【英語】日本語の「は」と「が」、英語にできますか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日本語では、「私は」「あなたが」のように、動作の主(主語)には「〜は」「〜が」がつきます。
そして「〜は」「〜が」がつけば、それが動作の主(主語)であると誤解されがちです。
次の文を見てください。
(1)今日は、このジャケットを買った。
(2)給料が上がった。
これらを英語にしてみましょう。
(1)Today bought this jacket.
(2)My salary increased.
これを見て不自然だと感じますか。そうなったらこちらのものです。
そうです!
「動作の主が」「何かをする」の語順になっていないのです。
Today がbought したわけではないですし、My salaryは動作の主でしょうか。両方とも、動作の主は「I(私は)」ですよね。正しくは下記になります。
(1)I bought this jacket today.
(2)I got a raise. ※get a raise「昇給する=昇給を得る」
このように、日本語では「〜は」「〜が」であっても、実際の動作の主はよく省略されます。
日本語をそのまま英語にするのではなく、日本語で伝えようとしている内容を英語の語順で表現することが重要なのです。
英語では「I(私は)」「my(私の)」「me(私を)」のような情報をハッキリ伝えましょう。
最初は時間がかかると思いますし、間違えるかもしれません。
「私たちは英語のネイティブではない」と開き直り、「1分間英語音読」を通して、英語の基本的な語順をマスターしましょう。
http://diamond.jp/articles/-/170418 >>634
言語コミュニケーションは、結局のところ、
フレーム問題でいうところのその言語圏特有のフレームを理解しないとどうにもならない。
言語には、この場面ではこの表現の選択肢、別のこの場面ではこの表現の選択肢というのが慣例的に決まっていて、
ネイティブスピーカーはその限られた選択肢の中で言語を使用しているにすぎない。
だから文法で規定されるよりも大きな枠組みが実はある。
そのフレームからはみ出す表現は文法的には完全な間違いではなくても不自然で意味が通じにくい表現になってしまう。
フレームと一体化させた英語習得を行わないと、なかなか実用英語は身につかない。 文法が崩れてても伝わりゃいいんだよ my salary increasedで通じるだろ
文法にこだわってさっぱり話せない日本人情けなすぎる >>642
文法的な正しさに捕らわれ過ぎるのもどうかと思うけど、
文法を軽視すると「正しく伝わらない」リスクが高い。 文法はその言語のほんの一面。
実際には「暗黙の文法」が「明示的な文法」の外に膨大に広がっている。 >>646
ほんの一面どころか欠かす事のできない屋台骨の一つ >>647
文法も大事。それに異論を持つ人はいないだろう。
ただし文法、特に日本の受験英語の文法(言葉の並び替え)ではどうにもならない事がいくらでもある。
>>634 と同じようなトンチ問題として、以下のような同業者にあてた簡単なメールを
英語で出そうとしても、今の日本の英語試験の勉強では固まってしまう。
題名:供給元のリスト
佐藤さん、
お世話になってます。
この件どうなってますか?
よろしくお願いします。
山田 >>1
>こちらのものです
>ないですし
この記事の著者は、英語よりまず日本語を磨いたほうがいいね
「こっちのものです」「ありませんし」だろう
ただ、「こっちのもの」という言い方は文法上正しくないうえ、俗語的で、書き言葉にはそぐわない
「ありませんし」も、この文ならば、「し」でつなげずにいったん切って、接続詞でつなげ、
「ありません。それに」などとしたほうが良し
「ない」は形容詞で、形容詞には「です」をつけないのが文法的には正しい
「美しいです」「おいしいです」も本当は×
「です」を「だ」に変えるとわかる
「美しいだ」「おいしいだ」明らかにヘン
英語の複雑で微妙な表現や、日本語との発想のちがいについては、古い本でおそらく今は絶版だが、
『英語の敬語表現』(大修館書店、1982)という本が役だった(個人的感想)
英語に存在するややこしい敬語表現だけではなく、日英両言語の発想の違いにまでふみこんでいる
著者はビジネス英語の専門家 >>649自己レス訂正
×「こっちのもの」という言い方は文法上正しくないうえ、俗語的で
○、「こっちのもの」という言い方は俗語的で >>649
「形容詞+です」という言い方は「ら抜き言葉」同様にかなり普及していますね。
「美しくありません」はよく使われているのに「美しくあります」はなぜか使われていませんね。
その代わりに「美しいです」「美しかったです」「美しくなかったです」が普及しています。
外国人の方が「美しくます」というような語形を使っているのをネット上で見たことがありますが、
このほうが「美しいです」よりも正しい日本語に近い気がしてはっとさせられました。
「こちら、そちら(様)、あちら(様)」は複数形っぽいですが、敬語用法みたいなのがありますね。
こちら=一人称の丁寧な言い方
そちら=二人称の丁寧な言い方
あちら=三人称の丁寧な言い方
代名詞の複数形が敬称になるのは西欧の言葉にも見られるので、日本語との一致点でしょうかね。 >>649自己レスで訂正
×『英語の敬語表現』
○『英語の敬意表現』
著者は大杉邦三という方で、もともとは薬学専門i家
医薬品開発で海外の医薬品会社と英語で交渉をする過程で、ビジネス英語をマスターし
後半生はビジネス英語の専門家になった
難解な文法用語を避け、具体例を豊富にあげて詳細な説明を付している
amazonで検索したら本書は絶版にはなっておらず、いまだバリバリ現役の模様
英語には敬語などほとんど無いか、あっても日本語に比べればシンプルだろという意見の人におすすめ
日本語的な敬語と違う英語ならではの複雑で精妙な敬意表現に驚かされる
ここまで敬意表現を駆使できるのは、ネイティブ以外は、かなりの英語力の持ち主に限定されるけど 主語だと思うから、勘違いが起こる。
トピックを表す助詞だよ そもそも「主語」というのは、屈折語である印欧諸語における
主節定動詞の人称語尾を決定するための文法要素に過ぎない。
印欧諸語とは異なる語法体系を持つ諸語に、印欧諸語における
「主語」と等価の文法要素が存在しないのは当然のこと。 >>655
しかし国語の学校文法では「主述関係」が非常に重要視されて教えられている。
「トピック・コメント」という概念は登場しない。 >>656
改変しようと言う機運はまだ来ないのかねぇ。 >>630
It's me that has met the client(正しくはIt is I that met the client.)は
「取引先に行ったのは私だ。」が一番近い。
「私が取引先に行った。」の場合はプロミネンスを使って、I met the client.の I を強く読む。
「私は取引先に行った。」の場合はプロミネンスを付けないか、I を他より弱く読む。 この本を買ったのは誰ですか
誰がこの本を買いましたか
*誰はこの本を買いましたか
その理由は何ですか
何がその理由ですか
*何はその理由ですか
あなたの出身地はどこですか
どこがあなたの出身地ですか
*どこはあなたの出身地ですか
「が」と「は」の大きな違いの一つとして、疑問詞と「が」はくっつくけど、疑問詞と「は」はくっつきにくい、ということがありそうですね。
なぜでしょうか? >>660
疑問詞と使う時は、少し他の助詞や語順などを入れ替えなきゃつかえないね。
この本は誰が買いましたか?
その理由は何ですか?
あなたはどこの出身ですか?
なんでだろう >>661
疑問詞(だれ、何、どこ)を文頭に置かない方が疑問がいっそう強調されるからなのでは
最初の文は
誰がこの本を買いましたか
とすることも出来るが、教科書的で平板な印象
この本は誰が買いましたか
とするほうが会話としては疑問が強調されるのでは >>660
「は」は選択(題目提示)、「が」は排他的選択を表す、で統一的に説明できる。
「は」はリストの中からひとつのものを取り上げ、その他のものについては知らない
(言及しない)というイメージを聞き手に喚起する。一方「が」はリストの中でそれこそが
指し示すものでほかの物は違う(排他的)と主張する。 象は鼻が長い。
As for elephants trunks is long. >>660
「は」が疑問詞に後接できないのは、「は」が主題標示をするから。
基本的に主題になれるのは定(definite)名詞(既に話題に上っているか既知の名詞)だけ。
疑問詞は常に不定(indefinite)なので主題になれない。 >>662
「この本を誰が買いましたか」とは言っても
「この本を誰は買いましたか」とは日本人はほとんど言わないね。
なぜこういう言い方を日本人は避けるんでしょう? theが「は」、a/anが「が」と言いたいところですが、
「ある人」「なんらかの事情」は不定だと思いますけれども、
「ある人が言いました」
「ある人は言いました」
「なんらかの事情があるでしょう」
「なんらかの事情はあるでしょう」
どちらも言えそうな気がします。 >>663
わたしが行く
わたしは行く
排他的なのは後者じゃないでしょか? >>668
わたしが行く 行くのはわたしであって、他のものではない(排他的)
わたしは行く 他の者はいざ知らず、私は行くよ。(私についての叙述を導く) >>670
そういう見方もできますね。
「は」:これから言及することのフレーム(枠)を設け、それ以外のことは中立、
という話題限定の意味での排他性ね。
1. AとB、Aのほうは良い。(じゃあBのほうはどうなの?ノーコメ)
2. AとB、Aのほうが良い。(要するにBはAより良くないってことだね)
1.は比較を避けて、Bについては保留している。
2.はAについて良いと言っているだけにもかかわらず、Bも同時に評価している。 「君が行け」「君は行け」
「これを上げる」「これは上げる」
「君に会いたい」「君には会いたい」
「遠くへ行きたい」「遠くへは行きたい」
「彼女とデートしたい」「彼女とはデートしたい」
格助詞に係助詞「は」が付加されることで
ニュアンスが変わることは確かだね。 >>666
>「この本を誰が買いましたか」とは言っても
>「この本を誰は買いましたか」とは日本人はほとんど言わないね。
「この本を私は買いましたか?(覚えてません)」という言い方はあるね。 >>667
「なんらかの事情はあるでしょう」 の「は」は主題じゃなくて対比の「は」。
だから定/不定は関係ない。
「ある人は言いました」がなぜ言えるのかはよく分からない。
ただ、「ある人」は定(definite)ではないけれど、特定(specific)ではあるから、
それが関係あるのかも。 「象は鼻が長い」「今日は晴れ」は《主題の「は」》
「君は行け」「これは上げる」「君には会いたい」「遠くへは行きたい」「彼女とはデートしたい」は《取り立ての「は」》
「これは赤いけど、あれは赤くないね」は《対比の「は」》
と言われているんだったでしょうか?
これらに共通するのは? >>670
「が」はリストの中の選ばれたものには○をその他のものには×を付ける。
他のものに×を付けること(否定する)事を持って排他と言っている。
「は」は選ばれたものに○を付けるが他のものに×は付けない。その他のものには
関心が無い。だから主題提示の意味が出てくる。 >>675
どれも、(>>663>選択(題目提示))で説明できる。《主題の「は」》、《取り立ての「は」》、《対比の「は」》
と分ける必要はない。 >>676
こっちの方が分かりやすかったですかね?
佐藤さんが行った/佐藤さんが来た
→佐藤さん以外は言及してない(鈴木さんが一緒かもしれない)
佐藤さんは行った/佐藤さんは来た
→佐藤さんに限定(鈴木さんが一緒かは知らない) >>678
>→佐藤さん以外は言及してない(鈴木さんが一緒かもしれない)
行った/来たのは佐藤さんであって鈴木さんではない。
>→佐藤さんに限定(鈴木さんが一緒かは知らない)
他のものを否定しているわけでは無い。ただ提示しているだけ。 >>679
補足、話者の意識のありようを言っているのであり、現象について言っているわけでは無い。 日本語の会話出来るとかいってもワタシ、ソレ、ダイスキみたいなのばっかりだもんなw
それに翻訳本の読みづらさはすごい。
なるべく翻訳本は読まないようにしてるけど。読みやすい翻訳本ってのはないな。
結局は離れた言語ってのはニュアンスとかを正確に訳すことは出来ないし、
数か国語を完全に母国語にすることは出来ないんだろうな。
歴史上の人などで数か国語(10か国語レベル)をマスターしみたいなのをみると
一体どんだけ?日常生活レベル?旅行者レベル?と不思議になる。
日英だけの翻訳ですらギクシャクなのに。 「この中に日本人は、いますか?」
「私は日本人です」
「私が日本人です」 もしかし、 >>1 の説明が下手なだけで、タイトルとは反対に
『「が」とか「は」とか日本語でグダグダ言ってないで、英語で覚えがれ』
って事を言いたかったのかな。
だとすれば同意する。 よく言われているのは英語は動作主を主語にして表すこと(能動態)を日本語よりも好むということ。
そのため、これは行動主にならないだろうという対象でさえも英文では強引に行動主にとりたてちゃうw
有名なのが無生物主語構文。 翻訳家は、日本語と英語の両方に精通している必要があるので大変だね。 >>681
日本の翻訳書、特に学術関係は、大学の偉い先生が翻訳者として名前だけ出して
実際の翻訳作業は院生任せで原稿を見もしないのがよくあるね
エンタメ系も、有名な翻訳者が名前だけ出して、実際の作業はあまり経験のない駆け出しに
やらせたりする
明らかに日本語として文法がおかしい場合は編集者が手を入れるけど、それ以上はあまりやらない
翻訳書の読みづらさはそういうことも関係していると思う
英仏独西語を話すくらいの人は欧州には結構いるけど、
印欧語同士で類似点があるから納得
昔の哲学者で語学の天才として有名だった河野与一は、「語学学習が遊び」という人で
訳書も多数ある
ラインナップを見るとフランス語ラテン語ギリシア語あたりが多いが、
それ以外の欧州語もたいていマスターしていた
この人の訳書に、岩波文庫の『クォ・ヴァディス』がある
原文はポーランド語で、ポーランド語からの初めての直接訳
それまでの訳本は英語などからの重訳で、ポーランド語の翻訳者がそれまではいなかった
あとがきに河野は「ポーランド語は、ロシア語に比べると語彙も少なく構文もシンプルだと思った」
などと書いている
昔の人の訳なので訳文はさすがに古いが、じゅうぶん読める I got a raise.とMy salary increased. じゃ、発話する場面が違うんじゃない?
前者は普通の発話、後者は自分の収入の推移をグラフにした図を指差して言っているとか?
ネイティブスピーカーに訊いてみないと分からないけど。 昔の映画タイトル『何が彼女をそうさせたか』が、英語の影響を受けた日本語として有名だね
こういう言い方は、昔の日本語にはなく、不自然だった
英語文献などの翻訳書にこういう直訳的な言い回しの文が多かったのだろう
今では特にそう不自然とも感じられないね、完全にナチュラルともいえないけど
>>686
どんな母語の翻訳者でも、外国語を母語に訳す場合のほうが簡単
その逆は難しいので、英語専門の日本人翻訳者の報酬も日→英のほうが、英→日より二倍程度高い
英語に精通している必要は当然あるが、ニュアンスなどでどうしても迷う場合には、ネイティヴスピーカーの
インフォーマント数人に訊いて確認することができる
日→英の日本人翻訳者は、英訳原稿をいちいちインフォーマントに確認しているわけにはいかない
ほぼバイリンガル的な人も結構いる
学術や技術翻訳は専門的な言い回しが多いので、バイリンガルでなくてもその分野の専門知識を持つ人のほうが良いけど 学術書やPCの技術を読んでいると日本語訳が不自然なものにたまに出くわすよ。
日本人の方が翻訳者なのに。 あるアメリカの製品を買って、そこの日本のホームページを参考にセッティングして
トラブルや使い方などユーザーが書き込んで共通でみれる掲示板を読んだけど、
レスつけているスタッフって帰国子女か両親日本人だけど向こうで育って成人して
仕事で日本語使ってるだけなのか?みたいな印象だった。
やっぱり何か変なんだよね。生まれも育ちも血統も外国人とは違うんだけど
なんかニホンゴハナシテマースみたいなw >>690
そういうジャンルの翻訳書は、自然な日本語よりも、原文の言っていることを極力
正確に日本語に移すことを優先するから、
生硬な訳文になることはありえるね
担当編集者も内容的に正確な訳を重視する
あまりにも生硬すぎて何を言っているかわからない訳文は論外だけど >>692つづき
といっても、エンタメや文学書の翻訳が、原文の言っていることをおそろかにしてまでも
日本語としての自然さを優先しているというわけでもない
そのあたりの感覚は説明しにくいが、一番わかりやすい有名な具体例を挙げると、
日本文学の英訳例だけど、太宰の『斜陽』の英訳者(ドナルド・キーン)は、原作の人物が和服の
正装として穿いている「白足袋」を、white glovesと訳した
当時の米国人読者には白足袋とは何なのかわからず、正装としての感覚は西欧文化ならば
white glovesに該当するからだと考えた
こういう方法は文学やエンタメの翻訳ならば許されるが、学術書や技術書で許されるわけはない
「白足袋」は白足袋でなくてはならず、読者に理解できないおそれがあれば注釈などが必要 >>693
自己レス誤記訂正 ×おそろか ○おろそか
白足袋をwhite glovesは、昔だから許容されたが
今だったら異文化の障壁があっても許容されたかどうかな
white glovesとしたら和装ではなくて洋装になってしまうしね
かなり違ってくる >>690
翻訳は大変です
歴史的名著でない限りある程度は大目に見ましょう 一方サイデンステッカーのように川端の文章の曖昧な所を突いてしまう人がいる
川端曰く、うまく直す方法が見つからんからそのままにするw >>696
『雪国』の「夜の底が白くなった」だったっけ?
The earth lay white under the night sky. とサイデンステッカーは訳した
原文は川端にも論理的な説明はできなかったんじゃないかな
「夜の底」なんてのは具体的に何を指すのかと問われても普通の日本人には答えられないし
たぶん川端にも外国人を納得させる説明は不可能
原文の曖昧さが英訳文では消えて、具体的で平板な描写になっているな、と日本人としては感じる
「夜の底」の神秘性も消失しているが、日本文学の英訳としては許容範囲 >>697
そこではない
そこはよく考えればトンネルを抜けた時の具体的な現象の比喩であることが分かる
雑誌掲載時の初稿を見ればもう少し簡単に分かる
サイデンさんの指摘したのは
学生の一人称小説から逸脱した部分があるのではないかということ
「一草一花」に川端の返答が載ってるから読んでみて
川端の文学の本質を、そして日本語の特徴を突いたやり取りになってる >>698
原作のタイトルが書いてないけど学生の一人称てことは『伊豆の踊子』かな?
英訳本は手元にないし『一草一花』も未読だから時間が出来たら読みます
私の専門が日本文学ではなく、英米語と英米文学のほうなので
谷崎の英訳本と岡本綺堂の半七捕物帳の仏訳本は持っているがなかなか興味深い
英語や仏語に訳しやすい日本文学と、そうでないのとがよくわかる
谷崎や岡本は英語に堪能だったので、一見純和風の文章に見えて、
骨格は欧米語の文体
川端も無論英米語や仏語の教養知識はあったにきまっているが、
作品の文体の骨格は純和風だなと感じる
といって私は川端の作風を好まないので、英訳本を精読したわけではないけど >>699
書きわすれた、私が持っている谷崎の英訳本は『痴人の愛』と『細雪』だけ
両方ともかなり大胆な英訳で、特に『細雪』のほうはそれが顕著
中盤で、雪子が地方の素封家の仲人口で、岐阜だったかで見合いをするシーンなどは、徳川時代の漢文や絵画など
日本の教養層でも理解しにくく、ましてや英米圏の人には理解が無理というシーンがあるが
そういう箇所は大胆に英訳して、英米圏の読者の読書スピードを妨害する注釈を極力避けているか
このスレは日本語と英語の学習の話なのでこれ以上の横道深入りは避けますが、以上補足 >>700
自己レスで訂正 ×極力避けているか ○極力避けている
手持ちの『細雪』の英訳本の英訳者はサイデンステッカー
谷崎は、『春琴抄』の元ネタがハーディの某作品だと指摘されるなど英文学の影響が濃い
今は著作権がやかましいので、少しでも既存作品との類似点があればすぐに追及されるが
当時の日本はあまかった
英国のホラー短篇『猿の手』が日本の大正時代(だったと思う)の某著名大衆作家の作品にあからさまにぱくられているが
当時は問題無し >>701
サイデンさんは谷崎の小説は読むのは面白いけど
翻訳するのは簡単すぎるから面白くなくて辞めて川端に移った
理由はあなたの言うように英語みたいな文章だから >>701
けど春琴抄はネタと男女も展開も反対にしてある >>703
日が明けて読み直したが、男女は逆じゃなかったw >>701
自己レスで訂正その2
日本の著作権法ではアイディアは保護されない
アイディアが保護されるのなら、ミステリなどは書けない
だから春琴抄に元ネタがあっても、著作権方面からは批判されない
批判は、作家としてのオリジナリティの軽視、創作力のなさのほうからくるだろう
『猿の手』のもろパクリは林不忘の釘抜藤吉捕物覚書『』中、『悲願千両』
青空文庫に入っているが、本当にもろパクリにまちがいないが、
みごとに換骨奪胎されていて違和感はない
林不忘は在米生活が長く、英米語の小説で日本語に訳されていないものを
どんどん読み、自分の作品にとりいれている
牧逸馬名義の『世界怪奇実話』もほとんど英米語の資料の写しだろう
現在ならすぐに批判されるが、当時の日本は寛容だった
林不忘の日本語の「語り」の巧さは、元ネタが英語であることを忘れさせる
春琴抄が、あの「語り」によって、元ネタのハーディを意識させないのと同じ
スレの主旨に沿えば、翻訳ではないが、こういう作品を元ネタと対照して読むと、
日本語と英語の性質の違いもある程度浮かびあがってくるかもしれない >>705
訂正、×悲願千両 ○悲願百両
急いで書くと間違いが多くなり、失礼しました >>690
普通の一般誰でも読める本だって不自然な部分は普通にあるよ。
ギクシャクするのは仕方がないんだろうと諦めてる。
その分だけ言語が育っただけ文化や人種気質が違うってことなんだろうなって。
欧米言語程度すらそうなんだから日本語にあまり翻訳されてないような言語の本なんか
もっとギクシャクするだろうし、翻訳者によってかなり変わっちゃうんだろうな。 >>707
印欧語はむしろ日本語から言語間距離(language distance)が遠い言語。
テュルク系言語とか、ウラル系言語の方が上手く翻訳できるかもしれない。 >>167
言われてみればそうかも
なんか腑に落ちたよ >>178
だから中国共産党は極端に画数を減らした簡体字を採用した
調べてみれば分かるが、飛とか豊みたいのは笑っちゃうほど超スカスカだよw 私が古林です I am kobayasi.
私は古林です I am kobayasi. 私が小林ですは、I am the Kobayashi じゃね 「が」は主体性
「は」は客体性
shall
will
この違いだ 「が」は、あなたしかできません
「は」は、私以外の誰かでも出来ます
「が」は〜「我」である
「は」は〜「輪」である >>713
私が古林です I am kobayasi.
私は古林です I am kobayasi.
私が古林です I am the kobayasi.
私は古林です I am a kobayasi.
定冠詞と不定冠詞の違いに近似 >>715
shall は神様の意志。
will は自分の意志。
>>716
? >>718
神がアイ(I)に乗り移ったときに出るのが〜「が」≒「shall」
自然界の「形式主語」な「It」に近い
It is fine.
一神教な「ユダヤ」「キリスト」「イスラム」の神は「単数形」
神様って元々「アミニズム」です
多神教ですから〜
They are fine.
こっちのほうがエエわ >>718
それは逆や
誰かが突っ込むはずとワザと逆に並べてみますた、すんません >>705自己レス
さきほど『猿の手』の原文と『悲願百両』をざっと斜め読みしてみた
両方とも現在はパブリックドメインなので、ウェブ上で公開され、簡単に読める
一言で言うと、英語の文学的文章の性質と、日本語の文学的文章の性質との違いが
よくあらわれているなという印象
それと、林不忘の文体の骨格がはっきり欧文脈なのに驚いた
昔読んだときにはそうは感じなかったのだが、あまりにも日本的な景物がそこここに
ちりばめられているので、韜晦されたのだろうと思う
たとえば>>1にあるような「今日は、ジャケットを買った」的な文章があまり見当たらない
主語と述語動詞がはっきりしており、主語が省略されている場合も、それが何なのかすぐに指摘できる
英訳するのもこれならばそう難しくはないだろうなという文体
欧米語に堪能で欧文脈の骨格の文体を持つ作家は、あえて和風の趣向をこらすのだなという印象 theは非固有名詞を固有名詞化する効果を持つって習った。
white house(白い家)なんて世の中にいっぱいあるけど、
the white houseといえば(分かってるよね?)あのホワイトハウス一つしかない。 the apple
これは実在します
an apple
これは実在しません
あくまでもイメージの世界の産物 主体ってあります、顕現してる世界観
客体って〜実は大脳のどこかで擬製した「虚偽」な世界観
この「が=我」と「は=輪」論って日本文化の結構根源的なズレを象徴してる >>725
apple がイメージの世界のものじゃないかな。というか集合の名前。
an apple は集合appleの中からどれでもいいから一つ取り出したもの。 >>730
appleはオブジェクト指向プログラミング言語でいうところのクラス名?
an appleがインスタンス?
そのインスタンスを参照するにはthe appleを使う? フルーツ・クラスのサブクラスであるアップル・クラスから
アン・アップル・インスタンスを作成する。
この作成にはThere is/are構文を使う。
以降、このアン・アップル・インスタンスを参照するには
ザ・アップルと記す。 自然言語が基本
人工言語が〜自然言語の包容性を超えることはしばらく無い 名詞の格変化が残っているドイツ語などでは,格によって
主語や目的語を表すことが出来るので,いくつかの重要な
原則さえ守れば,さほど語順にこだわる必要はない。
英語は格変化を失ったので,語順を守らないと意味が通じ
なくなった。
バリエーションがないので初心者には取っつきやすいが,
その分,英語での表現は,淡泊で詰まらないものになった。 >>723
林不忘は翻訳も結構やってるし
別名義で書いてた探偵小説や犯罪小説は
昔から米文調で有名だった
少なくとも探偵小説愛好家には
探偵小説業界に大きな影響を与えた人 >>730
それに付いては普遍論争という有名な議論がある >>735
「英語は格変化を失った」
それは大英帝国が世界の覇権を握った瞬間でした
世界語になるための関所を越えた言語の1つです 現代のラテン語が英語である
帝國語です
東アジア文化圏なら帝國語な「中国語」は必須 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています