【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達、公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属★2 [しじみ★]
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三国志は2世紀後半から3世紀の中国を記した史書だ。これを基にさまざまな物語が作られた。九州国立博物館(福岡県太宰府市)の特別展「三国志」(来年1月5日まで)に原画が展示される横山光輝さんの漫画で知った人も多いのではないか。劉備玄徳に関羽雲長…。英雄たちのストーリーは魅力的だ。
一、二を争う人気者は諸葛亮孔明だろう。三国志関連の書籍を数多く出している渡邉義浩・早稲田大教授は卒業論文で孔明について原稿用紙400枚書いたそうだ。玄徳に三顧の礼で招かれた孔明は、ライバル司馬懿(しばい)仲達と対陣中の五丈原で234年に没した。「死せる孔明生ける仲達を走らす」。名場面の一つだが、孔明の死は日本の歴史にとっても重要な出来事だった。
当時、中国で最も勢いがあったのは仲達が仕えた魏。魏は西方で孔明がいた蜀と戦い、南で呉と対する。さらに「五丈原」の時は地方政権の公孫氏とも争っていた。公孫氏が支配した朝鮮半島の付け根あたりは伝統的に倭(わ)(日本)との関係も深い。ここの銅剣は、弥生時代の倭の銅剣に影響を与えたとされる。
独立しようとする公孫氏の討伐を魏は試みるが、うまくいかない。孔明死去で蜀の脅威が減り、切り札仲達を指揮官に投入した。仲達は238年に公孫氏を滅ぼし、翌239年、邪馬台国の女王・卑弥呼の使いが魏にやって来る。公孫氏滅亡がなかったら、少なくともこの年に使者が魏に来ることはなかっただろう。
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。「死せる孔明−」は「卑弥呼を残す」と締めることもできる。
「三国志」はあくまで中国の話。だが日本の古代史論争とも密接に絡み合う。そんな視点で特別展を見るのも面白い。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/548439/
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1591727003/ もう、令和コロナ時代は何人なのかも関係なく、これから一呼吸おいてから、医療崩壊して大量感染〜重篤化するかも知れませんね。 だとすれば、
天孫族は出雲族に敗れた
それだけのことだよ >>118
そのような事実を隠蔽し続けて来た日本の歴史 嘘の歴史を自国民へ教育してきた 明治政府から現在の政府 出雲、出雲、拍手は朽ち果てるまでし続けなければ許してくれないだろう。 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1601203809/-100
女優・竹内結子さん、死亡 享年40 自宅のクローゼットの中で首を吊って自殺か 「ストロベリーナイト」等に出演
1999〜2000年のNHK連続テレビ小説「あすか」でヒロインを演じた。 伊勢神宮の天照が卑弥呼と仮定して
式年遷宮は大工のためではなくそもそも20年で移動するというしきたりがあったのでは?
そう考えたとき今までの謎が晴れるような邪馬台国の姿が浮かび上がる
各豪族の拠点を巡りまつりごとを行うことで権力集中と傀儡化を防止する
その天照がいる場所がヤマトであり奈良から伊勢に移った時に権力から解放された 今邪馬臺国、卑弥呼関係で書き込みできるのはこのすれだけ 中国の記録に登場する邪馬台国について日本で議論する必要はない
中国人による解釈でOK
https://www.youtube.com/watch?v=6Z0avSjgtHo 中国人の素人は弥生終末期の日本の状況がどんなだったか知識がないから
正しい判断はできない >>128
考古学会という歴史捏造犯を擁護するのか? あの頃は
家畜奴隷が食料だった
本当に弱肉強食だった >>2
>>31
隷属でも属国でも同盟でもなく冊封国です >>131
冊封国の証拠は「漢委奴國王」印だわ。
「委奴」は「匈奴」の「奴」と同じ用法で
蔑称
これは古田武彦(1926年大正15年8月8日〜- 2015年)の世代の日本人が
戦前支那チョンを見下し敗戦後は打ちひしがれた精神状態で
「邪馬台国はなかった」で熱弁した「自虐史観」にマッチするwww
宗像氏の「宗像」の「宗むな」は「胸むね」の訓読みを体裁良く書き換えた漢字。
「胸板」という場合は「むね」が「むな」と変化(=活用)する。
「胸」の旁の「匈」(=像)のx≒メが刺青を表わす象形文字。
凶匈胸は中国語で同じ発音(≒音読み)の漢字。 アメリカも当初はイギリスの配下 倭国も存続のためには魏を頼らざるを得なかった
現在日本は軍事力をアメリカに頼っている 興廃は時代で変遷する 日本が軍事力をアメリカに頼っているのは
日本が軍事力を拡充すると支那チョン左翼野党が軍国主義復活などと
批判するから。
しかし北朝鮮も軍国主義で長距離ミサイルを発射して日本やアメリカを恐喝する。
中国も台湾の総統選挙の時に軍事演習して軍事力を見せつけ恐喝する。
秦人「恐喝」諸侯、求割地。秦人(シンひと)諸侯を恐喝して、地を割かんことを求む。
有洛陽人蘇秦。洛陽の人蘇秦といふもの有り。
*有の前に持ち主を明示、暗示するような名詞が無い場合は無主語文。
昔、むかし、洛陽に蘇秦という人「が」居りました。
という風に新情報をを表わす助詞「が」を使って紹介する。
英語なら In Lok-iang(洛陽),there lived a man named Soh Tsʰing(蘇秦).と
いう構文になる。
游説秦恵王、不用。秦の恵王に游説して、用ゐられず
乃往説燕文侯、与趙従親。乃ち往きて燕の文侯に説き、趙と従親せしめんとす。
燕資之、以至趙。燕之に資して、以て趙に至らしむ。
*説粛侯曰、 粛侯に説きて曰はく、
*説はshuō、shuì、yuèという風に3つの読音があり
「遊説」のような意味の場合shuoではなくshui(税)と発音する。
【廣韻】舒芮切 【玉篇】亦談說也。
「諸侯之卒、十倍於秦。 「諸侯の卒、秦に十倍す。
并力西向、秦必破矣。 力を并せて西に向かはば、秦必ず破れん。
為大王計、莫若六国従親以擯秦。」 大王の為に計るに、六国従親して以て秦を擯(しりぞ)くるに若(し)くは莫し。」と
粛侯乃資之、以約諸侯。 粛侯乃ち之に資し、以て諸侯を約せしむ。
蘇秦以鄙諺説諸侯曰、 蘇秦鄙諺を以て諸侯に説きて曰はく、
「寧為鶏口、無為牛後。」 「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ。」と
於是、六国従合。 是に於いて、六国従合す。 370回 邪馬台国の会 2018.6.24
【日本古代史】邪馬台国はどこにあったのか、卑弥呼の年代論
>魏の皇帝は、卑弥呼に、「五尺刀二口」を与えたと記されている。
>この「五尺刀」は鉄の刀と考えられる。
>「五尺刀」は、長い刀である。銅の刀であれば、ねばり気がないので、長い刀は折れやすい。
ここで「銅の刀」と書くのは乱暴だ。
純粋の銅は金属の中で、常温では銀に次いで2番目に電気を良く通す金属、
つまり電気抵抗が小さいという特徴があります(電気の流れに対して邪魔がない)
そして粘り気があって折れにくいので細く伸ばして軟質プラスチックやゴム等で
被覆して家電用電線として使われている。
ise-miyachu.co.jp/faq/?p=1882
>> 青銅鏡は銅、錫などの合金との事ですが、
> 合金に使用されている金属の正確な混合比率は
> お分かりになりますでしょうか。
>青銅鏡の成分の割合につきましてご案内させていただきます。
>銅:85%、錫:5%、鉛:5%、亜鉛 5%
日本語wikiより
>添加する錫の量が少なければ日本の十円硬貨にみられるような純銅に近い赤銅色、
>多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では
>白銀色となる。そのため、古代の銅鏡は錫の添加量の多い白銀色の青銅を
>素材とするものが多く、日本語の「白銅」の語も元来はその白銀色の
>青銅を指していた。硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、
それにともなってもろくもなるので、青銅器時代の青銅製の刀剣は黄金色程度の
>色彩の青銅が多く使われている。また、中世・近世の銅鏡は「もろい白銀色」の
>青銅ではなく「強靭な赤銅色」の青銅で鋳造し、水銀で磨いたうえでアマルガムを
>生成させ、鏡面とする方法が主体になっている。 銅と鉄の硬さは九州説派が針小棒大にハッタリを
吹聴するほど硬さに大きな違いはない。
硬い鉄鋼ほど比重の大きい金属成分が混じっているので重くなる。
日本銀行ホームページより
>10円青銅貨幣
>昭和28(1953)年発行開始※
>図柄:平等院鳳凰堂
>素材:銅95%、亜鉛4%〜3%、錫1%〜2%
>5円黄銅貨幣
>昭和24(1949)年発行開始
図柄:稲穂、歯車、水
素材:銅60%〜70%、亜鉛40%〜30%
直径:22.0mm
量目:3.75g
縁刻:ギザなし
トランペットやフリューゲルホーン、トロンボーンは真鍮(黄銅)に金メッキをしたものが多いが
red brassといって銅の割合が多い赤銅色のトランペットやフリューゲル・ホーンがある。
livedoor.blogimg.jp/shires/imgs/5/0/50a631c6.jpg
息を吹き込む部分から音が出ていくいわゆる喇叭の部分が
銅の割合が多い赤銅で、音程を変えるピストン、シリンダー部分が
銅の比率が、62〜67%で残りが亜鉛の真鍮のような色になる。
>丹銅(レッドブラス)(ゴールドブラス)
>丹銅は、特に見栄えがする銅で、黄銅の一種のため、銅と亜鉛の合金です。
亜鉛量は4%〜22%で、色合いは銅赤色から薄いオレンジ色です。
*丹は丹頂鶴の丹と同じでタンチョウヅルは頭のてっぺんが
丹頂赤いのでと名付けられた。
ネーバル黄銅
銅59%〜64%、錫0.5%〜1.5%、残りが亜鉛からなる合金です。
強度と耐海水性に優れており、船舶部品や、シャフトなどに使用されております。
リン青銅(燐青銅)
溶解鋳造時に微量のリンを添加することにより、脱酸を行い、
優れた強度とバネ特性を持つ。
錫4%〜10%、リン0.35%以下残りが銅です。
青銅と鉄の硬さ比較(モースの硬度)
真鍮(Brass)3〜4
鐘青銅(Bell-metal)4
燐青銅(Phosphorbronze)4
鉄(Iron)4〜5
鋼(Steel)5〜8.5(製鉄の方法や合金の成分によって開きがある)
黒曜石の硬度「5」は、ほぼ窓ガラスと同じくらいの硬度。
ナイフなど鋭利な金属に当たると、わずかに傷がつくていどの硬さ
銅とと鉄の硬さは九州説派が針小棒大にハッタリを
吹聴するほど硬さに大きな違いはない。 >>45-54
脳内で言葉を躍らせ嘘を交えながら 「馬鹿チョン」と言うキーワードひとつで
日本国民の共感を引いた上で、邪馬台国九州説は無いのダ、と結論つけたいようだが
酷いと言うか妄想に満ちた狂人の虚言だな。科学的検証の類が必要なものばかりだが
時々混ぜる人種遺伝子分析の型も、よく間違いや嘘を交えるようだ。
日本皇室に途中で変わった可能性な世界逃避行の湯田10王家の事まで書いて、よくも
このような妄想垂れ流しをw
魏志倭人伝の記載にある倭国内行脚の即席の読み解き解釈などは横に置いておいて
日本最古の王朝国家倭国や倭都があった九州で半島朝鮮人関係無く九州から
出でて山陽道を東進し、関西近畿の大小豪族も武力平定し倭国に続いて日本列島で大和朝廷を
開いた初代天皇家なども、勝手に琉球やべブライ流れの大陸人だったどと、根拠無し大嘘を書いている
お前のような嘘つきは専用板で妄想を垂れ流しているのがお似合いだ。沿海州
あたりに流れて女親族と北方エベンギ族の混血から生まれた末裔なんだろうな
お前は。他人のふんどしで権威ぶる、他者文献盗用切り貼り内容の頭に
臭い湯田三角マークを張る高卒コピペとかも見苦しいから、貼るなよ。w 〇 日本皇室に途中で関わった可能性な世界逃避行の湯田10王家の事 シナ人の工作員なんだろうな
北方エベンギチョンと女真の混血の
仏人ハーフはそこまで見識は無いはず 畿内説とは、日本のバカ考古学者が作り出したファンタジー小説です
■旧唐書より
※倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
<倭国伝>〜7世紀初頭まで
倭国(九州)は古の倭奴国なり。
※漢委倭奴国王の金印は福岡で発見された
<日本伝>8世紀以降
日本国(ヤマト)は倭国の別種なり。
■「別種」の使用例
<高麗伝>
高麗は出自、扶余の別種なり。
<百済伝>
百済国の本も亦た、扶余の別種。 旧唐書って唐から宋への移行期の無政府状態の時期に
どこの馬の骨かフライドチキンの骨か鰤の骨かわからない
日本と関わりのない奴が書いた瓦版の噂話だろwww 邪馬台国の時代に鉄製品は(大陸製品のリサイクルはできても)まだ国産化されてないんだっけ? 旧唐書の「日本国(ヤマト)は倭国の別種なり」という記述は
壬申の乱のうわさを反映したもの。
大海人皇子(おおあまのおうじ)には美しい恋人、額田王(ぬかたのおおきみ)がいた。
天智天皇は額田王を譲るように話を持ちかけてきた。
天智天皇と大海人皇子は血のつながる兄弟(大海人皇子が弟)。
額田王は天皇のもとへ、代わりに大海人皇子には天智天皇の娘2人が与えられた。
つまり姪を妻にしたのだ。
姉の大田皇女(おおたのひめみこ)と妹の鵜野讃良(うののさらら、後の持統天皇)である。
近江京で病の床にあった天智は、枕元に弟の大海人皇子(後の天武天皇)を呼び寄せて言った。
「わたしの病は重い。お前に後を譲りたい」
意外な兄の言葉に、大海人皇子も一瞬真意をはかりかねたが、きっぱりと答えた。
「いや、けっこうです。皇位は倭姫皇后にお譲りください。政治のことは長子の大友皇子に
おまかせなさい。わたくしは出家し、吉野に籠って天皇の御平癒を祈りたく存じます」
長男にあたる大友皇子(おおとものおうじ)が本命だというのを悟っていた大海人皇子は、
我が子 高市皇子(19才)と大津皇子(10才)を人質同然と知りながら近江に残し、
自らは鵜野讃良(後の天武天皇)らを引き連れ奈良の吉野に籠った。
西暦672年、弘文天皇元年、天武天皇元年、皇紀1332年、
唐の3代目皇帝高宗(こうそう)の治世咸亨3年(唐の滅亡は907年)に
天智天皇が亡くなると、近江京では兵を整え大海人皇子を討つ準備が進行していた。
吉野へは食料を運ぶ道も朝廷により封鎖され、身の危険を感じた大海人皇子は
美濃を拠点に挙兵した。
これが古代日本最大の内乱、飛ぶ鳥の飛鳥時代の「壬申の乱」のきっかけ。
纒向遺跡のある桜井での戦い、最後の決戦場所となった瀬田川の決戦も
大友皇子を中心にしてきた近江朝廷が敗れ、
大海人皇子の勝利に終わった。
当時の中国側には、壬申の乱によって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したと目に映ったらしい。
「歩く万葉学者」として有名な犬養孝博士も天智系が終わり天武系が始まったという見解を発表している。 日本(書)紀は九州出身の神武天皇の子孫である天武天皇が中国に負けじと
作らせた漢文体妄想歴史小説。
『日本書紀』は『日本紀』の別種である。
それは『日本書紀』に続く六国史の第2書が『続日本紀』となっているからである。
岡田正之による『日本紀』区分研究があり、森博達(もり ひろみち)は岡田の遺稿『近江奈良朝の漢文学』(1929年)を
『日本書紀』区分論の幕開けと評価している。
近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。
森による分析でα群(巻14〜21、巻24〜27)の和歌表記に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音に依拠しており、
β群(巻1〜13、巻22〜23、28〜29)のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。
そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが
頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している。
逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていない(唐で清濁の区別が失われた)こと、
日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している。
さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、
本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている。 人が住むのに適した土地の広さという点でいくと圧倒的に九州の方が有利だな
https://i.imgur.com/tIzJHgJ.png >>146
2017年の面積出してどうするんだ
卑弥呼の時代の海岸線の地図で比較しろよ
博多の中心部なんて海の底だろ
>遠賀川流域と洞海湾岸の遺跡にも貝塚がある。海進時、遠賀川流域は海面の上昇により深い入海となり、
>東の洞海湾と通じ、岬や小島が散在し、複雑な海岸線になっていた。
>このような遠賀川流域の状態を古遠賀湾、洞海湾も平野部が入海になっていて、
>古洞海湾と呼ぶ。古遠賀湾口は広く開いており、それは砂の堆積、
>季節風や隆起によって砂丘が発達して、その発達によって湾口をせき止め、
>山から運ばれて土砂が内海を埋め、干潟となり、湿地帯となり、現在の地形となっていった。
>この古遠賀湾岸の10m程度の等高線上に貝塚群がある。
直方氏ホーム > 文化財を探す> 天神橋貝塚
>天神橋の工事中に見つかり、橋の地下、約6mの場所にあります。見つかったモノの中には長さ10pクジラの歯でつくった首飾りがあります。
つまり縄文時代から現代までの間に土砂が少なくとも6m上乗せされたということ アホすぎ
海岸線は卑弥呼の時代から大して変わらないと判明してるぞ
河内湖とは地勢が違うんだよバカ >>148
大阪が陸地になったのは5世紀以降なんだね
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html 3世紀にはヤマト政権の中心は奈良県にあったのだから、
2017年の可住地面積なんか持ち出したところで何の意味もない >>151
奈良は3世紀頃に吉備政権の傘下に入ったと思われ
埴輪や桃はその証拠だよ >>148
誰が言ってるんだ
古田や安本が言ってるんなら信憑性は低いぞ
地図や学者の論文を挙げて反論しろや >>143
中国側からしたら戦乱による皇位争奪戦後に倭国から日本へ呼び名が変わったことを、
「王朝が変わった」と中国側の常識で捉えていたわけか。 >>154
「壬申の乱」は現代の言葉でいえば政変、クーデター、王位簒奪だな 大国主神が天照大神に支配権を譲った国譲り神話は史実なのかな?
(だから大量の銅剣銅鐸が出雲からみつかった) >>153
奥山くん
君が畿内病なんだよバーカwww 卑弥呼の時代は飢饉だの狗奴国との戦争だのと大荒れ
卑弥呼の死後の男王時代も大荒れ
台与の時代でようやく平和になるが、その後の記録によると五人の王権が立っている
つまり正味統一国家となったのは正史の通り壬申の乱以降だ
3世紀に既に統一国家だったのとぬかす畿内説はアホの極みだw 国譲りや支那の禅譲は綺麗ごと、
真実は籠城戦を経て降伏したとか
日本神社には怨霊を祭った神社がある。
その代表は菅原道真を祭った天神社、天満宮。
出雲大社はほかの神社と違って西から参拝。
井沢元彦が『逆説の日本史』で指摘している。
大国主神が鎮座する本殿の正面入口は南向きなので、
知らない人は横向いた大國主大神に手を合わせている。 >>157
ほう、吾輩は奥山君なんて知らないが
奥山君は漢文の達人で邪馬台国を実証的に研究してたのか。
王力や趙元任に師事して支那語に造詣が深かったのか
愛読書は王力著「漢語史稿」か
痛いところを突かれるとすぐに問答無用で摩訶と言う九州摩訶
は味噌汁で顔を洗って出直せ。
博多区は高潮で水位が5m上昇すると福岡空港の北西半分が
2018年台風21号で関空が水没したのと同じ状態になる。 そいつ発音がどうたらとかどうでもいいことばっかり書いてるやつだよ
どんな話題も強引に発音に繋げてしまうから邪魔 >>1
この教授は歴史の時系列も知らないのか?
本当に質が落ちているなぁ 吸収説の矛盾を突くからまともに反論出来ない吸収派にいつも問答無用で罵倒されるwww
罵倒されるのは吾輩への勲章である。 那珂川高潮最大水位6.4mだと
福岡空港税関支署の真東まで水没して
福岡空港は使用不可能。
「博多区高潮ハザードマップ」で検索
〒812-0002 福岡県福岡市博多区空港前4丁目3−21にある
博多警察署 空港前交番は海抜5.1mなので想定最大高潮水位6.4mの場合胸の高さまで水没。
満月、月齢0前後に今年の台風10号の眼が博多区上空を通過するとヤバい! >仲達は238年に公孫氏を滅ぼし、翌239年、邪馬台国の女王・卑弥呼の使いが
>魏にやって来る。公孫氏滅亡がなかったら、少なくともこの年に使者が魏に来ることはなかっただろう。
当時は沿岸航行だから遼東半島の先端まで行って100km先の山東半島の方向を目指せば
途中に島があるので島伝いに今の蓬莱市に上陸することができる。
蓬莱は徐福伝説と関係が有りそうな町の名前だ。
そして二千五百長里〜三千長里で洛陽にたどり着ける。
黄河の流れが緩やかなら黄河を遡上することもできる。
〽野崎参りは屋形船で参ろう
という歌にもあるように江戸時代は大阪の中之島から大川~淀川を遡上して守口市で船を下りて
大東市野崎にある曹洞宗慈眼寺の観音様を拝みに行ったらしい。 其六年 (245年、正始)詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
其八年 倭 女王 卑弥呼
與 狗奴國 男王 卑弥弓呼 素不和 遣倭 載斯烏越等 詣郡 説 相攻撃状
遣 塞曹掾史張政等 因 齎詔書 黄幢 拝假 難升米 為檄告喩之
三国志と日本の係わりは、238年の朝貢よりも
その後の、馬韓辰韓の制圧戦245〜6年において、
卑弥呼の将軍 難升米 への 詔賜 黄幢 付郡 假授と檄である。
日本は、これに応えて参戦をしていない。
それどころか247年に女王国との親交が絶えると
魏〜晋帝の東夷安定策は、日本人の造反によって失敗している。
この後、日本は魏による制圧後の馬韓、辰韓の再興を支援。
313年楽浪帯方を追った高句麗を押し返し、350年に百済、新羅の建国を果たす。
これによって日本は、高句麗牛馬の移入と鉄の国内生産の富国強兵が実現。
400〜500年には、南朝に幽州刺史、楽浪候となっていた高句麗交戦と
半島利権の交渉に倭の五王が出向き、日本の古墳時代は全盛期を迎える。
これが東亜の古代史であり、中国皇帝による戦史、
中国史で空白となる晋の弱体化当時の、
東亜に関する書き残したくなかった部分である。 第370回 邪馬台国の会
安本美典曰く「魏の皇帝は、卑弥呼に、「五尺刀二口」を与えたと記されている。
この「五尺刀」は鉄の刀と考えられる。「五尺刀」は、長い刀である。
銅の刀であれば、ねばり気がないので、長い刀は折れやすい。」
これは間違い
今日の放送大学「考古学第1回」で言ってたが
実験実証考古学というのがある。
安本美典は青銅剣は脆いとしたが
錫の多い青銅剣は焼き入れによって頑丈になることが
京都大学の研究
TITLE 研究ノート 錫青銅の熱処理について
西村俊範
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239611/1/shirin_083_5_884.pdf
及び高岡短期大学学生の卒業制作によって
焼き入れした錫青銅の栓抜きがハンマーで叩いても折れないことが実証された。
core.ac.uk/download/pdf/76176553.pdf
考古学は関連領域の自然科学と相俟って考古学研究結果の
研究結果の信憑性が担保される。
説文解字【徐曰】淬,劒燒而入水也。與焠通。
【前漢·王褒傳】C水焠其鋒。C水でその鋒(ほこ)を焠(にら)ぐ【註】(顔)師古曰:焠,
謂燒而內水中以堅之也。焼いて水中に入れ以って之(これ)を硬からしめる=硬くする。
安本美典は「淬ぐ(にらぐ)=赤熱した鉄や青銅を水に入れて鍛える。焼き入れする」というのを
知らなかったので生半可な知識で「銅の刀であれば、ねばり気がない」と断定した。
【前漢·天文志】火與水合爲淬。火と水を合わせて淬ぎとなす
奥の細道 最上川「かの竜泉(りようせん)に剣(つるぎ)をにらぐとかや」
こんな文系や理系の研究に疎いオッサンがWeb上だけじゃなく1年前に
誤りと偽りの考古学・纒向
これは、第二の旧石器捏造事件だ!
安本美典 著 ISBN 978-4-585-22242-2
税込み定価:1,980円で活字にして出版してるんだぞ。
初版発行 2019年7月10日
この大衆向けプロパガンダ読み物の中で藤村新一を批判して
「科学性が失われている現状は、何とかする必要があるのではないか。」と書いている。
2ch、5chでよく書かれているフレーズ「オマエが言うな」だわ。
自分の間抜けを晒して恥ずかしくないのだろうか。 blog.livedoor.jp/geibi/archives/49935308.html
>ガイドさんのお話で非常に印象的だったのが、「NHKの番組で、平原王墓での
>埋葬時の儀式を再現している中で、銅鏡を地面に投げつけて威勢良く割っていたけれど、
>こんなもの(レプリカ銅鏡)を割れるもんなら割ってみて下さい。
>金鎚で叩いた跡もないけれど、叩いてもそう簡単には割れませんよ」というお話でした。
>私もその番組は見ていましたが、何も引っかからずに、ああやって割って
>「巫女の霊力の引き継ぎの儀式」が執行されたのだと納得していました。
>しかし、レプリカの厚みや硬さに触れてみると、絶対に投げつけたり
>少々叩いたくらいでは割れそうもありません。
>それが、中には粉々になったものさえあります。一体どのようにして割ったのか…
>何故そうまでして割らねばならなかったのか…それを探ることも、
>平原王墓で行われた儀式の意味究明に必要だと思わされました。 誤りと偽りの考古学・纒向
これは、第二の旧石器捏造事件だ!
安本美典 著 ISBN 978-4-585-22242-2
税込み定価:1,980円で活字にして出版してるんだぞ。
初版発行 2019年7月10日
の中で
安本美典は
考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(『古墳と被葬者の謎にせまる』【祥伝社、2012年刊】)
この原則をもってすれば、ホケノ山古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相、すなわち年代を示すのは、すでに紹介した二本の、年輪十二年ほどの小枝である。
と大上段に振りかざして書いている。
邪馬台国の会でも次のように発表捨ている。
考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(『古墳と被葬者の謎にせまる』【祥伝社、2012年刊】)
この原則をもってすれば、ホケノ山古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相、すなわち年代を示すのは、すでに紹介した二本の、年輪十二年ほどの小枝である。
そして、この二本の小枝については、原報告書の『ホケノ山古墳の研究』に、「小枝については古木効果の影響が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
つまり、試料として用いられるのにふさわしいということである。
そして、この二本の小枝の示すところは、上図の示すように、四世紀で、しかも、四世紀の後半の確率が大きいということである。考古学の分野では、考古学者の大塚初重氏がのべておられるような、つぎの基本的な原則がある。
「考古学本来の基本的な常識では、その遺跡から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示す特徴を以てその遺跡の年代を示すとするのです。」(『古墳と被葬者の謎にせまる』【祥伝社、2012年刊】)
この原則をもってすれば、ホケノ山古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相、すなわち年代を示すのは、すでに紹介した二本の、年輪十二年ほどの小枝である。
誤りと偽りの考古学・纒向
これは、第二の旧石器捏造事件だ!
安本美典 著 ISBN 978-4-585-22242-2
の112頁〜123頁
藤の木古墳から江戸時代の灯明皿が出土したから
安本美典の御説に従えば藤の木古墳の築造は江戸時代ということになる。 >>173
灯明皿が後世の混入でなければ、藤の木古墳の築造は江戸時代になる
後世の混入でなければな
当たり前
反論にもなってない
どうしようもないバカだな 古来より筑後川は「暴れ川」と言われ、流れが速く、
鍋島・有馬藩が管理する両岸は大雨の度に大洪水に見舞われており、
川が運ぶ肥沃な土壌を持ちながら、水害のために飢饉がおこる
悪循環を繰り返してきた。 畿内説は妄想
3世紀の畿内は狗?国(反卑弥呼派の70国)の一部と見るのが妥当
〜 中国の記録に記された女王国の規模 〜
魏志の韓伝および倭人伝に記された領土に関する情報
・三韓からなる韓国領土は4000里四方
・馬韓の国数は50国
・倭の国数は30国
・倭は約5000里で巡回出来る
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国がある
・女王国の南には敵対する狗奴国がある
https://i.imgur.com/yLFScGN.png
〜 中国史書に記された女王国(邪馬台国)の位置 〜
■魏志韓伝より
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里」
韓国はソウルの南に有る4000里四方の国で、東西は海に面し南は倭と接する
■魏志倭人伝より
・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里
・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里
・帯方郡から女王国までの総距離が12000里
・女王国起点で紹介されている倭人の国々の方角は北、東、南のみ
・南に4000里航行すると侏儒国(小人の国)がある→種子島
■結論
女王国の位置は倭地の西の端=九州島の何処かである
■参考
日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
※1里=約70m >>174
箸墓の鐙も周濠から発見され石室の中に無かった以上
後世の混入だな
吸収莫迦は絶対に認めたくないだろうがwww >>178
石室の中?
いつ開けたんだ?
ここの畿内説は詐欺師だから注意な >>179
周濠から見つかったって知らないのかwww
煩鞍 >>178
ホケノ山古墳と藤の木古墳の話題だ
無関係な箸墓古墳を持ち出して、話をそらすな
藤の木古墳の例で反論しようとしたのはお前の無知によるものだと認めるか?
話をそらさず、答えろ >>180
お前自分で書いた文書が読めない池沼か?w >>178
石室に無かったと断言する理由は何だよ?
せけんはそれを妄想と呼ぶけどなw ホケノ山古墳内から出土した小枝で年代測定した結果→4世紀濃厚
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png ちなみに炭素年代測定法は結果が古い年代(約100年)へズレ込む特徴がある >>181
オマエが優菜
ホケノ山古墳と藤の木古墳をダブスタで見ている。
オマエは色眼鏡、先入観、バイヤスが強過ぎるwww
>>182
周濠から見つかったんだから石室からじゃない。
日本語が不自由なのかwww 中国でようやく鐙が開発された頃、奈良盆地では使い古された木製の鐙が水の張られた周濠に沈み、4世紀の土器の下に潜り込んでいたそうだw
■箸墓古墳で馬具出土
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
■参考
・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。
・馬具研究史より
『樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。』 あ〜言えば、こ〜言うw
常に言い訳ばかり模索している畿内説w
畿内派による印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
建物とお供え物の桃が同時期に存在したとは言えない
◆畿内説の反論「建物を取り壊した後の祭祀で穴を掘って桃を埋めた」
◆客観的見解
・要するに古墳建造を終えたので、土木事務所を取り壊し、解散パーティを開催した痕跡である
・纏向遺跡は古墳造営基地局の跡地である 馬は半島人が連れてきたのかな?w
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
4世紀末:大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の大壁....
https://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/181128/lif18112808100001-n1.html
『大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。
同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。』 >>187
柵列は直径1mの鉄筋コンクリートだったのかwww 一目瞭然だなw
乾燥耳垢:後期渡来人(ツングース系≒現朝鮮人)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
https://i.imgur.com/wPgk6Bx.png
参考)
DNAの違い
https://i.imgur.com/IbqopHU.png >弥呼は歴史に残っていないかもしない。
神様を伊勢に連れてきたり
ヤマトタケルに剣を託したり
色々と歴史の残ってますががな >>190
それは何時調査したんだwww
まさか筑豊炭鉱の失業者が大挙して阪神工業地帯に
数十万人ワンサカ移住したあとじゃないだろうなwww
>>188
淡路島の鉄器加工工房遺跡もオンドルのような
地下の穴から炭火の熱風を送って加工してたんだけど・・・
炭の材質の特定、炭の温度を上げる送風革袋に取り付けた送風管
この実験により、クヌギやコナラなどを焼いて作った少量の炭を積み重ねて
燃やし、革袋で送風して鉄を溶かし(わずか20分で鍛冶が可能となる
800度を超えて1,100度に達した)
/kdskenkyu.saloon.jp/tale24gos.htm >>185
どこがダブスタだ?
藤の木古墳は横穴式石室で、人の出入りが可能
灯明皿は後世に持ち込まれたものと推測される
ホケノ山古墳は竪穴式石室で、人の出入りは不可能
小枝を後世に持ち込むことは不可能
どこがダブスタか明確に答えろ
答えられないなら、自分の無知を認めろ >>177
◎直線距離で測ると
帯方郡から釜山7
帯方郡から畿内12
でもだいたいあってるだろう
◎紀伊半島の南部には熊野コドウがあってそこらが狗奴(コウド、コウドゥ)国
◎伊勢の二見浦の東は海でその向こうの東国もヤマトタケルが進出して領土にしてる
仮に九州に女王国があったとしても
東に海がある宮崎か大分福岡東部
ここは神武東征の際に神武天皇が治めた地域で大和の勢力下
◎北に津がある(津市)
か 自力で海を渡る能力もない国に
従属する意味、説明してみ。 卑弥呼の時代に文書も養蚕も存在してます
https://ameblo.jp/razyob/entry-12625275537.html
魏志倭人伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
狗邪韓国ってどこかって言うと
朝鮮半島の南端
つまりその時代倭が半島の南端まで支配してたわけで
おそらく末期の縄文土器もそこらで発掘されてるし
縄文末期から倭人が行ってたんだろうけど
それだから朝鮮人にとってその倭って言うのは
今の日本のルーツの畿内の大和朝廷じゃまづいわけで
九州と朝鮮の一部を又にかけた今の日本とは別の国があったことにしたいのかもね
そういう意図がなく別だと主張してる学者もいるかもしれないけど
言い出しっぺと言うか別の国を主張する根源はそういう意図があるのかなと 藤ノ木古墳|未盗掘で残された斑鳩の円墳、被葬者は誰?(奈良名所巡り) 卑弥呼=倭姫命 壱与=神功皇后
https://ameblo.jp/razyob/entry-12618642921.html
魏と交易するのに
ミカドがシナに朝貢関係になるわけにいかないので
斎王のヒメノミコトが魏に朝貢した形をとったんでしょうね 火山から生まれたニギギ
山幸彦の子孫
その子孫の国がヤマト国
どこの場所をさしてヤマイチと言ってるにせよ、大和朝廷の関係には違いません >>199
>九州と朝鮮の一部を又にかけた今の日本とは別の国があったことにしたいのかもね
それが標準解釈
お前の解釈はお前の妄想 >>201
で
もしかしたら倭姫の前っから
豊鍬入姫命の時代に神様を宮中から出して分離したのも
漢と貿易するのにミカドが直接じゃなく斎王で貿易するので
元伊勢に神宮を持ってたのか
疫病で縁起担いだというのは表向きの理由かも >>202
ニニギが火山から生まれたってのは、お前の創作じゃん? >>208
さすが戦後の自虐歴史学者さんたちは凄いなあ
びっくり >>205
ちなみに
漢字
秦の時代にできた文字らしいけど
豊鍬入姫命の時代あたり
漢の時代に漢から伝わってきたから漢字
よく5世紀だか6世紀に
チョンが漢字を教えてやったニダとかデタラメ >>204
吠えるだけで、ダブスタ呼ばわりしたが、何も答えられない
自分が無知だったと認めたも同然 ID:vrqKpLBl=ID:7FfJDPut=ID:0lTjVjuD
こういうやつが>>165のような発言をするのだから唖然とする 倭人伝のルートは
不弥国→投馬国→邪馬台国なのか?
不弥国→投馬国
不弥国→邪馬台国、なのか? >>212
それなあ壱岐起点だと思うよ
壱岐→下関→大分〜宮崎・・・邪馬台国
壱岐→平戸→長崎(大村)・・・投馬国 >>190
この遺伝子は4世紀以降の渡来人によってもたらされたもの
邪馬台国の時代にはまだ日本には入って無かった >>186
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/23
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、
廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています