【邪馬台国九州説】邪馬台国九州説に新たな視点 卑弥呼が統治した「クニ」考察★2 [しじみ★]
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所在地を巡って九州説か近畿説かで激論が続く邪馬台国論争に、新たな視点を投じる本が刊行された。福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長片岡宏二さん(63)が書いた「続・邪馬台国論争の新視点−倭人(わじん)伝が語る九州説」(雄山閣)だ。
「弥生時代の終わり、日本列島では近畿地方と北部九州の二大勢力圏があった。近畿は絶対的な王権で後のヤマト、そして天皇家へとつながるのは確実。でも卑弥呼は決して、力でクニグニを制圧した人物ではない。隣接したクニとも調和を保った北部九州こそ、邪馬台国の姿と重なる」。九州説を採る研究者として、論考を新著に詰め込んだ。
続編の今作に合わせて増補版に改めた前作「邪馬台国論争の新視点−遺跡が示す九州説」(2011年刊)では、論争の火種になってきた「魏志倭人伝」記載の方位や距離のずれを、実際の遺跡調査に即して整理し、筑紫平野の「クニ」の連合体を邪馬台国の有力候補として位置づけた。続く今作は、卑弥呼が「どのような王」として存在し、彼女が約50年間統治した「クニ」がどんな姿の社会だったかを考察している。
片岡さんは倭人伝を含む歴史書の記載から、卑弥呼像を「長年の戦争によって乱れ、疲弊した諸国が戦争を終わらせるために協力し、納得して担ぎ上げられた調整能力の高い人」とみる。そして倭人伝で描かれた社会の様子や権力構造を、近畿と北部九州それぞれの遺跡群に重ね、北部九州の相互扶助的な連合国家を「邪馬台国」とした。
「魏志倭人伝の基になった魏の使いは、近畿と九州のどちらがいかに日本として成熟し発展したかを書き残したのではない。ただ邪馬台国という地域のありようを書いた」
北九州市出身。ジャーナリストにあこがれを抱いて進学した早稲田大で、考古学と出合った。宅地開発と歩をそろえて遺跡発見が相次いだ小郡市に就職。発掘現場の視点から、日本の成り立ちを考えてきた。
近年、近畿説が広く受け入れられがちなのは「現代の日本が中央集権的なので『国とはそういうもの』と思われてしまうから」とみる。執筆に際して、九州説の再評価だけでなく、現代のリーダー像再考をも胸に忍ばせた。「専制君主ではなく、諸国が共立し、彼らに慕われた卑弥呼だった。でないと50年も続きません」。現場での実感を研究に生かすことはジャーナリストの姿勢にも通じている。
https://wajinden.com/wp-content/uploads/2014/09/yamataikoku-ichi.gif
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/595956
★1が立った日付2020/04/08(水) 14:59:30.28
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1586325570/ >>260
平原の鏡が国産は通説
特にあの日本一の大鏡はね
技術の流れを考えたら、卑弥呼に届くよ
貰った鏡を溶かして作り治した可能性もある 奈良でこれ発掘されるの一か所や二か所じゃねえもんなw
■最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
「建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、
最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と
考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。」
「同町では、朝鮮半島式の床暖房装置(オンドル)を
持つものを含めて約40棟見つかっている。」
「白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は、
建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、
(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが
営んだ重要な施設があったことは間違いないとみている。」
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html 躬臣国は現在櫛田神社のあたり 国と言ってもヒミカの時代は九州全部を支配している訳ではなく
現在の福岡県と佐賀県あたりまでの勢力圏
その後の倭国の九州平定譚はお馴染み盗作日本書紀の景行記で詳述されている ヒミカの時代の勢力圏は北部九州まで 音でこじつければ近畿東海北陸なぞあらゆる地名に充当できる
しかし 親魏の勢力圏に敵対し親呉の銅鐸圏があり 呉の滅亡する250年以降でなければ
勢力の伸長は無理 時代を混同若しくは 強引に桃の種の奈良としたい向き以外の理性のある人には受け入れ難し 現代社会における日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)
公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、三河県豊田市)からの養子
武家(No.1、No.2)
・足利家(喜連川家)←現当主は細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
細川家
菩提寺
・隣松寺(三河県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46
大給松平家菩提寺・墓所
・松明院(三河県岡崎市細川町字根古屋123)
・蓮性院(三河県岡崎市細川町字権水56)
・大給城(三河県豊田市大内町字城下)
氏神
・村積神社(三河県岡崎市奥山田町字山田46) 九州論者の悪い癖は、自分たちの都合の良いところだけ「記紀の内容が正しい」と主張し
都合の悪いところは「焚書されて残っていない事実がある」とか言い出すところ。
いつ畿内勢力に権力が渡ったのか、なぜそんな大勢力との戦いとの記録を残さなかったのかが
人によってバラバラであることも問題。要は根拠がないから定説がない >>394
また自己紹介か近畿パー
畿内説は否定証明済み
お前らは反論不能状態
はい、論破w 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、狗邪韓国に到る。七千余里。」
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。
「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
「東南陸行。五百里。伊都国に到る。
「東南、奴国に至る。百里。
「東行、不弥国に至る。百里。
〇合計、「郡より不弥国までが萬七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
「南、投馬国に至る。水行二十日。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
郡より女王国に至る。万二千余里。」 投馬国、ツマは端っこの意味があり、筑紫島の端っこ後世のサツマ
つま【▽端/妻】
1 物のはしの部分。へり。
㋐建物の長手方向の端部で、棟と直角をなす壁面。妻壁。⇔平 (ひら) 。
㋑切妻 (きりづま) や入母屋 (いりもや) の屋根の側面の三角形の壁面。
3 物事のいとぐち。てがかり。端緒。 不弥国より放射説で行けば、南、投馬国に至る。水行二十日。
南、邪馬壱国に至る。 女王の都とする所。水行だと十日、内陸徒行だと一か月。
で丁度、投馬国までの中間地点と言うことで、肥後国の北部が女王国。 >>373
>>同盟を対等の立場だと思い込んでるようだが大間違いだ
ここまで、期待していたが
あれま、3世紀における絶対君主の証拠となる文献、物証
が出すのかならと思っていたけど
期待はずれ、通説説明、さらに共和制を補足。
弱みにならないよ。無理があるよ。
最初からそう
まあ、南を東に方向は変えるし
到其北岸狗邪韓國,七千餘里さて何キロメートル?実測との検証
差も答えられない。短里否定しているからね。 >>388
魏志
東南至奴國百里
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國,
2回、奴國出てくる。別ものか?
後漢書より
卑弥呼より先に57年に
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。
どの奴國?倭國之極南界也てどこまで?
自女王國東度海千餘里,至拘奴國
狗奴國の位置はどこ? 全然、関係ないがゴーヤー、パセリ、大根てカレーの具には、
不向きだな。
こういうやり方があるよという案がありゃ、よろしく。 >>403
スレチだが
ゴーヤは炒めて最後にトッピング
パセリは乾燥して粗挽きした物を振りかける
大根はタクアンにして付け合わせ
そのまま生では使えない >>405
おー、なんと。
明快な。ありがとー
娘といっしょに作ってみる。 >>404
近畿パーってのは歴博の「近畿では鉄が溶け易いんですキリッ」みたいな
ただのウソつきの猿のこと 200年ぐらい差があるから、極南界の位置が変わっても不思議はないんじゃないの。
帥升に関しては個人的には半島側の倭人の首長じゃないかと思う。
倭国大乱も対馬海峡挟んだ国々の戦いで、
半島側の倭人諸国の監察のために一大卒が置かれたんじゃないかな。
一大卒を恐れそてたのは半島側の倭人じゃないかと。
難升米等も半島側の倭人のような気がする。 菅原道真は新撰万葉集で 夫れ万葉集は古歌の流れなり と倭国倭歌集の存在を示しました
古は飛文染翰の士興詠の客青春の時玄冬の節見るに適って興既に作り聆くに触れて感自ら生ず
歌の本流は古歌にあり 今世に知られる万葉集は其の本源からの分流である
本源とは700年以前の倭国の倭歌(ちくしうた)のこと
今の万葉集は花なり旧は実なり
今の人は錦を剪り多く可憐の句を述ぶ(倭国の歌を無いものとして)
古人は心緒素を織りて少して下憼の艶を綴づ 仍りて左右上下両軸にして惣べて300t有首号して新撰萬葉集という
このときより僅か200年前に滅びた倭国の存在を記紀に見る如く 其の存在を歴史から消去してきた 半島由来の
奈良政権 900年当時は同胞藤原氏の支配する世でした 藤原に楯突く菅原道真の祖先は土師氏でありアマノ
ホヒノミコトという天孫降臨族でした この天孫族が倭国をつくりました 権力の交代を容易にしかねない別の権
力の存在を許さないのは歴史の常で 徳川が天皇制を温存したのは誤りということです
道真は太宰府に行き本望だったのかも知れません 祖先の天つ神を祀り倭国の朝廷の在った所です
牛が停まったのでは無く 其処が埋葬の目的地だったのです >>409
1)倭国王帥升の正体
「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」
107年に後漢に朝貢したのはヤマト政権のオシヒト大王[孝安天皇]だと言われている。
倭国王「帥升(すいしょう)」だけど、朝貢した大王の「オシヒト」
という名前のアクセントの一番強いところをとって、
もともとは、「師飛(シヒ)」と省略して記録したのを、
史書『後漢書』に書き写した役人が見誤って「帥升(すいしょう)」と記録してしまったらしい。
(※シナ人は和人の名前を省略して短く書く習慣があった。)
古代において大王自ら朝貢を行った特異な例。
奈良時代の、記紀の編纂者たちは、このことを恥だと思い、
このことは記紀では隠されることとなったらしい。
2)難升米の正体
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰
難升米(だしょうまい)とは、辰韓から渡来したヒボコの子孫である田道間守(タジマモリ)という人物のことである。 >>405
つくたぞー。やっぱりまずかった。二人で大笑い
それで、娘といっしょに、ラーメン食いに行った。
アドバイス、ありがとう。 >>401
こいつ日本語不自由バカだったか
日本語がおかし過ぎて、何を言おうとしてるのかさっぱり分からん
だが、おまえが高校生レベルの知識さえなく、高校で習う日本史とは違う架空の日本史をでっち上げて
そのデタラメをもとにして畿内説に文句つけてることだけは分かる
おまえが欲しがってる情報は高校で習う内容だ
おまえに必要なこと
・日本語学校に通い、最低限の日本語を覚えること
・小学校の道徳教育を受けて、捏造は悪いことだと学ぶこと
・その上で義務教育程度の日本史を学ぶこと >>415
ただのお前の作り話しに指摘も糞もあるかキチガイw >>417
>>そのデタラメをもとにして畿内説に文句つけてることだけは分かる
元々デタラメ近畿説なのにおかしいね。
方向も変える、距離も変える。魏人伝の改変ばかりだな。
陳寿、范曄があわれだ。 旧唐書がいう
@「倭国はいにしえの委奴(伊都)国なり」
A「日本国は倭国の別種なり」
B「日本はもと小国、倭国の地を併せたり」
C「倭国みずからその名の雅ならざるをにくみ、改めて日本となす」
コレってBとCが矛盾しているなぁと思ってたんだけど、、各々別の日本人から聞いてるのな。
@〜Bに関しては当時でいう「いにしえ」(弥生〜古墳時代あたり)の、大和と伊都国の関係について言ってて、
Cは当時、倭国から日本に改名した理由を言ってると
全部同じ時代のことを言っているのだと勘違いしていた。 >>424
日本国が漢委倭奴国の金印を持っていればそんな言い訳は必要なかったんだけど? >>423
当時の都レベルの都市跡なんかは九州から出土してないよ
古代においては弥生時代の伊都国〜一大卒、
あるいはそれが内陸に移動した大宰府が九州を代表する都市であって、
後は集落レベルだからね 710年 都となった奈良だが 1300年後では見る影もない 桃の種から鹿の糞 >>425
間違えてるよwそれを言うなら「漢の委奴国王印」じゃね?
元々、邪馬台国の前に日本の中心地だった、委奴国の「委」から倭国としたという説があって
これは九州説の白鳥博士によるが、畿内説の人も同意することが多いかもしれない もちろん「奴国が金印を授かった」西暦57年には、
邪馬台国なんてまだそれほどの勢力じゃなかったんだろうな
なんで奴国(笑い)レベルの国が金印なんか貰えるんだっていうツッコミがあるが
(いちおう魏志にも「奴国」は出てくるけど・・・)
たぶん現物(金印)が示すとおり「委奴国に授けた」の誤字だったんじゃね? どの辺がお笑い草なの?論破してあげるから言ってみなさい >>424
> @「江戸はいにしえの穢土なり」
> A「東京は日本の別種なり」
> B「東京はもと小国、日本の地を併せたり」
> C「江戸みずからその名の雅ならざるをにくみ、改めて東京となす」 弥生時代の2遺跡、製鉄炉の違いは? 淡路市教委が再現検証
https://www.sankei.com/region/news/170731/rgn1707310035-n1.html
今回は地面に直接炭を置く炉▽ 穴を掘って溝をつけない炉▽ 穴と溝のある炉−の
3種類に炭とくぎを入れ、同じ時間燃焼させる実験を行った。
市職員が牛皮とハスの茎を使った天然素材のふいごを使って30分ずつ燃焼。
地面に直接置いた炉は796度、溝のない炉は730度が最高温度だったが、
舟木遺跡型の穴に溝のある炉は15分で1000度を超えた。 なぜ炭の燃焼で鉄を融解させることができるのか 投稿日時 - 2018-05-30 17:32:21
炭の燃焼温度は、約1000℃ぐらいで鉄が融解する温度は、1500℃程度です。
なのにたたら製鉄や反射炉では、鉄は、融解します。
炭がいくら燃焼してもその温度が1000℃ならばそれ以上に
温度が上がることは無いと思うのですがなぜ鉄が融解するのでしょうか?
純鉄が溶けるのは1535℃と言われていますが、炭素を含む鉄はその含有率に応じて、
1150℃程度まで融点が低下します。
炭の燃焼温度が約1000℃というのは大気の自然対流で酸素を供給する場合の温度で、
ふいごなどで空気を強制的に送り込むと燃焼が激しくなり、更に高温になります。
多分2000℃位は出ていると思います。
鉄などの切断や溶接に使われるアセチレンの燃焼温度は305℃です、
でも鉄や金属を溶かして切断や、溶接が出来ます。
実はアセチレンだけでなく酸素を使って約4000℃まで温度を上げるから
溶かすことが出来るのです、
炭であっても、
大量に空気をフイゴで送り酸素量を増やせば温度は鉄が溶ける以上に上げられます、
空気(酸素21%)でなく酸素100%を送ればやはり4000℃位まで上がると思います 邪馬台国は近畿、中国、北部九州にそれぞれ一つずつありました。
そしてみんな仲良く暮らしました。 >>424
旧唐書
倭國
貞觀五年(631年)
倭國者,古倭奴國也
日本
長安三年(703年)
日本國者,倭國之別種也 何でも天皇、及び一族に結びつけるのは
考古学、歴史学に反している。
記紀を裏づける物的証拠、他の文献が必要。
記紀原理主義者による仮説にすぎない。
宗教の部類だな。 西暦57年
奈良
纒向遺跡みると、開拓すら始まっていないかも? 57年 宇陀に橋頭保を漸く造った段階 いきなり相続争いで兄弟が殺しあう
奈良盆地は全て敵対勢力 桃の種はまだまだ先の話 新羅本紀
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」
脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里(400km)にあり(京都、兵庫 丹波の国と推定)
173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪
これからも、倭国は九州にあり。
南を東にした近畿説では、奈良、三重を超え、太平洋上の海になる。 新羅本紀
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」
脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里(400km)にあり(京都、兵庫 丹波の国と推定)
173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪
魏への使者が238年であり173年と65年の差がある
同じ名を襲名したいた可能性がある
ともあれ倭国が仏教に接した時が173年
後漢洛陽に中国最初の仏寺白馬寺が 68年に創建される
238年ヒミカの使者ナシメ達は確実に寺を見た 帰国後ヒミカへの報告も確実 >>445
魏より先に新羅に使者をだした。
168年12月17日、
九州、山陰、山陽、四国西部で歴代3位の長さの金環食あり
その以降に卑弥呼が女王についたと思われる。
238年は、新羅によっていないから新羅記の記録にのらないと推測。 >>436 続き
倭人たちは高温管理には熟知してて、鉄器、製鉄、には難なく生産出来たはず。
ガラスの成形に適した粘度は104 ~ 107.6ポアズで、ソーダ石灰ガラスでは690~1000℃程度、
ホウケイ酸ガラスでは820~1250℃程度のときにその粘度となる。
遺跡から出土するガラス玉
九州地方の弥生時代の遺跡からは、土器などの遺物とともにガラスが出土していることから
裏付けられています。これらのガラスは、国内で原料から生産していた訳ではなく、
製品や資材として作られたものが国内に持ち込まれ、加工・使用(流通)していたものと ...
銅鐸、青銅器
銅のとける温度は1083℃でなかなか溶けにくいのですが、
ここにスズを加えると銅もつられて875℃で溶けて青銅になります。 新羅本紀の元本『三国史記』は、朝鮮半島に現存する最古の歴史書。
1143年執筆開始、1145年完成とされるが、現在残ってる物は
李氏朝鮮の太祖(李成桂)2年(1394年)の慶州刊本を中宗の正徳7年(1512年)に
重刊したいわゆる正徳本と云われ、1000年後に製本された物で考慮する必要がある。 権力側が書いた記紀(611年、630年)
と同様に考慮すべき文献であることは確か。
東夷伝、高句麗の広開土王碑等との照合が必要。 倭人たちは狭い出入り口を「と戸・門」と言った
神々の出入り口を「神の戸、神戸」といい
潮の流れで船がギシギシ鳴るので「鳴戸・鳴門」といい、
島に挟まれた浅瀬の通りを「瀬戸」といい
長い通り口を「長門」といい
音が出るほど流れの速い出入り口を「音戸」音戸瀬戸と言う
と云った具合で人の出入りする所を「と・戸・門」と言ったようで
連山などが途切れ、人が通れる場所を山の戸「山戸・山門」と言ったのかも知れん、
阿蘇盆地、外輪山のちょうど途切れ白川が有明海への出口辺りとか
生駒・和泉連山がちょうど途切れた場所に奈良大和川が流れ大阪湾へ
自然と「邪馬台」と云う地名が付いたような。 山門 やまと
島門 しまと
浜門 はまと
水門 みなと
岫門 くきど
岩門 いわと 長門は恐らく「穴が戸」の頭のアが取れて長門になった
元々は穴と言う地名だった
恐らく秋芳洞のことだろう 魏志倭人伝には邪馬台国の東の海の1000里には「倭種の国」(倭人とよく似た人種の国)があり、
その南の邪馬台国から4000里の場所に侏儒国があったと書かれている。
そして侏儒国は「小人の国」という意味で、背が低い人種が住んでいたと書かれている。
現状、邪馬台国九州説も、畿内説も「小人の国」や「倭種の国」がどこにあったのか説明できていない。
「小人の国」は種子島だという説もあるが、 そうすると今度は邪馬台国の東の海の1000里にあった「倭種の国」がどこかわからなくなる。
だが「小人の国」が、九州の北にある壱岐島であるとするとすんなり説明がつく。
「小人の国」は「倭種の国」の南にあったのだから、「倭種の国」の場所は壱岐島の北。 地図を見ると対馬とわかる。
そして「倭種の国」は邪馬台国からは「東の海の1000里」にあったのだから、邪馬台国の場所は対馬の西側、ちょうど朝鮮半島の泗川にあった事になる。
長崎大学の研究チームによる発掘調査によれば、壱岐島からは小柄な縄文人種の人骨が見つかっていて、彼らは卑弥呼の時代の後まで小柄な縄文人種が住んでいた事がわかっている。
この発掘調査の事実からも邪馬台国が朝鮮半島にあったことはほぼ間違いないと思われる。
ここから東征が行われ、畿内を平定した一族が後後天皇家になったのだと思われる。 >>457
「東征」を行ったのは、日向の都万国(=妻国=投馬国=宮崎県西都市≒邪馬台国)と
宇佐の卑弥呼(姫巫女)を中心とした九州の連合であると伝わっている。
1)対立構造 〜 重要▼
九州勢力と本州勢力の対立の構造は、主に、
『後漢書』にも登場する徐福(ニギハヤヒ・ホアカリ)という人物を共通の祖先とする、
対抗心の非常に強い子孫の家系同士の対立なのである。
2)九州勢力 vs 本州勢力▼
(主な九州勢力)
九州の都万国(=妻国=投馬国≒邪馬台国)の王家はニギハヤヒの子孫の家系である物部氏であり、当時、物部イニエ[崇神]が王であった。
そのイニエ王と婚姻関係にあったのが、宇佐周辺を勢力圏とする卑弥呼(姫巫女)・豊玉姫である。
(主な本州勢力)
山崎帯(やまざきたらし)を17代王とする出雲王朝、
ヒコミチヌシ大王が率いる畿内のヤマト王朝、
そして、ヤマト政権から派生したフトニ大王[孝霊天皇]とその子・キビツ彦兄弟が作った吉備王朝。
3)なぜ魏の後ろ盾が必要だったのか▼
徐福の子・彦火火出見(弟)の子孫の家系である都万国の王家は、
五十猛(兄)の家系であるヤマト王朝や、出雲、吉備に対抗するためには、
九州の連合だけではこころもとなかった。
そこで、都万国の王家と婚姻関係にあった卑弥呼(姫巫女)が、
魏の後ろ盾を得た上での東征(=ヤマト政権等をのっとること)を画策した。
4)東征開始▼
東征途上で、卑弥呼は病に倒れ、安芸の宮島に仮埋葬されたといわれる。
東征は、物部イニエ王[崇神天皇]の息子の物部イクメ王[垂仁天皇]によって続けられ、
九州の勢力は、出雲王朝を滅ぼし、吉備政権を滅ぼし、ヤマト政権のヒコミチヌシ大王を屈服させるに至った。
5)ヤマト政権の王朝交代 〜 兄(五十猛)の子孫の家系から弟(彦火火出見)の子孫の家系へ▼
その後の、ヤマト政権の運営は、東征に成功したイクメ王[垂仁天皇]が大王に就任し、
イクメ王はヒコミチヌシ大王の娘ヒバス姫を后とした。
並列して存在していた、徐福の子孫の家系が婚姻で結びついたのである。
つまり、古事記でいう海幸・山幸の対決構造なのである。 訂正
ヒコミチヌシ大王が率いる畿内のヤマト王朝
→ホアカリ(アメノホアカリ)の子孫であるヒコミチヌシ大王が率いる畿内のヤマト王朝 >>458
0)ホアカリ・ニギハヤヒ(徐福)の渡来 〜 前提知識▼
『旧事紀』に、「天照国照彦天日明櫛玉饒速日命」
(=アマテラス、クニテラスヒコ、アメノホアカリ、クシタマ、ニギハヤヒノミコト)
とある人物である。
「徐福」は、記紀では隠されたが、『後漢書』等にも記されている人物で、
秦の始皇帝の命で、蓬莱島(=扶桑の国=和国)に不老不死の霊薬を求め来日した人物である。
実際、「霊薬を求めて来日」というのは建前で、和国に新天地を求め渡来したのである。
出雲と北九州に二度来日し、出雲へ来た際(1回目)は、現在の島根県大田市の五十猛の海岸に着き、
ホアカリという和風の名を名乗ったという。
北九州に来た際(2回目)は、佐賀県の伊万里湾に上陸。
この際は、ニギハヤヒと名乗ったという。 >>457
山海経からの流れと思うよ。
時代ごとに、わかってきたを
書き換え。わからない部分を残しているにすぎない。
長崎大学の研究チームによる発掘調査
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-62540630/625406301987jisseki/
推定身長は158.20cm
はたして小人?
引用が違うならリンク、文献を教えてほしい。 >『北史倭国伝』には、倭國」について、『邪摩堆(奈良・大和)と 「魏志」のいわゆる
>(卑弥呼の)邪馬台国との関係を、噴石が降って来る阿蘇山まで行って調査してる。
北史倭国伝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8F%B2%E5%80%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D
『南史倭国伝』 倭国の先祖の所出および所在
原文 日本語訳
倭國、其先所出及所在、事詳北史。 | 倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
『北史倭国伝』では、「倭國」について、『邪摩堆(奈良・大和)に居す、則ち「魏志」のいわゆる
(卑弥呼の)邪馬台なる者なり。』とあり、邪馬台国と奈良・大和朝廷の連続性を認めている。 また、魏志倭人伝には記述されていない概念として、
『其国境、 東西五月行、 南北三月行、 各至於海』が、北史では記述されている。
そのため、魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離については、明確化されている。
北史では邪馬台国への行程のほか、邪摩堆(奈良・大和)への行程も記述されており、
対比する形で比較検証ができる。
北史『有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。
有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。
新羅、百濟皆以倭為大國、 多珍物、並敬仰之、恒通使往來。』
阿蘇山あり。その石、故無くして火起り天に接する者、俗以って異となし、因って祷祭を行う。
如意宝珠あり、その色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は則ち光りあり。云う魚の眼精なりと。
新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。 >>457
東征も東遷も考古学的に否定済み
はい、論破w 明治政府は薩摩と長州がつくった 担いだ神輿がほこりをはたいて蔵から出してきた天皇
その出自を権威あるものとする為本当は鹿児島にしたかったが 宮崎県を持ち出しただけ
福岡県糸島で不遇を託っていた神武兄弟は過去の挑戦者と同じく 紀元頃
銅鐸圏への進出を目指しただけ たまたま成功し奈良に橋頭保を築くことができた
その後250年で奈良盆地を平定 その間は盆地の外へ出ること能わず 「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、狗邪韓国に到る。七千余里。」
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。
「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
「東南陸行。五百里。伊都国に到る。
「東南、奴国に至る。百里。
「東行、不弥国に至る。百里。
〇合計、「郡より不弥国までが万七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
「南、投馬国に至る。水行二十日。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
南、邪馬壱国に至る。 女王の都とする所。水行だと十日、内陸徒行だと一か月。
郡より女王国に至る。万二千余里。」 >>462
読んだとうりだよ。
「俺様に従え、前方後円墳つくれ!」という支配ではない。
絶対王政でなく最初は、共和制だよ。
三世紀に九州、兵庫、奈良に短期間に
前方後円墳にできる理由。奈良に統一国家として
集中し移動していくから当然大きくなる。 ここまでのまとめ
1 畿内説は否定証明済み
2 東征も東遷もない 考古学的に否定された
3 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳で確定
つまり、邪馬台国は九州倭国の首都で
旧唐書や新唐書にある通り近畿日本とは別の国
邪馬台国は御井周辺 奈良は周囲を敵勢力の銅鐸圏に囲まれて 心細い思いだった なんとか倭国と連絡をとり
(最近地は岡山)倭国の官位を貰い(真人 大倭おおちくし)周囲に対抗の手段とした 魏志倭人伝では博多湾から邪馬台国までは「千三百里。」
郡より女王国に至る。万二千余里。」 とハッキリ書いてある
しかし、北史倭国伝 では7世紀の倭国の広さを秦王国などがあり
『其国境、 東西五月行、 南北三月行、 各至於海』と言って
奈良・大和国のスケールが桁違いに巨大化してる。 倭国のヤマト表記するのにワザワザ「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
2種類の表記でヤマトを分ける必要があった。
それはね、卑弥呼ヤマトと奈良ヤマトは別の場所だが
元は同じ係累者だと認識できたから。 >>472
それ何処に書いてあったっけ?
話は覚えてるんだけど >>476
現在のネットでは大倭を大日本と歪曲し掲載している 偽の歴史を国民へ教えている日本 700年以前には奈良は倭国の支配下にあり 日本という呼称を使いだしたのは700年以降
更に日本という呼称も倭国からの盗用 >>479
魏志における。当時のイメージ
當在會稽東治之東
近畿説が頻繁に使う元の地図
これを九州を北に北海道を南にした地図を使う近畿説
https://cdn-natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/022100158/10.jpg?__scale=w:1190,h:958&_sh=0840b70b80
後漢における
其地大較在會稽東冶之東
會稽東治之東と會稽東冶之東とは別の地
范曄は、倭國之極南界也により琉球も含めたかもしれない。
文身文化、言語も近いから含めたかもね。 >>480
原図の複写
https://i.imgur.com/BlxHb8A.png
李氏朝鮮がこれを複写しようとしたが用紙の幅が足りず
これを元に日本地図を縦に差し込んだ地図も存在する
縦書きの日本地図
https://i.imgur.com/JdKdIsc.png 考古学者は頭悪いから結果(現在)から原因(過去)を探ろうとする
これは反日朝鮮人の思考と同類である
彼らは祖であるはずのツングース民族を子孫だと言ってたなw
自分たちが知ってるアリランをツングース民族も知ってるとかでw 陳寿の生きた建安郡分郡を統治した時期
この黒い範囲が魏志の會稽東治之東
范曄の「東冶」はその下の「東冶県」という
地名使う。そのころの琉球も倭国としていたかも
しれないので東冶県の間まで広げたかもしれない。
理由は、倭建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也
極南界也にあると思う。文化、言語も似ており、実際に琉球登場するは隋書より。
当時の世界観と技術の限界として、留めるべきで
「不正確」「違う」とか現代の知識で言うのが間違い。 例えば織機の綜絖や椰子の梹榔みたいに琉球は元々あった音に字を当てた可能性
倭語にらりるれろで始まる言葉はない…じゃあ漢語のリク国?陸でええやん(自己矛盾) >>462
『南史倭国伝』
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
『旧唐書』
倭國
倭國者,古倭奴國也
これも、いろんな説がでるよ.
卑弥呼一族が大和政権に取り入られ
伊勢神宮を造り、大きな墓を奈良の地で作るパターンもある。
鏡、親魏倭王金印が出土する場合もある。
天皇陵における埋葬者のDNA鑑定できるのか?
とか疑問が残る。
邪馬台国と卑弥呼の墓が同じ場所とは、限らないパターン
そのへんの判定は、どう決定するのだろうか?
あるいは、古墳、親魏倭王金印は、九州の地で未だ寝ている? >>487
親魏倭王金印を日本国が持っていれば旧唐書で別記されることも無かったであろう なんでも奈良起源説の人がおおいようです 正しくは下記
銅器時代 親呉圏のトウテイ国の支配する近畿地方 石器時代は解らない 鉄器時代に入り時代の覇者天孫族が博多より勢力を広げ岡山あたりまで支配下においた頃
糸島で不遇を託っていた神武兄弟が新たな挑戦者として近畿へ挑んだ 大阪での敗戦後紀伊半島を迂回し熊野より奈良へ侵入し北部へ橋頭保を築く事に成功する その後呉が滅亡する250年までに盆地を支配下に置く
呉の滅亡を好機とした崇神(直接の子孫では無い可能性は高い)が近畿への侵略を始め成功する その後継体の頃後継者争いに乗じた朝鮮人継体が正統な後継者たちライバルを殺し奈良を継ぐ
調子に乗った継体は宗主国倭国の君磐井を暗殺するが磐井の息子カツコと倭国軍に敗れ敗走し後殺される その後天智の頃までなりを潜める 倭国が唐との戦い必至の時唐に内通し倭国敗戦を祝う
その後倭国の別名日本を名乗り日本列島の支配者となる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています