【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市
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邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html >>494
では、中国側とやりとりしていたのは大物主側ということか
とすると、大物主側が倭であり、五王というのもそちら側か
それが海に勢力を持っていた側であり、皇室はあくまでも日本列島の地上を治めていた山側というわけか
海側は出雲であり、山側が大和
皇祖が山幸彦に連なり、海幸彦は山幸彦に負ける
大物主(大国主)はスサノオの系譜、皇室はアマテラスの系譜(記紀)
倭と日本
倭が負けて日本が列島統一(旧唐書) 東北大学名誉教授は、神話の国譲りに関して、東日本が西日本に国譲りを迫った、という論文を執筆している
西日本の倭から見て、東日本は日ノ本 オカルトに近くなってきたなw
卑弥呼という存在に固執するよりも権力の変遷やまだ知らない風俗の発見などが興味を引く
その結果として浮かび上がればいあんたけどね
桃の種もその一つであって、それが何を意味し面白く展開できるかはこれからの皆さんの論説しだい 中国古文書の絵にあるんだけど、倭人ていうのは毛人だよ。
ゲジゲジ眉毛の西郷隆盛とか九州男児だよ。
倭人ていうのは大和では、ないよ。
ちなみに、中国古文書の匈奴は白人だ、スラブの遊牧騎馬民族
だからロシア人だね。 渤海なんていう名前の国が、どこにあったか不明だろ。
漢字のとおりだったら日本海の海底人になるけどけな。
この渤海国が、倭人の住処のことだよ。
倭人ていうのは、よくいわれているのが九州・壱岐対馬・朝鮮半島
と海をまたいで分布している海洋民族なんだ。 >>494
大体崇神と卑弥呼では100年くらい時代が違う。 決定的な証拠がないからな。コナンくんの推理と変わらない。 桃と鬼道の関係を理解出来ん古代史ファンが多くなって、なんだかな〜〜
桃の節句はあるが、リンゴ、みかん、柿などの節句はない、それだけ桃は特別な果物なの。
桃の節句=女子の祭り、古代からアジアでは大事な祝事だったのだ。 学術レベルでは実質的に畿内説で決着している
それがようやく教科書に落とし込まれてきたということ 出雲という名前は無理やり改変された名前。
元はヤマトと名乗っていたがある勢力に滅ぼされ乗っ取られた。
その時のエピソードがヤマタノオロチ(ヤマトノオロチ)伝承。 学術レベルでは畿内説はなくなって
これらを提唱していた学者は
纒向学に転向しているよ。 いつも思うのだが邪馬台国が何処にあったとか卑弥呼はこういう人物だったとか
どうでもよくね?
事実として邪馬台国は日本にあったわけだし(当時はまだ日本ではないが)
卑弥呼なる人物、もしくはそうとされる人物は存在したわけだし
それだけでよくね?
邪馬台国を顧みることで何か得られるものがあるならまだわかるがそろそろ
先(未来)の日本を考え始めても良いころだぞ>歴史学者ども
歴史調べるだけじゃなくて作ろうとか思わないのかよ、歴史学者の名が廃るぞ >>502
ずっと糞レスしてるこいつなんなん
いかにも固執してて実社会でも嫌われてそうで 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶっていうから歴史学は重要なんじゃね
古代日本の研究はそろそろ止めても良さそうだけど >>509
まあそもそも箸墓がある時点で超有力なんだけどね
だけどその他の遺跡に乏しく証拠がないというのは、移動して間もなくで開発中の都だったとも取れるんだよね
俺は卑弥呼は北九州を含む瀬戸内全体を治める勢力が畿内と始めに合併した女王だったと思ってる 「倭国大乱は大和と出雲の戦争だった」という説は魅力的だな >>512
知識ゲームに近いものがあるよね
歴史の変遷を知るからこそ現代を客観的に俯瞰できる
単純に面白いよね >>509
こいつは日本史板でデマ流してる荒らし
こんなとこまで出張してきたのか 出雲神話で面白いのは、薬草や他になんだっけ?大陸がらみの説話が多いと
7〜8年前にnhk教育ラジオの「私の日本語辞典」でゲストの先生が言っていた。
「こんなことを言っていいのかどうか分かりませんが、新羅は元々秦韓と呼ばれ
その文字通り秦の労役から逃げてきた人々が建てた国で、彼らが大陸の
戦乱を避け日本にきた」だとさ。あの放送もう一度聞きたいな。
彼らが出雲族の先祖かな? というか九州論者は、なんで他所はちゃんと地名を当ててるのに、
「邪馬台」は「ヤマトと読ませないんだろうなぁw
まぁ、伊都国(現在の糸島市)と奴国(現在の福岡市)は九州北部だけど、
邪馬台国だけ水行十日で陸行一日とかだからね。普通に瀬戸内海→大阪平野→大和だわな
あとあの金印は漢の奴の倭の〜じゃなくて、委奴国(イト)=伊都国かとw
そりゃまぁ邪馬台(ヤマト)が栄える前は、伊都国が国内最大の勢力を誇ってたわけだから・・・ 美貌の卑弥呼を奪い合って戦争が起きて、国が滅びたとかいうのならロマンチック
なんだがなぁ。 こういう話は面白いんだけど
どうしても妄想に妄想を重ねて
だから何々だ
って奴が湧くのが残念 >>474 >>475
蘇頒模写職貢図のことを指していると思うが的外れ
冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』京大人文研東方学叢書4(2018年刊)によれば
「描かれている倭の使者は実際に入朝したものではなく想像の図である…」(115頁)
この図作成の意図(中華主義の誇示=宣伝)についても詳細は同書参照(面白い) >>485 >>486
曲学阿世の白石と春城の陰謀
=連中の身過ぎ世過ぎのための方便
=文献が読めない考古学者のC14悪用>>91
箸墓古墳は纒向の王長髄彦の墓 >>263 >>303
筑紫内部抗争で負けた側が近畿に逃亡 >>402
なるへそΘ
一理二理三理あり
海上移動より陸上移動の方がイージーでリスクもコストも低い >>519
Troy デスカア
じつは朝鮮人でした という病原菌
には気をつけよう
という戒めの木馬のことですね
オマエラ、 華北草原の大陸を疾駆する
当時、 スラブ系白人の
遊牧騎馬民族にとって、
日本列島は、全部が たんなる YAMA山
だったのだよ、
だから、 邪馬台国 も YAMA山
だから、 大和国 も YAMA山
ただたんに、 Step草原地帯ではない
我々とは異なる 異境の YAMA山
というだけのことだよ
大和国
ならば、
グレート倭 の ト都、
ということで
これは、
古墳群と合致するでしょう
邪馬台国
ならば、
もうこれは
邪道、すなわち鬼道
を能くする
魔女ヒミコ
が教祖
になっている
カルト
が支配する
九州北部にあったとされる
倭人
がよく
貢物を
魏
の領事館のあった
帯方郡に
よく献上する
生口 というのは戦争捕虜のことね
戦争せずとも
最初から
戦争捕虜を献上する
したがって
戦争占領しなくとも
もうすでに
占領されている
九州北部方面
ていうことだよ 単なる一地方豪族がどこにあっても、興味ないね
どうでもいい 【 中華最強伝 】
生口
の反対語は、 死口
× 死人に口なし
○ 死人に口あり
戦争で死んだら食べる
戦争をするのは、食べるため
それは恐ろしいことです
周辺諸国は 怖がって
先を争って 生口
を献上していた >>518
邪馬台はヤマトだよ。山門のことね。
何言ってんの?
w 知人の家の庭から古い土器が出てきた
卑弥呼が住んでいたに違いない! もし仮に、邪馬台国が九州にあったとしたら、その勢力圏はどう考えても
せいぜい岡山県あたりにまでしか及ばない。
少なくとも中部地方までの勢力圏を持った中央政府を想定するのであれば
邪馬台国は近畿地方にあったと考えるのがごく当たり前だ。 九州、山陰、山陽、近畿、北陸、東海、関東、東北、日本各地ににそれなりに大きな勢力圏があったと思うけどね。
中国との関係は国内事情というより中国との貿易の独占が主眼だったんじゃないだろうか。 世間一般の認識としては九州説60%、畿内説30%、その他10%というところだろうか
でも新しい教科書で学んだ高校生はほとんどが畿内説支持になるだろう
教科書に畿内説が有力と書かれてるにもかかわらず頑なに九州説を支持する高校生は少数のはず
そうやって一般人の認識も数年でひっくり返ると予想してるわ
1192つくろう鎌倉幕府なんて言ってる人は今ではほとんどいないし >>538
四世紀の倭の五王の時代に西日本のヤマトの勢力圏が確立してしばらくは巨大古墳を作るくらいに軍備の充実と維持が必要だったが、その後は軍備も縮小し内乱の時代に入る
逆にいうと奈良に都を置くことで大陸からの脅威を逃れ安定することができたんだろう
鉄や武具など朝鮮半島からの文物の流入も必要なくなってきていたということでしょうね
当時の奈良がそこまでの情報を仕入れるためには九州と密接な連絡網が確立されていないと不可能なわけで、もし奈良初で九州の勢力を滅ぼしていたらただの弥生式農業国家になっていたでしょうね
何が言いたいかというと、九州文化が奈良に入らないと、ヤマトは成り立たないということ >>505
神荼と郁塁の伝説
これから、桃木は、魔除け、災いを
逸らす意味合いがきているが、
重要なものは、その伝説の二人が、
鬼を捕まえて、トラの餌にしていた。
で、その二人がいる山には
沢山の桃があったんよな。
だから、中国では、桃の木を院内には、
植えず、院の後ろとかに、植えたんよ。
桃は、エグゼギューターやから。
妖魔と執行人をいみしているわな。
さらな、重要なことは、これを
1番最初に記述したのは、何か。
「淮南子」なんよな。紀元前ちょっと。
で、淮南子は、短里で、北回帰線を
使った一寸千里を計算して、
近似値だしている。
つまりは、淮南子は、当時の倭の
テキストやないかなと思うな。 >>519
倭人伝の時点で既に高齢という記載があるからなあ >>543
淮南子は、夏至、冬至などの
二十四節気がでそろい、
それから、陰陽説もできていて、
桃のくだりの鬼門は、淮南子のなかの
知識からきている。太極図は、そのまま
二十四節気。 あらゆる文献と考古学資料読み込ませてAIで分析できないのかね 超知能AIが時空間移動を確立して直接過去を観測して解決するから問題無い 3世紀における畿内ヤマトの政治連合を表したものがこのマップ
https://i.imgur.com/63f11W7.jpg
纒向型前方後円墳の分布地域≒網掛けした地域がヤマト政権が成立する直前の政治連合であるが
多くの考古学者はこれを邪馬台国連合と考えている >>548
>ヤマト政権が成立する直前の政治連合
なぜ成立する前だと断定しているのか?
成立した後に同じ形の古墳が作られたとみる方が自然ではないか? 魏志倭人伝なかりせば全く違う古代史像が描かれていたのかな。 >>549
説明書きにあるように、纒向型前方後円墳とは前方後円墳のプロトタイプで正式には弥生墳丘墓に分類される
教科書などでは前方後円墳の出現をもってヤマト政権の成立とみなしているので、
纒向型前方後円墳の段階ではヤマト政権の前ということになる
その年代は3世紀前半で邪馬台国が存在したと書かれている時期と一致する >>549
示されてるのが四世紀までの古墳だから初期ヤマト王権の勢力圏
プレヤマト王権(邪馬台国)が存在するのはこのエリアの何処かであることは確定
問題は権力の影響がどのベクトルで働いてるかということですね >>543
淮南子 巻二 俶真訓
「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず……」
これは『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」の典拠となった。らしいね。 >>551
>>552
なるほど
では、そのプレヤマト王権(邪馬台国)の纒向型前方後円墳の規模から考えて
権力の影響のベクトルは畿内から放射状だと考えるのが自然だろう .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 そうなると、日本書紀の記述における、畿内から岡山への吉備津彦の派遣が、岡山の大規模纒向型前方後円墳の存在と合致し
さらには、畿内から放射状に権力が広がったことが、四道将軍の派遣とも合致する、というわけだ >>551
ただ、さらに一筋縄でいかないのは、
卑弥呼は前方後円墳やなく、
丸い墳丘だよな。全く違う思想だわな。 >>555
西都原できまるとなると、
出雲の国譲りに、先遣隊をいれて、
国造りまでの権力をもち
着々と融合していったことになるよ。
で、甘南備山信仰をしていた、奈良の
出雲の同盟国に、神武さんが、後ほど
せめていくし、その融合を
はかるために、出雲の人々を移動させ、
三輪山信仰を許した。
西都原は、円墳、前方後円墳両方あるから、
魏、呉2つの思想があるわな。 >>552
纒向型前方後円墳が築造された年代もわかっていて、最初にできたのが奈良の纒向遺跡にあるもの
大きさも基本的に奈良>地方になってる
例外として吉備に大きなのがあるが築造時期が3世紀後半でそのころには箸墓古墳という巨大な古墳が奈良にあったので
同じ年代で比較すれば常に奈良>地方になってる >>558
淮南子にあるように、沢山の桃の種が
でるのは、戦い相手を鎮めるために、
植えたんかな。または、鎮魂かな。
エギゼギューターの意味もある桃が
沢山あるのは、淮南子の思想だわな。
じゃ、誰がその淮南子を持ってきたんかな?
淮南子より、以前、この島国で、
はなされていた言葉は?
ヤマト、ワ、と張政さんきた時に
聞いていた、話していたその
言葉は、なにことば?
ことばが、広範囲にあることは、
連合国が、縄文から、あったんやない? 大彦命に関しては、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意冨比?(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である。
このことから、四道将軍が創作された神話ではなく、実際に伝承された祖先伝説を元に構成されたことを示している。
日本書紀とは年代が400年弱ズレているが、考古学が国史(日本書紀)の出来事の正確性を証明していっているのは、感慨深いな >>557
後円部を墓、前方部を祭壇とみなせば前方後円墳でも問題ないだろう
あくまで中国人の認識によるものだし
そもそも3世紀中頃の直径150mの墓は日本列島で箸墓古墳のみ
九州には大きな墓をつくる文化自体がなかったのだから卑弥呼の墓の候補は未来永劫見つかることはない >>563
淮南子は、短里表記で計算されていて、
まだ、あまり、日本で論文みない。
でかいから卑弥呼ではない。
1里=360歩。
1里が435mだと約1.2m。
1里が75mだと約0.2m。
径100余歩の卑弥呼の墓が
前者だと約120mの箸墓古墳(円墳部)クラス、
後者だと約20mの円墳クラス >>564
淮南子は、周髀算経と違って、蓋天説の
表記はない。ばっさり切られている。
淮南子の天文訓に、短里計算に
なった文章がある。
いずれにしても、一寸千里で、
圭表の什器を用いて、はかる時の
参考書には、なったんだろう。 >>564
短里とかの与太話には興味ない
あんた短里の前提に1里=300歩ではなく、1里=60歩とか言ってた人だろ?
1里=60歩をごり押ししても無理だから今度は、”短歩”とかいう架空の単位まで捏造したんか
好きにすればいいよ 大きな川が無いから、ここで大きな村(当時の国)を作る事は出来ないと思うけどなぁ
中国との繋がりの強い、地方豪族の墓だと思うな 元の記事と考古学者の年代観についてだけど
考古学者は庄内期を3世紀中頃までと考えている
一方、放射性炭素年代測定法での調査結果は下限が230年までと出ている
微妙に異なるがどちらが正しいかはわからんね
少なくとも九州説の自称専門家が主張してる4世紀というのはまったくの見当違い
今回の分析結果は、3世紀前半には北部九州は畿内ヤマトの傘下に入ってるという考古学者の見解を裏付けたということ
いずれにしても238年時点での北部九州がプレヤマト政権傘下なのかヤマト政権傘下なのかの違いでしかない 対馬から壱岐が1000里、壱岐から九州が1000里
それで最初の出発地点から邪馬台国が12000里
これだけでも九州だろ >>556
特に吉備津彦は興味深いよね
温羅という地方豪族(恐らく渡来系)を征伐したんだけど、その勢力圏が出雲と吉備を結ぶ街道の鉄具製造拠点と関わりがあったというところとか
多分これが桃太郎に繋がってる
奈良周辺もそうだけど、古代の思いを馳せながら街道や地勢を調べるのは実に面白い >>569
旧唐書の表記からみても陸行一月は十分九州の中に収まるしな 日本の正史が都合よく数字(年代)を捏造しているように
中国の正史も都合よく数字(距離)を捏造しているってことだな
勝った魏が呉を大月氏国と倭国で挟むために描いた距離だし >>518
>委奴国(イト)=伊都国かとw
委奴は現代の日本語ではイトと発音するが
古代及び現代の支那語ではWi=英語のweと同じ発音だったから
同一のものではない(キリッ
歴史的比較言語学的時代考証を無視するな
オマエは時代考証の出来ない猿真似デッチ上げチョンと同じレベルだ そりゃ邪馬台国そのものに関しては、
もしかしたら九州の一部勢力が倭の代表と主張して通交したのかも知れない。
そういう可能性も無いではない。
ただその頃の日本はもう畿内の勢力が強大化していて、
国内を支配していく過程にあったのは否定し難いね。 >>574
>もしかしたら九州の一部勢力が倭の代表と主張して通交したのかも知れない。
九州説に残されたわずかな可能性がそこにあったんだが、その可能性もつぶされているのが現実
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf
この論文のP381(PDFのページだとP13/36)に中国鏡の分布の図がある
漢鏡7期第2段階からは畿内勢が独占する
その年代は2世紀後葉〜3世紀前葉となってる
つまり畿内勢が北部九州に進出してくると中国鏡を独占するようになる
したがって西暦238年の時点で魏との交渉を行っていたのは畿内ヤマトと考えるのが妥当 >>486にある東京書籍『新選日本史B』の記述はこの中国鏡の分布のことを言ってると思われる 神武東征は記紀の中の話だから史実ではないと思う。
住吉大社が代表する瀬戸内海の制覇と天武天皇の壬申の乱の勝利のメモリアルじゃないか。 神武東征が史実では無いというのはどうかなあ
神話時代は別にしてまるっきりの嘘が伝承されてるというのは不自然 >>572
にしても、淮南子の短里計算は、
まだ、論理的に否定しきれてないよな。
計算して、いまのGPSのおかげで、
一寸がどこの場所かがわかるんやから。
三ヶ所、北、南、中央とはかり、
一寸違うと、現代の距離でどれくらいかが、
わかり、計算したら、
淮南子も66メートル、周髀算経77メートルぐらいとでるからな。
その計算を否定したら、いいだけよ。
捏造なら、キチンと、
計算箇所を否定せにゃ。 >>578
それは岡村氏のウソなんだけどw
当の岡村氏が監訳した中国の資料では西晋時代のものとされている鏡を自著では後漢中期〜後期と捏造しているw
年代は文字記録のある中国の方が正確なのは言うまでもない
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 「位至三公鏡」とよばれる形式の鏡がある。
> 昨年の2017年11月の講演で紹介した『洛陽銅華』(岡村秀典氏監訳の日本語版では、『洛陽銅鏡』)には、「位至三公鏡」の類といえるものが、
> 十二面紹介されている。いずれも「西晋」時代の鏡とされている。
> 西晋王朝は、「西暦265年〜316年」のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のあとの、三世紀末から、四世紀はじめごろに存在した王朝である。
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-11.gif
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-12.gif
> この表のものに、さきにのべた「洛陽晋墓」出土の八面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる十二面の「位至三公鏡」のすべてが、
> 西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。
> ■「位至三公鏡」の年代
> さて、問題は、ここからである。
> 岡村秀典氏は、その著『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999年刊)のなかで、つぎのようにのべる。
>
> 「漢代400年間の鏡は、文様と銘文の流行の推移をもとに、およそ50年前後の目盛りでつぎのように大きく七期に区分する。
> 漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
> 漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
> 漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
> 漢鏡4期(前一世紀後葉から一世紀はじめ、前漢末から王莽代)
> 漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
> 漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
> 漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
>
> これに三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡を加え、都合、漢・三国代の中国鏡を八期に大別することにする。」
> ここで、さきに、「わが国出土の『位至三公鏡』」をまとめた前の表を、今一度ご覧いただきたい。
> この前の表(わが国出土「位至三公鏡」)には、「漢鏡」の欄がある。そこに、「6期」とか「7期」とか、記されている。これは、右の岡村氏の規準により、
> 七期の区分の、どれにあたるかを示したものである。
> これによれば、わが国出土の「位至三公鏡」の年代は岡村氏の区分によるとき、つぎのようになっている。
> 「漢鏡6期」に属するもの………………………11例
> 「漢鏡7期」に属するもの…………………………7例
> (うち、「7期」とのみあるもの3例。「7−1期」とあるもの4例)
>
> これは、岡村氏のさきの区分の年代では、「後漢中期」から「後漢後期」までのものとなる。実年代で、「二世紀前半〜三世紀はじめ」のものとなる。
> つまり、「卑弥呼遣使前」の年代となる。
> ところが、これは、岡村秀典氏監訳の『洛陽銅鏡』に示されている十二面の「位至三公鏡」が、いずれも、「西晋」代のものとされているのと、あきらかに矛盾する。
> 「西晋」代は、すでにのべたように、「西暦265〜316年」であって、「卑弥呼没後」の年代であるからである。
>
> なぜ、そんなことになるのか。
> それは、岡村秀典氏が「景初四年鏡」をふくめ、「三角縁神獣鏡」の年代を、卑弥呼の時代のものと、きめてかかるからである。
> わが国において、(位至三公鏡)の年代は、その出土遺跡や、その遺跡から出土する土器の形式からみて、(岡村氏の鏡の編年によっても、)
> 「三角縁神獣鏡」の年代よりも、古く位置づけなければならない。
> 「三角縁神獣鏡」を、卑弥呼の時代のものと設定すれば、「位至三公鏡」を、それ以前の「後漢中期」から「後漢後期」のものと設定せざるをえないのである。
> しかし、「事実」は、「位至三公鏡」は、おもに、西晋時代(265〜316)のものである。「三角縁神獣鏡」は、そのあとの、主として、四世紀の、前方後円墳時代、
> 布留式土器の時代のものなのである。
>
> 岡村秀典氏の鏡の年代論は、みずからの著書で示す年代と、監訳本のなかで示されている年代とのあいだで、矛盾している。
> 監訳本のほうは、中国に原文がある。岡村氏も、大幅に内容を変更することができないのである。そのために、矛盾が生じている。 で、結局卑弥呼の時代の銅鏡は北部九州が中心でしたとさw
> 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、
> 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
> そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。
> (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。
> 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照)
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif
> (2)「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(「長宜子孫」銘内行花文鏡など。そのなかに、魏代の鏡がふくまれているとみられる)も、
> 北九州を中心に分布する。
> (3)九州出土の「位至三公鏡」は、弥生時代の遺跡から出土しているものがあるが、九州以外の遺跡から出土した「位至三公鏡」は、まず、
> 古墳時代の遺跡から出土している。九州以外の地の「位至三公鏡」は、九州方面からもたらされた伝世鏡か、あるいは、踏みかえし鏡であるにしても、
> 九州よりもややのちの時代に埋納された傾向がみてとれる。
>
> (4)これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の西暦300年ごろまで、鏡の出土分布の中心は一貫して北九州にあったといえる。 どっちにしろ邪馬台国=大和王権の証拠が1つも無いので
それ有りきの畿内説も眉唾物 >>587
【大和】と書いてヤマトと読むのは何故だと思う むしろ邪馬台国と大和が違うものって言い出したの誰だよ
どう考えても同じものだろうが >>589
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。
これが最初 八幡(やはた)が邪馬台国だったかもしれないな。
あるいは
山門郡(やまとぐん)は、福岡県(筑後国)にあった郡。
邪馬台国の所在に関する論争において、
山門郡を邪馬台国の所在地とする異説がある。 >>588
そりゃ。いづも文字だからやない。
ひ、ふ、み、よ、、、は、
きちんといまも残ってますよ。
しかも、トの十は、いづも文字の
表記では、島津家の家紋と同じだよ。
縄文人、クマソは薩摩隼人になった
言う人いるしね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています