■■■■■ アンパンマン総合スレッド ■■■■■
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其眼で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。 さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。 けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。 「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。 それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。 「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有にする事が出来ないのね。 あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。 あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。 貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」 この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。) ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。 其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。 けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。 「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。 貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。 法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。 それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。 あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色の生活を、二人で楽むのね。 さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて? 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。 さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。 それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。 けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。 が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。 さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。 ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。 と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。 そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。 そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。 わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。 が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。 そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。 が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。 の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴がのぞいてゐる。 それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。 金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。 「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。 私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。 が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。 その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。 そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。 彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡を噛んでゐるわ。 しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。 今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。 そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。 さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」 それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。 それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。 それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています