【古代史】「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」[11/10]
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「始まりの国」淡路島から「陰の王国」大阪に向かう船の上にて。大阪と奈良の山並みを遠望する(筆者撮影、以下同)(他の写真を見る)
新潮文庫「古代史謎解きシリーズ」の淡路島・大阪編を上梓した(『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪』)。毎度おなじみ、新潮文庫編集部・高梨通夫氏と、凸凹道中だ。
今回の取材は、大阪が中心のはずだったが、淡路島で、意外な発見があった。淡路島は、瀬戸内海を塞ぐ巨大な「フタ」で、西側の海域は古代の海人(あま)の楽園だった。そしてここに、淡路島のみならず、ヤマト建国、古代史の謎を解くための大きなヒントが隠されていたことに、気付かされたのだ。
淡路島はイザナキとイザナミが磤馭慮(おのころ)島の次に生んだ土地だ。また、伊勢内宮(三重県伊勢市)と淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)、そして葛城山は同緯度線上にあって、聖なるラインを形成している。だから、伊弉諾神宮はパワースポットと信じられ、多くの参拝客が訪れる。淡路島は、日本を代表する聖地なのだ。
しかし一方で、淡路島は「罪を犯した貴種を流竄する場所」でもあった。8世紀に淳仁天皇と早良親王がこの島に流された(早良親王は移送途中で亡くなり、遺骸が淡路島に埋葬された)。この、光と影を、どう説明すれば良いのだろう。
ここに、淡路島の複雑な歴史が隠されている。順番に説明していこう。ヤマト建国前後に、淡路島は大きく揺れ動いていたのだ。
■淡路島の立場
近年淡路島で、弥生時代後期の鉄器生産工房が2つみつかっている。五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市黒谷)と舟木遺跡(同市舟木)だ。
五斗長垣内遺跡が先にみつかり、すでに復元され、公園になっている。弥生時代後期の1世紀ごろに約100年続いた鍛冶工房だ。かたや舟木遺跡は、弥生時代後期の2世紀半ばから3世紀の遺構で、こちらは邪馬台国の時代の鉄器工房だ。
邪馬台国の時代の畿内は、鉄器の過疎地帯だったが、淡路島で盛んに鉄器が作られていたことが分かって、邪馬台国畿内説の証拠になるのではないかと騒がれている。しかし、畿内から鉄はほとんど出てこないのだから、それはまちがいだ。さらに、淡路島から出土した銅鐸は、出雲のものと兄弟関係だったことが分かっている。淡路島に鉄の素材を流していたのは、出雲だろう。ここに、淡路島の立場が示されている。
弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄を独占的に入手していた。連載中述べてきたように、北部九州は天然の要害に守られたヤマトの発展を恐れ、策を練って出雲と手を組み、関門海峡を封鎖して鉄の流通を止めたのだった。さらに、「北部九州+出雲連合」は、淡路島に鉄を流し、味方につけ、明石海峡を支配して、通せんぼうをしていたのだろう。
■明石海峡の争奪戦
『播磨国風土記』(播磨国は兵庫県。淡路島の対岸)に興味深い記事が載っている。
出雲神とアメノヒボコ(天日槍)が、播磨で戦っていたという。『日本書紀』に従えば、アメノヒボコは第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の時代の人だ。崇神天皇がヤマト建国の初代王と目されていて、アメノヒボコはヤマト黎明期、歴史時代の人なのだから、神と戦うのはおかしい。
ただし、『播磨国風土記』は、朝廷に提出した原本を(おそらく複写して)手元に残しておいたものが今に伝わったものだ。要は、「8世紀の藤原政権のチェックを受ける前の原稿」なのだ。『日本書紀』の時代設定と矛盾するからといって、これを無視することはできない。
『播磨国風土記』の編者は、貴重な伝承を記録してくれたと思う。「出雲」はなぜ播磨に進出していたのか。そしてアメノヒボコと播磨で戦ったのはなぜか。
続きはソースで
https://www.fsight.jp/mwimgs/b/5/400/img_b5e3facd5a1bdb46efa4a66675692f902237014.jpg
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/11101130/ 日本なんて漢語の国名は廃止してヤマトに戻すべきだな 記紀の記述を裏付けられるのは考古学上のファクトだけですよ >>1
さて、『播磨国風土記』の原本ははるか昔に失われ、現存するのは三条西家に伝来した古写本である。
平安中期ごろのものかといわれ、現在は国宝で天理大学附属天理図書館が所蔵する。
https://web.pref.hyogo.lg.jp/chk12/c_harima/area_00007.html 本州島 九州島 四国島 北海道島
「「「「せやな」」」」 女教師の不倫を知った生徒が「セックスってなんですか」と問い詰める同人誌の最初の4ページだが…どう考えても様子がおかしい
http://kabukiki.ladyfw.com/kp/342324366544354.html アメノヒボコって朝鮮半島から来た神だよね?(たぶん新羅の王子系?) 近畿2府4県で大和国を建国すべき
首都を京都に日本から独立すべき!
この国は所詮 東京国家 >>16
うん
ただ初期新羅も大倭も高句麗の分家みたいなもんだから源氏か平家かくらいの違いしかない >淡路島の「不運な歴史」
最終的には上沼恵美子の所領になるんだもの(・ω・`) ゴサッカイトがかっこええ
なんか鉱物みたいな響きがあるのもいい 出雲から紀伊半島
同じ 紀氏 の領土だろう
紀氏の先祖の真相が資料と違うの
シュメールの引退王が猿田彦
猿田彦の子孫が紀氏 >淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)
は?明治政府が新興宗教、国家神道カルトに基づいて建てました。 邪馬壹国って
素直に読むと
ジャバイ国なんだが
だれもつっこまないよね
「邪」の字はイザナギ、イザナミ共に「ザ」と読むんだから「ヤマト」に寄せたいんだろうが「ヤマタイ」と読むのは不自然 日本。日の本はもともと縄文人の国で東日本にあったんだ。首都は美濃。
ヤマトに倭国との連合政権というか弥生人を取り込んで建国した。その時象徴として
呉の太白の流れをくむ天皇家を担いで弥生人を収めようとした。
日本書紀で最初に淡路島を記述するのはそのためだよ。淡路島が東日本が西日本に
日本建国の一歩だった。
弥生人中心の倭国は出雲北九州の東と南九州四国の西に分かれていたけどね。
天皇家は西の倭国 高千穂から来たんだ。一方日本出雲の連中は抵抗した。
彼らは呉と敵対していた越や楚系の弥生人だったし縄文人も大きな勢力がいて力を持っていたんだよ。 筆者は誰かなぁと思ってたら、やっぱり関裕二さんだった。 四国には最恐の怨霊がおる
京都で祀られてる体になっとるけど 天日槍が新羅から来て播磨を征服したというのはトンデモ説。
関裕二はだから学会からも無視される。 メッカみたいなものがないおかげで戦争やら別国家とし
ての分断や土地の奪い合い宗教戦争的なものがないのかもね >淳仁天皇
しかも現地で殺されてるだろ?
てか、いったん「逃亡した」ってのもウソで
もともと殺害する予定で島送りにさせられたんだろ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
>この年(765年)の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、
>翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、
>実際には殺害されたと推定され、
>葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。 淡路含む出雲政権と関東東海政権が折り合いを付けた場所が奈良だった。
そこに統一政権を構築した。
邪馬台国は九州の話であり、まったく関係ない。 淡路島って神様が近江の国からすくったものが
瀬戸内海に落ちてできたんだよな
すくった穴は琵琶湖になった 弥生時代がBC600年として、その後600年たって倭国大乱だからやはり強烈な気候変動があったかね、米ドロボーレベルの争いじゃないね。 >>35
淳仁天皇の話だけど、仏教勢力の道鏡と神道勢力の藤原氏の
勢力争いが背景にあると思う。 日本最初の詩とされる八雲立つ、が入道雲のような雲を指しているようには思えんな
出雲の民は部族的には雲族だったとして、日本土着はみんなkumなんじゃないかな
熊襲、隼人
熊襲も隼人も南九州か
kum aso
yaでいくつもの、kum
隼人なんて音的には人々的な意味とも取れる気がする
出雲系はスサノオ、オオクニヌシの勢力なわけだろ
そして鉄を独占していたと
なら戦争で負けるはずがないのになぜ負けたのだろう
記事の時代の後にヤマトタケルは騙し討でイズモタケルを殺害したと古事記にはあるようだが同時に熊襲も討伐してる
九州のヤマト王権は後に婚姻関係で大和の国を簒奪しただけなんじゃないかな
同盟関係にはあったのだろうけどさ
どうしてもそんな大勢力には思えない >>21
古代日本には「がぎぐげご」のような濁音がなかったことが確定してる。
その日本人が自国を「じゃばだい」と名乗る可能性はゼロ。
まあ、近畿の西は淡路島までかなあというのは分かる
播磨・但馬は中国地方だと思う
兵庫県になってるからいまは近畿地方に入ってるみたいだけど
正直ピンと来ない >>27
> 邪馬壹国って
> 素直に読むと
> ジャバイ国なんだが
現在の音読みの音で読んでもナンセンスって理解できないのかな?無知蒙昧クン まあでも淡路島がヤマト政権と別勢力だったってのは違和感あるよなあ
そんなに大事な土地だったら必然的に係争地になるはずでなんども支配勢力が替わってたの考えるほうが自然じゃないかと 四国(讃岐、阿波)は天皇家へ神物を奉納したのに、間に挟まれる淡路が別勢力というのはないわ 古事記は割と新しいものだが、すでに淡路や阿波という地名で呼ばれていた
「アワ」とは、日本語五十音の「ア〜ワ」行にも通じるものがあり、「アワ」とは、かつては太陽を意味する言葉でもあった
「アワの国」とは、「太陽の国」でもあり、「淡路」という言葉は「アワへの路」という意味であった。 太古むかしは、中 津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、こ のごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ >>16
うん
祖先はタバナ国(丹波?)の王子かなんかが朝鮮に流されて王になったとか
多分、倭人が朝鮮に移り住んでシラギを建国したんだけど
北方からの侵略を受けて撤退してきたのがアメノヒボコなんだろうと思う
その後、新羅(シンラ)が建国されたんだけど、倭人は新羅をシラギと呼び続けて
シンラ=シラギになったんだろうと思う >>2
「日本」は漢語(古代支那語)の「扶桑」を日本風に翻訳したものだ。
日之本(ひのもと)。
也=日(太陽)出づるところなり。
古典支那語の助辞「所」は名詞の「処」とは用法が異なり
英語の関係代名詞that、whatや関係副詞whereのような機能がある。
「日所出」の場合は(the place) where sun risesの意味だ。
「所作」=what he does/did
現代中国語文法では「結構助詞」(日本の中国語学では「構造助詞」)と称する。
wikiより
扶桑(ふそう、フーサン、英: Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある
巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を
扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となった.
湯谷上有扶桑,十日所浴。——《山海経·海外東経》。
郭璞注:“扶桑,木也。” 郝懿行箋疏:“扶当爲榑。
《説文》云:“榑桑,神木,日所出也。” >>27
素直じゃ無いなw
奈良時代の読み方だと
邪馬【壹】国はザ(ジャ)マイティコクだよ
しかし漢文を読み書きする貴族や僧侶以外の
市井の日本語しか話さない庶民「やまとびと」は
「やまひとつくに」と読んだと思うよ。
だから邪馬【壹】國は間違いで邪馬【臺】國だ。 >>54
>日之本(ひのもと)。
>也=日(太陽)出づるところなり。
日之本(ひのもと)。
日所出=日(太陽)出づるところなり。
と訂正する。 チンギス・ハンが使用したという鏡を使った遠距離間の情報交換
(おそらく卑弥呼が)瀬戸内海でも使っていたのは偶然だろうか? こういうオカルト系の話は読んでて長く感じる
退屈だからか? あと大和のことヤマトっていうのクロネコヤマトみたいだからやめて欲しい… .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 ひみこの漢字ってほんとは違うんじゃなかったっけ
やまたいこくだってほんとは邪なんてつかってないかも >>64
当時の日本には文字が無かった。
中国の官僚がかってに字を当てはめただけなのよん。 >>58
日本と書いてジップンと発音する。
それがジャパンの語源。 蜂須賀本家から攻撃されたんだよな淡路の稲田家は
それで維新後兵庫県になった 2018/11/10
【古代史】「邪馬台国」時代の鉄器生産工房…「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」
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