【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★9
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1539843173/ >>744
これらが実在したという立場の人の本にはヤマト(倭)という地名が名に入ってるのは
まだ規模が小さく、ヤマト地方の地方政権の君主にすぎなかったためとしていたな。 ニニギを案内したのが国つ神サルダヒコでクナト大神の子
クナト大神が縄文系の最高神じゃないかな。
だから北部九州の一派を南部九州に招き入れたのがサルダヒコ。
モモソ姫は天皇家のひとで話に大物主が出てくるのは、旧勢力がくすぶっているから。 >>766
記紀が書かれた天武天皇時代に日本と名乗って、中国式の法整備をしたりしたけど
あの頃の改革は日本国も中国と対等な立場の大帝国だと認めてもらうための努力してるよな。
よくいう天皇中心の国づくりというのもそれまでの有力豪族の連合政権から
中国は皇帝をトップに高級官僚である貴族と制度化されているように日本もそうしたわけで。 福岡市早良区西新に猿田彦(字は当て字)神社があります 此処が墓とおもっています
年一回のお祭りは大賑わいです
縄文文明の人で最初は住民を纏めてニニギへ対抗したのではないかと考えます
いきなり降参では其の後2000年も地元民の尊崇は得られないでしょう 倭国イワイが律令制をつくり700年以降奈良が模倣した >>737
狗奴は字の通りで先祖が犬と自称してた民族
中国南方にも似たようなのがいる
奴は人の蔑称
というかいまだに縄文人とかいう創作を追ってる人がいるのか >>767
奈良盆地で周囲は敵ばかり 神武の末裔は九州倭国の後ろ盾を必要として 大倭 若倭の称号を拝受した >>766
戦後の学者が、戦中の皇国史観を払拭しようと、記紀は創作だという前提で言い出したもの。
実在の証拠が無ければ、全て架空というわけだ。
一見、科学的姿勢のように見えるが、
神武=崇神とかのたまう学者はただのバカ東遷説。 記紀は700年以降テンムが倭国の日本旧記を基にして倭国の歴史を奈良の歴史として盗用し書かれた >>765
いや、国内向けだろうなぁ
そうでなければ天孫降臨が
179万年前とか言う数字は恥ずかしくて書けない
(もちろん、信じてる人には申し訳ないが)
そもそも、そんなに歴史が古いのに
「なんで、あんたら独自の文字も無いの?」って
突っ込みいれられてしまう
ぶっちゃけ、記紀って
突っ込みいれないような
あまり頭のよくない国内層に向けて
作られたもんだよ
というか、皇紀2000年の歴史を信じてる人は
ちゃんと179万年前の天孫降臨も信じてあげて欲しい
(「途方もない数字でありえない」って点では同じなんだから。
むしろ179万年前の数字は、はっきり宗教だと
わかりやすいんで、かえって害がない) >>764
http://www.book-seishindo.jp/kana/onjun_2.html
↑のいくつかでも、変体仮名を見てみればわかるけど
いろんな漢字から、仮名を作り出してる訳だ
ひとつの単語に、
何個も別の漢字からの仮名がある
黄表紙本なんてのは、(漢字は簡単なモノしかなく)
ほとんどの文が仮名で書かれてるけど
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_01961/he13_01961_0032/he13_01961_0032_p0014.jpg
ひらがな・カタカナ・変体仮名(複数)の表記が
混ざり合ってて、本当に読みにくい!
これだけ不便でも、個々の仮名は漢字由来な訳だ
もし、神代文字なんてものがあったら
仮名にひとつも採用されてないのは不自然だし
そもそも、神代文字があるとしたら
それは(おそらく表音文字で)、最初から仮名に当たるものだろう
こんな面倒くさい漢字由来の仮名を
使わないといけなかった必然性が無くなる
(どんだけ仮名を覚えないといけないのかと、
崩し字にすると紛らわしい仮名がいっぱいある)
ようは、日本に漢字が入ってくる以前は
「まったく文字が無かった」と考えるのが一番、妥当だ まだやってるのかw、宇佐八幡宮神託事件があるので九州に確定は揺るがないのにな もちろん、漢字が入ってくる前に
文字が無かったって事は……
ある時代以前からは、
まったく記録が無かったと言っていい
記紀の古い時代の資料は
完全な創作物だよ
(記紀にあるこの人物が、倭人伝の
この人物だろう……とか推定するのは
滑稽な話だよ。司馬遼太郎の坂本龍馬や
吉川英治の宮本武蔵を参考に
歴史の史実像を推測すようなもんだ)
皇紀2000年ってのも、天孫降臨179万年と
同じように、鼻で笑うようなもんなのさ
宗教家の国士さまだけが信じてれば良いような設定だよ 狗奴国のなかで正式な男王は熊襲の王で
その王から男王を奪ったのがヤマトタケルなんじゃないだろうか。
だからタケルというのが狗奴国の王の名前で
ヤマトタケルの子の仲哀天皇が北部九州を攻めてっていう流れじゃないかな。 実はおれはギリシャのひとたちは地球は丸いってことを知ってた
と思ってる。なぜかというと、ローマの政治家のキケロが地球と
表現してたみたいだから。
じゃあガリレオガリレイとは一体なんだったのかっていう話で。 >>780
文字がないから、記録がない、完全な創作は、論理飛躍。
稗田阿礼につらなる口伝での記録集団は、どのような論理で否定しているの? 漢との交際があれば漢字はあります
それ以前の記録はお話として残っていました
因幡の白兎など出雲神話や他の部族の神話
57年の倭国の金印も漢字をしっているからこそ有難く貰いました >>780
日韓併合まで文字のなかった朝鮮を馬鹿にしているのですか
ヘイトスピーチですよ >>783
つらなるも何も、古事記では稗田阿礼と言う舎人が
特殊能力を持っていたと紹介されてるのであって
別に何代にも渡って同じ能力を持つ技能集団が
伝えて来たとは書かれてないんだが?
そもそも帝記や旧辞と言う書が
諸家に既にあったとあるんだから
稗田阿礼が覚えさせられたのも
そういった文字資料や
あるいは、発音についてなどだろう
>目に度れば、口に誦み
とも在る。
そもそも、そういう口伝集団が
正確に伝えられてきたのなら
古事記なんて必要ないんだが
むしろ、諸家の文字資料ですら
記述が変わってきてしまってると
嘆いているわけだ
正直、SFの話がしたいなら他所でやってください
>>786
デタラメすぎて、なにを
どう勘違いしてるのかわからない >>787
そういう集団がいるいないは別にして、口伝での伝承は民族学的には山ほどあるけど。
文字がない=それより前は完全な創作
これは論理飛躍やないかな。
記録がないから創作やないことを証明できないだけ。
証明できない=全て創作
って。
そういいながら、皇紀とか、荒唐無稽なことまで事実といっているわけではなく、
※ここまで事実といってる人は確かにおかしい う〜ん、まあ、そこらは見解の違いってところで……
ちょっと上で自分も書き方が悪かったかなぁっと反省してたところ
ギスギスはしたくない >>789
こちらこそ、ごめんなさい。
よろしくお願いします。 >>756
でもそれ言い出すと狗邪韓から対馬、対馬から壱岐は短里じゃないと説明できんやろ? >>782
地球が丸いって知ってた民族は多いらしいぞ
特に船乗りとかは認識してたとか
中国はじめ東アジアは違うけどさ >>697
前も書いているが、考古学的には出土した遺跡の時期でしか事実は測れない
実質、その時代に出土しなければその地域には無かった、としか言えないのだよ
入手した鏡全てが伝世した、というのはさらにあり得ないからね
鏡は移動可能な品物だから、別の地域から古い鏡を手に入れた可能性もある
"手ずれ"に関しても最近は否定されているし
その第7期とやらの鏡はどの時代の遺跡から出土しているのか?が問題なのだよ
そして、平原遺跡の鏡が日本製だとしたら、その後の遺跡の出土であれば、日本製を疑わなくてはならない。
しかし、その明確な判断がつかないまま論じてしまっている
そして一つ、その中国鏡の編年は魏の地域で出土した鏡で作成されていない
魏との交流を示すのなら、魏の地域の鏡の編年史で表すべきなんだがね 皇紀がどうとか言ってるけど、
皇紀って本居宣長が言い出したんじゃ無かったっけ
古事記を正として文章を読むと
干支とかから、そう算出されるってだけやろ?
信じる信じないとかじゃなくて、どっちかと言うと
記紀を正として科学的に解明した年だと思ってたんだけど
(結論としては記紀に誤り、又は虚偽が含まれる) >>793
全くの初心者で申し訳無いが
九州に新しい鏡が見つからない理由が
ぱっと思いつかない。
交易くらいしてただろうに。
どんな解釈があり得るのだろう? >>795
鏡にはあまり興味無かったんじゃないの? >>796
そんな理由で議論が白熱してたら
ちょっと脱力( ̄◇ ̄;) >>794
天地明察の渋川さんやなかったっけ。
渋川さんやったとしても、貴方の本旨にはなんの関係もないが >>795
個人的には、新しい鏡がない、というより、地域で入手する鏡の種類に偏りがみられる、と思うね
三角や画文は入手ルートが違うかも?と感じる
三角は入手というより独自進化だろうがね
いまだに国産と中国産、楽浪産等がはっきりしないのがネック
中国産でもどこの地域から入手したかも重要だが、整理がまだついてない様に感じるね >>703
与太話はお前だよw
反論にもなっていない苦し言い訳ばかりが並んでいるw
>・九州を含めて日本の歴史年表は3世紀以降すべて100年後ろにずれる
ずれるのは位至三公鏡より新しい鏡が出土したのに3世紀以前を主張している場所だけ
つまり三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出たのに邪馬台国だと捏造する畿内だけw
>・3世紀後半から4世紀までの「空白の150年間」に日本と中国は活発に交易をした
空白の150年間なんてものはお前の妄想の中にしか存在しない
晋書に「其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶」と書かれており、倭国からの使者は絶えなかったってさw
>・位至三公鏡より後に編年されている「10種の魏晋鏡」とやらももちろん100年後ろにずれる
具体的にどの鏡のことかね?w
>・帯方郡や楽浪郡から来た人は飯を食わなかった
倭国で飯を食うのに倭国の土器じゃ駄目な理由を述べよw >>708
>伝世鏡だという「ことにしても」、該当時期の鏡が直接畿内に届いていたことは確実
>この時期の鏡の入手経路は畿内直結なんだよ
ほらほらまた嘘をつくw
伝世鏡というのはいつ誰が何処で手に入れたか不明な物だぞ
九州との交易で手に入れた可能性がある以上、直接届いたとする証拠はゼロだ
むしろ該当時期の鏡が北部九州を中心に分布している以上、入手経路は北部九州経由と考えるのが妥当
実際、国産の三角縁神獣鏡やらが数十枚も出土した中で、該当時期の鏡は少ない
九州の卑弥呼が魏に言われた通りに配った鏡だと言われても否定できる証拠は存在しない >>795
新しい鏡、というのが4世紀以降の鏡という意味なら、東遷をその理由として考えることができる
それより前の邪馬台国時代の鏡は北部九州が分布の中心なので、交易していたのは北部九州だと分かる
魏鏡の形式が後漢から大して進歩していない理由なら中国側の研究者が下記のように述べている
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。
> このことについて、中国の考古学者、徐苹芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)
> という文章のなかで、つぎのようにのべている。
> 「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では
> 銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、
> 新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけて
> さらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、
> 金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の
> 『魏武帝の雑物を上(のぼす)すの疏(そ)』(安本註。ここは『上(たてまつ)る疏(そ)』と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に
> ”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、
> 位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、
> すべて鉄鏡が副葬されていました。
> 銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
つまり魏には苦肉の策で鉄を材料にしなければならなかったほどに銅が不足していたから銅鏡の作成も停滞していた訳だね
模様に多少変化があったくらいで、後漢と魏の鏡に大して違いが見られないのはこのため 九州で出土する鏡が割られているのが多いのも気になる点
伝世を恐れたのか、外の勢力に否定されたのか
太陽祭祀の考え方に直結するんだと思うけど 鏡に関しては突飛な妄想書いておけば、権力者の肖像画の代わりをしたのかも。
日本の葬祭儀礼は天岩戸神話を雛型にしてるのかもね。 葬祭については精霊流しなどの風習が書かれているじゃまいか。
何を根拠に太陽祭祀だのと想像してるんだ? 常識のように「太陽祭祀」という言葉が踊ってるけど、
太陽祭祀があった証拠などどこにもない。 >>775
>記紀は700年以降テンムが倭国の日本旧記を基にして倭国の歴史を奈良の歴史として盗用し書かれた
倭国なのに日本旧記なの?
「倭旧記」でなければおかしくないか? 倭国なんだろ?ww >>791
>でもそれ言い出すと狗邪韓から対馬、対馬から壱岐は短里じゃないと説明できんやろ?
その部分(渡海)は簡単
海上距離は測りようがないから、1日で漕ぎ渡れる距離を一律で「遠い距離」を
示す符丁の「千里」としてあるだけ
壱岐ー九州本土間は、明らかに対馬ー壱岐間より狭い(約半分しかない)のを、
同じ距離としていることからも、実測値ではないことは明らかだし、実測値ではないものを
短里の根拠とするのは無意味
何の根拠にもならない >>801
>九州との交易で手に入れた可能性がある以上、直接届いたとする証拠はゼロだ
その「可能性」を前提とした場合、桜井茶臼山の鏡群に相当するものが「九州にはない」ことが
説明できないんだよ
移動の可能性はあるが、本拠地が九州なのに「根こそぎ全量畿内に移動」する理由がない
結局、畿内の鏡は畿内が直接入手していたと考えるのが妥当ということにしかならない
九州説は証明不能な「可能性」で反論した気になるが、論理性がないからすぐに破綻する >>802
>東遷をその理由として考えることができる
東遷を妥当とする考古学的な根拠が一切ない
また、東遷後の九州の跡地には、何があるというのか?
結局、東遷説は成立の余地がないということで決着している >>809
明快ですね。
昨日初めてココ見ましたが
未だに東遷説いうひとがいてびっくり 庄内式土器が九州発祥とか言ってるのも安本だけだしな。
いくら研究が進んでも、安本のヨタ話に追随する研究者など誰もいなかった。
東遷説など、その程度。 畿内説への質問。
箸墓古墳に101人埋葬されている可能性について説明してくれ。 記紀の編纂者自体は悪気はなく当時伝わっていた記録、伝承を素直に記しただけだとは思ってるけど、なにぶん古すぎてフィクションと事実の境目がハッキリしないからねぇ
纒向の人工水路跡が磯城瑞籬宮では?とか稲荷山鉄剣のオホヒコは大彦命実在の証では?みたいに何か根拠があれば考える価値はあると思うけど
現状、東遷とかただの神話と考えておかないと迷うだけでしょ >>793
>その第7期とやらの鏡はどの時代の遺跡から出土しているのか?が問題なのだよ
畿内の例だと
ホケノ山古墳(3世紀中頃) 画文帯神獣鏡
黒塚古墳(3世紀後半) 画文帯神獣鏡
つまり、魏の時代の鏡が卑弥呼の時代の遺跡あるいは台与の時代の遺跡から出土している
九州では何がある? >>815
記紀神話に「東遷」など出てきません。
勘違いしないように。 いろんな意見ザーッと読んでみたが、
・邪馬台国(ヤマト国)は阿蘇のある熊本
・南の対立国ってのは宮崎か鹿児島辺り
・後に東遷して大和盆地で朝廷を開いた
これが一番無理がないよな まとめ
西暦57年 倭の奴国(筑紫)の王が金印「漢委奴国王」を授かる。(支配地域は九州北部から朝鮮半島南部まで)『後漢書』
西暦107年 倭国王師升等(歴史書に登場する初の倭国王)が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
西暦107〜187年 70-80年間、倭国で男性の王の時代が続いた。『三国志』
西暦178〜184年 倭国大乱 『梁書』
西暦181年 ニュージーランドの超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。『新羅本記』
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって「漢委奴国王印」の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。(ここまでの間に首都が筑紫から大和に移った。)
西暦238年 卑弥呼が魏から金印「親魏倭王」を授かる。『三国志』
西暦247年頃 卑弥呼が亡くなった。『三国志』 >>800
>ずれるのは位至三公鏡より新しい鏡が出土したのに3世紀以前を主張している場所だけ
>つまり三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出たのに邪馬台国だと捏造する畿内だけw
筋の通らない屁理屈
邪馬台国の怪が得意の「畿内と九州の間には時空の歪みが生じてて100年のズレがある論」をここでも展開するのか?www
>空白の150年間なんてものはお前の妄想の中にしか存在しない
>晋書に「其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶」と書かれており、倭国からの使者は絶えなかったってさw
魏志では中国から日本列島に役人が訪れたと書かれているが、晋書にはそんなこと書いてないが?
3世紀後半以降、日本での楽浪土器の出土が減ったのは、帯方郡や楽浪郡からの人の往来が減ったということだ
実際、空白の150年は中国鏡から倭鏡へシフトした時期であり、中国鏡が大量に入ってきたとか妄想はやめろ
>具体的にどの鏡のことかね?w
全部だよ
そもそもおまえらが具体的な鏡を示してないが、理論上は全部
自分の発言に責任を持て
位至三公鏡は漢鏡6期か7期に編年されていて、早いもので弥生時代の遺跡から出土する
ところが邪馬台国の怪の言い分だと、出土するのは西暦300年頃のはずだとしてるわけだ
漢鏡6期がずれれば、自動的に7期以降も全部スライドするというのがおまえらの言い分
そうすると、九州で出土すると言い張ってる「10種の魏晋鏡」とやらも4世紀の鏡になるんだよwwwww
畿内説にイチャモンつけるために、位至三公鏡が西晋時代の鏡だと与太話を作ったが
自分のところにどういう影響があるかも考えてなかったから、ブーメランくらう間抜けな事態になるんだよwww
与太話はデタラメだということ
オワリ 一般人は「いろんな意見ザーッと読むことしかしない」から、
九州説がいつまでたってももてはやされるわけです。
これは、仕方の無いことですが、物証をつきつけつつ、
九州説を潰していくしかありません。 >>816
殉葬者はどこなんだ?
文献ガン無視かよ? そもそも埋葬時には神獣鏡を副葬したなどという記述も無い。 記紀神話と魏志倭人伝を都合よく結びつけ、
「天照大神は卑弥呼だ。」
「神武東征は、邪馬台国東遷だ。」
と、単純に結びつけて、古代史ロマンを刺激して生まれたのが東遷説。
歴史小説として空想と現実の区別がつかない一般人には、売れたかもしれない。
が、学術的根拠はまるでない。 >>802
>邪馬台国時代の鏡は北部九州が分布の中心なので、交易していたのは北部九州だと分かる
これ言い張ってるだけで、ソースはなかったよな
福岡県で5、6枚出土したデータをもっともらしく載せてたけど(おそらくほとんどが後漢鏡)
徐州の銅山云々について
九州説を唱えるときには、10種の魏晋鏡が九州から多く出土すると主張し、
畿内説を否定するときは、魏は銅山を使えなかった、つまり魏は銅鏡を作れなかったと主張する
見事な2枚舌wwwwwwwwww
魏は銅鏡を作れたのか、作れなかったのか、どっちなんだよ?www 現実は、どうか?
魏志倭人伝の卑弥呼は、「鬼道」のマツリゴトをしてたのであって、太陽信仰とは関係ない。
神武東征は、紀元前660年。
邪馬台国東遷説のために、神武と崇神を同一だとし、欠史八代は架空だとしなければならない。
しかし、欠史八代を架空だとすると、物証の伴うオオヒコやヤマトトトヒモモソヒメも架空だとしなければならない。
よって、東遷説は破綻する。 どうやら邪馬台国は畿内っぽい
でも、おいら九州好きだし
こんなアナタには東遷説がオススメ。
っていう、通販レベルの説ですわ これは奈良に関する記述だと感じさせる部分ってどこなの?
何を根拠に機内説を論じているのか、まずそこを明確にしろよ。 なぜ、九州説は、卑弥呼の墓を特定できないのか?
九州説論j者は、みな、「ボクの考えた最強の九州説」を唱えているため、
同じ九州説でも、他人の論を引用したりしない。
もしくは、引用できるレベルの九州説が存在しない。
だから、各人がそれぞれ、邪馬台国は、ここだあそこだとやってるので、
何十年たっても九州説は一本化できない。烏合の衆というわけだ。 >>833
祇園山でマッチ。
いいから大量の遺骨が埋まってる墓を畿内も出せよ。
箸墓に100人ぐらい埋まってると主張する気か?
www 仮説にするのも強引なゴッドハンドが必要となる畿内説www
たまたま堀当てたものを強引に邪馬台国の年代に合わせたがる能無し考古学者www
都合の悪い文献は一切無視www
輪鐙が出土するが馬はいなかったと主張する畿内説www
突っ込みどころ満載のゴミ論文が命綱の畿内説www
他の遺跡の編年まで狂わすゴッドハンド満載の畿内説支持者どもwww
天理教に続き桜井の畿内説珍理教爆誕www
奈良県民が異常なのか? >>737
クナ国が熊襲だとする説もあるけど
ヤマトタケルが討伐した熊襲はれっきとした南九州の独立国だよね? >>864
祇園山古墳が卑弥呼の墓ということ?
だったら、はじめからそう言えばいいじゃん。 >>837
比定されていたことすら知らないレベルかよ?
気安くレスつけんな。 田んぼしかない奈良盆地と違って九州北部は開発されとるからな、、気楽に穴掘りできて良いよな畿内説はw >>838
というか、殉葬以外になんの決め手もないじゃん。 >>815
流石に日本書紀にはバイアスかかっててるのかなー
とか素人考えで思ってたけど…
だって勝者が書いた歴史だし >>840
研究者はともかく奈良の人はその凄さに気づいてない
掘ったら遺跡が出る、当たり前やんって考え >>832
東遷後何らかの理由で、巨大古墳を作るのと同等の情熱を卑弥呼の墓を痕跡も残さずに消すことに注いだのかもしれんw 纏向が画期的な遺跡だということは認めるよ。しかし、邪馬台国であり卑弥呼の墓と断定するには決め手がないでしょ? >>841
文献に記述のあるものとして比定しているわけ。
吉野ヶ里などもそれらを網羅しているよな。
警備不十分な纒向遺跡を邪馬台国と言ってみたり、殉葬形跡の見られない且つ100歩を超える箸墓古墳を卑弥呼の墓だと言ってみたり。
畿内説の考古学者は根本的に文盲かバカか詐欺なんだよ。
金もらえるから。 3〜4世紀の九州は衰退の一途だからしかたない。
墓も無いし。 >>818
>後に東遷して大和盆地で朝廷を開いた
既に卑弥呼の時代に奈良盆地に纏向遺跡を作れるだけの勢力の結集が見られるから
「後に東遷」する時間的な余裕がまったくないんだよ
>これが一番無理がないよな
なので、東遷説は端っから無理 >>828
>棺有槨無についてもガン無視の機内説かw
「有棺無槨」くらいきちんと引用しなよ
棺は遺体を納める構造
槨は棺を納める構造物を指す
より具体的には、のちに新たな棺を追葬できるような、人が出入りできる空間を
作る構造が槨なんだよ
なので、合掌型の石積みの「石槨」のようなものは、古代中国人から
槨と認識される可能性はない
畿内の墓制はそのまま「有棺無槨」でよい >>850
纒向の出土品からすると、その勢力とやらが東海-伊勢である可能性大なわけだが? >>851
ほら来た想像確定論w
>古代中国人から槨と認識される可能性はない
そう言い切るための具材を提示して発言しろよ。 >>834
>祇園山でマッチ。
そう言い張る九州説の人は多いけれど、祇園山古墳は吹き石を持ち二段築成の
定形化後の方墳
周りにあるのは土坑墓や甕棺墓で、古墳時代とは100年単位で時代が離れている
実際、祇園山古墳の基壇を地山成形で作るときに、
「一部の甕棺の上部を削ってしまっている」
本体を作る前に殉葬墓の甕棺墓を埋めて、本体を作るときにそれを壊す、
なんてのは、時系列としておかしいだろ?
筑紫野市の原口古墳でも、墳丘の下から甕棺墓が出ているが、これも殉葬ではなく
古い時代の墓を無視して(知らずに?)その上に墳丘を積んでしまったものと
考えられている
祇園山古墳も、古い墓域に古墳を新たに作っただけ
位置的に近いだけで時間的にはかけ離れているし、殉葬でもなんでもない
こんなのにすがるしかないんだから、九州説は大変だ
どうやっても径百歩にならないしな 別にどっちでもいいだろ
九州なら地方勢力、奈良ならのちの政権に繋がる勢力ってだけの話じゃないのか?
観光的にメリットが出てくるとかか? >>852
東海から伊勢の勢力が大陸と交流までしてたんか?
どういうルートで? >>856
そう言い張っている畿内説に聞いてくれ。 >>854
九州には文献で示された殉葬の形成が多数あるって事だな。
で、畿内の殉葬痕跡は?w >>857
そんなこと言ってる畿内説はいないぞ
関東から九州の北部(中部を含む場合もある)が邪馬台国の傘下 >>857
纒向には大陸との交流の形跡があるが、それが東海伊勢の勢力というならどういうルートで大陸に渡った?と聞いている 日本書紀スジン紀
六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南
任那は筑紫国を去る事2千余里北海をヘ阻てて雞林(新羅)の西南に在り
2000里は140Km 一里75m 日本書紀も書き写すときうっかり短里で書きました >>860
大陸との交流の形跡が見られないというのが纒向の調査結果なんだが? >>829
福岡県春日市スクオカモトです クマノ神社がそうかもと思います >>865
殉葬は九州ならあちこちで見られるよね。
ちなみに樹齢2000年ほどのクスノキがある神社ってあったっけ?
魏志倭人伝で強調されてる植生だからこれもポイントになるはずだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています