【2022年大河ドラマ】鎌倉殿の13人 part6
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【放送予定】2022年1月9日~
【脚本】三谷幸喜
【主演】小栗旬
【音楽】エバン・コール
【語り】長澤まさみ
【3DCG地図】シブサワ・コウ
【ロゴ】佐藤亜沙美
【制作統括】清水拓哉、尾崎裕和
【演出】吉田照幸
【プロデューサー】大越大士、吉岡和彦、川口俊介
【公式HP】http://www.nhk.or.jp/kamakura13/
※本スレはガイド本、ノベライズ等によるネタバレ禁止です。ネタバレはネタバレスレでお願いします。(史実、伝承、他作品に関するものは可)
前スレ
【2022年大河ドラマ】鎌倉殿の13人 part4(実質part5)
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/kin/1661438755/
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私は、そのエピソードの解釈を細川重男さんの「頼朝の武士団」で読みました
大武士団と弱小武士団の戦術談義みたいな感じで紹介していたと思う
鎌倉殿で軍事考証をしている西脇総生さんもブログや著作で籠城法を詳細に解説していて面白いので是非読んで見てください
吾妻鏡での景時動向は
「梶原平三景時が、先日来相模一の宮で砦を構えて、防戦の支度をしておりました。皆この様子を怪しいとにらんでいたところ、昨夜丑の刻(午前二時頃)に子供達を一緒に連れて、そっとそこから逃げ出しました。これは鎌倉幕府へ謀反をするために、京都へ上るらしいと評判です。
…梶原平三景時親子は、駿河国清見関に来かかると、その近辺の侍たちが的当て競技のため集まっていましたが、解散しようとした時に、景時達と出会いました。駿河の連中は、一行を怪しんで弓を射始め…」
…で乱戦から最終的に打ち取られた
これに対して、一の宮で籠城した方がワンチャンあったんじゃね?と、弱小武士団の若手が重忠に即席籠城法を述べた…だったと思う >>171
>鎌倉時代だと火を超すのに時間がかかると思うんだが。
昔しは毎日煮炊きするのに毎回火起こしするのが大変なので
民家の囲炉裏とか竈門とかの灰の中に熾火を保存している。
橋があるような人通りの多い場所なら付近に民家や宿屋があるわけで、
種火を近くの家で貰って来れば良いのでは。
軍勢なら夕方暗くなった時用に松明の用意とかあるだろうし。 座談会出席者は
畠山重忠
小山朝政
長沼宗政←兄に窘められるも反論できず
和田義盛←全く喋ってないw
安藤右宗
渋谷高重←弟の重助は名前だけドラマに登場してる(仁田忠常のセリフw)
橋の壊し方を言ったのは安藤右宗。吾妻鏡にはあまり登場しないが、平家物語では刀振り回して暴れる文覚をとっ捕まえて後白河法皇の前の突き出した信濃の武人(そのシーン読んだはずだけど名前覚えちゃいないw)。 >>161 >>167
「吾妻鏡」によれば政子は泰時と時房を同時に執権に任命しており
政子存命中の執権は2人体制で両者はライバル関係にあったとされる
政子の死後、泰時は自分の邸宅の一部を割いて将軍御所を新造
将軍頼経を奪い取ってようやく時房の上に立ったが
時房は泰時の新造御所で泰時主導のもと大々的に行われた頼経の元服式を欠席
常に緊張関係にあった 現時点でトキューサは兄に追随、太郎は大反発状態だし
後々考えの違いが火種になって行きそうな予感はある
そこまで行かないのが残念だが六波羅でちょろっとぐらい出すのかな 泰時も時房も本来は政子派で義時とはそこまで仲良く無いけどな 次回、坂東の女という役で磯山さやかが出るらしい
こういうスパイス効かせてくるよね 初代評定衆は確かに11人で、両執権と合わせて「新・鎌倉殿の13人」になるが、
問題は評定衆で作中に登場しているのが三浦義村だけなんだよな。
最終回にして初登場の人物がずらり10人並ぶというのは・・・
いや三谷さんならやりかねないか >>186
新しい13人揃ったところで最後にタイトル「鎌倉殿の13人 ~完~」
びったりじゃんw 中原師員 : 渡部秀
中条家長 : 古張裕起
二階堂幸村 : 染谷将太
三善康俊 : 山本匠馬
斎藤長定 : 小林櫂人(頼全と兼役)
佐藤業時 : 稲葉友
三善友重 : 木戸邑弥(一条高能と兼役)
後藤元綱 : 高野八誠
二階堂幸盛 : 藤原竜也
三善康連 : 堺雅人
ぶっちゃけライダー俳優と大河OBの少将しか分からんけど考えてみたw >>181 >>182
時房の就任当初に「連署」という役職はない
時房存命中は連署とは呼ばれておらず執権2名体制だった
後に泰時嫡流が北条得宗家として特別扱いとなったためこちらだけが執権
執権と共同署名する時房の役割が連署と呼ばれるようになったもの
2代連署重時からは執権と連署は明確に別れており執権より連署が格下になっている >>189
知らん人ばかりや・・・
三善3名二階堂2名がってのはなにかあったんだろうか
>>190
一応執権と共同署名だから連署なんだよね
浅い知識だがわかりやすいからそれはしっている >>190
いつから連署と呼ばれたのも諸説有るからトキューサは連署で良いかと
得宗も時頼期に病で倒れて執権が出来無くなった時に生まれた概念という説もあるからあの時代は正確なこと分かりにくいよね #小四郎と太郎と 愛知県一宮市のトークショー楽しそうだな 義時の死後(同月)、政子は泰時に対して「(相州は)武州爲軍營御後見」と言っていて時房は泰時のために軍営の後見をせよであって執権ではないと思うが~政子が死ぬまでに二人を任命したのっていつのことなんだろう? >>197
吾妻鑑の貞応3年6月28日条の原文は
「相州武州為軍営御後見可執行武家事之旨有被仰云々」
"相州武州、軍営御後見ヲ為シ"と読み下すのが自然。
”相模守(時房)と武蔵守(泰時)に、軍営(将軍)を後見し武家の事を執行するよう仰せられた”
これだけだと政子は時房と泰時を同時に執権に任じたように読める。
ただし1960年代の上横手雅敬さんの「連署制の成立」という論文以来、
時房の地位や出仕開始時期について疑問が出ており、未だ確定していない。
(辞書によっては時房の「連署」就任を政子死後の嘉禄元年7月とする) ここにいるやつは再放送含め歴史探偵全然みてないのか
後鳥羽も結構がんばったんだなって思っちゃったんだけど >>199
ちょっとだけ見たよ
鎌倉幕府の成立年は未だに確定できてないって話で締めてたね
史実厨に聞かせてやりたかった >>198
おー、なるほどありがとう
軍営は将軍の意味になるのか 鶴丸のきづき、背はともかく顔そんなに悪くないと思った
御家人に取り立てられてから顔つき精悍な感じに変わった 頼綱は執権を支える名ブレーンになりそうなんだよね
子孫はやり過ぎるけど >>200
もともと何時をもって開幕したなんてどこにもないんだけど
ナニ煽ってんだ? >>205
開幕
読み方:かいまく
[名](スル)
1 舞台の幕が開いて、芝居などが始まること。また、始めること。⇔閉幕。
2 時期がきて、ある物事が始まること。「国民体育大会が―した」「―戦」⇔閉幕。
お前の中で始まったのは芝居?大会? >>201
類似の構文として同年7月29日条には
「尾藤左近将監景綱為武州後見」とある。
尾藤景綱の家令(後の「内管領」)初任記事だけど、こちらには「御」がない。
この文との比較でも敬意の対象となる「軍営」が将軍(九条頼経)を指すのがわかる。
さらに義時死後・政子生前の時点で、
将軍を執権が「後見」し、その執権を家令=内管領が「後見」するという、
後の内管領台頭の起源を(吾妻鑑の編纂者が)ここにおいているのもわかる。 >>207
そうそう、それに気づかなかったw
ただし、同じ28日の文で伊賀氏の謀反の疑いについて書かれてるでしょ。一条何とかを「関東将軍」として擁して政村が御後見と。この関東将軍は鎌倉殿のことじゃね?なんで政子は軍営と?と思ったら三寅はまだ将軍じゃなかったんだっけ?この当時政所がなかったり背景が複雑w(俺には)
いろいろ詳しい説明ありがとう >>208
九条頼経はまだ元服前で公式には無官。しかも「鎌倉殿」は政子。
だから吾妻鑑編者は「軍営」というあいまいな語を当てたのではないかと。
一条実雅「関東将軍」擁立の件は、頼経の扱いをどうするのか不明なので、なんとも言えない。
(その辺の杜撰さも政子によるでっち上げ説につながるわけだが・・・)
「政所」は三位以上でないと開けないが、
貞応3年8月1日に「相州始出仕政所」、同28日に「武州在政所吉書始」とあるので、
従二位の政子の元で政所が開かれたと想定できる。
なお>>182にある「時房の方が上」の根拠の1つが、
この時房の方が先に政所に出仕している件。 時房の方が任官したのが先だから、下知状の署名(いわゆる連署)も泰時より上位の場所に
あるんじゃなかったっけ? >>24
どういう最終会に三谷氏がするか知らんが俺が脚本家なら悲劇版で行くならベタだけど、こんな感じで書くかな。
自分の生涯もそう長くないと悟った義時が泰時宛の書状を書いている
その中には「自分のこれまでの行いはお前には残虐に見えたかもしれんが自分自身は勿論北条家だけのためでもない。
朝廷に代わり武家のこれまでにない盤石な時代を作るために誰かが憎まれ役にならればならなかった。そのためには後々敵になりそうな者は
滅ぼしておかねばならなかった。そのためのこと。しかしお前は儂とは違う治め方で今後鎌倉を治めよ」といった内容の文を書いている。
そこにトウが現れ義時を暗殺にかかる。戦乱の世のせいで結果的に両親を殺されたトウは義時に仕えながら戦乱の世ばかり作る
義時を恨んでおり義時の真の真意を知らずに暗殺。その時、ロウソクが倒れ義時の書いていた書状も燃えてしまう。
たまたま義時の屋敷にいて何事かと気づいた泰時と時房が現れ瀕死の義時とそこにいるトウを発見。
状況を察知した泰時と時房はとトウと一戦。頼家暗殺時と違い承久の乱などで刀の腕を上げた泰時にトウも苦戦。
更に北条家の大勢の郎党らにも囲まれ流石にトウも最早これまでと喉を突き自刃。
その後息絶える義時に「父上ーっ」と泣き叫ぶ泰時。それを静かに見守る時房。
泰時は「このような血で血を争う世は終わりにしなければなりませぬ、伯父上様左様でございましょう。」
と泣きながら時房に同意を求める。静かに頷く時房。
義時が泰時に書いていた書状は倒れたロウソクの火で燃えてしまい泰時は見ることにならなかったが義時の真意は
書状がなくても泰時に受け継がれていく。 再放送見たけどすごい熱量だな
毎回面白い大河って久しぶりだな
ガッキーや江口のりこの下りは中弛み感があったけど
修正が効いてるのか菊地凛子は控えめだしこの調子で最終回まで行ってほしい >>210
時房の方が泰時より一貫して官位の昇進が先行している。
だから文書の上でも時房の方が上位者になる。 >>211
史実だと二人とも都にいて葬儀にも参加できてないけどな >>210
四代将軍の九条頼経が将軍に就任して政所を開いた時、政所別当首座を時房に譲ったからと聞いたことがあるが? >>215
そのとき(鎌倉にいた)朝時が結構頑張ってるんだよね 吾妻鏡では義時の命日が6月13日、四十九日の法要が7月30日、5旬(50日で一応喪が明けた?)が8月1日で時房が政所に出仕。微妙に四十九日がズレてね?と思うがそれはさておき、実は7月のあとに閏7月があるので四十九日の翌日が8月1日ではない。閏月の日数をカウントすると全然50日ではないんだが当時は閏月はカウントされないの???
とアホな疑問がw 7デイズに三谷と舞台の出演者出てるけど
全員鎌倉殿の出演者でウケる >>211
義時は分家江間氏から父親追放の非常時に臨時で北条を継いだだけで
これから先の北条の家督を継ぐ者を政子に委ねて決めずに死んだ
(もしくは義時は嫡子は後妻の産んだ政村だった)から伊賀氏の乱が起こってるんじゃないのか
今作は八重が義時の正室で泰時は義時嫡出の嫡男として揺るがぬ立場にあり
のえの父兄弟が一切出てこないため伊賀氏の乱もやらないのだろうが
(外祖父として二階堂は出てくるものの、義時後室の母が二階堂の娘だったかは定かではない) >>220
比奈を後妻に迎えた時点で泰時の立場は庶長子なんじゃないの? この時代は分割相続で家督という考え方自体が形成過程だから、
実際のところはわからない。
吾妻鏡は特に泰時の美化・顕彰が甚だしいのでなおさら。
ただ承久の乱で泰時が主力第一陣の大将軍なのはどの史料も共通で、
この点は事実を反映していると考えられるから、
義時の意中の後継者は(少なくとも承久の乱の時点では)泰時だったと推定できる。 北条が他の御家人に優越しているのは軍事力というより、政子が北条で実朝を抱えているためか >>222
義時の意中というよりこの時点ではまだ政子が生きていたから政子が後ろ盾の泰時が後継者の最右翼だっただろうね。
ただ、承久の乱の後の義時の動きを見ると政子が自分より先に死んだ場合、泰時の次代執権を渡したかどうかは疑問だな 1224年9月5日に相続の話が出るじゃん。あれって義時が政子に遺言書残してたんじゃないの?それ読んで
政子「あんた、少なくね?」
泰時「執権継ぐので領地は弟たちに多くてよくね?」
政子「(´;ω;`)」
みたいな~
その少し前
政子「これじゃのえが納得しねーだろーなー。ピコーン!言いがかりつけて追い出しとくか!」 >>222で述べた後継者というのは、執権ではなく「北条氏の惣領」の方ね。
「執権」の方はどのみち義時に決定権はないとみられる。
一昨日話題になっていた時房の執権任命は完全に義時の構想外だろうし。
政子が先に死んでいた場合、三寅(九条頼経)元服までは、
「鎌倉殿」の権限は竹御所が相続するとみられるから、
その場合でも政子の遺志が実行されたのではないか。 >>223
と、いうより政子自体が尼御台だからなぁ
後家の力は強いしかも頼朝の後家
だから時政失脚の時、義時が政子を引っ張り出したし
文官の大江、三善もすんなり受け入れるし
後家人も「政子のサイン」>>>>>>>>>>>>>「時政のサイン」とすんなり受け入れた
これから三寅が来ればいよいよ尼将軍
日本の歴史で二人居た女性将軍の爆誕 >>225
「武州下向㝡前内々支配之、潜被見二品之処」だから、
泰時が京都出発直前に遺産配分案を作り、(鎌倉到着後)密かに政子だけに見せていたとなる。
泰時の鎌倉到着は6月26日、政子との会見は28日で、この日に伊賀氏に関する不穏な「風聞」。
なんというかグレーどころかほぼ真っ黒ですな・・・ 支配の意味がわからんので「泰時が来る前に政子はコッソリ見ちゃいました(*ノω・*)テヘ」なのかとw
政子は相続関係ないしw この時代後家さんの権力強くて相続した所領を分割して子供に相続させるのも勝手に出来るからのえに北条氏を分割される前に政子達が手を打った可能性もあると思う >>225
どうも倒れた時に陰陽師が回復すると言ったからそれを信じて
遺言状を書かなかったみたいだね。 >>231
伊賀の方は義時が亡くなった後すぐに鎌倉の足利氏の氏寺の浄妙寺に押し込められているからその可能性は高いだろうね
足利義氏は政子派の筆頭だし 相続の話が9月5日でその数日後(9日かな?)になぜか足利義氏が恩賞として領地もらってるんですけどw(こっそり相続してたりしてw) >>221
先室との嫡男は後室が来ても嫡男のままだよ
泰時は先室の三浦義村女を離縁して後室が来てるけど先室との時氏が嫡男のままだ
(時氏が泰時より先に死んだため時氏の嫡男経時が泰時の嫡孫として
北条得宗家の家督と執権を継承)
>>222
平家追討の大将軍は源範頼&義経だったが彼らは源氏の棟梁ではなく
棟梁は鎌倉に残った源頼朝だから大将軍が家督継承者というわけでもないんだよなあ
伊賀の方腹の政村はまだ10代だったこともあり鎌倉にとどまっている
後継者だったからこそ義時が自分の傍において危険な場所にやらなかったとも取れるし 八田さんも今回でフェードアウトという事で良いのかな? 承久の乱の政子演説のシーンだけ前撮りしてる可能性もある >>239
図面を書き換えて重量オーバーにしたのでは? でもさ、そもそも砂浜に直に丸太並べたら丸太が砂にめり込んでコロにはならんから適正重量内でもたぶん動かないよね
まさか義時より政子のほうが怖くなるとはw >>235
義仲・平氏追討の時は頼家が乳幼児だから比較の対象にならないし、
相続順位2位の範頼が繰り上がったとも言えるから同じことだよ。
それに承久の乱を例示したのは「大将軍だから家督相続者」という意味ではなくて、
朝時や重時や政村ではなく泰時を後継者に予定しているから、最も重要なポジションに起用したという意味。
武家において「後継者だから安全な場所」なんて臆病風はありえない。
実際政村と同年代の時氏は出陣しているし。
戦功の機を奪われた政村は、義時生前の時点では後継レースから外れていたように見える。
(伊賀氏の変より前に行われた義時の葬儀での序列は朝時、重時、政村の順)
外されていたからこそ伊賀氏による義時毒殺の疑いがかけられたのではないだろうか。 大御所云々の話の時、源氏と北条の血を継いだ時元が近くで聞いてるんだよな?
なんか酷いw 母親のミィさんまで 駒若丸は吾妻鏡でなんかやらかしてた気がするが~
公式サイトの予告動画では別の人物がやらかしてたぞw 大御所計画はもともと頼朝が死ぬ前に政子にしゃべってたのか。
古い伏線は忘れてしまうな・・・ >>249
そんな伏線あったっけ?
鎌倉殿の頼朝は娘を入内させて、ゆくゆくは天皇の外戚に…の清盛路線じゃなかったか? 大御所(大殿)路線を実際にやるのが頼経だってのは皮肉なもんだな 八田はラスト確定か
市原隼人、『鎌倉殿の13人』最後の出演を振り返る 八田知家役は「人生で一番悩みました」
https://realsound.jp/movie/2022/11/post-1174109.html >>250
頼朝が落馬する寸前の場面でやってた
隠居して大御所になる
大御所になって何をするのですか?
船でも作って宋に行く
みたいな会話をしてた
政子、義時と3人の場面で綺麗な頼朝してた >>253
サンクス 思い出した
でもやっぱり政子のはっちゃけ感がヤバいとしか思えない大御所計画w
朝廷との政治的バランスと鎌倉幕府の実利を取って、争いを避けるいい作戦だと思うんだけど、歴史の結果的にそういう演出にはならないだろうなと…
大泉頼朝は、昨今の研究に基づいた朝廷を無視できない頼朝像で書いてたと思うんだけど…何故か義時は武士政権独立と解釈して先走っているから
結局、ドラマの義時と政子は頼朝の政治を理解できてないんだなってなる 京都から養子を迎える大御所計画を政子が進めた結果、
公暁の鎌倉殿継承の可能性が潰えたせいで、
(公暁単独か三浦黒幕か御家人共謀説かはわからないが)
実朝が殺されるという流れにするのかな?
政子が実朝暗殺のトリガーを引いてしまうというエグい展開は、
普通ならやらないだろうが、このドラマだといかにもやりそう。 政子が公暁に情をかけて実朝猶子にしたから不幸が起こったとかが定番なんだから、結局政子だろ >>256
これ、逆の考え方ができなくもないんだよ
猶子とは相続権のない養子相当の親子関係なので、本来は頼朝>頼家>公暁だから嫡孫の資格を猶子にすることで奪ったとも。 >>245
平家追討の時に頼家が元服済みだったら
頼家が真っ先に平家追討の大将軍として西国に下ったって?
やらないだろう、危険なことは死んでも体制に変化がない弟にやらせて
大事な跡取りの嫡男は鎌倉で頼朝の傍に置くよ
鎌倉幕府滅亡の時だって高時もその息子たちも最後の時まで鎌倉にいたからね
(息子は逃がした)
指令を出すのは鎌倉で泰時はその手駒として死ぬかもしれない任務を負わされただけ 承久の乱は道中で兵をかき集める手筈だったのでその旗印として泰時が東海道、武田が東山道、比企の血を継ぐ朝時(祖父が北陸道勧農使だった)が北陸道で役割がしっかりあった。
これが泰時以外だったらあり得たか?って話になる。執権の嫡男かただの長男かとか関係なく泰時以外はあり得ない~のではないか。 >>258
仮定に仮定を重ねた問なので泥縄論になるから無意味な議論だけど、
頼朝は当初自身が出陣したかったし、自分は若年でも平治の乱に出ているし、
信用できない弟や門葉を使うよりは(現に義経はああなったし)、
嫡男を総大将にすることは十分ありえたと思うけどな。
北条高時の場合、むしろその身内贔屓の消極策が人心を失う一因になったのでは。
(名目とはいえ嫡男の千寿王=義詮を危険度の高い関東の総大将にした足利高氏と比べて)
この時代の武家は軍事という「職能」を発揮してなんぼなので、
現代のリスク感覚でものを考えるのは疑問。 でも今回の政子というかわりと時政パパもそうだったけど感情で動くキャラになっているから
義時の「頼家様の様に」って実朝の事を言われたから政子は「ヤバい殺される!?」と思って実朝の大御所計画を押した感じ
実朝が大御所になって上皇の息子を鎌倉殿にしちゃえば義時も手は出せないはずと
ただなんとなくこの計画に大江さんが一枚噛んでいる気もするんだよなぁ まぁこのドラマの政子は単純にもう子や孫が屠られるのが嫌なだけだろうな
それなら時元でも神輿に据えときゃいいのにw 阿波局も喜ぶだろ 大御所計画発表の場の末席に時元がいて
カメラも微妙にその姿を捉えつつ実朝の方へ振っていった。
後々の布石っぽい。 源氏と北条の〜とか言ってた義時が族滅してくんだもんなー >>263
またビミョーな映し方だったよねぇw
半分暗くしている感じだから表情が見えないという…w >>264
得宗家って一応戦国時代までは血筋が確認できるぞ >>263
時元がいたっていうのは次週予告のこと?
今週の本編では北条の男は義時、時房、泰時の3人だけだったような。 家督を譲る発言の場に現れた時に実朝の後ろに着いて入ってきたのが時元かな……?
一瞬だけ実朝の奥側にかなりぼかした状態で映ってはいたけど >>271
実朝の後ろは泰時かと思ったけど、よく見ると泰時も含めて3人座ってるね。皆さんよく見てますなあ。 トウは救われて欲しいがやって来たことは生きるためとはいえ殺しだしなあ
特に頼家暗殺は生き残る政子と竹馬の友だったらしい泰時にとっては
許しがたいんじゃ 俺の耳は悪いんだろうか
政子「あなたが鎌倉の揺るぎない主となるんだよ」
「なるんだよ」って言った?(゚∀゚)
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