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■■■■■ アンパンマン総合スレッド ■■■■■
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0001Socket7742018/08/19(日) 17:22:19.18ID:m58EUO5R
アンパンマン総合スレッド立てました。
0002Socket7742018/08/19(日) 23:35:59.37ID:/jhTL30b
アンパンマン総合スレッド
0003Socket7742018/08/19(日) 23:39:20.71ID:/jhTL30b
これ等は今日でも僕の愛読書である。
0004Socket7742018/08/19(日) 23:39:36.42ID:/jhTL30b
比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。
0005Socket7742018/08/19(日) 23:39:52.21ID:/jhTL30b
名高いバンヤンの「天路歴程」
0006Socket7742018/08/19(日) 23:40:07.95ID:/jhTL30b
なども到底この「西遊記」
0007Socket7742018/08/19(日) 23:40:23.65ID:/jhTL30b
も愛読書の一つである。
0008Socket7742018/08/19(日) 23:40:39.36ID:/jhTL30b
これも今以て愛読してゐる。
0009Socket7742018/08/19(日) 23:40:55.06ID:/jhTL30b
の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。
0010Socket7742018/08/19(日) 23:41:10.84ID:/jhTL30b
その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」
0011Socket7742018/08/19(日) 23:41:26.61ID:/jhTL30b
だのといふ方が遥かに僕に面白かつた。
0012Socket7742018/08/19(日) 23:41:42.35ID:/jhTL30b
中学へ入学前から徳富蘆花氏の「自然と人生」
0013Socket7742018/08/19(日) 23:41:58.04ID:/jhTL30b
や小島烏水氏の「日本山水論」
0014Socket7742018/08/19(日) 23:42:13.77ID:/jhTL30b
同時に、夏目さんの「猫」
0015Socket7742018/08/19(日) 23:42:29.58ID:/jhTL30b
だから人の事は笑へない。
0016Socket7742018/08/19(日) 23:42:45.25ID:/jhTL30b
の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」
0017Socket7742018/08/19(日) 23:43:00.95ID:/jhTL30b
中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。
0018Socket7742018/08/19(日) 23:43:16.74ID:/jhTL30b
それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。
0019Socket7742018/08/19(日) 23:43:32.54ID:/jhTL30b
ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。
0020Socket7742018/08/19(日) 23:43:48.25ID:/jhTL30b
ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。
0021Socket7742018/08/19(日) 23:44:03.95ID:/jhTL30b
その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。
0022Socket7742018/08/19(日) 23:44:19.75ID:/jhTL30b
これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」
0023Socket7742018/08/19(日) 23:44:35.48ID:/jhTL30b
などの影響であつたらうと思ふ。
0024Socket7742018/08/19(日) 23:44:51.17ID:/jhTL30b
さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。
0025Socket7742018/08/19(日) 23:45:06.92ID:/jhTL30b
但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。
0026Socket7742018/08/19(日) 23:45:22.63ID:/jhTL30b
スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。
0027Socket7742018/08/19(日) 23:45:38.38ID:/jhTL30b
序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」
0028Socket7742018/08/19(日) 23:45:54.09ID:/jhTL30b
を出して読んで見たが、昔ほど感興が乗らなかつた。
0029Socket7742018/08/19(日) 23:46:09.84ID:/jhTL30b
あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」
0030Socket7742018/08/19(日) 23:46:25.55ID:/jhTL30b
を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。
0031Socket7742018/08/19(日) 23:46:41.27ID:/jhTL30b
信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。
0032Socket7742018/08/19(日) 23:46:56.99ID:/jhTL30b
彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。
0033Socket7742018/08/19(日) 23:47:12.69ID:/jhTL30b
中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。
0034Socket7742018/08/19(日) 23:47:28.40ID:/jhTL30b
が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。
0035Socket7742018/08/19(日) 23:47:44.23ID:/jhTL30b
そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。
0036Socket7742018/08/19(日) 23:47:59.92ID:/jhTL30b
彼女には俊吉と云ふ従兄があつた。
0037Socket7742018/08/19(日) 23:48:15.64ID:/jhTL30b
彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。
0038Socket7742018/08/19(日) 23:48:31.36ID:/jhTL30b
信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。
0039Socket7742018/08/19(日) 23:48:47.04ID:/jhTL30b
それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。
0040Socket7742018/08/19(日) 23:49:02.77ID:/jhTL30b
唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。
0041Socket7742018/08/19(日) 23:49:18.49ID:/jhTL30b
さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。
0042Socket7742018/08/19(日) 23:49:34.19ID:/jhTL30b
かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。
0043Socket7742018/08/19(日) 23:49:49.84ID:/jhTL30b
が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。
0044Socket7742018/08/19(日) 23:50:05.54ID:/jhTL30b
だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。
0045Socket7742018/08/19(日) 23:50:21.25ID:/jhTL30b
尤も大抵そんな時には、妹の照子も同伴であつた。
0046Socket7742018/08/19(日) 23:50:36.99ID:/jhTL30b
彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。
0047Socket7742018/08/19(日) 23:50:52.73ID:/jhTL30b
が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。
0048Socket7742018/08/19(日) 23:51:08.48ID:/jhTL30b
それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。
0049Socket7742018/08/19(日) 23:51:24.17ID:/jhTL30b
信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。
0050Socket7742018/08/19(日) 23:51:39.89ID:/jhTL30b
その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。
0051Socket7742018/08/19(日) 23:51:55.62ID:/jhTL30b
俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。……
0052Socket7742018/08/19(日) 23:52:11.44ID:/jhTL30b
信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。
0053Socket7742018/08/19(日) 23:52:27.15ID:/jhTL30b
同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。
0054Socket7742018/08/19(日) 23:52:42.98ID:/jhTL30b
殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、)
0055Socket7742018/08/19(日) 23:52:58.69ID:/jhTL30b
一層これが甚しかつた。
0056Socket7742018/08/19(日) 23:53:14.51ID:/jhTL30b
信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。
0057Socket7742018/08/19(日) 23:53:30.20ID:/jhTL30b
従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。
0058Socket7742018/08/19(日) 23:53:45.89ID:/jhTL30b
所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。
0059Socket7742018/08/19(日) 23:53:48.85ID:SpTB4c2E
さうすれば屹度癒るわ。」
0060Socket7742018/08/19(日) 23:54:01.63ID:/jhTL30b
さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。
0061Socket7742018/08/19(日) 23:54:04.66ID:SpTB4c2E
彼女は冷い手の掌を代り/″\わしの口に当てた。
0062Socket7742018/08/19(日) 23:54:17.34ID:/jhTL30b
その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。
0063Socket7742018/08/19(日) 23:54:20.46ID:SpTB4c2E
わしは何度となくそれを接吻した。
0064Socket7742018/08/19(日) 23:54:33.06ID:/jhTL30b
同窓たちは皆不思議がつた。
0065Socket7742018/08/19(日) 23:54:36.29ID:SpTB4c2E
其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑をもらして、わしをぢつと見戍つてゐるのである。
0066Socket7742018/08/19(日) 23:54:48.88ID:/jhTL30b
その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。
0067Socket7742018/08/19(日) 23:54:52.10ID:SpTB4c2E
わしは恥しながら白状する。
0068Socket7742018/08/19(日) 23:55:04.67ID:/jhTL30b
或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。
0069Socket7742018/08/19(日) 23:55:07.86ID:SpTB4c2E
此時わしは僧院長セラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。
0070Socket7742018/08/19(日) 23:55:20.51ID:/jhTL30b
又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。
0071Socket7742018/08/19(日) 23:55:23.67ID:SpTB4c2E
わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。
0072Socket7742018/08/19(日) 23:55:36.21ID:/jhTL30b
が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。
0073Socket7742018/08/19(日) 23:55:39.53ID:SpTB4c2E
クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。
0074Socket7742018/08/19(日) 23:55:51.91ID:/jhTL30b
彼女はなぜ俊吉と結婚しなかつたか?
0075Socket7742018/08/19(日) 23:55:55.31ID:SpTB4c2E
わしが後に見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。
0076Socket7742018/08/19(日) 23:56:07.73ID:/jhTL30b
彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。
0077Socket7742018/08/19(日) 23:56:11.07ID:SpTB4c2E
少くも彼女は何等さうした姿を示さなかつた。
0078Socket7742018/08/19(日) 23:56:23.43ID:/jhTL30b
さうして彼是二月ばかり経つと――
0079Socket7742018/08/19(日) 23:56:26.86ID:SpTB4c2E
悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。
0080Socket7742018/08/19(日) 23:56:39.14ID:/jhTL30b
全く信子を忘れてしまつた。
0081Socket7742018/08/19(日) 23:56:42.63ID:SpTB4c2E
彼女は床をあげて寝台の縁に坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚つたり捲いたりしてゐるのである。
0082Socket7742018/08/19(日) 23:56:54.85ID:/jhTL30b
勿論彼女が書く筈だつた長篇小説の噂なぞも。
0083Socket7742018/08/19(日) 23:56:58.44ID:SpTB4c2E
わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。
0084Socket7742018/08/19(日) 23:57:10.55ID:/jhTL30b
信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。
0085Socket7742018/08/19(日) 23:57:14.27ID:SpTB4c2E
しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。
0086Socket7742018/08/19(日) 23:57:26.27ID:/jhTL30b
彼等の家はその界隈でも最も閑静な松林にあつた。
0087Socket7742018/08/19(日) 23:57:30.01ID:SpTB4c2E
丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。
0088Socket7742018/08/19(日) 23:57:41.99ID:/jhTL30b
松脂の匂と日の光と、――
0089Socket7742018/08/19(日) 23:57:45.88ID:SpTB4c2E
「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。
0090Socket7742018/08/19(日) 23:57:57.73ID:/jhTL30b
それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。
0091Socket7742018/08/19(日) 23:58:01.67ID:SpTB4c2E
可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。
0092Socket7742018/08/19(日) 23:58:13.45ID:/jhTL30b
信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。
0093Socket7742018/08/19(日) 23:58:17.48ID:SpTB4c2E
貴方は私の愛だつたのよ。
0094Socket7742018/08/19(日) 23:58:29.14ID:/jhTL30b
もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。
0095Socket7742018/08/19(日) 23:58:33.26ID:SpTB4c2E
あの時あの教会で始めてお目にかゝつたでせう。
0096Socket7742018/08/19(日) 23:58:44.85ID:/jhTL30b
どうか、どうか私を御赦し下さい。
0097Socket7742018/08/19(日) 23:58:49.07ID:SpTB4c2E
私、直に『之があの人だ』
0098Socket7742018/08/19(日) 23:59:00.77ID:/jhTL30b
照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。
0099Socket7742018/08/19(日) 23:59:04.86ID:SpTB4c2E
つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸で見て上げたの――
0100Socket7742018/08/19(日) 23:59:16.50ID:/jhTL30b
「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。
0101Socket7742018/08/19(日) 23:59:20.70ID:SpTB4c2E
其眼で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。
0102Socket7742018/08/19(日) 23:59:32.23ID:/jhTL30b
さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。
0103Socket7742018/08/19(日) 23:59:36.47ID:SpTB4c2E
けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。
0104Socket7742018/08/19(日) 23:59:47.92ID:/jhTL30b
何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。
0105Socket7742018/08/19(日) 23:59:52.21ID:SpTB4c2E
「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。
0106Socket7742018/08/20(月) 00:00:03.63ID:K4r6F/a9
それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。
0107Socket7742018/08/20(月) 00:00:08.13ID:8f8dtdLU
「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有にする事が出来ないのね。
0108Socket7742018/08/20(月) 00:00:19.35ID:K4r6F/a9
あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。
0109Socket7742018/08/20(月) 00:00:24.05ID:8f8dtdLU
貴方が接吻で生かして下すつた私――
0110Socket7742018/08/20(月) 00:00:35.06ID:K4r6F/a9
あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。
0111Socket7742018/08/20(月) 00:00:40.13ID:8f8dtdLU
貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」
0112Socket7742018/08/20(月) 00:00:50.73ID:K4r6F/a9
この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。)
0113Socket7742018/08/20(月) 00:00:56.26ID:8f8dtdLU
彼女の話は、悉く最も熱情に満ちた撫愛に伴はれた。
0114Socket7742018/08/20(月) 00:01:06.43ID:K4r6F/a9
ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。
0115Socket7742018/08/20(月) 00:01:12.61ID:8f8dtdLU
其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。
0116Socket7742018/08/20(月) 00:01:22.14ID:K4r6F/a9
私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。
0117Socket7742018/08/20(月) 00:01:28.55ID:8f8dtdLU
すると、彼女の眼は、再び緑玉髄の如く輝いた。
0118Socket7742018/08/20(月) 00:01:37.81ID:K4r6F/a9
けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。
0119Socket7742018/08/20(月) 00:01:44.62ID:8f8dtdLU
彼女は其美しい胸にわしを抱きながら叫んだ。
0120Socket7742018/08/20(月) 00:01:53.56ID:K4r6F/a9
御姉様も俊さんが御好きなのでございますもの。
0121Socket7742018/08/20(月) 00:02:01.02ID:8f8dtdLU
「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。
0122Socket7742018/08/20(月) 00:02:09.58ID:K4r6F/a9
(御隠しになつてはいや。
0123Socket7742018/08/20(月) 00:02:17.46ID:8f8dtdLU
貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。
0124Socket7742018/08/20(月) 00:02:25.28ID:K4r6F/a9
私はよく存じて居りましてよ。)
0125Socket7742018/08/20(月) 00:02:33.73ID:8f8dtdLU
法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。
0126Socket7742018/08/20(月) 00:02:40.97ID:K4r6F/a9
私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。
0127Socket7742018/08/20(月) 00:02:49.80ID:8f8dtdLU
少しは得意に思ふやうな事ぢやあなくつて。
0128Socket7742018/08/20(月) 00:02:56.79ID:K4r6F/a9
それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。
0129Socket7742018/08/20(月) 00:03:05.82ID:8f8dtdLU
あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色の生活を、二人で楽むのね。
0130Socket7742018/08/20(月) 00:03:12.52ID:K4r6F/a9
さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。
0131Socket7742018/08/20(月) 00:03:22.36ID:8f8dtdLU
さうして、何時立つの。」
0132Socket7742018/08/20(月) 00:03:28.24ID:K4r6F/a9
私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて?
0133Socket7742018/08/20(月) 00:03:38.76ID:8f8dtdLU
とわしは夢中になつて叫んだ。
0134Socket7742018/08/20(月) 00:03:43.93ID:K4r6F/a9
私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。
0135Socket7742018/08/20(月) 00:03:55.00ID:8f8dtdLU
其間に御化粧をかへる事が出来てね。
0136Socket7742018/08/20(月) 00:03:59.80ID:K4r6F/a9
さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。
0137Socket7742018/08/20(月) 00:04:11.27ID:8f8dtdLU
これでは少し薄着だし、旅をするにはをかしいわ。
0138Socket7742018/08/20(月) 00:04:15.58ID:K4r6F/a9
もう明日は大阪へいらしつて御しまひなさるでせう。
0139Socket7742018/08/20(月) 00:04:27.28ID:8f8dtdLU
それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。
0140Socket7742018/08/20(月) 00:04:31.30ID:K4r6F/a9
けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」
0141Socket7742018/08/20(月) 00:04:43.18ID:8f8dtdLU
お金に着物に馬車に――
0142Socket7742018/08/20(月) 00:04:47.01ID:K4r6F/a9
信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。
0143Socket7742018/08/20(月) 00:04:59.12ID:8f8dtdLU
皆支度が出来てゐてよ。
0144Socket7742018/08/20(月) 00:05:02.84ID:K4r6F/a9
殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。
0145Socket7742018/08/20(月) 00:05:15.04ID:8f8dtdLU
私、今夜と同じ時刻にお尋ねするわ。
0146Socket7742018/08/20(月) 00:05:18.63ID:K4r6F/a9
が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。
0147Socket7742018/08/20(月) 00:05:30.96ID:8f8dtdLU
彼女は軽く唇を、わしの額にふれた。
0148Socket7742018/08/20(月) 00:05:34.45ID:K4r6F/a9
さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。
0149Socket7742018/08/20(月) 00:05:47.03ID:8f8dtdLU
ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。
0150Socket7742018/08/20(月) 00:05:50.12ID:K4r6F/a9
信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。
0151Socket7742018/08/20(月) 00:06:03.06ID:8f8dtdLU
と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。
0152Socket7742018/08/20(月) 00:06:05.86ID:K4r6F/a9
そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。
0153Socket7742018/08/20(月) 00:06:18.89ID:8f8dtdLU
わしは何時ものやうに朝遅く眼をさました。
0154Socket7742018/08/20(月) 00:06:21.57ID:K4r6F/a9
結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。
0155Socket7742018/08/20(月) 00:06:34.68ID:8f8dtdLU
そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。
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夫は何処か女性的な、口数を利かない人物であつた。
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わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。
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が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。
0159Socket7742018/08/20(月) 00:07:22.39ID:8f8dtdLU
そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。
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わしは直に深い眠りに落ちた。
0161Socket7742018/08/20(月) 00:07:40.06ID:K4r6F/a9
夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。
0162Socket7742018/08/20(月) 00:07:54.01ID:8f8dtdLU
そしてわしの夢も続けられた。
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が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。
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帳が再び開いて、わしはクラリモンドの姿を見た。
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彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。
0166Socket7742018/08/20(月) 00:08:25.83ID:8f8dtdLU
青ざめた経帷子を青ざめた身に纏つて、頬に「死」
0167Socket7742018/08/20(月) 00:08:27.33ID:K4r6F/a9
信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。
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の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴がのぞいてゐる。
0169Socket7742018/08/20(月) 00:08:43.05ID:K4r6F/a9
それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。
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金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。
0171Socket7742018/08/20(月) 00:08:58.78ID:K4r6F/a9
実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。
0172Socket7742018/08/20(月) 00:09:13.42ID:8f8dtdLU
「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。
0173Socket7742018/08/20(月) 00:09:14.44ID:K4r6F/a9
殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。
0174Socket7742018/08/20(月) 00:09:29.22ID:8f8dtdLU
私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。
0175Socket7742018/08/20(月) 00:09:30.16ID:K4r6F/a9
が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。
0176Socket7742018/08/20(月) 00:09:45.03ID:8f8dtdLU
愚図々々しちやゐられないわ。」
0177Socket7742018/08/20(月) 00:09:45.84ID:K4r6F/a9
その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。
0178Socket7742018/08/20(月) 00:10:00.87ID:8f8dtdLU
わしは直に寝床からとび出した。
0179Socket7742018/08/20(月) 00:10:01.53ID:K4r6F/a9
そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。
0180Socket7742018/08/20(月) 00:10:16.65ID:8f8dtdLU
「さあ、着物をきて頂戴。
0181Socket7742018/08/20(月) 00:10:17.23ID:K4r6F/a9
夫はその話を聞くと、「愈女流作家になるかね。」
0182Socket7742018/08/20(月) 00:10:32.41ID:8f8dtdLU
それから出かけませう。」
0183Socket7742018/08/20(月) 00:10:33.06ID:K4r6F/a9
と云つて、やさしい口もとに薄笑ひを見せた。
0184Socket7742018/08/20(月) 00:10:48.25ID:8f8dtdLU
彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡を噛んでゐるわ。
0185Socket7742018/08/20(月) 00:10:48.84ID:K4r6F/a9
しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。
0186Socket7742018/08/20(月) 00:11:04.13ID:8f8dtdLU
今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」
0187Socket7742018/08/20(月) 00:11:04.61ID:K4r6F/a9
彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。
0188Socket7742018/08/20(月) 00:11:20.02ID:8f8dtdLU
わしは急いで着物を着た。
0189Socket7742018/08/20(月) 00:11:20.31ID:K4r6F/a9
所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。
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彼女はわしに着物を一つ/\渡してくれた。
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夫は日頃身綺麗なだけに、不快らしく顔を曇らせた。
0192Socket7742018/08/20(月) 00:11:51.75ID:8f8dtdLU
そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。
0193Socket7742018/08/20(月) 00:12:07.46ID:K4r6F/a9
さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」
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それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。
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と何時になく厭味を云つた。
0196Socket7742018/08/20(月) 00:12:23.51ID:8f8dtdLU
それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。
0197Socket7742018/08/20(月) 00:12:38.90ID:K4r6F/a9
信子は黙つて眼を伏せて、上衣の埃を払つてゐた。
0198Socket7742018/08/20(月) 00:12:39.48ID:8f8dtdLU
私をお附きにかゝへて下すつて?」
0199Socket7742018/08/20(月) 00:12:54.59ID:K4r6F/a9
それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。
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わしはもう、何時ものわしではない。
0201Socket7742018/08/20(月) 00:13:10.33ID:K4r6F/a9
「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」――
0202Socket7742018/08/20(月) 00:13:11.15ID:8f8dtdLU
そして自分でさへこれが自分とは思はれない。
0203Socket7742018/08/20(月) 00:13:26.06ID:K4r6F/a9
そんな事も口へ出した。
0204Socket7742018/08/20(月) 00:13:26.95ID:8f8dtdLU
云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。
0205Socket7742018/08/20(月) 00:13:41.74ID:K4r6F/a9
信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。
0206Socket7742018/08/20(月) 00:13:42.70ID:8f8dtdLU
わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。
0207Socket7742018/08/20(月) 00:13:57.43ID:K4r6F/a9
すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」
0208Socket7742018/08/20(月) 00:13:58.46ID:8f8dtdLU
わしの虚栄心は此変化に心からそゝられずにはゐられなかつた。
0209Socket7742018/08/20(月) 00:14:13.13ID:K4r6F/a9
と、やはりねちねちした調子で云つた。
0210Socket7742018/08/20(月) 00:14:14.19ID:8f8dtdLU
美しく刺繍をした袍はわしを全くの別人にしてしまつたのである。
0211Socket7742018/08/20(月) 00:14:28.81ID:K4r6F/a9
彼女は猶更口が利けなくなつた。
0212Socket7742018/08/20(月) 00:14:30.08ID:8f8dtdLU
わしは或型通りに断つてある五六尺の布がわしの上に加へた変化の力を、驚嘆して見戍つた。
0213Socket7742018/08/20(月) 00:14:44.54ID:K4r6F/a9
夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。
0214Socket7742018/08/20(月) 00:14:45.89ID:8f8dtdLU
わしの衣裳の精霊は、わしの皮膚の中に滲み入つて、十分たつかたたぬ中にわしはどうやら一廉の豪華の児になつてしまつた。
0215Socket7742018/08/20(月) 00:15:00.38ID:K4r6F/a9
が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」
0216Socket7742018/08/20(月) 00:15:01.71ID:8f8dtdLU
此新衣裳に慣れようと思つて、わしは室の中を五六度歩いて見た。
0217Socket7742018/08/20(月) 00:15:16.26ID:K4r6F/a9
と、囁くやうな声で云つた。
0218Socket7742018/08/20(月) 00:15:17.47ID:8f8dtdLU
クラリモンドは花のやうな快楽を味ひでもするやうに、わしを見戍りながら、さも自分の手際に満足するらしく思はれた。
0219Socket7742018/08/20(月) 00:15:31.97ID:K4r6F/a9
夫はそれでも黙つてゐた。
0220Socket7742018/08/20(月) 00:15:33.23ID:8f8dtdLU
「さあ、もう遊ぶのは沢山よ、ロミュアル、これから出かけるのよ。
0221Socket7742018/08/20(月) 00:15:47.70ID:K4r6F/a9
暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。
0222Socket7742018/08/20(月) 00:15:49.04ID:8f8dtdLU
私達は遠くへ行かなければならないのだわ。
0223Socket7742018/08/20(月) 00:16:03.44ID:K4r6F/a9
それから間もなく泣く声が洩れた。
0224Socket7742018/08/20(月) 00:16:04.90ID:8f8dtdLU
さうして遅れちやあいけないのだわ。」
0225Socket7742018/08/20(月) 00:16:19.10ID:K4r6F/a9
夫は二言三言彼女を叱つた。
0226Socket7742018/08/20(月) 00:16:20.68ID:8f8dtdLU
彼女はわしの手を執つて、外へ出た。
0227Socket7742018/08/20(月) 00:16:34.80ID:K4r6F/a9
その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。
0228Socket7742018/08/20(月) 00:16:36.40ID:8f8dtdLU
戸と云ふ戸は、彼女が手をふれると忽ちに開くのである。
0229Socket7742018/08/20(月) 00:16:50.51ID:K4r6F/a9
が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。……
0230Socket7742018/08/20(月) 00:16:52.16ID:8f8dtdLU
わし達は犬の眼もさまさずに其の側を通りぬけた。
0231Socket7742018/08/20(月) 00:17:06.33ID:K4r6F/a9
翌日彼等は又元の通り、仲の好い夫婦に返つてゐた。
0232Socket7742018/08/20(月) 00:17:07.95ID:8f8dtdLU
門口でわしは、前にわしの護衛兵だつた、あの黒人の扈従のマルゲリトンを見た。
0233Socket7742018/08/20(月) 00:17:22.04ID:K4r6F/a9
と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。
0234Socket7742018/08/20(月) 00:17:23.73ID:8f8dtdLU
彼は三頭の馬の轡を控へてゐる――
0235Socket7742018/08/20(月) 00:17:37.79ID:K4r6F/a9
しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。
0236Socket7742018/08/20(月) 00:17:39.57ID:8f8dtdLU
三頭共、わしをあの城へ伴れて行つた馬のやうに黒い。
0237Socket7742018/08/20(月) 00:17:53.50ID:K4r6F/a9
信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。
0238Socket7742018/08/20(月) 00:17:55.32ID:8f8dtdLU
一頭はわしの為、一頭は彼の為、一頭はクラリモンドの為である。
0239Socket7742018/08/20(月) 00:18:09.26ID:K4r6F/a9
夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。
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是等の馬は、西風の神の胎をうけた牝馬が生んだと云ふ西班牙馬に相違ない。
0241Socket7742018/08/20(月) 00:18:24.97ID:K4r6F/a9
「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」――
0242Socket7742018/08/20(月) 00:18:26.89ID:8f8dtdLU
何故と云へば彼等は風のやうに疾いからである。
0243Socket7742018/08/20(月) 00:18:40.65ID:K4r6F/a9
さう云ふ言葉が、何度となく女のやうな口から出た。
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門を出る時に丁度東に上つて路上のわし達を照した明月は戦車から外れた車輪のやうに、空中を転げまはつて、右の方、梢から梢へ飛び移りながら、息を切らしてわし達に伴いて来る。
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彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。
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間も無く一行はとある平野に来た。
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こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。
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其処には四頭の大きな馬に曳かせた馬車が一台一叢の木蔭に待つてゐる。
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私が便りに思ふのは、たつたお前一人ぎりだ。――
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で、それへ乗り移ると今度は馭者が気違ひのやうに馬を走らせる。
0251Socket7742018/08/20(月) 00:19:43.58ID:K4r6F/a9
信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。
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わしは片手をクラリモンドの肩にまはして、彼女の片手をわしの手に執つてゐた、彼女の頭はわしの肩に靠れて、わしは半ば露した彼女の胸が軽く、わしの腕を圧するのを感じるのである。
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が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。
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わしは此様な熾烈な快楽を味つた事はない。
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そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。
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其間にわしは凡ての事を忘れてゐた。
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信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。
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わしが僧侶だつたと云ふ事を覚えてゐるのも、わしが母の腹の中にゐた事を覚えてゐるのと同じ程にしか考へられなかつた。
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その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。
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此悪魔がわしの上にかけた蠱惑は、是程大きかつたのである。
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彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。
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其夜からわしの性質は、或意味に於て二等分されたやうに思はれる。
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その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。
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云はゞわしの内に二人の人がゐて、それが互に知らずにゐるのである。
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それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。
0266Socket7742018/08/20(月) 00:21:36.50ID:8f8dtdLU
或時はわしは自分が夜になると紳士になつた夢を見る僧侶だと思ふが、又或時には、僧侶になつた夢を見てゐる紳士だと思ふ事もある。
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が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」
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わしは夢と現実とを分つ事も出来なければ、何処に現実が始まり、何処に夢が定るかさへも見出す事が出来なかつた。
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なぞと、考へ考へ話してゐた。
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貴公子の道楽者は僧侶を馬鹿にするし、僧侶は、貴公子の放埒を罵るのである。
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するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。
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互にもつれ合ひながら、しかも互に触れる事のない二つの螺線は、わしの此二面の生活を、遺憾なく示してゐる。
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信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。
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しかしわしは、此状態が此様な不思議な性質を持つてゐるにも拘らず、一分でも気違ひになる気などは起らなかつた。
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大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。
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わしは常に、思切つて溌剌とした心で、わしの二つの生活を気長く観照してゐたのである。
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又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。
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が、唯一つ、わしにも説明の出来ない妙な事があつた――
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が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。
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即ちそれは同じ個人性の意識が、全く性格の背反した二人の人間の中に存在してゐたと云ふ事である。
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彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。
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の寒村の牧師補と思つたか、クラリモンドの肩書附きの恋人、ロムアルドオ閣下と思つたか、どうか――
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俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。
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これがわしの不思議に思ふ一つの変則なのである。
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彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。
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兎も角も、わしはヴェニスに住んだ。
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と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。
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少くも住んだと信じてゐた。
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信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。
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わしが此幻怪な事実の中にどれ程の幻想と印象とが含まれてゐるかを正確に発見するのは到底不可能である。
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夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。
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わし達は、カナレイオの辺の、壁画と石像との沢山ある、大きな宮殿に住んでゐた、それは一国の王宮にしても恥しくないやうな宮殿で、わし達は各々ゴンドラの制服を着たバルカロリも、音楽室も、御抱への詩人も持つてゐた。
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その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。
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殊にクラリモンドは、大規模な生活を恣にするのが常であつた。
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彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。
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彼女の性格にはクレオパトラに似た何物かが潜んでゐるのである。
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夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。
0298Socket7742018/08/20(月) 00:25:49.50ID:8f8dtdLU
わしはと云ふと又王子のやうな宮臣の一列を従へて、常に大国の四福音宣伝師か十二使徒の一人と一家ででもあるやうな、畏敬を以て迎へられてゐた。
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「お前はよくそんな事まで覚えてゐるね。」――
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わしは大統領を通すのでさへ、道を譲らうとはしなかつた。
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夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。
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魔王が天国から堕落して以来、わしより傲慢不遜な人間が此世にゐたとは信じられぬ。
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が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。
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わしは又、リドットにも行つて、地獄のものとしか思はれぬ運をさへ弄んだ。
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それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。
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わしはあらゆる社会の最も善良な部分――
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その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。
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没落した家の子供達とか女役者とか奸黠な悪人とか佞人とか空威張をする人間とか――
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彼女は早速母と妹とへ、長い祝ひの手紙を書いた。
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そして此様な生活に沈湎しながらも、わしは常にクラリモンドを忘れなかつた。
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「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」
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わしは実に狂気のやうに彼女を愛してゐたのである。
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そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、)
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一人のクラリモンドを持つのは、二十人の情婦を持つのにも均しい。
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筆の渋る事も再三あつた。
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否、あらゆる女を持つのにも均しい。
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すると彼女は眼を挙げて、必外の松林を眺めた。
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彼女は其一身に、無数の容貌の変化と無数の清新な嬌艶とを蔵してゐる――
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松は初冬の空の下に、簇々と蒼黒く茂つてゐた。
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真に彼女は女のカメレオンである。
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その晩信子と夫とは、照子の結婚を話題にした。
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彼女はわしの愛を百倍にして返して呉れた。
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夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。
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彼女の求めるのは唯、愛である――
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が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。
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彼女自身によつて目醒まされた、清浄な青春の愛である。
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「どれ、寝るかな。」――
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しかも其愛は最初の、又最後の情熱でなければならない。
0329Socket7742018/08/20(月) 00:29:57.06ID:K4r6F/a9
二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。
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かくしてわしも常に幸福であつた。
0331Socket7742018/08/20(月) 00:30:12.78ID:K4r6F/a9
信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」
0332Socket7742018/08/20(月) 00:30:17.99ID:8f8dtdLU
唯、不幸なのは、毎夜必ず魘される時だけで、其の時はわしが貧しい田舎の牧師補になつた夢を見ながら、昼間の淫楽を悔いて、贖罪と苦行とに一身を捧げてゐるのである。
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「当り前ぢやないか、妹もゐるんだから。」――
0334Socket7742018/08/20(月) 00:30:33.79ID:8f8dtdLU
わしは、常は彼女と親しんでゐられるのに安んじて、わしがクラリモンドと知るやうになつた不思議な関係を此上考へて見ようとはしなかつた。
0335Socket7742018/08/20(月) 00:30:44.08ID:K4r6F/a9
彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。
0336Socket7742018/08/20(月) 00:30:49.64ID:8f8dtdLU
併し彼女に関する僧院長セラピオンの言は、屡々わしの記憶に現れて、わしの心に不安を与へずにはゐなかつた。
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照子と俊吉とは、師走の中旬に式を挙げた。
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其内に暫くの間クラリモンドの健康が平素のやうにすぐれなかつた。
0339Socket7742018/08/20(月) 00:31:15.51ID:K4r6F/a9
当日は午少し前から、ちらちら白い物が落ち始めた。
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顔の色も日にまし青ざめる。
0341Socket7742018/08/20(月) 00:31:31.15ID:K4r6F/a9
信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。
0342Socket7742018/08/20(月) 00:31:36.91ID:8f8dtdLU
医師を呼んで診せても、病気の質がわからないので、どう治療していゝか見当が附かない。
0343Socket7742018/08/20(月) 00:31:46.77ID:K4r6F/a9
「東京も雪が降つてゐるかしら。」――
0344Socket7742018/08/20(月) 00:31:52.66ID:8f8dtdLU
彼等は皆、役にも立たぬ処方箋を書いて、二度目からは来なくなつてしまふのである。
0345Socket7742018/08/20(月) 00:32:02.40ID:K4r6F/a9
こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。
0346Socket7742018/08/20(月) 00:32:08.38ID:8f8dtdLU
けれ共彼女の顔色は、著しく青ざめて、一日は一日と冷くなる。
0347Socket7742018/08/20(月) 00:32:18.08ID:K4r6F/a9
が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。……
0348Socket7742018/08/20(月) 00:32:24.14ID:8f8dtdLU
そして遂には殆どあの不思議な城の記憶すべき夜のやうに、白く、血の気もなくなつてしまつた。
0349Socket7742018/08/20(月) 00:32:33.84ID:K4r6F/a9
信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。
0350Socket7742018/08/20(月) 00:32:39.87ID:8f8dtdLU
わしは此様に徐々と死んでゆく彼女を見るに堪へないで、云ふ可からざる苦痛に苛まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。
0351Socket7742018/08/20(月) 00:32:49.50ID:K4r6F/a9
が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。
0352Socket7742018/08/20(月) 00:32:55.60ID:8f8dtdLU
或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直側に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。
0353Socket7742018/08/20(月) 00:33:05.23ID:K4r6F/a9
彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。
0354Socket7742018/08/20(月) 00:33:11.59ID:8f8dtdLU
それはわしが一分でも彼女の側を離れたくないと思つたからである。
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彼等の家は、町並が葱畑に移る近くにあつた。
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で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。
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しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。
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すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。
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のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、――
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彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――
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すべてがどの家も変りはなかつた。
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丁度猿か猫のやうに軽快に――
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この平凡な住居の容子は、多少信子を失望させた。
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わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。
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が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。
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しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。
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俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」
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と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。
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彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。
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そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。
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信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。
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血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。
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俊吉は彼女を書斎兼客間の八畳へ坐らせた。
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顔はつや/\と肉附いて、手も温かにしめつてゐる――
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座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。
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常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。
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殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。
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「私もう死なないわ、死なないわ。」
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その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。
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悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。
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信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。
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「私はまだ長い間貴方を愛してあげる事が出来てよ。
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「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」――
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私の命は貴方の有だわ。
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俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。
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私の中にある物は皆、貴方から来たのだわ。
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「どうです、大阪の御生活は?」
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貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。
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信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。
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その血の滴のおかげで私は命を取返したのだわ。」
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文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。
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此光景は長い間、わしの記憶に上つて来た。
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彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。
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そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。
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俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。
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丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長セラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。
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が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。
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彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽足りなくて、肉体をも失はうとするのかの。
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それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。
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見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」
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時々はしかし沈黙が、二人の間に来る事もあつた。
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彼のかう云つた調子は、強くわしを動かした。
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その度に彼女は微笑した儘、眼を火鉢の灰に落した。
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が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。
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其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。
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遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。
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すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。
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それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。
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彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。
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わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。
0411Socket7742018/08/20(月) 00:40:41.93ID:K4r6F/a9
が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。
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で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。
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その内に照子が帰つて来た。
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わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。
0415Socket7742018/08/20(月) 00:41:13.44ID:K4r6F/a9
彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。
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待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。
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信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。
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そして寝床の上に上つてわしの傍に横になつた。
0419Socket7742018/08/20(月) 00:41:44.88ID:K4r6F/a9
二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。
0420Socket7742018/08/20(月) 00:41:52.73ID:8f8dtdLU
彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。
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殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。
0422Socket7742018/08/20(月) 00:42:08.51ID:8f8dtdLU
「一滴、たつた一滴、私の針の先へ紅宝玉をたつた一滴……
0423Socket7742018/08/20(月) 00:42:16.33ID:K4r6F/a9
俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。
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貴方はまだ私を愛してゐるのですから、私はまだ死なれません……
0425Socket7742018/08/20(月) 00:42:32.07ID:K4r6F/a9
其処へ女中も帰つて来た。
0426Socket7742018/08/20(月) 00:42:40.08ID:8f8dtdLU
あゝ可哀さうに、私は美しい血を、まつ赤な血を飲まなければならないのね、お休みなさい、私のたつた一の宝物、お眠みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようと思つてはゐなくつてよ。
0427Socket7742018/08/20(月) 00:42:47.90ID:K4r6F/a9
俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。
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私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまはない丈の物を頂くのだわ。
0429Socket7742018/08/20(月) 00:43:03.61ID:K4r6F/a9
照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。
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私は貴方を愛してゐるのでせう、だから私は外に恋人を拵へて、其人の血管を吸ひ干す事にした方がいゝのだわ。
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「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」
0432Socket7742018/08/20(月) 00:43:27.59ID:8f8dtdLU
けれど貴方を知つてから、私、外の男は皆厭になつてしまつたのですもの……
0433Socket7742018/08/20(月) 00:43:35.02ID:K4r6F/a9
「ええ、俊さんだけ。」――
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まあ美しい腕ね、何と云ふ円いのだらう、何と云ふ白いのだらう、どうして私は此様な青い血管を傷ける事が出来るのだらう。」
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信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。
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かう呟き乍ら、彼女はさめ/″\と涙を流した。
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すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。
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其時わしは、彼女がわしの腕を執りながら、其上に落す涙を感じたのであつた。
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その茶も僕が入れたんだ。」
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遂に彼女は意を決して、其留針で一寸わしを刺した。
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照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。
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そして其処から滴る血を吸ひ始めた。
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が、夫にはわざとらしく、何とも返事をしなかつた。
0444Socket7742018/08/20(月) 00:45:02.29ID:8f8dtdLU
彼女はほんの五六滴しか飲まなかつたが、わしの眼を醒ますのを怖れたので、丁寧に小さな布でわしの腕を括つてくれた。
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間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。
0446Socket7742018/08/20(月) 00:45:18.05ID:8f8dtdLU
それから後で又傷を膏薬でこすつてくれたので、傷は直に癒つてしまつた。
0447Socket7742018/08/20(月) 00:45:25.37ID:K4r6F/a9
照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。
0448Socket7742018/08/20(月) 00:45:33.80ID:8f8dtdLU
僧院長セラピオンが正しかつたのである。
0449Socket7742018/08/20(月) 00:45:41.11ID:K4r6F/a9
俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。
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が、此積極的な知識があるにも拘らず、わしはクラリモンドを愛するのを禁ずる事が出来なかつた。
0451Socket7742018/08/20(月) 00:45:56.87ID:K4r6F/a9
小はこの玉子から」――
0452Socket7742018/08/20(月) 00:46:05.41ID:8f8dtdLU
そして喜んで其人工の生命を与へるに足る丈の血潮を、自ら進んで与へようと思つた。
0453Socket7742018/08/20(月) 00:46:12.62ID:K4r6F/a9
なぞと社会主義じみた理窟を並べたりした。
0454Socket7742018/08/20(月) 00:46:21.28ID:8f8dtdLU
加之、わしは殆ど彼女を怖しく思はなかつた。
0455Socket7742018/08/20(月) 00:46:28.42ID:K4r6F/a9
その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。
0456Socket7742018/08/20(月) 00:46:37.09ID:8f8dtdLU
わしはわしの血を一滴づつ取引するよりも、わしの腕の血管を自ら剖いて、彼女にかう云つてやりたかつた。
0457Socket7742018/08/20(月) 00:46:44.14ID:K4r6F/a9
照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。
0458Socket7742018/08/20(月) 00:46:52.84ID:8f8dtdLU
「お飲み、さうしてわしの愛をわしの血潮と一しよに、お前の体に滲透らせておくれ。」
0459Socket7742018/08/20(月) 00:46:59.87ID:K4r6F/a9
信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。
0460Socket7742018/08/20(月) 00:47:08.57ID:8f8dtdLU
わしは、彼女がわしに拵へてくれた魔酔の酒の事や、あの留針の出来事には、気をつけて一言もそれに及ばないやうにした。
0461Socket7742018/08/20(月) 00:47:15.62ID:K4r6F/a9
話は食後の果物を荒した後も尽きなかつた。
0462Socket7742018/08/20(月) 00:47:24.28ID:8f8dtdLU
そしてわし達は最も円満な調和を楽しんでゆく事が出来たのである。
0463Socket7742018/08/20(月) 00:47:31.33ID:K4r6F/a9
微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。
0464Socket7742018/08/20(月) 00:47:40.05ID:8f8dtdLU
けれ共、わしの沙門らしい優柔は、常よりも一層、わしを苛み始めた。
0465Socket7742018/08/20(月) 00:47:47.04ID:K4r6F/a9
その談論風発が、もう一度信子を若返らせた。
0466Socket7742018/08/20(月) 00:47:55.89ID:8f8dtdLU
そしてわしは、わしの肉を苦しめ制する為に、何か新しい贖罪を発明するのさへ、想像するに苦しむやうになつた。
0467Socket7742018/08/20(月) 00:48:02.73ID:K4r6F/a9
彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」
0468Socket7742018/08/20(月) 00:48:11.69ID:8f8dtdLU
是等の幻は無意志的なもので、わしは実際それに関する何事にも与らなかつたがそれでも猶、わしは事実にせよ夢幻にせよ、此様な淫楽に汚れた心と不浄な手とを以てしては、到底基督の体に触れる事が出来なかつた。
0469Socket7742018/08/20(月) 00:48:18.46ID:K4r6F/a9
すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。
0470Socket7742018/08/20(月) 00:48:27.47ID:8f8dtdLU
わしは此懶い幻惑の力に圧へられるのを免れようとして、先づ眠に陥るのを防がうと努力した。
0471Socket7742018/08/20(月) 00:48:34.17ID:K4r6F/a9
それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」
0472Socket7742018/08/20(月) 00:48:43.32ID:8f8dtdLU
そこでわしは指で瞼を開いてゐたり、数時間も真直に壁に倚り懸てゐたりして、全力を振つて眠と戦つて見たのである。
0473Socket7742018/08/20(月) 00:48:49.90ID:K4r6F/a9
信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。
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けれ共睡魔は絶えずわしの眼を襲つて、凡ての抵抗が無駄になつたと思ふと、わしは極度の疲労に堪へずして、両腕を力なく下げたまゝ、再び睡の潮流に楽慾の彼岸に運ばれて了ふ。
0475Socket7742018/08/20(月) 00:49:05.61ID:K4r6F/a9
「ぢや女でなけりや、音楽家になれなくつて?
0476Socket7742018/08/20(月) 00:49:15.07ID:8f8dtdLU
セラピオンは、峻烈を極めた訓戒を加へて、厳しくわしの意気地の無いのと、勇猛心の不足なのとを責めたが、遂に或日、わしが平素より一層心を苦しめてゐると、わしにかう云つてくれた。
0477Socket7742018/08/20(月) 00:49:21.31ID:K4r6F/a9
アポロは男ぢやありませんか。」――
0478Socket7742018/08/20(月) 00:49:30.85ID:8f8dtdLU
「此不断の呵責を免れることの出来るのは、唯、一策がある許りぢや。
0479Socket7742018/08/20(月) 00:49:37.01ID:K4r6F/a9
照子は真面目にこんな事まで云つた。
0480Socket7742018/08/20(月) 00:49:46.69ID:8f8dtdLU
尤も非常に出た策だと云ふ嫌はあるが役には立つに相違ない。
0481Socket7742018/08/20(月) 00:49:52.71ID:K4r6F/a9
信子はとうとう泊る事になつた。
0482Socket7742018/08/20(月) 00:50:02.58ID:8f8dtdLU
難病は劇薬を要すると云ふものぢや。
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寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。
0484Socket7742018/08/20(月) 00:50:18.33ID:8f8dtdLU
わしはクラリモンドの埋められた処を知つてゐるし、それにはあの女の屍を発いて、お前の恋する女がどのやうな憐な姿になつてゐるかを見なければならぬ。
0485Socket7742018/08/20(月) 00:50:24.26ID:K4r6F/a9
それから誰を呼ぶともなく「ちよいと出て御覧。
0486Socket7742018/08/20(月) 00:50:34.08ID:8f8dtdLU
さうすればお前も、蛆に食はれた、塵になるばかりの屍の為に、霊魂を失ふやうな迷には陥らぬやうにならう。
0487Socket7742018/08/20(月) 00:50:40.11ID:K4r6F/a9
信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。
0488Socket7742018/08/20(月) 00:50:49.95ID:8f8dtdLU
此策は必ずお前を救ふに相違ないて。」
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足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。
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わしは此二重生活に困憊してゐたので、貴公子か僧侶かどちらが幻惑の犠牲だかを確め度いばかりに直に之を快諾した。
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月は庭の隅にある、痩せがれた檜の梢にあつた。
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わしは全くわしの心の中にゐる二人の男の一人を、もう一人の利益の為に殺すか、又は二人共殺すか、どちらか一つにする決心でゐた。
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従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。
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それは此様な怖しい存在は続けられる事も、堪へられる事も出来なかつたからである。
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「大へん草が生えてゐるのね。」――
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そこで僧院長セラピオンは鶴嘴と挺と角燈とを整へて、わし達二人は真夜中に場所も位置も彼のよく知つてゐる――
0497Socket7742018/08/20(月) 00:51:58.69ID:K4r6F/a9
信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。
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の墓地へ出かけたのであつた。
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が、彼はやはり空を見ながら、「十三夜かな。」
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暗い角燈の光を五六の墓石の碑銘に向けた後に、わし達は遂に、半大きな雑草に掩はれて、其上又苔と寄生植物とに侵された大きな板石の前に出た。
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と呟いただけであつた。
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そして其上に、わし達は下のやうな墓碑銘の首句を探り読む事が出来たのである。
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暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」
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女性の中の最も美しき女性として
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鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。
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クラリモンドこそ此処に眠れ
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二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。
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とセラピオンが呟いた。
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しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
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そして角燈を地上に置くと、石の端の下へ挺の先を押入れて、其石を擡げ始めた。
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俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」
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石が自由になると彼は更に寄生植物を取除けにかゝつた。
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「玉子を人に取られた鶏が。」――
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わしは夜よりも暗く、夜よりも更に語なく、傍に立つて、ぢつと彼のする事を見戍つた。
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信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
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其間に彼は其凄惨な労働に腰をかゞめて、汗にぬれながら喘いでゐる。
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二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
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わしには彼の苦しさうに吐く息が、末期の痰のつまる音のやうな調子を持つてゐるかと疑はれた。
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青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。
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それは真に幽怪な光景であつた。
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翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。
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外から誰でもわし達を見る人があつたなら、其人はわし達を神の僧侶と思ふよりは寧ろ涜神の痴者が経帷子を盗む者と思つたに相違ない。
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何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。
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セラピオンの熱心には、執拗な酷烈な何物かがあつて、それが彼に天使とか使徒とか云ふものよりも却つて邪鬼の形相を与へてゐた。
0525Socket7742018/08/20(月) 00:55:39.39ID:K4r6F/a9
午頃までにやきつと帰つて来るから。」――
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其大きな、鷲のやうな顔は、角燈の光で、鋭い浮彫りを刻んでゐる。
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彼は外套をひつかけながら、かう信子に念を押した。
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峻厳な目鼻立ちと共に、不快な空想を誘ふやうな、恐る可き何物かを有してゐるのである。
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が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。
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わしは氷のやうな汗が大きな粒になつてわしの顔に湧いて来たのを感じた。
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照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。
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わしの髪は恐しい畏怖の為によだつてゐる。
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隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、――
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わしの心の底では、辛辣なセラピオンの行が、憎むべき神聖冒涜の如く感じてゐる。
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その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。
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わしは、頭上に油然と流れてゐる黒雲の内臓から、火の三戟刑具が迸り出でて、彼を焦土とするやうに祈祷しようかとさへ思つてゐた。
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が、信子の心は沈んでゐた。
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糸杉に宿つてゐた梟は、角燈の光に驚いて、時々それに飛んで来る。
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彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。
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しかも其度に灰色の翼で角燈の硝子を打つては悲しい慟哭の叫び声を揚げるのである。
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それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。
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野狐は遠い闇の中に鳴き、数千の不吉な物の響は、沈黙の中から自ら生れて来る。
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妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」
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遂にセラピオンの鶴嘴は、柩を打つた。
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と尋ねてくれたりした。
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其板に触れた響は、深い高い音を、打たれた時に「無」
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しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。
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が発する戦慄すべき音を、陰々と反響した。
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柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」
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それから彼は柩の蓋を捩ぢはなした。
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照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」
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わしは其時クラリモンドが大理石像のやうに青白く、両手を組んでゐるのを見た。
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とだけしか答へなかつた。
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彼女の白い経帷子は、頭から足迄たゞ一つの襞を造つてゐる。
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信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。
0556Socket7742018/08/20(月) 00:59:48.48ID:8f8dtdLU
しかも彼女の色褪せた唇の一角には、露の滴つたやうに、小さな真紅の滴がきらめいてゐるのである。
0557Socket7742018/08/20(月) 00:59:51.33ID:K4r6F/a9
さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。
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之を見ると、セラピオンの怒気は心頭に上つた。
0559Socket7742018/08/20(月) 01:00:07.05ID:K4r6F/a9
「照さんは幸福ね。」――
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「あゝ、此処に居つたな、悪魔めが、不浄な売婦めが、黄金と血とを吸ふ奴めが。」
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信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。
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彼は聖水を屍と柩の上に注ぎかけて、其上に水刷毛で十字を切つた。
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が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。
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憐む可きクラリモンドは、聖水がかゝると共に、美しい肉体も忽ち塵土となつて、唯、形もない、恐しい灰燼の一塊と、半ば爛壊した腐骨の一堆とが残つた。
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照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」
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「お前の情人を見るがよい、ロミュアル卿。」
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それからすぐに又「御姉様だつて幸福の癖に。」
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決然として僧院長は此悲しい残骸を指さしながら、叫んだ。
0569Socket7742018/08/20(月) 01:01:25.96ID:K4r6F/a9
と、甘えるやうにつけ加へた。
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「是でもお前は、お前の恋人と一しよに、リドオやフシナを散歩しようと云ふ気になるかの。」
0571Socket7742018/08/20(月) 01:01:41.67ID:K4r6F/a9
その言葉がぴしりと信子を打つた。
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わしは、無限の破滅がわしにふりかゝつた様に、両手で顔を隠した。
0573Socket7742018/08/20(月) 01:01:57.37ID:K4r6F/a9
彼女は心もちを上げて、「さう思つて?」
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わしはわしの牧師館へ帰つた。
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問ひ返して、すぐに後悔した。
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クラリモンドの恋人ロミュアル卿も、今は長い間不思議な交際を続けてゐた、憐れな僧侶から離れてしまつたのである。
0577Socket7742018/08/20(月) 01:02:28.94ID:K4r6F/a9
照子は一瞬間妙な顔をして、姉と眼を見合せた。
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が、唯一度、其次の夜にわしはクラリモンドに逢つた。
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その顔にも亦蔽ひ難い後悔の心が動いてゐた。
0580Socket7742018/08/20(月) 01:02:58.47ID:8f8dtdLU
彼女は、教会の玄関で始めてわしに逢つた時にさう云つたやうに「不仕合せな方ね、何をなすつた?」
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信子は強ひて微笑した。――
0582Socket7742018/08/20(月) 01:03:14.25ID:8f8dtdLU
「何故、あの愚かな牧師の云ふ事をおきゝなすつたの?
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「さう思はれるだけでも幸福ね。」
0584Socket7742018/08/20(月) 01:03:30.09ID:8f8dtdLU
私が貴方に何か悪い事をして?
0585Socket7742018/08/20(月) 01:03:32.04ID:K4r6F/a9
二人の間には沈黙が来た。
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それだのに貴方は私の墓を発いて、私の何もないみじめさを人目にお曝しなすつたのね。
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彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。
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私たちの、霊魂と肉体との交通はもう永久に破られてしまつたのよ。
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「でも御兄様は御優しくはなくつて?」――
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それでも貴方は屹度私をお惜みになるわ。」
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やがて照子は小さな声で、恐る恐るかう尋ねた。
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彼女は煙のやうに空中に消えた。
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その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。
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そしてわしは二度と彼女に会つた事はない。
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彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。
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あゝ、彼女の言は正しかつた。
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新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。
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わしは一度ならず彼女を惜んだ。
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その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。
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いや今も彼女を惜んでゐる。
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信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。
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わしの霊魂の平和は、高い代価を払つて始めて贖ふ事が出来たのである。
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「泣かなくつたつて好いのよ。」――
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神の愛は彼女のやうな愛を償つて余りある程大きなものではない。
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照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。
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兄弟よ、之がわしの若い時の話なのだ。
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信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。
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忘れても女の顔は見ぬがいゝ。
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それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。
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そして外へ出る時には、何時でも視線を地におとして歩くがいゝ。
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私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。
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何故と云へば、如何に信心ぶかい、慎みぶかい人間でも、一瞬間の誤が、永遠を失はせるのは容易だからである。
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俊さんが照さんを愛してゐてくれれば――」
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暑いフロックを夏の背廣に着換へて外の連中と一しよに上甲板へ出てゐると、年の若い機關少尉が三人やつて來て、いろんな話をしてくれた。
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と、低い声で云ひ続けた。
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僕は新米だから三人とも初對面だが、外の連中は皆、教室で一度は講義を聞かせた事のある間柄である。
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云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。
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だから、僕は圈外に立つておとなしく諸君子の話を聞いてゐた。
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すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。
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すると其少尉の一人が横須賀でSとSの細君と二人で散歩してゐるのに遇つたら、よくよく中てられたと見えて、其晩から腹が下つたと云ふ話をした。
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彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。
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ここけ
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外の連中はそれを聞くと、あははと大きな聲を出した。
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が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。
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唯新婚後間のないSだけはその仲間にはいらなかつた。
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御姉様は何故昨夜も――」
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これは嬉しさうに、にやにや笑つたのである。
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照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。……
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自分は、夕日の光を一ぱいに浴びた軍港を眺めながら、新らしい細君を家に殘して來たSに對して憐憫に近い同情を感じた。
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二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。
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さうしたら、何故か急に旅らしい心細い氣もちになつた。
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彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。
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標的を曳いてゐる艦は、さつきから二隻の小蒸汽に艦尾を曳かれて、方向を右に轉じようとしてゐる。
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其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。
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素人眼には、小蒸汽の艫に推進機が起してゐる、白い泡を見ても、どれほどその爲にこの二萬九千噸の巡洋艦が動いてゐるかわからない。
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もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。
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先に錨をあげた榛名は既に煙を吐き乍ら徐に港口を西に向つて、離れようとしてゐる。
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彼女の心は静かであつた。
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が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。
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それがまた、梅雨晴れの空の下に起伏してゐる山々の鮮な緑と、眩ゆく日の光を反射してゐる水銀のやうな海面とを背景にして、美しいパノラミックな景色をつくつてゐる。
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照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。
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この光景を眺めた僕には、金剛の容易に出航しさうもないのが聊かもどかしく思はれた。
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しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。
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そこで、又外の連中の話に加はつて、このもどかしさを紛らせようとした。
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彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。――
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すると、すぐ側のハツチの下でぢやんぢやんと、夕飯を知らせる銅鑼の音がした。
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信子はふと眼を挙げた。
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その音は軍艦の中とは思はれない程、古めかしいものであつた。
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その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。
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僕はそれを聞くと同時に長谷にある古道具屋を思ひ出した。
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それともこの儘行き違はうか。
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そこには朱塗の棒と一緒に、怪しげな銅鑼が一つ、萬年青の鉢か何かの上にぶら下つてゐる。
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彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。
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僕は急に軍艦の銅鑼が見たくなつたから、ほかの連中より先にハツチを下りて、それを叩いて行く水兵に追ひついた。
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が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。
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所が追ひついて見るとぢやんぢやんの正體は銅鑼と云ふ名を與へるのが僭越な程、平凡なうすべつたい、けちな金盥にすぎなかつた。
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彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。
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僕は滑稽な失望を感じて、すごすご士官室の海老茶色のカアテンをくぐつた。
0659Socket7742018/08/20(月) 01:13:15.00ID:K4r6F/a9
さう云ふ声が一瞬間、信子の唇から洩れようとした。
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士官室では大きな扇風器が幾つも頭の上でまはつてゐた。
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実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。
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その下に白いテーブル掛をかけた長い食卓が二側にならんで、つきあたりの、鏡を入れた大きなカツプボオドには、銀の花瓶が二つ置いてあつた。
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が、彼女は又ためらつた。
0664Socket7742018/08/20(月) 01:13:47.40ID:8f8dtdLU
食卓につくと、すぐにボイが食事を持つて來てくれる。
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その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。
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さうして靜に、しかも敏活に、給仕をしてくれる。
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薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、――
0668Socket7742018/08/20(月) 01:14:19.07ID:8f8dtdLU
僕は生鮭の皿を突つきながら、Sに「軍艦のボイは氣が利いてますね」
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後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。
0670Socket7742018/08/20(月) 01:14:34.86ID:8f8dtdLU
とか何とか氣のない返事をした。
0671Socket7742018/08/20(月) 01:14:49.57ID:K4r6F/a9
信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。
0672Socket7742018/08/20(月) 01:14:50.64ID:8f8dtdLU
事によると、これは軍艦のボイより、細君の方が氣が利いてゐると思つたからかも知れない。
0673Socket7742018/08/20(月) 01:15:05.27ID:K4r6F/a9
やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
0674Socket7742018/08/20(月) 01:15:06.37ID:8f8dtdLU
外の連中は皆同じ食卓についた八田機關長を相手にして、小林法雲の氣合術の事なんぞを話してゐた。
0675Socket7742018/08/20(月) 01:15:20.97ID:K4r6F/a9
いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨
0676Socket7742018/08/20(月) 01:15:22.12ID:8f8dtdLU
元來この士官室なるものへは、副長以下大尉以上の將校が皆な來て、飯を食ふ。
0677Socket7742018/08/20(月) 01:15:36.74ID:K4r6F/a9
ほの赤く岐阜提灯もともりけり「二つ巴」
0678Socket7742018/08/20(月) 01:15:37.97ID:8f8dtdLU
そこで僕はこの際、いろんな人の顏を覺えた。
0679Socket7742018/08/20(月) 01:15:52.48ID:K4r6F/a9
の春の夕ぐれ(明治座三月狂言)
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さうしてそれと同時にシイメンの顏には、一種のタイプがある事を發見した。
0681Socket7742018/08/20(月) 01:16:08.27ID:K4r6F/a9
戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり
0682Socket7742018/08/20(月) 01:16:09.77ID:8f8dtdLU
夕飯をしまつた後で、上甲板から最上甲板へ上ると、どこかから男ぶりの好い少尉が一人やつて來て、僕たちを前部艦橋へつれて行つてくれた。
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なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく
0684Socket7742018/08/20(月) 01:16:25.56ID:8f8dtdLU
軍艦の中で艦首から艦尾を一目に見渡す所と云ふと、先づここの外にない。
0685Socket7742018/08/20(月) 01:16:39.83ID:K4r6F/a9
春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情)
0686Socket7742018/08/20(月) 01:16:41.33ID:8f8dtdLU
僕たちは司令塔の外に立つて何時か航行を始め出した艦の前後に眼を落した。
0687Socket7742018/08/20(月) 01:16:55.52ID:K4r6F/a9
片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり
0688Socket7742018/08/20(月) 01:16:57.07ID:8f8dtdLU
眼分量にして、凡そ十五六呎の高さにゐるのだから、甲板の上にゐる水兵や將校も、可成小さく見える。
0689Socket7742018/08/20(月) 01:17:11.47ID:K4r6F/a9
恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ
0690Socket7742018/08/20(月) 01:17:12.84ID:8f8dtdLU
僕にはその小さな水兵の一人が、測鉛臺の上に立つて青い海に向ひながら、長い綱の先につけた分銅を、水の中へ投げこんでゐるのが殊に面白かつた。
0691Socket7742018/08/20(月) 01:17:27.17ID:K4r6F/a9
麦畑の萌黄天鵞絨芥子の花五月の空にそよ風のふく
0692Socket7742018/08/20(月) 01:17:28.72ID:8f8dtdLU
投げこんでゐると云ふだけでは、甚だ振はないが、實はまるで昔の武藝者が鎖鎌でも使ふやうな調子で、その分銅のついた長い綱をびゆうびゆう頭の上でふりしながら、艦の進むのに從つて出來る丈け遠くへ勢ひよく抛りこむのである。
0693Socket7742018/08/20(月) 01:17:43.00ID:K4r6F/a9
五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
0694Socket7742018/08/20(月) 01:17:44.52ID:8f8dtdLU
上から見てゐると、抛りこむ度にその細い綱が生きもののやうに海の上でうねくつた。
0695Socket7742018/08/20(月) 01:17:58.70ID:K4r6F/a9
刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋
0696Socket7742018/08/20(月) 01:18:00.31ID:8f8dtdLU
その先につけてある分銅が、まだ殘つてゐる日脚に光つて、魚の跳ねるやうに白く見えた。
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うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ
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僕はへえ危いねと思ひながら、暫の間は感心して、そればかり眺めてゐた。
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桐 (To Signorina Y. Y.)
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それから司令塔の内部や海圖室を見て、又中甲板へひき返した。
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君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける
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すると、狹い通路にはもうハムモツクを釣つて、眠つてゐる水兵が大勢ある。
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君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも
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中にはその中で、うす暗い電燈の光をたよりに、本を讀んでゐるものも二三人あつた。
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広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか
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僕たちは皆な背をかがめてそのハムモツクの下を這ふやうにして歩いた。
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いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも
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その時僕は痛切に「軍艦の臭ひ」
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病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする
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これはペンキの臭ひでもなければ、炊事場の流しの臭ひでもない。
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夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて
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さうかと云つて又機械の油の臭ひでもなければ、人間の汗の臭ひでもない。
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草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる
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恐らくそれらのすべてが混合した、――
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くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花
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要するにまあ「軍艦の臭ひ」
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青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも
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これは決して高等な臭ひではない。
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その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ
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こんな事を考へながらふと頭をあげると、一人の水兵の讀んでゐる本の表紙が、突然僕の鼻の先へ出た。
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いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや
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それには、「天地有情」
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すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は
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と云ふ字が書いてある。――
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香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし
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僕は一瞬の間、「軍艦の臭ひ」
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やっと立ったか
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にほひよき絹の小枕薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓
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さうして妙に小説めいた心持になつた。
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夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ
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それでもハムモツクの下を通りぬけたあとで、バスにはいつたら、生れかはつたやうな氣になつた。
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其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは
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バスは海水で沸かしてある。
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わが足に膏そゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首)
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それが白い陶器の湯槽の中で、明礬のやうに青く見えた。
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ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり
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Tの語を借りると、「躯が染まりさうな氣がする位青い。」
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うなだれて白夜の市をあゆむ時聖金曜の鐘のなる時
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僕は湯槽の中で手足をのばしながら、Tに京都の湯屋の講釋を聞いた。
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ほのかなる麝香の風のわれにふく紅燈集の中の国より
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それからこつちでは淺草の蛇骨湯の話をしてやつた。――
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かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき
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それ程僕たちのバスのはいり心は泰平なものだつたのである。
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うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ
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湯から上ると副長の巡見がすんでゐたから、浴衣に着かへて、又士官室へ行つた。
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薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり
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軍艦では夕飯の外に、もう一つ晩飯がある。
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初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな
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その晩はそれが索麪だつた。
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海は今青きをしばたゝき静に夜を待てるならじか
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僕はそこで酒をすすめられた。
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君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ
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元來下戸だから、酒の善惡は更にわからない。
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都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと
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が、二三杯飮むとすぐ顏が熱くなつた。
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黒船のとほき灯にさへ若人は涙落しぬ恋の如くに
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すると僕の隣へ來て、「二十年前の日本と今日の日本とは非常な相違です」
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幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと
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その人はシイメンのタイプに屬さない、甚だ感じの好い顏をしてゐた。
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憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも
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さうしてその顏がまつ赤になつてゐた。
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かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帯よりや来し
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何でも國防計畫か何かを論じてゐるらしい。
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二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな
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僕はいい加減に「さうでせう」
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何をかもさは歎くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつゝ
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とか何とか尤もらしい返事をした。
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ともしびも雨にぬれたる甃石も君送る夜はあはれふかゝり
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それは僕がですな、僕が確に保證します。
0770Socket7742018/08/20(月) 01:27:41.78ID:K4r6F/a9
ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ
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いいですか、確にですな。」
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うら若き都人こそかなしかりけれ。
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と、その人は、醉はない者にはわからない熱心さを以て、僕の杯と自分の杯とに代る代る酒をつぎながら、大分獨りで氣焔をあげた。
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失ひし夢を求むと市を歩める。
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が、生憎僕もさつきから、醉はない者には解らない眠氣に襲はれてゐた所だから、聞いてゐる中にだんだん返事も怪しくなつて來た。
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橡の花もひそかにさけるならじか。
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それがどうにか、かうにか、會話らしい體裁を備へて進行したのは、全く僕がイエスともノオともつかない返事をして、巧に先方の耳目を瞞著したおかげである。
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夢未多かりし日を思ひ出でよと。
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その瞞著した相手の憂國家が、山本大尉とわかつた今になつて見ると、默つてゐるのも可笑しいから、白状してしまふが、僕には、二十年以前の日本と今日の日本と、何がどうちがふんだか、實は少しも分らなかつた。
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たはれ女のうつゝ無げにも青みたる眼か。
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尤もこれは山本大尉自身も醉がさめた後になつて見ると、あんまりよくは分らなかつたかも知れない。
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かはたれの空に生まるゝ二日の月か。
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そこで好い加減に話を切りあげて、僕は外の連中と一しよに、士官室をひき上げた。
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しのびかに黒髪の子の泣く音きこゆる。
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さうしてMと二人で又上甲板へ出て見た。
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初恋のありとも見えぬ薄ら明りに。
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外では暗い空と海との間に榛名の探照燈が彗星のやうな光芒をうす白く流してゐる。
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さばかりにおもはゆげにもいらへ給ひそ。
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艦は多分相模灘を航行してゐるのであらう。
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緋の房の長き団扇にかくれ給ひそ。
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僕はハンドレエルにつかまつて、遙か下の海面を覗込んだ。
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なつかしき人形町の二日月はも。
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が、微かに青く浪が光る丈で、何も見えない。
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若う人の涙を誘ふ二日月はも。
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「かうやつて下を見てゐると、ちよいと飛込みたくなるぜ。」
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いとせめて泣くべく人を恋ひもこそすれ。
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するとMはそれに答へないで、近眼鏡をかけた顏を僕の側へ持つて來ながら、「おい、俳句が一つ出來た」
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黄蝋の涙おとすと燃ゆる如くに。
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「どんな句が出來た?」
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湯沸器の湯気もほのかにもの思ふらし。
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「遠流びと舟に泣く夜や子規。
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我友の西鶴めきし恋語りより。
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S君の事をよんだんだがね。」
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ほゝけたる花ふり落す大川楊。
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二人は低い聲で笑つた。
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水にしも恋やするらむ大川楊。
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さうしてもう一度海を見て空を見て、それから靜にケビンへ寢に下りて行つた。
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香油よりつめたき雨にひたもぬれつゝ。
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エレヴエタアが止つたと思ふと、先へ來てゐた八田機關長が外から戸を開けてくれた。
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たそがれの銀座通をゆくは誰が子ぞ。
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その開いた戸の間から汽罐室の中を見た時に、僕が先づ思ひ出したのは「パラダイス・ロスト」
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恋すてふ戯れすなる若き道化は。
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かう云ふと誇張の樣に聞えるかも知れないが、決してさうではない。
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かりそめの涙おとすを常とするかも。
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眼の前には恐しく大きな罐が幾つも、噴火山の樣な音を立てて並んでゐる。
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何時となく恋もものうくなりにけらしな。
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罐の前の通路は、甚だ狹い。
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つめたくなりまさる如。
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その狹い所に、煤煙でまつ黒になつた機關兵が色硝子をはめた眼鏡を頸へかけながら忙しさうに動いてゐる。
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うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母のごとくまばゆくもあるか
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或る者はシヨヴルで、罐の中へ石炭を抛りこむ。
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八百日ゆく遠の渚は銀泥の水ぬるませて日にかゞやくも
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或者は石炭桝へ石炭を積んで押して來る。
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きらゝかにこゝだ身動ぐいさゝ波砂に消なむとするいさゝ波
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それが皆罐の口からさす灼熱した光を浴びて、恐ろしいシルエツトを描いてゐる。
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いさゝ波生れも出でねと高天ゆ光はちゞにふれり光は
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しかも、エレヴエタアを出た僕たちの顏には、絶えず石炭の粉がふりかかつた。
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光輪は空にきはなしその空の下につどへる蜑少女はも
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其上暑い事も亦一通りではない。
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むらがれる海女らことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも
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僕は半ば呆氣にとられて、この人間とは思はれない、すさまじい勞働の光景を見渡した。
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うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海は息をひそむらむかも
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その中に機關兵の一人が、僕にその色硝子の眼鏡を借してくれた。
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荘厳の光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか
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それを眼にあてて、罐の口を覗いて見ると、硝子の緑色の向うには、太陽がとろけて落ちたやうな火の塊が、嵐のやうな勢で燃え立つてゐる。
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いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
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それでも重油の燃えるのと、石炭の燃えるのとが素人眼にも區別がついた。
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きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
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唯、如何にもやり切れないのは、火氣である。
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雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麦は青みふすかも
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ここで働いてゐる機關兵が、三時間の交代時間中に、各々何升かの水を飮むと云ふのも更に無理はない。
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雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ
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すると、機關長が僕たちの側へ來て、「これが炭庫です」
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支那の上海の或町です。
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さうしてさう云ふかと思ふと、急にどこかへ見えなくなつてしまつた。
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昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。
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よく見ると、側面の鐵の板に、人一人がやつと這ひこめる位な穴が明いてゐる。
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「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
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そこで僕たちは皆一人づつ、床を嘗めないばかりにして、その穴から中へもぐりこんだ。
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亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
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中は高い所に電燈が一つともつてゐるだけだから、殆ど夜のやうな暗さである。
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占いは当分見ないことにしましたよ」
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まづ坑山の竪坑の底に立つてゐるやうな心もちだと思へば間違ひない。
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婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。
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僕はごろごろする石炭を踏んで、その高い所にある電燈を見上げた。
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「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」
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ぼんやりした光の輪の中に、蟲のやうなものが紛々と黒く動いてゐる。
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「そりゃ勿論御礼をするよ」
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雪の降る日に空を見ると、雪が灰をまくやうに黒く見える――
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亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
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あれのやうな具合である。
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「差当りこれだけ取って置くさ。
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僕はすぐに、それが宙に舞つてゐる石炭の粉だと云ふ事に氣がついた。
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もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
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此中で働いてゐる機關兵の事を考へると殆ど僕と同じ肉體を持つてゐる人間だとは思はれない。
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婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。
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現にその時も二三人、その暗い炭庫の中で、石炭をシヨヴルで下してゐる機關兵の姿が見えた。
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「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――
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彼等は皆默々として運命のやうに働いてゐる。
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そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」
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外に海があつて、風が吹いて、日があたつてゐる事も知らない人間のやうに働いてゐる。
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「私が見て貰いたいのは、――」
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僕は妙に不安になつた。
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亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。
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さうして、誰よりも先きに、元の入口をボイラアの前へ這ひ出した。
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「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。
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が、ここでもやはり、すさまじい勞働が、鐵と石炭との火氣の中に、未練未釋なく續けられてゐる。
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それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」
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海の上の生活は、陸の上の生活に變りなく苦しい。
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「じゃ明日いらっしゃい。
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エレヴエタアで艦の底から天上して中甲板の自分のケビンへ歸つて、カアキイ色の作業服を脱いだら、漸くもとの人間になつたやうな心もちがした。
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それまでに占って置いて上げますから」
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今日は朝から、ぐるぐる艦の中ばかり歩いてゐる。
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じゃ間違いのないように、――」
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砲塔、水雷室、無線電信室、機械室、汽罐室――
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印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。
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勘定するばかりでも、容易な事ではない。
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「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。
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それがどこへ行つても、空氣が息苦しい位生暖かくつて、いろんな機械が猛烈に動いてゐて、鐵の床や手すりが油でぴかぴか光つてゐて、僕のやうな勞働に縁の遠いものは、五分とそこにゐると、神經にこたへてしまふ。
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何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」
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が、その間に絶えず或る考へが僕の頭にこびりついてゐた。
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亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、
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それは歐洲の戰爭が始まつて以來、僕位の年齡のものが大抵考へるやうになつた、或る理想的な考へである。
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その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。
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今このケビンの寢臺の上にころがつて、くたびれた足をのばしながら、持つて來たオオベルマンの頁をはぐつてゐる間もやはりその考へは、僕をはなれない。
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が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。
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これは其の後の事だが、夕飯をすませて、士官室の諸君と話してゐると、上甲板でわあと云ふ聲が聞こえた事がある。
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「何を愚図々々しているんだえ?
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何だらうと思つて、ハツチを上つて見ると、第四砲塔のうしろに艦中の水兵が黒山のやうに集まつてゐた。
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ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。
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さうしてそれが皆、大きな口をあいて、「勇敢なる水兵」
0902Socket7742018/08/20(月) 01:45:00.19ID:K4r6F/a9
きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」
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ケエプスタンの上に、甲板士官がのつてゐるのは、音頭をとつてゐるのであらう。
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恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。
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こつちから見ると、その士官と艦尾の軍艦旗とが、千人あまりの水兵の頭の上に、曇りながら夕燒けのした空を切りぬいて、墨を塗つたやうに黒く見えた。
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今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」
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下では皆が、鹽辛い聲をあげて、「煙も見えず雲もなく」
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女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。
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僕はこの時も亦、その或る考へに襲はれた。
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印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。
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勇ましかる可き軍歌の聲が、僕には寧ろ、凄壯な調子を帶びて聞えたからである。
0912Socket7742018/08/20(月) 01:46:18.83ID:K4r6F/a9
「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。
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僕はオオベルマンを抛り出して眼を閉つた。
0914Socket7742018/08/20(月) 01:46:34.57ID:K4r6F/a9
お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」
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艦は少し搖れ始めたらしい。
0916Socket7742018/08/20(月) 01:46:50.31ID:K4r6F/a9
こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。
0917Socket7742018/08/20(月) 01:46:58.28ID:8f8dtdLU
主計長の案内で吃水線下二十何呎の倉庫へはいつたり、軍醫長の案内で蒸し暑い戰時治療室を見たりしたら、大分足がくたびれた。
0918Socket7742018/08/20(月) 01:47:06.02ID:K4r6F/a9
ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。
0919Socket7742018/08/20(月) 01:47:14.05ID:8f8dtdLU
そこで上甲板へ出て、水兵の柔道を見てゐると、機關長が氣合術をやつて見せるから來いと云つて人をよこした。
0920Socket7742018/08/20(月) 01:47:21.71ID:K4r6F/a9
「何を見ているんだえ?」
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その後で、士官次室へ招待されて皆で出かけたら、浴衣がけで、ソフアにゐた連中が皆立つて、僕たちの健康とSの結婚とを祝してくれた。
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恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。
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このケビンにゐるのは、中少尉ばかりである。
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「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」
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だから、甚だ元氣が好い。
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婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。
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中でも、色の黒い、眼の大きい、鼻のつんと高い關西辯の先生の如きは、赤木桁平君を想起するやうな勢ひで、盛んにメートルをあげた。
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誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
0929Socket7742018/08/20(月) 01:48:32.91ID:8f8dtdLU
僕に自來也と云ふ渾名をつけたのも、この先生である。
0930Socket7742018/08/20(月) 01:48:40.68ID:K4r6F/a9
その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。
0931Socket7742018/08/20(月) 01:48:48.78ID:8f8dtdLU
これは僕の髮の毛が百日鬘の樣だからださうだが、もし夫れ人相に至つては、夫子自身の方が遙かによく自來也の俤を備へてゐた。
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それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
0933Socket7742018/08/20(月) 01:49:04.65ID:8f8dtdLU
これは決して、僕のひが眼ぢやない。
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そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
0935Socket7742018/08/20(月) 01:49:20.41ID:8f8dtdLU
鏡にさへ向へば、先生自身にもすぐにわかる事である。
0936Socket7742018/08/20(月) 01:49:27.77ID:K4r6F/a9
あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
0937Socket7742018/08/20(月) 01:49:36.27ID:8f8dtdLU
この先生は、僕にハムだのパインアツプルだの色んな物を呉れた。
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日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。
0939Socket7742018/08/20(月) 01:49:52.12ID:8f8dtdLU
さうしてその合ひ間には、「自來也はん」
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支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか?
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とか何とか云つて、僕のコツプへ無暗にビールを注いだ。
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あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」
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「今日靴下一つになつて、檣樓へ上つたのはあんたですか。」
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と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。
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彼と僕とは今朝雨の晴れ間を見て、前部艦橋からマストを攀のぼつて、檣樓へ上つて來たのである。
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そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
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やつぱり自來也はんや。」――
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が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。
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僕はこの先生とこんな話をしながら、ニコチンとアルコオルとをちやんぽんに使つた。
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まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」
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さうしたら、しくしく胃が痛くなり始めた。
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支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。
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所が、その痛みは士官次室を失敬した後でも、まだ執拗く水おちの下に盤桓してゐる。
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すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。
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そこで僕はTに仁丹を貰つて、それを噛みながらケビンのベツドの上へ這ひ上つた。
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日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。
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僕が檣の上へ帽子をかぶつてゐる軍艦の夢を見たのは、その晩だつたやうに記憶する。
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そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
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明くる朝、飯も食はずに上甲板へ出て見たら、海の色がまるで變つてゐるのに驚いた。
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戸は直ぐに開きました。
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昨日までは濃い藍色をしてゐたのが、今朝はどこを見ても美しい緑青色になつてゐる。
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が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
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そこへ一面に淡い靄が下りて、其靄の中から、圓い山の形が茶碗を伏せたやうに浮き上つてゐる。
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婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
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僕は丁度來合せた機關長に聞いて、艦が既に豐後水道を瀬戸内海へはいつた事を知つた。
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「お前さんは占い者だろう?」
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して見ると遲くも午後の二時か三時には山口縣下の由宇の碇泊地へ入るのに相違ない。
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日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。
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僕は妙に氣が輕くなつた。
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「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか?
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僅か何日かの海上生活が、僕に退屈だつたと云ふのではない。
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私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
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が、陸に近いと云ふ事は何となく愉快である。
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「何を見て上げるんですえ?」
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僕は砲塔の近所で、機關長と法華經の話をした。
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婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。
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やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黄いろい褄黒蝶が一つとまつてゐる。
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「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。
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僕は文字通りはつと思つた。
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それを一つ見て貰いたいんだが、――」
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驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。
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日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
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が、それが人に通じる筈はない。
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「私の主人は香港の日本領事だ。
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機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。
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御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。
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唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。
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私は遠藤という書生だが――
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陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである。
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その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
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芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。
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遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。
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さもなければ、芸術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。
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「この近所にいらっしゃりはしないか?
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たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、単に説教を聞く事からも得られる筈だ。
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香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――
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芸術に奉仕する以上、僕等の作品の与へるものは、何よりもまづ芸術的感激でなければならぬ。
0998Socket7742018/08/20(月) 01:57:36.27ID:K4r6F/a9
隠し立てをすると為にならんぞ」
0999Socket7742018/08/20(月) 01:57:49.56ID:8f8dtdLU
それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。
1000Socket7742018/08/20(月) 01:57:51.99ID:K4r6F/a9
しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。
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