【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ 魏志倭人伝の方角と距離の記述。
方角は、「東」を「南」と一言、書き間違えたら終わり。
一方、距離の方は、「水行で何日」やら「陸行で何日」で遠いことの実感がにじみ出ており、
間違って書いたとは考えにくい記述。
また、行程の途中の地名、「投馬国」も「丹波国」。
あるいは、発音を「つも」と推定すれば、「出雲」、または、丹後半島先端の「津母」。
そして、今回の桃の種の年代測定による纏向遺跡が邪馬台国の年代と一致するという科学的な証拠。
これでは、邪馬台国は、畿内説の纏向遺跡、箸墓古墳あたりで、90%以上決まり。
つまり、邪馬台国は、最初から「やまとこく」と読むべきだったというオチにならざるを得ない。
九州説の人には、やっかみ的、感情的な反論ではなく、もっと科学的な反論を期待したい。 〉〉37
書き換えなければ説明できない畿内説と
そのまま読む九州説で話は終わってる
書き換えても破綻するからどんどん書き換えていって
自分でも気が付かなく全く別の国を懸命に説明してるのが畿内説 >>31
まだどこが邪馬台国か卑弥呼の墓も見つかってないのにどこが主張しても問題ない
桃の種があれば邪馬台国と主張してる頭のおかしい人もいるんだから
別に北海道や四国が邪馬台国を主張しても場所が特定されてない以上 現時点では嘘にはならない
だいたい卑弥呼も1人じゃなく称号の可能性もあるんじゃないの? 更に畿内説を売国奴視点から言うと
朝鮮日本から見て第三者の立場の中国から東アジアを統治していると証明する漢の倭の国王印
日本はこの印の場所スタート地点じゃないと九州が古来日本の領土ではなかったことになる
畿内説=卑弥呼の時代日本は畿内だけ史観
九州説=歴史が始まる以前から九州と南朝鮮と沖縄列島は日本史観
だから畿内説は売国奴B地区の奈良とか言われる 古事記とか日本書紀とか参考にはしないのか
あれは一応日本最古の歴史書だろ 要は何でもかんでも畿内に持ってくるのはマスコミの洗脳でもあるわけよ
東アジアの覇者奴国の植民地としての纏向は許されるが奴国を占有していない纏向は許されない
倭王武の雄略天皇も5世紀にのんびり畿内が奴国を含む西66ヶ国を制圧したとあっては
それまで奴国は天皇の統治外だった事になり
百済新羅が成立した時代には奴国も対馬も天皇が領有していなかった事になる
記紀にもしっかり福岡の香椎宮で神功皇后が三韓征伐したとあるのに
日本の誉を全部畿内に閉じ込めてしまいたい朝鮮人の策謀に気がつくべき >>992
>佐々木論文からも九州最大の国であった奴国は畿内勢とべったりだった と何度も何度も説明されてきたはずだ
ですからそれは「古墳開始期以降」の話だと言ったはずですね。
弥生時代に交流と言えるものではあっても,ベッタリとまで表現できる記述はどのページにありましたか? ここまではOKということでいいですね?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
P254「また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,
弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。」
・弥生終末期から古墳開始期への移行について,「北部九州にヤマト勢力(畿内連合)がダイレクトに流入している」ことがうかがえ,
少なくとも北部九州においては「何の変化もなく移行したのではない」と認識されているといえます。
・当時の日本に劇的な変化を及ぼす外因としては,
「238年(3世紀前期)」に魏が公孫氏を破り帯方郡で半島の経営をはじめ倭国の女王「卑弥呼」が朝貢したことが挙げられます。
・しかし「247年(3世紀半ば頃)」には,台与から帯方郡に「邪馬台国と狗奴国との交戦」を報告し支援を要請しますが
「魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史の張政が派遣されるに留まった」記述を最後に「邪馬台国から魏・晋への通交は途絶え」ました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
・また「北部九州」は「魏志倭人伝に倭国(領内)として記述されていることが確実な唯一の地域」といえます。
・一方「畿内の巻向」では,「3世紀中ごろかそれ以前」とみられる(東北,北海道を除く)日本各地からの土器が見つかっており,各地の首長関係者が巻向に集結していたことがうかがえます。
・地方の特色を示す土器の内訳は多い順に,東海系、北陸・山陰系、河内系、吉備系、近江系、関東系、播磨系、西部瀬戸内海系、紀伊系,南九州系で,
「北部九州系のものはほぼ見つかっていません」。(数個の欠片が大分のものに似ているという情報はあります)
・ただ「これ以外の弥生時代」については「北部九州は畿内その他と交流があった」ことが庄内土器の分布などからも見て取れます。
・なお「弥生終末から古墳時代開始の時期」は「3世紀半ば(過ぎ)」と考えられています。
・また古墳開始期からは(それまでほとんどなかった)「北部九州の絹生産や鉄器生産の技術が畿内その他へ流出が著しい」ことも分かっています。 >>43
記紀にゃ邪馬台国一切書いてない
更には神武天皇の東征まで書かれてるし
日本の歴史書だけだと畿内説は否定される
まぁ藤原家が都合悪いことを書き換えたという話もあるからな >>25
前方後円墳は日本独特で
朝鮮半島南部からも発見されてるから
朝鮮半島南部も日本人が支配していたという説が有力
ほかにも日本特産の黒曜石や材木が見つかってるのも
この説を後押ししてる。 >>47
しかしながら東征説の方が妥当だと思える。
ただし記紀よりもっと平和な流れでね。
畿内では惨殺された大量の遺骨や鉄剣は見られないだろ? 金印も倭人伝も朝鮮人にとって都合が悪い
だから金印捏造説や倭人伝は書き間違え等言い出す、その勢力が売国奴畿内説
チョンに乗っ取られたマスゴミが盛んに畿内説を報道するのに
嘘まみれ金の亡者のゴッドハンド学者と町興しの桜井市が乗った形
国宝漢委奴国王印を捏造等言えるのは日本人ではない証拠だよ 残ってる古墳を見れば、規模、造成精度、出土品を見ても畿内が
外交使節が目指した日本の中心、ヤマトだとわかるがなあ。
九州上陸から邪馬台国へ1ヶ月もかかっている訳だし。
考古学の人らって、自分で遺物を埋めて歴史捏造してた重鎮が代表だけど、
自分の妄想を正しいと信じるために、必死になってるだけだと思う。 陳寿は実際に旅をした者達の日記なんかをもとに書きまとめたと考えられる。
となると日単位での記述部分は日記の日付から計算したものをざっくり記述してしまった可能性がある。
実際には水行の途中でもっと立ち寄った場所があったとかで日数が延びてるのかもしれない。
距離を里で表現してたのに急に日付表現に変わるあたりも気になる。
大幅にカットされたんじゃないかな。
記述用の余白が足りなくなったとかw >>30
>土器は移動できるし
祭祀土坑で、祭祀のために祭祀のときに掘った穴に土器と桃の種が同時に入れられてたんだよ
その土器形式の絶対年代を出すのに、もっとも好適な試料だろ
詭弁も苦しくなってきたなw >>30
>幅が100年もある測定法
幅が100年あっても、その最後の年代でもまだ卑弥呼の遣使237年よりも前
纏向に巨大な祭祀空間が作られていて、そこに多くの地域から人が集まっていたのが
卑弥呼の遣使よりも前だということが確認できた
つまり、卑弥呼の遣使よりも前に、倭国の中心が纏向に計画的に建設されており、
その時代の土器が祭祀用供献土器も含めて九州に流入している
九州だけが独立した倭国というのは絵空事だとはっきりしたっていうニュースだ >>30
>眉唾噴飯物の可能性大と見た
>>30が可能性大だと「見る」のは自由だよ
誰も認めてくれないだろうけどねw >>39
>そのまま読む九州説で話は終わってる
そのままなんて読んでない
短里は捏造ww >>47
>記紀にゃ邪馬台国一切書いてない
でも、倭国(ヤマト国)や日本国(ヤマト国)は書いてあるんだよ
倭と書いても日本と書いても、訓読みはヤマト
ヤマト=邪馬台国で問題ない >>52
>記述用の余白が足りなくなったとかw
字数制限なんてないよ
三国志は陳寿の私撰史書なんだから、好きなだけ書ける
実際、高句麗伝1641文字、挹婁伝340字、濊伝584文字に対して
倭人伝は2392文字ある
陳寿は、参照できたいろいろの書物や記録をつぎはぎして撰述しているので、
里数表記のところと日数表記のところは、引用元が違うってだけだと思う >>47>>49>>57
とりあえず参考にはされてるのか
でも二つの勢力がぶつかって大戦起こしたら伝説に残りそうだし
統合するにしても平和的やり方だったのかもな
なんか神話でも九州やけに優遇されてる感じがしたし >>57
当時は文字の無い時代。
漢字が入ってきた頃は音読みしかない。
文字の無かった時代に畿内でヤマトと発音する地名があったのかどうか?
これ結構重要なんだけどねえ。 銅鐸の消滅で畿内祭祀は弥生時代末期に一斉に消滅してるよ
弥生中期と後期では同じ畿内でも中身「支配層」は違うと考えてよい >>56
短里は、ないとも言えないのでは、
ないかな。 >>57
ヤマトに読めもしない倭の字当てたのはなぜなんだろうね
それこそ邪馬台でよかったじゃねぇの? >>36
>といっても纒向学研究センターがプロデュースして依頼したんだろ
最初から結論ありきの眉唾物の研究発表だと決めつけてるようだな
そんな人には何を言っても無駄だが、当初の記事には名古屋大学中村教授からのアプローチだったと書かれていたけどね
ちなみにこれが名古屋大学が発表した調査報告書
http://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/public-relations/researchinfo/upload_images/20180615_isee_1.pdf
纒向学研究センターもデタラメ、名古屋大学もデタラメと思いたければ勝手にどうぞ
>土器(桃の種込で)は移動できるし
その一般論が今回の研究結果にどう影響していると言うんだ?
>幅が100年もある測定法
研究発表を見ればわかるが2〜3世紀は較正曲線が水平になっている時期
生成されるC14が年により一定でないから補正しなければならないが、2〜3世紀は地球環境がそういう時期だったということ
今後どんなに精度が上がってもこの状況は変わらない
そのうえで、桃の種が見つかった場所である纒向の大型建物の年代は3世紀後半以降にはならないと結論付けたんだよ
>しかも邪馬台国との関連付も強引で恣意的過ぎる
研究結果がどうして畿内説を補強するものなのか理解したうえで発言なのか?
調査報告書はあくまで自然科学の分野での報告書なので、邪馬台国との関連については詳しくは書かれていない
自分が理解できないから強引で恣意的と勝手に判断し難癖つけてるようにしか見えない >>45
また自分の妄想ストーリーに都合の悪いことはすっとぼけかよ
比恵・那珂地域あたりの記述を読みな >>46
OKなわけないでしょ
"土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。"
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/711
↑
まずこの証拠を出しなよ
あるいは嘘をついたこと、捏造したことを認めるか、どっちかしかない >>60、>>63
もともとヤマトという地名があったから、「倭」にヤマトという訓読みを当てたでいいんじゃないの?
もともとヤマという単語(和語)があったから、「山」にヤマという訓読みを当てたのと同じで >>62
>短里は、ないとも言えないのでは、
>ないかな。
ないよ
短里を使う理由のある人が、どこにもいない
公孫氏ももともとは漢人で、後漢の官職についてる
建忠校尉の梯儁さんも
塞曹掾史の張政さんも
魏の役人だから、これらの人が漢魏尺以外の度量衡を使う理由がない
実際に、ほぼ確実とされる比定地間の距離を測ると
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
とばらばらな数値となり、倭国上陸後は4倍も異なる値となる
短里という決まった長さがあって、それによって測定した値が書かれているとはみなせない
結局、晋の高祖、司馬懿の功績を顕彰する目的で、司馬懿の公孫氏征伐の結果、
「遠くの東夷の国」が朝貢に来たというのを大仰にするために、数字を盛ってるんだよ
倭国(女王国)までの距離は、淮南子などに見られる地の果て(東方之極)までの距離の
萬二千里とし、倭国に上陸するまでの距離を「万里の修交」にするために、1万里にしてる
盛った距離を、現実と照らし合わせると、その分過小な距離が出て、それを短里だと
言い張ってる人がいるだけ
数字は結論ありきで適当に振ってるだけだから、決まった長さの単位・短里などは出てこない >>68
そうすると淮南子に書いている
地形訓は、より現実に
あった書き方をしているとおもう。
下記の文章は、何を意味しているの?
至于西极,
二亿三万三千五百里七十 五步。
使竖亥步自北极,至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。 率直なことを言えば、
淮南子の天文訓の一里を
用いて、地形訓の北から南までを
計算すると、現代の北極、南極を
結んだ直接距離に近い。
海島算経も同じように、島の島峰を
測る方法。計算結果は、
里で、高さを示してある。
その里も天文訓で、でてきた里や
周髀算術などの里を用いた方が、
現実に、合うということは?
計算した結果の数値をどう判断する?
淮南子の一里約61メートル。 古代の人が、使用したテキストを、
短里あるなし、でなくて、
一里何メートルという数字が出てきたのを
どう捉えたらいいんだろうということ。
畿内説の畿も、
王畿は、方千里だし。
強いては、孫子の兵法にある
(山東省で、洛陽出身やないが、
時代は、近い
)
千里馈粮,士有饥色
千里先から、運ばれる(遠い先)、
食料や水は、結局、飢え、渇きは癒さない。
兵站は近くにあるべきの意味。
この千里も、450キロ離れた場所からと
捉えるより、
60ー70キロぐらいが、現実的やないの? だから、白髪三千丈の国の、千単位とかの切りのいい数字を
現実の数字と対応させちゃダメだってだけw
こっちが勝つ確率は一億パーセントだ!とか言ってるやつの
実際に勝つ確率が客観的に73パーセントだった時に、
「一億÷73」とかを計算しても意味ないでしょ?
現実とは無関係な数字なんだよ >>70
>現代の北極、南極を
>結んだ直接距離に近い。
当時の中国の人が、北極と南極を知っていたと思うのかい?
天円地方の世界観で、地は方形なんだけど?
淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,『萬二千里』。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,
以息壤堙洪水之州,東至碣石,黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。 >>65
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』より
「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V
IIC期が布留1式
におおむね併行する
箸墓の出現を久住はIIA期と捉える。」
これを踏まえて比恵・那珂のある筑前の土器編年
【筑前】
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
P276
「外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。」
瀬戸内と山陰は分かりますが,東海からというのが意外でした。
強調しておきますが『畿内の土器は搬入(出土)されていない』ことが分かります。
「『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
朝鮮半島からは前述の楽浪系,馬韓系土器のほか.加耶(・新羅)系の瓦質・陶質,軟質土器も搬入されている。」
「土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。」
これも強調しておきますが「弥生終末期に北部九州が畿内連合に吸収された」→「古墳時代」であり,「古墳の計画から建設にかかる年月」を考えても
北部九州が畿内連合に吸収されたのは「古墳が出現する少なくとも数年以上前」ということです。
P278【比恵・那珂遺跡群】
「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
「IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
…報告された甕7点の内,2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣
IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。
…搬入品の庄内大和型甕1点,布留系甕口縁部破片1点が報告されている。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。」
比恵・那珂遺跡群でも畿内連合の流入はIB期以降であり,しかも北部九州の土を使って生産したのは畿内から来た職人と考えられます。
どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか? 陳寿が何歳だったのか知らないが、老人性認知症を引き起こしていたとしたら、
その記述はあてにはならない。 >>73
紀元前4世紀には、渾天説があり、
渾儀もあったみたいだし。
古代において、“浑”の意味は円球をいみしている。古代の人は、
天とは丸く、ちょうど卵の外殻として
捉えている。そこに星が打ち付けられている。
地球とはその卵の中の黄身だと。
私達は、その黄身の上で、天体観測しているんだと。
AD104には、「黄道铜儀」もつくられてるから、しっかり把握していると思うよ。 >>74
>久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
もちろん1年の狂いもなくビシッと決まるものではなく数年〜数十年(百年)前後するのは仕方ありません。
私は弥生・ 古墳時代の境目をIA後期と考えています。 >>74
>どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか?
資料を偏見なく読み解けばよいだけですし
仮説が正しければ,実地に得られたデータが勝手にそれを裏付ける方に動いてくれます。
「出雲」を「投馬とも読めるぞ」等と試行錯誤するのは悪いとは言いませんが
よそ様の遺跡や墓を根拠もなく勝手に「邪馬台国の関連遺跡」や「卑弥呼の墓」にして
「それ以外に考えられない」と断定して扱うのはいかがなものかと思います。
「これはもしかするとよそ様と間違えてるかもしれない」と慎重に扱うべきだと思います。 ジンムが開いた奈良ですが 東鯷国の真ん中でさぞ心ぼそかったでしょう
故に自分達は九州倭国の分流であると主張しました
倭国からの応援の証しとして 若倭 わかちくし 大倭 おおちくし のような称号を
倭国の王から貰いよしがとしました
大倭が後に大和となり700年以降やまと と読まれるようになりました >>73
この時則訓は、
厳密にいえば、時則ですから、
季節、月を、ベースに解説しています。
現に、東の中に書いている
「句芒」は、五佐のひとつであり、
それぞれの方角は、
季節に応じた農業の神ではないですか。
この神話のなかの里よりも、
地形訓の里は、より実情に
そったものでは、ないですかと
思うわけです。 投馬をヅマと読むというのは誰が言い出したのだろう?
トウマとしか読まないと中国人が言ってるのに。 現地の倭人の発音に近い字です
ですからイチを台とは書きません 東大名誉教授の保立道久氏は「神話の本質論と一緒に解くほかない」
「そろそろ結論が出そうな雰囲気です」
もちろん邪馬台国は大和の国の結論です。乞う、ご期待 保立道久。「九条科学者の会」呼びかけ人を務めている
9条の会
コテコテの左翼なんだが
そういう人を取り上げるお前も売国左翼みたいだね
まあこれで俺の説
畿内説=売国左翼と証明できた(人''▽`)ありがとう☆ >>84
スゴイ極端な決めつけだね。これで畿内説=売国左翼と証明できるってか。
九州説は感情論優先なのか?
なんで近畿説が売国になるのか説明してくれ。 >>85コピペですまんな
更に畿内説を売国奴視点から言うと
朝鮮日本から見て第三者の立場の中国から東アジアを統治していると証明する漢の倭の国王印
日本はこの印の場所スタート地点じゃないと九州が古来日本の領土ではなかったことになる
畿内説=卑弥呼の時代日本は畿内だけ史観
九州説=歴史が始まる以前から九州と南朝鮮と沖縄列島は日本史観
だから畿内説は売国奴B地区の奈良とか言われる
要は何でもかんでも畿内に持ってくるのはマスコミの洗脳でもあるわけよ
東アジアの覇者奴国の植民地としての纏向は許されるが奴国を占有していない纏向は許されない
倭王武の雄略天皇も5世紀にのんびり畿内が奴国を含む西66ヶ国を制圧したとあっては
それまで奴国は天皇の統治外だった事になり
百済新羅が成立した時代には奴国も対馬も天皇が領有していなかった事になる
記紀にもしっかり福岡の香椎宮で神功皇后が三韓征伐したとあるのに
日本の誉を全部畿内に閉じ込めてしまいたい朝鮮人の策謀に気がつくべき
金印も倭人伝も朝鮮人にとって都合が悪い
だから金印捏造説や倭人伝は書き間違え等言い出す、その勢力が売国奴畿内説
チョンに乗っ取られたマスゴミが盛んに畿内説を報道するのに
嘘まみれ金の亡者のゴッドハンド学者と町興しの桜井市が乗った形
国宝漢委奴国王印を捏造等言えるのは日本人ではない証拠だよ 倭国では半島支配で半島の王が倭人であったことはあります
奈良は半島の王族をありがたがり迎えています
大きな違いですね >>83
外部の権威をありがたがる気の毒な人もいます 自分の頭は床屋のために存在するのでしょう >>74
(他の文献も踏まえて)ここからわかることは
IA期すなわち(3世紀前期後半頃とみられる)弥生終末期には,「北部九州と畿内は(ほとんど)通交していない」ということです。
魏志倭人伝により少なくとも「北部九州」は「邪馬台国(倭国)側勢力」といえる地域であり,北部九州とほとんど通交していない「畿内」が邪馬台国とは考えられません。
また邪馬台国はこの時期,(日本国内の国でありながら)「魏と結んだ(というより朝貢した)国」です。
そればかりか魏の使者が(女王卑弥呼に会うためと倭国をつぶさに調べるため)本当に日本列島まで乗り込んできたのです。
これが「非邪馬台国側の周辺国に与えたインパクトは激しいものがあった」と考えられます。
そのとき「共通の問題に直面した各国」がどのように行動するかは自然と分かると思うのですが。
少なくとも「外国の橋頭保となりうる国」をそのまま放置するはずはありません。 >>82
>現地の倭人の発音に近い字です
>ですからイチを台とは書きません
だから、ヤマイチ国なんてなかったんだよ
上代倭国語には、母音の連続する語はなかったとされている >>81
>投馬をヅマと読むというのは誰が言い出したのだろう?
>トウマとしか読まないと中国人が言ってるのに。
その中国人はどこの人?ww
投馬の上古音はdug-mag
藤堂明保編、漢和大辞典、学習研究社あたりでも確認できるから調べてごらん >>80
>地形訓の里は、より実情に
>そったものでは、ないですか
「億の単位の里」が実情に沿っているとはとても思えないけれど?
時則訓の里はさらに山海経にその元ネタが遡れるし、これが大陸中華古代の
世界観の基本だろう
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
時則訓では、これと五行の考え方を合わせて、東西南北+中央之極を
すべて萬二千里として、方形の地(地方)を想定している
翻って、漢土の端(3世紀の当方であれば帯方郡)から
世界の果てまでが萬二千里という概念なのだろう >>74
>【比恵・那珂遺跡群】「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」
これから分かるのは,この時期「箸墓」の畿内勢力は(段階的に浸透したのではなく)「(ほとんど)ダイレクトに到達した」ということです。
おそらく畿内側の北部九州内の駐屯地とも言える中心地が 比恵・那珂だったのでしょう。
そしてこの時期より,「北部九州の鉄器生産や絹生産の技術者」が畿内や本州各地に連れ去られるわけです。
もはや国としての機密性は崩壊しており,やりたい放題で「全面降伏」状態といってもおかしくありません。
ただ,北部九州は抹殺されたわけではなく連合政権「ヤマト王権(大和朝廷)」の一員として迎え入れられることになります。
(台与が生きていたとしたら,畿内まで連れていかれたかもしれません) >>83
寄りによってそいつかよw
畿内説糸冬のお知らせw >>76
>紀元前4世紀には、渾天説があり、
>渾儀もあったみたいだし。
それはいいんだけれど、それを主張するなら、その時代に既に間違いだと
指摘されている「蓋天説」前提のテキストである周髀算経を、
短里があった証拠とか言い出すのはいかがなものか? 九州説がいくらごちゃごちゃ言ったって、投馬国をまともに比定できる説が
一つもないんだからしょうがない
矛盾覚悟で南に置くか、非常識の極みの半島南部に置くかのどちらかで、
どちらもおかしい 集団ストーカー
仲間健二という人物に対して行われている
ターゲットになった人物は行く先々で悪評をまかれ仕事を点々としている状況
加えて仲間健二の自宅は24時間盗聴盗撮生配信されている
それをパブリックで笑いものにしている
ターゲットが郵便局で働いていたときは
実際にあった100万円横領の濡れ衣を着せられる
無実だったが
人間関係が壊れる
結果
退職
仲間が盗聴盗撮を止めろと言うと
仲間はゆすりたかりで脅しをかけているとなる
集団ストーカーのターゲットは
防御姿勢すら取れない
現代
平成の魔女裁判 >>97
それで嘘,ねつ造はありましたか?
「出雲を根拠もなく投馬国扱いする」方が「嘘,ねつ造」ですよね? >>93
億の単位の里」が実情に沿っているとはとても思えないけれど?
↑
古代は、億は、十万を意味すると思います。
辞書で調べたらでてきますよ。
実情に、そっていますよ。 >>96
そうですね。そのため、
淮南子は、天文訓で、ばっさり切りましたからね。蓋天説。
淮南子は、渾天説をベースに
したから、北極、南極や東西の赤道直線
距離をわかっていたかもしれませんね。 >>74
>IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
>IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
そんなこと書いてないでしょ
捏造はやめなさい >>78
投馬国を出雲に比定した書き込みはおれではないから本人とやりとりすればいい
そもそも根拠が足りないとあんたが判断しても、出雲比定を捏造呼ばわりするのはただの言いがかりだ
あんたが根拠にならんことを根拠だと言い張って山門説を唱えても、誰も捏造呼ばわりなどしていない >>74
"土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。"
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/711
↑
証拠を出してくれと何度も言ったが、都合の悪いことはとことん無視か
出せないなら、嘘をついたことを認めなさい
捏造したことを認めなさい >>96
北極と南極の2点を通る距離は、
40,009km
地球のお腹まわりともいえる赤道の距離は、40,075km
極半径は、6356.775キロメートル
北極南極直線距離約12,713キロ
淮南子 地形訓
禹乃使太章步
自东极,至于西极,
二亿三万三千五百里七十五步;
使竖亥步自北极,至于南极,
二亿三万三千五百里七十五步。
古代の億は、十万を意味する。
233,500里(75歩は、簡易計算のため省く)
淮南子天文訓で、夏至を用いて計算
された一里約61メートルを使うと
233500×0.061キロ=約14,243キロ 淮南子は、各国から
学者がきていたから、下記の情報
入手していた思う。
地球一周の距離を
世界で一番最初に計算した人は、
「エラトステネス」という古代ギリシャ人。
計算した地球一周の距離は、BC230のとき、
46,000km。
この時に地球が球体であることを知っていたようだ。
エラトステネスは「地球は丸い」と考え、「夏至」の日に、
エジプトのシエネという町で、
太陽が真上にいることを基準にし、
同日同時刻に、
シエネという町から925km離れた
アレキサンドリアの町では、
太陽は7.2度傾いていることを
確認。
これより、
925km×360÷7.2の計算で、約46,000kmが、でてきた。
つまりは、千里一寸だね。 卑弥呼が九州にいたとして、その宮殿はどこなのか。
径百歩といわれるその墓はどこなのか。
九州説の人は、少なくとも、纏向遺跡、箸墓古墳に匹敵するものを提示してから、
論を展開すべきではないですか。
短里がどうとか、屋上の上に屋上を重ねる議論は後回し。 三国志のころか
倭国にとって中国は結構先進国だったのね >>69
二亿三万=2億3万=現代語に翻訳すれば23万
幕末から明治初めに書かれた天理教の経典「泥海古記」に
>かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなった。
>そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。
>そして、月様は、いざなぎのみことの体内に日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、
>人間創造の守護を教え、三日三夜の間に
>九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。
>それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかって、
>子数のすべてを産みおろされた。
ttps://www.tenrikyo.fr/ja/lecture/?p=1711
「九億九万」は現代の99万に相当する >>79
>ジンムが開いた奈良ですが
神武より前に物部の祖先となる饒速日/邇藝速日を棟梁(リーダー)とする物部氏の祖先集団が住んでいた。 >>95
感情的な、お前より遥かにマシなのは九州説を唱える人でも認めると思うぜ。 最初から語る気なんてなくて単に攻撃して優越感に浸りたいだけでしょ 最後の陸路でかなり時間かかってるのはほぼ九州を縦断したからだろ >>112
信じられないかもしれないが>>1で結論出てるんだぜ 簡潔に俺の九州説
纏向遺跡は植民都市
東海地方の土器は人狩りで連れてこられた住民の強制移住
畿内の住民再配置を含む大変革の支配者=九州のどこかの王
箸墓古墳は開拓残土を墓に利用、大きさ=酷使開拓と権威を示す必要性
卑弥呼の墓=平原1号古墳
三十国共立された女王の宮殿=三十か国どこでもあり得る、の近くに墓を作る必要ない
北部九州で選定すれば伊都国、情報・富・武力・権威・権力全て揃った状態
死後も国外に親魏倭王の権威を示すには奥まった地より伊都国が相応しい
当時平原1号古墳の被葬者ほど豪勢で権威を持った女性は見当たらない
径百歩?俺が歩いたらなぜかちょうど100歩だった、文句があるなら歩いて来い
卑弥呼の宮殿=北部九州のどこか
投馬国=鹿児島宮崎
畿内説も俺の説に改宗してもいいんだぜw 支那の古典漢文では「王国民」を「億兆」と記述することがある。
大日本帝国でも明治天皇陛下の教育勅語のなかに
「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ
【億兆】心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ
此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
」
とある。
>三是下法,为(=爲)十进(=進)系统(=統),皆以十递进: 万 亿(=億) 兆 京 垓 秭┅┅
>到了近代,直至解放前我国还流行十进(=進)的系统(=統),
>即个 十 百 千 万 亿(=億) 兆 京 垓 秭 穰 沟(土旁) 涧 正 载 报,
>皆以十进,10万为亿,10亿为兆,10兆为京......;
>10^4=万, 10^5=亿,10^6=兆,10^7=京
《風俗通》千生萬,萬生億,億生兆,兆生京,京生秭,秭生垓,
垓生壤,壤生溝,溝生(1),(1)生正,正生載
千の10倍が万、万の10倍が億、億の10倍が兆、兆の10倍が京、京の10倍が秭。秭の10倍が垓
垓の10倍が壤、壤の10倍が溝、溝の10倍が(1)=シ(さんずい)+門+月、(1)=シ(さんずい)+門+月の10倍が正、正の10倍が載 >>112
考古学者の間では畿内説で決着してる
さらに記事にあるように物理学者の年代測定で考古学者の説を裏付けた
それにもかかわらず何人かのド素人がいまだに九州だと言い張ってるだけ
そういう人が九州だと思ってしまう理由は1つ
知識がないから >>117
>投馬国=鹿児島宮崎
投馬国=出雲=いずも/いどぅも(関西弁では「ず>ドゥ=du」にアクセント(=ストレスstress=言語学では強勢)ががあるから
「い」を弱く発音するので昔の支那人には「い」が聞き取れなくて
「ドゥモ」だと思って「投馬」と当て字した可能性大 >>63
根本的に「わ」っていうのは中国の外っていう意味なんだよ。
つまり「わこく」は外国、「わじん」は外国人っていう意味。
「倭国」という漢字は中国が当て字したのは明らか。
ヤマトからしたらヤマトは「わ」ではなくヤマトなので
「倭」をヤマトと読んだ。 投馬国=出雲
「えとも」が訛って「いずも」になったっていうのは出雲市の公式見解だぞ。
「えとも」とは「とも」の「え(港)」という意味
出雲ももともと「とも」という地名だったことがわかる。
投馬国=出雲、で違和感がない >>121
邪馬台国時代に日本は文字はなかったとされてるんだよ
つまりヤマトに倭の文字を当てたのは大和王朝なんだよ
だから読めもしない倭に当てたんだろうね >>だから読めもしない倭に当てたんだろうね
だから読めもしない倭になぜ当てたんだろうね
に訂正 >>121
スレ違いではありますが、昨夜の「家族に乾杯」で鶴瓶さんが青森で出会った元漁師は
自分の事をわぁ(われ)と言ってましたね。
沖縄の方言でも自分の事をわぁと言っていたんで面白いなと思いました。 >>103
>あんたが根拠にならんことを根拠だと言い張って山門説を唱えても、誰も捏造呼ばわりなどしていない
捏造呼ばわりはしないけれど、大バカ呼ばわりはするよw
nn氏の相手をしても実りがないからほっとくことにしてる
標準編年を「信じない」の一言で否定して、根拠のない捏造編年を
基礎にしてデタラメを書き散らすだけの人 >>123
硯が見つかってるので邪馬台国の時代に文字の読み書きができる
倭人がいたのは明らか。 >>106
>つまりは、千里一寸だね。
一寸千里は紀元前の中華世界でも間違いだとされていた蓋天説の
天地はともに平行な平面で、その平面間の距離が八万里という
間違った前提から必然的に出てくる定数
天地の距離が八万里で、影を計るための棒が八尺
「八万里 対 八尺」の比を80で割ると「千里 対 一寸」になる
九州説が短里の根拠としているのは、間違った前提から必然的に
導かれる、地上の距離とも緯度とも無縁の定数なんだよ >>116
> >>112
> 信じられないかもしれないが>>1で結論出てるんだぜ
結局ヨクワカンナーイじゃないのか >>83 >>111
オメデタイワ
ホタテは古代史のことはオレたち未満
山口二郎と同じで捏造と法螺デマカセが得意な左巻きの共産主義者
それでもホタテを信じるのかな? 保立道久氏の雑誌での発言は自分の邪馬台国についての意見を述べたものではなく
歴史学者の間では結論が出そうな雰囲気になっているという状況を説明したもの ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています