読むとやはり、
イシコリドメの記述も高千穂の祖母山に、
当てはまると思う。
ただ、記述のなかで、錫をおしていたが、
1つだけ、気になる点があり、
深掘りしていた。結果納得というか、
天孫降臨に、別の視点をつけれるかも
しれないと思った。
それは、錫が、何故この地域、祖母山、傾山系に、集中しているのか。そして、錫の放射性同位体の海外との変動の違いまで、つながる。 『天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津まらを求ぎて、イシコリドメノミコトに科せて鏡を作らしめ、』
この河上に行けば、グーグルでも祖母山に行くのがわかる。ここは、納得したんだが、
堅石を取りが、ずっと引っかかっていた。
なぜなら、錫石は、モース硬度で、6〜7。
10はダイアモンド。6-7は、石英だから、水晶などの硬度。堅石やはないなあと、考えていた。 納得した考察は、エメリー鉱ということ。
エメリー鉱がとれるのは、日本では、ここが日本唯一どころか、世界で、祖母山・傾山とギリシャ、トルコ、ニューヨークなど、数箇所でしか採れない、ダイヤモンドより硬いとも言われる。
ダイアモンドカッターもまけるほど。
モース硬度は9。個人的には、9-10かなと思う。
日本では、祖母・傾山系の「木浦鉱山」のみ。
つまり、古事記の堅石をワザワザ表記したのは、後世にこの石をつたえたかったかもね。
で、この石はスカルン鉱床だから、熱水が必要。 なるほど、中国や半島、九州北部、他広範囲な場所、東アジアどころか、アジアには、エメリー鉱は、ないね。そりゃ、魏もみにきたくなると思う。
更には、このエメリー鉱は、実は、隕石の
痕跡もあるのではないかといわれている。
下記は、最近の報告で、祖母山、傾山も同じ地層帯にあるかとおもう。
2013年9月日には、熊本大学、九州大学、海洋研究開発機構の研究グループが、
網代島と同じ地層がつながる
津久見市江ノ浦のチャートに含まれる
オスミウムの濃度を分析した結果、
約2億1500万年前に地球に衝突した
隕石の痕跡が発見され、この隕石の規模は
最大で直径約8km、重さ約5千億tに及ぶと
推定されるとの研究結果が、イギリスの
ネイチャー系オンライン科学誌
『ネイチャー コミュニケーションズ(英語版)』で発表された。
これは、大きさが推定された隕石の中では、
恐竜絶滅(K-Pg境界)の原因になったとされる
メキシコ・ユカタン半島のチクシュルーブ・クレーターの隕石に次ぐ規模 つまり天孫降臨とは、古代の人が、そんじょそこらで、みつからない堅石「エミリー鉱」を
なんとか把握しようとして、結果、
天から降ってきた、隕石や天からの贈り物などとして、祭祀を行ったことが、はじまりやないかな。 放射性同位体は、熱により、同位体の変動は、影響を、受けやすいと思われる。
隕石の熱水を受けた祖母山系の錫石は、
雲南省の錫石とも成形過程がかわるから、
変動差もうまれるのかもしれない。 エメリー鉱は、愛媛県でもとれるともあるが、
ここでは、硬度の高いコランダムやスピネルとして、捉えている。 まぁ伊都(糸島)と奴国は福岡だけど、
邪馬台国だけ水行で10日もかかってそのあと陸行で1日とすると、
瀬戸内海→今の堺あたりに上陸→大和だろうね・・・
西暦100年代後半の倭国大乱以後は大和に一大勢力があった訳だから・・・
普通に考えれば、伊都(イト)なんかはそのまま糸島に比定されてるのに
邪馬台(ヤマタイ?ヤマト?)を大和にしたくないっていうのは、かなり捻くれてると思う >>287
皆既日食なんてちょっとの間空が暗くなる程度だし、昔の人間たちが
そんな気にしたとは到底思えないな。夏場の夕立とかであっという間に
太陽が隠れて暗くなることは良くあることで、その程度の出来事だった
と思う 現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を
非常に恐れた wiki
アマテラスと卑弥呼は無関係なので、日食を考察しても無意味です。 桃の実について解説しましょう。
日本神話では、「黄泉の国」のエピソードで登場します。
死んだイザナミを取り戻すために、イザナギは死者の国に行くわけですが、
すでに死体となったイザナミに恐れおののいて、イザナギは逃げ出します。
怒ったイザナミは、化け物たちにイザナギを追いかけさせます。
イザナギが、黄泉比良坂の坂下まで着いたときに、そこにあった桃の木から桃の実を三つ取って投げつけてやると、
化け物たちはみな逃げて行きました。
このように、桃は神聖な果物で、穢れを追い払う効能があると思われていたわけですね。
中国の神仙思想とか、道教から来ています。
遺跡から大量の桃の種が見つかったということは、
第一に桃を食べれば健康で霊力もつくだろうという考えがあったことが伺えます。
桃太郎の話しも、元は桃を食べたじいさんばあさんが元気になって、子供を授かったという話しです。
卑弥呼の鬼道がどのようなものであるかはわかりませんが、鬼は「霊」を意味するので、
死者を弔うという意味で、黄泉の国の神話と通じるものがあります。
ざっくり言えば、生きてる間は桃を食べて健康に暮らし、死んだものには桃を供えて弔う、
そういった儀式が執り行われていたでしょう。 モモと名のつく巫女が、ヤマト王権に実在します。
ヤマトトトヒモモソヒメという名前で、
埋葬された箸墓古墳は、3世紀では最大級の前方後円墳です。
当時の大王の墳墓よりも大きな墓を、ひとりの巫女を弔うために作られました。
ということは、その巫女は、当時の大王よりも強大な権力を持っていたことを表します。
はやいはなしが、ヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼であり、
箸墓古墳が卑弥呼の墓であるわけです。
ちなみに、後を継いだトヨは、「トヨスキイリヒメ」という名前で、日本書紀に登場します。
崇神天皇の皇女で、天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮です。
はい。もう、答えが出てしまってますね。
もう、何十年も前から、答えは出ているのですが、九州説の人だけが無知無教養なために、
納得してくれないというのが現状ですね。 畿内説の人でも、
アマテラス=卑弥呼という認識で語る人もいるので、話しがややこしくなってしまいます。
アマテラスというのは、太陽神の名前ですが、
太陽神の依代としての鏡を祭器として祀ったのが、卑弥呼の後を継いだトヨです。
卑弥呼と呼ばれた、ヤマトトトヒモモソは、三輪山のオオモノヌシを祭った巫女ということになります。
オオモノヌシというのは、国津神であり、国譲りをさせられた神の代表格です。
出雲のオオクニヌシの分霊みたいなものをヤマトで祀ってるわけですね。
ようするに、国家の繁栄を祈願して、地鎮祭みたいなものを、卑弥呼は行なってたわけです。
霊を沈めるために、桃の実が供えられました。
そんなわけで、日食は関係ありません。 オオモノヌシを祀っていたモモソヒメ(卑弥呼)と、
アマテラスを祀ってたトヨスキイリヒメ(トヨ)は、
それぞれ、崇神天皇の時代(3世紀)に、平行して祭祀を行なっていました。
モモソヒメは、崇神天皇の伯母で、トヨは、崇神天皇の娘です。
ヤマト王権の主祭神はオオモノヌシで、モモソヒメが祀っていたわけですが、
モモソヒメは高齢だったので、先にモモソヒメが亡くなり、
崇神天皇の娘のトヨが、アマテラスを祀り、ヤマト王権の祭祀を引き継ぐことになります。
ところが、アマテラスの神威が強すぎるというので、ヤマトから追い出してしまいました。
というのは、巫女による祭祀で国家を運営するのではなく、
崇神天皇の実権で国家を運営することに方針転換したという意味です。
ここに、実質的なヤマト王権がスタートするわけです。 いやぁ
モモソヒメの祖先は九州の日向からきたのかもしれん
その祖先に卑弥呼=アマテラスがいたのかもしれん
古墳は短里だと考える
年代がずれてたらあり得る話しになる
物証だ
巻向遺跡の物証プリーズ
年代測定は誤差が大きいから複数例が必要だ
この業界捏造もあったしな
少しでは信用ならん >>316
>この業界捏造もあったしな
放射性炭素年代測定のことでしょうか?
無知な人は、すぐ科学的な証拠を捏造だと言うものです。
考古学者は放射性炭素だけを根拠に年代測定をしているわけではありません。
地層を細かく調べ、地層から出てくる土器の形状を調べます。
土器の形状は、地域や時代によって細かく区分されます。
土器の形状が時代によって変化する様子を詳しく編年することで、
放射性炭素を使わずとも、土器の作られた年代は絞り込むことができます。
土の成分から、土器の作られた場所もわかります。
ヤマトには、近畿を中心として、吉備や東海地方で作られた土器が出土します。
邪馬台国が存在した3世紀のヤマトでは、
近畿を中心とした広い範囲で、人や物の移動、交易が行なわれていたことがわかります。
もっと昔の銅鐸を作っていた頃でも、東海で作られた銅鐸が出雲に奉納されていた様子もわかっています。
弥生時代後期のクニは、分裂していたのではなく、より強化な結びつきをしていたことがわかっています。
ヤマトは交易の中心地として、邪馬台国の時代に繁栄していたことは、否定しようがありません。 ヤマトにある唐古・鍵遺跡は、弥生時代中期から隆盛を極めた環濠集落です。
規模としては、全国から見ても最大級です。
古墳時代前期にいたるまで、細かく発掘調査されています。
弥生時代から古墳時代まで、何か戦乱があって荒廃したような痕跡はありません。
つまり、弥生時代から古墳時代まで、神武東征や、邪馬台国東遷を思わせるような戦乱は起きていない、
ということがわかっています。
ヤマトという土地は、弥生時代から連続的に発展してきた土地なわけです。 唐古・鍵遺跡の場所は、奈良県磯城郡田原本町にあります。
そして、ヤマトトトヒモモソヒメの父は孝霊天皇で、居城であるその黒田廬戸宮は、
奈良県磯城郡田原本町黒田周辺とされています。
ということは、孝霊天皇は、唐古・鍵遺跡の王であり、
ヤマトトトヒモモソヒメは、そこで育った娘であることがわかります。
孝霊天皇は欠史八代とか言われて架空の天皇扱いされることもありますが、
遺跡としては、そこに現実として存在しています。 魏志倭人伝に卑弥呼の墓は徑百餘歩の無槨塚と書いてあるのに
わざわざ有槨の前方後円墳でおまけに馬具まで出てる箸墓を持ち出して
卑弥呼の墓などという主張をするのは余程の無知の輩だなw
文献に何が書いてあろうが、遺跡として物証が存在しなければ、
文献の内容は信憑性が認められません。
魏志倭人伝原理主義者は、魏志倭人伝一語一句を事実と考えているようですが、
それは古代史研究のアプローチとして、間違っています。
物証が存在して、はじめて、文献の内容が正しかったと認められるのです。 馬具はどうなるんだい 3世紀の日本に馬は居ないぞw
>>323
馬具は、捏造とは言わないのですね?
なぜでしょう?
誰かがわざとそこに埋めたのかも知れないのに? ttp://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-top.html
>平成22年、邪馬台国の中心地とも言われる奈良県纏向遺跡から、
>2,765個のモモの種(桃核)が出土したことが報じられましたが、
>実は岡山県でも約10,000個ものモモの種が弥生時代の遺跡から見つかっているのです。
岡山でも、弥生時代に桃を栽培してたわけですね。
奈良と、結びつきでもあったのでしょうか?
はい、あります。
ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)の弟として、彦五十狭芹彦命(キビツヒコ)がいます。
この人が、古代の吉備の王でした。
現在も、吉備津彦神社として、祀られています。
そして、岡山といえば、桃太郎ですね。桃太郎のモデルは、ずばり、キビツヒコと言われています。
魏志倭人伝に、卑弥呼の男弟が登場しますが、キビツヒコがその人です。
ヤマトの政治を補佐していたのが、吉備国だったことがわかります。
ということは、魏の使いも、大和に向かう途中で、吉備に立ち寄ったことでしょうね。
投馬国=吉備国というのは、かなり確率高いでしょう。
もう、とっくの昔にここまでわかってるのですから、悪あがきしないでくださいね。 俺も前方後円墳は無いと思うけどもし大和政権が卑弥呼の子孫でもとあった場所から移したなら最初の墓が見つからないのはつじつまが合う どうでもいいよ
今でも歴史コロコロ変わって信用できんわ また、前方後円墳に奉納された特殊器台・特殊壺は、吉備地方で発達した土器になります。
このことからも、吉備国は、祭祀の方面でも、ヤマト王権を補佐していたことがわかります。
このように、物証があって、文献の信憑性が担保されるのです。 たとえ、箸墓古墳が卑弥呼の墓でないにしろ、
ヤマトには、他にもホケノ山古墳が存在します。
箸墓古墳より古い古墳として、ホケノ山古墳という前方後円墳があるので、
年代が信じられないと言ったからってどうにもなるものではありません。
邪馬台国の時代に、ヤマトには、前方後円墳を作る王権が確かに存在していたのです。
そしてホケノ山古墳からは、画文帯神獣鏡が出ています。
実はこれこそが卑弥呼のもらった鏡で、ホケノ山古墳が卑弥呼の墓だと言っても別に問題ありません。 邪馬台国近畿説派は箸墓がダメならホケノ山か 適当でいい加減だな
なにが 別に問題ありませんだwww ぶっちゃけ、畿内説は、奈良盆地のどこかに卑弥呼の墓があればいいだけです。
九州説みたいに、佐賀だ福岡だ宇佐だ日向だと散漫な説ではありません。 >>308
これも古事記から、疑問点があり、掘り下げた箇所なんだよね。 >>332
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
ここのところで、よく1ヶ月と認識して、
かなりの距離になるとおもうけど、
本来は、水行二十日より短い日数と思う。 >>333
古事記の没年月日を全て見て欲しい。
その月で、15日をこえて、例えば、
6月18日など、記載されていない。
それは、偶然ではなく、中国の暦を利用
していたから。 >>334
春秋時代の「尚書」、西漢時代の「淮南子」で確立されたもの。2016年にユネスコの無形文化遺産になったものが、関係していると思う。
中国の古代農暦は、春夏秋冬の24節気をつくり、五日を一侯、三侯を一気として、節気を作り出した。一年72侯24節気として、黄河流域で、生まれた典型的な北方気候が、ベースです。
三侯とは、十五日なります。これが一気で、
一年を24に分けれます。この24節気を図に書いたものは、陰陽図にもなります。しらべたら、
そのように見えるのがでてくるよ。
で、節気から次の節気の前日までの間を1か月とする月の区切り方を節切り、節月という。
つまり魏志倭人伝の暦は、この24節気だとしたたら、1月とは、15日としてみてもいいと思う。 >>335
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 は、
水行十日陸行十五日とみてみると、また、違う箇所へ行くのかな? ここで邪馬台国論争してるのか、
やまたいと読むのは不自然で、やまとと読むのが自然で大和で畿内説が有力だろうけど
今のソウルから対馬壱岐を経由して糸島や博多あたりは誰も疑問視してないし正解なんだろうけど
畿内説だと出雲や吉備が出てこないのが不思議だ。投馬国を出雲と言ってる人はいるにはいるけど
それに倭人の風習が出てくるけどあれっていかにも海の民で九州、朝鮮半島のことだろうし、なかなか辻褄があわないね >>336
私の素人意見だけど、例えば陸行1ヶ月って途中の集落や開けた土地で数日過ごすとかも含めてる可能性もあるのではと
考えている。 卑弥呼がどうのこうのと言う前に、桃の種が沢山見つかったんなら、
そこの土地が桃の産地だったってだけだろ。中国から桃の種を持ってきて
ここで栽培を始めた。卑弥呼は桃が大好きだったんだろうな >>340
>桃の種が沢山見つかったんなら、
>そこの土地が桃の産地だったってだけだろ。
桃の産地に桃の種が残るのか?
桃は消費地に運ばれて、そこで食べられ、種はそこに残ると考えるのが普通だろう。 >>338
水行とかは、やみくもに行くわけでなく、
特に、古来の要所を経由していくと思われる。
交易盛んなところ、必然的に、
波が穏やかとかね。 倭国の大乱は、
公孫度が189年に、遼東太守になり、
203年に帯方郡を初めてつくる。
それまでは、韓や倭の抵抗があり、半島も荒れていたと思う。
この時期は、公孫度の軍も半島南部にきており、また、半島南部には、倭があったような記述もある。スサノオが、荒れて書かれている背景は、後漢滅亡からの帯方郡が置かれる間の政治的混乱で、個人的には、先進的な技術集団を
つれてきて、北九州まで、攻めていたかと思う。 当時の先端技術は中国の戦国時代に始まった鉄の鋳造技術だな
石器しか持たない縄文人や青銅器武装の弥生系などは鉄で武装した
連中には歯が立たんだったろう >>309
そうなんだよね、鏡作れと命令されて作る時間があったようだし。鬼海カルデラ噴火災害の記憶だろ。 ほとんど、すべての科学において誤差(error bar)は、必ず存在する。
一般的に多い正規分布など統計学では、「誤差を減らすには、サンプル数(手間、経費)は二乗程度要る」とも言われる。
つまり、誤差を1/10にしようとすると、100倍程度の経費がかかる。
問題の卑弥呼云々だが、その推定精度±400年では、いけないのか?
そこまで、税金を注ぎ込む価値があるのか?
税金は打ち出の小槌ではない。
「正史」の歴史を検証するために、それほど税金を流し込む必要があるのか?
「正史」の正当性を訴える必要など、既にないのではないか? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに?
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
やはり科学的に疑問視されている方法での年代測定だったんだな
桃の種の年代を焦って出したのがまずかったな >>348
桃の種なのか、土に触れていない中味のかくなのか、どちらを分析したかわかるように書いてほしい。 >>305
天孫降臨も、まとはずれではないものかもね。
ヒ素を食べて増殖する生命体の発見に続いて、
今度は生命の基礎となるアミノ酸を、
存在しないはずの場所からNASAが発見した。
2008年にスーダン北部に落下した隕石は
かつて非常に高温だったが、
意外なことにその破片の内部から
タンパク質の前駆物質である
アミノ酸が発見されたという。
アミノ酸はこれまでも、
炭素を豊富に含むさまざまな隕石から
発見されているが、
いずれも比較的低温の環境で
形成されたものだった。
しかし今回初めて、自然の状態で
摂氏約1100度にまで温度が
上昇していた隕石からアミノ酸が発見された。 これまでは、小惑星でアミノ酸ができるには、
単純に比較的低温な環境と液体の水の存在が
必要だと考えられていた。
しかし、非常に高温の小惑星が冷える過程で
生じる気体の反応でもアミノ酸が
生成される可能性がでてきた」
と述べている。
さらにこの発見によって、
「生命の源が小惑星によって地球に飛来したとする説を裏付ける証拠が1つ増えた」
という。
古代の人々は、今ほど科学知識なくとも
古事記における
エメリー鉱の存在や天孫降臨の
隕石からのアミノ酸合成など、
簡単に一笑に付すことはできないなと
思う。 天孫降臨の背景が、中国古代の天道思想とちがうから、背景をいろいろ見ているわけ。
山東省にある泰山は、歴代の皇帝が
登っている。あれは、天道思想の天人相関説。
「封禅」するためだが、それに必要場が、
「祭天」と「祭地」だよね。
それが前方後円墳の源とおもう。
祭天とは、天を表し、丸い。敬天法祖。
北京に「天壇」があるから、見やすい。
祭地とは、「方丘祭地」で、土地。農産物の
豊穣を願い、冬至に行われる。
で、方丘とかいている通り、四方に台をつくり、祭事を行なった。この台は、その後、囲いになったり、東西南北に門をつけたりしながら、意味合いは、のこってきている。
天子、皇帝がその間に入り、統治を天からまかされ、天命を知るとなる。
だから、前方後円墳は、西周などのこの敬天法祖になる。 天壇をみたら、きちんと方形のなかに、円壇があるから、わかりやすい。
円墳は、呉の太白の墓をみたら、わかるが、
前方後円墳とは、ちがう思想だね。
神仙思想。神獣などの世界。鏡で、神獣鏡は、呉をベースにしており、
方格規矩鏡は、祭地祭天を表しているから、
ちがう思想だね。 で、天孫降臨は、どこの思想かな?と思うわけ。日本オリジナルかな?と。 >>355
四神は、四方の方角を司るから、
方格規矩四神鏡も頷ける。その鏡の中心は、
まさに天壇とおなじだよ。
さらには、四神は、
季節にも付随しているし、天人相関説だね。
仙人がでたら、呉の思想だと思う。 畿内厨大惨敗w
【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/ >>358
(ノ∀`)アチャー
686 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 11:58:47.58 ID:W+tyEJzC0
>>681
あまり知られてないけど、吉備の上東遺跡からは纏向をはるかに上回る1万個近い数の桃核が出土してる
この事実を知っていれば纏向の桃核を見て「卑弥呼の鬼道がー!」とかバカらしくて聞いてらんない
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-syutudoiseki.html
729 :名無しさん@1周年 :2018/06/23(土) 17:47:44.29 ID:nnSj0re70
>>686
これは本当、そこそこ弥生時代興味ある人でも案外知らんかもなあ
ちょっと検索してみたが、
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/toukaku-joutou.html
モモの種は勿論、ト骨まで出てる
占いに使うやつな
畿内派があんなに騒いでた纏向の桃の種やト骨とは一体何だったのか 纏向の桃核の時代がどうあれ、その他の状況から、
奈良が邪馬台国なのは揺るがない事実なのです。
桃核の存在は、卑弥呼の祭祀がその場所で行なわれた傍証にはなるというだけ。
この程度で九州説が立証されると喜んでるなら、せいぜい夢を楽しむことだね。 >>360
それが畿内教のお題目なのですねw
でも+じゃほとんどが九州説www >>361
神武東征とか卑弥呼はアマテラスだとか言ってるやつばっかりじゃん。
浅知恵の素人がいくら空想を語っても学問の分野には影響しない。 今どき畿内だと言ってる学者は橿原の一部だけだよ 大半は九州説に傾いている
>>362
京大閥が無理筋をゴリ押ししてるだけの畿内説なんて世間一般じゃ相手にされてないってことだよ
しがらみのない人間が見ればどう見たってウソの塊なのは一目瞭然だからなw 九州は朝鮮の鉄材バブルで一時期繁栄した一地方じゃないの、砂鉄たたらの普及でバブル崩壊。それに中国の王朝が地方都市を知ってて首都を知らないわけがないでしょ。 .
神功皇后の実施応仁天皇の父親は天皇ではない(女系天皇)。
また、物部神社には神武天皇が養子であられた記録あり。 >>365
こと、考古学については、世間一般の常識なんて関係ありませんので。 ところで、その世間一般の常識ってのは、
九州の地名が奈良の地名と一致してるから、
九州の邪馬台国が奈良に東遷したってやつかな?
で、アマテラスが卑弥呼で、神武東征が4世紀で、欠史八代は架空だから、
神武と崇神と同一人物ってやつかな?
九州から出土する鉄器のほうが、奈良より多いから、九州のほうが勝ってるってやつかな?
平原遺跡の鏡はとても大きいから、ヤタノカガミに間違いないってやつかな?
三種の神器が九州の墓で見つかったから、日本神話の起源は九州ってやつかな?
他にも何かあったら、言ってみ。 畿内と魏志倭人伝の記述は矛盾することばかり
1.邪馬台国の風俗は海人 奈良には海は無い どこで蛤を拾うんだよw
今倭水人好沈没捕魚蛤
2.邪馬台国までの行程に吉備も出雲も出てこない
3.倭国の絹や鉄は畿内からはほとんど出ない 蠶桑緝績
4.邪馬台国は伊那国や奴国の南と記されている
5.棺ありて槨なし 有棺無槨
魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば畿内は有り得んな .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 俺は邪馬台国は皇室宗廟のある宇佐だと思うよ 宇佐から日向に抜けるには佐伯経由の
海沿いのリアス式海岸を行くより九重、高千穂経由で延岡に抜けるほうがよっぽど楽
天孫降臨というのは稲作農耕民がアマテラス=卑弥呼の国 宇佐から高千穂を経由して
日向に抜けた話を書いてるのだと思う そして日向三代のあと神武は本貫の宇佐を経由して
畿内に攻め込んだのだな >>370
「魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば」
何十年も前から、お決まりのフレーズですなあ。
>>372
天皇は渡来人というわけですね。 >>371
九州の人は、原を「はる」と発音しますよね?
でも、高天原は「はら」と発音されてます。
おかしいとは思わないのですかな? 九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊) 原は ”はら” だね はるなんて聞いたことがない
皇室が渡来人である証拠は三種の神器 この系統は朝鮮の錦江流域出身
だいたい出発点が魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は何処?って議論で魏志倭人伝は間違い
っていう話なら最初から議論にならんでしょ >>366
砂鉄たたらは邪馬台国よりずっと後だろ
ああ、つまり邪馬台国は九州ってことか 魏の使者は末盧国に上陸後、伊都国まで【陸行】している
つまり使者が乗ってきた船は末盧国に停泊中なわけでこの時点でもう畿内は無い >>375
>九州出身だが(母親の実家が宇佐近郊)
卑弥呼に母ちゃんの面影見てるの?
そういうのは、「幻の邪馬台国」でおなかイッパイ。
魏志倭人伝ねえ。信用できないねえ。
厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
それとも、魏志倭人伝が事実だと言い張るなら、
>>377
水行10日、陸行1月を説明してもらおうか。 >>378
>厳密に言えば、いまのところ、邪馬台国も卑弥呼も存在しないのが、学問的立場。
>>364 >>378
卑弥呼は長崎出身で売り出したが実際は東京生まれだったからな 【古代】卑弥呼の時代ではない? 纒向遺跡(奈良県桜井市)のモモの種 真の年代はどこに? C14年代測定は「発展途上の技術」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1529329558/
https://mainichi.jp/articles/20180618/dde/014/040/002000c
JCal整備に努める坂本稔・歴博教授(文化財科学)に聞くと、「(精度が上がったものが)できていない」。
信頼度を高める検証が進まず、09年段階で止まっていた。とすると、国際標準と日本産樹木のズレはどうなっているのか、
との疑問もわくが、傍証も複数あり、ズレは明らかという。ならば、今回公表されたモモの年代が変わる可能性の方を問わねばならない。
というのも、近藤論文には「議論を深める材料に」とJCalのグラフも参考に掲載され、今回の炭素年代を当てはめると、
実年代で4世紀を考える必要が出てくる。卑弥呼の時代ではない。
ガッカリニュースだった模様だな 九州に邪馬台国が実在した証拠は何一つないんだから、
ガッカリも何もないけど。
悔しかったら、九州の中で邪馬台国の場所を特定してみなさい。
卑弥呼が渡来人とかいうのは、もう聞いたから、宇佐以外で。 もともと箸墓は4世紀のものだっていわれてたじゃん?あれは覆ったの? 馬具が出てきたことが決定的だな 歴史上馬が出てくるのは4世紀以降だし
魏志倭人伝にも馬は居ないと書いてある 其地無牛馬虎豹羊鵲 箸墓以前の古墳も奈良には継続して存在してるので、
そのような議論は無意味なんだよなあ。 一方、九州では、3世紀に隆盛した遺跡が無い。
これが全てなんだよ。 其死、有棺無槨、封土作冢
邪馬台国では死者の塚は作るが古墳は作っていない
むしろその時代の古墳がないことが邪馬台国の証拠
魏書』張遼傳
「成遂將其衆就蘭轉入灊山灊中有天柱山高峻二十餘里道險狭歩徑裁通蘭等壁其上遼欲進諸將曰兵少道險難用深入…略
このなかに、「天柱山」の高峻二十余里とかいている。
道のりが、二十余里ではない。高さが二十余里。
天柱山は、1488メートル。やはり、短里76〜77メートルで計算されている。
長里なら、チョモランマ山どころか
世界一高い山になる。 実際、短里、長里あるが、なぜ使い分けられたかの歴史的背景を探れば、みえてくる。
また、唐は、長里になるが、そのときに、
陸行は、ロバ、馬車、歩兵、水行も遡上、湖、などによって、分けられている。
唐の陸行の距離を把握すれば、
短里であろうが長里であろうが、
物体の動く距離をみるわけだから、時代間で、
差異はないと思う。
要は、その当時、現在に換算して、何キロ移動
するかが、重要。 《蜀志·诸葛亮传》
后的陈寿上表(泰始十年二月一日)∶“
伏惟陛下,迈纵古圣”。
“陛下”指西晋第一代君主武帝,
“古圣”指文章中出现的咎繇(舜的臣)、
周公等人。
这表明了西晋的天子不欲承汉制,
而要恢复周以前的制度、政治。
因而它同时也就宣明∶
对作为制度之一的里单位
不取秦汉新制的“长里”,
而复用周以前古制的“短里”。
ここに、西晋は、秦漢の新制度を使わず、
周以前の制度にもどすと言って、
短里を使っている。
武帝は、漢制を使わない。
舜的臣とは、舜帝の末裔や家臣などの
意味だろう。 晋书·元帝纪》∶“
优复之科,一依汉氏故事。
元帝是东晋的第一代君主,
这一节录自大兴三年(320年)的诏书,
可以认为这是恢复汉制的宣言。
汉继承秦的新制,
沿用“长里”,正如《史记》、
《汉书》所记述的那样。
东晋也复用“长里”
東晋の元帝は、320年に、
漢制を引き継ぐと言っている。
史記、漢書は、長里として、
書かれていく。 陳寿さんがかいたものは、短里でいいかと
思われる。 陳某とヤマトの姫様の謁見の記述がない事から、楽浪郡あたりで伝聞を収集しまとめたものが魏志倭人伝。正式な魏の使いだったら現地まで行って謁見はしますよ。その場合方角と距離に誤りはないはず。 >>393
張政さんが、行っている。軍事
司令官(塞曹掾史)として、驻倭二十年。
壱岐島も最低でも4回は見ている。記述は、短里で捉えている。
商人や役人でなく、軍事専門がきている。
その報告は、帯方郡長官や魏の天子もみるもの。具体的な記述にならなければ、報告として、
採用されないだろう。 >>389
胡三省さんが、書いた「资治通鉴卷胡注」は、
それだけで、歴史書といえる。
司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した 胡三省注资治通鉴
資治通鑑卷第二百五十九 35に、
下記のように書いている。
魏志倭人伝の1月は、
15日と個人的におもうが。
〔唐制:
陸行之程,
馬日七十里,
步及驢五十里,
車三十里。
水行之程,
舟之重者泝河日三十里,
江四十里,
餘水四十五里。
空舟泝河四十里,
江五十里,
餘水六十里、
沿流之舟則輕重同制,
河日一百五十里,
江一百里,
餘水七十里。 >>396
一番最初は
唐六典に、書かれたもので、度支郎の説明の
なかに、その陸行、水行が、書いてある。
つまりは、租庸を集める財務官について、
説明している。
中国,唐・宋代の中央の財務官庁の制度。漢,魏以来,度支尚書があり,その下に度支侍郎 (度支郎中) がおかれ,国家の財政を司っていた。唐代には戸部尚書といわれ,その下に度支郎中がおかれた。 >>383
>>381を見ると全く覆ってないな
むしろ補強された >>398
九州説唱えてる学者は、いまとなっては九州の女子大だけじゃん。 >>398
別に学者と言ったって、アマ研究者と大した差はないだろ。
強いて言えば、九州説を唱えれば研究費がもらえないとか、出世できないとか
そういうどうでもいいバイアスがかかってるわけで しかも、九州説を補強する新しい根拠は、ここ30年何も出てこず。
ただ、畿内説を批判するだけ。
九州の中で、卑弥呼の墓を見つけてた学者はいない。
見つけたと言ったら掘らないといけないしな。
掘っても何も無いのをわかってるから掘らない。
九州説の生き残りのためだけに、畿内説を批判して、九州説の面目を保つしかない。
ようするに、九州説利権にしがみついてるだけの職業九州説だな。 >>403
畿内説の自己紹介お疲れ様ですw
九州じゃこないだも伊都国から硯が出たりと着実に成果が出てるよん
赤村の巨大前方後円墳も地主の発掘許可待ちだしね
むしろ畿内説こそ魏志倭人伝の記述と全く関係ないものしか出ないよねw ttps://www.youtube.com/watch?v=skPVvq4zMpc
この動画を見て、何を思うかね? >>405
反論できません、とw
畿内説は本当にオワコンだな >>406 まるで畿内説と同じだなw 魏志倭人伝をちゃんと読めよ 魏志倭人伝原理主義者が科学の発展を阻害する。
考古学という科学は、物証を元に古代の状況を復元する。
物証で得られた知見では、3世紀の九州は衰退し、畿内が繁栄しヤマト王権として継続していく。
文献は、物証を傍証するものでしかなく、
文献だけで古代の状況を推察するのは科学ではなく「歴史小説」である。
したがって、3世紀の倭国の状況を記した記録に「邪馬台国」が登場しているならば
「やまと国」と読んでヤマト王権と同一と考えなくてはいけない。
否定する物証は、九州説側が用意しなければ、議論にもならない。 赤村に巨大前方後円墳があるというが、自然の丘陵を古墳だと誤認しているだけ。
>>406が、古代ギリシャの天文機械と、何の接点も無い日本の銅鏡を比較してるのと同じ。
知識の無さと、視野の狭さゆえに、「見たいものしか見えない」という自覚が無い。 歴史書なくして歴史は語れない 物証だけで人類の歴史を云々するなら明治さえ遠い彼方だなw
>>410
いや畿内は>>381にあるように4世紀のものを3世紀だと言い張ってるだけじゃん
単なる捏造の塊、それが畿内説 弥生時代には既に淡路島まで九州勢に制圧されていたのに畿内が繁栄とかw
もし畿内にも王権があったならそれは九州の分家だろうよ
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml
>エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
>ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
>弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
>愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
>「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
>今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 >>414
文化の伝播が征服の証拠になるなら、
明治時代の日本は欧米に占領されていたと、未来の人は考えることになる。
君は、頭が悪すぎる。 鉄の鏃
魏志倭人伝は、倭人は鉄の鏃を使うと記す。
鉄の鏃は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍の鏃が出土する。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈
倭人伝には、倭人は兵器に矛を持つと記す。
鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄戈などの鉄製武器は、畿内よりも、九州から圧倒的に多く出土する。
福岡県からは、奈良県の約100倍出土する。
絹
倭人伝には、倭人は養蚕を行い絹織物を作っていたと記す。
絹は、畿内よりも、九州からはるかに多く出土する。
奈良県に比べると、福岡県は圧倒的に出土地の数が多い。
時代ごとの分布を見ると、弥生時代に福岡地域で作られていた絹が、後の古墳時代になって、
近畿など他の地域に広がったように見える
以上のように、『魏志倭人伝』に記されているもので、ほぼ、邪馬台国時代の遺跡から出土するものに
かぎれば、奈良県には、ほとんどみるべきものがなく、福岡県と奈良県とのあいだには、圧倒的な差がある。
この状況は4世紀になると逆転する。 邪馬台国と大和がひらがな読みすると似てるとかとんでもない事じゃなく発掘事実が正解ですね 現代考えても田舎モンが都会に行く。
半島との交易も基本倭人が出向く形だと思う。
記紀で渡来人云々は小中華としての天武朝が
百済新羅を蛮夷とかけないから渡来人という言葉を作ったんじゃね。 >>416
当時の中国人は、倭国の風習といったら九州を眺めて言ってるのだから、なんの問題にもならない。 >>410
アイヌ人をエミシとも呼んでたけど
もともと、アイヌ人を指してたとは限らない。
大和朝廷が、朝廷に従わない東の方に居た倭人を
一括してエミシと読んでたに過ぎない訳だ。
アメリカ先住民をインディアンと呼んでたのも。
実際のインド人とは関係なく
白人がアメリカ大陸をインドと勘違いしたことから
インディアンと呼んでただけな訳だ。
(当のアメリカ先住民からしたら、べつに騙ってる訳でも無く。
白人が自分らをインディアンと呼ぶから
「我々はインディアンだ」と名乗ってるに過ぎない)
とかく、異人種の呼び名については無責任だ。
そう考えると、邪馬台の発音が
実際にヤマトと読むのは有りそうに思うが。
むしろ、近畿地方のヤマト名は
先のインディアンの例と同じく、大陸から
邪馬台由来で倭人をそう呼んだ結果の
外国語なんじゃないかと。
そうだとすれば、邪馬台とヤマトが同じ言葉由来でも
場所自体が無関係な事は普通に有りえる。
たとえばアイヌ人が「我々はエミシだ」と言ってたとしても
これも先のインディアンの例と同じく、
倭人が自分らをそう呼ぶから、そう答えてるに過ぎない。
別にエミシの語源が、最初からアイヌを指してた根拠には無らない。
同じ事、同じ事…… >>419 ほほう、やっと倭国が九州だと認めたね(´・ω・`)
>>421
九州は倭国だろ。
で、ヤマトは、倭国じゃないとでも? 3世紀前半の卑弥呼の時代の畿内は倭国じゃなくて銅鐸国だな
魏志倭人伝にも記紀にも全然出てこない銅鐸が近畿地方から多量に出土する
これは倭国とは違う文化形態を持つ連中=出雲族が近畿にいたという証拠だね
そして4世紀以降 銅鐸族は近畿エリアから一掃される
吉野ヶ里の銅鐸をどう説明するかはおいといて弥生時代から古墳時代にどう移行したのかは気になります
大王が現れて統治を一変させ遠征などを実施する軍政に変わったのでしょうか
武器に銅を使えば銅鐸は作りませんよね
そういえば箸墓古墳の時代、崇神天皇の四道将軍派遣があり、三韓征伐をへて応神天皇の頃には南朝鮮を押さえてますよね 四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する
王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を
示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域と
ほぼ重なっている。 wiki
神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね >>425
>神武と崇神が同一人物だとすると九州から東征して4世紀初頭に畿内の銅鐸(出雲)族を駆逐した後に
>四道将軍を派遣して吉備や出雲を攻撃したのが事実だろうね
古くさすぎる歴史小説です。
神武と崇神が同一人物(仮定)
九州から東征して(仮定)
4世紀初頭に(仮定)
畿内の銅鐸(出雲)族(仮定)
駆逐した(仮定)
全部、脳内妄想のオンパレード。
考古学的物証が無ければ、議論にものぼりません。 ちなみに、銅鐸は、他の勢力によって滅ぼされたのではありません。
自主的に、銅鐸祭祀を捨てたのです。
九州の銅矛文化はどうでしたか?
近畿の銅鐸が消えた後も、九州の銅矛文化は続いていましたか?
続いていませんね。近畿と同じように、自主的に銅矛文化を捨てたのです。
祭祀を捨てた理由は、王に権力を集中するためです。
シャーマンが神託で民を率いるのではなく、王が権力を持って民を統率する政治形態に以降したわけです。
その王権こそ、ヤマト王権であり、象徴となる王の墓が前方後円墳です。
当然、前方後円墳は、”九州発祥ではありません。”
まあ、40年前の九州説で頭が止まってる人には理解できない文章でしょうなあ。 朝鮮半島の錦江(白村江)発祥の祭祀である3種の神器は
日本で最も古い弥生遺跡・王墓である福岡市の吉武高木遺跡
を経て現在も皇室で守られている
自ら祭祀を捨てるなどということは有り得んよ (´・ω・`)
3種の神器がなんですって?
古墳時代に珍重されたのは、鎧兜ですが? 日本の皇室は三種の神器を祭祀しています。 剣と鏡と玉です。
これは王権の象徴でこの3点セットを持つものが王の権威を得る事になります。
八尺瓊の曲玉、八咫鏡・草薙剣ですね。 日本書記を、一度通して読んでみるといいです。
「三種の神器」なるものが、どれほど登場するのか?
神代にちょろっと出てくるだけで、後は皇室の祭祀などでは出てきません。
なぜかというと、「三種の神器」なるものは、天武天皇の創作だからです。
「三種の神器」といいつつ、鏡は伊勢、剣は尾張と、
なぜ、東国に分散してるのか、考えたことがありますか?
天武天皇が壬申の乱で、勝利して天下を手に入れたわけですが、
東国の兵力を借りてこその勝利でした。
その論功行賞として、東国の宝物(鏡、剣)を、皇室の三種tの神器に組み入れ、
神話に登場させたわけ。
古代の墓から、三種の神器が見つかるのは、古代から貴重品だっただけのことです。 だいたい、草薙剣なるものは、そもそも尾張氏一族の宝物であって、
皇室とは関係ありません。
天武が、三種の神器の一つとして、尾張氏一族の宝物の草薙剣を選んだのです。
尾張氏にとっては、ありがた迷惑だったことでしょう。
自分達の宝物を、皇室に奪われたようなものですからね。 >古代の墓から、三種の神器が見つかる
ちょっと違いますね 正しくは、
古代の王墓から、三種の神器が見つかる ですよ
大王以外の一般豪族の墓からは金輪際出ませんぜ
どうせ、尾張風土記も読んだことがないでしょうから、
ここで紹介しましょう。
熱田神宮の剣は、ヤマトタケルが忘れていった剣で、
それを取ろうとしたら光輝いて神懸ってたので、祀ることになったのです。
「三種の神器の一つだ」などということは、どこにも書かれていません。
単に、神剣の一つという認識でしかありませんでした。 とりあえず先に卑弥呼の墓を見つけさえすれば解決する事なので見つけましょうよ 尾張風土記には、以下のようにも書かれています。
ヤマトタケルがエミシ征伐の帰りに、剣をこの地に奉納した。
この剣は、ヤマタノオロチの尾から出たものである。
そこで、「尾張」という。
剣の出所と、地名説話となってますが、ここでも、「三種の神器の一つ」などとは紹介されていません。
そういう認識があれば、もっと誇らしい記述になったでしょう。
アマテラスに献上して、神武に持たせたとかね。
でも、そういう設定は、この当時の尾張にはなかったのです。 ちなみに、出雲風土記には、ヤマタノオロチなど出てきません。
これで、日本神話が、日本各地の風土記の伝聞を寄せ集めてこしらえたということが理解できるはずです。
よほどのバカでなければ。 考古学を否定して、文献だけで類推するのもいいですが、
7世紀までの文献なんて、数えるほどしかないのですから、
せめて、全て目を通してから、何か主張してください。
日本書紀、古事記、古語拾遺、風土記、万葉集、新選姓氏録、
このあたりは最低、目を通して、何が書かれてるか理解することです。
卑弥呼=アマテラスとか、九州説がいかにばかばかしいか、
文献を調べただけでもわかります。 >>438 魏志倭人伝もお忘れなく
魏志倭人伝を調べただけで畿内説がいかにばかばかしいか判りますw .>>439
風土記、万葉集、新選姓氏録から、神武東征の証拠を提示してください。
前方後円墳は、九州発祥ではないことも、お忘れなく。 集落外の王権に頼る理由はなんでしょう
警察力?
墳墓築造の農閑期公共事業?
正確な暦?
理由がなきゃ移行しないと思います >>441
農耕の効率化のためには、ムラごとに種まきや収穫をしていては、おいつきません。
計画的に人員を動員して、治水整備することで、田畑を広げることができます。
収穫が増えれば、民衆は満たされ、王への尊敬が生まれます。
バカはすぐに「武力で民衆を押さえつけた」などと、マンガみたいな話をはじめますが、そういうことはありません。 3世紀の九州が衰退したのは、収穫量を増やすための治水工事がはかどらなかったためです。
九州は、鉄器があるから有利だとか、バカはすぐに言い出しますが、
その鉄を使った農機具で、いくらでも田畑を広げることができたはずなのに、
九州には、広大な水田の遺跡というものが多くはありません。
九州の人は飢えていたので、作物の奪い合いをして争っていたのです。
発掘した人骨から、戦争の後がわかります。 >>443
それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
黄巾の乱が、なぜ倭国大乱にも関係あり、
帯方郡が、この時期にでき、公孫度がおさめたか。
さらに公孫一族から、魏が、帯方郡を
取り戻したのち(密かに山東省から黄海へ渡った)卑弥呼は、朝貢使の難升米を派遣した。 >>444
>それは、倭国大乱が、九州であったと言ってるよ。
そうですよ?
九州は、疲弊して大混乱、民は餓死寸前。
そこに、畿内のヤマトの卑弥呼が救いの手を差し伸べたのです。
もっと、感謝したらどうかと思いますね。
現実を見もしないで、邪馬台国が九州とか、根拠の無い妄想ばかり。 ヤマト王権も、公孫氏と関係を持っていたと思われます。
丹後半島の太田南古墳で、青龍三年銘(235年)の「方格規矩四神鏡」が出土しています。
卑弥呼の時代と同一のもので、
ヤマト王権と丹後が強い結びつきを持ってることは、説明しなくてもいいでしょう。
丹後から朝鮮半島に使者を出すことも容易なので、
ヤマトの卑弥呼は、まず公孫氏と交渉して魏へ朝貢する足がかりにしたでしょう。 大阪の安満宮山古墳からも、青龍三年の方格規矩四神鏡が出土しています。
ヤマトと丹後の結びつきを考えれば、不思議ではありません。
滋賀県甲賀市水口町に水口神社があり、
大水口宿禰という人物が祀られています。
卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
水口という名前は、「水源を管理する人」という意味です。
灌漑工事なども指揮していたでしょう。 >>445
倭国大乱は、魏志倭人伝に書かれているし、
邪馬台国までの距離までかいている。
帯方郡−邪馬台国の1万2千余里から帯方郡−不彌国の1万7百余里を引いた不彌国−邪馬台国は僅か1千3百余里しか残りません。
この魏志倭人伝のときは、周の制度を再度使うとして、短里で書いています。
すると、奈良までいかなくなります。
短里も約77メートルと計算されています。
魏書にも山の高さを表現したものもあり、
短里計算で、現在の山の高さにぴったり合います。調べていき、短里と納得し、
高低にも短里がある。
また、周に戻すといっている。
どの説が、という思いでなく、中国の文献や
古事記などをみながら、長里では、
無理があるのではないかと思うわけです。 大水口宿禰は、新撰姓氏録では、神饒速日命の六世孫とも伝えます。
つまり、神武と同時代のニギハヤヒよりも、数代後の人物が、
箸墓古墳を築造していた頃のヤマト王権に助言を与えていたことになります。
これによって、神武=崇神は、成立しないわけです。
神武=崇神とか言ってる九州のセンセイは、魏志倭人伝と、日本神話以外、何も文献を読んでいないので、
こういう恥ずかしいミスを平気でするわけです。 >>448
魏志倭人伝の内容が、一言一句正しいという前提に立つのはやめたほうがいいね。
他人と、話が合わないから。
だからこそ、九州説の中でも、統一した邪馬台国の場所を決められないわけでしょ。 >>447
>大水口宿禰という人物が祀られています。
>卑弥呼と同時代に生きた人で、ヤマト王権に神託などしていました。
日本の史書には卑弥呼なんて一切出てこないのによくこんな妄想を断言できるな
やっぱり畿内論者がウソツ畿内だのゴッドハンダー畿内だのと呼ばれているのは伊達じゃないな >>447
青龍三年の方格規矩四神鏡
235年の四神鏡は、やはり魏からきていたか、
帯方郡が、238年に、魏側になるため、
公孫一族からのか、以前に作ったのをもらったのか、 >>452
大水口宿禰はニギハヤヒの末裔で、崇神に助言していた人です。
これによって、神武=崇神という構図は成立しないことになります。
つまり、ヤマト王権の始まりは、邪馬台国が魏志倭人伝に登場するよりも過去に遡ります。
理解できますか? >>453
魏からの鏡と思います。一方で、神獣鏡が一面あるため、呉からの影響を受けた箇所も見受けられます。 >>450
そうかもしれませんが、非常に重要な視点もくれるため、古事記との関連性も伺えます。
魏志倭人伝 宋版の語注に、
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但記 春耕秋収 為年紀」
とかいてます。これは、一年二歳として、当時の日本は、数えていたということ。
わざわざ、注意書きしてます。
これは、やはり、周時代のものを使用していたとおもわれます。古事記と日本書記の違いも
これによるかと思います。 >>256
ごめんなさい。
貴方の引用した漢文のどこが、「一年二歳として、当時の日本は、数えていた」に該当するのでしょう? >>457
魏志倭人伝の宋版の語注は、魏も周の制度を、利用していたが、さらに四節を、しらないとかいている。 >>256
この内容は、かいてないからわからないが、
一年二歳説は、説明する。 >>459
魏略には、倭人は、太白の子孫とかいていたわけだから、文化は、周につながる。
さらに言えば、魏も周につながる。
周公の家臣なになには、上で書いている。
宋版の春秋という下りで一年を把握しているのは、かなり古い周の文化になる。 >>458
「春夏秋冬」の4季節を知らなくて、
種まきと収穫の2季節の概念しかないとしか読めないのですが。
それがどうして、1年を2年と数えるという解釈になるのか、わかりません。
学術論文があるなら、提示してください。
貴方個人の妄想でないなら、お願いします。 >>461
周岁,
是国际通用的年龄计算方式。
它计算的是出生后已经度过的时间长度
(为基数,故也可以计算尾数,
如三岁零两个月,七岁半等)
在中国,为了与传统的计龄方式,
即计算出生后正在经历的年份次序
(为序数),
才有了周岁和虚岁这两种名称。
注:每到公历生日的当天便龄一岁。
这种计龄方式是公认的传统,无需法律规 >>461
そのようにかいていますね。ただ、そこに
さらに深読みして、魏の更に進んだ24季節
とかもしらず、かなり古いのを使ってた。
つまりは、わざわざ語注にしたのは、
特記すべきことで、かなり古い方法使ってるなあと思うわけ。 間違えないで欲しいのは、一年を二年とは、書いてない。一年を二歳としているだけ。
それは、周岁という数え方。古代の数え方。
3歳02カ月なら7歳半になるような。
つまりは、古事記の年齢もそうみたらいいんやないかと。
上にもかいたが、没年月が古事記だけ16日以降ないからね。 >>463
申し訳ないですが、わざわざ1年を2年と倭人が考えていたと
解釈しなければいけない意味がわかりません。 >>465
解釈やなく、春秋で一年を、とらえるのは、
当時からしたら、周の時代やないかと。
それで生活していたんやと。だから、語注に
したんだと思う。解釈やなく、ただ使っていただけ。日本書記からは、記載がかわるから、
文化的な移行は、起きてる。 >>464
2倍歴なる論があることは、承知してますよ。
しかしながら、「没年月が古事記だけ16日以降ない」ことから、
1月〜12月を、前半の180日
次の1月〜12月を、後半の180日の記録と考えることは否定します。
なぜなら、日付には季節も書かれておりますが、
「春9月10日」とか「秋3月7日」などといった記載は一切ありません。
あなたの論は破綻しています。 >>467
六十甲子表では、かかれている。
甲午9月9日。
この
六十甲子表は、陰陽五行説から来ていて、
周王朝に、発展完了したといわれている。 六十甲子表とやらは、60年周期で繰り返しになりますが、
それが倭国に導入されたら、30年でくり返すように運用されたとでも主張するのでしょうか?
それとも、中国でも30年で繰り返していたのを、そのまま倭国で運用されたとでも主張するのでしょうか?
そんな苦しい主張をして、何を得られるのかわかりません。 >>469
一年を二年と言ってない。一年二歳として、
とらえるとだけ、話して、
それは魏志倭人伝の宋版の語注から、
読んでいるだけの話。
で、周につながる話をしているだけ。
あなたは、短里を否定しているんですか? >>470
>一年を二年と言ってない。一年二歳として
事例を示してください。
貴方の妄想にはつきあえません。 >>470
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3
>>235のように、
古地図にある倭国が南北に長く描かれてるものがあることは、ご存知ですよね?
中国人は日本列島の形も、方位も正確に把握してなかったのです。
里数が長里だろうが短里だろうが、厳密に考えるだけ無駄です。 測量しなけりゃ方位も形も判るわけない 距離単位とは別次元の話だね(´・ω・`)
>>472
马王堆三号汉墓 地形图
これは、西漢時代の墓からでたのだか、
それみるだけでも、測量技師を
伺い知れます。 >>474
魏志倭人伝より数百年前で、
現代の地図とほぼかわらないのを
書いているわけだし。 >>462
もう少し補足します。
周岁に対して虚岁が、大体実際の年齢に、
「+1」していきます。もちろん旧正月の
前後に生まれたかで、そこだけで
1歳も変わります。
今の残るのが、母親の中にいる10カ月をすぎ、
生まれた瞬間に、1歳とする風習です。
虚岁の現代の名残はそれで終わります。
何故、虚岁がうまれたか?
それは、古代、子供はうまれてくるまで、
流産や堕胎の可能性が高かった。
責任持って把握するため、お腹の中から、
数えたということ。
男進女满といういみは、男性は、虚岁で
計算して、女性は周岁の現代と同じ年齢
計算で、行われるいみです。
男性だけ何故、虚岁を使ったか。
それは畏敬もふくめて、歳をとれば、
取るほど長老のように権利を持つことが
増え、またその年齢を聞くことで、
より違いをだすためとも思われる。 そもそも、古代の天皇は架空だとほざいてた九州説が、
古代の天皇の没年をもって2倍歴が存在したとか、二枚舌もいいとこだ。 >>477
私は、どこ説でもない。
ただ論文や実際の墳墓から、でてくるものから、点と点を繋げたいだけ。
今は、倭国大乱が、黄巾の乱によると書いた
背景を探っている。
論文で、でている古代の気候変動によるかと
思う。 補足:鮮卑という民族がよくでてくるが、
この語源は、古代の表記の残りかと。
現代のシベリアは、漢字で書くと
西伯利亞(俄语:Сибирь),
古代表記「鮮卑利亞」或「錫伯利亞」とかく。
このシベリアのシベだね。
シベリアは、なるほど蒙古の真北あたりだから、騎馬民族系になりますね。 じゃあ、シベリアは「しばれる」が語源ということか。 邪馬台国がどこだろうと、日本の歴史学の後退現象が起こるような気がする。
記紀至上主義に確定邪馬台国周辺の歴史偏重が加わるだけのような。 神御衣祭を思えば、上代の人が365日単位でなく、
夏季と冬季で「暦のようなもの」を作っていたのかもとは思う。 日の出時の山の影がどこどこに伸びたら冬至、夏至 とかの知識はどの土地でもあったろうね
証拠も何も知らないけど三輪山信仰もそういう部分あったんじゃないのかなぁ 戸数や官の名前が違いすぎてどう仕様もないが、
倭人伝の地理の記述は異なる2つの情報源をひとまとめにしたとしたらどうだろう。
一つは地理志的な情報、もう一つは日記的な出張記録。
対海国と投馬国が同じなら、帯方から船で二十日で対馬についた。
そこから船で十日、陸上を一月で邪馬台国みたいな。 >>483
上の話は一年を二回で数えているということは正しいが、それは年齢を数える方法で
あってカレンダーではないと思う。
古代日本神話で異常な長生きの天皇が居たが、これは単に長生きしたのではなく、
当時の年齢の数え方が一年二回で計数していたということ。
そうなると実際の天皇の年齢は資料に記載される数値の1/2ということになり、標準的な
寿命にちかくなる。 >>489
古代の天皇を架空だと言ったり、実年齢が半分だと言ったり、
見解を統一させよ。
古代の天皇が実在で、実年齢が半分の場合でも、神武東征は紀元前300年だから、
東遷説は否定されるぞ。 >>489
上代の人の精神は永遠にわからないかもしれないが。
トンデモを書いておくと前方後円墳は天岩戸とそこから漏れる日光をあらわして、
復活信仰の埋葬だったのかもといっとこう。三星堆の縦目仮面も光線を立体で表してるらしいし。
太陽神の夏至と冬至の衣替えで太陽の年を数えて、
その続きで太陽神に連なる首長の年を数えたのかもしれん。 2018/02/03
【言語/民俗学】沖縄・奄美の言語、どう広がった? 琉球語の系統樹作成へ 狩俣琉大教授ら[02/03]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1517641169/137-138
2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/
2018/08/03
【遺跡】“日本人の起源に迫る” 弥生人の骨をDNA分析へ “地下の弥生博物館”と呼ばれる遺跡 詳しい年代も明らかに?★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1533307071/79
2018/08/02
【考古】「日本書紀の埴輪誕生説話の元になった可能性」 垂仁天皇陵の埴輪制作?古代の埴輪製作集団、土師氏の集落 奈良・菅原東遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1533199602/ >>1
> 西暦135年から230年の間のもの
幅ありすぎ(~_~;) 年代測定するには近年すぎるな。数万年、数千年単位なら信用出来そうだけど。これが卑弥呼に結びつけるには無理がありそうだ。
ただ、九州の刀の出土説も今一つ説得力ないな。
刀を地中に埋める必要性などない。近畿では貴重な鉄をあまり粗末にしなかっただけともいえるわけだし。
名称だけでも、ヤマタイ〜ヤマトの類似性には近畿説の説得力になるけど、九州がヤマタイを名乗るには厳しくないか?九州のヤマタイはその後どうなったんだ?滅ぼされたなら相手は誰?
まぁ、ヤマタイが近畿だと都合が良くない点もあるので、九州で全然構わないんだけど、九州派はもっと頑張るべき。 >>496
魏志倭人伝には倭では鉄の鏃を使用しているとあるんだよ
一般兵の鏃に使うほど鉄があったのに有力者の副葬にはケチったとか有りえんわな
ヤマトの地名は九州にも複数箇所ある
これで岡山説が浮上したな。
岡山県観光課が動き出すだろう。
あかんそれ考えると経済学的には邪馬台国論争決着ついたらまずいになる
未来永劫決着つかなさそうだ >>49
>>133 >>358,381
>>488 >>494
2018/08/04
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1533360836/ つか、邪馬台国九州論者って、
昔は九州がスゴカッタ! 今は九州ダメダメというのを自ら認めてる感じで
すごくキライなんですけどw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています