【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
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所在地を巡って九州説か近畿説かで激論が続く邪馬台国論争に、新たな視点を投じる本が刊行された。福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長片岡宏二さん(63)が書いた「続・邪馬台国論争の新視点−倭人(わじん)伝が語る九州説」(雄山閣)だ。
「弥生時代の終わり、日本列島では近畿地方と北部九州の二大勢力圏があった。近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。でも卑弥呼は決して、力でクニグニを制圧した人物ではない。隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ、邪馬台国の姿と重なる」。九州説を採る研究者として、論考を新著に詰め込んだ。
続編の今作に合わせて増補版に改めた前作「邪馬台国論争の新視点−遺跡が示す九州説」(2011年刊)では、論争の火種になってきた「魏志倭人伝」記載の方位や距離のずれを、実際の遺跡調査に即して整理し、筑紫平野の「クニ」の連合体を邪馬台国の有力候補として位置づけた。続く今作は、卑弥呼が「どのような王」として存在し、彼女が約50年間統治した「クニ」がどんな姿の社会だったかを考察している。
片岡さんは倭人伝を含む歴史書の記載から、卑弥呼像を「長年の戦争によって乱れ、疲弊した諸国が戦争を終わらせるために協力し、納得して担ぎ上げられた調整能力の高い人」とみる。そして倭人伝で描かれた社会の様子や権力構造を、近畿と北部九州それぞれの遺跡群に重ね、北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした。
「魏志倭人伝の基になった魏の使いは、近畿と九州のどちらがいかに日本として成熟し発展したかを書き残したのではない。ただ邪馬台国という地域のありようを書いた」
北九州市出身。ジャーナリストにあこがれを抱いて進学した早稲田大で、考古学と出合った。宅地開発と歩をそろえて遺跡発見が相次いだ小郡市に就職。発掘現場の視点から、日本の成り立ちを考えてきた。
近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは「現代の日本が中央集権的なので『国とはそういうもの』と思われてしまうから」とみる。執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた。「専制君主ではなく、諸国が共立し、彼らに慕われた卑弥呼だった。でないと50年も続きません」。現場での実感を研究に生かすことはジャーナリストの姿勢にも通じている。
https://wajinden.com/wp-content/uploads/2014/09/yamataikoku-ichi.gif
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595956
★1が立った日付2020/04/08(水) 14:59:30.28
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1586325570/ >>587
>纏向は4世紀半ばで一旦消滅してるよ
ああそうなんだね。 なぜ数箇所設置された大宰府が元どおり?北部九州だけになったか、だが
>吉備大宰(天武天皇8年(679年))、周防総令(天武天皇14年(685年))、伊予総領(持統天皇3年(689年)
>大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。
>筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。
まぁ重要度は段違いだわな^^; >>589
基本的に九州の遺構は割とスポット的に存在するっていうか
要所となりうる「いい場所」をずっと使い倒してきたようなところがあるのかな?
畿内の場合は(遷都しまくった歴史があるけど)そこら中で都市跡が出土してるじゃん。 稲作をするようになると
低湿地帯が開発され始めます。
一方、主流の竪穴式住居は、
穴ですから低湿地に掘ると水が湧いて
住めません。
そのため、ちょっと高いところにある
丘のような微高地に住居が集まるわけです。
そしてその傾向は平安時代まで続きます。
高床式が普通になるのは鎌倉時代以降で
それまでは庶民は竪穴式住居です。
従って、住みやすい場所はだいたい
似たような場所になります。
それが時代をまたいだ複合遺跡になる理由でしょうね。 >>592
>そこら中で都市跡が出土してるじゃん
具体的どこ?
卑弥呼の時代は2世紀半ば〜3世紀半ばだぞ? >高床式が普通になるのは鎌倉時代以降で
>それまでは庶民は竪穴式住居です。
そうなんだ^^;
まぁここの九州論者はキレそうだけど、単に畿内から遠かったというのもあるだろうね・・・
朝廷にとって辺境の地に都市を作りまくるリソースは割けなかったような >>594
畿内の「都市跡」っていうのは古墳時代〜の話な^^; >>592
奈良県の弥生遺跡 600ヶ所
福岡県の弥生遺跡 4000ヶ所
と、福岡では遺跡が多いので、
遷都なんてする余裕はありませんし
土地も何度も使い回さないと足りません。 >>597
弥生時代は福岡に国内最大の勢力があったんだから住居跡(笑い)なんかは幾らでもあるでしょ
伊都国(の女王国)が邪馬台国に滅ぼされて以降(弥生時代末〜古墳時代)はどうなの? >>595
吉野ヶ里は宮殿っぽい建物はありますが
これは庁舎みたいなもんで、
そのすぐ横に高貴向けや兵員向けの
竪穴式住居があります。
住むには断熱性が高い竪穴式住居のほうが
良かったようですね。
ちなみに、北海道では3メートルくらい
深く掘った竪穴式住居が、かなり後まで
使われており、原野にまだ穴が残ってるところがあるそうです。
土の断熱性が必要だったのでしょう。 「桜井市纏向学センター」
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く
弥生時代の遺構は 極・め・て・少・な・く 水害、火山、戦争と多い地域だからね。
何回も作り直しただろうな。
>>九州論者はキレそうだけど
なんでキレると思うのが不思議
>>朝廷にとって辺境の地に都市を作りまくるリソース
てっか、外国からの攻撃もあるから九州には都、置くわけない。
貿易中心でもあるし、海外への出入り口でもあるから
独自発展し現在に至る。白村江の負けで
朝廷は、九州に守人を置くことになる。 文献から読むと、
邪馬台国と大和が混在しているね。
3世紀〜4世紀初頭の前方後円墳が大和政権のみの絶対象徴とは、言えないな。
二元政権の象徴と思う。
近畿パー「奈良は邪馬台国から遠いから邪馬台国は奈良!」
>>582
ほんと下らないよなお前ら近畿では鉄が溶けにくい近畿パーは
恥ずかしく無いのマジで? まあ恥ずかしく無いんだろうな
でもそれ人間やめてるってことだけど >>603
確かに前方後円墳が九州に多数存在するのも九州説の弱点だよな
しかも畿内・東国と比べて小規模のものしかないというのは、
九州の豪族はどういうレベルだったのか示されてしまう意味ではよろしくない。
あとは熊本の鉄剣も九州王朝を否定することに繋がるから
九州説の中でも特に九州王朝を信奉する人たちには都合が悪いかと まぁそもそも、古墳時代に入ってから台与が晋に朝貢してるのも
大和朝廷と邪馬台国の関係が示されちゃっているようなものだし・・・ 前方後円墳は各地域でほぼ同時期に発生している
倭人としての祭祀文化だから政権とかは関係ない
箸墓は台与より後の時代に建造されたもの
公式にはモモソ姫の墓だ
3世紀末から4世紀初頭の墓だろう >>610
ぜんぜん、九州説の弱点でもないよ。
東夷伝文献どうり、共存だよ。
力関係を表すものではない。
広がりが早すぎる。
熊本、埼玉の鉄剣も九州王朝を否定することに
繋がらない。記紀に貢だ記録無し。
祭祀文化と農地開拓だろうな。
大和政権が主導権握るのは、もっと後。 総合的に見て弥生時代も古墳時代も年代はほぼ同時期でありそれぞれ
弥生時代:北部九州から日本海沿岸に発生した海外交易で発展した文化圏=邪馬台国連合
古墳時代:先住民によって独自発展を遂げた文化圏=狗奴国連合
早い時期に大陸から文字文化が到来した弥生文化圏(倭国)では幸い記録が残っていたが、
文字を残さなかった古墳文化圏(ヤマト)は自分たちの歴史を示すものが何も無かった
ゴタゴタはあったが結果的に生き残ったヤマト政権が万世一系を印象付けようとするため
弥生文化に精通していた蘇我氏を殺害し、記紀を作成して歴史を上書きした
簡単な話だ >>611
参考文献、引用文献がないので
妄想だな。 >>612
「前方後円墳は大和王権と関係ない」というのは現在は無理が在ると思う
箸墓がよく言うところの3世紀末築造なら台与の時代に作成したということになるかも知れんがね
トヨはどういう位置づけだったんだろうか?
ということは卑弥呼の墓は纒向古墳群の他の古墳なのかどうかはわからん
箸墓は280m?だかで特に巨大ではあるが、他のもうちょっと古いやつも100mぐらいあるからね・・・ 畿内説は古墳時代がどこかを起点として始まったという事にしたいんだろうが、ずっと継がれてきた文化であり当然無理が生じる
そこで無理やり前方後円墳を区切りとしてそこから古墳時代が始まったかのように印象操作を図った
単に記録が無いだけであり、もともと日本列島には古墳文化があったんだよ
簡単な話だ 記紀に邪馬台国や卑弥呼が登場しないのは異文化圏だったからだね
北部九州と畿内とで遺跡に見られる文明の差が大きいのも納得 >>615
晋書に265年だか266年に邪馬台国が朝貢したとあったかと。既に古墳時代が始まった頃にあたる
このあと倭の五王まで倭国の記録が無くなるってよく言われてるアレな(広開土王碑とか無くも無いけど)
>>617
ウィキペディアに書いてあったりするが、前方後円墳って
「大和政権の勢力下にある日本の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる」
ってのが割と研究者では一致した意見なんじゃないの?自分もそう思ってたけど。
あと3世紀の前方後円墳って纏向以外だとどのあたりにあったりするの?
九州にも箸墓みたいな大王級のがあったりしたっけ? >>619
前方後円墳より以前から前方後方墳というのがあったんだよ
もちろんそれ以前にも古墳は多種あった
https://i.imgur.com/DeSj4Lv.png
https://i.imgur.com/49UBvoP.png
古墳を大型化する文化は東日本から広まったとも言える
奈良には前方後方墳の上に前方後円墳を重ねて一つの墓を形成しているものもある >>618
文明の差というより、違いだな。
大和政権は農地改革に優れ、九州邪馬台国は海洋に優れる
米が欲しい、鉄が欲しい
海上運搬は海洋、陸地では、道路等のインフラ
が不可欠。まして、武力闘争の戦争ばかりでは、生産性が上がらない。
災害、飢饉、外国(中国が不安定)からの侵略等で利害関係が一致、 やはり九州論者によくあるんだけど、
学問として認められてない異説(妄想)を適当に並べれば何とでも言えてしまう。
>>615は珍しく参考文献とか言ってて、この人は事実に向き合おうとしてるが
ほとんどの九州論者は学術的な研究成果を根拠にしてないのがどうしようもなくダメだと思う ・・・といった直後に>>621だからなぁw
>大和政権は農地改革に優れ、九州邪馬台国は海洋に優れる
これは誰の説?古田武彦氏?あるいは勝手な妄想? つまり弥生終末期というのは、大陸文化の流入が一旦落ち着き、国内とくに東日本で発展してきた古墳文化との融合を始めた時代だ >>622
九州論者によく見られるのは「常識」だよ
学説が「異様」だから妄想と罵られてるだけだよ >>620
これはわかりやすいなぁ・・・3世紀に前方後円墳が作られるようになった変遷が。
この頃は前方後方墳もつくられてたんだね >>625
常識?21世紀の日本人の常識ってこと?
一見、異様であっても(もし事実である可能性があるなら)それを検証する学者はいるよ。
それこそ大発見だろうから・・・
色んな理由で「そもそも有り得ない」「ほぼ間違いだろう」と思われているってことでは? 全国で、手鏡型、バチ型、帆立貝型の
各種前方後円墳や
前方後方墳、四隅突出型古墳、円墳、方墳など
様々なバリエーションの古墳が作られている。
畿内の箸墓古墳に代表される
完形型前方後円墳もその一つ。
これは畿内中心に作られ
大型化する傾向にあるのが特徴。
だいたい4世紀後半以降とされる。 >>626
ただし、箸墓はもともと円墳だったという説があり、畿内説が行き当たりばったりで作り話を展開してきた事例
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。
だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。 完形型前方後円墳の代表である箸墓古墳。
主体部を掘っていないため、
年代の特定はできないが
周囲の周溝からの出土物は
だいたい5世紀以降のものとされる。 >>619
https://ja.wikipedia.org/wiki/前方後円墳
研究者では一致した意見とか書いていないけどね。
いろんな仮説があると書いている。
近畿ほどでかいのはないけど
那珂八幡古墳とかあるよ。
逆に近畿以外に大きなもんないね。
大きさより形だな。
私見だが、奈良に
都づくりや農地拡大も兼ねているから
古墳は、大きくなるよ。 大宰府周辺には
5世紀から7世紀に作られた水城がある。
これは1200m×90mの大きさがあり
それだけの建造物を作る技術や
国力はあったが、同時期の墳墓は
それほど大きくはない。
九州は、大きい墳墓を作ることには
興味がないと言ってよいだろう。 >>633
大宰府は、一大率と見ていいのか?
伊都国は、どこへ? 日本列島へは古代より多くの人類が辿りついて来た
多くは黒潮に乗った南方系
石器時代を経て銅器時代になり朝鮮半島より出雲へきた者たちが
銅鐸圏を形成し 大陸の周への貢献もしていた
其の勢力は近畿一円へ伸長していた
鉄器時代になり当然半島の鉄を求める行動が起こる
其の海洋流通を担っていたのが寧波琉球台湾あたりから来た天孫族
依頼者の出雲より早く鉄器を手に入れたアマテラス達は当時出雲の支配下にあった
博多を強奪した 抵抗したのは先住民のサルタヒコだが破れた
以後700年まで天孫族の倭国が日本列島を支配する
出雲族の末裔の行動は まず継体が奈良政権を簒奪する その勢いで倭国の君磐井を暗殺するが
反撃にあい破れ後殺される
次は天智であり倭国と唐との戦いの時唐と内通して倭国を裏切る この場合長く面従腹背だったとも言える
こうして古代の出雲の末裔が再び日本列島の支配者となり現在に至る
此の政権に逆らったのが倭国の末裔菅原道真だが 今は天孫族の古都大宰府に眠る
近畿パー「奈良は邪馬台国から遠いから邪馬台国は奈良!」
>>625
また自己紹介ですか
畿内説は否定証明済みですよ>>55
「常識」を求められてる「異様な」学説を言う、妄想ばかりなので罵られてる近畿パーさん
相変わらず「学術的な研究成果を根拠とか」漠然だな。
詳細なリンク先、文献 張ればいいのに。 九州倭国にはそもそも巨大な墳墓を作る習慣が無かった
あの絢爛たる出土品のある大墳墓の伊都国の平原遺跡
ですら背丈以下の小さな盛り土に過ぎない
日本最古の三種の神器が見つかった超ウルトラ大遺跡の吉武高木遺跡に至っては
盛り土すらない平地
巨大な墳墓はむしろ邪馬台国ではない証拠 >>643
一応、何基かはあるから「巨大墳墓を作る習慣が無い」ってことは無いよ^^;
もちろん「興味が無い」ってことも無い
単に九州の豪族にはデカイ古墳を作るほどの権力が無かっただけ・・・ 弥生時代は超ウルトラ(笑い)繁栄してたのに
畿内勢力に負けてからというもの(古墳時代になって)
一気にオワコン化したのが九州北部だよね^^; 奈良
このの地名は『崇神紀』に「那羅山」の名で見られ、『万葉集』で「奈良」と記されている。
地名の由来は、平らにするこという「ならす(均す・平す)」と同源の「ナラ(平・均)」で、緩やかな傾斜の平らな土地を表した地名と考えられる。
もう、ひとつは、
旧唐書
倭國者,古倭奴國也
新唐書
其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州
奴国が由来。と推測 >>645
なんら文献もなし。古墳も証拠にならない。
畿内勢力に負けでなく併合だな。
歴代、神武天皇以前は奴国(九州)の王だな。
邪馬台国は、伏せたい。 そう、奈良は古代から「ナラ」と呼ばれてるわけで、「ヤマト」と呼ばれたのはずーッと後世だよ
近畿パー「奈良は邪馬台国から遠いから邪馬台国は奈良!」
はいはい良かったね
九州九州はいはい
決まり決まり >>644
戦争をしない代わりに立派なものを作って威厳を示す
という文化は縄文時代からの名残り
武力重視の弥生文化とは真逆 九州に古墳が少ないのは背に腹は変えられず田んぼや畑になったからじゃないの。
班田収授の田んぼが足らなかったってどっかで見たような。
流石に奈良の古墳はこわせなかっただけとか。 奈良は空いた土地がいっぱいあったってことやろな。
福岡は密集しすぎてて、そんな余裕はなかばい。 もうしつこいなあ
九州でいいよもう
はいはい九州九州
決まった決まったはいはい 当時の倭人の首長たちからすれば、
親魏邪馬台国王じゃなくて親魏「倭」王は大問題になったんじゃないだろうか。
魏が認めた倭国の王。
この時から「邪馬台」は「倭」国の首都の名前として重要な価値を持ち出したんじゃね。 考古学的に見て、3世紀以降の奈良盆地は周辺国から墓場として利用されてきた
まずそこがスタートだ
邪馬台国畿内説はかなりファンタジー
老害学者の言った者勝ちという思想は反日チョソと同種 ゲッゲッ ゲゲゲのゲー
運動会?オリンピックだな。
記紀怪怪の畿内説 アルバイト募集!
業務内容:証拠無き畿内説で日本の歴史を印象操作するだけの簡単なお仕事です
学歴:不問
年齢:老害
時給:0円
採用担当:奥山
連絡先:5ch 日本史板, 畿内説スレ だんだん九州論者がおかしくなってきてるな・・・^^; 日本列島へは古代より多くの人類が辿りついて来た
多くは黒潮に乗った南方系
石器時代を経て銅器時代になり朝鮮半島より出雲へきた者たちが
銅鐸圏を形成し 大陸の周への貢献もしていた
其の勢力は近畿一円へ伸長していた
鉄器時代になり当然半島の鉄を求める行動が起こる
其の海洋流通を担っていたのが寧波琉球台湾あたりから来た天孫族
依頼者の出雲より早く鉄器を手に入れたアマテラス達は当時出雲の支配下にあった
博多を強奪した 抵抗したのは先住民のサルタヒコだが破れた
以後700年まで天孫族の倭国が日本列島を支配する
出雲族の末裔の行動は まず継体が奈良政権を簒奪する その勢いで倭国の君磐井を暗殺するが
反撃にあい破れ後殺される
次は天智であり倭国と唐との戦いの時唐と内通して倭国を裏切る この場合長く面従腹背だったとも言える
こうして古代の出雲の末裔が再び日本列島の支配者となり現在に至る
有名な歌人の柿本人麻呂は倭国礼賛が過ぎて晩年は島根県浜田へ左遷された
此の政権に逆らったのが倭国の末裔菅原道真だが 今は天孫族の古都大宰府に眠る >>663
涙拭けよ自己紹介しかしない近畿パーwww
近畿パー「奈良は邪馬台国から遠いから邪馬台国は奈良!」
◇◆◇ 創価学会の「総体革命」◇◆◇
創価学会は、「総体革命」と称する権力への浸透工作を組織的に進めている。この工作
は第二代会長・戸田城聖が発案し、第三代会長・池田大作が継承、現在まで続いている。
ある時「一番とりにくい所はどこですか」と部下に聞かれた戸田は、こう答えたという。
「官庁だな。それには、優秀な人を抜擢して、先輩が自分より出世させ、出世した者が
また後輩を引き立ててゆくしかないな。(中略)将来、二万の青年が各官庁や会社の重
要ポストを占めるようになれば、その仲間同士でなんでもできる」(『水滸会記録』)
この指針に基づき、創価学会は中央省庁や自治体、法曹界、警察、マスコミなど、あら
ゆる所に学会員を送り込み、自分たちが有利になるように工作してきた。彼らは、その
財力・政治力と各所に浸透した学会員の影響力で、社会を意のままにしようとしている。
※ 創価学会は、公権力の私物化、乗っ取りを企てる危険なカルト、反社会集団である。 >>663
そういや「はい論破」って連呼しなくなったな 〇これらの業務を監督し仕切る「大倭」
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
〇女王国への贈り物でさえ一大率が厳格にチェックし間違いは許されない関係。
〇邪馬台国には女王とは別に順位は低いが男(弟?)王も存在すること。御家騒動か?
女王国より以北には、特に一大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。
常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。
(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が
倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。
文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。 〇邪馬台国の女王は「大倭」とは別に独自の倭王として外交をしてるのか?
〇江戸末期のように幕府とは対立し薩摩藩がイギリスと外交をしてるような感じか
倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、
郡に詣り、相攻撃する状を説く。
〇卑弥呼は冢に葬られてるが古墳ではない、冢と古墳の違いが分かってない
〇冢は平地に穴を掘って埋葬で、土は盛らない
「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
其死有棺無槨封土作冢」 「棺」はあるが、「槨」はない。
土を盛って「冢」(つか)をつくる棺はひつぎです。
槨はその棺を保護するもの、外枠みたいなものと考えて頂ければいいかと思います。
「棺あって槨なし」というのは北九州の墳墓に見られる慣習です。畿内では棺も槨もあります。 卑弥呼の行動は
薩摩藩監視のもと独自に琉球国として明国などと外交してるような雰囲気
それで居て石垣や奄美とは対立し戦闘状態の時もある。
ただ違いは卑弥呼は行動監視はされてるが親族関係者のように黙認はされてる。 邪馬台国は大倭朝廷の九州支店だが、発祥地本家のプライドは持ってる。
高天ヶ原、天の原の地はここだと卑弥呼は思ってる。 卑弥呼時代には、すでに奈良・大倭朝廷として活動してるな
ただ大倭朝廷としては九州実家のやり手ババアが口うるさくて困る。
時には里帰りして実家事業の手伝いしろってさババアめ、
たまには娘を手伝いに帰らすかと。 >>669
涙拭けよ否定証明済みで反論不能の近畿パー
はい、論破ww
近畿パー「奈良は邪馬台国から遠いから邪馬台国は奈良!」
もう十年以上前の本だけど
『誰も書かなかった古代史ミステリー―封印された歴史の闇に迫る 武光 誠 (監修)』
読んで、邪馬台国が九州にあったってことで納得した
もともと朝鮮半島からの渡来人によって造られた邪馬台国は、
2世紀、卑弥呼によって最盛期を迎えるも、3世紀に近畿で栄えた大和朝廷によって滅ぼされたって説
これ読むまでは、天照大神=卑弥呼だとばかり思ってたけど
そもそも、記紀は大和朝廷の正当性をアピールするためのものだから
天照大神のモデルは持統天皇であり、同時に素戔嗚尊は出雲王国を壊滅させた自然現象、台風がモデルだって
卑弥呼は姫命(ヒメノミコト)が訛ったものだとか
他の本読むと、邪馬台国は奈良の纏向遺跡にあったとか書いてあったけど
やっぱ九州やんな 纏向は東日本文化圏でした
https://i.imgur.com/VmVhrLR.png
おそらく魏志倭人伝に出てくる「倭種」の国の一つでしょう
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
女王国の東の海を渡り約1000里でまた国が有り、それらも皆倭人の国である 倭国は寧波琉球台湾の南方系海洋民族がつくった
近畿の銅鐸圏は朝鮮半島からの人たちがつくった >>681
古墳時代は東日本から広まった縄文文化の名残りだな
3世紀末頃から四角だった墳丘を丸くしたものが西日本でも造られるようになった >>680
そのオッサンは騎馬民族王朝説の人な
畿内・九州論争以下のレベルで
今は完全に否定されてしまってる^^; ニュース:箸墓古墳で馬具出土
2001年12月「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
■魏志倭人伝の記録
倭国に馬はいなかったと書かれている
■馬と人との歴史
鐙をはじめて本格的に使ったのは、5世紀のフン族(アッティラ王が率いる北アジアから東欧の幅広い地域を根城とした騎馬系遊牧民族)だと言われています。 倭に馬はいなかったが馬具が落ちていた
馬に乗った人たちが纏向にやってきたんですね
関連:最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
産経新聞(2018.11.28)
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>681
その理屈だと、九州は東日本文化圏だった >>688
九州のは九州に引っ越した東日本人の墓だ
墓の形式は被葬者の宗派を表す ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています