【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ 関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
でも鉄は一つも出てこない後進国だった >3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、
>インフラが整備された都市だったと考えられている。
>また、関東から九州で作られた土器も出土。
>全国から人が集まってきたことを裏付けている ←コレ
もう答え書いてあるやんw
全国から集まった運送や工事の人足の宿泊施設でしょ
無かったらどこに泊まったのって話
卑弥呼と結びつけるのは安易すぎ 古墳や運河を人海戦術で作る訳だから、地域の住人だけでは賄えない
当然遠方からも呼び寄せることになる
また後の部民となるような技能職の人達も呼び寄せなきゃならない
そうなると常時数百人規模が寝泊まり飲食できる施設が必要なわけで
仮にもインフラ語をるなら、そういったことも考えないとダメだと思う 纒向遺跡は卑弥呼でなく台与の墓って説あったけど
あれはどうなったの? 墓づくりに参加すれば、桃が食えるらしいやで
なんと!あの不老長寿の実が食えるのか?
「行くずら」「いくっぺ」「いくたい」 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
九州じゃ陸行一月はおかしい。
奈良のほうが有力だと思うけど。 漢委奴國王の金印が志賀島から出たのが一番有力な証拠だからなぁ
箸墓説はまだまだ発見しなきゃ足りないよ >>21
北部から南部ならそれぐらいかかるよ
砂利道、岩場、山道、獣道を通らなければいけない まだやるのか
科学ガー考古学ガー東大の現役研究者に九州説はいないんだガーの
偏執偏向纒向ジジイが生きがいになってスレやめられなくなってるのか 倭国は古の倭奴国なり。<旧唐書、倭国伝>
日本国は倭国の別種なり。<旧唐書、日本伝>
倭国 → 不明
日本国 → 畿内(奈良)確定
別種が同じ地域に存在するのは、ちょっとあり得ないことだと思う
大陸の考える倭国、その中心は別のところにあったと見るのが普通 韓国の南部は、魏志倭人伝の時代から日本の領土だ。
竹島を含めて領土を取り返すべきだ。
韓国人が返さないというなら、半島を火の海にすべき。
1人残らず殲滅すべし。 当時はまだ日本は統一されていなかった。
九州北部と出雲、岡山、近畿にも大きな国があった。
卑弥呼は九州をまとめた女帝。
大和朝廷の前身は奈良県中部、しかし卑弥呼はそこにはいなかった。 同じネタで巻向説。近畿もあせってるな。無を有にするのは大変だね。 https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&t=18s
邪馬台国は 球磨郡 にありました
桃のタネが でたからって 邪馬台国?W わらわせるな
魏志倭人伝に 桃のタネの 桃のじもないわ >>34
初代天皇は、カムヤマトイワレヒコで、
紀元前660年に奈良でヤマト国を建国し、現在に至ります。 >>33
吉備地方は絶対無視できないよ。
瀬戸内を抑えるからね。 >>27
煽る訳じゃないが
その時点では
倭国→九州(確定)
日本国→奈良(確定)じゃないの? 倭国は九州と言う真実を叫ぶことが
許されないのが、今の日本の現状
畿内は言論の自由まで奪うんだ 京都や奈良あたりが、日本の源流いうのが、根幹ルールだからな 、陸行一月 (郡からミマナまで)水行十日(ミマナから松浦まで) 卑弥呼はともかく、トヨは豊鍬入姫命で決まりだろ。
トヨっつってんだから。 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族が発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は ニニギのヨシタケタガギ(場所は福岡市西区) 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村江の戦いでの敗戦および唐軍の大宰府進駐などがあり700年まで続いた
1年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがいまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
250年頃スジンはミマナより奈良へ侵略しジンムの末裔を殺戮する
北陸へ半島より渡来した継体は応神五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った簒奪者継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
此の倭国侵略で継体の嘘が露になる 分流の奈良は称号に倭(チクシ)と名乗り倭国の末裔たる事を誇りにしていた しかし継体は半島渡来であり倭国とは何等の関係も無かった
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した >>38
確定できればいいんだけど、全ての資料、証拠に決定力がない
最近は考古学の新発見も滞り気味で退屈だなぁ
論争に意味なんか無いんだよね
★韓国を簡単に滅ぼす方法
韓国は、日本の天皇制のような国家統一のための制度が無いので、いつも国内が分裂して激しく争っています。
普通の国でも思想的な違いで保守と革新がありますが、韓国の保守と革新の違いは、生まれた場所の違いや血脈の違いによるものが大きいので、妥協の余地が乏しく、常にドロドロ血みどろの破壊的なつぶし合いをしています。
韓国では政権が変わるたびに、前政権に対して徹底的な粛正弾圧を行うので、韓国の大統領が政権を手放すと、現在のパククネを見れば分かるとおり、その末期は悲惨です。
そこで、韓国を簡単に滅ぼすには、その時の強い方(政権側)を叩き、弱い方(野党側)を応援してやればいいのです。
特に日本は、韓国の反日を利用できる立場なので、それは実に簡単です。
日本から何らかのメッセージを発して、韓国の強い方(政権側)が親日であるというイメージを作ってやれば、反日ガチガチのアホな韓国人は、強い方(政権側)への批判を高めます。
結果として弱い方(野党側)の勢力が強まり、韓国内の勢力が均衡し、分裂抗争が激化して、韓国全体としては確実に衰退します。韓国の国内問題ですから、日本は高見の見物をしていればいいのです。
国内分裂で使われるパワーは、対外的にはパワーの浪費ですから、およそ国家のパワーとは、「元々のパワー×国家の統一度」で決まります。
国家の統一度を下げてやれば、その国は遠からずして対外弱化して滅びます。
>>42
卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメです。
箸墓が卑弥呼の墓になります。 >>6
俺の一押しはちゃんぽん
カップ麺の方だけど、中国地方は麺だけ 纒向を見れば九州から東海までのみならずらず大陸との交流まであるんだから普通に考えたら邪馬台国だよな
この時代大陸との窓口は1つだから難しい話じゃない >>39
今でも九州説は村おこしの役目を十分に果たしてるよ
畿内は学者がガチガチに固めてるから素人が口を挟むのは憚られてるけど
九州説の方はそんな枠組みが無いから
素人が自由奔放に夢話を論じられる環境が作られてる 巻向は三輪山信仰に基づいて開発された祭祀区画
巻向と並び特筆されるのは三輪山山頂から見て直線に並ぶ唐古・鍵遺跡
ここは祭祀を全国に拡張するための銅鏡を製作配布するための工芸区画でもあった
どちらも三輪山から冬至の太陽を正面から拝めるように位置されている
だが大元は唐古は湖の中の開発地
これらから推測すると、この遺跡の成り立ちは発祥地ではなく別の地域の太陽祭祀の移設と考えられる
因みに橿原は三輪山の夏至の日の出の位置に作られている
当時の都市計画は全て太陽信仰に基づいて計画されていることが解る。
この太陽祭祀の位置関係に近い源流が八女や吉野ヶ里のある筑後平野で確認されている
そこには謎の多い高位の神である高良玉垂命や八女津媛などの伝承が残り、太陽信仰の発祥である痕跡が残る
また高良山麓には規模は小さいものの、日本には珍しい副葬品が豪華で多数殉葬墓である祇園山古墳が存在する
筑後の高良山が太陽祭祀の源流であり、時代が下って三輪山に移設されたと想定すると矛盾が少なく説明できる
伊都国の南東にあったささやかな女王国
だがここから全国に覇権を拡げたとは考えにくい
ひとつの可能性として浮上するのは畿内勢力が太陽信仰を受け入れ、九州の足掛かりとするために女王を傀儡王として擁立し、九州をまとめようとしたということ。
そうすることでこの地がヤマト(邪馬台国)と呼ばれるようになる
魏史が案内されたのはこの土地ではないかと推測する
女王国は滅びたが、奈良の太陽祭祀はトヨにより受け継がれ拠り所として生き残ったという可能性だ >「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、
>桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、
>卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」
おんなじこと思ってたw
何で桃の種の年代と関係あるのかサッパリ分からんかった。
桃太郎が居た証拠かもしれないでしょうに。 >>9
田原本からは赤錆だらけの鉄の容器が出土してるが
>>19
邪馬「台」国は無かった
邪馬「臺」国奈良あった 考古学的にも科学的にも文献学的にも地政学的にも
邪馬台国は畿内で確定 >>21
陳寿も同じ葛藤したのかもな。だから里数じゃなくて日にちにしたのかも。
あと万二千里はとても遠いであって倭国南岸に入ってからの二千には意味がないのかもな。
森浩一の倭人伝に傍国の部分の女王国には「界」があるのかもというのが書いてあったが、
そうなら後漢書の倭の極南界に対応してるのかも。だから最後に奴国があるのかも。 >>53
纒向が卑弥呼の時代だと特定できることが大きいんだよ
この時代大陸との窓口は一つだから邪馬台国連合しか大陸と交流できない
大陸性の遺物と痕跡が残る当時最大規模で最先端の計画都市は邪馬台国と推測できるから >>46
慧眼ですね。「国家のパワーとは、『元々のパワー×国家の統一度』で決まります」
が気に入った。トランプに教えてやりたい。 >>56
不弥国までは里数を含む行程に関するデータがすでに魏にあってそれを使ったとみるのが自然だと思う
投馬国から先はこの時点ではデータはなく、休養やシケがおさまるのを待つ待機時間も含めた日数になってるからざっくりしてる上に方角もズレたと推測する >>53
纒向遺跡の地域で2世紀〜3世紀の倭国大乱〜卑弥呼〜臺代の時代に
桃を食って種を捨てた日本人が居たってことだよ
九州邪馬臺国の倭人は何食ってたんだよ
文献じゃなくて考古学的証拠を出してみろってんだ 複数の機関で同様の結果が出たってのは大きいな
邪馬台国がそのまま大和朝廷になるとみて間違いないんだろう >>59
「不弥=宇美」は支那語の発音と古代日本語の発音の比較により
否定される謬論、捏造だからそのつもりで
理由:古代日本語にha hi hu he hoという発音は無かった。
古代日本語の「はひふへほ」の実際の発音は「パピプペポ」だった。
「上代日本語」で検索
「はひふへほ」は
1) pa pi pu pe po
2) fa fi fu fe fo(1600年頃に日本でイエズス会宣教師が出版した日葡辞書のポルトガル式 日本語ローマ字)
3)ha hi fu he ho(幕末に日本で布教したJ.C.ヘボンの「和英語林集成」という和英辞典のヘボン式ローマ字)
という風に変化した。
だから「不弥」は邪馬臺国時代にはプミPumiという発音だ。
同様に「好古都国」は現在の「博多」ではない。
邪馬臺国時代に「博多」という地名が有ったと仮定すると
HakataではなくPakataと発音していたはずだ。 そうか?歴史探偵ごっこには本能寺の真犯人と一緒っで永遠の遊び道具だろう。
邪馬台国で飯食ってる人には永遠の飯の種じゃないですかね。 >>63
一つしかないってのはそうだと思う
朝鮮半島から対馬壱岐を経由するしかない上に伊都国では一大卒が出入国管理を行なっていて、それらは全部女王国の傘下な訳だから 畿内説の場合
邪馬台国の南に国があって争っていた
その南の国がどこにもないんだよね
これが最大の欠点 >>59
使者としてはとにかく案内について邪馬台国に辿り着くことが最大の任務で距離を測る的な作業はしてないのかもね
不弥国までは本国に帰ってから自国の資料を参考に記して、その先は単純に旅行日数を記録したと 前方後円墳は、円墳部分のみが墓。
前方部は陸橋(祭祀スペース)が進化したもの。
やはり箸墓が卑弥呼の墓である可能性が高い。
https://i.imgur.com/dmUorAj.png
https://i.imgur.com/WgmofEq.jpg >>67
倭人伝の行程をそのまま解釈すると、沖縄あたりの太平洋にドボン
だから、方角が正しいのか、日数が正しいのかわからないというのが、
邪馬台国論争の基本中の基本のはずだが あたりまえのヒメミコでいいじゃん 卑弥呼なんて言うなよ 日本人なのに いつから卑弥呼なんて言い出したんだ 向こうが言っているだけでこっちは古事記、日本書紀にはそんな名前出ていない
姫のミコでいいんじゃない >>73
正直、古事記と日本書紀は、白村江の戦いに敗れてから書かれたもので
中国からの影響は少なかったことにしてる捏造した歴史 >>67
吉野熊野国立公園を知らないのかwww
神武東征の際神武一味が奈良侵略の前哨戦で生駒山の西山麓の孔舎衙(=日下kusaka)で
饒速日nigipayapiの義理の弟である長髄彦Nagasunepikoの激しい抵抗に遭い
神武の長男の五瀬が重傷を負い結局死んでしまったので
紀州の熊野から大和の宇陀(桜井市の東、纏向の東南東)へ入り
纏向古墳に埋葬された卑弥呼、トヨに繋がる王族を滅ぼした。
室町時代の南北朝時代に後醍醐天皇は奈良県吉野町大字吉野山に行宮を構えて足利尊氏の立てた
北朝と対峙した。
壬申の乱では大海人皇子が吉野に下向した。
紀州の熊野や大和の吉野はそういう土地柄だ。
ちなみに人麿の「東野炎立所見而反見為者月西渡=東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり魅すれば月傾きぬ」と詠んだのは
奈良県宇陀市(旧大宇陀町)阿騎野。
この地で宮中の年中行事として男性は猟をし、女性は薬草を摘んだ。
持統6年(692)の旧暦11月17日の夜明け前の情景を人麿が詠んだものだ。
第47回かぎろひを観る会(2018年12月23日(平成最後の天皇誕生日)午前4時 )
(h)ttp://yamatoji.nara-kankou.or.jp/02nature/07park/03east_area/kagirohinokamanyokoen/event/paavh2xm0c/ 陳寿の脳内倭国地図をグーグルマップで補完するのはむなしいような気がする。 桃の種がヒミコと繋がる根拠が判らない。桃なんてどこでも生えてるだろ
実は卑弥呼が桃太郎とか言う落ち >>77
捨てられた桃の種の年代が
西暦135〜230年頃のものだから
纏向は卑弥呼〜臺與(豊)の時代の遺跡だということさ
桃は何処にでも生えてるが卑弥呼の時代の桃は
何処にでも有るものではない。
そのことが解らないのが九州派 ゲルマン人の歴史でいうと
奈良=パリ
北部九州=ウィーン
みたいな感じなんじゃないかな。
ウィーンのほうがローマに近いから文化的には先進的だったのと同じで >>78
桃は縄文時代から入ってきたものだから、当時でも珍しいものではないだろう。
卑弥呼の桃は特別だなんて何を根拠に言ってるの?
畿内説は共通して想像を断定的に表現する人が多いんだが、一体誰から教わったんだ? >>56
百里以下は実際の距離だろうけど、百里以上は遠いという意味合いの表現で使うのが一般的だったんじゃないの?
だから、物凄く遠いという表現で使ったと見るべき。 タネ残すなんて昔の人は贅沢だな。
俺は割ってから中身まで食うけどな。 いろいろ読み聞きしたうえで考えてみると
やっぱり畿内かなぁと思うけど
神功皇后なのか崇神天皇あたりの皇女なのか 女王国の境界はどこだと思う?
自女王國以北〜次有奴国
女王国以北に奴国がある。
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
女王国の東の海を渡り千余里でまた国があり、皆倭種である。
又有侏儒國在其南
またその南に侏儒国がある。 考えるほど記紀が正しいなと思ってくる。
だから紀元前660年というのもあながちウソではないのかもしれないな。
中国は春秋戦国時代でそのあたりから流れてきたひとが奈良に迎え入れられた
としても不自然ではないかな。 昔は日本列島が東西ではなくて南北よりの姿をしていると
考えられていたんだとすると、奴国は北端になるよね。
伊勢湾から東というと毛野国とか関東にも国があったみたいだし、
侏儒国とかは沖縄方面じゃないか。 >>84
東海から九州北部にかけては交流の形跡が見えるから、その外側ということになるんだろうね 侏儒国や裸国や歯黒国は淮南子や山海経などの古典に書いてあったから書き添えただけで
どこという確信があったわけじゃないと思う。
中華の礼が廃れたときに、礼の痕跡を東夷に探しに行けるように
時代を超えて集められる情報をひとまとめにしただけではないでしょうか。 >>87
交流ではなく交易はあったかもな。
という程度の痕跡だ。 中国に朝貢してたような邪馬台国なんぞ
どうでもいいだろう。 >>89
それは君の感想だろ
考古学者はそうはみていない >>91
はいはい、いつもの畿内珍理教の教徒さんだね。
考古学者と話をしたことあるか? 仕方ないから貼ったおくか。
考古学の成果
https://imgur.com/Q73cCd7
ちなみに何でも後期ほど大きくなるのは世の常。
銅鐸もそうだったが、前方後円墳もしかり。
箸墓は4〜5世紀の間違いであり、また前方後円墳は奈良発祥ではない。
むしろ前方後[方]墳がデカくなっているあたり、東海、伊勢の影響の方が強いと思われる。 >>94
ありがとう
これ見たら邪馬台国は奈良で決定だね
九州説残念w >>80
卑弥呼の桃じゃなくて
卑弥呼の時代の桃の種子 >>94
福岡が女王国の一部で纒向勢力の傘下なのに何が言いたいのかわからん 大陸から海を渡ってきたひとたちだから
すごい航海術をもってそう。
だからそう考えると日本列島なんか余裕で1周とかしてそうだし
へたしたらアメリカ大陸にも行ってただろうな >>94
紀元前に遡って弥生時代の累計で比較して何の意味があるの?
西暦300年ってどういう基準?
とっくに古墳時代なんだけど、まさか30年前の年代観で区切ってないよな?
箸墓が4〜5世紀とかいう珍説のソースは?
前方後円墳は奈良発祥ではないという珍説のソースは?
元ソースから恣意的引用、改ざんもどきの引用をして、素人が書いてるWikipediaとか論外だから、学術的ソースで頼む >>94
京都、大阪、兵庫、岡山を合わせると
福岡より多いな
卑弥呼、臺與の時代は平和な時代だから鉄鏃、鉄剣、鉄刀のような
武器が少ないのは奈良が平和な時代だったことの証拠とも言える。 いずれにせよ、卑弥呼が女王になったのは2世紀だからな。
173年に女王として半島を訪問しているんだから。
それに決して平和ではなかったはずだよな。
まさに卑弥呼の時代に狗奴国と戦争が勃発してるんだから。
また卑弥呼の亡くなった後にもまた倭国は荒れている。
つまり奈良の平和さ云々は倭国とは無関係だった事の現れということだ。 >>100
前方後円墳は前方後方墳より新しい形式だよな。
西山古墳を4世紀とした正常な考古学者が箸墓を3世紀だと判断するわけないよな?
正常ならな。 >>103
はぐらかすなよ
意味不明な資料を提示して、畿内説を否定しようとしてるんだから、その論理を答えてくれ
教科書レベルの通説を否定して、珍説を唱えてるのだから、ソースを出してくれ >>102
狗奴国と戦争っても所詮女王国に恭順しない勢力の討伐というレベルだろうからな
都が危機に陥ることはないだろう
あれだけ圧倒的な都市でありながら纒向から武器が出土しないのが何よりの証 倭姫が元伊勢にそって神社を移動させていたのは
こういうふうに解釈できると思う。
台与が卑弥呼の神通力を各国に伝えるためだったんじゃないだろうか。 >3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)
>(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され
まさに元伊勢の範囲だよね。 垂仁天皇のときに起きたサオビコの乱のサオビコは甲斐の国造の祖
らしい。甲斐とか飛騨とかあっちのほうが狗奴国だったのでは。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています