卑弥呼の鏡「可能性高い」 大分・日田で出土の鉄鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」 中国・曹操陵の発掘責任者が見解 2020/01/03
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1/3(金) 14:48配信 佐賀新聞
「三国志の英雄」として知られる曹操(155〜220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
ダンワラ古墳の鉄鏡は直径21・1センチ。鉄の鏡体の背面に金や銀を埋め込む象眼「金銀錯」が施され、朱色のうるしで彩色した珠がはめ込まれている。手足の長い龍のような怪獣が多数描かれ、銘文は「長=。孫」(欠落部分の■は「子」と推測される)の四文字が刻んである。九州国立博物館が管理している。
潘氏は、九州国立博物館でダンワラ古墳出土鉄鏡を確認した上で「金錯や銀錯が施される鏡は王宮関係に限られる。この鏡は国宝級の貴重なものであり、公式なルートで日本に伝わったと考えられる」と述べた。
===== 後略 =====
全文は下記URLで
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200103-03472520-saga-l41 閑話休題
明治を造った薩摩と長州だが 薩摩側が西郷隆盛を尊崇するあまり人物像を美化し過ぎた
長州側では高杉晋作は既になく神格化しようにも生存するものは雑魚ばかりだった
こと革命を実行する事に於いて ケイテンアイジンなどのような聖人では革命は出来ない
悪人ならでは成功は難しいが 悪人の部分を削除してしまったのが薩摩人
大久保利通との比較に於いて 善は西郷 悪は大久保と決め付けた
坂本竜馬を殺したのは西郷隆盛と推定する
居場所を知っていたのは西郷だった
明治になり坂本暗殺犯を探さなかったのは実行者が政権を担当していた西郷だったから 日本列島の成立
地形
黒潮暖流の中
火山が列島中に在る
住人
黒潮に乗り常に流入し続ける 南方系海洋民族
言語
現在の訓読み 漢字到来時に訓読みにあわせた漢字を使用
文化
石器時代は黒曜石の産地が経済圏を為す
1万5千年前人類初の工業製品である土器を造り始める
食事
稲作の米を南方系海洋民族が持ち込む
同時に中国大陸へも伝播する
耕作技術は徐々に発達する
住居
南方系所以の高床式住居に支配階級が住む
現在の神社に形式が残る
半島由来の被支配階級は穴居式に住む
文献に顕れる時期
夏 殷 周のころより
道具の推移
黒曜石 土器 銅 鉄 の順
集落の形成
黒曜石の産地 土器の生産地 銅の生産地 鉄の生産地 の順
集落の状況
九州の倭国 大阪地方の銅鐸圏 関東地方の王国 琉球王国
集落の推移
九州倭国が出雲よりチクシを割譲
九州倭国の日陰にいた神武が奈良へ侵出し其の後八代までに奈良盆地を制圧し スジン以降周辺部へ侵出 同時に銅鐸圏が滅びる
倭国は白村江の敗戦で700年に滅亡する
南都710年以降が現在の天皇家 まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
まいどまいどウザい奴だな もう少しましなことを書けんのか 畿内からはシャーマン兼女王の痕跡なんて何一つ出てないからな。北部九州は卑弥呼ではないものの女王の墳墓は出ているから傍証にはなる。 日本列島の成立に黒潮の力の大きい事は倭人伝にも書いてある
喜界島と箱根の大爆発は6000年前 住む所を失った人々が 黒潮に乗り南米大陸へ漂着し
そこで造った土器の日本産との共通性や寄生虫の共通性
倭人伝に倭国の老人が語る 異面の人あり 日出るところに近しと 交流の可能性は高い
黒潮は人を日本列島へ運び更には南米までも運び 帰りきたる 頭の逝かれたデンパ野郎と近畿パー連呼の荒らししかいない 親魏倭王ヒミカの倭国と敵対する近畿地方の銅鐸圏は親呉国だった
奈良盆地には神武の末裔が盆地内を漸く支配化に置いた頃
280年呉が滅亡した 銅鐸圏国は後ろ盾を失う事となった
スジンは好機到来とばかり盆地周辺の銅鐸圏へ侵入した 畿内説の頼みの綱
・木製の土木用具一式
・調理用土器と残飯
・3棟構成のドカタ食堂(一階建て)
・蛙の骨
・桃の種
これにバイアス任せの妄言を大量に投入して出来たのが今の畿内説w 日本はここから始まりました
https://youtu.be/1mwzGC9exj4
天孫族の橋頭堡 福岡県糸島市
ニニギがヒナタ峠を東へ越えて見たのは広々とした稲田の博多でした
ここには先住のサルタヒコがおりました 先住民を束ね抵抗しましたが敗れます
現在は福岡市早良区藤崎にサルタヒコ神社で祀られています
平野部の最初の拠点がヨシタケタカギ遺跡です
ニニギは此処に眠っていると思われます 飼い犬にかまれ乳児死亡 富山
同署によると、2頭とも大型のグレート・デーンで雄の成犬。
://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200321-00000001-jij-soci
菅原道真は新撰万葉集で 夫れ万葉集は古歌の流れなり と倭国倭歌集の存在を示しました
古は飛文染翰の士興詠の客青春の時玄冬の節見るに適って興既に作り聆くに触れて感自ら生ず
歌の本流は古歌にあり 今世に知られる万葉集は其の本源からの分流である
本源とは700年以前の倭国の倭歌のこと
今の万葉集は花なり旧は実なり
今の人は錦を剪り多く可憐の句を述ぶ
古人は心緒素を織りて少して下憼の艶を綴づ 仍りて左右上下両軸にして惣べて300t有首号して新撰萬葉集という
このときより僅か200年前に滅びた倭国の存在を記紀に見る如く 其の存在を歴史から消去してきた 半島由来の
奈良政権 900年当時は同胞藤原氏の支配する世でした 藤原に楯突く菅原道真の祖先は土師氏でありタマノ
ホヒノミコトという天孫降臨族でした この天孫族が倭国をつくりました 権力の交代を容易にしかねない別の権
力の存在を許さないのは歴史の常で 徳川が天皇制を温存したのは誤りということです
道真は太宰府に行き本望だったのかも知れません 祖先の天つ神を祀り倭国の朝廷の在った所です
牛が停まったのでは無く 其処が埋葬の目的地だっのです 倭国が662年の白村江の戦いに敗れた後
広島あたりに駐屯していただろう天智の軍勢は一斉に太宰府へ侵入し 略奪暴行を働いた
其の名分としての公地公民を言った
倭国の領地領民財産の獲得であり 久留米に所在した正倉院は建物毎奈良へ移築した
観世音寺の金堂も多利思北孤を写した釈迦三尊像共々奈良へ移築した710年の事
倭国内の墳墓の盗掘もあった
其の後の奈良政権内での主導権争いでは
対唐参戦硬派の蘇我氏と融和派の天智と中臣鎌足が争い 705年入鹿暗殺により唐内通の天智の勝利に終わる
唐からは郭務悰が664年665年669年2000人671年2000人と4回も進駐し天智等と唐との両者の略奪で倭国は疲
弊の窮みとなった まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
多利思北孤が隋の天子に 日没する天子へという文書を送った訳
陳 557〜589 々
隋 589〜618 々
唐 618〜907 々
魏から連綿と続いて来た王朝が陳で終わり 匈奴の隋の支配する世になった
親魏倭王の末裔たる多利思北孤は魏の正統を自認し受け継ぐべく天子を名乗った
隋は高句麗へ攻め入り逆に敗戦の憂き目を見た
隋は倭国の父祖の地琉球へ侵略し俘虜多数を隋へ連れ去った
等の要因で日出るところの天子を名乗っ
https://youtu.be/q7qHQp696lE 奈良の歴史
親呉国のトウテイコクが支配していた
倭国のあぶれ者の神武兄弟が北部へ侵入0年
280年までの間奈良盆地を支配下においた
呉が280年に滅亡し後ろ盾を失ったトウテイコク
崇神が好機到来と侵略を始める >>19
台という感じが当て字だからね
壱の昔の字が正し買ったと思う 当て字だよ >>683
壱も台も中国人は似た読みをするからどっちだっていいよ
里程とか壱とか、無駄な論争さ >>684
古代の発音ってどうやって知るの? 不思議でならない >>685
唐の時代の辞書をもとにしてあたま良すぎてわけわからない人が暗号読み解くように調べた
唐時代と卑弥呼時代は300年くらいだから大して変わらない 正しくは
かんのいとこくおう
場所は倭国 博多湾岸
委奴は匈奴に対する語彙
凶悪で従わない匈奴に対して
従順で従うと言う意味を持つ
誤りの漢の奴の国王
という三段読みは無い
もし三段読みがあれば
倭の国王にはダイヤモンドの印を与えでもしたのか
正しくは漢のイト国王
三段読みに拘泥するのは奈良政権に拘泥する馬鹿
博多に薬院という場所がある
此処は2000年前から陸地の部分
900年頃菅原道真が波方へ着いたときの上陸地点
ヤクインはインヤクではないのかと思う
古鴉神社がそれ
インヤクは倭人伝で魏から貰った金印 銀印 銅印を祭った場所ではないか
志賀の島で祭られていたのは金印 此処も当時からの陸地部分
倭国滅亡で祭祀を行う権力がなくなり 記憶もなくなった
その好例が宗像の沖ノ島の国宝類 太宰府市の姿勢は間違っている 折角のとうのみかどの所在地で在りながら 奈良政権の支庁くらいのあつかいをしている 対して 吉野ヶ里はキャラの名前を ヒミカ としている
正しい歴史を歩んでいて嬉しい そもそも魏の記録の人物名で日本の記録の登場人物と
一致してるのがほぼ存在しないの何でなん? >>689
薬院は江戸時代に出来た区域名
単に薬屋が多かったのね 『八世紀半ば僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、称徳天皇に取り入り天皇の座を狙うようになる。道鏡は大宰府の役人である習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)を使い「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」という宇佐八幡宮の神託を奏上した。
称徳天皇はこの神託の真偽を確かめさせる為に、和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に派遣した。八幡神のお告げは「皇室の血統でない者に位を授けてはならない」というものだった。結局、道鏡は皇位にはつけなかった
奈良政権は紀元前から700年迄続いた倭国(チクシ)政権を無かったものとしたい
しかし 苦しいときの神頼みで倭国(チクシ)の祭神を頼ったのが此の事件
700年では倭国の記憶を持つ者は多く存在しており 出来たばかりの奈良政権より遥かに信用性があった
磐井が継体の裏切りの反乱により殺された時 磐井は此処へ落ち延びて歴史から消えた
https://youtu.be/pvT5x9mXsng ここで着目すべきは皇室は伊勢神宮でなく宇佐神宮に神託を求めた事実
なぜなら宇佐は皇室の宗廟でありその主祭神は比売大神つまり卑弥呼 神託w
この科学の時代に天照大神ことコロナ様に御神託ってか 天照のご加護で感染は収まるだろうの神託が下りたことに期待w まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190810/k10012031231000.html
日本列島で文字が使われ始めた時期が大きくさかのぼるかもしれません。弥生時代や古墳時代の遺跡から発掘された石が調査の結果、
「すずり」と判断される事例が九州北部を中心に相次ぎ、調査に当たった専門家は、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性があると指摘しています。
調査は、弥生時代や古墳時代の遺跡で過去に発掘された石などを対象に、福岡県内の複数の考古学研究者が進めています。
刃物などを研ぐ「砥石(といし)」と判断されていた石などを詳しく調べ直した結果、これまでにおよそ130点が「すずり」と判断されました。
ほぼ同じ時代の中国や朝鮮半島の遺跡から見つかったすずりと形が似ていることに加え、石のすり減り方が砥石と異なるほか、
一部には墨とみられる黒い付着物が付いていたことなどから、「すずり」と判断したということです。
調査に当たっている弥生時代の専門家で、國學院大学の柳田康雄客員教授によりますと、「すずり」と判断した石は、
九州北部を中心に西日本の各地に分布し、このうちの5点は弥生時代中期の紀元前100年ごろまでさかのぼるということです。
日本列島では古墳時代中期の5世紀ごろには、確実に文字が使われ始め、それより前は土器に書かれた墨書など、
文字の可能性を示す資料が見つかっているものの、普及の実態はよく分かっていません。
柳田さんは九州北部では紀元前からすずりを使って文字を書いていた可能性があるとして、「弥生時代は原始時代ではなく、
文字を持った高度な文化や文明があったと言ってもいい」と指摘しています。
なぜ「すずり」と判断?
研究者たちが参考にしたのは、中国の漢の時代に使われていた板状の「すずり」です。
このうち、朝鮮半島で見つかったすずりの復元模型は、漆塗りの豪華な台の上に平たい石が置かれ、この上で水を含ませながら粒状の墨を
すりつぶしたと考えられています。
研究者たちは、こうした形状のすずりが北部九州などにもあるのではないかと考え、発掘調査の報告書に「砥石」と記されている平らで
細長い形をした石の再調査を進めてきました。
細かい観察や実測を行って、形のほかにも砥石とは異なり、表面の中央部分だけがくぼんでいることや、表面から垂れたと思われる
墨のようなものが側面に付着していることなど、すずりと判断できる特徴を見つけてきたということです。 まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
当時の社会情勢
662年白村江で倭国は敗戦し首都太宰府には唐軍が駐留していた
1945年の日本の敗戦で米軍が日本へ駐留し74年経過した2019年もいまだ駐留していること
北方四島の占領もいまだ続いている
戦争での勝利の権利を簡単に手放す戦勝国はありえないことがわかる 唐も長く駐留したと推測できる
唐が弱体化する菅原道真の900年前後あたりまで駐留していたのではないか
太宰府及び軍港吉野ガ里に駐留する唐軍の存在を無視して日本列島で内乱は起こせない
唐軍を味方につけたほうに勝利のチャンスはある
テンムの吉野ガ里詣でによりテンムが勝利した 淑人とカクムソウを呼び協力を依頼した
天武についた倭国の残存勢力の心理は 白村江の戦いで唐に内通し倭国を裏切った天智への反感がある
唐のカクムソウは首都大宰府へ駐留し軍船は吉野ケ里にいる これを利用し天智へ一泡吹かせようと
更に敗戦後の天智の軍勢による略奪暴行への反感がある
大分君恵尺 豊後 君といえば倭国天子の一族
黄書造 大伴 八女
逢臣志摩 博多 日本人のほとんどが誤解していること
倭国と日本を同一視していること
事実は倭国が紀元前から700年まで日本列島を代表した政権であり 自己の年号を使用していた 首都は大宰府
日本は奈良政権を発祥として700年以降日本列島の代表政権となった 日本という呼称も倭国内で使われていた呼称をもらったもの
旧唐書を読めばだれでも簡単にわかることだが 明治政府の洗脳の力は根強いものがある 間違った教科書が是正される日こそ正常な日本となれる日 九州には邪魔大王国に女王ヒミカがあるだろ
ジーグも付けてやるぞ 遠乃御朝庭の解釈が日本全部で誤っている
奈良政権以外の王朝を認めたくない思考の賜物だ
真実は紀元前より700年まで続いた倭国の首都大宰府のことだ
古の御朝庭が其れ
奈良政権から遠く離れた奈良政権の支所という恥ずかしい解釈が蔓延している
仮にそうなら日本全国に遠乃御朝庭が無ければならぬ道理だが
大宰府にしかないことへの説明は誰も出来ない まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
日本列島と中国との交流が文献に現れるのは紀元前1100年頃 勿論それ以前も交流があった容易に推測は出来る 日本列島に住み着いたのは南方系海洋民族だから どうしてこんなに新鮮で
どうしてこんなに美味しいの
ファーレファーレ
とっておきのマーケット 俺は大和は魏志倭人伝に出てくる大倭だと思うぞ
もとは大宰府にあった邪馬台国こ機関の一つだったが、それを時代とともに東へ移動したんだろうと
そんな気がしてきた 紀元前50年
倭人 兵を行い 辺りを犯さんと欲す 三国史記 新羅本紀
半島へ進出していた倭国との争い まとめ
一 畿内説は消えた 可能性はゼロ 否定証明済み
ニ 東遷も東征もない 考古学的に否定された
三 卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳
この3つは確定事項で動かない
この確定事項を弁えた上で邪馬台国論争は議論をするように
邪馬台国論争において残っている主要な課題は、
邪馬台国の問題は御井周辺にあったはずの邪馬台国の具体的な位置を突き止めることだけ
それ以外の主要な問題はほぼ全て解決済み
少なくとも深刻な矛盾は全く存在しない
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