【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★11
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542123148/ >>515
白村江の戦いに敗れた倭国軍は九州政権の軍隊って。マジかよ!? >>516
そうだよ。彼らは魚民と呼ばれる水軍だったんだ オウスのミコトはおとうさんの言う事を聞かないオオウスのミコトの手足をもぎ取り八つ裂きにしました >>515
もう3世紀には畿内が九州を傘下に組み入れてる >>485
>そもそもこちとら”無学者”として”文○”使ってねえから
ここまで言われてまだ書くか?
高学歴の人でここまで配慮のできない、知性のなさ丸出しの人は私の見聞の範囲にはいないよ
まあ、実際日本人とは道徳・価値観が違う人なんだろう
この部分に対しては否定してこないから、逆に誇りに思ってるんだろうな >>498
>邪馬台国に滅ぼされた奴国は邪馬台国の
>統治下にあったんではないかと思うと
奴国はいつ邪馬台国に滅ぼされたの?
奴国に首長家がおそらくそのまま筑紫君の家系になってる
磐井の乱の時に糟屋屯倉を持ってるし、これが奴国の後嗣そのものだろう >>520
どうしたの文盲さん(ネットスラング的な意味で)
普通5chで文盲(ネットスラング)と煽られたら、「無学者だから非識字」としてではなく、「読解力のない人」という意味で使うんだよ
それを文盲(ネットスラング)を勝手に文盲(辞書的な意味で)=「illiteracy」とした上で「非識字者」と直せというなんて、
これ文盲(ネットスラング的な意味で)じゃなくてなんだというのか
で日本人の道徳・価値観というがお前さんにもそのようなものがあるとはとても思えないね
他派閥の研究者を貶し、侮辱、侮蔑し、研究者ではないと言った挙げ句存在を消すような発言
更には他民族に対してもとてもとても道徳的とは思えないがね
あえてスルーしていたのに自分で掘り起こすとか、自分自身のことをよほど道徳的だと自負しているらしい
で、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>519
残念ながらそんな証拠は皆無だ
さすがにそれは無いよ オウスのミコトはおとうさんの言う事を聞かないクマソタケルを女性に化けて近づき
お尻から真っ二つに切り裂きました、命乞いをするクマソタケルの弟の手足をもぎ取り、八つ裂きにしました >>524
オルシェフスキー「そらそうやろ」
中原&佐川「せやせや」 大和尊の神話って何なん?
まるで金親子、これが日本人のルーツ? ネットスラングだからって理由で差別用語を使うのを正当化するような人は
きちんとした教育を受けた人にはいないんだって!
「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:9DYnrbERの負けだよ
ごまかし続けてるけどさ
一人でいくつ書き込みしてるんだろうね
本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw
欧米先進国で高等教育を受けていたら、無神経に繰り返し書くような人格にはならないだろうに
北京大学ではないと言っていたけれど、上海大学とかソウル大学なのかな? 留学先は?
漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国があるらしいけれど、
その国の道徳価値観とも重なるし 纒向はスゴイ、でも邪馬台国ではない。
これでOK? 九州はスゴイ、でも邪馬台国ではない。
纒向はしょぼい、でも邪馬台国である。 >>521
自分も奴国=磐井じゃないかと考えてて前スレにちょっと書いたんだよね
金印の出た志賀海神社が新羅と関係深い神社で磐井の乱が新羅のために戦った戦という事と糟屋屯倉とも近い
恐らく家宝としていた金印を乱の前か失敗直後に神社に預けたのではないかと
この想像が合ってたら日本書紀の皇別という表記は間違いという事だけど >>515
「同じ釜の飯を食った」だから
九州と大和は近しい関係にあったのは明白
恐らく元々は九州が本家で大和が分家
防衛上、5世紀以前から倭王が軍と中心的政治権力者を九州に残して、倭王のみ大和に移動していた可能性がある
倭王と九州の有力豪族又はお家騒動がたびたび燻っていて磐井で対立が決定的になった >>533
>この想像が合ってたら日本書紀の皇別という表記は間違いという事だけど
記紀の歴史観では、皇統の地上での行跡は九州から始まることになっているし、
神武の東征説話は九州の血筋であることが倭王になる(共立される)時に必要だったからの
ように見える
まあ、いずれにしても 旧事本紀国造本紀の
筑志國造.志賀高穴穗朝御世,阿倍臣同祖-大彥命五世孫-田道命,定賜國造.今筑前‧筑後.神名帳云,筑前國御笠郡筑紫神社.田道命,或本作日道命.
とは、合わないけれどね >>530
「きちんと教育を受けた人」はオフラインで差別用語は使わんよそりゃ
オンラインでも実名や顔出ししているところでは言わんわ
しかしここ5chだぞ?まさか5chでそんなこと気にするやつがいるとはな
J-stage検索
フィルター:ジャーナル、および、査読付き
日本前近代の交通史研究の素描と展望 : 陸上交通を中心として
丸山 雍成
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/84/0/84_KJ00009977005/_article/-char/ja
フリーアクセスだから詳しく知りたければPDF落として読め
相変わらず「彼の民族」だの、「上海大学とかソウル大学」だの、
「漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国」だの、
ネガティブなニュアンスを強く示唆した上での発言
とても差別用語を気にするリベラリストや善なる人間の発言とは思えないなあ
まあ文盲(ネットスラング的な意味で)さんだし、仕方ないか
あ、今挙げた論文は副題に(韓国国際学術大会基調講演)ってついてるから無効とかいい出しそう
おーこわ、ダブスタの偽善者は
ちなみにだいぶ前に述べた3つの世界大学ランキング全てで東大より上ってのは、英米スイスしかないぞ
それくらい前の発言から推察しろよ
まあお前「おまんまがスプーンで口の前に出されないと食べられない赤ん坊のような人間」だったもんな
あとこいつを擁護するような自演なのかわからない単発共
おまえらがこいつと同じく自称「趣味道楽人間」なら勝手にしろと思うが、
アカデミックにいるなら今すぐ消えろ、お前ら科学の発展に邪魔だから
ところで、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」でYES or NO 桃の種よりこっちの方がリアルだよな。
畿内説なんて相変わらず都市伝説のままだよ。
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ >>538
大陸と交流があったってことだな
纏向がいくらデカくても大陸との交流の痕跡がなければ邪馬台国ではない >>539
大陸と手紙のやり取りをしていた地域だからこそ、硯が出土しているわけですね。 そしてその北部九州は纒向連合の傘下
纒向に大陸との交流の痕跡があることは纒向→北部九州→対馬壱岐が一つの勢力圏に属していることを意味する >>541
3世紀に畿内で文書を作成していた証拠は出土したんか? 畿内説が本当なら纒向から硯どころか筆や木簡なんかも出土するはずだよな。
文献と一致する出土品が無いのに畿内説だとか図々しい奴だなw >>541
それはもっと後だね
どちらが支配していたとかじゃなくて
魏志倭人伝に書かれている「邪馬台国は何処にあったか」
この一点にフォーカスしてほしい 纒向は初期のヤマト王権の遺跡だろうけど、大陸との交通の少なさや、倭国大乱と卑弥呼死後〜台与が共立されるまでの戦いの痕跡がなさすぎるから邪馬台の都とは違うんじゃないか? >>545
そうなると大和王権の起源に関する記録が記紀しか無いことになり、考古学者は飯が食えなくなる。
そこをゴッドハンドで乗り切ろうとしているのが考古学者。 >>544
>魏志倭人伝に書かれている「邪馬台国は何処にあったか」
そうだね
九州説は魏志倭人伝の重要な記述をことごとく嘘だとしないと成り立たないけどね
・邪馬台国が倭国の盟主というのは嘘だ
・30ヶ国の連合は嘘だ
・邪馬台国7万戸、投馬国5万戸は嘘だ
・水行十日、水行二十日陸行一月は嘘だ
・一大率が刺史に例えられているのは嘘だ
・卑弥呼に1000人の従者が仕えるとあるのは嘘だ
・卑弥呼の墓が径百余歩というのは嘘だ
・倭国の産物に丹とあるのは嘘だ 畿内は成り立たないが
九州は全部成り立つ事ばかりだよな >>547
偉大なる畿内説
・史書も記紀もすべて改ざんされたものである。
→都合の良い部分は信じる
・前方後円墳による祭祀統一は政権の統一の証である
→その後も多種多様な墓が乱立し、全然統一されていない
・中国由来のベニバナの花粉が発見されたのは中国と交流があった証である
→交易品に付着していたとか、飛んできたという事は全く想定していない
・箸墓は卑弥呼の墓であり、あそこに殉葬者100名も埋まっている
→畿内では殉葬の前例も無いし、そもそも箸墓を掘ったことがない
・畿内珍理教の布教活動の手段は5chと毎日新聞
→アンダーグランドすぎw >>548
魏志倭人伝の解釈ひとつとっても
九州説だと具体的な場所はどこだって議論になるけど
畿内説だとどうやって畿内に結びつけるかという議論になる >>549
偉大なる九州ネタのパクリだろうけどデタラメすぎる
やり直し >>552
きみは人生をやり直すべきだと思うよ
やり直しの人生で、またしても偽書記紀に毒されたら意味ないけどな 神武が鯨面の家臣を連れて東征したら
そこでは驚かれたというから
古代の奈良にそういう風習はなくて
逆に九州では一般的だったということでしょ >>552
FA?
声が小さくて聞こえませんが?w >>554
まあ、大規模な部隊を引き連れて東征したというのはにわかに信じ難いが、イワレビコは九州出身で、奈良盆地にひっそり移住したんだろうな。
それを無理矢理に邪馬台国の王が東遷したことにしなくても良い気がする。 北に伊都国、東に倭種の国
南にクナ国(クマ?)があって
卑弥呼と仲が悪かったというし
日女もクマ国と仲は悪かったらしいから一致するし >>556
そうじゃなくて
ギシ倭人伝に男は皆、鯨面 て書かれているということ >>554
鯨面の物証がどこで見つかってるか分布図
https://i.imgur.com/Ny6b5m9.jpg
この時代の九州には鯨面の風習があったことは確認されていない
もし鯨面の記事が魏使の記録にもとづき書かれているなら、その目撃場所は吉備か尾張になる
ただし、会稽東冶の東にあるという記述に関連してるから、鯨面の信ぴょう性はかなり疑問だが >>556
歴史の古さを以て、自分たちの存在に箔をつけるため。
記紀はそのために作成されたようなものだから。 隋書にも黥面らしき記載があるよ
裴世清は明らかに大和まで行ってるからね >>559
畿内にある鯨面埴輪のモデルは身分の低い者であると言うのが定説
ヤマト王権は鯨面を刑罰として取り入れていたので支配階級は鯨面をしていなかったはず
埴輪は支配階級の副葬品なので支配階級に使える人たち、階級の低い奴隷などがモデルになっていたと思う
一方九州では八世紀頃まで入れ墨の習慣があったことが隋書で明らかになってる つまり鯨面習慣のある先住民族系の国が邪馬台国で
その先住民族を制圧した外からやってきた鯨面習慣のない民族がヤマト王権だということ
両者は別物 卑弥呼の時代では畿内ではまだ装飾として入れてたけどな 邪馬台国は奈良にあった大和王権のことです。
はやく目を覚ましてくださいね。
ご老人の方々。 >>562
随は6世紀じゃん
卑弥呼が亡くなったのが249年ぐらいでしょ
>>559
日本書紀に神武が顔に入墨を入れた
家臣を連れてた話があるから
無いことないのでは
>>565
卑弥呼の時代を何年に想定した話? >>563
>一方九州では八世紀頃まで入れ墨の習慣があったことが隋書で明らかになってる
はい、嘘確定な
隋書に入れ墨がどこの風習かなんて書かれてない >>567
神武って実在したの?
実在だとしたら、いつくらいの人物と考えてる? >>567
隋書の時代でも飛鳥に入れ墨の風習が残っていた
つまり黥面は畿内になかったというのは間違い
九州説の唯一の根拠である九州っぽいからってのが否定される >>559
ここにもあるのもあるが、九州でも下記の出土があるし、矛盾は無いよ
福岡県糸島市「上鑵子(ジョウカンツ)遺跡」より『黥面』入墨顔の人物が刻まれた“人物線刻板”が出土。??
福岡県北九州市小倉南区「長野小西田遺跡」より『黥面』入墨顔描かれた鐘形(頭部?)“土製品”が出土。??
熊本県上益城郡益城町「秋永遺跡」より『黥面 』
宮崎県児湯郡新富町「新田原58号分」百足塚より『黥面』入墨顔に線刻が描かれた“埴輪”が出土 神武が引き連れていったのは 糸島の軍勢を主力として 宗像 大分 岡山の兵
奈良で橋頭堡を築きスジンまでで奈良盆地を征服し スジン以後周囲へ進出した 次に、大和王朝の最初の天皇と言われた神武天皇についてお話しします。
残り時間もありませんので結論を簡単に申し上げますと、実在の人物であり、出身は九州王朝の一員と見られます。大和遠征の出発場所は博多湾岸「日向ひなた」地方です。大和王朝の開祖ですが、九州王朝の分家だったのです。
最後に、そののち日本列島の主権者となる天皇家の大和朝廷成立に至る過程を略述しますと次のようです(天皇名は全て後世の諡号、天皇位は天智天皇からか、それまでは王または大王)。
神武天皇から9代の開化天皇まで(但し全て実在とは限らない)は大和盆地の一豪族として存在、10代の崇神天皇から盆地の外に出て近隣の制圧に入るのですが、25代武烈天皇に至って王統が断絶しましたので、
これを「大和古王朝」と呼んでおります。それも中国の史書にあるごとく、王朝最後の帝は暴君とされたように、わが国もその例に漏れず、武烈は悪逆非道の天皇として国史に留められたのです。
替って、越前三国えちぜんみくにの豪族であった男大迹王おおどのおうが、20年の歳月を経て大和に入り「大和新王朝」を開いて26代継体けいたい天皇となってから41代持統じとう天皇まで九州王朝支配圏の一王朝として、近畿地方を支配したのです >>575
仲哀でも断絶してるだろ
確実なのは天武以降じゃないか? ここまで九州説は完全否定の意見多数、近畿説も否定意見あり
関東説は否定意見なし
最も可能性が高いのは関東ということかな 「韓国国際学術大会基調講演」
よくもまあこんなに探してきたなぁw
丸山雍成先生は「日本近世史、交通史」がご専門で、九州大学を1996年に定年退官されていて現在85歳
この方を、現役の九州説の研究者として挙げるというのかい?
紹介されていた論文、読んでみたけれど、邪馬台国の比定地も投馬国に比定地も挙げられていない
もともと近世の交通史がご専門だから、古代の道のことはちらっとしか触れられていない
確かに(形式上は)九州説の立場の査読論文だけれど、逆に現役の九州説に研究者が探しても
見つけられないないことを示してるよなww >>537
高等教育を受けた人間は、オンラインでも匿名でも差別用語は使わないんだよ
やはり日本人の価値観ではないし、noblesse obligeの感覚も持たないんだろうな
日本で頭のいい人は、国内の大学で学位を取ってから留学する人の方が多い
どこで学位を取ったか言えない人だからなぁ
オフラインで匿名なのにねw >>545
>戦いの痕跡がなさすぎるから
九州説のいう闘いの痕跡って、鏃の刺さった甕棺墓遺体とかでしょ?
九州にも3世紀の戦いの痕跡なんてないよね?
あったら教えて >>582
倭国大乱は2世紀だな。
2世紀末には卑弥呼は既に女王になってるんだから。 >>562
>隋書にも黥面らしき記載があるよ
これのことかな
男女多黥臂點面文身 没水捕魚
この部分は魏志倭人伝の
今倭水人好沈沒捕魚蛤。文身亦以厭大魚水禽。後稍以爲飾。諸國文身各異。
を引用しただけのように思う
隋書の頃の倭国側の記録に文身が多かったという話はないだろう >>580
予想通り敬老精神にかけるようだな
前近代日本の交通と社会 (日本交通史への道 1)2018/10/31
つい先月出版された本であり、まだまだ現役で活動している
ちなみに前近代交通史の研究から九州説の立場と取っていることに加え、
「地図 2 邪馬台国の方角と律令官道 (一部改変)」から、九州説を援用している
これらのことから(現役研究者の)「九州説の立場で書かれた査読付き論文」以外の何物でもない
ちなみにノーベル医学生理学賞を受賞した大村智は御年83だし、利根川進も79だ
年齢は関係ないし、実際に活動しているかどうかなんだよ
「高等教育を受けた人間は、オンラインでも匿名でも差別用語は使わないんだよ」
↑ちょっとこれ証明してみ?誰が見ても間違いないような証明をな
なんだったら論文引っ張ってこいや
まあ心理学の研究探せばむしろ逆の結果が見つかりそうだがな
>>581
noblesse obligeとかそもそも日本の文化じゃないのに何いってんだ?
つうかお前の発言に日本人の価値観も露程も感じないんだが、耄碌してきたか?
まあ文盲(ネットスラング的な意味で)だし仕方ねえか
そんなに出身大学が気になるならちょっと推理してみろよ
当たり外れくらいは答えてやる
既にヒントとしては米英スイスの大学、出身学部のノーベル賞は5人近く、大学総数30人近くが過去レスで出てる
これ以上ヒントをくれてやるつもりはない
ところで、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なのかどうか、いつになったら答えるのか 邪馬台国は関東で決まり
関東では無いという証拠だせる人いる? 魏志倭人伝の記述はすべて伝聞であって
内容の真偽は保証されない
編集の際に少なくとも数か所の国の事実が混在させられていて
その内容に合致する国は存在しない
あるわけがないのである
たとえば沖縄より南方、オセアニア辺りの叙述もあって
九州北部の叙述もある
だからそんな記述の「完全に」一致する国は「存在しない」
つまり邪馬台国は「存在しない」 >>589
単なる屁理屈
要は細かい違いはどうでもよくて魏から金印をもらった国はどこか?って話 >>590
>要は細かい違いはどうでもよくて魏から金印をもらった国はどこか?って話
となると、除正使の梯儁さんが来て、倭国を検分した上で卑弥呼を倭王として
倭国内からは文句が出ないことを確認してるんだから、倭国の範囲内の最大国の
首長が倭国の盟主であり、そこに卑弥呼がいたと考えればよい
という時点で自動的に、ヤマト国七万戸の王都に卑弥呼がいたことになるんだよ >>585
ここまでID:jJqOOw7の書き込みを読んできた人には、この人がただの詭弁使いで
まともな人格じゃないのが分かってるよ
留学がどうとか、学歴がどうとか言ってるけれど、それこそ匿名掲示板なんだから
嘘だろうがなんだろうが吐き放題
留学先ひとつ明かさないし
かなりの学歴コンプレックス持ちなのは間違いなさそう >>593
畿内珍理教の布教活動は捗ってるのか?w やりあってるやつら
君らの無駄なレスのお陰でたくさんの人がドン引きしてる ★11まで来てるので、もう過去レスは一切読んでないけど、
奈良からいろんなものが発掘され、大和が当時周辺地域と交流があり、
日本列島では非常に発展していた地域の一つであり、
周辺地域の中では中心的存在だった事が証明されていったとしても、
古事記・日本書紀に記載されてない矛盾を説明できない限り、
畿内説は非常に貧弱だと思ってしまうな。
畿内説派は、古事記・日本書紀に書かれてないことをどう考察してるのかな? >>596
記紀の記述が創作・潤色に満ちているにせよ、まったく取っ掛かりすら見当たらないとこを見るとヤマト王権と魏志にいう邪馬台は別個の勢力だろうな。 >>598
魏志倭人伝によれば、
邪馬台国は魏の援助がなければ狗奴国と戦争できない一見貧弱そうな国に見えるが、
畿内説派は、なぜそこまでして大和政権と結び付けたがるのだろう? >>569
紀元前660辛酉の年といわれるけど
231辛酉という記録があって
その方が照合して考えると
しっくりする >>599
最初の倭国から魏への使者も魏の権威を背景にした支援・調停要請だよ。
これから発展し、勢力を拡大して行く国というより、レームダックという印象を受ける。 そりゃそうだろう
その後の日本の歴史を見れば畿内を中心とした国家になっていくんだから
畿内派はヤマト政権以外は一時たりとも日本の歴史に認めたくないんだろうな >>602
戦争は基本数の勝負だ。
周辺諸国が味方になって参戦してくれて、敵国以上の戦力を整えられるかが鍵になる。
狗奴国と同等以上に戦うための戦力を備えるためには魏から倭国王の指定を受け、
それを魏の役人に証明してもらう必要があったと考えたと思えるし、
魏からの援軍も期待してたのではないかとも思える。
畿内説なら女王国が治める南に位置する強大な狗奴国は紀伊半島だ。
一体、どれほどの人口を持つことができると言うんだろう。
邪馬台国時期の大和が強大な勢力を持ってたと証明すればするほど、
魏志倭人伝との矛盾すら出て来るように思える。 年表
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
欠史8代とは朝鮮人スジンが史実を知らなかったことが理由
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>606、>>607
識字障害でも持ってんの?
台をトと読む文化は中国にも日本にも存在しません。 >>609
旧書体における旁の豆や至が当時トウとか読まれてたので、
旧書体における台や壱もトウって読まれてたはずって説を読んだことあるけど、
その話じゃない?
ただ、ヤマトって地名は神武の先祖の出身地と同じにしたって可能性があるんだから、
邪馬台=大和で同じ国にって部分にこだわる必要は無いように思えるが。 >>608
なんで日本人が黒潮に乗ってやって来たことにこだわるの?
移民第一波はまず南方から日本に入ってきた可能性は高いとは思うけど、
氷河期の頃は朝鮮半島も台湾も無く、日本は陸続き
もしくはほぼ陸続きとみなせるような状態だったんだから、
短期的に比較的暖かくなれば、
南方から陸に沿って多くの人がやって来ただけのように思うけど。 一、 壹と臺(台)の探究
それでは最初に、邪馬壹国か邪馬臺国かについてお話し致します。「魏志倭人伝」に、
「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。」
とあります。倭人伝中、この国名が出てくるのはこの文面一個所だけです。そこには「邪馬壹国やまいちこく」と書いてあり、「邪馬臺国やまだいこく」とは書かれていません。では、なぜ「邪馬臺国」に変わったのか、
歴史上「邪馬臺国」と国名が記録されたのは『三国志』の後に編纂された『後漢書』 6 です。
「国皆王を称し、世世伝統す。其の大倭の王邪馬臺国に居す。」
ここでは明らかに「臺」と記されています。
『三国志』の成立は、西晋の陳寿ちんじゅが三世紀末に著わし、一方の『後漢書』は、南宋の范曄はんようが五世紀半ば近くに著わしました。この両著の間は一世紀半の開きがあります。ちなみに、
国の成立は「後漢」の後が三国時代の「魏」ですが、史書の成立は、その逆で『後漢書』よりも『三国志』の方が古いのです。
古田氏は『三国志』を徹底検証した結果、原文はあくまでも「壹」であり、「臺」ではなかったことをつきとめ、更に「壹」の字は天子に忠節を尽くす者に対して、敵対する者・二心ある者を「弐」(憎悪の対象)で表すことも証明しました。
卑弥呼の後を受けた姪の「壹与」の名は、東の夷蛮(中国は世界の中心という所謂中華思想の下、周辺の国は蛮族扱い)の王で最も忠節を尽くす者としての「壹」と、中国風一字名称の「与」を組み合わせたものです。
従って「邪馬壹国」とは、「邪馬(山)」という国名と、魏の天子に忠節を尽くす「壹」を組み合わせたものだったのです。
一方「臺」の字は、本来は「盛土・高地」の意味から、漢代になると「宮殿」の意味での用法が目立ちますが、魏代はすべて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を意味するものでした。
『三国志』では、魏の天子の宮殿はすべて「 ーー臺」と記されていますが、他の二国、蜀の劉備や呉の孫権の宮殿は、臺とは記されていません。つまり二人共「天子」とは認められていなかったのです。
それでは倭国と魏の間はどうなるのでしょうか。「倭人伝」では魏と倭は対等ではなく卑弥呼は「親魏倭王」であり、臣下なのです。決して「天子」とは見做されていなかった。それ故に、
魏代において崇高なる「臺」の字を、夷蛮の国に使用することなどありえなかったのです。
ところでわが国では、誰が何故原文を改定して「壹」を「臺」に変えてしまったのでしょうか。
それは、江戸時代初期の京都の町医者・松下見林が『異称日本伝』 7 で、「壹は臺の誤り」として原文を改定したのです。そして「臺」は「台」であり、これは「と」と読めるとして「邪馬臺やまと=大和やまと」としました。
何としても「万世一系・大和朝廷一元史観」の立場から「邪馬〈臺〉国」として、近畿の大和(奈良県)に持って来たかったようです。
それを受けて、江戸時代の学者・新井白石は、初めは『古史通或間』 8 で大和説に立ち、後年『外国之事調書』 9 で筑後山門(やまと・福岡県)であると九州説を打ち出しました。
これらが半ば「定説」化され、卑弥呼の国は近畿だ九州だという争いになったのです。 現在の日本が海洋民族という事実
神社の建物が南方系の高床式(これは天孫降臨族という征服者側)
米がチャイナ南部からが最初のもの
現在でも生存環境の厳しい北方では人口が多くなく 移動する動機が乏しいが
南方ではうっかりすると黒潮にのり潮流に流され日本列島へ漂着する 或いは島伝いに移動してくる
海峡民族は移動が生存の要件 陸続きだったのが、徐々に海で分かたれてったんだから、
お互い交流を保とうとして海洋技術が発達しても、別におかしくないと思うけど。 1万5千年くらいまでは陸続きで、華南地域と自由に交流できた日本は、
現代で言うところの華北地域に比べれば数段先進国だったろうしな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています