【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達、公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属★2 [しじみ★]
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三国志は2世紀後半から3世紀の中国を記した史書だ。これを基にさまざまな物語が作られた。九州国立博物館(福岡県太宰府市)の特別展「三国志」(来年1月5日まで)に原画が展示される横山光輝さんの漫画で知った人も多いのではないか。劉備玄徳に関羽雲長…。英雄たちのストーリーは魅力的だ。
一、二を争う人気者は諸葛亮孔明だろう。三国志関連の書籍を数多く出している渡邉義浩・早稲田大教授は卒業論文で孔明について原稿用紙400枚書いたそうだ。玄徳に三顧の礼で招かれた孔明は、ライバル司馬懿(しばい)仲達と対陣中の五丈原で234年に没した。「死せる孔明生ける仲達を走らす」。名場面の一つだが、孔明の死は日本の歴史にとっても重要な出来事だった。
当時、中国で最も勢いがあったのは仲達が仕えた魏。魏は西方で孔明がいた蜀と戦い、南で呉と対する。さらに「五丈原」の時は地方政権の公孫氏とも争っていた。公孫氏が支配した朝鮮半島の付け根あたりは伝統的に倭(わ)(日本)との関係も深い。ここの銅剣は、弥生時代の倭の銅剣に影響を与えたとされる。
独立しようとする公孫氏の討伐を魏は試みるが、うまくいかない。孔明死去で蜀の脅威が減り、切り札仲達を指揮官に投入した。仲達は238年に公孫氏を滅ぼし、翌239年、邪馬台国の女王・卑弥呼の使いが魏にやって来る。公孫氏滅亡がなかったら、少なくともこの年に使者が魏に来ることはなかっただろう。
魏志倭人伝は約2千字の漢字で記される。正史「三国志」にある各国伝の中で最長だ。渡邉教授によると、三国志以外の中国正史では倭の記述が最長のものはないそうだ。「邪馬台国という“大帝国”がはるばる貢ぎ物を持ってきたのは仲達の功績。だから編者の陳寿は倭人伝をいっぱいまとめなければならなかった」と渡邉教授は言う。
三国志は仲達の孫、司馬炎が建てた西晋の時代に作られる。仲達は「高祖」と追号され「王朝の創始者」になる。皇帝と同格だ。中国の皇帝はその徳を慕って異民族が貢ぎ物を持ってくるとされる。邪馬台国の遣使は、仲達が皇帝と呼ぶにもふさわしいことを証明する絶好の素材だった。仮に公孫氏を滅ぼしたのが仲達でなかったら、倭人伝は重視されず、卑弥呼は歴史に残っていないかもしない。「死せる孔明−」は「卑弥呼を残す」と締めることもできる。
「三国志」はあくまで中国の話。だが日本の古代史論争とも密接に絡み合う。そんな視点で特別展を見るのも面白い。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/548439/
前スレ
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1591727003/ >>186
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601272756/23
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、
廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。 >>31
姫御子、その頃の発音が現代と同じと思ってるんだ? >>216
畿内説お得意のご都合解釈ってやつだなw >>207
発見ではなく、お前が作ったデマカセだよ^^; >>217
違う可能性も全くないわけじゃないけど
たぶん同じような感じなんじゃないの? 卑弥呼
昔「日の巫女」
今「斎王=ヒメミコ」
「以」
昔「卑弥呼・・・以って死す」
今「卑弥呼・・・すで(以=已)に死す」
戦国策などで「早」の代わりに発音が同じ「蚤」を使う例がある。 土粒子の大きさによる区分
粘土…粒径0.005mm以下の粒子
シルト…粒径0.074〜0.005mmの粒子
砂…粒径2mm〜0.074mmの粒子
粘土・シルト地盤は水田や湿地に多い。
水はけがわるく、いったん水を含むと抜けにくく強度が低下するため、地盤改良の必要性があります。
飽和状態にある透水性の低い粘土やシルトは、外部から圧力を受けてもすぐに圧縮せず、
長い時間をかけて圧縮されます。(=粘土やシルトの地盤では圧密沈下が起こりやすい)
粘り気があり、ざらざら感はない
w.mlit.go.jp/chosahokoku/h15giken/pdf/0218.pdf
平成14年度、当事務所では関門航路中央水道地区の浚渫工事を実施したが、この
区域の土質は、シルト混じり砂で砂分含有量が約 75%と多量の砂を含む。一方、新北
九州空港建設工事では浚渫土で埋立てられた地盤上への覆土工事の最中であり、大量
の良質土を必用としていた。
この浚渫土から良質な砂だけを取り出し新空港工事に活用できれば、覆土を購入運
搬せずに空港工事を進めることが出来、かつ、土砂処分場に土捨てする量も減らせる
という一石二鳥の効果が得られる。
2.2 分 級
本報告で述べる「分級」とは、土砂を砂分とシルト分に分けることで、これまで小
規模には行われてきたが、港湾工事における浚渫土のような大量に発生する土砂に対
応できる容量、高能率なものはなかった。 >>221
中国人は卑弥呼をヒミコなんて読まない。
ピミフ、べミフ、プミフあたり。
中国人が聞いた音に漢字を当てはめて卑弥呼と書いてるんだから、日本語読みするのは間違いだよ。 >>223
シナ人と卑弥呼は文書でやり取りしてて
最初にこっちから名前を伝えたのも文字
漢字に当てはまる文字を書いてあっちがそれを何と読むかはどうでもいい >>223
「プミフ」は無い。せいぜい「プェーミホ」だな。
万葉集に「暁あかツき」を「あかトき」と書いた例がある。
巻17 3945番
[題詞](八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌)
[原文]安吉能欲波 阿加【登】吉左牟之 思路多倍乃 妹之衣袖 伎牟餘之母我毛
[訓読]秋の夜は 暁寒し 白栲の 妹が衣手 着むよしもがも
[仮名]あきのよは あかときさむし しろたへの いもがころもで きむよしもがも
[左注](右三首掾大伴宿祢池主作)
播磨の国風土記に「天皇が狩りをしていると一頭の鹿がこの丘に走り登り、
比々(ピーピー)と鳴いた。だから、日岡(ピオカ)と名づけた。」という話が載っている。
www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/hudoki.htm
鹿はヒーヒーとは鳴かないんだ。
「比」の字が熟語の2番目以降に現れると「反比例」のように
「ヒ」→「ピ」と古い漢語の発音が鎌首をもたげる。
毎月の「ついたち」を昔の軍隊用語で「一日イッピ」と読んだ。
海軍航空隊の下士官「一飛曹」はイッピソウと発音した。 >>228
そろそろお薬の時間では?
お前の妄想の創作日本史はラノベにでもして発表してくれればいいから 九周説もファンタジーの域を出ないwww
さっさと卑弥呼の墓の目星をつけて殉死した奴らの
墓も暴けよ
墓を暴いて鞭うつのは支那人的に最高の侮辱だからな >>191
大昔の祭祀場は神社というような恒久的施設が無かったから
「柵列の下」なんてのは無意味www 偽奥谷くんは漢文の読む方ばっかりに拘ってるが、卑弥呼の読み方など邪馬台国の所在地にはどうでもいいこと
しかし考古学の知識はかなり乏しいね、こいつ >>228
ブー何とかってのは今の中国読みだろう
そもそも音読みは中国から伝わってきたもんで
日本では昔も今もあんまし変わってない
漢字が伝わってきた時代にはあっちでもヒミコと呼んでたんだろう >>233
変わってる
あっちでは呼んでない
オマエラは言語学に関してズブの素人、無知蒙昧
狭い日本でも津軽福島東京名古屋関西鹿児島弁と方言がある。
洛陽と長安(現在の西安)は約360km離れてる
東京駅と名古屋駅が似たような距離。
現代洛陽方言は「尾武文亡」の頭子音がV
長安(西安)方言で靴は鞋[xai]子と発音し北京官話の孩子ハイズ=子供とほぼ同じ発音。
会津弁はイ段音とウ段音の区別が曖昧。
高知と鹿児島は四つ仮名を区別する。
四つ仮名だけでも日本語が昔と今で変化していることが判る。
昭和30年代までNHKのアナウンサーはフィルムをヒルムと東京弁で発音してた。
大蔵流狂言師は今でも「人」を「フィト」と織豊政権時代の読み方をしている。 >>234
方言とか言うのは国内の言語の訓読みの話で
音読みは漢の時代に漢字が入って来た時の音で
今の中国語より漢の時代に近かった魏の時代の中国の言語
釜山を領土にしてた倭を今の日本との関係を薄くしたいがために
神武天皇の影響が薄い九州南に持っていこうとして
学会の論調を無理やり固めようとして変な理屈になったり
言語学にせよ専門家とか言うy連中こそインチキ
だから普通に見たシロートが加わるとすぐばれてしまう >>234
もしかして昔は母をファファと呼んでいたとか言い出す人?w >>236
自分は歴史のプロで
更に言語学のプロだと
マウントをとって
自分のミンジョク都合のいいような歴史観をごり押しする人 >>235
>音読みは漢の時代に漢字が入って来た時の音で
素人考え
莫迦○出し(ハナ肇)、愚の骨頂、生兵法は怪我の元 ”ヒミコ”は十中八九「日」(もしくは僅かな可能性で「火」)巫女だろうに
いつまで支那の差別当て字使うつもりかね >>236
「母には二たび会ひたれども、父には一たびも会はず」という平安時代の謎々。
>『日本国語大辞典』(『日国』)にも、「ハ行子音は、語頭ではp→Φ→h、
>語中ではp→Φ→wと音韻変化したとされる(Φは両唇摩擦音。Fとも書く)。」という説で
>ある。つまり、「はは」はpapa →ΦaΦa(fafa)→Φawa (fawa) →hawa(引用注hが広まったのは江戸時代) と変化したというのである。
>上下の唇を接触させて発音される両唇摩擦音が重なるΦaΦa(fafa)なら
>唇は確かに二度会うことになり、「チチ(父)」という語の発音では唇が一度も接することは
>ないので、なぞなぞの答えは「唇」ということになる。
語頭ではp→Φ→h、語中ではp→Φ→wという風に変化したので
不弥国(不彌國)が宇美に変化したというのは有り得ない話
九州説信者の勝手介錯、我田引水、飲み会の駄洒落の範囲内www >>232
さっさと九州で卑弥呼の墓を特定して掘れよ
徇葬者奴婢百餘人の集団埋葬地モナー
「奴婢」はドヒとかトヒとは読まないから
そこんとこヨロシク >>240
病院逝けよw
昔の日本語の発音に関する記録はキリスト教宣教師のメモだぞ?
それらはポルトガル語やスペイン語でありHの発音は無い
だがら母の発音はFAFAと書いてあるんだよ
HAHAはアアと読む >>242
オマエが病院逝けよw
Φと書いてるだろ
ΦはIPA、つまりInternational Phonetic Alphabet
中学英語の時間に習う「発音記号」だ。
だからポルトガル語の綴り字じゃないんだ。
慌てる乞食は貰いが少ない >>243
宣教師の残したメモは「FAFA」
ファイなんて使い出したのは最近だぞw >>234
言語学で邪馬台国論争が解決できると思ってる池沼wwwww >>246
九州説のデマより確かだw
それよりさっさと卑弥呼も墓と殉死した奴婢の墓を暴けよ。
何処に卑弥呼の冢があるんだ? >>249
祇園山は盗掘や破壊で
卑弥呼の冢と証明できるものは何もない なるほど日向にしてはやけに遠くに書かれているのは
大帝国から朝貢にきたと強調したかったのか。
これで邪馬台国が日向にあったと確定したな。 >>37
日本が併合してやらなかったら
ロシアに侵略され朝鮮人はシベリアに強制移住させられ
朝鮮半島はロシア人の住む地域に成ってたわ >>254
明治政府の最大の愚策が併合 対岸の火事として海上国防を強化すべきだったが 英国に唆されて代理戦争をしてしまった 近畿は古墳数日本一を誇る兵庫県の神戸市灘区都通の西求女塚古墳が第一候補だな。
出土品等から築造年代は3世紀後半と推定されている。
同古墳の東には乙女(処女)塚古墳がある。
さらに東に東求女塚古墳がある。
卑弥呼は「年已に長大なるも夫婿なく・・・」と伝承が一致するし築造年代も誤差の範囲内。 神戸市東灘区の阪神電鉄の車両基地南南東、処女塚古墳のすぐ西側の県道95号線を
北北西微北(山側)を向いて行くとJR神戸線(東海道線)の手前に
大和町という地名がある。
ttps://www.google.com/maps/@34.7176106,135.2443884,3a,75y,90t/data=!3m6!1e1!3m4!1sDvfxH4CA-3VYvQDYvQBTSQ!2e0!7i16384!8i8192
↑この道(県道95号)の両側が大和町 前方に見えるのがJR神戸線の高架 径百余歩=直径150mの円墳自体が、今の所日本で確認されてない。
仮説
・魏志倭人伝の記述が間違ってる。
・既に墓は壊されて残ってない。
・まだ見つかってない古墳がある。
・改築されて、原型がわからなくなってる。
・前方後円墳の円墳部の径が百余歩(方墳部は司祭所なので墓に含めてない) 既に整地されて残ってないというのは有り得るな
戦時中に多くの遺跡が潰されてたらしい >>260
戦国時代にもガンガン潰してるよ。
墓守も絶えてるので、民俗学的なヒアリングでもわからなくなってるかもね。 どっちにしろ、九州には古墳時代になるまで大きな墓を造る文化がなかったので、九州にはない >>262
もともと大きな古墳を造りたがる文化は東日本の文化
おそらく縄文系弥生人の文化だろう
つまり女王国の東の倭種の国の文化 弥生時代あたりは複数の文化が並行して発展していた時代
ある時期を境に弥生→古墳へと切り替わったわけではない
日本列島全体が一つの文化で統一されていたかのように印象操作している学者はかなり頭の固いアホ 山崎ハコ 織江の唄 映画「青春の門」のイメージソング
www.youtube.com/watch?v=hOGUHjdDPek
>山崎ハコはよくもこんなに悲しい歌を、泣き出しもせず歌えたもんですね。
>僕にはとても無理です。何度泣かずに歌おうとしても、泣いてしまいます。
青春の門は五木寛之原作の福岡県筑豊に生まれた伊吹信介を主人公とする群像小説。
「金 朱烈、金 九南」という韓国人がよくいう「兄の国」の人も登場する。
東宝が映画化し織江の唄はテレビスポットで盛んに流れた。
ミュージック・フェアのような歌番組でも聞いたような気がする。 >>259
5番目の仮説と似ているが
・魏使が見たのは、後円部の築造途中で、前方部の築造に着手する前
仁徳天皇陵の築造に16年かかる試算があるのはかなり知られているが、
箸墓古墳も10年くらいかかる試算もある
魏使が邪馬台国に滞在した期間が1年くらいだと仮定すると、
前方部はまだほとんど築造されてなかったかもしれない >>266
箸墓の円墳部が丁度直径150mくらいなんでしょ?
それを根拠に箸墓を卑弥呼の墓だって説があるのは知ってるし
それを念頭に説5を入れたよ。 >>267
本名が初子(はつこ)なんで
「つ」を省略したらしい。
子供の時から家族や友達から
「ハコ」と呼ばれてたのかなと邪推してる。 日本語の「つ」という発音は日本語の発音に慣れてない外国人にとっては難しいらしい。
「津波tsunami」を英語ニュースなどで「すなみsunami」と発音してるのを聞いたことがあるし
マグロは日本式英語ではツナで本当の英語ではトゥナだからな。
アメリカ大リーグに移籍した「松坂投手」をmasーsakaとかmat-sakaまっさかと
発音してるのを聞いたことが有る。 未だに邪馬壹(ヤマイ)国をヤマタイ=ヤマトだなどと印象操作している畿内説は詐欺ですね
中国の史書は後世ほど改ざんが酷く信憑性が薄くなるとのこと >>271
邪馬臺国なのか邪馬壹国なのかというのは
両方の記載がある以上、どちらが正しいと断定できるものではない。
ヤマタイ=ヤマトというのはまた全然別の次元の話
二つの問題を一つにまとめて畿内説だ、詐欺だってやってる方がバカみたいだよ >>271
生半可な知識で委奴を伊都と印象操作している九州説w
「委奴」は「大倭」であるとする説
佛教大学教授 黄當時
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/CB/0011/CB00110L001.pdf >>273
魏志倭人伝にも「大倭」と記載されてるから心配するなw
「収租賦有邸閣 国国有市 交易有無 使大倭監之」
訳)租税を収め、邸閣がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」を使ってこれを監督する。
■旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
・倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
・日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。 >>275
>日本国者,倭国之別種也。
これは「壬申の乱」というクーデターで吉野に隠遁した天智天皇の弟である大海人皇子が
天智天皇の息子大友皇子を殺して政権を奪った皇位争奪戦を反映したものだ。
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫に兵力動員を命じる使者を派遣したが、
東海の使者は大海人皇子の軍勢に阻まれ、吉備の総領を動かすことができなかった。
筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断った。
栗隈王の子の美「努」王は三「野」王という別種表記があり
「努」=「野」で「努、奴」の読みが「の」であったことを示している。 天武は唐のカクムソウと倭国の残存兵力 大伴などの支援を受け勝利した
大伴の隆盛は天武以降 天武の諡号は真人 のち宇佐神宮(大伴)の権威も頷ける 真人は道教の仙人によくある格付けを表わす名前
太上老君は道教の始祖とみなされる老子を神格化したもの。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68347 真人は継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた。
天皇の称号が道教の天皇大帝に由来するという説とともに、
この「真人」も道教由来のものとする説がある。
八色の姓のなかでは道師も道教の神学用語と重なっている。
また天武天皇の諡(おくりな)の瀛真人(おきのまひと)は
道教の神学では「瀛州」という海中の神山に住む仙人の高級者を意味する。
こういうわけで壬申の乱(クーデター)の勝者天武天皇が道教に傾倒していたことがわかる。 >>275
間を誤魔化してミスリードとか、恥ずかしくね?
日本國者倭國之別種也
以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
日本国の者は、倭国の別種である。
その国が日の昇る方角にあるので日本と名付けた。
或いは、倭国が良くない名前なので日本と改名した。
或いは、小国だった日本が倭国を併合した。
日本という名前の由来について、旧唐書では結局わかってない。 「日本」は「日の本(ひのもと)」と大和言葉で云う。
幕末に始まった天理教の「みかぐらうた」という数え歌の
三下(みくだ)り目に
一ッ 「ひのもと」しよやしきの
つとめのばしよハよのもとや
とある。
「扶桑」の意味を知れば「日本」という言葉の起源もおのずと知れる。
古代から中国人は太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。
毛沢東も「青年人朝气蓬勃,正在興旺時期,好像早晨八九点鐘的太陽。希望寄托在你們身上」
朝8時から9時にかけて登ってくる太陽の様に生気溌剌とした青年に希望を託す. 倭国のタリシホコが日出る国の天子と称した事実と福岡県小郡市の字名にヒノモトがあり倭国の別名を 奈良がパクっただけ >>282
遠すぎる一致を無理につなぎ合わせるのは、目的に沿って話を作り上げるやつの常套句
法隆寺も四天王寺も、斑鳩宮もちゃんと奈良と大阪に実在してる。 法隆寺が公地公民という欺瞞により太宰府観世音寺から移築された事実は周知の事 これもパクり盗み >>282
小郡市の字名町名にヒノモトなんていうのはgoogle mapで確認できなかったし
郵便番号検索でもヒットしなかった。
〒500-8852日ノ本町 (ひのもとちょう) [岐阜県岐阜市]約 139,000,000 件 (0.61 秒)
〒877-1382日の本町 (ひのもとまち) [大分県日田市]約 3,930,000 件 (0.84 秒)
はあった。九州説派の捏造ヤクザ体質が露見したw 些事の検証も大事だが 是の検証をしてほしい
石器時代は黒曜石の産地を中心とした社会が成立した 隠岐の島の出雲へ朝鮮半島から漂着して出雲族を構成 西日本 博多周辺までを支配した
銅器時代も同じ構造 鉄器時代になり半島での鉄獲得の為南方海洋民族の天孫族が請け負うが いち早く鉄を獲得し強力な武力海洋集団となった天孫族は博多を強奪し 支配地を広め倭国を形成した 紀元頃神武は糸島を発ち奈良へ侵出し倭国の分流の祖となる 倭国ではヒミカ 五王 磐井 タリシホコなどを輩出する 魏の末裔が滅び隋へ代わるが隋の琉球侵略などで関係は悪化し 唐になり白村江で戦うが敗戦し倭国は滅亡する 一方分流奈良は出雲族の後ろ盾の呉の滅亡で崇神が近畿圏へ侵出する 出雲族の末裔継体の時 奈良で後継者争いが発生し其の混乱に乗じた継体が権力を握る 其の勢いで倭国へ応援軍として進入し突如磐井を暗殺するが 息子カツコにより追い払われその後殺される この後白村江の戦いまで面従腹背を続け 唐と内通し 倭国滅亡を待ち 日本と称して倭国を併合する このスレもう駄目だね
ちくしキチガイと漢文バカしか残ってない >>1
しれっと嘘を書くなよゴミクズ
>公孫氏(朝鮮) >>287
元気出せ、元気出せ
減るもんじゃないじゃないか 日本を出たことのない九州や関西の日本人が日本と言う国名は付けない。
中国に対して、恣意的に日本国を名乗った元は、東夷伝序文にある。
其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老說 有異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
魏時の使譯の報告に拠って
長老說有 異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采 其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
東の伝説の異形の怪人の国だった倭。
魏時の探検記を、倭人伝に陳寿が記録したのである。
日本の天子、タリシヒコはこれを読んでいたから、
中国王、煬帝に対し、日本の天子からの書面として日出処天子の書を記した。
陳寿の 雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷
に、対して土人の国ではない、日本国の対等性の主張がある。 博多は日本の玄関
古代と現代でも変わらぬ地形 最近西村が博多を日本の金融都市として 機能させると発言
した 理由は博多はアジア諸国の玄関口という これは2千年前も同様 故に倭国の隆盛があり
博多を巡り権力の争いが続いて来た 今後も同様だろう
2020年の現在でもど田舎の奈良には無理な話 >>284
九州王朝説でよくあるネタね。
まぁ間違いなんだけど。
斑鳩宮が奈良県斑鳩町からちゃんと見つかってる。
そして厩戸皇子は斑鳩宮の西に、法隆寺を含め4つの寺を建てている。
なにも法隆寺の縁起だけ捏造すれば完成するわけじゃない
この辺が浅はかとしか言えない所 >>291 周礼の天下概念 ttps://epub-tw.com/viewer/23138/
魏書東夷伝序文の最初に
書稱「東漸于海,西被于流沙」
書経に稱す、東は海に漸(=入)るまで、西は流沙=砂漠に*被(=至いた)るまで(中国の教化が及んだ。)
*其九服之制,*可得而言也。*それ九服の制(=方万里)は云ふを得たり
*被 = 及=到達=至る=arrive *其 書経(尚書)で帝王や上帝が命令を発する場合に用いられる辞 *可 強調を表わす辞
《周礼·秋官·大行人》有云:周礼·秋官·大行人に云へる有り
邦畿方千里,王城から千里以内の正方形の地域
其外方五百里謂之侯服,歳壹見,其貢祀物。その外500里を加えた1500里四方はこれを侯服と謂(い)ひ、
1年に1回中国の皇帝に見(まみ)え、それ祭祀の物を貢げ
又其外方五百里謂之甸服,二歳壹見,其貢*嬪物。 またその外500里を加えた2千里四方を甸服と謂(い)ひ、
2年に1回見(まみ)える。それ諸侯*嬪物を貢げ *嬪物 女性が作った絹、麻などの織物
・・・・・
又其外方五百里謂之要服,六歳壹見,其貢*貨物。 *貨物 亀甲や宝貝など古代の貨幣として用いるもの
九州之外謂之蕃国,世壹見,各以其所貴宝為摯。 九州の外は蕃国と謂(い)ひ、(蕃国王の)1世代ごとに1度見(まみ)える。
各々其の宝物を贈り物とする。
このことから判る様に邪馬台国は魏の東南に在り
正方形の対角線は辺の1.4倍なので邪馬台国まで約1万7千里となる。 >>294
古墳に阿蘇の石を使ってるぐらいだから可能性は否定出来ないぞ >>296
古墳に阿蘇山の石を使ってる=九州と近畿に交流があった、は言えても、九州に王朝があった証明にはならない。
糸魚川産の翡翠が出てくるけど、新潟王朝の証明になるとでも言うかな? >>295
五服の制、六服の制、九服の制の図解
s://35546864.at.webry.info/201105/article_1.html
緯度の差は『周髀算経』の一寸千里法で大まかに把握できるが
経度は携帯可能で正確な機械式時計が登場するまで計測することが出来なかった。
p://www.jsurvey.jp/oniisan/oniisan200706.pdf >>297
いや九州に王朝があったのは確かだろ
倭奴国時代に
それが畿内に引っ越したというのが九州説の主流だろ? >>299
九州に倭奴国があった事は知ってるさ。
で、九州倭奴国王朝が継続した事、九州倭奴国王朝が東遷した事はどうやって説明するのさ? >>300
倭の王は筑紫に居す
と新唐書に書いてあるなw >>301
新唐書には、奈良時代末期に淡海三船が諡号するまで存在しない歴代天皇の漢風諡号が書いてるんだがな。
新唐書が参考にした、王年代記が奈良時代もしくは平安時代に作られた偽書だと言う証明。
ついでに言えば、筑紫を一概に筑紫国と捉えるのも間違い。
筑紫には筑紫国として使う場合と、九州島=筑紫島・筑紫州として使う場合がある。 公孫氏が支配した朝鮮半島とか書いて現在の朝鮮人の歴史のようにコメントしてる在日朝鮮人がいるが
そもそも公孫氏自体が漢人のカナン人のヘブライ人で北イスラエルの部族のヘブライ人
シベリア黒竜江省にいたエベンキオロチョン族の現在の朝鮮人とは全く違う民族
この2〜3世紀の三国時代の中国はヘブライ人の歴史
朝鮮半島は倭人のヘブライ人の歴史
日本も倭人のヘブライ人の歴史
全てがヘブライ人達の歴史で
エベンキオロチョン族の朝鮮人などこの時代は中国黒竜江省に居たわけで全く関係ない
在日朝鮮人が誤魔化して
恰も朝鮮人が関わっているような誤魔化してコメントしても
実際歴史上で現在の朝鮮人は全く関係ないことはバレてる >>295
周礼、興味深いけど、周里、地理概念が違うのではないかな?
《周礼·秋官·大行人》
邦畿 方千里
其外 方五百里 謂之 侯服 歳 壹見 其 貢 祀物
又 其外 方五百里 謂之 甸服 二歳 壹見 其貢*嬪物
又 其外 方五百里 謂之要服 六歳壹見 其貢*貨物
九州之外 謂之 蕃国 世壹見 各以 其所 貴宝 為摯
魏志の方可は正方形の一辺ですが、周礼では、件の短里ですし、方は半径です。
単純に方可千里の外周に方可500里は12国、その外周に方可500里なら36国ですが?
蕃国は方可64国有ることになる、そうはならないです。
首都からの半径500里づつで、九服、旬服、要服、その外の蕃国
国ごとの朝貢の回数を決めた礼法です。
蕃国は全世界ですが、海の向こうの国(倭)を認識したのは漢時だと思います。
書稱 東漸於海 西被於流沙 其九服之制 可得而言也
然荒域之外 重譯 而至 非足跡 車軌所及未 有知 其國俗殊方者也
自虞暨 周 西戎 有 白環之獻 東夷有 肅慎之貢 皆 曠世 而至 其遐 遠也如
此及 漢氏 遣 張騫 使 西域 窮河源 經 歷諸國 遂置 都護
以 總領之然 後 西域之事 具存故 史官 得詳載 焉
魏興 西域 雖 不能 盡 至其大國
龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之屬
無歲 不奉 朝貢 畧 如漢氏 故事
この礼法の周以降、漢でも使譯を重ね、ついに東夷の倭に到達した。
陳寿は、この偉業を後世に備えて書き残しました。
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信 >>1
【衝撃】日本の歴史が書き換えられてる!縄文時代の驚愕の発見が
知られていない理由とは!絶対に報道されない古代日本と半島の関係とは!仰天!
https://www.youtube.com/watch?v=Gso02vHkZy4 >>306
【衝撃】世界最古の文明は縄文?すべての始まりは日本から
1万年以上も平和な社会を実現した縄文人!高度な技術と言葉を発信した?前編
https://www.youtube.com/watch?v=ZJnL4hLCx_Q >>307
世界最古の縄文文明は世界各地へ拡散した?文字、技術を惜しみなく伝えた縄文人!
なぜ海外進出したのか?驚くべき行動範囲!後編
https://www.youtube.com/watch?v=GZ2PVXRcHRU >>305
半径で測る方法はないwww
どうやって大圏図を作ったんだ
教えてエロイ人 日本古来の阿比留家の末裔が、卑弥呼なんだろう!
学者は、何で阿比留文字、阿比留家を研究しないんだ?
ハングル文字も、阿比留文字を参考にしたとまで言われているし、東アジアは日本阿比留家がポイントだろう。
対馬に渡って、日本の礎を創ったとまで言われているのに。 >>310
筑紫城だな
■新唐書
日本は古の倭奴なり。京師を去る万四千里。新羅の東南に直る。
海中に在りて島にして居す。東西五月行、南北三月行。
其の王の姓、阿毎氏。自ら初主を号して天御中主と言う。
彦瀲に至る凡そ三十二世、皆尊を以て号と為し、筑紫城に居す。 >>305
模型二:九畿制
《周礼·夏官·大司马》有云:
乃以九畿之籍,施邦国之政职。方千里曰国畿,其外方五百里曰侯畿,又其外方五百里曰甸畿,
又其外方五百里曰男畿,又其外方五百里曰采畿,又其外方五百里曰卫畿,
又其外方五百里曰蛮畿,又其外方五百里曰夷畿,又其外方五百里曰镇畿,
又其外方五百里曰蕃畿。又其外方五百里谓之男服,三岁壹见,其贡器物。
又其外方五百里谓之采服,四岁壹见,其贡服物。又其外方五百里谓之卫服,
五岁壹见,其贡材物。又其外方五百里谓之要服,六岁壹见,其贡货物。
九州之外谓之蕃国,世壹见,各以其所贵宝为挚。
と署いて「方」が四角形の図面まで付いてるのに
s://epub-tw.com/viewer/23138/
何が半径だ。
オマエの云うような半径を描いた五服の制、六服の制、九服の制の図解の
中国、台湾、香港サイトへのリンクを貼れよ。 >>313
新唐書の出典元の王年代記が、東大寺秘蔵の書でも何でもなく、後世に書かれた偽書だからどうでもいいよ。
あるいは献上したちょう念自身が書いたのかもな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています