【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ >>167
三国史記には
「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。」とも書いてあるから
わりと正確だと思うよ。 邪馬台国(大友)
南の反邪馬台国(竜造寺)
投馬(島津)
1000年を超え再び相まみえる九州三国志 >>148
>IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
>IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
絶対年代が”3世紀前期後半”だの”3世紀中期”とはどこにも書かれてないでしょ
イタコ芸なんかやっても無意味だし、ただの妄想を書いてるに過ぎない
とにかく捏造はやめなさい!!! >>150
"土器や青銅器,鏡などの時代別分布状況から,弥生後期までは畿内と北部九州で普通に交流があったが
弥生終末期になって(一部を除き)ほとんど交流がなくなたことがうかがえる。"
"ところが古墳時代開始期になると畿内や本州の土器が一気に北部九州に流入する"
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/711
↑
この意味は、
弥生後期(交流あり) → 弥生終末期(交流なし) → 古墳出現期(交流あり)
だろが
ところが、論文は弥生終末期から時代が下るに連れて畿内系土器が増えてくる、つまり交流が活発になるとしか読めない
交流あり→なし→ありと変遷した証拠を出せないなら
嘘をついたことを認めなさい、捏造したことを認めなさい!!! >>150
>←「IA期」は,「畿内の土器は搬入(出土)されていない」
↑
余談だが、比恵・那珂遺跡についてのこのレスも捏造な
IA期には「伝統的V様式甕が那珂16次調査SD37溝[czr−25,吉留による第6章]で2点出土している」
と書かれている
この人、毎回のように捏造してくるな
IB期を3世紀中期(中頃の意味だと解釈)と編年を捏造しても、IA期の段階で畿内系土器があるのはまずいからこういう卑怯なことをやったんだろう
nn氏は捏造することになんの躊躇いもない、モラルの欠片もない人間というのをあらためて証明したようなもの >>165
正始八年に難升米が帯方郡から詔書をもらってるし
檄ももらってるから下っ端は読み書きできなくても
邪馬臺国聯合軍の幕僚、聯隊長、大隊長、中隊長クラス以上は
読み書きできた。 >>166
>前方後円墳って「物的証拠」なので倭国が朝鮮半島南部を支配していたのは間違いない。
ただ、その朝鮮半島の前方後円墳、半島南部の西の方(百済と任那の境界あたり)が多く、
狗邪韓国の比定地とされる東側の金海市・釜山市にはない
そして、古墳時代初期、前期のものがなく、中期のものとされている
となると、卑弥呼の頃には半島に倭人の拠点がなく、その後倭人が進出して
定着したようにも見える
崇神天皇から、4世代後の神功皇后による半島進出からそのあとに前方後円墳が
作られるようになったとすると、年代的には整合的になる
まあ、古代のことだから推測交じりのことしか言えないけれど >>160
>>163
やはり西寄りですか。
滋賀県にも秦や百済のつく地名があるのが不思議でして。
>>164
倭人の身なりがガラリと変わってるのが気になってね。
チマチョゴリの起源が倭人だとは思えないし。 >>168
>三国史記には
>「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。」とも書いてあるから
>わりと正確だと思うよ。
8世紀には日本も記紀を書いているし、その直前の頃の史実は日本や中国の
史書を参照しながら書いているから、日本や中国の史書が信用できる程度には
正しいと言えるだろうけれど、脱解王の紀元1世紀まで同様に信用できるとは
とても思えない >>173
>檄ももらってるから下っ端は読み書きできなくても
>邪馬臺国聯合軍の幕僚、聯隊長、大隊長、中隊長クラス以上は
>読み書きできた。
そう単純な話じゃなくて「通訳がいた」で済んでしまう話なんだよ >>171
・IA期に畿内土器が搬入されていない。(あったらそう明記される)
・畿内系といえるのはさらに古い時代の伝統的V様式甕のみ。
これも交流あり→なし→ありと変遷した証拠ですよね。 >>177
>単純な話じゃなくて「通訳がいた」
「通訳」の方が単純だと思うがwww >>170
纒向編年(wiki)によると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E7%B7%A8%E5%B9%B4
180年-210年:纒向1類:弥生V様式末
210年-250年:纒向2類:庄内I式(庄内古式)
です。
(正直言うとIA期・IB期がどのへんになるのかの自分自身への覚書を消し忘れて投稿してしまったんですが,
嘘ねつ造ではないですよね) >>178
書き直すと
1)伝統的V様式甕期:畿内と交流あり
2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
3)IB〜IIA期以降,畿内土器がドッと流入:畿内と交流あり(というか寡占状態)
ということですけど。 >>181
(北部)九州説ならこのように考古学資料でもかなり精密な裏付けが取れますが
畿内説のこの方はヒステリックに相手を人格否定するのみで
なんら具体的な物証を挙げようともしません。
あなたは「出雲は投馬とも読める」なんて素人の思いつきのようなことを
言わない人だったですかね?
魏志倭人伝に基づいて考古学資料で論拠を示してくれるんですよね。 >>179
>檄ももらってるから
↓
>読み書きできた。
の方が、単純だと思うけど?ww 【オウムとは、無関係】 ホーリーネームは匿名 <世界教師マ@トレーヤ> 完全マルチ・リンガル
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1536715603/l50
数ヵ国語ではなく、すべての言語を流暢に話せる、長身の外人男性が現れる! >>181
>2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
>>172は無視するのかい?
「余談だが、比恵・那珂遺跡についてのこのレスも捏造な
IA期には「伝統的V様式甕が那珂16次調査SD37溝[czr−25,吉留による第6章]で2点出土している」
と書かれている
この人、毎回のように捏造してくるな
IB期を3世紀中期(中頃の意味だと解釈)と編年を捏造しても、IA期の段階で畿内系土器があるのはまずいからこういう卑怯なことをやったんだろう
nn氏は捏造することになんの躊躇いもない、モラルの欠片もない人間というのをあらためて証明したようなもの」 出雲 chu-yun
投馬 tou-ma
現代発音ながら、似てるなw >>185
>>172は無視するのかい?
しっかりはっきり答えてますけど?
伝統的V様式甕ですよね?
巻向編年で言うところの弥生V様式末:纒向1類:180年-210年
「IA期以前の甕」であり,私の説を精密に裏付けていますよね。 >>187
相手にして貰えないからってスネるなw
纒向は大和湖の干拓事業の為に作られた臨時施設。
箸墓古墳は4世紀以降の墓である。
さあ、邪馬台国は何処なのでしょう?
あと、出雲をイズモと読むのは訓読みが出来た平安時代以降だから無視ね。 >>188
>巻向編年で言うところの弥生V様式末:纒向1類:180年-210年
この時代には巻向にも「後の畿内勢とは異なる先住弥生人」たちが暮らしていたんでしょうね。
そして北部九州との人々とも交流があったということですね。 出雲の人
もう諦めれ
出雲は尼子経久で満足しなさい >>189
>あと、出雲をイズモと読むのは訓読みが出来た平安時代以降だから無視ね。
おーい、また捏造かよ
これ、何と読む気だ?
夜久毛多都 「伊豆毛」夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁 >>176
あ、そう。
じゃあ、お前だけ三国史記の記述を参考にしないでいいよ >>180
・北部九州と大和の土器の併行関係は久住氏の見解による
・大和の土器の絶対年代は石野氏の年代観を使う(石野氏が北部九州と大和の併行関係をどう考えているかは不明)
・関係ない2つを合わせて、北部九州の絶対年代を出す
一般にこれを捏造という >>180
百歩譲って2つを無理やり合わせてみるとこうなる(そもそも北部九州の年代を大和の土器編年をベースにするのは順序が逆だが)
久住氏の見解だと、
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
と併行する
石野氏の年代観だと、纒向編年の絶対年代は以下のようになる
纒向1類 180年-210年
纒向2類 210年-250年
纒向3類 250年-270年
よって
IA期 ≒ 纒向1類 ≒ 180年-210年
IB期 ≒ 纒向2・3類 ≒ 210年-260年(IIA期も纒向3類に併行するので、IB期は纒向3類の途中までと仮定する)
魏との外交期間である239〜248年はIA期ではなくIB期になる >>180
久住氏の見解
「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討 −弥生時代を中心に−」 討論に向けてのメモおよび参考資料
http://www.academia.edu/7183311/_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%87%BA%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E7%B3%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%81%AE%E5%86%8D%E6%A4%9C%E8%A8%8E_
-%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AB-_%E8%A8%8E%E8%AB%96%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E5%8F%82%E8%80%83%E8%B3%87%E6%96%99
_Kusumi_Takeo2010_revision_and_corrected_in_2012_%E7%AC%AC59%E5%9B%9E%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%9B%86%E4%BC%9A%E8%B3%87%E6%96%99%E9%9B%86_
「楽浪土器の時期別出土傾向から、TA期前後が「公孫氏」の時代を含み、
楽浪土器が一定量出土する最終時期であるTB期が 239〜248 年の魏との外交期間を含むか。
楽浪土器が激減するUA期=布留0式は、248年以降の中国との外交記事が中断する時期ではないか」
IB期は239〜248年の魏との外交期間を含むということだよ
そしてIIA期が248年以降なので、IB期は3世紀前半まで
以上、nn氏の年代捏造の証明オワリ >>181
>1)伝統的V様式甕期:畿内と交流あり
>2)IA期,山陰や四国,東海まであるのに畿内はない:畿内と交流なし
>3)IB〜IIA期以降,畿内土器がドッと流入:畿内と交流あり(というか寡占状態)
・北部九州に伝統的V様式甕期(近畿の土器ベースという意図で書かれている)なんていう時代区分はない
・IA期に伝統的V様式が出土と論文に書かれている
・IB期以降は畿内系土器がドッと流入
弥生終末期とはIA期およびIB期のことなので、この時期に北部九州と畿内との交流がなくなったというのは大嘘
以上、nn氏の捏造の証明オワリ >>198
そして久住氏の見解だと
「那珂八幡古墳」という古墳の出現時期が
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」ということですよね。
「古墳開始期」と私が言ってるのはこれのことなんですが。 >久住氏の見解だと、IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)
いえ,IA期から弥生V様式末の甕が見つかっただけでしょ?
古墳から漢代の鏡が見つかったらその鏡は古墳時代の鏡なんですか?
弥生V様式末の甕はIA期以前の区分ですね。 まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
わりと未開地だったのな。
九州邪馬台国の東征完了後に文明開化した感じ。
東征開始〜統一政権樹立まで150年かかった。
この間は朝貢に行けずじまい。
で、狗奴国ってどこいった? >>201
>まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
ばか発見。 >>199
那珂八幡古墳は定型化された前方後円墳ではない
定型化される前の纒向型前方後円墳はもちろん纒向にもあるし全国各地にある
古墳時代の始まりは箸墓古墳からだよ
久住氏自身がIB期は3世紀前半までという見解を示してるんだから
ド素人が珍説唱えてIB期をずらそうとしても無駄 >>200
弥生V様甕がIA期に出土したと論文に書いてあるのに、勝手にIA期以前と捏造するなよ >>196
この資料に関して
「畿内との交流あり→なし→あり」
が資料から読み取れるという点について,
嘘でもねつ造でもなく問題はないですね。
那珂古墳の出現がIB(IIA)期とあり
IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
ということから,この「古墳の出現期に畿内の浸透(庄内甕が入ってきた)」という解釈も
嘘でもねつ造でもなく問題はないですね。 外的要因が無ければ奈良はいつまでも弥生時代だったよ くどいなぁw
煽るつもり無いけどくどくど自説検証するならブログとか他でやれよ
それは置いといて大和湖は気になるなぁ
史跡と標高の関係をリアルで知りたい
現地調査行ってみようかな >>202
全国的に見るとその時代の奈良がさみしい部類なのは事実だよ。 >>207
縄文の方が面白いと思うよ。
遺跡が大和湖を囲むように点在してる。 >>205
明らかな捏造だろが
>那珂古墳の出現がIB(IIA)期とあり
勝手にIB期と改ざんするな
そもそも那珂八幡古墳は古墳時代の定義と関係ない
>IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
庄内式土器は出土しないが、伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
>IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
この時期(仮に210年-260年とする)に北部九州と畿内で交流が急増したことの証
>この「古墳の出現期に畿内の浸透(庄内甕が入ってきた)」という解釈
ド素人の珍解釈はどうでもいい
古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
弥生終末期に北部九州と畿内で交流がなくなったというのは嘘八百
あんたは証拠を捏造して嘘をついたんだよ
いくらしらばかっくれても無駄 >>201
>まず、奈良は弥生後期までの間において人々の生活痕が希薄だということ。
これが、どうしようもなくバカか、ウソか、認識不足のいずれか
これまで何度も話題に出てるんだけど、また貼っとくよ
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
ついでにこれも
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
専門家のきちんとした情報も見ずに、思い込みの印象で論じても無意味 日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており 漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時 九州北部に鉄を持った天孫降臨族は発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は 金印(カンノイトコクオウ)同じくシンギワオウ(ヒミカ)倭の五王 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村の戦いでの敗戦などがあり700年まで続いた
200年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏のナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
北陸へ半島より渡来した継体は神武五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 本来であれば神武の正統は大勢存在したが内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書を集め日本書紀に内容を剽窃した 「日本出土の朝鮮半島系土器の再検討」
これも欲しかった面白い資料ですね。
P12 「図12 北部九州と畿内・東海の併行関係(久住2006)」
この土器の移動が最も重要なのですが,なぜか肝心のIIA期以前がありません。
P14 「各地土器編年併行関係表(案)」によると,
確かに北部九州のIA期(久住)として大和の庄内0式,1式(寺沢)や纏向1式(新)2式(古)(関川)が対応していますね。
ただ「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」の比恵・那珂遺跡群は
(久住1999b〜2002)ですから「表3 北部九州と伽耶、列島各地の併行関係(久住2006)」に対応し
北部九州(井上)としては「IA期→後期後葉2式」「IB期→後期後葉3式」「IIA期→古墳前期1式」に対応していたのが分かります。
P9「UB期以降に半島系土器が多数集中する西新町には楽浪土器が認められていない」
これは私の説(北部九州説)で説明すれば「UB期以降は邪馬台国(北部九州)を畿内側が吸収してしまい帯方郡(魏・晋)との通交が遮断されたため」ということです。
邪馬台国=畿内説ではどう説明するのでしょうか
・「楽浪土器と通交ルートが重なる馬韓土器は、TA期に列島に出現し、UA期に増加し、さらにUB期以降に急増する。
楽浪土器の減少・消滅と交替的である(久住2007)楽浪土器の時期別出土傾向から、TA期前後が「公孫氏」の時代を含み、
楽浪土器が一定量出土する最終時期であるTB期が239〜248年の魏との外交期間を含むか。」
問題はここですね。
馬韓は後の百済のあったところです。UA期に増加となると「馬韓は畿内連合との通交を強めた」ことになります。
肝心の「IB期」が書かれていませんが「減少した」か「全くなかった」ということでしょうか。
馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,UA期以降は増加ということを踏まえると
P9「山陰および畿内では「UA期」までの半島系土器は非常に少ないという事実が判明する」
当時の「倭国」は「北部九州及び半島南岸部」と考えられますから,UA期は「北部九州が畿内勢に吸収された」直後であり「畿内に吸収されるのを良しとしない倭人の集団」が「半島南岸へ移動して抵抗した」時期と考えられます。
・さらに興味深いのが最後の地図
図27 原の辻=三雲貿易段階(後期前半〜終末期古相)
図28 原の辻=三雲貿易から「博多湾貿易への移行」(TB期〜UA期)
ですね。
北部九州の福岡から畿内にせよ出雲・丹後にせよ「海路で行き来している」ことが想定されています。
(これらの全期間を通じて「畿内まで陸路で1月」は想定されていないようです) >>215
>その後纏向遺跡との比較(2008)の後に,「表5 北部九州編年の併行(対応)関係(久住2009)」に変更され
「IA期→Z期 終末期(古相)」「IB期→[期 終末期(新相)」「IIA期→古墳初頭」に対応したということですね。
1)IA期→終末期(古相)
2)IB期→[期 終末期(新相)
3)IIA期→古墳初頭
ですから,
古墳時代は「古墳を数年がかりで計画・施工した後」の時代です。
その前にあったIB期は「畿内勢による北部九州浸透期」であり
佐々木資料から,その流入はダイレクトで急激に現地の生産を圧倒
(一方,絹や鉄器職人も急激に流出)したのが見て取れます。 >>210
>勝手にIB期と改ざんするな
「IB期,新しく見積もってもIIA期におく」
なのでIB(IIA)期です。
>そもそも那珂八幡古墳は古墳時代の定義と関係ない
久住氏もIB期,新しく見積もってもIIA期と,「古墳時代の定義と矛盾しない」ように忖度してますが
本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。
>伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
その通りです。
>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
それは証明されていませんね。
>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。
その以前に北部九州(例えば那珂遺跡)への
庄内土器を伝える「畿内勢の流入期」が存在しています。 >>215
>馬韓と畿内との交流がTA期(公孫氏時代)にはあり,IIB期(魏・邪馬台国通交時代)にはなく,
UA期以降は増加ということを踏まえると
IIB期はIB期の間違いです。
これをふまえると,馬韓は魏とは通交していなかったことが考えられます。
つまり「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
の「韓國を歷て南ながら東ながら」の韓國は馬韓にあたりますが
やはり「馬韓の沖あいを航海した」ということだとみられます。
馬韓は公孫氏とは通交し,(魏・邪馬台国(北部九州))とは通交せず
邪馬台国(北部九州)を吸収した「畿内勢とは通交を強めた」とみられます。 土器編年史という別のジャンルで風俗文化史でも作ればいいのに。
100年ぐらい簡単にずらしてしまうような連中なんだから。
箸墓古墳から出土した土器は4世紀の布留1式だが墓は3世紀のものだとか言ってる時点で信憑性ないよな。
畿内派は強引な年代ずらしが目につくな。
ある意味、日本の考古学の足を引っ張ってるようなもんだ。 >>189
>訓読みが出来た平安時代以降だから
それは真っ赤なウソ、朝鮮人は息を吐くように・・・
訓読みは記紀万葉の時代からあった
例えば神亀三年(西暦726年)秋九月十五日(西暦726年)
秋九月十五日、播磨國(はりまのくに)印南野(いなみの)に幸(いでま)す時に
笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の作る歌一首、并(なら)びに短か歌
名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 苅管 暮菜寸二(後畧)
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほの うらに 朝凪に 玉藻刈りつつ
「名寸隅」ナキスミの
「名ミョウ、メイ」を「な」と読むのは訓読み=翻訳読み
「寸スン」を「き」と読むのも訓読みで「き」は曲尺の1寸に相当する。
古事記にも用例が有る。 「御歯の長さ一寸(ひとき) 」。
【隅】は《廣韻》遇俱切《集韻》《韻會》元俱切,音虞(グ)
支那語客家方言でngiと発音し広東方言で[jyu]=ジュではなくユ(陽平声)又は[jyu]=ユ(陽去声)
支那の漢字発音は玄宗皇帝が楊貴妃とセックス三昧してた時代に四声が
頭子音が清音なら高い音程(陰調陽)から始まり、
頭子音が濁音なら低い音程(陽調)から始まる四声八調に分化した。
元朝(モンゴル統治)時代にルーツを持つ北京官話=Mandarin=普通話(プートンホワ)では頭子音ngが消滅し
広東語とほぼ同じü(陽平声) でüは英文タイプライターで印字できないので
通常yuと打つのが現代支那人民共和国政府の定めたラテン文字綴り「ピンイン」である。
国際音声符号IPAでは[y]である。
音読みがグの漢字【隅】を「すみ」と読むのは日本語訳が固定化した翻訳読みで「訓読み」と言い慣らわしている。
つまり「名寸隅なきすみ」という古代の地名を漢字3文字の音読みではなく
すべて訓読みでつなぎ合わせた「訓仮名」という手法で表現している。 >>208
>全国的に見るとその時代の奈良がさみしい部類なのは事実だよ。
唐古・鍵遺跡
奈良盆地中央部に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
奈良には、弥生時代から全国トップクラスの集落がありました。 >>217
捏造常習犯のド素人が学者気取りで古墳時代の定義まで変えようってかwww
ここまで身の程知らずのやつはほんと珍しいわ
ここ数日であんたがやった捏造をまとめておくよ
・久住編年でIA期を3世紀前期後半(原文ママ)、IB期を3世紀中期(原文ママ)と捏造
・北部九州と畿内の交流を弥生後期(交流あり)→弥生終末期(交流なし)→古墳出現期(交流あり)と捏造
・比恵那珂遺跡でIA期に畿内の土器は出土なしと捏造 >>217
>本当に「この古墳がIB期」だったら,本来は定義にも関わってしまいます。
那珂八幡古墳は定型化される前の前方後円墳だから、仮にIB期だとしても古墳時代の始まりは変わらないんだよ
庄内期にも纒向方前方後円墳が造られているが、それらと同様の位置付けになるだけ
>>この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
>それは証明されていませんね。
証拠を突き付けられても認めないと駄々をこねてるだけ
>>古墳時代が始まる前に伝統的V様式甕および庄内甕が入ってきたということだ
>繰り返しますが「古墳時代」は「古墳が建築完成後」の時代です。
那珂八幡古墳がIB期だとしても、IB期の絶対年代は3世紀前半で変わらないんだよ
さらに言うと土器編年と古墳時代の定義は関係ない
無意味なイチャモンつけてるだけ
3世紀前半のうちに比恵那珂地域に畿内土器がドッと流入
これが現実 >>223
これらは「〜と想定してみる」ということですから
数10年〜数百年ずれることが普通にある古代の考古学データで
更なる実地データの中で絞り込んでいくべきものであって
i出雲を投馬國と決めつけることに比べれば
嘘ともねつ造とも言えませんね。 >>222
勢力?
それなら宝飾品の出土状況を見るべきだね。
俺は調べたことないけど。
>>225
確かに投馬国=出雲国は無理あるね。
どの地域にもありそうだけど東(あずま)国じゃないかな。
九州なら大分の国東とか。
俺は各史書を素直に読んでみて邪馬台国は高千穂だと感じるね。
冬でも草木が青いという描写に合うかどうかは疑問だけど。 >>226
素直に読んでみて「水行20日」はどこになりますか? >>226
冬でも草木が青いは、
冬に落葉しないいみだよね。
いわゆる照葉樹林だね。
冬季の寒さが厳しい地域では、樹木は冬を落葉によってしのぐが、寒さがそれほど厳しくない(最寒月平均気温が5℃以上)地域では葉を落とさず、そのまま次の年も使う事になるので、常緑広葉樹林が成立する。
宮崎の西都原や都城市、高千穂から
尾根伝いにいけば、
日本最大級の綾町 広葉樹林帯がある。
年中青々している。 >>227
あんまり気にしてなかった。
何らかの事情があって20日かかったんだろうと読んだ。
関空から数時間で行ける場所に1週間かかってる人もいるんだから。 >>228
それってドンピシャリじゃない?
宮崎には旅行で行ったことあるけど年中青々してるのは知らなかった。
頭に浮かんだイメージにピッタリだよ。 まだやってら。多数決で決まるとでも思っているのか? >>230
だね。一つ一つ合う状況をみていくのも
重要かもね! >>228
ところが「大和は国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる 倭しうるはし
」
と讃えているのは
宮崎の西都原や都城市、高千穂を禿げ山にし
環境破壊して移住をせざるを得なかった
神武とその取り巻き連中だwwwwwww 宮崎は投馬国だよ
問題は九州の北の邪馬台国と南の投馬国のどちらが畿内を植民地化して倭の超大国に成り上がったかだ 実際の歴史の流れから言うと筑紫と奈良は一体化しているとは言えないからね
本家分家で筑紫奈良の東西長い政権で片づける事もできるが
筑紫に従属的な投馬が畿内の主導権を握り次第に力をつけて筑紫(磐井)を抑えたとも考えられる >>229
>気にしてなかった
素直によんでねーじゃんw
朝日新聞と一緒じゃんw >>234
本当に畿内へ攻め入ったとは考えにくいなあ。。。
畿内でボロボロに荒らされたような遺跡って無いよね? >>15
12000年前の水田遺跡が鹿児島県で見つかっているだろ
岡山県の6000年前の稲作跡とか土器からのプラントオパールが大量に見つかってるし >>237
現実的にありがちな事は想定してという意味だよ。
魏志倭人伝で倭国に来た人は何しに来たの?
俺はどんなところか様子を見に来ただけで位置を把握する為に来たという印象は受けなかった。
単に20日後に投馬という所に着いたというだけだろうと。
もしくは著者が参照した日誌の日付が20日後だったとか。 >>240
本気で言ってると思えないけど、一応
それは陳寿が記録を読み間違えたと「想定」してるってことだよね
素直に読んでるわけじゃないよね
陳寿は水行20日と思って書いてるんだよ >>240
倭国に来た人は、
呉を、牽制し、
倭国と同盟結びたかったと思う。
1、曹操の曾祖父の墓に、
倭人と同盟結ぶかどうか書いていた。
2、黄色の旗と檄文を邪馬台国に贈る。
黄色は、皇帝の皇と同じ発音。つまりは
中原の正統王朝を、呉に見せつける。
檄文は、同盟国におくる軍事指示書。
時に、敵に布告を行うこともあり。
3呉は、戦士を確保するため、
外洋へ船だし、沖縄、台湾到着。現地民をつれかえるが、伝染病で、損害大。
4、魏が、帯方郡を作る前は、
呉と公孫氏は繋がっていた。魏がせめて
来たとき、呉は、兵を送っている。
5呉が衰弱して、滅亡したあとは、
ぱったり記録がとまる。狗奴國との
戦闘記録もなくなる。 これは完全に想像。
実は暗号である。
日数表記の箇所は10で割って読む。
以降はソレを知っている正式な使者のみが目的地に辿り着ける。 >>225
>出雲を投馬國と決めつけることに比べれば
これがnn氏のたちの悪さ
魏志倭人伝には邪馬台国に「投馬国」を経由して行ったって書いてある
投馬国は、奴国二万戸に対して五万戸の大国だし、倭国の状況を報告するのが
仕事の魏使にしてみれば、投馬国を通るルートを取るのは当然のこと
2万とか5万とかが実数だとは考えていないが、奴国よりざっくりで
2.5倍の国力だと記載されていることになる
北部九州説だと、投馬国は「どこに入る」んだ?
ただでさえ奴国と邪馬台国が「近すぎるし平野も足りない」のに?
『投馬』の上古音は、dug-magでカタカナ表記なら「ヅマ」だ
「出雲イヅモ」のイが弱声化すれば、dug-magとかなり近い発音になる
投馬と出雲だと字面では似てないように思うだろうが、外国人が聞き慣れない発音を
聞き取って当て字で表記したと考えれば、かなり妥当な推定だろう
出雲は、西谷墳墓群を作るほどの王権が発達した大国だという考古学的事実もある
北部九州から出雲までが「水行20日」さらに丹後半島のあたりまで「水行10日」で
移動して、そこから陸行一月なんだから魏志倭人伝のとおりだろ?
記紀には大国主が妻問いで北部九州の宗像三神や越の沼河比売のところまで移動
している様子が書かれているし、日本海側の海上交通は弥生時代にも普通に盛んだった
出雲には各地の土器が集まっていて、人の移動の結節点だったことが考古学的証拠でも
裏付けられている
投馬国の比定地だけで、邪馬台国の場所はほぼ限定される
九州説では投馬国はどこ? >>234
>問題は九州の北の邪馬台国と南の投馬国の
この時点で比定地が破綻している
自女王國以北、其戸數道里可得略載
投馬国は、その戸数:五萬餘戸、道里:南至投馬國水行二十日と、
戸数道里が略載されているので、女王国以北の国でないといけない >>243
>実は暗号である。
九州説はすぐにこれを言い出す
魏志倭人伝の謎を「解いた」とww
史書ってのは暗号文でも判じ物でもないんだよ
素直に呼んで普通に読めるように書いてある
それでつじつまが合わないなら、それは考え方(九州説)が間違っているんだよ >>243
じゃ、これも想像。
熊本には、トンカラリンがある。
周辺遺跡は、弥生中期で、
エジプトなどで、有名な変形頭蓋骨が
出たらしい。しかも数体。高貴なシャーマンかな。鬼道ならこれくらいするかな。 >>207
奈良に行くなら田原本町に行って唐古鍵遺跡辺りを周るとよいですよ
立派な博物館があり、弥生時代の遺物が山ほどあります
また、その辺りには鏡作神社があり、邪馬台国に時代に鏡を作っていたのでは
ないかと言われている。 >>247
トンカラリン知ってるー!
ただし強烈すぎるw
卑弥呼の先祖たちかもしれないw 学者で九州説を唱える人は実質いない。
我田引水したい九州の観光関係者だけ、あきらめきれずにいる。 >>251
畿内説はもともと無い。
当初は京大の落ちこぼれとメディアの飯馬の種だったが。 日本は、ずっと天皇の国なのだ。ヒミコも日の巫女、天皇家の人間。
孝霊天皇皇女、「ヤマトトトヒモモソ姫」。
今回、モモソ姫の「桃」が証言しているのだ。
名古屋大学の敷地内には、昔からその地にあったという「鏡ケ池」というのがある。
鏡はヒミコのゆかりの品。
恐らく、名古屋大学による年代の証明もヒミコの神意で運命づけられているのだろう。
日本は紛れもなく神の国なのだ。 >>250
考古学の場合は学者が一番信用出来ない。
前科何犯よ?
これは畿内・九州関係なく共通の留意事項だ。 >>248
いいですね、是非行ってくる
個人的には三輪山と葛城の高台から俯瞰して奈良盆地の全景と、水が抜ける経路の大和川沿い、その先にある羽曳野の古墳群を、当時の地理を想像しながらツーリングしてみようと思う
水運適地が弥生末期の地理的優位性を生んでるということは、想像以上に流通が盛んだったことを物語るものだよね
信長の拠点移動ルートも同じ。
水運=経済を押さえたものが権力を得る
そしてその富の源泉はやはり米だ
地味で見逃しがちだけど、やっぱり米は鉄や宝に勝る富だったと感じる >>223
>捏造常習犯のド素人が学者気取りで古墳時代の定義まで変えようってかwww
この人ってここが学会か何かに見えてるんでしょうか?
違いますからね。おじいちゃん。
確かに学者じゃない素人ですが、ここで議論することは構わないでしょうに。
個人的にはどんどん肉付けができてとても助かります。
(確かに桃をさておいての議論ばかりには自分でも問題あるなぁとは思いますけど。) >>246
むしろ北部九州説なら、魏志倭人伝とも考古学資料ともだいたい辻褄あってますけど、畿内説じゃほとんど説明不能でしょうに。 >>245
いや、必ずしも放射説が成り立たないわけではありません。
それに示してもらった資料(朝鮮のほう)の最後の地図にあったとおりに、
北部九州から機内まで瀬戸内とおれば河内湖(大阪湾)も超えられるでしょうに。 >九州説では投馬国はどこ?
しつこいな、投馬国は南九州の薩摩国だって
帯方郡から南に船で20日だよ
韓国九州沖縄の説明してんのに南九州を省く意味ないだろ >>258
九州説で辻褄があわないこと
水行20日
水行10日陸行1月
投馬国5万戸
邪馬台国7万戸
末盧国から伊都国への方角
丹有り
帯方郡から1万2000里
会稽東冶の東
畿内説で辻褄があわないこと
方角のみ(ただし合理的で根拠のある説明がつく) >>257
>IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
庄内式土器は出土しないが、伝統的V様式土器が出土と論文に書かれている
この時期(仮に180年-210年とする)に北部九州と畿内で交流があったことの証
これの評価が鍵でしょうね。
久住氏はTAを終末期(旧)、TBを終末期(新)、UAを古墳時代としているわけですが
伝統的V様式土器は終末期(旧)に出現した土器ではなく、やはり弥生末期以前からの土器といえます。
そしてそれは(庄内土器を作り出した畿内勢以前の)先住弥生人たちの土器だといえます。
一方庄内土器は、北部九州への畿内勢の流入が始まる時期(TB期)に持ち込まれ、
機内の職人が北部九州の土で現地生産が開始された土器といえます。
北部九州において
UA期が古墳代
IBが畿内勢による北部九州流入期
IAがそれ以前と考えられます。 西暦135〜230年って、なんとか後漢の滅亡前にあったことを示したいんだな
この測定法は1000年スケールなんでむちゃ無理してると思うけど、意図は分かる
素人は中国大陸でのgdgdや王朝滅亡起点にするとわかりやすいよ。日本史は絶対やらんが 畿内説は使者が卑弥呼に面会したとしているが伊都国か那国に止め置かれていたと思うよ
福岡の鴻臚館の前身施設があったと推察する。
畿内には外交使節が留まる専門施設は無いだろ >>260
会稽東冶の東 は、畿内説では
どこに比定してるの?
別段、辻褄あいそうだけど。 北部九州連合が南の菊池彦(熊本)と争っている状態で
王都にふさわしいのは熊本方面から見て奥まった筑紫平野の北端
北側は山が狭まって天然の要害になっている
これに該当するのは「太宰府都府楼」
女王の都とするところは意外に大宰府近辺じゃないの? >>260
畿内説で辻褄があわないこと
方角も総距離も風俗も植生も生産物も東の別種も
何も辻褄が合ってないでしょう。
北部九州説ではそれらの辻褄が合う上に
儀の大団体が(海と明記されない)水行すなわち〜水(川)の航行で奴国から10日で山門に着けます。
上妻までなら有明海からさらに川を遡上して20日で着けますね。
丹は大分にも長崎にもあります。(小学生が自然に溜まっていた水銀を牛乳瓶ですくって学校に持ってきた話もあります)
さらに翡翠まで長崎県三重海岸付近で採れることが分かっています。
弥生時代ですからほとんど自然に露頭しているものしか採れなかったでしょう)
半島との編年別の土器の流通を見ても畿内説では説明がつかないと思います。 nn氏は捏造がバレたんだから何を言っても説得力ゼロ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています