「日本」という国号が正式に、中国や半島に認識されたのは、700年前後の事で、それ以前は、「倭」と言われた。
「日本書紀」の「仲哀」も「倭の五王(讃、珍、済、興、武)」は、百済王族で、
「筑紫君磐井」,「隋に使者を派遣した阿毎多利思北孤」、「欽明」「舒明」、「筑紫君薩野馬(日本書紀が天武と言っている人物)」等も百済王族の末裔だが、この時期は、まだ日本列島に支配的な王権だったとは考えにくい。
はっきりしているのは、642年に百済義慈王により国外追放を受けて、列島に亡命してきた百済武王集団の中の「翹岐王」が
「日本書紀の言う中大兄(後の天智)」で、彼の血統が現在の天皇家に継続している。
だが彼の没後、後継者である大友皇子が新羅の皇子である金多遂に破れ、金が天武天皇を名乗り
中央集権的な王朝を作った時が実質的に日本国が誕生したときと言って良いだろう。