■先の大戦当時、史上最大の超弩級戦艦として世界を驚愕させた戦艦武蔵が、
46センチ主砲を発射した瞬間をとらえた貴重な写真が見つかった。
武蔵の初代砲術長、永橋爲茂大佐のご遺族よりiRONNA編集部に提供していただいた1枚の写真からは
、当時の日本人の技術力の高さがうかがい知れる。

史上最強の超弩級戦艦として世界が驚愕した戦艦武蔵の46センチ主砲はどれほどの威力があったのか。
歴史ファンであれば、誰もが一度は気になっていたであろう、その主砲が火を噴く瞬間をとらえた貴重な写真が見つかった。
これまで、姉妹艦の「大和」も含めて、大和型戦艦といわれる武蔵と大和の主砲が発射された記録写真は確認されたことがない。

今回見つかった写真は、世界最大の46センチ主砲の威力と当時の日本の技術力をうかがい知ることができる貴重な史料であり、
まさに歴史に残る新発見といえよう。

 この写真を保管していたのは、昭和17年8月に完成した武蔵の初代砲術長を務めた永橋爲茂(ためしげ)大佐の次男、
爲親(ためちか)さん(85)。横須賀海軍砲術学校の教官を務めていた永橋大佐は昭和16年11月、
建造前の武蔵名称「第二号艦」の艤装員を命ぜられ、建造中の艦乗組員として従事した。

当時、武蔵の建造は帝国海軍の最重要機密とされ、海軍内部でも徹底的に情報統制が敷かれた。
このため、永橋大佐はいったん軍籍が離脱扱いとなり、
三菱重工長崎造船所内の「有馬事務所」で勤務している民間人として、造船所で働いていた。

 翌年8月に武蔵が完成すると、正式に砲術長に就任。これまで戦艦「陸奥」や「金剛」の砲術長も歴任していたが、
武蔵は想像を絶する巨大戦艦だったこともあり、他の乗員とともに訓練に明け暮れる日々だったという。
 「武蔵が完成する直前のことだったと思いますが、父が何の前触れもなく突然、逗子(神奈川県)の自宅に帰ってきたんです。
それから兄と私を連れて伊勢(三重県)の皇大神宮を参拝しましたが、
そのときの父は持参した風呂敷包みをとても大事そうに神棚に上げていたのを覚えています。

武蔵の艦内にあった艦内神社のお札をもらって武運を祈るのが目的だったんでしょうね」。爲親さんはそう振り返る。
 爲親さんによると、46センチ主砲を発射した際の爆風の威力を調べる実験では、
甲板に置いたモルモットやウサギの内臓が飛び出すほどの威力があったとされ、
「まるで大地震に遭ったぐらい艦船が揺れたと、父も46センチ主砲のケタ違いの威力に大変なショックを受けているようだった」という。

 爲親さんが保管していた写真は、横10・5センチ、縦7・5センチのモノクロ。
武蔵が左舷に向けて発砲する様子を艦尾側から撮影したとみられるが、撮影場所や日時は不明。
海軍の記録によれば、武蔵は最大幅が約40メートルあったが、主砲から出た砲煙はその倍近くに達しており、
さらに爆風による衝撃波で150メートルほど先まで海面が波打っていることが分かる。主砲の射程距離は42キロとも伝えられるが、
主砲が放つその威力をまざまざと伝える1枚である。
 映像制作会社「セレブロ」(東京都)の本多敬さん(72)が「大和」「武蔵」の動画を探す過程で、
以前本多さんが制作したDVDを見た爲親さんから問い合わせがあったことがきっかけとなり、発見につながった。
本多さんが専門家を通じて調べたところ大和型戦艦の46センチ主砲が発射された瞬間に間違いないと確認されたという。
 永橋大佐は昭和18年2月に武蔵から退艦し、その後は戦艦「榛名」の副長、さらに海軍兵学校の教官に転任した。
爲親さんにとって、今も忘れられない記憶が、19年10月にレイテ沖海戦に出撃した武蔵が沈没した直後の父の様子だったという。
「兵学校から夕方帰宅した父の様子が明らかに変だと気付いた。部屋に一人こもってなかなか出てこない。様子をうかがっていると、
部屋に入れてくれた父が目に涙を浮かべて、『武蔵が沈没した。砲塔分隊員が…』と震えた声で話してくれたのを今でもよく覚えています。

画像:主砲を発射する戦艦武蔵
http://ironna.jp/file/47b33c39b850459d78db0790748ae75a.jpg

オピニオンサイトiRONNA
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続く)