【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★11
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542123148/ >>596
記紀の記述が創作・潤色に満ちているにせよ、まったく取っ掛かりすら見当たらないとこを見るとヤマト王権と魏志にいう邪馬台は別個の勢力だろうな。 >>598
魏志倭人伝によれば、
邪馬台国は魏の援助がなければ狗奴国と戦争できない一見貧弱そうな国に見えるが、
畿内説派は、なぜそこまでして大和政権と結び付けたがるのだろう? >>569
紀元前660辛酉の年といわれるけど
231辛酉という記録があって
その方が照合して考えると
しっくりする >>599
最初の倭国から魏への使者も魏の権威を背景にした支援・調停要請だよ。
これから発展し、勢力を拡大して行く国というより、レームダックという印象を受ける。 そりゃそうだろう
その後の日本の歴史を見れば畿内を中心とした国家になっていくんだから
畿内派はヤマト政権以外は一時たりとも日本の歴史に認めたくないんだろうな >>602
戦争は基本数の勝負だ。
周辺諸国が味方になって参戦してくれて、敵国以上の戦力を整えられるかが鍵になる。
狗奴国と同等以上に戦うための戦力を備えるためには魏から倭国王の指定を受け、
それを魏の役人に証明してもらう必要があったと考えたと思えるし、
魏からの援軍も期待してたのではないかとも思える。
畿内説なら女王国が治める南に位置する強大な狗奴国は紀伊半島だ。
一体、どれほどの人口を持つことができると言うんだろう。
邪馬台国時期の大和が強大な勢力を持ってたと証明すればするほど、
魏志倭人伝との矛盾すら出て来るように思える。 年表
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>606、>>607
識字障害でも持ってんの?
台をトと読む文化は中国にも日本にも存在しません。 >>609
旧書体における旁の豆や至が当時トウとか読まれてたので、
旧書体における台や壱もトウって読まれてたはずって説を読んだことあるけど、
その話じゃない?
ただ、ヤマトって地名は神武の先祖の出身地と同じにしたって可能性があるんだから、
邪馬台=大和で同じ国にって部分にこだわる必要は無いように思えるが。 >>608
なんで日本人が黒潮に乗ってやって来たことにこだわるの?
移民第一波はまず南方から日本に入ってきた可能性は高いとは思うけど、
氷河期の頃は朝鮮半島も台湾も無く、日本は陸続き
もしくはほぼ陸続きとみなせるような状態だったんだから、
短期的に比較的暖かくなれば、
南方から陸に沿って多くの人がやって来ただけのように思うけど。 一、 壹と臺(台)の探究
それでは最初に、邪馬壹国か邪馬臺国かについてお話し致します。「魏志倭人伝」に、
「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。」
とあります。倭人伝中、この国名が出てくるのはこの文面一個所だけです。そこには「邪馬壹国やまいちこく」と書いてあり、「邪馬臺国やまだいこく」とは書かれていません。では、なぜ「邪馬臺国」に変わったのか、
歴史上「邪馬臺国」と国名が記録されたのは『三国志』の後に編纂された『後漢書』 6 です。
「国皆王を称し、世世伝統す。其の大倭の王邪馬臺国に居す。」
ここでは明らかに「臺」と記されています。
『三国志』の成立は、西晋の陳寿ちんじゅが三世紀末に著わし、一方の『後漢書』は、南宋の范曄はんようが五世紀半ば近くに著わしました。この両著の間は一世紀半の開きがあります。ちなみに、
国の成立は「後漢」の後が三国時代の「魏」ですが、史書の成立は、その逆で『後漢書』よりも『三国志』の方が古いのです。
古田氏は『三国志』を徹底検証した結果、原文はあくまでも「壹」であり、「臺」ではなかったことをつきとめ、更に「壹」の字は天子に忠節を尽くす者に対して、敵対する者・二心ある者を「弐」(憎悪の対象)で表すことも証明しました。
卑弥呼の後を受けた姪の「壹与」の名は、東の夷蛮(中国は世界の中心という所謂中華思想の下、周辺の国は蛮族扱い)の王で最も忠節を尽くす者としての「壹」と、中国風一字名称の「与」を組み合わせたものです。
従って「邪馬壹国」とは、「邪馬(山)」という国名と、魏の天子に忠節を尽くす「壹」を組み合わせたものだったのです。
一方「臺」の字は、本来は「盛土・高地」の意味から、漢代になると「宮殿」の意味での用法が目立ちますが、魏代はすべて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を意味するものでした。
『三国志』では、魏の天子の宮殿はすべて「 ーー臺」と記されていますが、他の二国、蜀の劉備や呉の孫権の宮殿は、臺とは記されていません。つまり二人共「天子」とは認められていなかったのです。
それでは倭国と魏の間はどうなるのでしょうか。「倭人伝」では魏と倭は対等ではなく卑弥呼は「親魏倭王」であり、臣下なのです。決して「天子」とは見做されていなかった。それ故に、
魏代において崇高なる「臺」の字を、夷蛮の国に使用することなどありえなかったのです。
ところでわが国では、誰が何故原文を改定して「壹」を「臺」に変えてしまったのでしょうか。
それは、江戸時代初期の京都の町医者・松下見林が『異称日本伝』 7 で、「壹は臺の誤り」として原文を改定したのです。そして「臺」は「台」であり、これは「と」と読めるとして「邪馬臺やまと=大和やまと」としました。
何としても「万世一系・大和朝廷一元史観」の立場から「邪馬〈臺〉国」として、近畿の大和(奈良県)に持って来たかったようです。
それを受けて、江戸時代の学者・新井白石は、初めは『古史通或間』 8 で大和説に立ち、後年『外国之事調書』 9 で筑後山門(やまと・福岡県)であると九州説を打ち出しました。
これらが半ば「定説」化され、卑弥呼の国は近畿だ九州だという争いになったのです。 現在の日本が海洋民族という事実
神社の建物が南方系の高床式(これは天孫降臨族という征服者側)
米がチャイナ南部からが最初のもの
現在でも生存環境の厳しい北方では人口が多くなく 移動する動機が乏しいが
南方ではうっかりすると黒潮にのり潮流に流され日本列島へ漂着する 或いは島伝いに移動してくる
海峡民族は移動が生存の要件 陸続きだったのが、徐々に海で分かたれてったんだから、
お互い交流を保とうとして海洋技術が発達しても、別におかしくないと思うけど。 1万5千年くらいまでは陸続きで、華南地域と自由に交流できた日本は、
現代で言うところの華北地域に比べれば数段先進国だったろうしな。 船舶技術の発達した現在でも日本の周辺国で海洋民族といえる国は日本くらい チャイナ 朝鮮は陸上型民族
琉球パラオあたりが海洋民族 ここらが日本の先住民族と思う 日本列島に先住していた南方系 更に ニンポー台湾琉球あたりからきた アマテル族が倭国を博多につくりました 紀元前 倭国が半島に固執したわけ
鉄が必要だったから 後 チャイナもきました モンゴル人に牛耳られてた時や共産党配下の中国は海洋技術が低かったかもしれないが、
元々、中国の海洋技術は発達してたようで、
平安時代後期には日本の金を求めて日本に巨大な船で商売に来てたみたいだし。
古代において朝鮮半島南部の人々も高い海洋技術を持ってたと思うが、
現代の朝鮮人はおそらくその民族の子孫ではないだろう。 海で分かたれた後も元々交流の深かった華南人と細々と交流し続けた結果、
水田稲作等も伝わったし、
華南人と古代日本人の混血として天孫族が存在してたと思うけどな。 金属が伝わったのは華北から朝鮮半島経由だと今のところは思ってるかな。
金属はペルシャ辺りが起源で、むしろ金属を求めて移動を繰り返した結果、
最終的に到達したのが日本なんじゃないかなと今のところは思ってるかな。 >>1
争いがない社会なら
鳥か魚ぐらいしか知らん!!! 更に、アメリカ大陸にも行ってたやつがいて、
平安〜室町時代にかけてかなり本格的になってったとも思ってるけど。 邪馬台国との関係性を示す出土品が皆無の畿内説が息をしていない件w
【邪馬台国】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡[11/23]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1543122053/ 俺はNASAに勤めていたIQ300越えのエリートだが、物証・統計に基づいて理論的に考えると、邪馬台国は中部地方方面にあってほしい 畿内からは二級品だらけ
一級品は4世紀後半から多くなる 狗奴国との争いがそんな大戦争だったようには見えないんだが >>598
よくこれを九州説の人は言うけれど、欠史八代の頃は大王系譜すらまともに残っていないのに
外交記録が残っていると思う方がおかしい
あとヒコヒメのヒコ王の系譜を大王系譜にしているから、卑彌呼は大王としては記録されていない
これだけで説明できるんだよ >>629
というのはアンタの一人説ね
おめでとう >>630
ということにしたい九州説の人であったw
九州説は「短里を使う人がどこにもいない」ことと、
投馬国の比定地が九州に置けないことをもっと真剣に考えた方がいいよ >>630
記紀は推古天皇以前の女帝を認めない
飯豊青皇女も神功皇后も政務を執ったとしているのに天皇とはしていない
皇族の女性が朝廷の代表者となることがあるのは明記されている
ヒコヒメは共同統治だがどちらが上位かはそれぞれのヒコヒメ次第だろう
しかし記紀はヒメ王を大王、天皇とはしない
それだけのことだよ >>596
3世紀は古すぎて単純に伝承が残ってないだけだろう
崇神天皇の墓が行燈山古墳で正しいとすると、記紀に3世紀のことで書かれているのは箸墓の築造に関わる逸話のみ
代わりに欠史八代を創作して系譜を盛ってる
欠史八代の天皇を纒向に王都を置いた人物とみなすのは無理筋すぎる
3世紀の古墳が被葬者不明で残ってる状態
行政組織がなかったころは、先祖の伝承を残してくれる人物は子孫以外いない
初期の頃は王権の世襲が確立されてないので、王権が他の一族に移ったら、それまでのことは何も残されない
赤の他人の家系の先祖を後世に伝えてくれるわけがないってこと >>629 >>633
なぜ、欠史八代の頃と同じ時期だと推定するのか、根拠が良くわからない。
Wikipediaの上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を参照すれば、
卑弥呼の時代の頃に卓淳国に使いを送ってる事が日本書紀に書かれているが、
魏と倭の女王とのやり取りは魏志倭人伝によればっと言った書き方で、
どうも大和のことじゃないよって言いたげで他人行儀に感じる。 現時点の畿内説は箸墓から殉葬者100人ぐらい掘り出さないと発言すら出来ないレベル。 仲哀天皇か神功皇后かどっちだったっけ?
九州に遠征して従わなかった女族長の国を滅ぼしたって話があるけどこれが邪馬台国なのかな? 調べたら滅ぼしてなかった。
大分で景行天皇に与して道案内した地元の女猶、速津媛のことだった。
周防国の女猶、神夏磯姫といい女性リーダーの国が多いのは北九州の特徴? 魏志倭人伝によれば女王を立てたのはどちらかというと一時的な措置のようなもんじゃなかったか? >>634
まず、行燈山古墳は4世紀前半の築造
崇神天皇の墓がその行燈山古墳で正しいとすると、3世紀は欠史八代の時代になる
纒向周辺には3世紀に造られた200m超の大型古墳がいくつかあるが、本当の被葬者は不明
大型古墳が大王墓とすると、3世紀には記紀には載ってない大王がいたことを意味する
多くの人が記紀にはすべての天皇が漏れなく載ってるという先入観を持ってるようだが、
それが間違いだということを示してるわけだ
畿内説前提だと、記紀に載ってない3世紀の大王のうち一人が卑弥呼になるということ >>640
崇神天皇の墓が行燈山古墳であるとする明確な根拠が分かるまでは、
その説は納得しがたいな。
古墳のすべてが天皇の墓ってわけでもないだろうし。 >>629
だからヤマト王権と邪馬台国は別だったって事だろ? >>641
記紀を最大限信用した場合でも3世紀は大王の記載がないということ
記紀を信用しないなら、卑弥呼が載ってないから云々の理屈は最初から無意味
古墳が全て大王の墓ではないが、200m超の大型古墳は大王の墓とみなしていいだろう
陵墓指定されてなくて発掘できた桜井茶臼山古墳にはあれだけ大量の副葬品があったのだから
そもそも、古墳が河内に移る仲哀天皇より前の天皇は、欠史八代を除くと4人しか
記紀には載ってないのだから、記紀に漏れがあるのは確実なんだがね
200年近く政権が続いてるのに4人しかいないのはありえないだろ >>643
Wikipediaによれば、神功皇后が摂政についていた年月が長いだけで、
後半には応仁天皇が即位してしるし、
>>634 にも書いた通りそれなりに出来事の記述もある。
古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物で、
その事業を先導した者の墓になったという説聞いたことがあり、それが本当なら、
一人の天皇の時に複数の大型古墳ができたとしても特に不思議とは思わないけどな。
Wikipediaによれば、3世紀は仲哀天皇より後だし。
僕も1年を2年として数えてたって説は知ってて、半分くらいは信じてるけど、
それでも神武即位はせいぜいキリストが生きていた辺りの時代で、
卑弥呼を欠史八代の時代とするのにはちょっと無理があると今のところは思ってる。 >>644
>古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物で
学校で習ったはずの基礎的な日本史さえ真っ向から否定して、そういうトンデモを信じたければご自由に >>645
古墳は水田開拓事業で出た残土を積み上げた物という説が
真っ向から否定している学校で習ったはずの基礎的な日本史の事柄って何だろう? 天孫族が水田開拓事業のノウハウを持ってたことが権力を持てた事の大きな要因の一つであり、
日本を豊かな国にしていったことが評価されて天皇は日本の国家元首となっていったと考えれば、
結構合点がいくけどな。 >>647
ヤマタノオロチ征伐とか草薙の剣は治水事業を象徴してるとも言われてるよね
あり得る話だと思う >>648
僕はスサノウが天孫族ではないと思ってるから、
スサノウが持っていた治水事業のノウハウは水田開拓事業によるものではないだろうと思ってるけど、
大陸から来た民族だと考えれば、水田事業のノウハウもそれなりに持ってても不思議はないかな。 もしくは、天孫族はアマテラスの一族とスサノウの一族両方を含み、
結局、日本列島を統括できたのは水田開拓事業を全国各地で推し進めた
アマテラスの一族の子孫だったと考えた方がいいかな? >>650 の続き
アマテラスの一族:華南人と古代日本人の混血(水田稲作系)
スサノウの一族:華北人と古代日本人の混血(金属器系)
が今のところなんとなく信じてることかな。 >>650
日本は水田に向かない地質が多く、全国に当時の水田跡ないけどね >>650
プラント・オパールの発見状況から、約3000年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたと考えるのがもはや通説じゃなかったっけ? >>654
九州南部の土地はやせてるとかいう表現が古事記にあったとは思うけど、
水田稲作が西日本に一気に広がったのは通説だと思うんだけど。
東日本ではスサノウの子孫の一族と懇意にしてた古代日本人が多くいて、
アマテラスの子孫の一族による水田稲作の広がりに対して
抵抗感があっただけなんじゃないかと思うんだけどな。
当時の水田跡がない地域ってどこのことなの? >>655
陸稲による稲作は日本が陸続きだった頃からあったとしても、
特に不思議は無いようにも思うけど。 2008年農業生物資源研究所
イネの遺伝子「qSW5」を用いて解析
温帯ジャポニカは東南アジアから日本に伝播したことを確認
論文としてネイチャー ジェネティクスにも発表 北里大学の太田博樹准教授
(人類集団遺伝学・分子進化学)
下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が沖縄を経由して日本に到達した >>641
>古墳のすべてが天皇の墓ってわけでもないだろうし。
天皇陵とは言わないが、各世代最大の古墳は大王墓であると推定できる
箸中山古墳(280m)→西殿塚(230m)→外山茶臼山(207m)→メスリ山(224m)
→行燈山(242m)→渋谷向山(300m)→五社神(267m)→宝来山(227m)
→佐紀陵山(207m)→佐紀石塚山(220m)→津堂城山(208m)→仲津山(290m)
→百舌鳥陵山(365m)→誉田御廟山(425m)→大仙(486m)→土師ニサンザイ(290m)
→岡ミサンザイ(245m)
この辺が大王墓なのは揺るがない
箸墓前の纒向石塚、纒向勝山、纒向矢塚、東田大塚の4つも王墓級 >>658
稲には詳しくなくて申し訳ないが、言葉から察するに、
熱帯ジャポニカが熱帯地域で生まれ、陸伝いに北上し、
中国辺りで温帯ジャポニカになったんじゃないの?
陸続きのころまでに熱帯ジャポニカが伝わってれば、
黄河・揚子江の河口は九州付近にあったと思ってるので、
当時の中国側の熱帯ジャポニカ栽培地は
東シナ海に沈んだんだろうなと推測してしまうかな。
中国で温帯ジャポニカが栽培され始めたころには日本は海で分かたれてたので、
日本で本格的に栽培され始めるのはかなり遅れたのかなと思ってしまうけど。 >>660
僕の意見に対し何を言いたいのか明確にわかってないかもしれんけど、
>>644 に書いた通り、古墳は水田開拓事業によるものという説を結構信じてるので、
時期によって水田開拓事業の規模も異なり、天皇の墓でも大きさは時期によって違うだろうし、
一人の天皇に対し複数の古墳があっても不思議とも思わないかな。 西暦350年頃、大和政権が出雲を征服したってのは、
武光誠先生が書いてました
そこから三韓征伐の時代に移行するわけです
西暦400年前後
邪馬台国はそれよりはるかに以前である 考古学の○○先生のご意見とか
歴史学の△△先生の論文とか言うのは意味が無い
記紀原理主義者の意見など論ずるに値しない 誰の意見であろうと根拠が存在するなら、聞く耳を持つ価値はあるよ。
その根拠を検証した結果、論ずる価値があるかどうかが決まる。 >>667
九州王朝説を全力で無視している自称学者研究者教育者の方々は耳が痛いだろうなw 交流が絶えてかなり経ってから書かれてる様なコピペ文もあったけど
ギシでは夫子はいなかったと思うけど、他の文献では卑弥呼には男子が二人有と書かれてるものがたしかあったはず?息子を指すとしたらキキでは孫とかだったりするニニギもアエズも神武も実は日女尊の子で息子が四、五人という話がある。
ニニギ、アエズは九州に墳墓があるけど神武は陳寿が来日する前に東遷してて古事記だかでは兄も同行してるよね。他の記録では知らないけど >>598
邪馬台国が188〜
ヤマト政権が3世紀頃から
神武即位が231年として由来してる可能性はどうだろう? 男王はさんで宗女のトヨが、てのは
アエズ王朝からトヨウケ姫ということでは?
モモソ姫にしても神功皇后にしても
男王の次を継いだ宗女って誰?となる どこにあったかじゃなくて、九州から中国、近畿までの広範囲にあったんじゃないのかな。
現愛知県の尾張国は日本の端ってことで
終わり=尾張がネーミングの由来らしいし >>659
僕は、上海から九州北部へ向かう航海より、
むしろ沖縄から九州へ向かう航海の方がリスキーなんじゃないかと考えてる。
上海から東に向かって航海すれば海流の影響でかなり高い確率で対馬の方に向かうだろう。
対馬海峡で対馬/九州北端/朝鮮南端の山をほぼ確実に発見できるだろう。
対して、沖縄から九州に向かった時、下手に黒潮に乗ってしまった場合、
アメリカ西海岸まで流されてしまう可能性がある。 >>675
ゴホウラ貝という沖縄、奄美地方でしかとれない貝を材料にした腕輪がが九州北部から出ている
弥生時代初期から九州北部などでゴホウラの殻を縦切りにして製作した貝輪が盛行し、当時の権力者(主に男性)のステータスシンボルであったと考えられる。
また生息地近くの沖縄本島などでこの貝輪を生産したと考えられる遺跡が多数知られており、ここで粗加工され交易されていたと考えられる。
つまり弥生時代には沖縄、奄美と九州北部は直接交易してたんだよ
貝の分布図を見ると明らかに太平洋側は通っていないhttps://i.imgur.com/w7WoJuj.jpg >>675 の続き
更に、DNA調査の結果を見て、本土人が中国人との混血になってる間も、
琉球人は近代近くまでほぼ純血を守り抜いてたんじゃないかと思ってる。
元々台湾辺りを拠点としていた琉球人は侵略され沖縄に追いやられた過去を持ってて、
大陸人に対してかなり強い拒否反応を持ってたんじゃないかと推測してる。
中国からの文明・文化の流入を拒絶する一方、九州から少しづつ得てたんじゃないかと。 >>676
もちろん、琉球人が黒潮に流されて九州や日本に漂着することは多々あったろう。
しかし、リスキーであり、上海周辺ー九州北部より沖縄ー九州の方が
交流が細かったんじゃないかと推測してる。 >>671
>他の文献では卑弥呼には男子が二人有と書かれてるものがたしかあったはず?
それたぶんこれでしょ?
隋書俀国伝
桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主 有女子名彌呼 能以道惑衆 於是國人共立爲王
有男弟佐彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面者 唯有「男子二人」給王飲食通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 爲法甚嚴 自魏至于齊梁代與中國相通
夫とか子供とかという意味ではないと思うな いつまで果てしない文献解釈に明け暮れるつもりだろう 神社伝承とか地元の言い伝え、古地名は対象外なのかな 九州島の外まで倭国と認める場合、吉備、出雲、丹波、大和の方が大国だから中国まで行って、媚びてる必要がない。
金印もらって、中国から倭国王と認めてくださいなんて、弱小国九州部族がやる外交。
大和国=D1b系部族がペルシャ方面から沖縄経由で来てたササン朝の有力部族。神武天皇 伊勢神宮
出雲国=インド系部族らが島根拠点にし、大和に滅ぼされ東北へ。出雲大社
吉備国=古墳文化もあり仏教徒の騎馬民族で東欧から日本まで支配していた突厥系。福井から上陸して来たんだわ。応神天皇 氣比神宮
それぞれ立派な神社があり、中国以上の文化技術。 挨拶行ったら勝手に金印くれたんじゃないの
張成の檄も原発事故のときの菅直人みたいな感じで、現場は迷惑してたとか >>683
僕はスサノウの先祖がペルシャ出身なんじゃないかと思ってる。
一つの仮説として、スサの王族の次男坊、三男坊辺りがペルシャ辺りに養子に出され、
またその次男坊、三男坊辺りが新しい金属鉱脈を求めて他の地域に移り、
そういったことを繰り返し東方に移動してきた民族が日本に到着したとき、
スサノウを名乗ったんじゃないかなと想像してる。
D1bとかは、元々の古代日本人が持ってたDNAだと思ってるかな。 >>685
古墳が水田開拓とかスサの王とか、多分お前の情報源分かったわ >>687
スサノウの出身地を昔はイスラエル/トルコ辺りと思ってたのをペルシャに変更したり、
水田開拓事業と古墳の関係についての説は近年の話だが、
全部が全部その情報源に頼ってるわけじゃないよ。 >>678
貝の分布を見れば実際に交易していたわけだから流されてきたわけじゃない
流されたら商売にならないだろう
上海周辺からの交易の跡が何かあるのか? >>688 の続き
発端は小学生のころ有間皇子の処刑に興味持ったり、
高校時代にワーテルローの戦いで金儲けした一族があった話を聞いたりしたことだから。 >>690
まぁいいんじゃない。別に非難したいわけじゃないし
ただ、聞いたことある話だったから >>689
まず1万5千年前くらいまで日本は陸続きで、
黄河、揚子江の河口は九州付近にあったと信じてるから。
海面上昇のより徐々に海で分かたれてったが、
交流を続けようとする努力のおかげで航海技術が発達したと信じてるから。
黄河流域との交流は1万年前には既に途絶えてたろうが、
揚子江流域とは細いながらも弥生時代まで続いてたと信じてるから。
九州北部ー上海周辺を航海で行き来するのは、
九州ー沖縄間や日本ーアメリカ大陸間を後悔するより容易だと思ってる。
もちろん、九州ー沖縄間の交流を否定する気はさらさらないよ。
九州北部ー上海周辺より細かったろうと思ってるだけで。
そして、DNA調査の結果から、
中国ー沖縄間の交流はほとんどなかったんじゃないかと思ってるから、
上海あたりから日本に直接来たと思ってるし。 >>692 の続き
そうそう、かなり後の時代の話になるが、古事記か日本書紀よれば、
仲哀天皇が筑紫で聞いた御神託は朝鮮じゃなく西に向かう事だったみたいなんだよね。 >>691
僕は学者じゃないから、いままで読んだり聞いたりしたいろんな情報から、
自分なりに最もあり得そうなストーリーを推測してるだけだからね。
自分が新発見した情報は皆無で、世界中の情報をすべて集めることができれば、
すべて見覚えのある情報ということになるだろう。 >>680
文献見なくて良いから、桃の種以外のやつ発掘してみてね!
柿の種かw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています