日本の未来とアンパンマンについて語るスレ [転載禁止]©2ch.net
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最近イスラム国だのなんだのと言っているが、日本は生き残れるのだろうか
食パンマン様かっけぇ 未来とアンパンマンについて語るスレ [転載禁止]©2ch.net ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
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i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆議院と参議院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ 日本国憲法改正の、国民投票を実施しましょう。お願い致します。☆
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~i_ンイノ 川口まき ガイジ ゼリー乞食 レイシスト 差別主義 無能 社会のゴミ 犯罪者 キチガイ 唐澤貴洋 うんこ野郎 薬物乱用 未成年飲酒 未成年喫煙 割れ厨 違法視聴 いじめ 万引き 不登校 南満鉄道会社なんまんてつどうかいしゃっていったい何をするんだいと真面目まじめに聞いたら、満鉄まんてつの総裁も少し呆あきれた顔をして、御前おまえもよっぽど馬鹿だなあと云った。 是公ぜこうから馬鹿と云われたって怖こわくも何ともないから黙っていた。 すると是公が笑いながら、どうだ今度こんだいっしょに連れてってやろうかと云い出した。 是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年前ぜん、神田の小川亭おがわていの前にあった怪しげな天麩羅屋てんぷらやへ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。 そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試ためしがない。 「今度こんだいっしょに連れてってやろうか」もおおかたその格かくだろうと思ってただうんと答えておいた。 この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。 御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍はたが迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。 何でも是公に聞いて見ると馬関ばかんや何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この尨大ぼうだいな御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。 そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが厭いやなら別でも差支さしつかえないと云う返事であった。 それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月半なかばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。 立てると云えば立てるような身上しんじょうだから立てると答えた。 するとまた十日ほどしていつ何日いつかの船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。 次には用事ができたから一船ひとふね延ばすがどうだと云う便たよりがあった。 しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。 こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し悪にくくなって来た。 馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。 それでも御供旅行の好奇心はどこかに潜ひそんでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。 そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。 人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛かじっていれば清浄潔白しょうじょうけっぱくで何も不足はないじゃないかと云う気になった。 枕元まくらもとで人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない下賤げせんなものはあるまいと思った。 眼を開いて本棚ほんだなを見渡すと書物がぎっしり詰っている。 その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。 何の酔興すいきょうでこんな差別をつけたものだろう、また何の因果いんがでそれを大事そうに列ならべ立てたものだろう。 禎二ていじさんが蒲団ふとんの横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿気ばかげていて何とも云う了見りょうけんにならない。 代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非止とめなくっちゃならないと説諭したが、御尤ごもっともだとも不尤ふもっともだとも答えるのが厭いやだった。 病気は依然として元のところに逗留とうりゅうしていた。 小蒸気こじょうきを出て鉄嶺丸てつれいまるの舷側げんそくを上のぼるや否や、商船会社の大河平おおかわひらさんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。 船が動き出すと、事務長の佐治君さじくんが総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。 船長さんにサルーンの出口で出逢であうと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。 こうみんなが総裁総裁と云うと是公ぜこうと呼ぶのが急に恐ろしくなる。 仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。 この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう安東県あんとうけんを経へて、韓国かんこくにまで及んだのだから少からず恐縮した。 総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友中村是公なかむらぜこうを代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに大袈裟おおげさで、あまりに親しみがなくって、あまりに角かどが出過ぎている。 たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と呼よび棄すてにしたかったんだが、衆寡敵しゅうかてきせず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは遺憾いかんである。 二百十日にひゃくとおかの明あくる日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外呑気のんきにできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは鈍にぶり返っていた。 甲板かんぱんの上に若い英吉利イギリスの男が犬を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う。 ありゃ何ですかと事務長の佐治さじさんに聞くと、え、あれは英国の副領事ふくりょうじだそうですと、佐治さんが答えた。 副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていた。 もっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。 したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえない。 この犬はその後ご大連に渡って大和やまとホテルに投宿した。 そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に出食でっくわして一驚いっきょうを喫きっした。 固もとより犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入はいって来たものと見える。 主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇わきの下に抱かかえて食堂の外に出て行った。 彼は重い犬をあたかも風呂敷包ふろしきづつみのごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股おおまたに歩んで戸の外に身体からだを隠した。 あたかも弾力ある暖かい器械の、素直すなおに自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。 顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状ぎょうじょうに至ってはすこぶる気高いものであった。 退屈だから甲板かんぱんに出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方かたのつかない天気の中うちに、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。 しばらくその痕あとを眺めていたが、やがてまた籐椅子といすの上に腰をおろした。 例の英吉利イギリスの男が、今日は犬を椅子いすの足に鎖で縛りつけて、長い脛すねをその上に延ばして書物を読んでいる。 もう一人の異人はサルーンで何かしきりに認したため物ものをしている。 亜米利加アメリカの宣教師夫婦は席を船長室の傍わきへ移した。 ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。 眼が覚さめてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を引ひっ剥ぺがして見た。 これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。 佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。 友人の畔柳芥舟くろやなぎかいしゅうと同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。 すると先刻さっき黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。 大きさは鉄嶺丸てつれいまるとほぼ同じぐらいに思われるが、船足ふなあしがだいぶ遅のろいと見えて、しばらくの間まにもうこれほど追おっつかれたのである。 欄干らんかんに頬杖ほおづえを突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と後うしろから逼せまって行くのがよく分る。 しまいには黄色い文字で書いた営口丸えいこうまるの三字さえ明あきらかに読めるようになった。 そうして、尻から胴の方へじりじりと競せり上あげて行った。 船は約一丁を隔ててほとんど並行へいこうの姿勢で進行している。 もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。 時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に逼せまって来た。 向うの甲板にいる乗客じょうかくの影が確たしかに勘定かんじょうができるようになった。 中には眼鏡めがねを出してこっちを眺めているのもあった。 髪の色も眼鼻立めはなだちも甲板に立っている人は御互に鮮あざやかな顔を見合せるほど船は近くなった。 と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓こして刹那せつなに近寄り始めた。 海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打ぶつかるなと思った。 途端とたんに向うの舳へさきは余の眼を掠かすめて過ぎ去りつつ、逼せまりつつ、とうとう中等甲板の角かどの所まで行ってどさりと当った。 同時に甲板の上に釣るしてあった端艇ボートが二艘そうほどでんぐり返った。 端艇を繋つないであった鉄の棒は無雑作むぞうさに曲った。 営口丸の船員は手を拍うってわあと囃はやし立たてた。 余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。 一時間の後のち佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。 為替かわせの替かわせると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名かなが好いでしょうと忠告した。 後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。 船が飯田河岸いいだがしのような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。 けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚きたならしいが、二人寄るとなお見苦しい。 こうたくさん塊かたまるとさらに不体裁ふていさいである。 余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下みおろしながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。 そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、陸おかの方で帽子を振って知人に挨拶あいさつをするものなどができて来た。 宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら御世辞おせじを云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら権威赫々けんいかくかくたる総裁だって予知し得る道理がない。 余は欄干らんかんに頬杖ほおづえを突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の家うちへ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は鷹揚おうようにかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。 止まるや否や、クーリー団は、怒おこった蜂はちの巣のように、急に鳴動めいどうし始めた。 その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った身体からだなんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。 すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。 まあひとまず総裁の家うちへでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、紺色こんいろの夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して叮嚀ていねいに挨拶をされた。 それが秘書の沼田ぬまたさんだったので、頬杖を突いて、いつまでも鳴動を眺めている余には、大変な好都合になった。 沼田さんは今度郷里から呼び迎えられた老人を、自宅へ案内されるために、船まで来られたのだそうだが、同じ鉄嶺丸に余の乗っている事を聞いて、わざわざ刺しを通じられたのである。 じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。 力車りきしゃもたくさんある、ところが力車はみんな鳴動連めいどうれんが引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。 馬車の大部分もまた鳴動連によって、御ぎょせられている様子である。 したがっていずれも鳴動流に汚きたないものばかりであった。 二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を縦横たてよこ十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。 その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗きれいなのが二台あった。 御者ぎょしゃが立派なリヴェリーを着て、光った長靴を穿はいて、哈爾賓ハルピン産の肥えた馬の手綱たづなを取って控えていた。 佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の傍そばまで連れて行った。 さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。 門を這入はいって馬車の輪が砂利の上を二三間軋きしったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。 石段を上あがって、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈がんじょうな樫かしの戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶あいさつをした。 どうしたものだろうと思って、石の上に佇たたずんで首を傾かたぶけているところへ、後うしろに足音がするようだからふり向くと、先刻さっき鉄嶺丸で知己ちかづきになった沼田さんである。 沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。 その戸の中へ首を突っ込んで、室へやの奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。 数字の観念に乏しい性質たちだから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。 その広い座敷がただ一枚の絨毯じゅうたんで敷きつめられて、四角よすみだけがわずかばかり華はなやかな織物の色と映てり合あうために、薄暗く光っている。 この大きな絨毯じゅうたんの上に、応接用の椅子いすと卓テーブルがちょんぼり二所ふたところに並べてある。 一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家りんかの座敷ぐらい離れている。 仰向あおむいて見ると天井てんじょうがむやみに高い。 室へやの入口には二階がついていて、その二階の手摺てすりから、余の坐っている所が一目に見下みおろされるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井兼けん二階の天井である。 後のちに人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下みくだしている手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。 そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚びっくりした。 余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公ぜこうの書斎へ通ったので、喫驚びっくりする事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様あみださまを思い出さない事はなかった。 室を這入はいって右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。 正面に五尺ほどの盆栽を二鉢はち置いて、横に奇麗きれいな象の置物が据すえてある。 これは狸穴まみあなの支社の客間で見たものと同じだから、一対いっついを二つに分けたものだろうと思った。 そのほかには長い幕の上に、大おおきな額がかかっていた。 その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。 書体から云うと、上海辺シャンハイへんで見る看板のような字で、筆画ひっかくがすこぶる整っている。 後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨うまくなったものだと感心したが、その実じつ感心したのは、後藤さんの揮毫きごうではなくって、清国皇帝の御筆おふでであった。 右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小ちさ過すぎるのでつい失礼をしたのである。 後藤さんも清国皇帝に逢あって、こう小さく呼よび棄ずてに書かれちゃたまらない。 えらい人からは、滅多めったに賜わったり何なんかされない方がいいと思った。 沼田さんは給仕を呼んで、処々方々しょしょほうぼうへ電話をかけさして、是公の行方ゆくえを聞き合せてくれたが全く分らない。 米国の艦隊が港内に碇泊ていはくしているので、驩迎かんげいのため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを観みに行ってるかも知れないと云う話であった。 じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和やまとホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。 湯を立ててもらって、久しぶりに塩気しおけのない真水まみずの中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩たたくものがある。 風呂場で訪問を受けた試ためしはいまだかつてないんだから、湯槽ゆぶねの中で身を浮かしながら少々逡巡しゅんじゅんしていると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。 いくらこつこつやったって、まさか赤裸はだかで飛び出して、室へやの錠じょうを明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。 すると摺硝子すりガラスの向側むこうがわで、ちょっと明けなさいと云う声がする。 この声なら明けても差支さしつかえないと思って、身体からだ全体から雫しずくを垂らしながら、素裸すっぱだかでボールトを外はずすと、はたして是公ぜこうが杖つえを突いて戸口に立っていた。 来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。 どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観みて、それから舟を漕こいでいたと云う挨拶あいさつである。 飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締しめた。 締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣ゆかたでぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭いやなら遼東りょうとうホテルへでも行けと云って帰って行った。 例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓テーブルへ坐らせられた。 その男が御免ごめんなさい、どうも嚏くしゃみが出てと、手帛ハンケチを鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗あんに嚏を奨励しょうれいしておいた。 そうして御前は旅順りょじゅんを見たかと余に尋ねた。 旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを委くわしく語って聞かせた。 次にあすこの石炭はもう沢山たんとは出まいと聞いた。 しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。 少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも前ぜん同様な返事をしておいた。 すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって…… とまた先刻さっきと寸分すんぶん違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。 先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。 余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは何国人どこじんと思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。 余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀ていねいで親切で慇懃いんぎんで実に模範的国民だなどとしきりに御世辞おせじを振り廻し始めた。 せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた。 表へ出るとアカシヤの葉が朗ほがらかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。 是公の家の屋根から突出つきだした細長い塔が、瑠璃色るりいろの大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋はつあきが、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝きらつかせていた。 この間から米国の艦隊が四艘そう来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、翌日あすの晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと是公ぜこうが勧めた。 出て見ろったって、燕尾服えんびふくも何も持って来やしないから駄目だめだよと断ると、是公が希知けちな奴やつだなと云った。 燕尾服は其上倫敦ロンドン留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を拵こしらえた覚おぼえがあるが、爾来じらい箪笥たんすの底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか持ってないか知らないくらいである。 いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり箪笥の底にしまったなりで出て来た。 じゃ、おれの袴はかま羽織はおりを貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、どんな容子ようすだか見るが好いと、是公は何でも引ひき摺ずり出そうとする。 いっそ出るくらいなら踊らなくっちゃつまらないから、日本服ならまあ止よそうと云いたかったが、是公は正直だから本当にすると好くないと思って、ただ羽織袴はいけないよと断った。 是公はそれでも舞踏会を見せる気と見えて、翌日あくるひの午ひる、社の二階で上田君を捕つらまえて、君の燕尾服をこいつに貸してやらないか、君のならちょうど合いそうだと云っていた。 上田君もこの突然な相談には辟易へきえきしたに違ない。 笑いながら、いえ私のは誰にも合いませんと謙遜けんそんされた。 舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから倶楽部クラブに連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めた。 だいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の下もとに出た。 名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、雅がにも丈夫じょうぶにもできている。 三人は橋の手前にある一棟ひとむねの煉瓦造れんがづくりに這入はいった。 誰かいるかなと、玉突場を覗のぞいたが、ただ電灯が明るく点ついているだけで玉の鳴る音はしなかった。 読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく列ならべてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった。 将棋歌留多かるたをやる所へ這入って腰をかけて見たが、三人の尻をおろしたほかは、椅子いすも洋卓テーブルもことごとく空あいていた。 今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う。 是公の会話の下手な事は天品てんぴんと云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに出入でいりして赤髯あかひげと交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。 それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの倶楽部クラブの会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと呑気のんきな説明をした。 国沢君は大きな本を拡ひろげて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。 英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。 酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの裡うちに星の光を認めた。 玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った。 国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。 ホテルの玄関で、是公ぜこうが馬車をと云うと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。 余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。 大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。 日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透すき徹とおって、路みちも樹きも屋根も煉瓦れんがも、それぞれ鮮あざやかに眸ひとみの中に浮き出した。 やがて蹄ひづめの音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。 二人はこの麗うららかな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。 気がついて見ると、遥向はるかむこうの岡おかの上に高いオベリスクが、白い剣つるぎのように切っ立って、青空に聳そびえている。 オベリスクの手前には奇麗きれいな橋がかかっていた。 家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。 余は遠くからこの三つの建築の位地いちと関係と恰好かっこうとを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。 電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵こしらえてるんだと云う説明である。 電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々危あやしくなって来た。 よくよく糺明きゅうめいして見ると、実は今月末こんげつすえとかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。 そのうち馬車が、電車の軌道レールを敷いている所へ出た。 電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。 御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で稽古けいこしている最中なのだから、軌道レールがここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、鉄軌レールの据すえ方かたが少々違うようである。 御影石みかげいしが払底ふっていなのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。 これが最新式の敷方しきかたなんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって…… 内地から来たものはなるほど田舎いなかもの取扱にされても仕方がない。 そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。 内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。 そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の黄土こうどが、見るうちに靴の先から洋袴ズボンの膝ひざの上まで細かに積もった。 この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。 これが豆油まめあぶらの精製しない方で、こっちが精製した方です。 色が違うばかりじゃない、香においも少し変っています。 嗅かいで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。 外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。 これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。 それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。 動物性と同じくらいに消化こなれますと云われたので急に豆油がありがたくなった。 やはり天麩羅てんぷらなどにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。 出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、石鹸シャボンが三つ並んでいた。 これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。 すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって葢ふたをした。 柞蚕さくさんから取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。 こっちは精製した方でと、傍そばに出されると全く白い。 これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。 しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、羽二重はぶたえのようなものができるつもりですと云う。 柞蚕さくさんから羽二重はぶたえが織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ善よかろう。 高粱酒こうりょうしゅを出して洋盃コップに注つぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。 さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。 是公の話によると、この間高峯譲吉たかみねじょうきちさんが来て、高粱からウィスキーを採とるとか採らないとかしきりに研究していたそうである。 ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。 陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。 中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。 路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上のぼったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。 是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に免めんじて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ椅子いすの上へ腰をかけてしまった。 是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。 これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に這入はいった。 そこへ汚きたない支那人が二三人、奇麗きれいな鳥籠とりかごを提さげてやって来た。 着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を樹きの枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。 それがもし二人集まれば鳴なき競くらべをするからね。 政樹公まさきこうが大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。 政樹公には十年前ぜん上海シャンハイで出逢であったきりである。 その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。 政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。 政樹公の姓は立花たちばなと云って柳川藩やながわはんだから、立派な御侍おさむらいに違ない。 それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。 しかも双方共寄宿舎に這入はいっていたものだから、立花君や立花さんでは紛まぎれやすくていけない。 で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎せんざぶろうという俗称だから銑せんさん銑さんと云った。 なぜ片っ方が公こうなのに、片っ方はさんづけにされてしまったのか、ちょっと分らない。 銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹かかって、帰り路に香港ホンコンで死んでしまった。 したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。 やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公ぜこうと云いい馴なれたようなものだろう。 ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻さっき具合が悪いとかで家うちへ帰った後であった。 こっちの都合もあるし、所労しょろうの人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。 広い階子段はしごだんを二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付とっつきが重役の部屋である。 どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹やけあとのようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵こしらえる訳に行かないんで、 しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午ひるになった。 ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。 食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。 これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。 この人数にんずから推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。 料理は大和やまとホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。 胃が痛いので肉刀ナイフと肉匙フォークは人並ひとなみに動かしたようなものの、その実じつは肉も野菜も咽喉のどの奥へ詰め込んだ姿である。 一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形ひょうたんがたの西洋梨せいようなしを勧すすめられた時は、手を出す勇気すらなかった。 河村調査課長の前へ行って挨拶あいさつをすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀ていねいに聞かれる。 何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢あった時は実は弱った。 先刻さっき重役室へ河村さんが這入はいって来たとき、是公ぜこうが余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本もとで、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、 その実じつ世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目まじめに、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷まごついてしまう。 そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。 やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。 固もとより内心に確乎かっこたる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式あかげっとしきに縹緲ひょうびょうとふわついていたに違ない。 ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田たんでんに膠着こうちゃくしているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。 人を欺だまし終おおせて知らん顔をしているのは善よくない事だから、ここで全く懺悔ざんげしてしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体からだに活気を漲みなぎらせようにも、 とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸いっすんもあがきが取れなかったのである。 二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。 この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。 今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。 余はまだ営業報告を開あけないうちに、早速一工夫ひとくふうしてこう云った。 ――私は専門家でないんですから、そう詳くわしい事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、 縦覧じゅうらんすべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。 河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執とってくれた。 ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。 昔「猫」を書いた時、その中に筑後ちくごの国は久留米くるめの住人に、多々羅三平たたらさんぺいという畸人きじんがいると吹聴ふいちょうした事がある。 当時股野は三池みいけの炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕つかまえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。 そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。 余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除さくじょしては、全巻を改板かいはんする事になるから、簡潔明瞭めいりょうに多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。 それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。 自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後ちくご久留米くるめの住人だからである。 幸い、肥前ひぜん唐津からつに多々羅たたらの浜はまと云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。 これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。 肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。 こう云う訳で余と因縁いんねんの浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢であうとは全く思いがけなかった。 しかも、その家へ呼ばれて御馳走ごちそうになったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日せきじつの紛議ふんぎを忘れて、旧歓きゅうかんを暖める事ができたのは望外ぼうがいの仕合しあわせである。 実を云うと、余は股野がまだ撫順ぶじゅんにいる事とばかり思っていた。 余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表ひょうのような形に拵こしらえて貰もらった。 腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲うつ雨の音がしだいに繁しげくなった。 これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。 絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿うたまろの美人が好い色に印刷されている。 一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。 よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭がしらが来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺うかがえと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。 眼が覚さめたら雨はいつの間にか歇やんで、奇麗きれいな空が磨き上げたように一色ひといろに広く見える中に、明かな月が出ていた。 余は硝子越ガラスごしにこの大きな色を覗のぞいて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。 後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官アメリカしかんと共に倶楽部クラブのバーに繰り込んだのだそうだ。 そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛さかんであったとか、口々に賛辞を呈ていしたものだから、是公はやむをえず、大声たいせいを振り絞しぼって すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉とじて、満場は水を打ったように静かになった。 是公は固もとよりゼントルメンの後あとを何とかつけなければならない。 ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言ひとことも出て来なかった。 英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換くらがえをして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴どなった。 ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人アメリカじんに通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上どうあげにしたそうである。 同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着ひづき日帰ひがえりの遠足をやった事がある。 赤毛布あかげっとを背負しょって弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側がわまで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。 申し合せたように毛布けっとに包くるまって砂浜の上に寝た。 夜中に眼が覚さめると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。 その上犬が来て真水英夫まみずひでおの脚絆きゃはんを啣くわえて行った。 夜が白んで物の色が仄ほのかに明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗きれいに砂だらけになっている。 その時夜明けの風が島を繞めぐって、山にはびこる樹きがさあと靡なびいた。 すると余の傍そばに立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々せんせんきょうきょうとしているじゃないかと云った。 草木の風に靡なびく様を戦々兢々と真面目まじめに形容したのは是公が嚆矢はじめなので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。 当人だけは、いまだに戦々兢々で差支さしつかえないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。 通じた証拠しょうこには胴上にしたじゃないかくらい、酔ようと云いかねない男である。 昨夕は川崎造船所の須田君すだくんからいっしょに晩食ばんめしでも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で肉汁ソップを飲んで寝てしまった。 朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、探さぐりを入れて見ると、やッぱり変だ。 何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと工たくんでいるような不安がある。 さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。 ただ曇った空のように、鈍痛どんつうが薄く一面に広がっている。 苦にがい顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた室へやへ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を扇芳亭せんぼうていへ招待したいからと云う叮嚀ていねいな御挨拶ごあいさつである。 どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。 今日は襟えりの開あいた着物を着て、ちゃんと白い襯衣シャツと白い襟えりをかけているから感心した。 股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。 ボイの持って来た名刺には東北大学教授橋本左五郎はしもとさごろうとあったので、おやと思った。 橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水ごくらくみずの傍そばで御寺の二階を借りていっしょに自炊じすいをしていた事がある。 その時は間代まだいを払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚たいて、それで月々二円ですんだ。 もっとも牛肉は大きな鍋なべへ汁をいっぱい拵こしらえて、その中に浮かして食った。 十銭の牛ぎゅうを七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。 余はここで橋本といっしょに予備門へ這入はいる準備をした。 入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭おかげでやっと入学した。 これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉しるこを、規則のごとく毎晩食ったからである。 汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇うちわをばたばたと鳴らした。 そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。 したがって、余はこの汁粉屋の爺おやじのために盲腸炎にされたと同然である。 その後のち左五さごは――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。 ――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。 そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入はいってしまった。 つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。 この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古もうこの畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。 顔を見ると、昔から慓悍ひょうかんの相そうがあったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。 闥ドーアを排はいして這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健がんけんかねと聞かざるを得なかったくらいである。 ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。 昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。 彼の鼻の先が反返そりかえっているごとく、彼は剽軽ひょうきんでかつ苛辣からつであった。 余はこの鼻のためによく凹へこまされた事を記憶している。 その頃は大勢で猿楽町さるがくちょうの末富屋すえとみやという下宿に陣取っていた。 この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃そろいも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑けいべつするのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。 下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛かろうじて綱渡りをしていた。 英語は教場であてられた時に、分らない訳やくを好い加減につけるだけであった。 数学はできるまで塗板ボールドの前に立っているのを常としていた。 余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。 みんなが代数書を抱えて今日も脚気かっけになるかなど云っては出かけた。 こう云う連中だから、大概は級の尻しりの方に塊かたまって、いつでも雑然と陳列ちんれつされていた。 余のごときは、入学の当時こそ芳賀矢一はがやいちの隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際どひょうぎわからあまり遠くない所でやっと踏ふみ応こたえていた。 級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。 そうして、稍ややともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇ボートを漕こいだ。 試験が済むとその晩から机を重ねて縁側えんがわの隅すみへ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押うでおしをやった。 岡野という男はどこからか、玩具おもちゃの大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。 試験の成績が出ると、一人では恐こわいからみんなを駆かり催もよおして揃って見に行った。 するとことごとく六十代で際きわどく引っ掛っている。 橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。 韻いんも平仄ひょうそくもない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂うれえん席序下算せきじょかさんの便べんと云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。 だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定かんじょうしないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。 そのうち下算かさんにも上算じょうさんにもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。 大連で是公に逢あって、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。 そいつは頼母たのもしいやと大いに嬉うれしがるから、落第だって、落第の質たちが違わあ。 是公だの、余だの、今の旅順の警視総長けいしそうちょうだのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。 その落第の張本ちょうほんとも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに慇懃いんぎんになろうとは思いも寄らぬ事であった。 今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。 河村さんの書いてくれた表ひょうを見ると、娯楽機関という題目のもとに、倶楽部クラブとか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。 中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして洒落しゃれたのさえ、ちらほら見える。 ヨット倶楽部の下に(ただし一艘そう)と括弧かっこで註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。 参観すべき場所と云う標題みだしのもとには、山城町やまぎちょうの大連医院だの、児玉町こだまちょうの従業員養成所だの近江町おうみちょうの合宿所だの、浜町はまちょうの発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。 なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り観みる訳に行かないと云われるはずだ。 しかも是公ぜこうは是非共万遍まんべんなくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。 その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。 余は手に持った表に一通り眼を通しながら、傍そばにいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。 股野は固もとより余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。 もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす了見りょうけんらしい。 そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。 余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。 と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に這入はいったかと思うと、もう突き抜けてしまった。 それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、謡うたいの先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗のぞき込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に昨日きのうの御礼を述べた。 事務所の前がすぐ海で、船渠ドックの中が蒼あおく澄んでいる。 あれで何噸なんトンぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。 余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から見下みおろしながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。 今度はどこだと股野に聞いて見ると、今度は電気の工場へ行きましょうという事である。 鉄嶺丸てつれいまるが大連の港へ這入ったときまず第一に余の眼に、高く赤く真直まっすぐに映じたものはこの工場の煙突であった。 なるほど東洋第一の煙突を持っているだけに、中へ這入ると、凄すさまじいものである。 その一部分では、天井てんじょうを突き抜いて、青空が見えるようにして、四方の壁を高く積み上げていた。 屋根の高さを増す必要があっての事だろうが、青空が煉瓦れんがの上に遠く見えるばかりか、尋常の会話はとうてい聞えないくらいに、恐ろしい音が響いている中に、塵ちりを浴びて立った時は、妙な心持がした。 ある所は足の下も掘り下げて、暗い所にさまざまの仕掛しかけが猛烈に活動していた。 工業世界にも、文学者の頭以上に崇高なものがあるなと感心して、すぐその棟むねを飛び出したくらいである。 詮せんずるに要領はただ凄すさまじい音を聞いて、同じく凄まじい運動を見たのみである。 股野はその間を馳かけ回まわって、おい誰さんはいないかねと、しきりに技師を探していた。 技師は股野に捕つらまるほど閑ひまでなかったと見えて、とうとう見当らなかった。 今日は化物屋敷を見て来たと云うと、田中君が笑いながら、夏目さん、なぜ化物屋敷というんだか訳を知っていますかと聞いた。 余は固もとより下級社員合宿所の標本として、化物屋敷の中を一覧したまでで、化物の因縁いんねんはまだ詮議せんぎしていなかった。 けれども化物屋敷はこれだと云われた時には、うんそうかと云って、少しも躊躇ちゅうちょなく足を踏込ふんごんだ。 なぜそんな恐ろしい名が、この建物に付纏つけまとっているのかと、立ちどまって疑って見る暇も何もなかった。 いわゆる化物屋敷はそれほど陰気にでき上がっていた。 でき上ったというと新規に拵こしらえた意味を含んでいるから、この建築の形容としては、むしろ不適当であるかも知れない。 壁は煉瓦れんがだろうが、外部は一面の灰色で、中には日の透とおりそうもない、薄暗い空気を湛たたえるごとくに思われた。 余はこの屋敷の長い廊下を一階二階三階と幾返いくかえりか往来おうらいした。 階段はしごだんを上あがるときはなおさらこつこつ鳴った。 廊下の左右はことごとく部屋で、部屋という部屋は皆締め切ってあった。 その戸の上に、室しつの所有者の標札がかかっている。 烈はげしい光線に慣れた眼で、すぐその標札を読もうとすると、判然はっきり読めないくらい廊下は暗かった。 余はちょっと立ちどまって室へやの中を見る訳には行かないのかなと股野に聞いて見た。 股野はすぐ持っていた洋杖ステッキで右手の戸をとんと叩たたいた。 しかしはいとも、這入はいれとも応こたえるものはなかった。 股野は毫ごうも辟易へきえきした気色けしきなく無遠慮にそこいら中こつこつ叩いて歩いたが、しまいまで人気ひとけのする室には打ぶつからなかった。 あたかも立たち退のいた町の中を歩いているような感じがした。 三階に来た時、細い廊下の曲り角で一人の女が鍋なべで御菜おさいを煮ているのに出逢であった。 化物屋敷では五六軒寄って一つの台所を持っているのだそうだ。 御神おかみさん水は上にありますかと尋ねたら、いえ下から汲くんで揚げますと答えた。 余はこの暗い町内に、便所がどこにいくつあるか不審に思ったが、つい聞きもせず、女の前を行き過ぎて通ろうとすると、そっちは行きどまりでございますと注意された。 田中君の話によると、この建物は日露戦争の当時の病院だとか云う事である。 戦争が烈はげしくなって、負傷者の数が増して来るに従って、収容した人間に充分の手当ができないばかりでなく、気の毒ながら見殺しにしなければならない兵士がたくさんにできて、それらの創口きずぐちから出る怨うらみの声が大連中に響き渡るほど凄すさまじかったので、 その以後はこの一廓ひとくるわを化物屋敷と呼ぶようになった。 しかし本当だか嘘うそだか実は僕も保証しないと、田中君自身が笑っていたから、余はなおさら保証しない。 ただ満鉄の重役が始めて大連に渡ったとき、この化物屋敷に陣を構えた事だけは事実である。 その時この建物は化物さえ住みかねるほどに荒れ果てて、残焼家屋ざんしょうかおくとして、骸骨がいこつのごとくに突っ立っていたそうである。 陣取った連中は死物狂で、天候と欠乏と不便に対して戦後の戦争を開始した。 汽車の中で炭を焚たいて死しに損そくなったり、貨車へ乗って、カンテラを点つけて用を足そうとすると、そのカンテラが揺ゆすぶれてすぐ消えてしまったり、サイホンを呑むと二三滴口へ這入はいるだけであとはすぐ氷の棒に変化したり、すべてが探険と同様であった。 「清野せいのが毛織の襯衣シャツを半ダース重ねて着たのは彼時あのときだよ」 余は田中君と是公がこんな話をするのを聞いて、つい化物屋敷の事を忘れてしまった。 ただ窓際まどぎわだけが人の通る幅ぐらいの床ゆかになっている。 気をつけないと、足の裏で豆を踏み潰つぶす恐れがある上に、人のいない天井裏を無益に響かすのが苦くになったからである。 こちらの端から向うの端まで眺めて見ると、随分と長い豆の山脈ができ上っていた。 その真中を通して三カ所ほどに井桁いげたに似た恰好かっこうの穴が掘ってある。 豆はその中から断えず下へ落ちて行って、平たく引割られるのだそうだ。 時々どさっと音がして、三階の一隅ひとすみに新しい砂山ができる。 これはクーリーが下から豆の袋を背負しょって来て、加減の好い場所を見計らって、袋の口から、ばらに打ぶち撒まけて行くのである。 その時はぼうと咽むせるような煙けむが立って、数え切れぬほどの豆と豆の間に潜ひそんでいる塵ちりが一度に踊おどり上あがる。 クーリーはおとなしくて、丈夫で、力があって、よく働いて、ただ見物するのでさえ心持が好い。 彼等の背中に担かついでいる豆の袋は、米俵のように軽いものではないそうである。 それを遥はるかの下から、のそのそ背負しょって来ては三階の上へ空あけて行く。 何人がかりで順々に運んでくるのか知れないが、その歩調から態度から時間から、間隔からことごとく一様である。 通り路は長い厚板を坂に渡して、下から三階までを、普請ふしんの足場のように拵こしらえてある。 彼等はこの坂の一つを登って来て、その一つをまた下りて行く。 上のぼるものと下りるものが左右の坂の途中で顔を見合せてもほとんど口を利きいた事がない。 彼等は舌のない人間のように黙々として、朝から晩まで、この重い豆の袋を担かつぎ続けに担いで、三階へ上っては、また三階を下くだるのである。 その沈黙と、その規則ずくな運動と、その忍耐とその精力とはほとんど運命の影のごとくに見える。 実際立って彼等を観察していると、しばらくするうちに妙に考えたくなるくらいである。 三階から落ちた豆が下へ回るや否や、大きな麻風呂敷あさぶろしきが受取って、たちまち釜かまの中に運び込む。 出すときには、風呂敷の四隅を攫つかんで、濛々もうもうと湯気の立つやつを床ゆかの上に放り出す。 赤銅しゃくどうのような肉の色が煙の間から、汗で光々ぴかぴかするのが勇ましく見える。 この素裸すはだかなクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談かんそぐんだんを思い出した。 昔韓信かんしんに股を潜くぐらした豪傑はきっとこんな連中に違いない。 彼等は胴から上の筋肉を逞たくましく露あらわして、大きな足に牛の生皮きがわを縫合せた堅かたい靴を穿はいている。 蒸した豆を藺いで囲んで、丸い枠わくを上から穿はめて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のまま枠わくの中に這入はいって、ぐんぐん豆を踏み固める。 そうして、それを螺旋らせんの締棒しめぼうの下に押込んで、把てをぐるぐると廻し始める。 油は同時に搾しぼられて床下ゆかしたの溝みぞにどろどろに流れ込む。 この油が喞筒ポンプの力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶おけに吸上げられて、静しずかに深そうに淀よどんでいるところを、二階へ上がって三つも四つも覗のぞき込んだときには、恐ろしくなった。 この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平気な顔をして、まあ滅多めったに落ちるような事はありませんねと答えたが、余はどうしても落ちそうな気がしてならなかった。 クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。 と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には真似まねもできません。 どうしてああ強いのだか全く分りませんと、さも呆あきれたように云って聞かせた。 股野が先生私の宅うちへ来なさらんか、八畳の間が空あいています、夜具も蒲団ふとんもあります。 ホテルにいるより呑気のんきで好いでしょうと親切に云ってくれる。 何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取るように眺められるのみならず、海の向うに連つらなる突兀とっこつ極まる山脈さえ、坐っていると、窓の中に向うから這入はいって来てくれるという重宝ちょうほうな家うちなんだそうである。 始めのうちは股野の自慢を好加減いいかげんに聞き流して、そうかそうかと答えていたが、せっかくの好意ではあるし、もともと気の多い男だから、都合によっては少し厄介やっかいになっても好いぐらいに思って、ついでの時是公ぜこうにこの話をすると、 そんな所へ行っちゃいかんとたちまち叱られてしまった。 もしホテルが厭いやなら、おれの宅へ来い、あの部屋へ入れてやるからと云うんで、書斎の次の畳の敷いてある間を見せてくれるんだが、別に西洋流の宿屋に愛想あいそをつかした訳でもないんだから、じゃ厄介になろうとも云わなかった。 是公は書斎の大きな椅子いすの上に胡坐あぐらをかいて、河豚ふぐの干物ひものを噛かじって酒を呑のんでいる。 どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。 そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。 そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。 余はポッケットから注文の薬を出して相手にあてがった。 これは二三日前是公といっしょに馬車に乗って、市中を乗り廻した時、是公の御者ぎょしゃから二十銭借りて大連の薬屋で買ったものである。 その時は是公の御者に対する態度のすこぶる叮嚀ていねいなのに気がついて少しく驚かされた。 君ちょっとそこいらの薬屋へ寄って、ゼムを買ってやって下さいと云うんだから非凡である。 君は御者に対して叮嚀過ぎるよと忠告してやったら、うんあの時の二十銭をまだ払わなかったっけと思い出したように河豚の干物をまた噛っていた。 是公の御者には廿銭借かりがあるだけだが、その別当べっとうに至っては全く奇抜である。 辮髪べんぱつを自慢そうに垂らして、黄色の洋袴ズボンに羅紗らしゃの長靴を穿はいて、手に三尺ほどの払子ほっすをぶら下げている。 よくあんな紳士的な服装なりをして汗も出さずに走かけられる事だと思うくらいに早く走ける。 別当と御者はこのくらいにしてまた股野にかえるが、余は是公に叱られたため、とうとう股野の家へは移らなかった。 長い棟むねがいくつも灰色に並んでいるうちの一番はずれの棟の、一番最後の番号のその二階が彼の家族の領分であった。 岡の下から見ると、まるで英国の避暑地へ行ったようだとある西洋人が評したほど、外部は厚い壁で洋式にできているが、中には日本の香においがする奇麗きれいな畳が敷いてあった。 大連の市街が見える、大連の海が見える、大連の向うの山が見える。 余はそこで村井君に逢あって、股野の細君に逢って、手厚い御馳走ごちそうになって帰った。 支那の宿屋を一つ見ましょうと云いながら、股野は路の左側にある戸を開けて中へ這入はいった。 そこには日本人が三人ほど机を並べて事務を執とっていた。 股野はそのうちの紺こんの洋服を着た人を捕つらまえて、話を始めた。 紹介されて見ると、これは商業学校出の谷村君で、無論旅屋やどやの亭主ではなかった。 谷村君はこの地で支那人と組んで豆の商売を営んでいる。 したがって取引上の必要があって、奥の方から大連へ出て来る豆の荷主にぬしと接触しなければならないのだが、こっちの習慣として、こう云う荷主はけっして普通の旅籠はたごを取らない。 出て来ればきっと取引先へ宿とまって、用の済むまではいつまででもそこに滞在している。 したがって谷村君の奥座敷は一種の宿屋みたような組織にできている。 じゃその奥座敷をちょっと拝見できますかと云うと、谷村君はさあさあと自分から席を離れて、快よく案内に立たれる。 無論樹きも草も花も見当らない、ただの平たい場所である。 応接間の入口は低い板間いたまで、突当りの高い所に蒲団ふとんが敷いてある。 その上に腰をかけて談判をするのだそうだが、横着な事には大きな括枕くくりまくらさえ備えつけてある。 しかし肱ひじを突くためか、頭を載のせるためかは聞き糺ただして見なかった。 その煙管きせるは煙管と云うよりも一種の器械と評した方が好いくらいである。 錫すずの胴どうに水を盛って雁首がんくびから洩もれる煙がこの水の中を通って吸口まで登ってくる仕掛なのだから、慣れないうちは水を吸い上げて口中へ入れる恐れがある。 一服やって御覧なさいと勧められたから、やって見たが、ごぼごぼ音がしてまるで脂やにを呑むような心持がした。 二階が荷主の室へやだと云うんで、二階へ上あがって見ると、なるほど室がたくさん並んでいる。 その中うちの一つでは四人よつたりで博奕ばくちを打っていた。 厚みも大きさも将棋しょうぎの飛車角ひしゃかくぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。 その札は磨いた竹と薄い象牙ぞうげとを背中合せに接ついだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった。 この模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝になるようにも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴るばかりで、どこが博奕なんだか、実はいっこう解らなかった。 ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二三枚貰って来たかった。 一つの室では五六人寄って、そのうちの一人が笛ふえを吹くのを聞いていた。 幕を開けて首を出したら、ぱたりと笛を歇やめてしまった。 また吹き始めるかと思って、しばらく室の中に立っていたが、とうとう吹かなかった。 いずれも下手まずいものだのに、何々先生のために何々書すと云ったようにもったいぶったのばかりであった。 波止場はとばから上あがって真直まっすぐに行くと、大連の町へ出る。 それを真直に行かずに、すぐ左へ折れて長い上屋うわやの影を向うへ、三四町通り越した所に相生あいおいさんの家がある。 西洋館の二階を客間にして古い仏像やら鏡やら銅器陶器の類たぐいを奇麗きれいに飾っているから、客間を見ただけではただ一通りの風流人としか見えない。 相生さんは満鉄の社員として埠頭事務所ふとうじむしょの取締である。 もっと卑近な言葉で云うと、荷物の揚卸あげおろしに使われる仲仕なかしの親方をやっている。 かつて門司の労働者が三井に対してストライキをやったときに、相生さんが進んでその衝に当ったため、手際てぎわよく解決が着いたとか云うので、満鉄から仲仕の親分として招聘しょうへいされたようなものである。 実際相生さんは親分気質おやぶんかたぎにでき上っている。 満鉄から任用の話があったとき、子供が病気で危篤きとくであったのに、相生さんはさっさと大連へ来てしまった。 来て一週間すると子供が死んだと云う便たよりがあった。 相生さんは内地を去る時、すでにこの悲報を手にする覚悟をしていたのだそうだ。 相生さんは大連に来るや否や、仲仕その他すべて埠頭に関する事務を取り扱う連中を集めてここに一部落を築き上げた。 相生さんの家を通り越すと、左右に並んでいる建物は皆自分の経営になったものばかりである。 ここは柔道の道場に使っていますが、時によると講談をやったり演説をやったりしますと云う相生さん自身の説明について、中を覗のぞき込むと、なるほど道場にはちょうど好い建物がある。 その奥に高座こうざができていて、いつでも寄席よせもしくは講演を開くような設備もある。 講演てどんな講演ですかと聞き返したら、相生さんは、まあ内地から来られた人だとか何とかいうのを頼んでやりますと答えられた。 ことによると、遠からぬうちに捕つかまって、ここへ引っ張り出されはしまいかと、その時すぐ気がついたが、真逆まさか私わたしはどうぞ廃よしにして下さいと、頼まれもしないうちに断るのも失礼だと思って、はあなるほどと首肯うなずいて通り過ぎた。 最後にもっとも長い二階建の一棟ひとむねの前に出た。 これが共同生活をやらしている所でと、相生さんが先へ這入はいる。 中は勧工場かんこうばのように真中を往来にして、同おなじく勧工場の見世みせに当る所を長屋の上り口にしてある。 だから長屋と長屋とは壁一重かべひとえで仕切られながら、約一丁も並んでいるばかりか、三尺の往来を越すとすぐ向うの家うちになる。 上り口を枕にして寝れば、吸付莨すいつけたばこのやり取りぐらいはできるほど近い。 相生さんが先へ立って、この狭い往来を通ると、裁縫しごとをしたり、子供を寝かしたりしている神かみさん達が、みんな叮嚀ていねいに挨拶あいさつをする。 しかし中には気がつかずに何か話しているのも見える。 この部落に住んでいる人間が総そうがかりになった上に、その何十倍か何百倍のクーリーを使っても、豆の出盛でさかりには持て余すほど荷が後から後からと出てくる。 相生さんの話によると、多い時は着荷ちゃくにの量が一日ならし五千噸トンあるそうである。 これがため去年雨期うきを持ち越した噸数は四万噸で、今年こんねんはそれが十五万噸に上のぼったとか聞いた。 南北千五百尺東西四千二百尺の埠頭ふとうの側そばにこのくらい豆を積んだらずいぶん盛さかんなものだろう。 旅順から電話がかかってこっちへはいつ来るかという問合わせである。 おい誰がかけてくれるんだろうなと橋本に聞いて見ると、橋本はそうだなあと云うだけで要領を得ない。 おい名前は分らないのかとやむをえずボイに尋ね返したら、ボイは依然として、ただ民政署みんせいしょだと云ってかけて参りましたと同じ事を繰返している。 おおかた友熊ともくまだろうぐらいに橋本と二人で見当をつけて返事をさせた。 これが白仁長官しらにちょうかんの好意から出た聞き合せであった事は旅順に着いて後のち始めて知った。 旅順には佐藤友熊と云う旧友があって、警視総長と云う厳いかめしい役を勤めている。 これは友熊の名前が広告する通りの薩州人さっしゅうじんで、顔も気質も看板のごとく精悍せいかんにでき上がっている。 始めて彼を知ったのは駿河台するがだいの成立学舎という汚きたない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入はいる準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。 佐藤はその頃筒袖つつそでに、脛すねの出る袴はかまを穿はいてやって来た。 余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。 ちょうど白虎隊びゃっこたいの一人いちにんが、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。 上草履うわぞうりや素足すあしで歩くような学校じゃないのだから仕方がない。 床ゆかに穴が開あいていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子ひょうしに、向脛むこうずねを摺剥すりむくだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。 古い屋敷をそのまま学校に用いているので玄関からがすでに教場であった。 ある雨の降る日余はこの玄関に上って時間の来るのを待っていると、黒い桐油とうゆを着て饅頭笠まんじゅうがさを被かぶった郵便脚夫が門から這入って来た。 不思議な事にこの郵便屋が鉄瓶てつびんを提さげている。 足袋たびは無論の事、草鞋わらじさえ穿はいていない。 そうして、普通なら玄関の前へ来て、郵便と大きな声を出すべきところを、無言のまますたすた敷台から教場の中へ這入はいって来た。 この郵便屋がすなわち佐藤であったので大いに感心した。 なぜ鉄瓶を提さげていたものかその理由わけは今日こんにちまでついに聞く機会がない。 そこで賄まかない征伐をやった時、どうした機勢はずみか額に創きずをして、しばらくの間白布しろぬので頭を巻いていたが、それが、後鉢巻うしろはちまきのようにいかにも勇ましく見えた。 賄に擲なぐられたなと調戯からかって苛ひどい目に逢あったので今にその颯爽さっそうたる姿を覚えている。 無論老朽した禿はげではないのだが、まあ土質どしつの悪い草原のように、一面に青々とは茂らなかったのである。 漢語でいうと短髪種々たんぱつしょうしょうとでも形容したら好いのかも知れない。 風が吹けば毛の方で一本一本に靡なびく傾かたむきがあった。 それで皆みんなして佐藤の事を寒雀かんすずめ寒雀と囃はやしていた。 けれども佐藤の頭のようなものが寒雀なんだろうと思って、いっしょになってやっぱり寒雀寒雀と調戯からかった。 この渾名あだなを発明した男はその後技師になって今は北海道にいる。 話が前後するようだが、旅順に来て十何年ぶりかに佐藤に逢って、例の頭を注意して見ると、不思議な事に、その頭には万遍まんべんなく綿密に毛が生えていた。 近頃は正当防禦ぼうぎょのために、こう短く刈っているんだと云って、三分刈の濃い頭を笑いながら掻かいて見せた。 旅順から二度目の電話がかかった翌日の朝、橋本と余は、この旧友に逢うため、また日露の戦跡を観みるため、大連から汽車に乗った。 是公は何か用事があったと見えて、国沢君と二人で停車場ステーションの構内を横切って妙な方角へ向いて歩いて行った。 やがて二人の影は物に遮さえぎられて、汽車の窓から見えなくなった。 そうして満洲に有名な高粱こうりょうの色が始めて眼底に映じ出した。 おい旅順に着いたら久しぶりに日本流の宿屋へ泊ろうかと橋本に相談を掛けるとそうだな浴衣ゆかたを着てごろごろするのも好いねという同意である。 橋本は新しく蒙古から帰ったので、しきりに支那宿に降参した話を始めた。 その支那宿には、名は塞北さいほくに馳はせ、味あじわいは江南を圧すなどという広告の文字がべたべた壁に貼はりつけてあるそうだ。 ほかに使い路のない文句だものだから、汽車の中で、それを残らず余に読んで聞かせてしまった。 二人は笑いながら日本流の奇麗きれいな宿屋を想像して旅順のプラットフォームに降りた。 この馬車が民政署の馬車で、我々を尋ねてくれた人が、渡辺秘書わたなべひしょであるという事を発見した時は両人ともだいぶ恐縮した。 橋本を振り返ると相変らず鼻の先を反そらして、台湾パナマだか何だかペコペコになった帽子を被かぶっている。 おい宿屋はどうするんだいと小さな声で聞くと、うんそうさなと云ったが、そのうち二人とも馬車へ乗らなければならない段になった。 いったい橋本といっしょにあるくときは、何でも橋本が進んで始末をつけてくれる事に昔からきまっているんだからこの際もどうかするだろうと思って放っておいた。 すると予想通、日本流の宿屋へ行くつもりで来たんですがと渡辺さんに相談し始めた。 ところが渡辺さんはどうも御泊りになられるような日本の宿屋は一軒もありませんから、やっぱり大和やまとホテルになさった方が好いでしょうと忠告している。 二人は十五分の後のちホテルの二階に導かれて、行き通いのできる室へやを二つ並べて取った。 そこで革鞄かばんの中から刷毛はけを出して塵ちりだらけの服を払ったあとで、しばらく休息のため安楽椅子に腰をおろして見ると、急に気がついたように四辺あたりが森閑しんかんとしている。 ホテルの外にもいっさい人が住んでいるようには思われない。 開廊ヴェランダへ出て往来を眺めると、往来はだいぶ広い。 手摺てすりの真下にある人道の石の中から草が生えて、茎の長さが一尺余りになったのが二三本見える。 隣は主ぬしのない家と見えて、締しめ切った門やら戸やらに蔦つたが一面に絡からんでいる。 往来を隔てて向うを見ると、ホテルよりは広い赤煉瓦あかれんがの家が一棟ひとむねある。 けれども煉瓦が積んであるだけで屋根も葺ふいてなければ窓硝子まどガラスもついてない。 足場に使った材木さえ処々に残っているくらいの半建はんだてである。 淋しい事には、工事を中止してから何年になるか知らないが、何年になってもこのままの姿で、とうてい変る事はあるまいと云う感じが起る。 そうしてその感じが家にも往来にも、美しい空にも、一面に充みちている。 余は開廊の手摺を掌てのひらで抑えながら、奥にいる橋本に、淋さびしいなあと云った。 まるで廃墟ルインスだと思いながら、また室の中に這入はいると、寝床には雪のような敷布シートがかかっている。 床ゆかには柔やわらかい絨毯じゅうたんが敷いてある。 満鉄の経営にかかるこのホテルは、固もとより算盤そろばんを取っての儲もうけ仕事でないと云う事を思い出すまでは、どうしても矛盾の念が頭を離れなかった。 食堂に下りて、窓の外に簇むらがる草花の香においを嗅かぎながら、橋本と二人静かに午餐ごさんの卓に着いたときは、機会があったら、ここへ来て一夏気楽に暮したいと思った。 旅順に着いた時汽車の窓から首を出したら、つい鼻の先の山の上に、円柱のような高い塔が見えた。 それがあまり高過ぎるので、肩から先を前の方へ突き出して、窮屈に仰向あおむかなくては頂点てっぺんまで見上げる訳に行かなかった。 馬車が新市街を通り越してまたこの塔の真下に出た時に、これが白玉山はくぎょくざんで、あの上の高い塔が表忠塔だと説明してくれた。 この山の麓ふもとを通り越して、旧市街を抜けると、また山路にかかる。 その登り口を少し右へ這入はいった所に、戦利品陳列所がある。 佐藤は第一番にそれを見せるつもりで両人ふたりを引張って来た。 陳列所は固もとより山の上の一軒家で、その山には樹きと名のつくほどの青いものが一本も茂っていないのだから、はなはだ淋さびしい。 当時の戦争に従事したと云う中尉のA君がただ独ひとり番をしている。 この尉官は陳列所に幾十種となく並べてある戦利品について、一々叮嚀ていねいに説明の労を取ってくれるのみならず、両人を鶏冠山けいかんざんの上まで連れて行って、草も木もない高い所から、遥はるかの麓を指さしながら、 自分の従軍当時の実歴譚じつれきだんをことごとく語って聞かせてくれた人である。 向うの山の頂いただきに、大きくなって近づくまで帰ろうとは云わなかった。 もし忘れたんじゃ気の毒だと思って、こっちから注意すると、何ようございます、構いませんと断りながら、ますます講釈をしてくれる。 あんまり不思議だから、全体何の御用事が御有りなのですかと、詮索せんさくがましからぬ程度に聞いて見ると、実は妻さいが病気でと云う返事である。 さすが横着な両人も、この際だけは、それじゃ御迷惑でもせっかくだからついでにもう少し案内を願おうと云う気にもなれなかった。 長い日が山の途中で暮れて、電気の力を借りなければ人の顔が判然はっきり分らない頃になって、我々の馬車がようやく旧市街まで戻った時、中尉はある煉瓦塀れんがべいの所で、それじゃ私はここで失礼しますと挨拶あいさつして、馬車から下りて、 この煉瓦の塀を回めぐらした一構ひとかまえは病院であった。 そうして中尉の妻君はこの病院の一室に寝ていたのである。 これほど世話になり、面倒を掛けた人の名前を忘れるのははなはだすまん事だが、どうしても思い出せない。 佐藤に、よろしくと伝言を頼んだ時は、ただ、あの中尉君と書いた。 ここに某中尉ぼうちゅういなどとよそよそしく取り扱うのはあまり失礼だから、やむをえずA君としておいた。 A君の親切に説明してくれた戦利品の一々を叙述したら、この陳列所だけの記載でも、二十枚や三十枚の紙数では足るまいと思うが、残念な事にたいてい忘れてしまった。 その他の手投弾てなげだんや、鉄条網や、魚形水雷や、偽造の大砲は、ただ単なる言葉になって、今は頭の底に判然はっきり残っていないが、この一足の靴だけは色と云い、形と云い、いつなん時どきでも意志の起り次第鮮あざやかに思い浮べる事ができる。 戦争後ある露西亜ロシアの士官がこの陳列所一覧のためわざわざ旅順まで来た事がある。 そうしてA君に、これは自分の妻の穿はいていたものであると云って聞かしたそうだ。 この小さな白い華奢きゃしゃな靴の所有者は、戦争の際に死んでしまったのか、またはいまだに生存しているものか、その点はつい聞き洩もらした。 今までは白馬しろうまを着けた佐藤の馬車に澄まして乗っていたが、山へかかるや否や、例の泥だらけの掘出しものの中へ放り込まれてしまった。 とうてい普通の馬車では上がれないと云うんだからやむをえない。 それでも露西亜人ロシアじんだけあって、眼にあまる山のことごとくに砲台を構えて、その砲台のことごとくに、馬車を駆かって頂辺てっぺんまで登れるような広い路みちをつけたのは感心ですとA君が語られる。 実際その当時は奇麗きれいな馬車を傷いためずに、心持よく砲台のある地点まで乗りつけられたものと見える。 ところが戦争がすんで往復の必要がなくなったので、せっかくできた山路に手を入れる機会を失ったため、我々ごとき物数奇ものずきは、かように零落れいらくした馬車をさえ、時々復活させる始末になるのである。 元来旅順ほど小山が四方よもに割拠かっきょして、禿頭を炎天に曝さらし合あっている所はない。 樹きが乏しい土質どしつへ、遠慮のない強雨ごううがどっと突き通ると、傾斜の多い山路の側面が、すぐ往来へ崩くずれ出す。 ある所などは、五寸から一尺ほどもあろうと云う火打石のために、累々るいるいと往来を塞ふさがれている。 零落した馬車は容赦なく鳴動めいどうしてその上を通るのだから、凸凹でこぼこの多い川床かわどこを渡るよりも危険である。 二百三高地にひゃくさんこうちへ行く途中などでは、とうとうこの火打石に降参して、馬車から下りてしまった。 そうして痛い腹を抱かかえながら、膏汗あぶらあせになって歩いたくらいである。 鶏冠山けいかんざんを下りるとき、馬の足掻あがきが何だか変になったので、気をつけて見ると、左の前足の爪の中に大きな石がいっぱいに詰はまっていた。 よほど厚い石と見えて爪から余った先が一寸いっすんほどもある。 したがって馬は一寸がた跛ちんばを引いて車体を前へ運んで行く訳になる。 席から首を延ばして、この様子を見た時は、安んじて車に乗っているのが気の毒なくらい、馬に対して痛わしい心持がした。 御者ぎょしゃに注意してやると、御者は支那語で何とか云いながら、鞭むちを棄すてて下へ下りたが、非常に固く詰つまっていたと見えて、叩たたいても引っ張っても石が取れないので、またのそのそ御者台へ上がった。 そうして、後うしろにいる余の方をふりむいて、にやにや笑いながら、また鞭を鳴らし出した。 馬も存外平気なもので、そのままとうとう大和やまとホテルまで帰って来た。 橋本と余はこう云う馬車の中で、こう云う路の上に揺振ゆすぶられべく旧市街から出立した。 あれがステッセル将軍の家でと云うのを遠くから見ると、なかなか立派にできている。 戦争の烈はげしくならない時は、将軍がみごとな馬車を駆かってそこいらを乗り廻しているのが遥はるかの先から見えたそうである。 A君の指ゆびさして教えられた中うちで、ただ一つ質素な板囲いたがこいの小さい家があった。 それがまるで日本の内地で見る普通の木造なのだから珍らしかった。 何とか云う有名な将軍の住宅だと説明されたが、不幸にしてその有名な将軍の名を忘れてしまった。 何でも非常に人望のある人で、戦争のときも一番先に打死うちじにをしたのだそうである。 ああ云う質素の家に住んでおられたのも、一つは人望のあった原因になっているのでありましょうとA君は丁寧に敬慕の意を表ひょうされる。 この将軍は戦争だけには熱心で、ほかの事にはよほど無頓着むとんじゃくであった人らしい。 この辺にある露国の将軍などの住宅は皆それ相応に立派なものばかりである。 新市街の白仁長官しらにちょうかんの家を訪たずねた時、結構な御住居おすまいだが、もとは誰のいた所ですかと聞いたら、何でもある大佐の家だそうですと答えられた。 こう云う家に住んで、こういう景色けしきを眼の下に見れば、内地を離れる賠償ばいしょうには充分なりますねと云ったら、白仁君も笑いながら、日本じゃとても這入はいれませんと云われたくらいである。 そのうち馬車は無鉄砲に山路やまみちを上って、旅順の市街を遥の下にうちやるようになった。 A君は坂の途中で車を留めて、私は近路を歩いて、御先へ行って御待ち申しますと云いながら、左手の急な岨路そばみちをずんずん登って行った。 下を見下みおろすと、山の側面はそれほど急でないが、樹きと名のつくような青いものはまるで眸ひとみを遮さえぎらない。 一眼に麓ふもとまで透すかされるのみならず、麓からさき一里余の畠はたけが真直まっすぐに眉まゆの下に集まって来る。 この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように鮮あざやかである。 そのうちで高粱こうりょうの色が一番多く眼を染めた。 あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて対溝たいこうを掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云った。 この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。 現に外濠そとぼりから窖道こうどうへ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。 余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較みくらべて、その中間に横よこたわる距離を胸算用むなざんようで割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。 全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと洋剣サーベルを向けて教えてくれた。 何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。 その時敵も砲台の方から反対窖道はんたいこうどうと云うのを掘って来た。 日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。 爆発薬の御蔭おかげで外濠そとぼりを潰つぶしたのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。 この下を掘ればいくらでも死骸しがいが出て来るのだと云う。 土山の一隅ひとすみが少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。 その天井てんじょうが厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。 身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の廻廊かいろうに降りた時に、仰向あおむいて見て始めてその堅固なのに気がついた。 外濠を崩くずした上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。 しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を専領せんりょうするに至っては、全く人間以上の辛抱比しんぼうくらべに違ない。 その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを界さかいに、ただ一尺ほどの距離を取って戦いくさをした。 仕切は土嚢どのうを積んで作ったとかA君から聞いたように覚えている。 上から頭を出せばすぐ撃うたれるから身体からだを隠して乱射したそうだ。 それに疲れると鉄砲をやめて、両側で話をやった事もあると云った。 酒があるならくれと強請ねだったり、死体の収容をやるから少し待てと頼んだり、あんまり下らんから、もう喧嘩けんかはやめにしようと相談したり、いろいろの事を云い合ったと云う話である。 三人は暗い廻廊を這い出して、また土山の上に立った。 日は透すき徹とおるように明かるく坊主山ぼうずやまを照らしている。 じっと日を浴びて佇たたずんでいると、微かすかに虫の音ねがする。 草の裏で鳴いているのか、崩れ掛った窖内こうないで鳴いているのか分らなかった。 向うの方かたに支那人の影が二人見えたが、我々の姿を認めるや否や、草の中に隠れた。 捕つらまると怖こわいものだから、すぐに逃げます、なかなか取り抑えるのが困難ですとA君が苦笑した。 後側うしろがわへ回ると広い空堀からぼりの中に立派な二階建の兵舎がある。 もとは橋をかけて渡ったものと思われるが、今では下りる事もできない。 兵舎の背はもとより、山に囲われて、外からは見えなくなっている。 三人は空濠からぼりを横に通り越してなお高く上った。 余は遮さえぎるもののない高い空の真下に立って、数限りもない山の背を見渡しながら、砲台巡ほうだいめぐりも容易な事ではないと思った。 大連に着いてから二三日すると、満洲日々まんしゅうにちにちの伊藤君から滞留中たいりゅうちゅうに是非一度講演をやって貰いたいという依頼であった。 ええ都合ができればと受合ったようなまた断ったような軽い挨拶あいさつをして旅順に来た。 するとその伊藤君が我々より一日前に同じ大和やまとホテルに泊っていたので、ただ、やあ来ているねぐらいでは事がすまなくなった。 伊藤君の話によると、余の承諾を得て講演を開くと云う事を、もう自分の新聞に広告してしまったと云うんだから、たちまち弱った。 どうしてもやらなければならないように伊藤君は頼むし、何だかやれそうもない気分ではあるし、かたがた安楽椅子に尻しりを埋うずめて、苦にがく渋り出した。 すると橋本がにやにや笑いながら、まあやってやるさと傍はたから余計な事を云う。 実を云うと、講演は馬車でホテルに着くや否や、ここの和木君わきくんからも頼まれている。 もっともこの方ほうは暇がないので、頼たのまれ放ぱなしの体ていであるが、大連に帰ればそう多忙らしく見せる訳には行かない。 橋本はそこをよく見破っているので、君そう云うときには快よく承諾するものだよとか君のような人はやる義務があるさとかいろいろな口を出す。 余の大連でしゃべらせられたのは全くこの男の御蔭おかげである。 その内の一遍では、云う事が無くって仕方がなかったから、私は今晩、なぜ講演というものが、そう容易にできるものでないか、すなわち講演ができない訳を講演致しますと云って、妙な事を弁じてしまった。 それを是公ぜこうが聞きに来ていて、うん貴様はなかなか旨うまい、これからどこへ出て演説しようと勝手だ、おれが許してやると評したからありがたい。 けれども勧告の本人たる橋本は、平気な顔をして、どこか遊んで歩いていて聞きに来なかった。 そのくせ営口でまた頼まれると早速、君やるさ、せっかく頼むんだものと例の通りやり出したので、やむをえず痛い腹の上にかけていた蒲団ふとんを跳はね退のけて、演説をしに行った。 その代りおれが先へやるよと断って、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ帰って来て、また腹の上に蒲団を掛けていた。 橋本はこう云うところを見ると、君演説をやってる間は苦しいかなどと気楽な質問をする。 もっとも招待を断ったり何かするときには、いや実際この男は胃病でといつでも証人に立ってくれた。 して見ると、橋本はただ演説に対してだけ冷刻れいこくなのかも知れない。 奉天でも危うく高い所へ乗せられるところを、一日日取ひどりが狂ったため、いかな橋本にも、君頼まれたときにはやってやるべきだよを繰返す余地がなかった。 京城では発着が前後した上に、宿屋さえ違ったものだから、泰然と講演を謝絶する余裕があった。 面白い事に、この演説の勧誘家はその後ご札幌さっぽろへ帰るや否や、自身と烈はげしい胃病に罹かかって、急に苦しみ出した。 それで普通ならば毎週十時間余も講義を持たせられるところを、わずか一時間に減らして貰って、その一時間が済むとすぐに薬を呑むそうだ。 旅行中は君の病気である事を知りながら、無理に講演を勧めて大いに悪かった。 何事も自分で経験しないうちは分らぬもので、こうして胃病に悩まされて始めて気がついたが、痛いときに演説などができる訳のものでは、けっしてない。 君があの際奮ふるって演壇に立ったのは実際感心である、と大いに褒ほめたり詫あやまったりして来た。 しかしはたして橋本の推察するほど胃が痛かったら、いかな余も、いくらせっかくだから君出るが好いよを繰返されたって、ついに講演を断ってしまったろう。 白仁しらにさんから正餐せいさんの御馳走ごちそうになったときは、民政部内の諸君がだいぶ見えた。 食事が済んで別室へ戻って話していると佐藤が、あしたは朝のうち二百三高地にひゃくさんこうちの方を見たら好かろう、案内を出すからと云ってくれる。 すると、大した案内にも及ぶまいと笑いながら相談を掛けた。 我々は一私人で、ただ遊覧に来たのだから、公おおやけの職務を帯びている人を使ってはすまないが、せっかく案内をつけてくれると云うなら、小使でも何でも構わない。 その時佐藤は懐中から自分の名刺を出して、端の方に鉛筆で何か書いて、じゃ明日あしたの朝八時にこの人が来るから、来たらいっしょに行くが好いと云って分れた。 明日の朝の八時は例いつもの通り強い日が空にも山にも港にも一面に輝いていた。 馬車を棄すてて山にかかったときなどは、その強い日の光が毛孔けあなから総身そうしんに浸込しみこむように空気が澄徹ちょうてつしていた。 相変らず樹きのない山で、山の上には日があるばかりだから、眼の向く所は、左右ともに、また前後ともに、どこまでも朗らかである。 その明かな足元から、ばっと音がして、何物だか飛び出した。 案内の市川君が鶉うずらですと云ったので始めてそうかと気がついたくらい早く、鶉は眼を掠かすめて、空濶くうかつの中うちに消えてしまった。 その迹あとを見上げると、遥はるかなる大きい鏡である。 ここいらへも砲丸たまが飛んで来たんでしょうなと聞くと、ここでやられたものは、多く味方の砲丸自身のためです。 それも砲丸自身のためと云うより、砲丸が山へ当って、石の砕けたのを跳はね返かえしたためです。 こう云う傾斜のはなはだしい所ですから、いざと云う時に、すぐ遠くから駆かけ寄せて敵を追おい退のける訳に行きませんので、みんなこう云うところへ平たくなって噛かじりついているのであります。 そうして味方の砲丸が眼の前へ落ちて、一度に砂煙すなけむりが揚あがるとその虚きょに乗じて一間か二間ずつ這はい上がるのですから、勢い砂煙に交まじる石のために身体中創きずだらけになるのです。 味方の砲弾たまでやられなければ、勝負のつかないような烈はげしい戦いくさは苛過つらすぎると思いながら、天辺てっぺんまで上のぼった。 そこには道標どうひょうに似た御影みかげの角柱かくちゅうが立っていた。 その右を少しだらだらと降りたところが新あらたに土を掘返したごとく白茶しらちゃけて見える。 不思議な事にはところどころが黒ずんで色が変っている。 これが石油を襤褸ぼろに浸しみ込こまして、火を着けて、下から放ほうり抛なげたところですと、市川君はわざわざ崩くずれた土饅頭どまんじゅうの上まで降りて来た。 その時遥はるか下の方を見渡して、山やら、谷やら、畠はたけやら、一々実地の地形について、当時の日本軍がどう云う径路けいろをとって、ここへじりじり攻め寄せたかをついでながら物語られた。 不幸にして、二百三高地の上までは来たようなものの、どっちが東でどっちが西か、方角がまるで分らない。 ただ広々として、山の頭がいくつとなく起伏している一角に、藍色あいいろの海が二カ処ほど平ひらたく見えるだけである。 余はただ朗かな空の下に立って、市川君の指さす方かたを眺ながめていた。 自分でここへ攻め寄せて来た経験をもっている市川君の話は、はなはだ詳しいものであった。 市川君の云うところによると、六月から十二月まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。 あるときは水の溜たまった溝みぞの中に腰から下を濡ぬらして何時間でも唇くちびるの色を変えて竦すくんでいた。 食事は鉄砲を打たない時を見計みはからって、いつでも構わず口中に運んだ。 その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋うまって、馬の力ではどうしても運搬うんぱんができなかった事もある。 今あんな真似まねをすれば一週間経たたないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体からだの組織そしょくがしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。 旅順の港は袋の口を括くくったように狭くなって外洋に続いている。 袋の中はいつ見ても油を注さしたと思われるほど平らかである。 しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕こぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。 露西亜ロシアの軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。 ただ頭へぴかぴかと、平たい研とぎ澄すましたものが映った。 余は大和やまとホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。 ホテルの玄関を出たり這入はいったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。 それでも単に烈はげしい奇麗きれいな色と光だなと感ずるだけであった。 佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。 さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。 今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。 港務部を這入はいるときに水兵がこの五人に礼をした。 兵隊に礼をされたのは生れてこれが初はじめてであった。 佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。 我々の足は、家の方より、むしろ水の方に向いていた。 十分の後のち五人はまた河野中佐こうのちゅうさといっしょに家を出てすぐ小蒸気に移った。 海軍の将校が下士や水兵を使うのは実に簡潔明瞭めいりょうである。 船は河野中佐の云いなり次第の速力で、思う通りの方角へ出た。 港の入口ではここかしこの潜水器へ船の上から空気を送っている。 みんな波に揺られて上あがったり下さがったりしている。 鏡のように見えた湾の入口がこうまで動いているとは思いがけなかった。 このスレッドは1000を超えました。
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