【考古学】伝承は本当だった?大型屋敷跡見つかる 滋賀・野洲
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滋賀県野洲市教育委員会は26日、同市小篠原の小篠原遺跡から室町時代前期の大型屋敷区画跡が見つかったと発表した。
屋敷の区画が大きいことや地域の小字名などから、市教委は「伝承に残る中世の寺院が存在した可能性がある」としている。
宅地造成のため、4月から5700平方メートルを調査し、屋敷区画を形成する大溝の一部と、
掘っ立て柱建物19棟の柱跡、井戸9基の跡、土師(はじ)器などを見つけた。
大溝は東西90メートル、南北70メートル、幅4・5メートル、深さ0・5〜1・2メートル。
中世の村落領主の屋敷区画は50メートル四方が多く、実力者の屋敷跡と推測される。
同遺跡周辺では「清泉寺」か「清水寺」が中世に存在したという言い伝えがあり、「西ノ堂」「墓原」などの小字名も残る。
伝承が本当だった可能性が高まったとしている。
28日午後2時から現地説明会を開く。問い合わせは市文化財保護課077(589)6436=平日のみ。
京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171027000043 >>46
現代の社会では墓=忌み嫌われるもの
になってしまっているけど、古代は御先祖様という場合もある。
また古墳群も墓だったので、それほど嫌うほどの意味がなかったのかもね。
京都の河原町通近辺もマンション建設で発掘したらお地蔵さんとか、
墓石がゴロゴロ出てきたんで、人間はいつか死ぬのは当たり前の仏教思想なら
気にしても始まらないのかもね。
それに古代の墓のある場所って、結構見晴らしも良くて良い場所だったり。 >>48
釣りだろうけどこういうのがドヤ顔で語るのほんと困る >>49
河原町は文字通りの鴨川の河原で、河原乞食や非人などの棲息地帯だったから。
滋賀作の場合は(現在と同じく)死体処理人や墓守などの賤民がお屋敷に棲む支配階層だったのだろう。 >>50
具体的には?
>>51>>52
あと、いちいちID変えて
わかりやすい自演する意味がわからん ああ、そうだ。中国の史書と言えば。
魏志倭人伝で言えば、
邪馬台国や伊都国には文字があったとある。
>および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、
>その文書・賜物(たまもの)を錯(あやま)りなく
>女王に伝送する機能も果たした。
しかし、それは畿内が邪馬台国でない証拠でもある。
当時、畿内に文字があったのなら
むしろ、邪馬台国の記録が記紀に残ってない理由が無い。
そもそも伊都国や対馬の人間が全滅してないのだから
記紀のあらわされた時代でも、そこの人間に聞きに行けば
邪馬台国の位置なんて、すぐわかったろう。
そこから考えれば、畿内に邪馬台国はなく、
その時代、文字すらなかったろうと。
というかさ、古事記はもとより
日本書紀の微妙な漢文から見ても。
畿内に文字が入ってきた時代って
そんな古い時代じゃないよ。
ろくに文字が無い国に朝貢するかね?って話
(文字が無いって事は、兵を動かす伝令だって
たかが知れてるだろうしね) 自分に否定的な意見はID変えての自演だとかなるやつって
やっぱり思い込み激しいんだな 滋賀作は自意識過剰だよ
湿地帯に棲むイジメ専従の両生類に過ぎないくせに >>33
そうやから楽しんじゃない。想像をまた確かめたくって、次々とステージアップして行く。分岐に分岐を重ねていつの間にか体系化して学問の領域に踏み込むんやで >>54
まず白村江の戦いが何処と何処の戦いなのか
恥ずかしい長文垂れ流す前に
中学校の知識くらい仕入れてこいよ
まともに相手すらされるわけないんだから >>53
河原町通りが拡張されたのは歴史が新しいよw >>53
あと河原町二条より少し北のあたりに御所以上の藤原氏の邸宅があったし。 >>14
逆に新羅から日本にやってきて支配者となることも自然な気がする 古代日本を矮小化して考える奴多いな
一大海洋国家だったんだぞ
もしかしたら朝鮮半島南部は倭国領土だったとかも知らんのかね >>6
発掘によって、潤色が判明する場合もある
>改新の詔(かいしんのみことのり)
>この詔は『日本書紀』に掲載されている。
>従来はこれにより、公地公民制、租庸調の税制、班田収授法などが
>確立したと考えられていた。しかし、藤原京から出土した木簡により
>『日本書紀』に見える詔の内容は
>編者によって潤色されたものであることが明白になっている。
>日本書紀の潤色と編年の疑問
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%96%B0%E3%81%AE%E8%A9%94#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.9B.B8.E7.B4.80.E3.81.AE.E6.BD.A4.E8.89.B2.E3.81.A8.E7.B7.A8.E5.B9.B4.E3.81.AE.E7.96.91.E5.95.8F
>昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から
>「己亥年十月上?国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。
>これにより、それまでの郡評論争に決着が付けられたとともに、
>『日本書紀』の改新の詔の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが明白になった。
>潤色が確実となったため、日本書紀による編年は、他の史料による多面的な検討が必要となった。 >>19
じゃあ西川貴教とかチョン顔っぽい野洲人も日本書記とか古事記の時代の新羅や百済の末裔かもしれんな
勿論その時代の半島人は今の朝鮮人とは人種が違うが 掘り返すたびに、何か発見されるときあるけど・・・
あれなに?
売名??? >>71
売名は…無くはないけど主目的は金(予算)やで
成果上げないと発掘調査打ち切られたり
次の発掘調査にスポンサーつかなかったり 吉村センセイみたいな金引っ張ってくるのと関係各所に話し通すのに特化した人材がいないと発掘調査は大変だよな >>47
伝承と神話は別のものと考えても良いと思う。 >>23
八王寺なんて、宮っ子でも知らんぞ。どこよ? >>33
奈良に行ったけどびっくりしたわ。歩いてたら古墳があって、遺跡はそこらへんに放置されてて、聞いたら古墳なんて掘ったら出るって。音泉みたいな感覚で言ってた。あれはロマンだな >>47
でもさー、横浜の鶴見神社って小さいのがあって、(あそこは総持寺で有名だからね)、え?800年くらいには文献に出てて、貝塚があるから弥生時代からあったのでしょうと書かれてて、びっくり仰天。
そりゃ最初の天皇の寿命とかおかしいけど、何もなかったとも思えない。個人的には神武天皇のディー・エヌ・エーを採取してほしい >>71
そりゃ掘るたびに掘る目的かえてる訳だし
同じ遺跡でも掘ってる場所は違うよ。
だいたいここにこれが埋まってそうって目星つけて掘ってるわけだけどね。
とは言え、成果を出さないといけないのは間違いなくて何かしらでてきたものをニュースにする。
「ここに埋まってないことが分かった」なんて余裕ぶっこいたセリフが言えるのは本当に一握り。 >>76
鎌倉なんかも中世の造成地がそのまま宅地になってて、墳墓遺跡を物置に使ってるのが普通。 >>79
発掘調査の手伝いをしたことがあるけれど、地層が大事なんだわ
たとえば大きな戦争(壬申の乱とか応仁の乱)があると焼け野原に
なったと言われるように焼けた地層が出てくる。
他にも大洪水が起こっていれば、そういう地層も出てくる。
炭素から年代測定をしたりして、時間軸のいつの時代だったかが
結構重要になってくる。
だから遺跡が層になっていて、古墳→弥生→縄文とさらに下に
掘ってみて、いつからその場所が栄えていたのか調べるところもある。 皮肉なことに滋賀県教育委員会による数十年にわたる比叡山の大規模発掘調査では、焼き討ちの証拠となる焦土層が全く発見されなかった。
鎌倉期から衰亡の一途を辿った比叡山では、室町期に入ると僧侶が全て坂本の里坊や京都の門跡寺院でヌクヌク暮らしており、
火を放とうと山を駆け上がった信長軍が目にしたものは、既に朽ち果てて久しい山上堂塔の廃墟の山だったのだ。
ガッカリして山を下りる信長軍。
翌年、比叡山は武田信玄から、延暦寺を身延山に移し復興する代わりに信玄を天台座主とする取引に嬉々として応じた。
日蓮宗からの猛抵抗で移転は頓挫したが、信玄は以後「天台座主沙門信玄」を公称することになった。
滋賀作と比叡山の、余りにも恥ずかしい黒歴史である。 >>11
血洗島という地名があるんだぜ
ちなみに埼玉 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています