【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★13
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1543836090/ 占領された北九州がいつ日本に征服されたんだよ
そんな重大事なら史書に残るだろ >>118
筑紫の倭人は「唐に支配されてた」なんてコレッぽっちも思ってなかったろうね。
せーぜい数百人の薄〜い駐留軍だし。
(金品を)略奪、女はレイプ、、、とヤりたい放題は出来なかったろうさ。
怒った原住民に駐屯地を簡単に襲撃されちゃうから。
「再び蜂起しないか?」の監視が役目で原住民とは和気あいあいやってたろうし。
朝鮮半島の都督府とは状況が違うよ。
「この人たち、ここで何してんの?」で印象も薄くて紀記にも余り書く事も無かったんだろw 672年3月。
670年に新羅が唐に戦いを起こし倭国なんかに構ってられなくなった。
676年新羅が半島から唐を追い出して朝鮮を統一した。 数百人の駐留軍なんて速攻飲み込まれて駐留する意味なし
馬鹿馬鹿しい まぁ大唐帝国により九州の地に「筑紫都督府」が置かれた事実は覆す事が出来ないよ。
都督府とは唐が統治するために置いた直轄地の事ですから。
これを「占領」と言わずドー言うのw 邪馬台国は畿内だよな
筑紫督都府とやらがあったとしても北九州が大和朝廷にとって辺境だから放置されたんだろう >筑紫督都府
じゃなく筑紫都督府だよ。
都(首都を)督(見張って取締る)府(行政区域)な。
中国が七世紀になっても「倭国の中心(都)は北九州」と思っていた証だろう。
「邪馬台国」の存在を世に知らしめ「卑弥呼」に王権を授けた中国、その中国が、、、だ。
中国は畿内のヤマト王権の存在を知らないor認めてない。
「邪馬台国や卑弥呼が畿内に在った」だなんて有り得ようハズもない。 唐が九州を占領したなんて、どの文献にも載ってないトンデモだと思うけど
仮に事実だとすると、九州説は完全終了しちゃうね
九州説にとって不利になることを九州説が言うのは
九州説のフリをしてるけど本当は日本の歴史をおとしめたいだけってはっきりわかんだね 「日本の歴史をおとしめたいだけ」などと耳を塞ぎ目を逸らしている。
そんなんで「真実」にたどり着けるのか?
日本の歴史を都合よく歪曲(美化)して捉えているのはいったいドッチなんだよ。 唐が畿内が日本の中心でその存在を知らないわけないだろ……
ヨーロッパの情報だって入手する情報大国なのに馬鹿か >>129
>そんなんで「真実」にたどり着けるのか?
たどり着けるよ?
「真実」は畿内大和が邪馬台国だってだけ
それを認められないニダーって言い続ける>>129みたいな人が少数残ってるだけ >>127
筑紫都督府が出てくるのは日本書紀だけだろ?
九州が唐に占領されたなんて、中国の文献にも書かれてないし、日本の文献にも書かれてない
もちろん、そんな物証もどこにもない
単に一人で空想話を作って、畿内説にイチャモンつけてるだけじゃん
>>129
日本の歴史を歪曲してるのは自分だよ >>132
>日本の文献にも書かれてない
と言いながら日本書紀の筑紫都督府の存在は認めるんだね?
当時の倭人が朝鮮半島の熊津都督府や鶏林州都督府を「カッコイイからウチも真似ちゃおう」
って勝手に名付けたとかか?
オメデタイな、こんな重大事項をよくスルー出来るよw >>133
オメデタイのは自分だよ
九州が唐に占領されてたなんてどこにも書かれてないのに、
勝手に妄想して、オレ様の妄想は史実だとひたすら言い張ってるだけなんだから
しかも、1つも証拠を出そうとしない >>134
妄想と推理は違うよ。
書いてないことは一切認めないのか?
まぁいい、アンタと話してても仕方がない。
畿内の何処かの古墳から「ここに卑弥呼が居ました」「親魏倭王の金印はここで授与されました」
、、、の文献が一刻も早く出土されると良いですね。
ほな、サイナラw >>135
推理だと?
妄想を膨らませただけで、推理と呼べるものではない
裏付けとなる物証も1つもない
九州に独立王朝が存在してた証拠も全くない
逆に隋書では畿内との交流が書かれているし、日本側の記録とも一致している
自分に都合の悪い証拠をことごとく無視して、
どこにも書かれてなく根拠のない妄想をゴリ押ししてるだけ 北九州に独立した王朝があったとしてもそんなローカル国家に白村江へ4万を超える軍勢送れるわけないじゃん…… >>135
そう、妄想と推理は違う
お前のは妄想
論理的な破綻がいっぱいだからね 当時の九州の人口が70万だとして兵士4万2千は6%
九州だけの国家なら6%の徴兵は国家存亡の緊急事態とも言えるが、倭国軍は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」なんて言ってるので全然緊張感ないよね
北九州だけのローカル国家じゃなくて列島に広がる大国だという慢心があったからこそ出てくる言葉 >>127 >>130
遣唐使を送ってるんだから、それ以後は畿内を日本の中心と考えてたはずだよね。
だから、筑紫の都督府って隋かもっと前からあったんじゃないかと思うんだよね。
王朝が変わったからって、外交方式を急に変えることはしなかっただけじゃないかな。 九州王朝なんてものを主張したいなら、1つくらい証拠を出そうや
文献を珍解釈してるだけでは議論にもならんし、スレ汚しでしかない >>127
>都(首都を)督(見張って取締る)府(行政区域)な。
↓
これから間違ってんじゃんw
都督の都の意味は「統べる」って意味だよ
首都という意味じゃないw いいこと考えた
纒向だけ九州に編入しよう
福岡県桜井市 一般的な九州説は論破されてほとんどいなくなってしまい、
スレに残ったのは九州王朝説みたいなカルトだけという状況w 天照の神
須佐之男命
(月読)築臣(チクオミ)
神ー命ー臣 と序列化されてる。 >>143
「都」もともと人の集まる「都市・邑」の意味
そこから「統べる」「集める」「すべて」などの意味が派出する >>147
一応中国語勉強してるから、現代中国語に大都市や首都って意味があるのは知ってるんだけど、
「統べる」「集める」の意味があるのは知らんかったな。 当時使われてた方角が現在使われてる方角と異なるのは様々な地図によって明白だろうにw 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えたエベンキ継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>141
文献においてその面影すら見当たらない畿内説よりはマシだ。 >>151
隋書に邪馬台国は大和って書いてあるんですがw >>152
残念ながらそれは邪靡堆だね。
国名を書き改めているその意味を考えなきゃね。 >>151
文献においてイーブンなのは、方角が正しいか、日数が正しいかの点だけ
それ以外の記述では、圧倒的に畿内説の方が有利
九州説は倭人伝の記述に矛盾だらけ >>151
九州説は魏志倭人伝の重要な記述をことごとく嘘だとしないと成り立たない
・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ
・30ヶ国の連合は嘘だ
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ
・水行二十日、水行十日陸行一月は嘘だ
・一大率が刺史に例えられているのは嘘だ
・卑弥呼の宮城に1000人の従者が仕えるとあるのは嘘だ
・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ
・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ
ここまでくると、魏志倭人伝を根底から全否定しているようなもの
九州説なんてものは魏志倭人伝を全否定してでも、邪馬台国は九州だと言い張る珍説ということだ >>156
倭人伝の読み方の正解はなく、様々な説がある
九州説は嘘ではなく、
解釈の仕方が違うのだよ
勿論、行程部分は正確な地図等が無かった時代なので、間違いはあるでしょうが、"ありえない"間違いを想定してはいけない >>157
解釈というより詭弁でしょ
上に挙げた点を合理的な解釈で説明できる? >>158
いや、解釈です
岩元学説でもまずどうぞ
最近ならば"全解決"の本もオススメですよ >>159
それ専門外の素人による曲解やこじつけでしょ
倭人伝を謎解きや暗号解読だの言ってる人は100%インチキ
専門家に広く受け入れられてる読み方で頼むよ >>161
それでは間違いに気づかないまま、誤った解釈になる可能性があるのですよ
プロ以外の文献を研究されている人の意見を無視し、通説が正解とするのはなぜでしょうか?
プロであれば真摯に意見を受け止め、論で反論すべきと思いますが、それはまだ見当たりません
邪馬台国関連の論文や本等を読むと、「〜の訳」また「〜の解釈を引用する」と、等の文章があります
ここは〜としたい、も多いですね
解釈の正解はわかっていないという事でしょう >>162
どの解釈が正しいのか、なんて誰も言えない事だよな。
ゆえに、まず解釈を必要としない地勢や植生などの記述を重視すべきだね。 >>162
陳寿は三国志を読み手がすぐに理解できないようにするために、わざと解読不能にしたり、暗号を仕込んだのではない
倭国が南方に伸びる大きな島だと誤解していただけ
だから九州だと解釈しようとすると、上で書いたような倭人伝の記述との不一致が生じる
それだけのこと 暗号というより、記述が散失しないようにまとめて書き留めたんじゃないの。
魏略も現存していないように、当時の文書は失われやすかったと思う。
矛盾や疑問も陳寿自身も感じていたのかもしれないが一次資料としてそのままのけたのかも。
コピペの遠い祖先かもなw 日数と方角どっちが間違えやすいかといえば方角だわな >>166
方角を間違えるような奴なら旅程は記録に残って無いだろw
行ったきりで帰って来れないんだからw >>167
実際、末盧国から伊都国は方角を間違えてる >>168
末盧国から伊都国は東南ではなく東だと言うならば、出雲への方角を南と間違えるなんてあり得ないよな。 >>167
使節が勝手に向かったわけじゃなくて案内者がいるわけだけど?
だから方角が適当でも目的地につく
しかし日数は間違いようがない >>170
月と日は写す時に見間違えやすいかな
後、蛭田さんが提唱されてるが、錯簡の可能性も考える必要があるかと思うね 錯簡はいくつかの写本で相違があるか、文法上意味が通じないので訂正するしかない場合以外は考えるべきじゃない
都合が悪かったらいくらでも「本来の文」を作ることができるからな
出来る限り現存の文章が正しいと見なさなければならない >>169
>末盧国から伊都国は東南ではなく東だと言うならば
東じゃなくて北東だよ
ほぼ90度間違ってる たとえその場で方角を間違わなかった「としても」史書の編纂までの間に
いくらでも方角の錯誤は起こりうるし、
実際、九州上陸後の末盧国ー伊都国間、伊都国ー奴国間の方角は明確に間違っている
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/463
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/498
次に、記録の不備の可能性も高い
投馬国への水行、丹波までの水行の方角が記録の中でまぎれてしまえば、
最後の丹波から大和への「南陸行」が水行二十日以降の方角とされる可能性が高い
記録はおそらく木簡や竹簡を使ったと考えられるが、東水行と書いた木簡が
どの行程のものか分からなくなれば、朝鮮半島南岸の東水行と紛れてしまう
また、水行時は海岸沿いなので方角を気にせずに進むことができるので
方角を記録していないとしても問題ない
さらに、陳寿が倭国を会稽の東にある相当な南国だと考えていたことから、
倭国を南北に長く続く州島だと考えていたのは明らかで、
その場合倭国内での長距離移動は「南北方向でなければ整合性が取れない」ことになる
以上、
1.その場の方角認識と、史書記述の方角記述は同一視できない
2.実際の史書では方角の間違いが複数存在する
3.記録の不備から方角の錯誤は容易に生じる
4.陳寿の認識(倭国は南国)から、長距離移動は「南向き」が妥当とされる
という理由から、「南→東」と考えるべき状況証拠は十分にある
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>172
すでにおかしいからこんなに迷う事になっている
訳で
土人!
馬鹿どもよ、
邪馬台国の記述は、全部が朝鮮半島だ。
小国がたくさん記述に出て来るのは、朝鮮半島での土人(原始人)の部族名のことだ。
当時の朝鮮半島での領土の境界が地図によって変幻自在してるだろ、
ようするに移動狩猟民の部族だからだ。
世界の歴史地図では、朝鮮半島などはツングース系採集狩猟民の住むところで
文明の範囲外であるので、真っ白の空白地帯となる。
狩猟民は、原生林の中を獲物を求めて部族単位で
移動してたんだ。
で、記述のなかでいろいろと探検していって最後に最南方の邪馬台国に到着だな。
これ、ようするに日本領土だった朝鮮半島南端の任那日本府のあったあたりのことだ。
その、日本大使館か日本総領事館のような砦があった任那では、
原始部族のシャーマンであった卑弥呼が原住民のほうの族長だったということだ。
わかったか、
>>178
>遺跡も王墓もない畿内説w
遺跡いっぱいありますよ?
https://i.imgur.com/9j6LLzE.jpg
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)より引用
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
そして、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・箸墓古墳は
間違いなく王墓級
>>178がもの知らずの情弱なだけ >>180
>時代錯誤w
どこが時代錯誤なのか具体的に指摘してみて
>>179は「大和弥生社会」だから、全て弥生時代の遺跡だよ >>181
それら王墓から金印でも出てきたのか?w
物証皆無な畿内説w >>182
>それら王墓から金印でも出てきたのか?w
単に畿内大和の王墓級で埋葬主体が発掘されたものがないだけだよ
>物証皆無な畿内説w
100メートル級の古墳自体が否定しようのない物証なんだが?
九州には径100歩の墓の候補すらないのにww そもそも「卑弥呼が古墳に埋葬された」というのは何処の情報?
しかも「100m級の古墳に埋葬、、、」だなんて。 >>195
>そもそも「卑弥呼が古墳に埋葬された」というのは何処の情報?
>しかも「100m級の古墳に埋葬、、、」だなんて。
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步。
径百歩は魏晋尺で135メートル
まあ百餘歩は丸めた数字でそこまで正確でもないと思うが、
倭の通常の墓を圧する巨大な墓だから特記されたのだろう
135メートルからは欠けるが、100メートル級の倭国最大の墓であれば要件は満たす 殉死者百余人も一緒に埋葬、宝飾品も多数埋葬、、、とは魏志倭人伝には著されていない。
豪華絢爛な古墳を夢想し勝ちだけど後世には残らないような只の広大な「塚」だったかもよw >>187
>只の広大な「塚」だったかもよw
広大な塚で王の墓なら後世まで残るだろ? >>188
でもね魏志には
「棺はあるがソトバコはなく」とかを「土を封じて塚を造る」
の記述あり。
もちろん、これは一般的な邪馬台国の死者の葬り方で王の埋葬方法とは違うのかも、
だけど基本は地面掘って埋めるんじゃなく棺桶に入れてその上に土を盛るだけの仕様。 で、径百歩になるほど、大いに土を盛ったら後世まで残るだろ?ww 日本全国何千って古墳があるんだぞ。それこそ、知らなきゃただの塚だよ。円墳だと特にね。街中にある公園、神社、ただの雑木林とかが、結構古墳だったりする。
卑弥呼の墓は、かなりの確率で残ってると思うよ。しかし、たくさんありすぎて、どれか分からんし、。 そりゃ、削平されたりしてる可能性はあるけど、50〜100m級の古墳は、かなり残ってるよ。
その規模の塚に道を通すのは普通に大変だから、よっぽどの主要道路じゃない限り、迂回して作られてる。現代の工事なら、技術的にも難しくないが、工事前に発掘調査される。 ここ百年、二百年の事じゃなくて文化財保護の意識皆無の中世、古代人なら尚さら。
つい数十年前も遺跡らしいモノが見つかっても届け出もせず突貫工事してたケースは多々ある。
土建屋天国とも言われた田中角栄(日本列島改造論)の時代は特に酷かったから。 だーかーらー
100m級の塚をわざわざ壊して道作るなんて難工事、現代になるまで、殆どされてないから。 だーかーらー
小高い山を更地にして分譲住宅にして売ったりしてるよって言ってんの。
人口が増えて中心街からソー遠く無い所を住宅地にしてんの。
城を作ったらその周辺は必然的に城下町だ。
武家屋敷が出来、更に商人の町へと自然景観は消滅して逝く。
現在、地名に「〜〜塚」が付いてたり、、、
仮に現在「長塚夢タウン」みたいな名前の所に卑弥呼が眠ってたかもねw この問題は卑弥呼が関西弁だったか九州弁だったかと考えるとイメージが沸きやすい 九州説はでかい墓がないのをごまかそうと必死だな
径百歩、100メートル級ならなんだかんだ残るよ
纒向石塚古墳も削平されて埋葬主体は残っていないが、ちゃんと古墳として認識されてる >>200
邪馬台国だ、女王卑弥呼だって事で期待に胸膨らませるのはよいが勝手にハードル上げんなよ。
そんな、ご立派なものなら倭人伝にも具体的に書いただろう。
が「大」 >>202
>たったコレだけ。
そう、たったそれだけで九州説は撃沈だww そう九州、畿内、蝦夷地、、、現存してないかもな。
全滅ですw 畿内が邪馬台国として広さはどんなもんだったんだろう。
記紀に言う歴代天皇の皇居をすべて内包するんだろうか。
現在の纏向が卑弥呼の宮殿なら、
陳寿はなぜ「まきむく」国と倭人条に記さなかったんだろう。 「邪馬台国」が即ち倭国そのものことだったんじゃないかと考える。
これなら卑弥呼が畿内だろうが九州だろうが何処に居住していても構わない。 >>206
どこまでの範囲を倭国と呼んでいたかによるのでは? 畿内に邪馬台国があっても構わないが、纒向の大型建築群並みの遺構が九州や出雲にない理由、不均衡な発達状況を解明する必要はあるんじゃないだろうか。 >>205
まきむく が国名ではなく、都市名または、宮名だったのでは。邪馬台国内の都市まきむくにある宮殿。
点在する邑を街道が結ぶ、点と線のネットワーク社会だから、"面的な広さ"と考えない方が間違いが少ないかも。 >>205
>畿内が邪馬台国として広さはどんなもんだったんだろう。
畿内説が想定する邪馬台国七万戸の範囲は、畿内第V様式土器を共通に使っていた範囲で
概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だよ
志賀高穴穂宮とか一部を除けば、天皇の宮はこの範囲に収まる >>206
守山の伊勢遺跡で、円周上に配列された祭祀を思わせる複数の大型建物が出ている。
1人の強大な人物というより、複数の集落の共同祭祀(政治)の場である印象を与える。
これは邪馬台国より前の遺跡だが、つまりは2世紀中には、すでに密接な地域連携が形作られていき、
連合共同でより大きな施設を造営する力を蓄えて行ったのではないだろうか。
2世紀末に、日本海側の集落の多くが衰退している。
この時期の気候変動(寒冷)と海岸線の変化が影響している可能性が指摘されている。
これが、結果的に、畿内有利に働いた可能性が高い。 >>206
そうだね、
邪馬台国は7万戸だそう
並立で書かれてる投馬国は入らない
ヤマトとは常に広域の意味を示してきたのだろうね >>213
>ヤマトとは常に広域の意味を示してきたのだろうね
畿内第V様式土器を共通に使っていた範囲で
概ね「大和+河内〜環大阪湾」の範囲
これで十分広域だと思うけれど? 卑弥呼を奉りあげて結成した連合国を邪馬台国と称したのか
敵対する勢力も含め中国が言うところの倭国を指す
のかは微妙。 >>215
おまえも最近は1行糞レスだけになってきたなw
効いてる効いてる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています