【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★11
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542123148/ >>383
また堂々巡りですか
まあもう殆ど言いたいこと言ったんで飽きてきたところですが
本当に聞き分けの悪い餓鬼みたいですよ
これ以上言うこともない
あなたにとって研究者というものは些か世間とは乖離しているようだから、象牙の塔で篭っていた方がいい >>384
堂々巡りって>>382の人たちが邪馬台国九州説の現役の研究者だといつ示したの? >>385
(常松幹雄)
邪馬台国は、3世紀の第1四半期に、北部九州から畿内へ首都移転が実施されたと考えています。
(七田忠昭)
邪馬台国は、倭人伝の記述や、中国古代城郭の影響をつよく受けた集落構造、中国の権威を帯びた鏡や刀の出土などから吉野ヶ里遺跡を擁する佐賀の神埼地方にあったと推定します。
(安楽 勉)
九州北部の「伊都国」には巫女王が存在していることが知られており、倭国王ヒミコとかんがえれば、この地が主体となって連合し、畿内に初期ヤマト政権を樹立したことが考えられます。
(中村幸史郎)
邪馬台国は菊池川流域です。
(北郷泰道)
邪馬台国を都とする倭国の範囲は、大きく見ても北部九州から中国・四国の範囲。
はじめかから「畿内説」など、『三国志』の記述の外。そして、日向は卑弥呼に背を向けます。
「邪馬台国徹底検証第3弾!シンポジウム」【私の邪馬台国論】 >>387
かの人物は既に「弥生時代の九州の研究者」だと明言しています
邪馬台国の位置は論争がありますが、時代区分は弥生時代末期に含まれています
その上邪馬台国九州説を唱えている
これでまだ納得しないようなら、そもそも納得する気がない宗教の狂信者のそれです >>388
弥生時代の九州を研究している人が邪馬台国は九州にあったと言うと
邪馬台国説九州説の研究をしていなくても邪馬台国九州説の研究者になるの? >>389
吉野ヶ里遺跡の研究者がそこが邪馬台国であると、自身の研究から導いてるのです
それ以上に何が必要ですか? >>391
これを邪馬台国九州説の研究ではないと断言するなら、もはやごねているだけとしか言えないですね >>392
それで邪馬台国九州説の研究はしてるの? そもそも邪馬台国九州説の研究者を消そうとする意義がわからない
それで畿内説が揺らぐ訳でもあるまいに >>393
邪馬台国九州説の研究というんですよ
あなたが頑として認めないだけで >>396
『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』 七田忠昭 著 >>397
具体的に邪馬台国九州説のどんな研究なの? >>398
気になります?気になります?
どうしても中身が気になるなら、お近くの図書館なりで読んで下さい
あなたは敵情視察もすれば良いと思いますよ
まさか敵の内情も碌に研究してない訳ではないですよねえ >>400
>>109
まあこのやり取りで九州説の敵の情報を碌に仕入れてない事がわかったな >>402
困った、文盲でしたか
「いまあらためて発掘成果と『倭人伝』の記述を対照していくと数多くの共通点が浮かびあがってくる」。
とまあ吉野ヶ里遺跡での発掘成果と倭人伝とを用いた研究ですねえ
これくらいは読み取っていただけるものかと思ってましたが、過大評価だったようだ >>404
あなたのいう「具体的な研究内容」とは?
わかりやすく例示してください >>405
具体的にどの発掘成果のどの部分と倭人伝の記述のどの部分を具体的にどう比較検討したら具体的に共通している点はどの程度あってそうでない点はどの程度で
それらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>406
本書は5章構成で、1〜4章では出土した遺構や遺物などから「ムラ」から「クニ」への変遷をたどり、最終5章で魏志倭人伝の記述と吉野ヶ里遺跡の発掘成果を比較検証する。
その中で両者の共通点として、@弥生中期中ごろ前後に多くの戦闘の犠牲者が甕棺墓に埋葬された状態で出土する
A卑弥呼が居住し祭事の場となった宮殿と邪馬台国の長官や次官たちが居住し政事を行った施設の両者がある構成は、まさに祭事の場である北内郭と高階層の人々のいる南内郭がある吉野ヶ里遺跡に極めて似ている
B鉄製素環頭大刀や大型・中型の漢鏡などの出土は当地が長く対中国外交に深く関わっていたことを示す――などを挙げる。
だそうです。
説の真偽についてはまた別の人と争ってください >>407
そうでない点はどの程度でそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>408
自分でどツボにはまっているの気が付きません?
詳細は本を読んで下さい
このやり取りの中において著書の細々とした記述は重要ではありません
あくまでも著者がそのような研究を著述しているかどうかです >>409
今のところ共通点を列挙していることしか示されてないけど
単に共通点を列挙するだけが研究なの? >>410
共通点を見出すのも立派な研究活動の一環です
もちろん反論に耐えうるよう様々な視点から研究することも大事ですが、これだけで「研究ではない」と断言することは不可能です >>411
単に共通点を列挙しただけで研究だと断言できるの? >>412
研究活動の一環だと断言出来ますよ
これを否定するようなら研究活動そのものについての認識にも違いがあると確認するだけですね >>413
研究活動の一環として共通点を見いだすことがあると
共通点を見いだしただけで研究したことになるの? >>414
それは語弊がありますね
共通点を見出す事で自身の主張する説の確からしさを高めるのです
もっと言えば、そもそもどうして共通点を見出す事が出来なのか
それは発掘研究や倭人伝などの第一次資料の研究に基づいています >>415
共通点を見いだしただけで研究したことになるというのは語弊があるなら
そうでない点はどの程度でそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? >>416
語弊があるいうのは「共通点を見出しただけの研究」という点です
この研究は「発掘研究や倭人伝などの資料研究を通じて共通点を見出し、九州説を主張した研究」だということです
「だけ」といのは過小評価です >>417
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたの? まぁ年代で決まるわな
九州は大陸やし卑弥呼の墓が出てくれば終わる話何やけどな >>418
そのような詳細な情報が今ここで必要ですか?
その必要性を説明してください >>420
発掘成果と倭人伝の記述を不明な方法で資料研究していくつかの共通点と不明な数のそうでない点を見いだし
それらの点を不明な考察をした結果として邪馬台国は九州にあったという主張をすると
一般的にそれが研究として認められるものなんですか? >>421
方法は直接原典に当たるべきです
非共通点もそれを元に対象の論者を説き伏せてばいいだけです
考察の詳細も同じく原典に当たるべきです
ここでは>>407以上の情報は瑣末です
そして一般的に十分研究活動とされるものですよ
発掘調査研究や資料研究が研究活動ではないというのなら別ですがね >>424
つまり共通点を列挙した以外は全て不明で何も示せないということ? >>425
そうは言ってないですよね
少なくとも「共通点を見出すような研究をしていた」それだけです
それ以上の事は原典に当たってください
もっとも、「発掘調査研究や資料研究は研究ではない」というのなら別ですが、これらの研究は真っ当な研究活動だと合意出来ますよね? >>426
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたのか示せないけど
不明な方法で資料研究したはずで不明な方法で考察したはずだから共通点の列挙以外不明でも研究だということ? >>427
もう一度聞きますが>>407以上の情報が必要ですか?
詳細は原典の本を読めばいいんですよ 研究者が一般向け書籍を書くことがある、というのは真だけれど、
一般向け書籍を書いたらその人も研究者、というのは真ではない
研究者は査読付き論文で評価されるのであって、
九州説の立場で書かれた近年の査読付き論文が示せないのであれば、
九州説の現役の研究者はいないということになる
これは悪魔の証明でもなんでもなくて、
「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」で
反証終わりになる極めて構造の単純な命題
これをせずにガタガタ話をそらし続ける留学エリ−ト君が、研究者だとはみなしていない
というか、どう見ても違うだろって話 >>429
つまり
どう資料研究した結果共通点とそうでない点をどの程度見いだしてそれらの共通点やそうでない点を踏まえて具体的にどのような考察をした上で邪馬台国は九州にあると結論付けたのか示せないけど
不明な方法で資料研究したはずで不明な方法で考察したはずだから共通点の列挙以外不明でも研究だということなんだね >>430
では七田忠昭は研究者ではないと?
自身の言を翻すのか?
そもそもが七田忠昭を「弥生時代の九州の研究者」だと認めたところから出発しているのに >>431
そもそも七田忠昭が「弥生時代の九州の研究者」であると合意できるか? >>403
>困った、文○でしたか
方々で言ってるんだけど「非識字者」というように >>386の文章でググったら、そのシンポジウムを見に行った人のブログがヒットして
こんなことが書いてあったよ
「○パネリストを一見すると、沖縄を除く九州各県の考古学者が勢揃いして、さぞ盛大に邪馬台国論争が
行われたかのように思われるが、実際は寂しい内容であったと言わざるを得ない。と言うのは、
各パネリストの主義主張にしたところで、以下の【私の邪馬台国論】のようなものに過ぎず、
邪馬台国に関して、パネリスト自身に格別興味関心があるわけでもない。何か、来たくも無い
ところに無理矢理引っ張って来られたかのような印象さえ受けた。パネリストのシンポジウムに
対する熱意をまるで感じなかったのは私だけではあるまい。七田忠昭氏だけが唯一人、吉野ヶ里説を
力説された程度であった。」https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/31684362.htmlより引用
七田忠昭氏は吉野ヶ里遺跡の発掘に佐賀県庁職員として「行政の立場」で関わった方
で、今でも吉野ヶ里邪馬台国説を唱え続けているけれど、吉野ヶ里を邪馬台国だという人は
このスレに出入りしている九州説の人にもいない
吉野ヶ里は時代が異なるから邪馬台国ではないというのは常識
他の人も書いてたけど、元県庁の人として、吉野ヶ里遺跡の「観光客の動員」に
一番の興味がある人だよ?
この方を現役の研究者で九州説っていいはるのにどれだけの意味があるんだい?
原著論文、書いてないし >>435
では七田忠昭が「弥生時代の九州の研究者」では無かったと自身の言を翻すと? >>434
つうか横レスで「非識学者」と言うのって何?
学者でも研究者でもない。趣味道楽の人じゃなかったの? 「文○」なんていう用語を平気で使うような人は、
高学歴の人にはほぼいない 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で51も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>438
>>439
で「非識学者」って何?「非識字学者」?
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?違うの? 二、卑弥呼の墓
次は卑弥呼の墓についてお話しします。
2009年5月29日に、NHKや民放各局それに新聞各社が一斉に、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表によるとして、奈良県桜井市にある
箸墓古墳(全長280メートル)が卑弥呼の墓の可能性が強まったとして報道されました。
それは同古墳の傍らから出土した土器が、
「放射性炭素(C14)年代測定法」により西暦240〜260年の物と測定されたことにより、卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場し、死亡した年代が一致した、としております。
それでは、卑弥呼の墓について、「魏志倭人伝」には一体どのように記されていたのでしょうか。
「卑弥呼以て死し、大いに冢ちょうを作る、径百余歩。」
とあります。これを箸墓古墳に当てはめて見ます。先ず、「径」とは円の直径を意味しますので、円墳でなければなりません。前方後円墳である箸墓古墳では全くおかしいことになります。
そのため発表では円形部分だけを指すと言っております。
その円形部分はおよそ150メートルなので、「百余歩」ですから一歩は約150センチメートルとなります。
皆さんこのような歩幅で歩けますか。とんでもないですね。そこで何と言っているかと申しますと、片足を一歩出しそれが75センチメートル、次いでもう一歩出して75センチメートル、つまり両足動歩で一歩とするのです。
ところが、この時代の中国では一里が300歩、一歩はその300分の1。そして、一里は77メートルの短里なので、一歩は約26センチメートルです。従って、卑弥呼の墓「径百余歩」とは、26〜30メートルとなります。
もう一つ「魏志倭人伝」に次の記述があります。それは、倭人の風俗を記した箇所に、
「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛りあげて冢をつくる。」
とあります。中国では、冢は墓よりも小さいものを指しています。そのことを示す有名な言葉があります。すなわち、三国の一翼を担う「蜀」の皇帝劉備玄徳は、白帝城で己が死に臨み、
「墓を造ることなかれ、冢で良い」と言いました。
つまり冢は規模とすれば塚です。
また、「大いに」の意は「大きい」ではありません。「大いに励む」とか「大いに○○する」で、「一所懸命○○する」の意です。これも勘違いのもとになっているのでしょう。
これらのことから、卑弥呼の墓は、箸墓古墳などの巨大古墳では決してありえないのです。
三、卑弥呼の鏡
次に、卑弥呼が魏の皇帝(明帝)から下賜された「銅鏡百枚」についてお話し致します。
通説は、日本各地から出土している、景初三年銘の「三角縁神獣鏡さんかくえんしんじゅうきょう」がそれである、とされています。果たして真実でしょうか。古田氏は次のように述べておられます。
魏の明帝は景初二年に死去しているので、景初三年はない。これを徹底検証の上、この種の鏡は中国本土からは一枚も出土していないことからも、中国製ではなく日本製である。10
と、そしてその後、中国の学者・王仲殊氏 11 も、三角縁神獣鏡は中国鏡(魏鏡)ではなく、日本製鏡である。
それにもかかわらず、「邪馬台国」近畿説の人たちは、今でも、この鏡が出土すると、「これは卑弥呼の鏡」とマスコミを煽り、大ハシャギをするのです。魏の皇帝から貰ったのは100面です。
ところがそれは、日本国内で既に700面以上も出土しております。これは出土している分だけなので、地下に埋もれているのは、
その何倍もしくは何十倍と考えなければならないでしょう。
それも殆どが近畿地方出土です。それに対して国内で170面ほどある漢式鏡(中国製)は、筑紫(福岡県)からの出土が圧倒的です。通説の「卑弥呼の鏡」は、もはや論理の外にあると言っても過言ではないでしょう。
なお、この他の考古学的遺物として、魏の皇帝(明帝)から下賜された絹がありますが、この時代のものとして出土する所は糸島・博多湾岸の王墓のみで、近畿地方からの出土例はありません。 "Galileo Gambit"とはインテリジェントデザインや創造論運動のような否定論や疑似科学の支持者たちが使うことがあるレトリックである。
このレトリックは、重要な科学理論は提唱されたときはdisられたことを指摘する。一般に使われる例は地動説である。
この詭弁を使う者は、自説をガリレオの地動説と並べた上で、
同様に、自らも、よく検討されずに拒否された有効な理論を発展させているのだと主張する。
彼らはまた、自らの理論を拒否した人々を、意固地でヴィジョンがないやつだと主張する。
このGalileo Gambitの初出Respectful Insolenceによる。
専門分野では、"Semmelweis Gambit"[イグナーツ・ゼンメルワイス]のような他の用語が同様のレトリックに使われる。 >>440
>で「非識学者」って何?「非識字学者」?
また教養のなさをさらけ出してる
>>434を再掲
「方々で言ってるんだけど「非識字者」というように」
「非識学者」ってなんだよ? >>444
あー非識字者な
字が学に見えてたわ
つうかディスレクシアdyslexiaの方が俺は親和性高いんだわ
留学していたもんでな
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>444
つうかグーグル検索でも「ディスレクシア」で22万件
「非識字者」で2万件だしなあ 俺は中国地方民だけど、九州説は無いと思う
邪馬台国は当時の中国の発音では「ヤマド」国と
読むらしい 後のヤマト「大和」じゃん 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で54も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>448
一方で文盲と言うな!非識字者と呼べ!
と言いながら、もう一方で他民族を馬鹿にしてダブルスタンダードな偽善者だな
で、七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」なの?どうなの? >>445
dyslexiaと非識字者は別の概念だぞ
dyslexiaは学習障害、あるいは高次機能障害の一類型で
非識字者はilliteracyの訳語に視覚障害者を指す言葉を使うのがよくないとして
使われるようになったもの
非識字者をilliteracyではなく、dyslexiaだと思う時点で、英語圏の教養がないことが丸分かりだし、
英語圏で高等教育を受けていたらpolitical correctnessにもっと敏感でなきゃおかしい
ID:+SVnnjTfは騙りだとしか思えないw 「九州説の立場で書かれた査読付き論文」を1報示す「だけ」
これができない限り、ID:+SVnnjTfの負けだよ
一人で55も書き込みしてるって本当に数が多いことが価値っていう彼の民族のF5アタックに通じるものがあるなw >>450
ところが欧米のテストの回答用紙にはDyslexiaかどうかをチェックする欄があるんだよ
お前留学してたならそれくらいわかるだろう
グーグルでも”Dyslexia”で検索すれば1億5千万件ヒットするが、お前はこれを超えるような「一般名詞」を知っているのか?
つうか海外のテスト用紙も見たことなさそうだな
もし本当に”Dyslexia”を超えるような名詞が使われていて、テスト用紙にも乗っていたのならそれを提示しろ
>>451
で七田忠昭は「弥生時代の九州の研究者」かどうか、はやく答えろや >>450
ちなみに”illiteracy”はたかだが800万弱だったがな おっと1500万件だったわ、まあそれでも倍近くじゃねえか >>450
ついでにこれらはもちろんDSMに関わるんだが、
"illiteracy" "DSM"では6万件
"Dyslexia" "DSM"では38万件
つうか、"illiteracy"をDSMで診断出来るの? >>458
せっかくのソース悪いが、そもそも「文盲」を「視覚障害者」の意味で使ってねえから
そもそものところから違うんだよ
まあここ数日ずっとなにもかも平行線をたどっているんだけどな >>450
「A Review about Functional Illiteracy: Definition, Cognitive, Linguistic, and Numerical Aspects」 Reka Vagvolgyi
いやーちょっと勉強したら"functional illiteracy"と"Dyslexia"は違う脳機能が原因かもしれないらしいねえ
まあそれもまだ基礎研究の段階でコンセンサス取れてねえけど
"illiteracy"じゃなくて”functional illiteracy”を使えと言われたら、まあ一考したが、そもそも言われてねえしなあ
やっぱ”今はまだ”dyslexiaと文盲と呼ばせていただきますわ。
あ、日本語では「機能的非識字」らしいねえ
こっちなら腹に落ちるわ 「区間里程」概念図 邪馬壱国の行程図 合田洋一 『奪われた国歌「君が代」』古田武彦より
(2) 「部分と全体」
「倭人伝」には、魏使が行く国と国の間の里程が詳しく記載されています。そこで、その国と国の部分里程をすべて足した里程は、総里程(12000余里)となります。つまり、部分の総和=全体です。
このことから帯方郡治(韓国・京城附近)から不弥国まで、「魏志倭人伝」に記された部分里程を全て足した里程は10700余里であって、総里程12000余里に1300里足りないことが解りました。従来説は足りないまま論証していたのです。
このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」12 により、対海国(対馬・
下県郡)800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を見つけることが出来たのです。
次に「水行十日・陸行一月」については、「水行十日」は帯方郡治より邪馬壹国までの海路の総日程であり、「陸行一月」は帯方郡治から邪馬壹国までの陸路の総日程だったことを証明しました。
従来説は不弥国から邪馬「台」国まで「水行十日陸行一月」と解釈していたため、女王国の位置が遥か彼方の国内および国外に比定することになってしまったのです。
また、不弥国から邪馬壹国までは、里程が書かれいないため、これも大きな混乱を招く要因となってました。それは、「部分」の「区間距離」が不弥国で終わっているからです。
つまりその区間の里程は「0」 であり、従って「0の論理」により不弥国は邪馬壹国の玄関であった、と位置付けました。
そして、朝鮮半島内の里程は、「魏志倭人伝」の記述「韓国を歴ふるに乍たちまち南し、乍ち東し、その北岸狗邪韓国こやかんこくに至る7000余里」を忠実に読んで「階段式読法」で算出しました。右の古田説の論証をまとめて見ますと、次のようになります。
帯方郡治 -- 狗邪韓国(朝鮮半島内、水・陸行)7000里
狗邪韓国 -- 対海国(水行) 1000里
対海国(半周、陸行) 800里
対海国 -- 一大国(水行) 1000里
一大国(半周、陸行) 600里
一大国 -- 末盧国(水行) 1000里
末盧国 -- 伊都国(陸行) 500里
伊都国 -- 不弥国(陸行) 100里
不弥国 -- 邪馬壹(玄関) 0里
以上、帯方郡治から邪馬壹国までの総里程 -- 12000余里。総日程 -- 水行十日・陸行一月となります。
この陸行一月は、魏使が自らの足で踏破したものであり、当時の「魏」は既に「一倍年暦」であるので実数です。もしこれが倭人からの伝聞であるならば、「二倍月暦」(月の満ち欠けにより半月で一ヵ月)で半月という考え方にもなるのです。
なお、狗邪韓国は韓国南岸にあった倭人の国。末盧まつら国は松浦湾の唐津附近。このほか傍線行程として、伊都国 ーー 奴国100里。不弥ふみ国 ーー 投馬つま国水行二十日。投馬国は薩摩国の現・鹿児島市近辺。
また邪馬壹国との交戦国狗奴この国の所在地は、「銅鐸王朝」圈内(河内国・摂津国辺りか)にあり大阪府交野かたの市にある交野山このやまの「この」がそれに通じる、としております。 邪馬台国論争は結局のところ九州の所属問題だよね
畿内説だと倭国=日本で九州は大和の傘下
九州説だと倭国は日本に征服された半島系の別民族で九州和民は独立すべき
独立には人民開放軍も協力してくれるから、ウイグルのような状態を目指すか
金王朝の属国になるかお好きな方を >>463
そういう中国を意識した政治的意図を丸出しで語るから畿内説はますます胡散臭くなるんだよ
昔の大陸進出に利用された皇国史観そのままで
政治的意図と古代史の真相は全く別だから >>463
それを言っちゃえば九州だけじゃなく出雲など山陰も別の国だったし、関東、東北も古代から中世あたりまでは蝦夷だし、北海道沖縄は近代以前は別の国だ
近畿以外は全て征服されたと考えなきゃならないから全て中国様にあげるべきだと?
どこがどこを征服したとか今の国家とは関係ないよ
逆言えば今の中国には漢や魏の頃の中国人はほとんどいない
その後異民族の五胡に侵略されズタズタにされた
隋や唐も五胡の民族だしその後は元や清などの異民族が長く支配した
当時の中国人なんていない やっぱ九州一択だな
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 ・
https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ 五、邪馬壹国の所在地
それでは、女王・卑弥呼の国「邪馬壹国」の所在地を古田説に基づきお話しします。
邪馬壹国の玄関・不弥国は、伊都国から東へ100里、つまり7.7キロメートルです。基準となる伊都国は旧怡土村、今の前原市か糸島神社あたりとしますと、不弥国は今宿か姪の浜あたりです。そこが博多湾岸への
西からの入り口、つまり玄関となるので、邪馬壹国は博多湾岸一帯となるのです。
志賀島から朝倉までの線上の中心域がそれで、春日市を中心に博多駅から太宰府までの間は、数多の王墓や考古学上の豪華な出土物の密集地帯、いわゆる弥生のゴールデンベルトなのです。
従来の論者は、ここを3番目の大国「奴国」に当てていますが、じつはこの地こそ「魏志倭人伝」が記す第一の大国、
戸数七万戸に最もふさわしい所、女王の都する国だったのです。
六、女王・卑弥呼ひみか
「魏志倭人伝」に描かれた女王・卑弥呼の人物像は次のようです。
「邪馬壹国は元は男王でしたが、その70〜80年後(二倍年暦であり、実際は35〜40年)、倭国が乱れ、何年も互いに攻伐し合ったので、皆で相談して、
一女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼と言います。卑弥呼は、シャーマンつまり巫女でした。「年すでに長大」は、『三国志』の
「長大」の用法をすべて検証した結果、30歳ぐらいのことを長大と言っていたことが解りました(従来説の「老人」ではない)。独身で弟が政治を補佐していました。
いわゆる姉弟統治です。王となってからは見る者も少なく、婢千人をはべらせて、唯一人の男性が飲食の世話をし、
言葉を伝えるため居室に出入りしたと言っております。宮殿・物見楼・城柵を厳重にして常に兵が守っていました。」
と。謎に包まれた女王卑弥呼は、古来、天照大神あまてらすおおみかみ・神功皇后じんぐうこうごう・倭姫命やまとひめのみこと・倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことなどに当てられてきました。これについて古田氏は、
『よみがえる卑弥呼』 13 で次のように述べておられます。
「天照大神では時代が全く合わない。卑弥呼は中国錦や倭国錦をまとった「錦の女王」であり(なお、この当時の近畿地方からは絹の出土例はないので、このことからも近畿は後進地帯と言える)、
天照大神は布の時代「布の女神」である。神功皇后は『日本書紀』では
「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、卑弥呼は3世紀前半ないし中葉、神功皇后は4世紀前半ないし中葉の人物であり、卑弥呼に当てはめようにも到底無理である。倭姫命・倭迹迹日百襲姫命は、いずれも中心の権力者ではない。従って該当しえない。」
それではいよいよ卑弥呼の正体は如何に。
『筑後国風土記』逸文に「筑紫君」や「肥君」の祖「甕依姫みかよりひめ」が出ている。この甕依姫が卑弥呼であった。そして、「ヒミコ」と読むのではなく「ヒミカ」である、と。 九州説はイデオロギーの権化だから困る。
中央政権が大嫌いで、日本に属したくないというルサンチマンが根底にある。
「自分は世間に認められてない。だから世間(日本)が嫌いだ。」 縄文時代の恋愛事情
ttps://toyokeizai.net/articles/amp/251159?page=2 >>466
邪馬台国に繋がりがある出土品が
出てるのは九州なのに、なぜマスコミは
畿内ばかりクローズアップしたがるのか? >>470
その時代の中心が規模や出土品から纒向にあったことがわかってるからだよ
畿内説の場合、北部九州は邪馬台国連合の一部だから九州から何が出ても問題ない >>470
マスコミは大して調べないから、取材した研究者の考えに比重が傾きやすい
ある番組では倭人伝に狗奴国は邪馬台国の"東"にあると書かれている、と説明
さすがに呆れたが、番組を作成する側はそのレベルなんだろう 関連する学会教育界ほぼすべてが畿内説だからな
というか、偽書記紀を信奉していると自然に畿内説になる
バカな学者や研究者だらけでマスコミも逆らえない
まあバカな学会教育界は九州王朝説を全力で無視していたわけだが
百田のベストセラーで言及されていたおかげで今後は無視戦略は無効
バカな学会教育界は逃げきれず九州王朝説について議論を強要されることになる >>470
そこは奴国
ヤマト政権傘下にあった奴国ですずりが見つかったって話だよ
そこから九州説に持っていく理屈の方がアクロバティックすぎるだろ >>474
だって調べたら
畿内で硯は出てないし
鉄も鏡も3世紀前半はかなり少ないよね
卑弥呼共立後の時勢は3世紀前半なのにさ
悪いけど、当然ありえないよな〜、となる >>473
ただし、九州説を推したい人は百田を嫌いというジレンマ >>474
畿内説に自信があるなら
別に自演せんでも良いんじゃね? >>476
ひょっとして畿内説派の学者たちって
九州王調説をとると万世一系が8世紀までしか遡れなくなるのが嫌だから
直視したくない、とかそんな感じなのかな
いまさら皇室の歴史が多少短くなったからと言って
天皇の尊厳が損なわれるわけがないし天皇制の支持率が下がるわけでもないだろうに 纏向はちょっと違うと思うな。邪馬台国見つけたかったら他所掘らないと畿内説は。 三 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立 -- 『旧唐書』が物語る
九州王朝倭国と近畿王朝との関係を決定づける史料に『旧唐書』があります。
これには「倭国伝」と「日本国伝」の二つの国を、別国として表記しています。
「白村江の戦い」の後、唐の進駐軍(『日本書紀』天智紀では9年間に6度に亘り数千人とあるが、事実は9年ではなく662〜701年の39年間 ーー
古田説)の司令官“郭務宗*”が4回わが国に来ての報告。
また、「遣唐使」の一員で唐に帰化して役人となった“阿部仲麻呂”の証言などを基に著されたと考えます。
宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0
その「倭国伝」には、
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること、一万四千里。新羅の東南の大海の中に在り。山島に依りて居す。東西は五月行、南北は三月行。
世に中国と通ず。其の国、居するに城郭無し。木を以て柵を為し、草を以て屋を為す。四面に小島、五十余国、皆焉(こ)れに付属す。
其の王、姓は阿毎(あま・あめ)氏。一大率を置きて諸国を検察し、皆之に畏附す。官を設くること、十二等有り。(後略)」
とあり、また「日本国伝」には、
「日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す。或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み改めて日本と為す。或いは曰う、
日本は旧小国、倭国の地を併す。」
とあります。これは正に、「倭国改め日本という名を、近畿の王朝が踏襲した」と。或いは、「日本(近畿王朝)は旧は小国で、倭国(九州王朝)の地を併せた」と言っております。
これで明らかなように、この『旧唐書』は、二つの王朝を見事なまでに、明確に表記しています。
また、『新唐書』「百済伝」でも、白村江の戦いでの唐の交戦相手は「日本」ではなく「倭国」としています。
ところで、中国の王朝は、外交ルールとして、その民族、その地域を代表する国「宗主国」と、正式な外交関係を結び、史書に記録するという方針を採っています。従って、
それまで中国の王朝と近畿王朝との交流はあったとしても、正式なものではないので記録されませんでした。
それが、倭国が滅びた段階で近畿の日本国(近畿王朝)は、大宝二年(702)に唐(事実は「周」)の則天武后に承認され、大宝三年(703)新たに正式な外交関係を樹立したのです。それは「唐朝」から始まりました。
このことからも、日本列島の旧の宗主国は「倭国」(九州王朝)であり、新の宗主国は「日本国」(近畿王朝)という構図が明確に描かれております。
即ち、新生「日本国」の成立は、大宝元年(701年)3月21日“文武天皇”に始まります。
如何でしょうか。今、見てきたとおり、これら中国の史書を先入観なしに素直に読み解けば、わが国古代史の実体、とりわけ九州王朝の存在が、誰の目にも解るはずです。
次に、「九州王朝」を証明する「国内の残影」を、具体的に述べてまいります。 白村江の戦いで唐と戦った倭国軍が天皇家大和政権の軍隊じゃなく九州王朝の軍隊?まさかね。 八 「白村江の戦い」敗戦の真実
七世紀に朝鮮半島の百済と新羅の戦争が勃発しました。当時の日本列島の主権者・九州王朝倭国は、国消滅の危機に陥っていた百済の応援要請に応えるためと、朝鮮半島南端部にあった“失われたわが国の領土「任那」”を回復するために、百済に加担したのです。
一方、新羅には唐が加担して両国軍の全面戦争となりました。
百済とわが国の連合軍は四度戦って全て負けました。この戦いには近畿王朝は参戦しませんでした。その訳は、九州まで出陣した斉明天皇が崩御したので、その喪に服するためとされています。
しかし事実とは大きく異なります。第四回『「にぎたづ」は何処に』 -- 斉明天皇の伊予行幸と崩御地及び天皇陵の真実(平成23年 7月 9日講演、『松前史談』第28号所収)で詳述しましたように、近畿王朝は唐と結託して九州王朝を裏切ったのです。
しかも、「斉明天皇は九州王朝の天子」であり、その崩御地は通説の「九州朝倉」ではなく、「越智国朝倉」であることも述べました。
また、後述しますが「崩御年」も違います。従って、「斉明天皇の喪に服する」などは全く関係がなかったのです。そして、この戦争の最後となる「白村江の戦い」(662年 ーー
古田説、『日本書紀』は663年)で九州王朝の摂政・薩野馬、伊予国関係では越智国主・越智守興、風早国主・物部薬なども捕虜となり、九州・中国・四国、それに関東の多くの将兵が海底に沈んだのです。
この後、郭務宗*かくむそう・沙宅孫登さたくそんとう率いる唐と新羅の戦勝軍数千人が、当時の「九州王朝・倭国」の首都・太宰府や博多湾岸、それに軍都・吉野ヶ里などに39年間で6回に亘り進駐して来たのです(郭務宗*は4回)。
この辺りの王墓はそれら進駐軍により徹底的に破壊し尽くされたと思われますが(敵の屍を暴くのは中国の慣習)、
唐の味方となった近畿王朝の領土には危害を加えなかったのです。近畿に巨大古墳が破壊されずに、存在しているのはその証左です。
郭務宗*かくむそうの宗*は、立心偏に宗。JIS第四水準ユニコード60B0 ポリコレ棒による言葉狩りは嫌いな方だけれど、
教育機会のなかった、識字教育を受けていないことを示すilliteracyの訳語に
視覚障碍を示す文字を使うことは、単なる身体上の障碍を(識字に関する)「無能力者」
「能力の劣るもの」の意味で使うことになるので、真っ先に改めるべきもの
欧米先進国で高等教育を受けていたら、無神経に繰り返し書くような人格にはならないだろうに
北京大学ではないと言っていたけれど、上海大学とかソウル大学なのかな? 留学先は?
illiteracyとdyslexiaは異なる概念だと言われてからも、その違いを理解せずに、
グーグル検索のヒット数で比較反論するとか的外れなことをしているし、
ID:9DYnrbERが機能性非識字者である可能性はかなり高いな
漢字を捨ててしまったから機能性非識字者だらけになった国があるらしいけれど、
その国の道徳価値観とも重なるし >>454で
>欧米のテストの回答用紙
とか書いてるけど、illiteracyの人はテストを受けに来ないって理解してるか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています