【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★6
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1536582943/ では纏向とは何だったんだろう
当時としては大きな墓、東海吉備九州出雲から集まった土器、建物の跡はあるが居住跡は無し >>122
農地開拓を試みたが他に良い場所を見つけたので移ったとか。
奈良の地形だともっと北部の方が住みやすいと思うんだけど。 >>122
年代に誤りがあるんだろ
もしくはねつ造か こいつみたいなバカが吠えてるだけなのにいつまで続けるの?
31 ニュースソース検討中@自治議論スレ 2018/09/18(火) 23:34:38.36 ID:Rm2wqTBY
プロの研究者の間では畿内説で決着している
だから、日本史の教科書にも徐々に反映されてきているわけだ
九州説なんかにいまだにしがみついているのは専門知識のない素人だけ >>126
九州説はぐうの音も出ないって認めてるようなもんだな
悔しいのう悔しいのう >>126
今の時代で情弱な人はもう救えないから放置するしかないね。 発掘したのは種だが、食べずに奉納した可能性もあるわけだ
食べて捨てたのと奉納したとでは、その場所の重要性が180度変わる 卑弥呼が関連してないなら、食べたにしろ奉納したにしろあまり重要性は無いかな、農家の食料の残りカスかお供え物 >>128
本当にそう。九州説なんて20年前に終わってるのにw >>126
見苦しいやつ
九州説が正しいと主張したいなら、証拠を示せばいいだけなのに >>129
1ヶ所から大量に出てきたと書いてあった。
穴掘ってそこに食いカスを捨てていたのか、単に保管しておいたものなのかって感じだが。 >>18
吉野ヶ里は唐古鍵と面積で似たり寄ったり
これと言った特色がない
>>20
倭國もキングダム、もといイムペリアル >>88
台与(イヨ)はまだ16だから。
邪馬台国(ヤマイコク)はなかったby古田武彦
邪馬臺國ならあった。 >>120
《集韻》という勅撰の韻書みよると
【靡】眉波切,音摩。
【眉】は眉間のミで頭子音のm
【波】は波紋のはで古代はパpaという発音だった
反切というのは
反切上字の頭子音と
反切下字の頭子音以外の母音と末尾子音を合体させて読む発音の表示方法
《集韻》に従えばmaと読める。 >>137
マと読むのかどうかで1000文字ぐらい費やしそうな勢いだなw
事あるごとに的から遠ざかる畿内説信者w
考えるべきことは、何故この補足説明が必要なのかという事だろ?
「則魏志所謂邪馬臺者也」
当時と何ら変わりなければわざわざ説明する必要は無い。
墓に入れる前に船に乗せて引きまわしたり、チマチョゴリみたいな服を着てるし。
空白の150年で倭国も随分変わったんだよ。
卑弥呼の居た邪馬台国もこの頃には昔話でしかない。 九州説論者は、今更、畿内説がいやなら、奄美沖縄説を唱えればいい。
つまり、邪馬台国は九州の南の海中に沈んだのだと。
それなら、魏志倭人伝記述の距離感等の面で、北部九州説より、よっぽど真実性がある。
また、それを証明する手段は、海の中から金印を見つけることだと主張していれば、
しばらくは、畿内説に対抗しうる説になる。 .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 >>139
>「則魏志所謂邪馬臺者也」
http://www.21ccs.jp/soso/soso_img/gy14_y_pic3.jpg
『後漢書列伝七十五倭伝』
「其大倭王居邪馬臺国)」と記し、ここで「割り注」の形で「案今名邪馬惟音之訛也=今の名ヤマイは音の訛りなり」と註釈している。
「邪馬惟」はヤマイと読む。
当用漢字制定後の歴史、社会の教科書では「邪馬台国」と書くが
「台」は「タイ」以外に「イ」と読める。
《唐韻》與之切
《集韻》《韻會》盈之切
《正韻》延知切,音怡。《爾雅·釋詁》台,我也。《又》予也。《書·禹貢》祇台コ先。《湯誓》非台小子,敢行稱亂。
【怡】は筑前の国のにあった「怡土」で和名抄には万葉仮名「以止」=イトと読むと書いている。
宗像郡にも「怡土」があって読み方は「伊度」。
和名抄の時代には唐土でも話し言葉としては
濁音始まりの「土」や「度」が濁音始まりのドから清音始まりのトに変化していた。
魏志倭人伝に時代には「怡土」を「イト」ではなく「イド」と読んでいたはずだ。
【怡】を「イ」と読むのは春秋戦国時代以前に書かれた書経の「台」を
「イ」と読むという伝承が有ったためだ。
【飴】の音読みが「イ」というのも同じ理由から。 畿内説は九州説を奄美とかミスリードさせたいみたいだな
筑紫筑後平野で確定なんだよ
あの辺全体に九州北部沿岸の那を含めて邪馬台国連合三十ヶ国
石器時代から豊かな有明海と天の恵み筑後川
大和川は文明を育むにしては貧相過ぎる >>126
効いてる効いてるw
これが現実だけど九州説はその現実を認めたくないから火病ってしまったか どの説であろうと伊都国や奴国との関係を証拠で示せないと最終的にはアウト
畿内説が勝ち残ったのはそこを示せたから 倭国が九州以外を含むようになったのは唐の時代から。
畿内説のようなファンタジーとは違い、記録というものは現実である。
倭國者古倭奴國也。
日本國者倭國之別種也。
つまり魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の時代における本州は詳細不明の倭人の国だった。
まあ頑張って卑弥呼と無縁のYamitoでも探してなw 九州説は、ある時期から近畿に逆転されたと同時に邪馬台国が滅びたと考えてるのかな
古墳は前方後円墳でなく古墳時代とも無関係
その後連合国と鬼道はどうなるのか
中国への使節はどう説明したのか
あまりに消え失せすぎてる感がすごい
その点では近畿は比較的説明が容易だな >>146
その記録には
倭国の使者は「倭國者古倭奴國也。 日本國者倭國之別種也。」と語ったが
倭国の使者は不誠実だったので中国はこれを信じなかったと書いてあるんだが ちなみになんで倭国の使者が不誠実な態度でウソを言ったのか理由もわかるな。
中華が考えてくれた「倭」という漢字が雅でないからという理由で
「日本」に改名したという
真実を話したら倭国の使者は殺されるかもしれないからね >>31しかし>>59-66 etc.だと
【邪馬台国纒向】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…吉村武彦
否定…関川尚功(橿原考研) 若井敏明
【卑弥呼箸墓】
肯定…サンケイ新聞 岡本健一(元毎日新聞) 桜井市纒向学研究センター
懐疑…白石太一郎 歴博西本豊弘 奈良県立橿原考古学研究所
否定…石野博信 寺澤薫
ってことに >>141
宮崎は投馬国。
「原」を「ばる」と読むところ、沖縄から人が来た証拠。
沖縄では、山原と書いてやんばる。
邪馬台国は沖縄。 北部九州は、そもそも、一大率を置いた伊都国。
そこから、船や徒歩で何日もかけていくのだから、その付近が邪馬台国だなんてあり得ない。
また、放射説などという不自然な記述もするわけがない。
魏志倭人伝をもっと素直に読むべき。
九州説は我田引水の説に過ぎない。 だから距離書いてないのは帯方郡からの日にちだって
投馬国の距離書いてないだろ
12000里で行けるのは筑後が限界 纏向が狗奴国の可能性もあるのにな
魏の威信を借りないと統治できない邪馬台国より狗奴国の方が強大だったろ
日本書紀に卑弥呼、壱与が記載されてないのも大和朝廷が狗奴国側だったら説明できるのにな 邪馬台国までの道筋を説明しているのに、途中から、スタート地点に戻って、帯方郡からの
日数で説明するなんてことはありえない。
この表現は、九州までは近くてわかりやすいが、そこからは遠いということを意味している。 特定の現代の日本人からすれば東夷伝倭人条はとても重要なものかもしれないが、
陳寿にとってもそうだと言い切れる資料があるのかな。
肯定否定ともに印象や感覚でしかないと思う。 12000里というのは、行程の積み重ねの距離ではない。
俯瞰した、だいたいの直線距離。
だから、帯方郡から12000里というのは、奄美あたりか、畿内付近になる。
古代人が地球上の直線距離を把握できたかどうかは難しいところがあるが、少なくとも、
南北の緯度差の距離感はあったはず。周の時代からそれなりの天文学があった。
よって、邪馬台国は少なくとも奄美付近。もっと高度な計測ができていたとしたら畿内。
北部九州は、この点からも外れる。 農耕でとれる作物を考慮すれば自ずと九州説は疑問が残る
畿内説で中国地方あたりが妥当だろうけど、結局間違っていても発言力がある教授の説になるのが歴史の作られ方 「狗奴国」は紀伊半島の「熊野」
神武東征の際生駒山の西山麓の孔舎衙(くさか)の合戦で
神武の兄の五瀬命が負傷し戦死するなど先住民の長髄彦に大敗したので
神武東征軍は熊野に転戦して「八咫烏(やたがらす)」と道臣命の
道案内により大和の宇陀に入った。
熊野信仰は狗奴国の王と民の祟りを恐れて祀ったもので
太宰府に左遷された菅原道真が天神となって京都に祟ったのを
慰霊するために天神社を造営したのと同じ心理。 >>158
だから対馬や壱岐は米が足りない時は南北(半島、九州)で仕入れてくると書いてあるじゃないか。 >>160
南北市糴は交易に従事する様を見て、
陳寿(あるいは中国の報告者)から見れば食糧不足で米を買い出しに行くと理解したのかもしれん。 >>157
地図も書けないグーグルマップも無い当時に直線距離で示してたってかよ?www
SFかよwww
>>159
根拠不明な100%個人的想像www
従軍慰安婦説と畿内説が同次元www
想像で創造する歴史www
畿内説信者は外基地だが学者は意外と冷静だぞ。
纏向も箸墓も関係ないことに気づいてる。 >>162
現在までのところ
吉野ケ里遺跡と唐古・鍵遺跡が同規模の約40ヘクタールだ。
唐古・鍵遺跡からは褐鉄鉱の器や高床式建物の梯子の部材が出土している。
また楼閣を描いた土器も出土していてそれを元にした楼閣も復元している。
吉野ケ里遺跡から今までに鉄製品は見つかっていない。
御悔み申し上げます。御愁傷様orz >>164
邪馬台国とは関係ない話だな。
帯方郡から12000里圏外の奈良にも人は住んでた。
ただそれだけ。 >>162
直線距離に決まってるじゃんw
正確だったかどうかは置いといて、陳寿が直線距離として記述してるのは明白 畿内説って>>166レベルなのか?w
魏の時代に直線距離12000里を測れたのか?w
畿内説を語る人って総合的かつ相対的に物事を考える力が弱過ぎないか?
あと文盲は論外。
最低限、魏書→旧唐書→隋書ぐらいは目を通しておけ。 >>167
2点間の距離を言うときは直線距離でしょ、普通
>畿内説を語る人って総合的かつ相対的に物事を考える力が弱過ぎないか?
これはそのまま九州説に返すわw
水行20日の言い訳とか子供レベルだよね >>167
12000里にこだわる北九州派も「難兄難弟=どんぐりの背比べ」レベル
朝三暮四w
後漢書倭伝モナー
魏志倭人伝偏重はイクナイ あまりポリティカリーコレクトを言い募る気はないが、
「文○」は止めとけ
非識字者を使いなさい >>168
お前は帯方郡から奈良が見えるのか?w
>>169
後漢書の倭伝は魏書の引用。
時系列にも弱い畿内説w >>169
>12000里にこだわる北九州派も
短里の12000里しか、九州説の根拠はないんだよ
3世紀の北部九州で、奴国、伊都国を除いたらまともな遺跡が一切ない
でも、短里は捏造だし、12000里は中華の世界観で世界の果てという意味の
観念的な距離だから、実際の比定地探しには何の意味も持たない ID:KfRESUc1から漂う強烈な「知ったか感」ww >>172
とお前は想像しました、という話な。
頭おかしすぎて話にならんよ。 >>171
後漢書倭伝の註釈に
「邪馬臺ヤマド」は古い。今は「邪馬惟ヤマイ」
だと書いてあるんだがw
「邪馬惟」に変わったという新情報が書いてある。
それが重要。
それじゃ訊くけど
「遠賀郡宗像」の今の地名は何なんだ。
http://fast-uploader.com/file/7093046160316/
宗像大社との関係は? >>1
卑弥呼の墓は大分国東にあった!? 『卑弥呼の金印を探せ〜国東半島に眠る巨大ストーンサークルの謎〜』
出雲大社と卑弥呼
出雲大社を管理をしていたのは
大内藩(あっち人)であり卑弥呼はあっちの人だろう 邪馬台国の場所を知らなかった倭人伝の作者陳寿が
「1日30里」で計算してるだけだからな
30×60=1800
不弥国まで10700里なので足して12500里(1万2千余里) 要するに中国には不弥国までの距離の記録しかなかったわけで
倭人伝の元になる資料を作った人は、不弥国と伊都国までしかきてないよ。 どの史書を見ても山陰、瀬戸内や近畿に関する記述が無いんだけど。
比較的新しい隋書でも鐘楼船や阿蘇山など具体的に書かれているが近畿を連想させる記述が全く無い。
旧唐書には倭人条と日本条がある事から九州が倭国で近畿が日本国でしょ。
https://imgur.com/Fy8VUYD いきなり畿内を中心に統一王朝なんて弥生には早すぎると思わんか畿内説
都市国家群が西洋のギリシャイタリアなんかと同時期に日本でもあったのと考えるのが普通でしょ
弥生時代を通して那は都市国家群の覇権国で後の邪馬台国はその都市国家群の同盟連合
畿内も纏向は都市国家の考えでしょ
じゃなければ畿内説は世界史を広く浅く勉強して普遍的な国家の形成過程を学ぶがいい 吉野ヶ里が外れた時点で、北部九州説はなし。
悔しかったら、女王卑弥呼のいた遺跡の具体的な名前をあげよ。
畿内説派で完璧に否定するから。 畿内にも国は沢山存在していたんだろうけど、九州や出雲の存在感の方がデカ過ぎるよ。
最終的に九州や出雲が畿内を乗っ取ったんじゃないかな。
唐古遺跡は突如解散したような形跡があるし。
水害にあったとしても土器をまとめて捨ててる意味がわからない。
纒向も人が定住していた形跡が無いし。 マスコミは未だに邪馬台国出さないとニュースバリューが下がると思ってんのかねぇ >>182
そしてそれはウソだと中国に見抜かれたって書いてあるね >>181
3世紀に統一王朝なんて言ってる人は畿内説にもいないと思うが
当時の日本列島は魏志倭人伝にある通りの状態で、祭祀王のもとに集まった連合国家
その版図はこれ
それぞれの地域に王がいて、祭祀を連合国内で共通化してる状態
北部九州もその動きに飲み込まれようとしていた時期で、真っ先に畿内連合に加わったのが奴国
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg >>180
正確に言うと「倭国」っていうのは存在しないんだよ。
「わこく」っていう音は「外国」という意味だし。
倭人が住んでいる地域の代表国を倭国と呼んでいるにすぎない。 その畿内連合とかいうのがわからん
畿内は連合しなくても強力な外敵や外交があったわけではなく太平洋のんびりしてた
連合する意味があるとすれば強敵の九州のはずなのに九州も参加したとか言ってるし
九州とは戦争もなく影響下に入ったとか各地の首長が纏向に集結するとか妄想全開だし >>186
日本国の倭人が疑われてるね。
これが畿内大和からの朝貢一号。
8世紀だからもう邪馬台国は存在せず、畿内大和が始まっていたと。
いずれにせよ卑弥呼のいた倭国とは全く別の国といえるね。 >>189
畿内説はロジカルじゃないよな。
あまりにも想像を膨らませ過ぎてる。
こんなのが通るなら四国説や北陸説でも何でも有りだぜ? >>187
それ4世紀以降の話だからw
河野さんが言ったように全て編年やり直すべきだなw >>188
>「わこく」っていう音は「外国」という意味
オマエの妄想か
何を根拠に妄想してるんだ アカンもう畿内説は無理。
調べてると笑けてきたw
謎でも何でも無いのに畿内説が撹乱してんじゃね? >>189
意味がわからんとか、納得でないとか、九州が戦争もなく畿内の傘下に入ったはずがないとか、個人の感想は不要
あくまで物証に基づいた分布図だよ
九州も前方後円墳体制に組み込まれていっている
4世紀以降この連合の範囲がさらに広がり、5世紀には支配が強化され古墳から文字の入った鉄剣も出土して
大和の王と地方の支配関係が裏付けられて、最終的には7世紀の律令制につながる
この間、時代によって統治方法も変わり、支配権の強さも変わるが、大和の王が常に頂点に君臨していた
日本においてはどんでん返しは起きなかったということ >>192
そんなトンデモ編年が通用する時代じゃないし、今回のC14年代測定法でも否定された 異論無用!
正史も出土品も物理的制約も全て幻です!
>>195のような妄想こそが事実なのです!
@畿内説教信者一同
やべえよなwww >>197
教科書レベルの基本的なことしか書いてないのにそれを妄想呼ばわりか
九州説を主張すると、最終的には日本の古代史の通説を根底から否定するようになるってのは本当っぽいな
九州王朝があったとでも言いたいのか?
まあ何を言おうが自由だから好きにすればいい でも畿内から出てくるのは生活臭がするゴミばかり
卑弥呼と関連付けるから桃種や土器などの生活ゴミも凄そうに見えるけど客観的に見てみ
溝に纏向大溝とか意味ありげな名前つけてるとか笑うよ
弥生人でも生活で必要な溝くらい掘るだろうよ
纏向は吉備辺りから支配者が起こした弥生後期から始まった新興の小さなクニでしょう 土器で編年ってのもさ、何十年も使える物なんだし常に新品な訳じゃないだろうから疑問だね。
現代でも百年前の陶器なんかゴロゴロしてるでしょ。 >>149
「日本」に改名したと言っても当時はまだ「ニホン」という発音ができたのは
漢文を読み書きできた学者や僧侶だけで
一般庶民は「ヤマド」「日の本」と言ってたんだわ。
「倭」という漢字が雅でないと言っても
930年代に出来た百科事典的辞書の「和名抄」のオリジナルな
名称は「倭名類聚鈔」というふうに「倭」という漢字が使われてる。
「倭名類聚鈔」を執筆したのは「梨壺の五人」のひとりの源順(みなもとのしたがう=シタゴー)で
「梨壺の五人」の才人たちは平仮名なんて全く無い
「山上復有山」「三五月」「五十戸」「馬声」などという謎々のような漢字を羅列した万葉集の解読をを行なった。
「於保支見」は現代の普通の漢和辞典で読み方を調べても
「オホシケン」ぐらいにしか読めないが「おほきみ」と読んで
「天皇」という言葉ができる前の明日香奈良時代に「大王」
「大君」と読んでいたことを解き明かした。
「支」は呉音で「シ」だが魏晋時代の読み方では「キ」となる。
倭人伝の「一支」=「壱岐」だ。 畿内説というのは単にこの時期に纒向という集権集落らしきものがあったことだけを論拠
にしているに過ぎない。邪馬台国である説得性は感じられない。纒向が発展していって
大和朝廷の中核都市になったことは否定しないが、邪馬台国であった理由がいかにも希薄。 >>193
中華の外の地域のことは「わ」「を」というんだよ。
だから「わ」や「を」と発音する地域が多い。
輪、分ける、別れる、など日本語でも境界線には「わ」という言葉を使われる >>190
>いずれにせよ卑弥呼のいた倭国とは全く別の国といえるね。
論理が飛躍しすぎ >>171
帯方郡からは倭国の前線基地であった狗邪韓国すら見えないだろ
九州派は朝鮮半島から竹島群島が見えるから
竹島群島はウリタン(=ウリの領土)だと言ってる半島人レベルw このさいダーツでも投げて邪馬台国の場所を決めたらどうかな? >>201
日本をニホンと読むようになったのはもっと後じゃね?
朝貢した使者の発音はジッペン、リベンみたいな感じだったと思う。
なんせ中国に漢字の読み書きを教わって間もない頃だったんだから。 纏向遺跡気になるな
そういう遺跡古代のまま再現して見学できるようにしておいて欲しい >>208
国有地にして復元してもらいたいよね
日本の国家発祥の地だから
他の遺跡とは重要度が違うし 箸墓古墳を発掘調査したら、金印も封泥も魏の銅鏡100枚も、
卑弥呼の棺も遺体も出てくるんじゃないの? >>209
なんかそういうおおらかな古代の遺跡がこの目で見られたら
日本のことももっと好きになれて
気持ちからおおらかになれそうだね
今の日本の街並みはどこも殺風景で殺伐とした感じだから。。 >>210
既に空っぽだとか。
1000年以上盗掘もされずに残るのは稀だろ。 魏志倭人伝の行程の記述が完璧に合っているとすると、邪馬台国は奄美付近の気がする。
やはり、邪馬台国は海中に沈んだのではないだろうか。
そして、その過程で、日向(宮崎)あたりに集団移住し、それを天孫降臨と表現し、
その後、初代神武天皇即位⇒神武東征⇒大和朝廷出現。
そう考えると筋が通るのでは。
奄美のアマ、天をアマ(アメ)、海部氏(丹後半島の籠神社)のアマと発音する
ところとかも、偶然の一致ではなく、同根、同族ゆえではないか。 >>213
同感。従来、畿内説と北九州説だけだったけれども、どちらも曲解が酷過ぎる。
魏志倭人伝をそのままに読むと奄美・琉球周辺になるように思う。
それに風俗もこの地方の方がしっくりする。また邪馬台国が後の大和朝廷の
中核になったクニである必要はない。 アベノナカマロが日本へ戻らなかった理由
現在の福岡県春日市で育った 当時は倭国だったが 700年以降奈良政権の日本となった
其の日本の遣唐使として唐へ赴く途中 あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも と詠む
あまのはらは壱岐でそこよりはかた方面を望めば故郷のかすがのみかさ山(ほうまんざん)800mの上に月が見える
あべのなかまろは日本では倭国は消滅しており戻る気をなくした
現在の福岡市は人口増加で膨張を続けている 南方に春日市 大野城市 筑紫野市 太宰府市があるが何れも地名としては
福岡より遥かに古く日本列島の母体とも言える地名であり 福岡市というような新規な地名になるのを潔しとしていない
思い切って福岡市を改めて倭(ちくし)とでも改名すれば倣うだろう
九州王朝が紀元前からヤマイチ国も含めて700年迄続いた事を認めれば現天皇家の値打ちが下がるとでも思うのか 根拠の無い奈良に拘泥する
古代王朝は出雲 関東にも存在した 古代が奈良だけと思考する事の愚かさを反省しなければ真実の歴史は見えない >>175
>とお前は想像しました、という話な。
>頭おかしすぎて話にならんよ。
どこがどう頭がおかしいのか、「具体的に指摘」してくれ
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
この東方之極萬二千里を引き写しているだけで、倭国までの現実の地理とは、ある意味関係ない数字
それを捏造の短里で読んだ時に、九州になるというのだけが九州説の根拠なんだから
どうしようもない 大国主命(出雲族の主)の御神体とされる三輪山の麓の聖域に、
卑弥呼の神殿って、ちょっと無理がある主張だよね〜
しかも、箸墓古墳は大国主命の奥さんのお墓って何かに書いてあったし・・・
出雲族の聖地に、ヤマトの祖とされる卑弥呼の神殿(または宮殿)が存在できる、合理的な説明をしてみてよ? >>200
>土器で編年ってのもさ、何十年も使える物なんだし
>常に新品な訳じゃないだろうから疑問だね。
九州説だと、この程度の書き込みでも偉そうにできるんだw
土器は消耗品だよ
弥生式土器、土師器(庄内式、布留式)のものは肉薄だし、
磁器のように堅くはない
今の陶磁器でも何十年も割れずにもつものなどごく少数だろうに 魏志の距離単位は一里75m
ヤマイチ国に駐在した魏の武人チョウセイの公式報告に基きチンジュが書いた
同盟国の倭国が呉の攻撃を受ければ即応する必要があり
方位距離共に正確
因みにチョウセイはヒミカの死及びイチヨの即位に立会った
故にケイ100とある 自明のこと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています