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【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5

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2018/09/10(月) 21:35:43.71ID:CAP_USER
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。

 同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。

纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。

 また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。

 同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。

一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。

 〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。

https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg

■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg

産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/
0215nn
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2018/09/12(水) 16:44:55.13ID:Y+dKSdiM
「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討」

これも欲しかった面白い資料ですね。

P12 「図12 北部九州と畿内・東海の併行関係(久住2006)」
この土器の移動が最も重要なのですが,なぜか肝心のIIA期以前がありません。

P14 「各地土器編年併行関係表(案)」によると,
確かに北部九州のIA期(久住)として大和の庄内0式,1式(寺沢)や纏向1式(新)2式(古)(関川)が対応していますね。

ただ「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」の比恵・那珂遺跡群は
(久住1999b〜2002)ですから「表3 北部九州と伽耶、列島各地の併行関係(久住2006)」に対応し
北部九州(井上)としては「IA期→後期後葉2式」「IB期→後期後葉3式」「IIA期→古墳前期1式」に対応していたのが分かります。

P9「UB期以降に半島系土器が多数集中する西新町には楽浪土器が認められていない」

これは私の説(北部九州説)で説明すれば「UB期以降は邪馬台国(北部九州)を畿内側が吸収してしまい帯方郡(魏・晋)との通交が遮断されたため」ということです。
邪馬台国=畿内説ではどう説明するのでしょうか


・「楽浪土器と通交ルートが重なる馬韓土器は、TA期に列島に出現し、UA期に増加し、さらにUB期以降に急増する。
楽浪土器の減少・消滅と交替的である(久住2007)楽浪土器の時期別出土傾向から、TA期前後が「公孫氏」の時代を含み、
楽浪土器が一定量出土する最終時期であるTB期が239〜248年の魏との外交期間を含むか。」

問題はここですね。
馬韓は後の百済のあったところです。UA期に増加となると「馬韓は畿内連合との通交を強めた」ことになります。
肝心の「IB期」が書かれていませんが「減少した」か「全くなかった」ということでしょうか。

馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,UA期以降は増加ということを踏まえると


P9「山陰および畿内では「UA期」までの半島系土器は非常に少ないという事実が判明する」

当時の「倭国」は「北部九州及び半島南岸部」と考えられますから,UA期は「北部九州が畿内勢に吸収された」直後であり「畿内に吸収されるのを良しとしない倭人の集団」が「半島南岸へ移動して抵抗した」時期と考えられます。


・さらに興味深いのが最後の地図
図27 原の辻=三雲貿易段階(後期前半〜終末期古相)
図28 原の辻=三雲貿易から「博多湾貿易への移行」(TB期〜UA期)
ですね。

北部九州の福岡から畿内にせよ出雲・丹後にせよ「海路で行き来している」ことが想定されています。
(これらの全期間を通じて「畿内まで陸路で1月」は想定されていないようです)
0216nn
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2018/09/12(水) 16:52:57.57ID:Y+dKSdiM
>>215
>その後纏向遺跡との比較(2008)の後に,「表5 北部九州編年の併行(対応)関係(久住2009)」に変更され
「IA期→Z期 終末期(古相)」「IB期→[期 終末期(新相)」「IIA期→古墳初頭」に対応したということですね。

1)IA期→終末期(古相)
2)IB期→[期 終末期(新相)
3)IIA期→古墳初頭
ですから,
古墳時代は「古墳を数年がかりで計画・施工した後」の時代です。

その前にあったIB期は「畿内勢による北部九州浸透期」であり
佐々木資料から,その流入はダイレクトで急激に現地の生産を圧倒
(一方,絹や鉄器職人も急激に流出)したのが見て取れます。
0217nn
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2018/09/12(水) 17:02:50.32ID:Y+dKSdiM
>>210
>勝手にIB期と改ざんするな

「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
なのでIB(IIA)期です。

>そもそも那珂八幡古墳は古墳時代の定義と関係ない
久住氏もIB期,新しく見積もってもIIA期と,「古墳時代の定義と矛盾しない」ように忖度してますが
本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。

>伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
その通りです。
>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
それは証明されていませんね。

>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ

繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。

その以前に北部九州(例えば那珂遺跡)への
庄内土器を伝える「畿内勢の流入期」が存在しています。
0218nn
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2018/09/12(水) 17:14:40.79ID:Y+dKSdiM
>>215
>馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,
UA期以降は増加ということを踏まえると

IIB期はIB期の間違いです。
これをふまえると,馬韓は魏とは通交していなかったことが考えられます。
つまり「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
の「韓國を歷て南ながら東ながら」の韓國は馬韓にあたりますが
やはり「馬韓の沖あいを航海した」ということだとみられます。
馬韓は公孫氏とは通交し,(魏・邪馬台国(北部九州))とは通交せず
邪馬台国(北部九州)を吸収した「畿内勢とは通交を強めた」とみられます。
0219ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 17:24:20.68ID:yXn3wbZt
土器編年史という別のジャンルで風俗文化史でも作ればいいのに。
100年ぐらい簡単にずらしてしまうような連中なんだから。
箸墓古墳から出土した土器は4世紀の布留1式だが墓は3世紀のものだとか言ってる時点で信憑性ないよな。
畿内派は強引な年代ずらしが目につくな。
ある意味、日本の考古学の足を引っ張ってるようなもんだ。
0220ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 17:46:33.00ID:Zi6Z38G2
>>189
>訓読みが出来た平安時代以降だから
それは真っ赤なウソ、朝鮮人は息を吐くように・・・
訓読みは記紀万葉の時代からあった

例えば神亀三年(西暦726年)秋九月十五日(西暦726年)
秋九月十五日、播磨國(はりまのくに)印南野(いなみの)に幸(いでま)す時に
笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の作る歌一首、并(なら)びに短か歌
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 苅管 暮菜寸二(後畧)
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほの うらに 朝凪に 玉藻刈りつつ

「名寸隅」ナキスミの
 「名ミョウ、メイ」を「な」と読むのは訓読み=翻訳読み

「寸スン」を「き」と読むのも訓読みで「き」は曲尺の1寸に相当する。
古事記にも用例が有る。 「御歯の長さ一寸(ひとき) 」。

【隅】は《廣韻》遇俱切《集韻》《韻會》元俱切,音虞(グ)
支那語客家方言でngiと発音し広東方言で‎[jyu]=ジュではなくユ(陽平声)又は‎[jyu]=ユ(陽去声)
支那の漢字発音は玄宗皇帝が楊貴妃とセックス三昧してた時代に四声が
頭子音が清音なら高い音程(陰調陽)から始まり、
頭子音が濁音なら低い音程(陽調)から始まる四声八調に分化した。

元朝(モンゴル統治)時代にルーツを持つ北京官話=Mandarin=普通話(プートンホワ)では頭子音ngが消滅し
広東語とほぼ同じü(陽平声) でüは英文タイプライターで印字できないので
通常yuと打つのが現代支那人民共和国政府の定めたラテン文字綴り「ピンイン」である。
国際音声符号IPAでは‎[y]である。

音読みがグの漢字【隅】を「すみ」と読むのは日本語訳が固定化した翻訳読みで「訓読み」と言い慣らわしている。

つまり「名寸隅なきすみ」という古代の地名を漢字3文字の音読みではなく
すべて訓読みでつなぎ合わせた「訓仮名」という手法で表現している。
0222ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 18:58:56.83ID:6FEIEecW
>>208
>全国的に見るとその時代の奈良がさみしい部類なのは事実だよ。

唐古・鍵遺跡
奈良盆地中央部に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。

奈良には、弥生時代から全国トップクラスの集落がありました。
0223ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 19:10:44.37ID:3+xXkleg
>>217
捏造常習犯のド素人が学者気取りで古墳時代の定義まで変えようってかwww
ここまで身の程知らずのやつはほんと珍しいわ
ここ数日であんたがやった捏造をまとめておくよ
・久住編年でIA期を3世紀前期後半(原文ママ)、IB期を3世紀中期(原文ママ)と捏造
・北部九州と畿内の交流を弥生後期(交流あり)→弥生終末期(交流なし)→古墳出現期(交流あり)と捏造
・比恵那珂遺跡でIA期に畿内の土器は出土なしと捏造
0224ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 19:14:50.53ID:3+xXkleg
>>217
>本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。
那珂八幡古墳は定型化される前の前方後円墳だから、仮にIB期だとしても古墳時代の始まりは変わらないんだよ
庄内期にも纒向方前方後円墳が造られているが、それらと同様の位置付けになるだけ

>>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
>それは証明されていませんね。
証拠を突き付けられても認めないと駄々をこねてるだけ

>>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
>繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。
那珂八幡古墳がIB期だとしても、IB期の絶対年代は3世紀前半で変わらないんだよ
さらに言うと土器編年と古墳時代の定義は関係ない
無意味なイチャモンつけてるだけ
3世紀前半のうちに比恵那珂地域に畿内土器がドッと流入
これが現実
0225nn
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2018/09/12(水) 19:37:34.27ID:Y+dKSdiM
>>223
これらは「〜と想定してみる」ということですから
数10年〜数百年ずれることが普通にある古代の考古学データで
更なる実地データの中で絞り込んでいくべきものであって
i出雲を投馬國と決めつけることに比べれば
嘘ともねつ造とも言えませんね。
0226ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:04:52.48ID:BM1Rs7lj
>>222
勢力?
それなら宝飾品の出土状況を見るべきだね。
俺は調べたことないけど。

>>225
確かに投馬国=出雲国は無理あるね。
どの地域にもありそうだけど東(あずま)国じゃないかな。
九州なら大分の国東とか。


俺は各史書を素直に読んでみて邪馬台国は高千穂だと感じるね。
冬でも草木が青いという描写に合うかどうかは疑問だけど。
0228ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:40:18.78ID:M/Ge7deY
>>226
冬でも草木が青いは、
冬に落葉しないいみだよね。
いわゆる照葉樹林だね。
冬季の寒さが厳しい地域では、樹木は冬を落葉によってしのぐが、寒さがそれほど厳しくない(最寒月平均気温が5℃以上)地域では葉を落とさず、そのまま次の年も使う事になるので、常緑広葉樹林が成立する。

宮崎の西都原や都城市、高千穂から
尾根伝いにいけば、
日本最大級の綾町 広葉樹林帯がある。
年中青々している。
0229ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:41:49.35ID:BM1Rs7lj
>>227
あんまり気にしてなかった。
何らかの事情があって20日かかったんだろうと読んだ。
関空から数時間で行ける場所に1週間かかってる人もいるんだから。
0230ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:47:41.87ID:BM1Rs7lj
>>228
それってドンピシャリじゃない?
宮崎には旅行で行ったことあるけど年中青々してるのは知らなかった。
頭に浮かんだイメージにピッタリだよ。
0231ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:57:14.09ID:4Zs9IAcg
まだやってら。多数決で決まるとでも思っているのか?
0232ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 20:59:22.42ID:M/Ge7deY
>>230
だね。一つ一つ合う状況をみていくのも
重要かもね!
0233ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:00:12.58ID:Zi6Z38G2
>>228
ところが「大和は国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるはし

と讃えているのは
宮崎の西都原や都城市、高千穂を禿げ山にし
環境破壊して移住をせざるを得なかった
神武とその取り巻き連中だwwwwwww
0234ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:10:12.23ID:XFiOXZEn
宮崎は投馬国だよ
問題は九州の北の邪馬台国と南の投馬国のどちらが畿内を植民地化して倭の超大国に成り上がったかだ
0236ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:18:32.67ID:XFiOXZEn
実際の歴史の流れから言うと筑紫と奈良は一体化しているとは言えないからね
本家分家で筑紫奈良の東西長い政権で片づける事もできるが
筑紫に従属的な投馬が畿内の主導権を握り次第に力をつけて筑紫(磐井)を抑えたとも考えられる
0239ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:24:57.55ID:P259OsBr
>>15
12000年前の水田遺跡が鹿児島県で見つかっているだろ
岡山県の6000年前の稲作跡とか土器からのプラントオパールが大量に見つかってるし
0240ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:32:23.28ID:BM1Rs7lj
>>237
現実的にありがちな事は想定してという意味だよ。
魏志倭人伝で倭国に来た人は何しに来たの?
俺はどんなところか様子を見に来ただけで位置を把握する為に来たという印象は受けなかった。
単に20日後に投馬という所に着いたというだけだろうと。
もしくは著者が参照した日誌の日付が20日後だったとか。
0241ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 21:49:39.58ID:k+Ut/G/T
>>240
本気で言ってると思えないけど、一応

それは陳寿が記録を読み間違えたと「想定」してるってことだよね
素直に読んでるわけじゃないよね
陳寿は水行20日と思って書いてるんだよ
0242ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 22:10:04.85ID:M/Ge7deY
>>240
倭国に来た人は、
呉を、牽制し、
倭国と同盟結びたかったと思う。
1、曹操の曾祖父の墓に、
倭人と同盟結ぶかどうか書いていた。
2、黄色の旗と檄文を邪馬台国に贈る。
黄色は、皇帝の皇と同じ発音。つまりは
中原の正統王朝を、呉に見せつける。
檄文は、同盟国におくる軍事指示書。
時に、敵に布告を行うこともあり。

3呉は、戦士を確保するため、
外洋へ船だし、沖縄、台湾到着。現地民をつれかえるが、伝染病で、損害大。
4、魏が、帯方郡を作る前は、
呉と公孫氏は繋がっていた。魏がせめて
来たとき、呉は、兵を送っている。

5呉が衰弱して、滅亡したあとは、
ぱったり記録がとまる。狗奴國との
戦闘記録もなくなる。
0243ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 22:15:54.02ID:ETXC2/rl
これは完全に想像。
実は暗号である。
日数表記の箇所は10で割って読む。
以降はソレを知っている正式な使者のみが目的地に辿り着ける。
0244ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/12(水) 22:36:02.45ID:yYrHSNYU
>>225
>出雲を投馬國と決めつけることに比べれば

これがnn氏のたちの悪さ

魏志倭人伝には邪馬台国に「投馬国」を経由して行ったって書いてある
投馬国は、奴国二万戸に対して五万戸の大国だし、倭国の状況を報告するのが
仕事の魏使にしてみれば、投馬国を通るルートを取るのは当然のこと
2万とか5万とかが実数だとは考えていないが、奴国よりざっくりで
2.5倍の国力だと記載されていることになる

北部九州説だと、投馬国は「どこに入る」んだ?
ただでさえ奴国と邪馬台国が「近すぎるし平野も足りない」のに?

『投馬』の上古音は、dug-magでカタカナ表記なら「ヅマ」だ
「出雲イヅモ」のイが弱声化すれば、dug-magとかなり近い発音になる
投馬と出雲だと字面では似てないように思うだろうが、外国人が聞き慣れない発音を
聞き取って当て字で表記したと考えれば、かなり妥当な推定だろう

出雲は、西谷墳墓群を作るほどの王権が発達した大国だという考古学的事実もある

北部九州から出雲までが「水行20日」さらに丹後半島のあたりまで「水行10日」で
移動して、そこから陸行一月なんだから魏志倭人伝のとおりだろ?

記紀には大国主が妻問いで北部九州の宗像三神や越の沼河比売のところまで移動
している様子が書かれているし、日本海側の海上交通は弥生時代にも普通に盛んだった

出雲には各地の土器が集まっていて、人の移動の結節点だったことが考古学的証拠でも
裏付けられている

投馬国の比定地だけで、邪馬台国の場所はほぼ限定される

九州説では投馬国はどこ?
0245ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 22:44:59.59ID:yYrHSNYU
>>234
>問題は九州の北の邪馬台国と南の投馬国の

この時点で比定地が破綻している

自女王國以北、其戸數道里可得略載

投馬国は、その戸数:五萬餘戸、道里:南至投馬國水行二十日と、
戸数道里が略載されているので、女王国以北の国でないといけない
0246ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 22:49:41.62ID:yYrHSNYU
>>243
>実は暗号である。

九州説はすぐにこれを言い出す
魏志倭人伝の謎を「解いた」とww

史書ってのは暗号文でも判じ物でもないんだよ
素直に呼んで普通に読めるように書いてある

それでつじつまが合わないなら、それは考え方(九州説)が間違っているんだよ
0247ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 22:51:03.40ID:M/Ge7deY
>>243
じゃ、これも想像。

熊本には、トンカラリンがある。
周辺遺跡は、弥生中期で、
エジプトなどで、有名な変形頭蓋骨が
出たらしい。しかも数体。高貴なシャーマンかな。鬼道ならこれくらいするかな。
0248ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 22:59:10.07ID:y1dYXKUj
>>207
奈良に行くなら田原本町に行って唐古鍵遺跡辺りを周るとよいですよ
立派な博物館があり、弥生時代の遺物が山ほどあります
また、その辺りには鏡作神社があり、邪馬台国に時代に鏡を作っていたのでは
ないかと言われている。
0250ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 22:59:52.72ID:YRTRDbg+
学者で九州説を唱える人は実質いない。
我田引水したい九州の観光関係者だけ、あきらめきれずにいる。
0253ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 23:20:29.08ID:YRTRDbg+
日本は、ずっと天皇の国なのだ。ヒミコも日の巫女、天皇家の人間。
孝霊天皇皇女、「ヤマトトトヒモモソ姫」。
今回、モモソ姫の「桃」が証言しているのだ。
名古屋大学の敷地内には、昔からその地にあったという「鏡ケ池」というのがある。
鏡はヒミコのゆかりの品。
恐らく、名古屋大学による年代の証明もヒミコの神意で運命づけられているのだろう。
日本は紛れもなく神の国なのだ。
0255ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/12(水) 23:37:03.36ID:8CwsEOCA
>>248
いいですね、是非行ってくる

個人的には三輪山と葛城の高台から俯瞰して奈良盆地の全景と、水が抜ける経路の大和川沿い、その先にある羽曳野の古墳群を、当時の地理を想像しながらツーリングしてみようと思う

水運適地が弥生末期の地理的優位性を生んでるということは、想像以上に流通が盛んだったことを物語るものだよね
信長の拠点移動ルートも同じ。
水運=経済を押さえたものが権力を得る
そしてその富の源泉はやはり米だ
地味で見逃しがちだけど、やっぱり米は鉄や宝に勝る富だったと感じる
0256nn
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2018/09/12(水) 23:43:39.38ID:ilYSW06X
>>223
>捏造常習犯のド素人が学者気取りで古墳時代の定義まで変えようってかwww

この人ってここが学会か何かに見えてるんでしょうか?
違いますからね。おじいちゃん。

確かに学者じゃない素人ですが、ここで議論することは構わないでしょうに。
個人的にはどんどん肉付けができてとても助かります。
(確かに桃をさておいての議論ばかりには自分でも問題あるなぁとは思いますけど。)
0257nn
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2018/09/12(水) 23:50:57.50ID:ilYSW06X
>>246
むしろ北部九州説なら、魏志倭人伝とも考古学資料ともだいたい辻褄あってますけど、畿内説じゃほとんど説明不能でしょうに。
0258nn
垢版 |
2018/09/12(水) 23:55:35.04ID:ilYSW06X
>>245
いや、必ずしも放射説が成り立たないわけではありません。

それに示してもらった資料(朝鮮のほう)の最後の地図にあったとおりに、
北部九州から機内まで瀬戸内とおれば河内湖(大阪湾)も超えられるでしょうに。
0259ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 00:10:46.67ID:EQvkdDHf
>九州説では投馬国はどこ?

しつこいな、投馬国は南九州の薩摩国だって
帯方郡から南に船で20日だよ
韓国九州沖縄の説明してんのに南九州を省く意味ないだろ
0260ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 00:11:30.32ID:bUovF18z
>>258
九州説で辻褄があわないこと
水行20日
水行10日陸行1月
投馬国5万戸
邪馬台国7万戸
末盧国から伊都国への方角
丹有り
帯方郡から1万2000里
会稽東冶の東

畿内説で辻褄があわないこと
方角のみ(ただし合理的で根拠のある説明がつく)
0261nn
垢版 |
2018/09/13(木) 00:15:16.41ID:994ceIA0
>>257

>IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
庄内式土器は出土しないが、伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証

これの評価が鍵でしょうね。
久住氏はTAを終末期(旧)、TBを終末期(新)、UAを古墳時代としているわけですが
伝統的V様式土器は終末期(旧)に出現した土器ではなく、やはり弥生末期以前からの土器といえます。
そしてそれは(庄内土器を作り出した畿内勢以前の)先住弥生人たちの土器だといえます。

一方庄内土器は、北部九州への畿内勢の流入が始まる時期(TB期)に持ち込まれ、
機内の職人が北部九州の土で現地生産が開始された土器といえます。

北部九州において
UA期が古墳代
IBが畿内勢による北部九州流入期
IAがそれ以前と考えられます。
0262ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/13(木) 00:16:39.09ID:b+BE6AoH
西暦135〜230年って、なんとか後漢の滅亡前にあったことを示したいんだな
この測定法は1000年スケールなんでむちゃ無理してると思うけど、意図は分かる

素人は中国大陸でのgdgdや王朝滅亡起点にするとわかりやすいよ。日本史は絶対やらんが
0263ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 00:17:03.02ID:EQvkdDHf
畿内説は使者が卑弥呼に面会したとしているが伊都国か那国に止め置かれていたと思うよ
福岡の鴻臚館の前身施設があったと推察する。
畿内には外交使節が留まる専門施設は無いだろ
0264ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/13(木) 00:24:59.87ID:B9lc2d1Z
>>260
会稽東冶の東 は、畿内説では
どこに比定してるの?

別段、辻褄あいそうだけど。
0265ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 00:25:18.24ID:EQvkdDHf
北部九州連合が南の菊池彦(熊本)と争っている状態で
王都にふさわしいのは熊本方面から見て奥まった筑紫平野の北端
北側は山が狭まって天然の要害になっている
これに該当するのは「太宰府都府楼」
女王の都とするところは意外に大宰府近辺じゃないの?
0266nn
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2018/09/13(木) 00:31:15.61ID:994ceIA0
>>260
畿内説で辻褄があわないこと
方角も総距離も風俗も植生も生産物も東の別種も
何も辻褄が合ってないでしょう。

北部九州説ではそれらの辻褄が合う上に
儀の大団体が(海と明記されない)水行すなわち〜水(川)の航行で奴国から10日で山門に着けます。
上妻までなら有明海からさらに川を遡上して20日で着けますね。
丹は大分にも長崎にもあります。(小学生が自然に溜まっていた水銀を牛乳瓶ですくって学校に持ってきた話もあります)
さらに翡翠まで長崎県三重海岸付近で採れることが分かっています。
弥生時代ですからほとんど自然に露頭しているものしか採れなかったでしょう)

半島との編年別の土器の流通を見ても畿内説では説明がつかないと思います。
0267ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 00:47:54.89ID:rezILyT2
nn氏は捏造がバレたんだから何を言っても説得力ゼロ
0268ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/13(木) 00:55:32.32ID:EQvkdDHf
信仰とは真実を知りたくないという意味である。    ニーチェ
0269ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 01:05:56.45ID:nw8SGMyC
九州説は、統一国家の女王卑弥呼に相応しい王都が、どこにあったというのだろうか。
残念ながら、弥生遺跡筆頭の「吉野ケ里」は年代の観点から外れる。
そうなると、九州には、それ以上のところがない。
やはり、邪馬台国の時代のタイミングで、日本の中心が、九州吉野ケ里付近から畿内纏向へと
移っているのだ。
0270ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 01:44:05.69ID:EQvkdDHf
>邪馬台国の時代のタイミングで、日本の中心が、九州吉野ケ里付近から畿内纏向へと移っているのだ。

いやもうちょっと後でしょ
魏の安定期はまだ九州
移るのは魏の滅亡三韓成立とか外交要因が激変する時代だと思うよ
0271ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 01:56:12.63ID:nXBjRQaN
>>222
一目瞭然
(コピペ)
【福岡】浮かぶ、筑後平野の先進性 邪馬台国「卑弥呼の鏡」説 三角縁神獣鏡発見で注目 朝倉・平塚川添遺跡
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1536262966/
#358 弥生時代鉄鏃出土数
東北**1 群馬*21 千葉*63 東京*37 長野*27 石川*55 福井*32
滋賀*13 京都112 大阪*40 兵庫*92 奈良**4 和歌山**5
岡山104 広島*79 山口*97 鳥取*46 島根*30 香川*36 愛媛*25 高知*53
福岡398 佐賀*58 長崎*29 熊本339 大分241 宮崎100 鹿児島**3

これに対するレス
#370福岡熊本スゲェー奈良和歌山情けねぇ
#379お奈良は経済力も技術力も最低
0273ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 02:02:19.57ID:nXBjRQaN
>>222
故井上光貞氏や故森浩一氏も
弥生後期の奈良は集落が発達していないので
政治的にも文化的にも九州北部の国に対して優位に立てない
九州北部の政治勢力が東に移動して畿内に勢力を構えた可能性が濃厚
といったことを述べておられたと記憶する
0274ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 02:14:50.38ID:JDKeMqRq
故人の説が頼りの九州説は終わった説ということ
情報をアップデートできないお爺ちゃんだけがいまだにしがみついてる
0276ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 03:37:49.17ID:CYVnAxKL
卑弥呼は日本の中心にいたのではない広大に東アジアの中心で輝いていた
海洋性戦闘民族倭の親魏倭王とはそういう事
これくらいじゃないと後の日出ずる国の天子という気位はなかっただろう
畿内発祥のショボいランドパワーでは
九州までで精神的満足して高句麗と半島の主導権争いなんて興味湧かなかっただろうな
0277ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 03:58:05.68ID:nw8SGMyC
もうみんなわかっている。
九州には、肝心の邪馬台国の時代に、吉野ケ里を超え、
奈良の纏向や箸墓に匹敵するものがない。
それだけでOUT。
0278ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 04:03:14.10ID:nw8SGMyC
卑弥呼の鏡は、三角縁ではない。
画文帯神獣鏡。
0279ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 04:33:37.45ID:7r8wsqzq
>>277
纏向も箸墓も考古学じゃすでに4世紀の遺物と認定されいる時点でもうOUT
0280ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 04:51:43.87ID:AtWUlDMj
>>244
>『投馬』の上古音は、dug-mag

支那の上古音は孔子が集収編輯した
紀元前6〜7世紀の詩経の押韻などに基づいて推定した
漢字音だから古すぎwwwwwwwww

>「出雲イヅモ」のイが弱声化すれば、dug-magとかなり近い発音になる
これはオレが言い始めた説で
断り書き無しに他人の説を勝手にパクるな。
朴李は朝鮮エベンキの得意技wwwww
0281ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 04:56:41.95ID:AtWUlDMj
>>269
邪馬臺国は弥生前期から古墳時代まで
水害に遭いながら復興を遂げた唐古鍵遺跡に決まっている。
0282ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 05:30:14.86ID:AtWUlDMj
>>265
「菊池」
は平安時代10世紀前半の「倭名抄」20巻本によると
「久久知」=ククティ」
と現代の東北弁のように
イ段音、ウ発音段音の区別が曖昧な発音していたことがわかる。
ttp://fast-uploader.com/file/7092338743485/
「知」が「ティ」又は「テ」という発音だったことは
同じ倭名抄に
「はやて=疾風」を「八夜知」
と書いているし
奈良時代の万葉集に越中富山の
「立山」を「多知夜麻=タティヤマ」
ttp://star.ap.teacup.com/yakamochi/425.html
と書いている事を傍証とする事が出来る。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63)
0283ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 05:55:55.46ID:nw8SGMyC
桃の種の分析は物理学の手法。
考古学の「特徴を比較してみて」というような手法より確度が高い。
考古学のもの指しを少し修正する必要があるということだ。
仮定や出発点からもう一度見直すべき。それが科学的態度。
0284ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 06:03:15.07ID:sDf5Lj65
>>260
>投馬国5万戸
>邪馬台国7万戸

これに関しては単純な話でさ。
あきらかに投馬国の人口が多すぎる。

ところで、奴国と伊都国の関係も不自然だ。
奴国2万に対して、そのそばにある伊都国が1000戸。
しかし、代々に王が居るのは伊都国とされる。
そう考えると、明らかに奴国の中の都が伊都国と考えられる。
2万の中に1000がある訳、足す必要はない。

で、投馬国の人口が不自然な話に戻るけど……
たとえ話、埼玉県から東京の練馬区に入ったと想像しよう。
「ここの人口はいくらですか?」と現地人(もしくはガイド)に聞いた。
現地人(あるいはガイド)は何と答えるだろう。
練馬区の人口だろうか? それとも東京都の人口だろうか?
とりあえず、どっちも有り得るだろうが
多すぎる場合は東京都の人口と見た方が良い。

で、投馬国の場合も人口が多すぎる。
おそらく、位置的に投馬国あたりから邪馬台国に入るんだろう。
だから、5万と言うのは邪馬台国の人口と見た方が良い。

じゃあ、邪馬台国の人口とされてるのは何か?
この時代、邪馬台国は奴国を支配下に置いているのだから
広義の人口は、邪馬台国+奴国となる。
つまり、奴国2万+邪馬台国5万で、7万だ。
計算も合う。


邪馬台国単体なら、5万で良い訳だ。
0285ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 06:24:36.51ID:nw8SGMyC
魏志倭人伝の書き手は、伝聞で書いているわけだから、
「東」と書くべきところを「南」と書き間違えた。
つまり、「南」という表現は、九州から「先」ぐらいの意味でしかなかった。
そこで、起点の楽浪郡から見た方向が違っていることに気が付いていなかったのだろう。
0286ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 06:43:43.41ID:nw8SGMyC
物理学の手法の結果には、考古学者や素人では太刀打ちできん。
あとは、学閥の争い。
名古屋大学に最後のいいところを取られたのでは納得いかんと、
東大や京大が反論してくるかも知れん。それに期待。
特に、東大は「スーパー神おかんで」で何とかしてくるかも。
0288ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 07:20:26.71ID:OaeMgUXN
纒向は奈良湖干拓事業の為の臨時施設。
農耕なし。鉄剣なし。馬具有り。
邪馬台国と関連する出土品は皆無。
箸墓も4世紀の墓でほぼ確定。
奈良の遺跡の年代測定は50年以上古く報告されている。
年代の合わない結果は報告しない。
畿内派では希望的観測が基本。
想像を事実と報告した前科持ち。
0289ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 07:28:03.86ID:OaeMgUXN
>>286
カミオカンデが何かも知らない物理音痴w

纒向以外の全ての出土品も同じ手法で測定し直す必要性が出てくるだけ。
科学的検証ってのは手法をゴロゴロ変えちゃだめなんだよ。
0290ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 07:46:12.53ID:AtWUlDMj
>>287
九州信者は牽強付会、こじつけ
>>288
邪馬台国は唐古鍵でOK
0291ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 07:56:53.59ID:AtWUlDMj
>>285
地軸が23.5度傾いていることにより
夏至と冬至で日の出日の入りの方向が
最大47度変化する。
0292ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 07:58:05.19ID:3ZNxM8k2
邪馬台国と大和朝廷が連続してると言う明確な根拠もないんだが
なぜそこに固執するのかがわからん
0293ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 08:02:04.71ID:7r8wsqzq
>>290
唐古鍵は既に畿内説学者が否定してんだが
纒向が無理そうとわかると唐古鍵とか
畿内説ってどれだけ節操ないんだ
0294ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 08:25:02.23ID:CCrk6RwO
畿内説が支離滅裂なのは素人でも分かるのに本人達は気付かないのかな?
何か利権が絡んでるの?
韓国の慰安婦でっち上げとよく似てるよね。
0295ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 08:50:02.19ID:rns5zdwe
九州説があるなら、四国説も権利ある。
邪馬台国論争なんて、その程度。
しかし、この話題だと本がよく売れる。
テレビの視聴率も上がる。
0296ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 09:02:53.94ID:+o6E4J4R
中国人が言う「南京大虐殺」は信じないが
中国人が言う「邪馬台国」は信じる御都合主義糞ジャップ(笑)
0297ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 09:10:35.87ID:B9lc2d1Z
邪馬台国の邪は、
製図六体で、使用された方邪の
邪を理解するとさらに、深まる。
この方邪は、斜めをいみする。
邪靡と書かれた、この単語は、
邪靡(倾斜披靡的样子);だしね。
披靡は、風や戦いで、木々が倒れているいみ。

邪の異体字は、「斜」だからね。

山の頂上か斜面にあったんやないかな。
0298ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 09:47:39.70ID:xt+uWIra
好太王碑の場所まで攻め込んでたのに畿内の近場の関東東北を蝦夷として領地の外
東海とか各地土器を持って集まって推戴した大和朝廷なのにどういうこと
古代倭の中心は九州だったからじゃないの?
0299ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 09:47:43.82ID:B9lc2d1Z
こんな解説もあるよ。
邪は、
斜めの意味で使われている。
これを古典漢語ではngiăg
(ziă、呉音でジャ、漢音でシャ)という。
これを代替する視覚記号として
邪が考案された。
王力(現代中国の言語学者)は
斜と邪を同源としている
(『同源字典』)。
古典の注釈でも「邪は斜に通ず」と
している。
斜めの形状を図示すれば∠の形である。
視点を変えれば∧や∨の形にもなる。
これは「尖る」のイメージであり、
また∧∨の形は「ちぐはぐ」
「食い違う」というイメージである。
邪の深層構造にある
コアイメージである。
邪は「牙ガ(音・イメージ記号)+
邑(限定符号)」と解析する。
牙は獣のきばの意味であるが、
実体に重点があるのではなく
形態や機能に重点がある。
きばは∧の形をなしている。
∧の形は∠の形にもなる。
したがって邪は
村の地形(土地や道など)が
斜めになっている情景を暗示させる。
これは図形的意匠であって意味ではない。
0300nn
垢版 |
2018/09/13(木) 09:52:10.76ID:gtn1Ydc3
>>267
地域でも報告者でも変わる「年代区分の幅」を
捏造呼ばわりしたら古代の歴史研究なんて成り立たないですね。
もちろん精度は上げていかなければなりませんが
0301ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:09:52.62ID:VugJg5oq
>>300
>地域でも報告者でも変わる「年代区分の幅」

そうであっても、コンセンサスはあるし、標準的と認められている編年は
厳然としてある

それを、全部、「誤差があるはず」といって自説に都合のよいところまで
勝手に動かすのは、やはり捏造の謗りを受けるに値する

nn氏は、結局「専門家も全部バカ、オレ一人が正しい」と言っているに等しい
0302ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:11:07.01ID:VugJg5oq
川の水行、特に北部九州の小さな川の水行などはないことを示しておく

水行を考える場合の補助として「陸行」を見ておく必要がある

「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 
 旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく

この範囲に「陸行」は全部で15件

漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」 
禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち  人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現
0303ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/13(木) 10:11:30.42ID:VugJg5oq
後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ

三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分
0304ニュースソース検討中@自治議論スレ
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2018/09/13(木) 10:11:49.13ID:VugJg5oq
宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)

梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件 
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所
0305ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:12:31.05ID:VugJg5oq
北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、
洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件
0306ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:12:48.32ID:VugJg5oq
旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し
(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南
0307ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:13:08.07ID:VugJg5oq
新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。
 又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,
 二日至末羅國,大食重鎮也。
 又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、
二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,
 自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;疏雞鳴岡首尾,可以通舟,
 陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,
 歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるように
なったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話
0308ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:13:34.66ID:VugJg5oq
こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない 

そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、
この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ
0309ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:13:55.96ID:VugJg5oq
三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない

また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は
見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を
通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう
0310nn
垢版 |
2018/09/13(木) 10:22:20.87ID:gtn1Ydc3
>>172
捏造というのはつまり
(IB期とみられる那珂古墳の存在から)
「IB期を古墳代(になるかもしれない)」
とみたことですね。

頂いた資料「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討 −弥生時代を中心に−」
も踏まえて,確かにここは調整が必要です。

次のように訂正します。
IA期:終末前期 邪馬台国(北部九州)が魏と通交した時代
IB期:終末後期 北部九州が畿内勢に浸透され吸収された時代
IIA期:古墳開始期

これを年代にあてはめると
IA期:終末前期  三世紀前期後葉
IB期:終末後期  三世紀中頃
IIA期:古墳開始期 三世紀後期前葉(三世紀半ば過ぎ)
となります。

これで楽浪土器,馬韓土器も,庄内土器の北部九州流入も合致します。
(これでも納得しない方はいるでしょうが,私が納得できるかどうかなので)
0311ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:41:21.09ID:51IvSCVx
>>300
あんたが捏造したと言われるのは、根拠のない説を言い張ったからではない
論文に書いてあることと違うことを創作し、その創作を根拠に自分に都合のいい妄想ストーリーを作ったからだよ
これを捏造と言わずに何て言うんだよ
0312ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:42:31.84ID:wLNSaAkb
三国志前後の大陸の正史で漢書から新唐書までの範囲で「水行」で全文検索をかけた結果
漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書
の史書に43ヵ所「水行」表記がある
ただ「罔水行舟」みたいな故事成語もあって、地理、旅程として「水行」が使われているのは20ヵ所

そのうち、倭国までの水行、投馬国までの水行、邪馬台国までの水行の3つセットが
「三国志」「梁書」「北史」にある

倭国までの水行は海で3件
投馬国までと邪馬台国までの水行が、川か海かを考えるのが目的なので、
この6件を除いて、残りの11件を見ていく


流求國が「北史」と「隋書」で計2ヵ所

それから東南アジアの
赤土國,扶南之別種「北史」      プノンペン辺り
安南       「新唐書」     ヴィエトナム
佛逝國      「隋書」「新唐書」 マレー半島からスマトラ辺り

それから、大秦国(ローマ帝国)の属国で紅海沿岸の澤散王の話が、
三国志の本文ではなく注釈にある

琉球から澤散王までの7つは、全て海の水行だって分かる
残りの「水行」は4つ

うち二つが「梁書」と「南史」にまったく同じ表現があって
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉
天竺江口つまりガンジス川河口から、「逆水行」七千里で着く
と書いてあるが、ガンジス川くらい大きな川なら水行と書かれることが分かる
ただ、川を遡るので『逆』水行になってる

次が新唐書の安南經交趾太平,百餘里至峰州。又經南田,百三十里至恩樓縣,
乃水行四十里至忠城州 
これは、ベトナムを流れるソンホン川で、今(現代)でも内陸水運に使われている大河

で最後が、「新唐書」の
北經大泊,十七里至金河。又經故後魏沃野鎮城,傍金河,過古長城,九十二里至吐俱麟川。
傍水行 ,經破落汗山、賀ス泉,百三十一里至歩越多山
ここでは、吐俱麟川の傍水行をしている
この吐俱麟川がどれくらいの川幅かは分からないが、これは傍「水行」ではなく、
「水(吐俱麟川)の傍らを行く」つまり「川沿いを行く」だろう

20件中、倭国国内の6件を除いた14件で考えると
吐俱麟川は水行していないので残り13
10件が「海」3件が「川」ただし川は、ガンジス川とソンホン川の
大陸河川(大河)のみとなる訳だ

水行は基本的に海で、川は大陸河川の大河のみ

御笠川、宝満川レベルの小河川の水行は、大陸の正史には出てこない
史記を入れても同じ

大河川ではない川での移動は、川を遡るときは「泝流」下るときは「順流」が主に用いられ、
具体的な川を出すときは「泝漢水」のように用いる

どっちにしても、九州説も「川の水行」仮説も無理なんだよ
0313ニュースソース検討中@自治議論スレ
垢版 |
2018/09/13(木) 10:44:22.94ID:wLNSaAkb
>>310
>私が納得できるかどうか

一人で納得してればいいじゃないか
こんなところに書き込んだりしないでさ

nn氏のいうことは、捏造と変わらないというのはもう定着したから、
いくら書いても賛同は得られないよ
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