【邪馬台国の九州説に新説!?】古代史の真相に肉薄した一人の天才科学者 魏志倭人伝に示された距離の単位「里」を推定[12/07]
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■複雑系科学の見地から邪馬台国の謎に挑んだ“スーパー医学者“
日本古代史最大のミステリーと言えば、「邪馬台国論争」だろう。中国では魏・呉・蜀の三国が覇権を競いあった三世紀に日本列島に存在したとされる邪馬台国だが、その正確な位置はまだわかっていない。
江戸時代から続く論争の中で、候補地として挙げられた場所は100ヶ所を超えるが、現在では大半の研究者が九州か畿内のどちらかを主張している。2009年に奈良の纏向遺跡で大型の建物跡が発見されたことから畿内説がやや優位に立ったとも言われているが、決定的な考古学上の“証拠”はいまだ見つかっていないのだ。
この難攻不落の謎に、一人の天才科学者が挑戦したのが、『日本古代史を科学する』(PHP新書)だ。
著者の中田力氏はアメリカで臨床医として活躍するかたわらファンクショナルMRIの開発に携わり、さらに複雑系脳科学の研究者として脳における意識の発生の謎に挑んだ“脳の渦理論”を提唱するなど、まさに三刀流の活躍をしたスーパー医学者である(2018年7月1日逝去)。
以下、中田氏が邪馬台国の所在地を同定する論証過程をダイジェストしてご紹介しよう。
まず中田氏は、複雑系脳科学者としての立場から、「条件設定と全体像での評価」という複雑系科学における検証作業の方法論を日本古代史に応用すると宣言する。
そして日本古代史の出発点とすべきなのが「魏志倭人伝」であり、その最初の設問こそ「邪馬台国がどこにあったか」である。
複雑系科学においてまず考えなくてはならないのは「初期条件の設定」である。初期条件の明確な提示とその解析が、すべての理論展開に優先するのだ。
中田氏はここで3つの前提を設定する。
【前提1】「魏志倭人伝」に書かれている記載には故意に変更された事項がない。
【前提2】 科学・技術の時代背景をきちんと考察する。
【前提3】社会学的な意識を持ち込まず、常識的でない解釈は採用しない。
【前提1】については、これまでの論争の中で邪馬台国に関する記述の矛盾(と思われる)点を、筆者が意図的に事実を歪めて記述したと解釈する論者たちがいた。先を急ぐので理由は詳述しないが、中田氏はそういった解釈はとらないということだ。
【前提2】は、古代人とはいえ特に天文学においては現代人が驚くほどの正確な知識を持っていたと考えられる反面、理論的には理解できていたとしても、技術力の違いから正確な結果を導き出せない場合が多々あることを認識しなくてはいけないということ。
【前提3】はややわかりにくいが、権威主義に囚われず、科学的常識からも、その時代の社会学的常識からも逸脱しないこと、と説明されている。
以上を踏まえて、「魏志倭人伝」における邪馬台国に関する記述を見ていこう。
■魏志倭人伝に示された距離の単位「里」を推定
まず「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国への通過地点をまとめよう。
帯方郡 → 狗邪韓国 → 對海国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国 → 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国
上記の中で、
続きはソースで
https://amd.c.yimg.jp/amd/20181210-00010001-php_s-000-1-view.jpg
関連スレ
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1546145230/
https://shuchi.php.co.jp/article/5756 宮崎の前方後円墳群の位置づけする仮説があればいいんじゃねえの
荒っぽくも道筋つけたのは評価する。卑弥呼の邪馬台国の場所とかすると
途端にレベルが低い議論になるから嫌い
新規の情報もって挑めばいい。この人は自然科学とかいうけど
中身のキモは地形と、現在の交流路からの推測 隼人国からこの辺の地域は、弥生後期から古墳前期の状態いい遺跡が出てるので
それを解釈していく必要ある。モノはちょっと驚き。非常に変なの >>112
学会では九州説派は深刻な後継者不足に陥っているらしい
ソースは高校時代の先生 >>115
生目古墳群最古と目される1号墳が、箸墓古墳と同じ形で、1/2スケール。
これが箸墓と同時期に作られたモノであれば、明らかな序列がある。
つまり纒向より序列が一段低い集団と考えられそう。
九州説的に解釈するには、生目が先で、東遷したあと、生目1号墳を模して、より大規模である箸墓古墳を作ったってことになる。
この場合、生目1号墳は箸墓古墳より古くないといけない。
また、宮崎には宮崎で、それなりの規模の集落が残って、古墳を作り続けている。その辺りの関係が不明瞭。
目古墳1号墳の調査が待たれるね。 >>112
今どき、あれを卑弥呼の墓だと思ってる奴はお前くらいしかいないぞ。 卑弥呼って誰もやりたがらない時の生徒会長みたいなもんだよね。 金印は捏造説を支持してます(福岡の博物館にあるけど・・・・ 帯方郡 → 狗邪韓国 → 對海国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国 → 奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国
この時点で間違い
正しくは
帯方郡 → 狗邪韓国 → 對海国 → 一大国 → 末盧国 → 伊都国 → 不弥国 → → 邪馬壱国 何作か前のトゥームレイダーでは南海の孤島にあったとかいうトンデモ説に基づいて冒険が始まってたな
トンボライダーシリーズはいつも3D酔いが酷くてかなり序盤で投げたからどうなったのかは知らんが 邪馬台国の官は次のとおり。
@イクメ →垂仁天皇
Aミマショウ →ミマキ姫
Bミマクヮシ →トオツアユ姫
Cナカタ → クニカタ姫orタケヌナガワミミ 連邦国である倭の覇権国である邪馬台国に属さない国→熊襲(熊本)
九州宮崎は日向国(神武天皇の出身地)で邪馬台国の直轄地。
日向の女王が卑弥呼。
後の台与は豊国の女王。 纏向型前方後円墳というより吉備中山茶臼山型前方後円墳という方が正しいw
投馬国の首都は吉備中山茶臼山の山麓、元の吉備津彦神社だろうw
穴海を隔てた楯築近辺の可能性も残るがw >>128
投馬国は、どこになる?
邪馬台国の北側にあるよ。 簡単に攻め込めないように、わざと遠回りをしてぐるぐると距離を遠く見せたのだと
思う。たとえば北九州に本拠地があったとしたら、朝鮮半島からあまりにも近すぎて、
船団で海岸まできてそれから一気に攻め込まれたらお終いだという意識があったなら、
山を越え谷を越え海を渡り、などとしないと目的地には着かない、という風に思わせる
ことで、攻め入るのが困難だとしたかったろう。
朝鮮半島の国とは対立関係にある、あるいは紛争関係にあったのかもしれないが、
そういう危機意識があればこそ、中国様に貢ぎ物をして冊封体制に入ることで
安全保障を得ようとしたのかもしれないのだから。
使者が忠実な経路情報を半島の人間に漏らしたりあるいは中国の文書に残ると
まずいなと考えた可能性はある。
使者はもしかすると目隠しをして、回りの見えないように覆われた輿に乗って
運ばれたかもしれないと思う。 宇佐神宮には3体の神が祀られて御座候
左から一之御殿が 八幡大神
中央が二の之御殿 比売大神
右が三之御殿 神功皇后
中央の比売大神が卑弥呼が祀られているそうです
ニワカです
スレ重複おコピペ >>119
古墳の発掘が今後進むのは全国でこのエリアくらいしかないので、動きがあるかもしれん
加えて、自治体が「神武東征」で連携してる。宮崎市と橿原市。
そういうストーリを作っていくだろう。 >>132
俺は宮崎は投馬国だと思ってるが、
仮に邪馬台国が宮崎なら、
投馬は大分になるだろうな >>114では邪馬台国宮崎、投馬薩摩半島
の解釈してるが、方位は間違えてる説てことか >>11
オレ大発見!とか思ってたけど、誰でも辿り着く結論みたいでなんか安心した。
学者連中もわからんわけがあるまいに、何と戦っているのかねぇ彼らは。 >>132
筑紫平野から南に200キロぐらいのとこ 戸数が多いのはそれだけその国が広い領域を持ってるってことを表してる。
それは山岳部では無理で、平野部であることを意味してる。
…ということで、地理的にざっくり考えても、鹿児島か宮崎だろということになる。
邪馬台国の領域は九州の大分&宮崎みたいな感じに俺は捉えている。 >>141
宮崎や鹿児島もいいけど、シラス台地で稲作に不向きなので発展に限界があるような気がするんだけどな >>117
発掘が進んだり、考古学や科学が進歩して、九州説はもう成り立つ余地が残ってないからね
専門知識のない素人が先入観とかイメージで九州だと主張してるだけだし 南九州に戸数12万とかの大国が在る倭人とか東亜細亜を余裕で制覇出来るだろうなw
馬鹿馬鹿しいにも程がw >>135
景行天皇は、日向髪長大田根を妃としている。
応神天皇は、日向泉長媛を妃としている。
仁徳天皇については、
日向国諸県君牛諸井の
娘髪長媛(かみながひめ)を妃としている。
日向系の妃が、4〜5世紀頃に、嫁ぎ、
日向系と大和国家の大王との間に、
交流があったのは、わかる。 >>136
そうなるよね。そこが分からず、
魏志倭人伝から、拾ってきた
「会稽の東」にあるという文を
調べていた。福建省は、論外で、
会稽は、ずっと紹興市と思っていたんだね。
で、同緯度にいくと、佐多岬の少し南になる。
どうもしっくり来なく、調べていたら、
古代の会稽は、紹興市ではないわけだね。
その会稽であれば、やはり
九州南部になる。 >>123
>金印は捏造説を支持してます(福岡の博物館にあるけど・・・・
金印は真物だよ
らくだの首を落として蛇鈕に替えているのがその証拠 >>136
計其道里 當在会稽東治之東
この魏志倭人伝の会稽東治を冶か治かでも
悩んだんだが、曹操の先祖が治めた
地域を間違えるか?とも思い、調べた。
紹興は、戦国時代から会稽と
いわれているが、
秦朝時代から後漢の永建までは、
会稽郡治は、呉県にあった。
その呉県は、今の蘇州あたり。
太湖のあたりだね。
永建のあとは、紹興地区を
会稽郡と蘇州地区を呉郡にわけた。
問題は、魏志倭人伝を書き始める280年
以降は、孫権呉は、なくなり、
支配していた地域の会稽も
名前を変え、無くなった。
つまりは、滅ぼした孫権の会稽は、
魏志倭人伝の際にはなくなり、
後漢時代の蘇州市を、会稽郡治として
書いたとみるほうが、わかりやすい。 >>136
蘇州市や無錫市などから、地図を見て、
東にいけば、日本のどこあたりかは、それで
わかるはず。陳寿さんは
曹操一族さんに、拾ってもらったから、
会稽郡も曹家に関係あるから、書いているね。 >>1
桃の種で決まったんでしょ?
もうそれでいいですよ >>131
吉備の古墳群も、全体の歴史から見ればスルーだったな。そういえば
古墳ハンターの阪大考古学の足跡追ってみると、いろいろおもろい
日本の考古学でお宝探しをやってるのはこのグループくらいじゃないか
宮内庁とも上手くやってる。関係なくて重要度が高そうなのを狙い撃ち >中田氏は衛星画像を眺めながら、伊都国への道筋に最も適合した経路を検索する。すぐに目についたのが、唐津から多久へ抜ける唐津街道と呼ばれる山道の存在だった。
専門外の馬鹿に口出しさせるなって…
そもそも道が違う、今の西公園からお櫛田さんまでは普通に海
間抜けの私論鵜呑みにすんなよチャネラーは 計其道里 當在会稽東治之東
九州倭国の政冶形体と墳墓のつくりを称賛した言葉です >>4
卑弥呼も日の御子だしな
倭人も和人
中華思想の法則言えよな >>70
古代は宮崎と鹿児島はみな「日向」だよ
宮崎と鹿児島を分ける意味がない 多くの日本人が全国大会と騙されていると思う
これはただの関東地方大学駅伝ですと報じたことを一度も耳にしたことが無いことでも
判るだろ。
トンキンマスゴミは自分達と関東人が朝鮮人を連行されて作られた朝鮮部落民
朝鮮卑民被差別民を隠しているのと同じ。
コンプ丸出し野蛮人が日本人でもない土人が ま、とにかく
今の宮崎と大和朝廷の距離が
兄弟のように近かったのは確かなこと
そこがちゃんと解明できれば
日本古代史の謎はあらかた解決する >>157
それって、「吉備はヤマト王権と関係があった」というのと同レベルの話じゃないか・・。
古墳群の分布からして、関係があったのはまず間違いないと思うけど、規模が小さいし。
発掘が進んで新しい事実が出て来ることには期待しているけどさ。 >>155
ルート追って違和感あったのはここだわ
人吉市から宮崎に抜けるルートを想定してるけど、地形的には南の平野部とつながってる
この本では、人吉-えびのに国境的なのがあって南側を隼人として異国としてる
鉄道路線の密度やら高速道路の建設推移みると、地理的な分断は正しい。ループ橋で無理から繋げてるからね
横断ルートも、椎葉か高千穂通ればおおっとなるけど、ちとずれる。 >>143
弥生時代から続く王墓の存在や、鉄の出土量鏡文化、外国製品の多さ等、3世紀前半の先進性では北部九州の方が圧倒的だから、それはマヤカシなんだよなぁ
確かに後の時代になると文化の中心地が畿内に移行はするが、卑弥呼共立後の3世紀前半が"弱すぎる"のがネック
畿内説のいう"共立"の様相ではない >>161
2世紀前半というなら、確かに北九州が優位だと思うけど、近畿で2世紀後半以降の有力な遺跡発掘が相次いでるし、いうほどしゃないだろうに。
脳内の発掘データが2000年くらいで脳内が止まってる人? >>161
邪馬台国の会とかから情報を得てる人ですか?
ちゃんと学者が書いた本や論文を読んだ方がいいですよ >>161
>畿内説のいう"共立"の様相ではない
つまり、魏志倭人伝の記述はあてにならないと言いたい訳だな?
でも、南至邪馬壹國の南は絶対に正しいという訳だ
ダブスタ乙w 參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
↑
一里が75mとしても一周375kmは九州でも小さいけど、当時の北九州人の認識が間違ってたなら納得できる。
ただ、近畿を一周375kmの洲島と間違うのは無理がある。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
↑
狗邪韓國から對海國、對海國から一大國、一大國から末盧國も千餘里であり、どうも海上距離はいい加減すぎるw
ただ、近畿の東は陸だから、東渡海は九州の方が自然。
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
↑
邪馬台国は鉄製品や外国製品の出土が多い北九州の伊都國を従属させてるから、近畿だったらもっと鉄製品などが流通してなければおかしい。 >>165
>一里が75mとしても一周375km
周旋は一周しないんだよ
いろいろ寄りながら進むこと
ワンウエイだよ >>165
>近畿を一周375kmの洲島と間違うのは無理がある
捏造の度量衡をもとに批判など論外
>近畿の東は陸だから、東渡海は九州の方が自然
伊勢も女王国の一部なので、東に海があり伊豆諸島を倭種とみなせば矛盾はない
同じ理屈を九州説に当てはめると、筑紫平野など九州の西半分は文献と矛盾する
大分は東に海があるが、四国までは百里程度なのでこれも文献に矛盾
>邪馬台国は鉄製品や外国製品の出土が多い北九州の伊都國を従属させてる
考古学的事実として、北部九州は3世紀中頃にはヤマト政権の傘下に入っている
一方、伊都国や奴国が他の九州勢に統治されていた痕跡は皆無
九州説は邪馬台国の遺跡が見つかってないだけだと言い訳するが、
伊都国や奴国の状況に関しては言い訳は一切通用しない
文献と現実が矛盾するので九州説は否定される 中国の昔の地図からの感覚は南東が近畿や関東の歯黒国
投馬国 は奄美
邪馬台国 は琉球
倭国はと奄美・沖縄から南朝鮮、房総まで東鯷国=扶桑国
ユタはじめシャーマン=卑弥呼
伊都国 には邪馬台国の住民もいた出先機関あり
東鯷国の久米氏ら徐福部隊の上陸地も伊都国。徐福伝説の佐賀・福岡。
福岡には住吉大社。大阪に住吉神社。愛知に熱田神宮。
斉国の徐福は3,000名引き連れ、沖縄・奄美の久米氏とともに征東し、王になった=天皇。
斉国自体が秦と同じ姜のペルシャ系西アジアの部族。
倭国は1年中野菜が取れ、入れ墨、長命で、酒をよく飲む。
>「古事記」(約712年)によれば、「神武天皇紀」に、「伊波礼彦尊」(後の神武天皇)からの求婚の使者(大久米命記)に「入れ墨」があったため、「伊須気余理比売が驚いた」との記述があります。
伊須気余理比売(ヒメタタライスズヒメ)の近畿のあたりは、入墨の風習がなかったのかと。
南を考えてみた
・女王卑弥呼の孫である伊波礼彦尊イワレヒコ=神武天皇
・求婚の使者(大久米命記)
・久米の 姓 ハヤト系もしくは沖縄 久米家の由来でわかる
・久米氏は神武天皇の護衛、戦闘部隊 氷上姉子神社=熱田神宮の尾張氏につながる
・久米氏と大伴氏がニニギイの東遠征
・天孫降臨の段に登場する「笠沙之御前」笠沙岬は鹿児島の港笠沙
・ニニギイがここでコノハナサクヤヒメと出会い、神武天応の祖父にあたるホヲリを生む
投馬国、邪馬台国が口語当て字の可能性 大
中国の文章で一番やっかいなのが漢字
始皇帝や斉国と漢字でかかれていると中国人かと思うが、実際ペルシャ系。
中央アジアや日本に対して意味なく口語から当て字をしていることも多い。
始皇帝の父は呂不韋(ロフィー)
琉球・奄美の方言を調べた
ヤマタイ、ヤマト、ヤマチュ、ヤマンチュ アマト、アマンチュ、トゥマ・
・アマンチュ(天人)=130 歳である福人の大主の前にアマンチュー(天人)が現れ、長寿の大主の位と五穀の種を授けた
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/wordpress3/wp-content/uploads/2013/05/h2801.pdf
アマミキヨ=アマテラスがペルシャ系徐福伝説につながる。
・沖縄・奄美の方言では ヤ=家 トゥ=港 マ=馬 タイ=松明
・トウマ、港のある国。ヤマタイコク、港の家国で東鯷国の拠点。
・アマトゥコク 海女の港の国。
・アマンチュ(天人)国 中国からみた秦、斉徐福らの巨人のいる国。
・ヤマタイコク 家が馬のタイマツ の国
女王卑弥呼の孫であるイワレヒコ神武天皇。
神武天皇の祖先は沖縄。沖縄の久米氏らニニギを護衛しながら東へ遠征。
途中鹿児島の港笠沙でコノハナサクヤヒメと合う。
といった流れではないだろうか。 いままで魏志倭人伝時代の「里」を、現代日本の4Kmで考えてた歴史学者がバカだっただけ。
やはり文系はノータリン。
頭が悪い。
>>170
と、脳内で妄想したってことね
妄想でなく事実だというなら、その歴史学者の名前を挙げてみて
実際は学者がバカなのではなく、おまえがバカなんだけどさ 南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
佐賀平野から熊本平野まで水行二十日はかかりすぎだろう。
投馬国は、熊本と鹿児島の境の先、川内平野であろう。
そこから水行10日、陸行一月で行き着くのは霧島国分の、上野原遺跡。
ここが邪馬台国だ。 >>172
あれ?
鹿児島説というか九州説かなり苦しくなったんじゃないの? 南、投馬国に至る水行二十日。
南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。
もし宮崎平野が邪馬台国なら、投馬国から「水行十日陸行一月」せず、船で南九州をぐるりと回って、水行だけで到着すればよろしい。
>>174
これは、大分まわりとかやないの?
神武さんが、
日向市美々津から船出して、
米水津やら細島やら立ち寄って、
北九州岡田宮まできてるし、宇佐にも行ってるし、
以前から北部九州をつなぐ
海上ルートやないかな。リアス式やから
行きやすいわな。大人数の船なら。
有明海は、潮位変動で、遠浅のため、
座礁する。
いまでも大型コンテナ港は、
外海の唐津だしな。
佐賀市内には、メインポートはない。 言葉も通じない異界でワケワカラン装束と入れ墨した蛮族ひしめく中で荒波と原始の山野をかき分けて邪馬台国へたどり着くって大冒険だったろうな そろそろ邪馬台国関東説とか邪馬台国津軽説くらい出してくれないとつまんない >>162
3世紀前半、つまり布留0以前の庄内期
の遺跡からの鉄や鏡の出土状況を調べて下さい。
>>163
どちらかというなら、講演に聞きに行って最新情報を探っているかな。
>>164
共立の意味には様々あるからね。
畿内説によると、卑弥呼共立時によるい連合体制の政権が出来る、つまり中心地が北部九州から移動したとみる見解が多い。
王墓の遺跡や金印出土がある九州説は倭国の内乱でいいけど。 >>168
昔の中国からみる狗奴国は南だから九州の熊本あたりだ。
南のさらに東南が近畿。
昔の中国は、現在の東西南北とずれている。
中国と交流している琉球が邪馬台国だよ。
入墨の久米氏が、天皇家に婚約の使いで会える時点でわかるだろ。 >>181
>中国と交流している琉球が邪馬台国だよ。
琉球では陸行一月できる陸地がないと何度言えばw
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>> 182 投馬国から次の邪馬台国への行程を、水行十日、陸行一月とする
台風や嵐がなければ奄美から沖縄まで10日、海が荒れて島伝いにいけば1ヶ月はかかるだろう。
久米氏がいた久米島はし1世紀頃の沖縄まで陸続きだった。
巨大地震と大津波が過去あって、沖縄ー奄美は壊滅した可能性が高い。 >>7
金印は、魏の使節が女王に直接渡したのに
「魏の使者が実際に倭にきて記述したと思い込む」
とな。
瀬戸内海を魏の使節が通ったなら詳細を必ず記述するよ。 >>178
畿内説が、巻向に集約されたってことは
それまであった各地の畿内説は、みなボツか。
なんでボツになったのか根拠なしなのかな より強力な根拠のある候補地があれば、そことの比較で他の候補地は脱落する。
それだけのこと
そして九州説の候補地もすべて脱落してる
それだけのことなんだよ >>188
そしてその纒向では邪馬台国の痕跡が薄すぎて畿内説全滅。 >>190
具体的な指摘抜きの煽りは無価値
ちゃんと論争になるようなコメを書こうよ! 纒向遺跡はとっくの昔に候補から外れてるだろ。
畿内説派の中でもそんな黒歴史は
なかったことになってる。 まあ、その時代に大きな遺構や有力者の遺物があった、見つかった、とか全く意味はないよねw
それが邪馬台国である証拠でも何でもない。
こんなんでどこが有力だとか確実みたいに真剣に言ってるのは頭がおかしいレベルとは俺も思うよw
まだこういう説の方がましかもしれんと思うぐらいでな、考古学ってこんなトンデモレベルだから馬鹿にされるんだと思う >>194
九州説はもう嘘をつくしか対抗できないってことだな 畿内説は無くなって
地道に地元の考古学を調査する
纒向学に変わったね。 金印に「漢委奴國王」をカンノナノコクオウと読む此の人は従来どおりの俗説の人
三段よみの金印は世界のどこにも無い事を知らない
カンノイトコクオウが正しい 二段よみ
もし三段よみであればナノコクオウが金印をもらったならば
ワコクオウは何をもらうのかと普通の知識なら考えるはず 海を渡ることを考えれば
金印の場所と伊都国はすぐ近くだからね 帯方郡から狗邪韓国 水行七千余里
狗邪韓国から對海国 一海渡千余里
對海国から一大国 一海渡千余里
一大国から末盧国 一海渡千余里
帯方郡の位置がはっきりしないので水行七千余里は棚上げにし、以下の行程を現在の地名に当てはめてみる。
釜山(狗邪韓国)から対馬(對海国) 104キロメートル
対馬(對海国)から壱岐(一大国) 64キロメートル
壱岐(一大国)から唐津(末盧国) 41キロメートル
このように自分で書いているが割り算すれば猿でも解る
64000÷1000=64m
41000÷1000=41m
答えは4m1〜64m つまり短里だ 当方は75m 地政学的に観て、魏が敵対していた呉をを包囲するため、九州の邪馬台国
に金印を送ったのだろう。機内では中国の呉国からはあまりに遠すぎるしな。
魏は、他にも蜀を包囲するため大月氏国という中東の国にも金印を送っている
ことから考えても、あまりに呉に遠い機内の国に邪馬台国があるわけがない。 金印は57年 当時の奈良はやっと神武が橋頭堡を築いた時点 外交はとても出来ない
対して九州倭国は周の時代よりチョウソウを貢献したと記録にのこるほど往来をしていた
更に古いウの二倍年暦をみれば更にさかのぼるかもしれない
博多から奈良への距離より遥かに近い半島であり 鉄を得るため支配するのは当たり前 嘘、捏造は九州説のデフォ
ID:tn5U2VyIみたいに 当時の大陸の大国に属国申請した小国なんていくつもありそうだけど >>209
魏志に、「昔は100余国。漢の時代には朝見するものあり。今は30国が交流可能」と書いてある。
わざわざ漢の時代には、と書くくらいだから、しばらくは国同士のオフィシャルな朝見はなかったのだろう。
その上で、邪馬台国の朝貢について詳細に記載している。
魏も当然小国を把握していたし、交易などで関わっていたのだろうけど、
魏へのオフィシャルな朝貢を実現したのはやはり邪馬台国だったんだろう。
他の小国は、中国に出向くも、滅亡する前の公孫氏に謁見する形になり
魏の皇帝に接触出来ず、結果記録に残らなかった可能性もある。 南、邪馬壱国(邪馬台国)に至る。女王の都する所、、、、
これを読む限り邪馬台国は別に卑弥呼の出身国というワケではないように思える。
女王の国(卑弥呼が統べる共立国の中で)の最大都市国家が邪馬台国って意味じゃないかな?
邪馬台国は畿内かもしれないけど卑弥呼は九州の人で九州に常駐してた、、、
だから魏の使者はこの時代、畿内まで行く必要もないし行ってない。
後の弓削の道鏡の御神託の時もわざわざ宇佐八幡宮へ和気清麻呂が都から検分にやって来たでしょ。
卑弥呼の時代から伝わる名残りじゃないの? >>199
そういえば、桜井市民がそう言ってたな。 >>1
鮮人の書いた文書を解読するのは宇宙の起源を解読するよりむずかしい。
されは、脳内お花畑空想だからだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています