■■■■■ アンパンマン総合スレッド ■■■■■
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比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。 の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記してゐたことがある。 その時分でも押川春浪氏の冒険小説や何かよりもこの「水滸伝」 の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」 中学を卒業してから色んな本を読んだけれども、特に愛読した本といふものはないが、概して云ふと、ワイルドとかゴーチエとかいふやうな絢爛とした小説が好きであつた。 それは僕の気質からも来てゐるであらうけれども、一つは慥かに日本の自然主義的な小説に厭きた反動であらうと思ふ。 ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。 その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。 さういふ心持が大学を卒業する後までも続いたが、段々燃えるやうな力の崇拝もうすらいで、一年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。 但、静かなと言つてもたゞ静かだけでも力のないものには余り興味がない。 スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。 序ながら附け加へておくが、此間「ジヤンクリストフ」 あの時分の本はだめなのかと思つたが、「アンナカレニナ」 を出して二三章読んで見たら、これは昔のやうに有難い気がした。 信子は女子大学にゐた時から、才媛の名声を担つてゐた。 彼女が早晩作家として文壇に打つて出る事は、殆誰も疑はなかつた。 中には彼女が在学中、既に三百何枚かの自叙伝体小説を書き上げたなどと吹聴して歩くものもあつた。 が、学校を卒業して見ると、まだ女学校も出てゐない妹の照子と彼女とを抱へて、後家を立て通して来た母の手前も、さうは我儘を云はれない、複雑な事情もないではなかつた。 そこで彼女は創作を始める前に、まづ世間の習慣通り、縁談からきめてかかるべく余儀なくされた。 彼は当時まだ大学の文科に籍を置いてゐたが、やはり将来は作家仲間に身を投ずる意志があるらしかつた。 信子はこの従兄の大学生と、昔から親しく往来してゐた。 それが互に文学と云ふ共通の話題が出来てからは、愈親しみが増したやうであつた。 唯、彼は信子と違つて、当世流行のトルストイズムなどには一向敬意を表さなかつた。 さうして始終フランス仕込みの皮肉や警句ばかり並べてゐた。 かう云ふ俊吉の冷笑的な態度は、時々万事真面目な信子を怒らせてしまふ事があつた。 が、彼女は怒りながらも俊吉の皮肉や警句の中に、何か軽蔑出来ないものを感じない訳には行かなかつた。 だから彼女は在学中も、彼と一しよに展覧会や音楽会へ行く事が稀ではなかつた。 彼等三人は行きも返りも、気兼ねなく笑つたり話したりした。 が、妹の照子だけは、時々話の圏外へ置きざりにされる事もあつた。 それでも照子は子供らしく、飾窓の中のパラソルや絹のシヨオルを覗き歩いて、格別閑却された事を不平に思つてもゐないらしかつた。 信子はしかしそれに気がつくと、必話頭を転換して、すぐに又元の通り妹にも口をきかせようとした。 その癖まづ照子を忘れるものは、何時も信子自身であつた。 俊吉はすべてに無頓着なのか、不相変気の利いた冗談ばかり投げつけながら、目まぐるしい往来の人通りの中を、大股にゆつくり歩いて行つた。…… 信子と従兄との間がらは、勿論誰の眼に見ても、来るべき彼等の結婚を予想させるのに十分であつた。 同窓たちは彼女の未来をてんでに羨んだり妬んだりした。 殊に俊吉を知らないものは、(滑稽と云ふより外はないが、) 信子も亦一方では彼等の推測を打ち消しながら、他方ではその確な事をそれとなく故意に仄かせたりした。 従つて同窓たちの頭の中には、彼等が学校を出るまでの間に、何時か彼女と俊吉との姿が、恰も新婦新郎の写真の如く、一しよにはつきり焼きつけられてゐた。 所が学校を卒業すると、信子は彼等の予期に反して、大阪の或商事会社へ近頃勤務する事になつた、高商出身の青年と、突然結婚してしまつた。 さうして式後二三日してから、新夫と一しよに勤め先きの大阪へ向けて立つてしまつた。 その時中央停車場へ見送りに行つたものの話によると、信子は何時もと変りなく、晴れ晴れした微笑を浮べながら、ともすれば涙を落し勝ちな妹の照子をいろいろと慰めてゐたと云ふ事であつた。 其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑をもらして、わしをぢつと見戍つてゐるのである。 その不思議がる心の中には、妙に嬉しい感情と、前とは全然違つた意味で妬ましい感情とが交つてゐた。 或者は彼女を信頼して、すべてを母親の意志に帰した。 此時わしは僧院長セラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。 又或ものは彼女を疑つて、心がはりがしたとも云ひふらした。 わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。 が、それらの解釈が結局想像に過ぎない事は、彼等自身さへ知らない訳ではなかつた。 クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。 わしが後に見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。 彼等はその後暫くの間、よるとさはると重大らしく、必この疑問を話題にした。 悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。 彼女は床をあげて寝台の縁に坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚つたり捲いたりしてゐるのである。 わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。 信子はその間に大阪の郊外へ、幸福なるべき新家庭をつくつた。 しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。 丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。 「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。 それが何時でも夫の留守は、二階建の新しい借家の中に、活き活きした沈黙を領してゐた。 可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。 信子はさう云ふ寂しい午後、時々理由もなく気が沈むと、きつと針箱の引出しを開けては、その底に畳んでしまつてある桃色の書簡箋をひろげて見た、書簡箋の上にはこんな事が、細々とペンで書いてあつた。 もう今日かぎり御姉様と御一しよにゐる事が出来ないと思ふと、これを書いてゐる間でさへ、止め度なく涙が溢れて来ます。 照子は勿体ない御姉様の犠牲の前に、何と申し上げて好いかもわからずに居ります。 つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸で見て上げたの―― 「御姉様は私の為に、今度の御縁談を御きめになりました。 其眼で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。 さうではないと仰有つても、私にはよくわかつて居ります。 けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。 何時ぞや御一しよに帝劇を見物した晩、御姉様は私に俊さんは好きかと御尋きになりました。 「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。 それから又好きならば、御姉様がきつと骨を折るから、俊さんの所へ行けとも仰有いました。 「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有にする事が出来ないのね。 あの時もう御姉様は、私が俊さんに差上げる筈の手紙を読んでいらしつたのでせう。 あの手紙がなくなつた時、ほんたうに私は御姉様を御恨めしく思ひました。 貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」 この事だけでも私はどの位申し訳がないかわかりません。) ですからその晩も私には、御姉様の親切な御言葉も、皮肉のやうな気さへ致しました。 其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。 私が怒つて御返事らしい御返事も碌に致さなかつた事は、もちろん御忘れになりもなさりますまい。 けれどもあれから二三日経つて、御姉様の御縁談が急にきまつてしまつた時、私はそれこそ死んででも、御詫びをしようかと思ひました。 「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。 貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。 法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。 私の事さへ御かまひにならなければ、きつと御自分が俊さんの所へいらしつたのに違ひございません。 それでも御姉様は私に、俊さんなぞは思つてゐないと、何度も繰返して仰有いました。 あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色の生活を、二人で楽むのね。 さうしてとうとう心にもない御結婚をなすつて御しまひになりました。 私が今日鶏を抱いて来て、大阪へいらつしやる御姉様に、御挨拶をなさいと申した事をまだ覚えていらしつて? 私は飼つてゐる鶏にも、私と一しよに御姉様へ御詫びを申して貰ひたかつたの。 さうしたら、何にも御存知ない御母様まで御泣きになりましたのね。 それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。 けれどもどうか何時までも、御姉様の照子を見捨てずに頂戴、照子は毎朝鶏に餌をやりながら、御姉様の事を思ひ出して、誰にも知れず泣いてゐます。……」 信子はこの少女らしい手紙を読む毎に、必涙が滲んで来た。 殊に中央停車場から汽車に乗らうとする間際、そつとこの手紙を彼女に渡した照子の姿を思ひ出すと、何とも云はれずにいぢらしかつた。 が、彼女の結婚は果して妹の想像通り、全然犠牲的なそれであらうか。 さう疑を挾む事は、涙の後の彼女の心へ、重苦しい気持ちを拡げ勝ちであつた。 ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。 信子はこの重苦しさを避ける為に、大抵はぢつと快い感傷の中に浸つてゐた。 と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。 そのうちに外の松林へ一面に当つた日の光が、だんだん黄ばんだ暮方の色に変つて行くのを眺めながら。 結婚後彼是三月ばかりは、あらゆる新婚の夫婦の如く、彼等も亦幸福な日を送つた。 そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。 わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。 が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。 そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。 夫は晩酌の頬を赤らめた儘、読みかけた夕刊を膝へのせて、珍しさうに耳を傾けてゐた。 が、彼自身の意見らしいものは、一言も加へた事がなかつた。 彼等は又殆日曜毎に、大阪やその近郊の遊覧地へ気散じな一日を暮しに行つた。 信子は汽車電車へ乗る度に、何処でも飲食する事を憚らない関西人が皆卑しく見えた。 の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴がのぞいてゐる。 それだけおとなしい夫の態度が、格段に上品なのを嬉しく感じた。 金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。 実際身綺麗な夫の姿は、そう云ふ人中に交つてゐると、帽子からも、背広からも、或は又赤皮の編上げからも、化粧石鹸の匂に似た、一種清新な雰囲気を放散させてゐるやうであつた。 「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。 殊に夏の休暇中、舞子まで足を延した時には、同じ茶屋に来合せた夫の同僚たちに比べて見て、一層誇りがましいやうな心もちがせずにはゐられなかつた。 私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。 が、夫はその下卑た同僚たちに、存外親しみを持つてゐるらしかつた。 その内に信子は長い間、捨ててあつた創作を思ひ出した。 そこで夫の留守の内だけ、一二時間づつ机に向ふ事にした。 彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡を噛んでゐるわ。 しかし机には向ふにしても、思ひの外ペンは進まなかつた。 今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」 彼女はぼんやり頬杖をついて、炎天の松林の蝉の声に、我知れず耳を傾けてゐる彼女自身を見出し勝ちであつた。 所が残暑が初秋へ振り変らうとする時分、夫は或日会社の出がけに、汗じみた襟を取変へようとした。 そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。 さうしてズボン吊を掛けながら、「小説ばかり書いてゐちや困る。」 それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。 それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。 それから二三日過ぎた或夜、夫は夕刊に出てゐた食糧問題から、月々の経費をもう少し軽減出来ないものかと云ひ出した。 「お前だつて何時までも女学生ぢやあるまいし。」―― 云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。 信子は気のない返事をしながら、夫の襟飾の絽刺しをしてゐた。 わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。 すると夫は意外な位執拗に、「その襟飾にしてもさ、買ふ方が反つて安くつくぢやないか。」 わしの虚栄心は此変化に心からそゝられずにはゐられなかつた。 美しく刺繍をした袍はわしを全くの別人にしてしまつたのである。 わしは或型通りに断つてある五六尺の布がわしの上に加へた変化の力を、驚嘆して見戍つた。 夫もしまひには白けた顔をして、つまらなさうに商売向きの雑誌か何かばかり読んでゐた。 わしの衣裳の精霊は、わしの皮膚の中に滲み入つて、十分たつかたたぬ中にわしはどうやら一廉の豪華の児になつてしまつた。 が、寝室の電燈を消してから、信子は夫に背を向けた儘、「もう小説なんぞ書きません。」 此新衣裳に慣れようと思つて、わしは室の中を五六度歩いて見た。 クラリモンドは花のやうな快楽を味ひでもするやうに、わしを見戍りながら、さも自分の手際に満足するらしく思はれた。 「さあ、もう遊ぶのは沢山よ、ロミュアル、これから出かけるのよ。 暫くして彼女は、同じ言葉を前よりもかすかに繰返した。 その後でも彼女の啜泣きは、まだ絶え絶えに聞えてゐた。 戸と云ふ戸は、彼女が手をふれると忽ちに開くのである。 が、信子は何時の間にか、しつかりと夫にすがつてゐた。…… 門口でわしは、前にわしの護衛兵だつた、あの黒人の扈従のマルゲリトンを見た。 と思ふと今度は十二時過ぎても、まだ夫が会社から帰つて来ない晩があつた。 しかも漸く帰つて来ると、雨外套も一人では脱げない程、酒臭い匂を呼吸してゐた。 三頭共、わしをあの城へ伴れて行つた馬のやうに黒い。 信子は眉をひそめながら、甲斐甲斐しく夫に着換へさせた。 一頭はわしの為、一頭は彼の為、一頭はクラリモンドの為である。 夫はそれにも関らず、まはらない舌で皮肉さへ云つた。 是等の馬は、西風の神の胎をうけた牝馬が生んだと云ふ西班牙馬に相違ない。 「今夜は僕が帰らなかつたから、余つ程小説が捗取つたらう。」―― 門を出る時に丁度東に上つて路上のわし達を照した明月は戦車から外れた車輪のやうに、空中を転げまはつて、右の方、梢から梢へ飛び移りながら、息を切らしてわし達に伴いて来る。 彼女はその晩床にはいると、思はず涙がほろほろ落ちた。 こんな処を照子が見たら、どんなに一しよに泣いてくれるであらう。 其処には四頭の大きな馬に曳かせた馬車が一台一叢の木蔭に待つてゐる。 で、それへ乗り移ると今度は馭者が気違ひのやうに馬を走らせる。 信子は度々心の中でかう妹に呼びかけながら、夫の酒臭い寝息に苦しまされて、殆夜中まんじりともせずに、寝返りばかり打つてゐた。 わしは片手をクラリモンドの肩にまはして、彼女の片手をわしの手に執つてゐた、彼女の頭はわしの肩に靠れて、わしは半ば露した彼女の胸が軽く、わしの腕を圧するのを感じるのである。 が、それも亦翌日になると、自然と仲直りが出来上つてゐた。 そんな事が何度か繰返される内に、だんだん秋が深くなつて来た。 信子は何時か机に向つて、ペンを執る事が稀になつた。 わしが僧侶だつたと云ふ事を覚えてゐるのも、わしが母の腹の中にゐた事を覚えてゐるのと同じ程にしか考へられなかつた。 その時にはもう夫の方も、前程彼女の文学談を珍しがらないやうになつてゐた。 此悪魔がわしの上にかけた蠱惑は、是程大きかつたのである。 彼等は夜毎に長火鉢を隔てて、瑣末な家庭の経済の話に時間を殺す事を覚え出した。 其夜からわしの性質は、或意味に於て二等分されたやうに思はれる。 その上又かう云ふ話題は、少くとも晩酌後の夫にとつて、最も興味があるらしかつた。 云はゞわしの内に二人の人がゐて、それが互に知らずにゐるのである。 それでも信子は気の毒さうに、時々夫の顔色を窺つて見る事があつた。 或時はわしは自分が夜になると紳士になつた夢を見る僧侶だと思ふが、又或時には、僧侶になつた夢を見てゐる紳士だと思ふ事もある。 が、彼は何も知らず、近頃延した髭を噛みながら、何時もより余程快活に、「これで子供でも出来て見ると――」 わしは夢と現実とを分つ事も出来なければ、何処に現実が始まり、何処に夢が定るかさへも見出す事が出来なかつた。 貴公子の道楽者は僧侶を馬鹿にするし、僧侶は、貴公子の放埒を罵るのである。 するとその頃から月々の雑誌に、従兄の名前が見えるやうになつた。 互にもつれ合ひながら、しかも互に触れる事のない二つの螺線は、わしの此二面の生活を、遺憾なく示してゐる。 信子は結婚後忘れたやうに、俊吉との文通を絶つてゐた。 しかしわしは、此状態が此様な不思議な性質を持つてゐるにも拘らず、一分でも気違ひになる気などは起らなかつた。 大学の文科を卒業したとか、同人雑誌を始めたとか云ふ事は、妹から手紙で知るだけであつた。 わしは常に、思切つて溌剌とした心で、わしの二つの生活を気長く観照してゐたのである。 又それ以上彼の事を知りたいと云ふ気も起さなかつた。 が、唯一つ、わしにも説明の出来ない妙な事があつた―― が、彼の小説が雑誌に載つてゐるのを見ると、懐しさは昔と同じであつた。 即ちそれは同じ個人性の意識が、全く性格の背反した二人の人間の中に存在してゐたと云ふ事である。 彼女はその頁をはぐりながら、何度も独り微笑を洩らした。 の寒村の牧師補と思つたか、クラリモンドの肩書附きの恋人、ロムアルドオ閣下と思つたか、どうか―― 俊吉はやはり小説の中でも、冷笑と諧謔との二つの武器を宮本武蔵のやうに使つてゐた。 彼女にはしかし気のせゐか、その軽快な皮肉の後に、何か今までの従兄にはない、寂しさうな捨鉢の調子が潜んでゐるやうに思はれた。 と同時にさう思ふ事が、後めたいやうな気もしないではなかつた。 信子はそれ以来夫に対して、一層優しく振舞ふやうになつた。 わしが此幻怪な事実の中にどれ程の幻想と印象とが含まれてゐるかを正確に発見するのは到底不可能である。 夫は夜寒の長火鉢の向うに、何時も晴れ晴れと微笑してゐる彼女の顔を見出した。 わし達は、カナレイオの辺の、壁画と石像との沢山ある、大きな宮殿に住んでゐた、それは一国の王宮にしても恥しくないやうな宮殿で、わし達は各々ゴンドラの制服を着たバルカロリも、音楽室も、御抱への詩人も持つてゐた。 その顔は以前より若々しく、化粧をしてゐるのが常であつた。 殊にクラリモンドは、大規模な生活を恣にするのが常であつた。 彼女は針仕事の店を拡げながら、彼等が東京で式を挙げた当時の記憶なぞも話したりした。 彼女の性格にはクレオパトラに似た何物かが潜んでゐるのである。 夫にはその記憶の細かいのが、意外でもあり、嬉しさうでもあつた。 わしはと云ふと又王子のやうな宮臣の一列を従へて、常に大国の四福音宣伝師か十二使徒の一人と一家ででもあるやうな、畏敬を以て迎へられてゐた。 わしは大統領を通すのでさへ、道を譲らうとはしなかつた。 夫にかう調戯はれると、信子は必無言の儘、眼にだけ媚のある返事を見せた。 魔王が天国から堕落して以来、わしより傲慢不遜な人間が此世にゐたとは信じられぬ。 が、何故それ程忘れずにゐるか、彼女自身も心の内では、不思議に思ふ事が度々あつた。 わしは又、リドットにも行つて、地獄のものとしか思はれぬ運をさへ弄んだ。 それから程なく、母の手紙が、信子に妹の結納が済んだと云ふ事を報じて来た。 その手紙の中には又、俊吉が照子を迎へる為に、山の手の或郊外へ新居を設けた事もつけ加へてあつた。 没落した家の子供達とか女役者とか奸黠な悪人とか佞人とか空威張をする人間とか―― そして此様な生活に沈湎しながらも、わしは常にクラリモンドを忘れなかつた。 「何分当方は無人故、式には不本意ながら参りかね候へども……」 そんな文句を書いてゐる内に、(彼女には何故かわからなかつたが、) 一人のクラリモンドを持つのは、二十人の情婦を持つのにも均しい。 彼女は其一身に、無数の容貌の変化と無数の清新な嬌艶とを蔵してゐる―― 夫は何時もの薄笑ひを浮べながら、彼女が妹の口真似をするのを、面白さうに聞いてゐた。 が、彼女には何となく、彼女自身に照子の事を話してゐるやうな心もちがした。 彼女自身によつて目醒まされた、清浄な青春の愛である。 しかも其愛は最初の、又最後の情熱でなければならない。 二三時間の後、夫は柔な髭を撫でながら、大儀さうに長火鉢の前を離れた。 信子はまだ妹へ祝つてやる品を決し兼ねて、火箸で灰文字を書いてゐたが、この時急に顔を挙げて、「でも妙なものね、私にも弟が一人出来るのだと思ふと。」 唯、不幸なのは、毎夜必ず魘される時だけで、其の時はわしが貧しい田舎の牧師補になつた夢を見ながら、昼間の淫楽を悔いて、贖罪と苦行とに一身を捧げてゐるのである。 わしは、常は彼女と親しんでゐられるのに安んじて、わしがクラリモンドと知るやうになつた不思議な関係を此上考へて見ようとはしなかつた。 彼女は夫にかう云はれても、考深い眼つきをした儘、何とも返事をしなかつた。 併し彼女に関する僧院長セラピオンの言は、屡々わしの記憶に現れて、わしの心に不安を与へずにはゐなかつた。 其内に暫くの間クラリモンドの健康が平素のやうにすぐれなかつた。 信子は独り午の食事をすませた後、何時までもその時の魚の匂が、口について離れなかつた。 医師を呼んで診せても、病気の質がわからないので、どう治療していゝか見当が附かない。 彼等は皆、役にも立たぬ処方箋を書いて、二度目からは来なくなつてしまふのである。 こんな事を考へながら、信子はぢつとうす暗い茶の間の長火鉢にもたれてゐた。 けれ共彼女の顔色は、著しく青ざめて、一日は一日と冷くなる。 が、口中の生臭さは、やはり執念く消えなかつた。…… そして遂には殆どあの不思議な城の記憶すべき夜のやうに、白く、血の気もなくなつてしまつた。 信子はその翌年の秋、社命を帯びた夫と一しよに、久しぶりで東京の土を踏んだ。 わしは此様に徐々と死んでゆく彼女を見るに堪へないで、云ふ可からざる苦痛に苛まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。 が、短い日限内に、果すべき用向きの多かつた夫は、唯彼女の母親の所へ、来々顔を出した時の外は、殆一日も彼女をつれて、外出する機会を見出さなかつた。 或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直側に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。 彼女はそこで妹夫婦の郊外の新居を尋ねる時も、新開地じみた電車の終点から、たつた一人俥に揺られて行つた。 それはわしが一分でも彼女の側を離れたくないと思つたからである。 で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。 しかし隣近所には、いづれも借家らしい新築が、せせこましく軒を並べてゐた。 すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。 のき打ちの門、要もちの垣、それから竿に干した洗濯物、―― わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。 が、彼女が案内を求めた時、声に応じて出て来たのは、意外にも従兄の方であつた。 しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。 俊吉は以前と同じやうに、この珍客の顔を見ると、「やあ。」 と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。 彼女は彼が何時の間にか、いが栗頭でなくなつたのを見た。 そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。 信子は妙に恥しさを感じながら、派手な裏のついた上衣をそつと玄関の隅に脱いだ。 血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。 顔はつや/\と肉附いて、手も温かにしめつてゐる―― 座敷の中には何処を見ても、本ばかり乱雑に積んであつた。 常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。 殊に午後の日の当つた障子際の、小さな紫檀の机のまはりには、新聞雑誌や原稿用紙が、手のつけやうもない程散らかつてゐた。 その中に若い細君の存在を語つてゐるものは、唯床の間の壁に立てかけた、新しい一面の琴だけであつた。 悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。 信子はかう云ふ周囲から、暫らく物珍しい眼を離さなかつた。 「来ることは手紙で知つてゐたけれど、今日来ようとは思はなかつた。」―― 俊吉は巻煙草へ火をつけると、さすがに懐しさうな眼つきをした。 貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。 信子も亦二言三言話す内に、やはり昔のやうな懐しさが、よみ返つて来るのを意識した。 文通さへ碌にしなかつた、彼是二年越しの気まづい記憶は、思つたより彼女を煩はさなかつた。 彼等は一つ火鉢に手をかざしながら、いろいろな事を話し合つた。 そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。 俊吉の小説だの、共通な知人の噂だの、東京と大阪との比較だの、話題はいくら話しても、尽きない位沢山あつた。 丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長セラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。 が、二人とも云ひ合せたやうに、全然暮し向きの問題には触れなかつた。 彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽足りなくて、肉体をも失はうとするのかの。 それが信子には一層従兄と、話してゐると云ふ感じを強くさせた。 見下げ果てた奴め、何と云ふ恐しい目にあふものぢや。」 が、此記憶の鮮かなのにも拘らず、其印象さへ間も無く消えてしまつて、数知れぬ外の心配がわしの心からそれを移してしまつた。 其処には待つとは云へない程、かすかに何かを待つ心もちがあつた。 遂にある夜わしはクラリモンドが、食事の後で日頃わしにすゝめるを常とした香味入りの酒の杯へ、何やら粉薬を入れるのを見てとつた。 すると故意か偶然か、俊吉はすぐに話題を見つけて、何時もその心もちを打ち破つた。 それは彼女がさうとは気が附かずに立てゝ置いた鏡に映つて見えたのである。 彼女は次第に従兄の顔を窺はずにはゐられなくなつた。 わしは杯をとり上げて、口へ持つてゆく真似をして、それから、後で飲むつもりのやうに手近にあつた家具の上へのせて置いた。 が、彼は平然と巻煙草の煙を呼吸しながら、格別不自然な表情を装つてゐる気色も見えなかつた。 で、彼女が後を向いた隙を窺つて、中の酒を卓の下へあけると、其儘、わしの閨へ退いて床の上に横になつた。 わしは少しも眠らずに、此神秘から何が起るか気を附けて見出さうと決心したのである。 彼女は姉の顔を見ると、手をとり合はないばかりに嬉しがつた。 待つ間もなく、クラリモンドは、寝衣を着てはひつて来た。 信子も唇は笑ひながら、眼には何時かもう涙があつた。 二人は暫くは俊吉も忘れて、去年以来の生活を互に尋ねたり尋ねられたりしてゐた。 彼女はわしが睡つてゐるのを確めると、わしの腕をまくつて、髪から金の留針をぬきながら、低い声でかう呟き始めた。 殊に照子は活き活きと、血の色を頬に透かせながら、今でも飼つてゐる鶏の事まで、話して聞かせる事を忘れなかつた。 「一滴、たつた一滴、私の針の先へ紅宝玉をたつた一滴…… 俊吉は巻煙草を啣へた儘、満足さうに二人を眺めて、不相変にやにや笑つてゐた。 貴方はまだ私を愛してゐるのですから、私はまだ死なれません…… あゝ可哀さうに、私は美しい血を、まつ赤な血を飲まなければならないのね、お休みなさい、私のたつた一の宝物、お眠みなさい、私の神、私の子供、私は貴方に害をしようと思つてはゐなくつてよ。 俊吉はその女中の手から、何枚かの端書を受取ると、早速側の机へ向つて、せつせとペンを動かし始めた。 私は唯、貴方の命から、私の命が永久に亡びてしまはない丈の物を頂くのだわ。 照子は女中も留守だつた事が、意外らしい気色を見せた。 私は貴方を愛してゐるのでせう、だから私は外に恋人を拵へて、其人の血管を吸ひ干す事にした方がいゝのだわ。 「ぢや御姉様がいらしつた時は、誰も家にゐなかつたの。」 けれど貴方を知つてから、私、外の男は皆厭になつてしまつたのですもの…… まあ美しい腕ね、何と云ふ円いのだらう、何と云ふ白いのだらう、どうして私は此様な青い血管を傷ける事が出来るのだらう。」 信子はかう答へる事が、平気を強ひるやうな心もちがした。 すると俊吉が向うを向いたなり、「旦那様に感謝しろ。 其時わしは、彼女がわしの腕を執りながら、其上に落す涙を感じたのであつた。 照子は姉と眼を見合せて、悪戯さうにくすりと笑つた。 彼女はほんの五六滴しか飲まなかつたが、わしの眼を醒ますのを怖れたので、丁寧に小さな布でわしの腕を括つてくれた。 間もなく信子は、妹夫婦と一しよに、晩飯の食卓を囲むことになつた。 それから後で又傷を膏薬でこすつてくれたので、傷は直に癒つてしまつた。 照子の説明する所によると、膳に上つた玉子は皆、家の鶏が産んだものであつた。 俊吉は信子に葡萄酒をすすめながら、「人間の生活は掠奪で持つてゐるんだね。 が、此積極的な知識があるにも拘らず、わしはクラリモンドを愛するのを禁ずる事が出来なかつた。 そして喜んで其人工の生命を与へるに足る丈の血潮を、自ら進んで与へようと思つた。 その癖此処にゐる三人の中で、一番玉子に愛着のあるのは俊吉自身に違ひなかつた。 わしはわしの血を一滴づつ取引するよりも、わしの腕の血管を自ら剖いて、彼女にかう云つてやりたかつた。 照子はそれが可笑しいと云つて、子供のやうな笑ひ声を立てた。 「お飲み、さうしてわしの愛をわしの血潮と一しよに、お前の体に滲透らせておくれ。」 信子はかう云ふ食卓の空気にも、遠い松林の中にある、寂しい茶の間の暮方を思ひ出さずにゐられなかつた。 わしは、彼女がわしに拵へてくれた魔酔の酒の事や、あの留針の出来事には、気をつけて一言もそれに及ばないやうにした。 そしてわし達は最も円満な調和を楽しんでゆく事が出来たのである。 微酔を帯びた俊吉は、夜長の電燈の下にあぐらをかいて、盛に彼一流の詭弁を弄した。 けれ共、わしの沙門らしい優柔は、常よりも一層、わしを苛み始めた。 そしてわしは、わしの肉を苦しめ制する為に、何か新しい贖罪を発明するのさへ、想像するに苦しむやうになつた。 彼女は熱のある眼つきをして、「私も小説を書き出さうかしら。」 是等の幻は無意志的なもので、わしは実際それに関する何事にも与らなかつたがそれでも猶、わしは事実にせよ夢幻にせよ、此様な淫楽に汚れた心と不浄な手とを以てしては、到底基督の体に触れる事が出来なかつた。 すると従兄は返事をする代りに、グウルモンの警句を抛りつけた。 わしは此懶い幻惑の力に圧へられるのを免れようとして、先づ眠に陥るのを防がうと努力した。 それは「ミユウズたちは女だから、彼等を自由に虜にするものは、男だけだ。」 そこでわしは指で瞼を開いてゐたり、数時間も真直に壁に倚り懸てゐたりして、全力を振つて眠と戦つて見たのである。 信子と照子とは同盟して、グウルモンの権威を認めなかつた。 けれ共睡魔は絶えずわしの眼を襲つて、凡ての抵抗が無駄になつたと思ふと、わしは極度の疲労に堪へずして、両腕を力なく下げたまゝ、再び睡の潮流に楽慾の彼岸に運ばれて了ふ。 セラピオンは、峻烈を極めた訓戒を加へて、厳しくわしの意気地の無いのと、勇猛心の不足なのとを責めたが、遂に或日、わしが平素より一層心を苦しめてゐると、わしにかう云つてくれた。 「此不断の呵責を免れることの出来るのは、唯、一策がある許りぢや。 尤も非常に出た策だと云ふ嫌はあるが役には立つに相違ない。 寝る前に俊吉は、縁側の雨戸を一枚開けて、寝間着の儘狭い庭へ下りた。 わしはクラリモンドの埋められた処を知つてゐるし、それにはあの女の屍を発いて、お前の恋する女がどのやうな憐な姿になつてゐるかを見なければならぬ。 さうすればお前も、蛆に食はれた、塵になるばかりの屍の為に、霊魂を失ふやうな迷には陥らぬやうにならう。 信子は独り彼の後から、沓脱ぎの庭下駄へ足を下した。 足袋を脱いだ彼女の足には、冷たい露の感じがあつた。 わしは此二重生活に困憊してゐたので、貴公子か僧侶かどちらが幻惑の犠牲だかを確め度いばかりに直に之を快諾した。 わしは全くわしの心の中にゐる二人の男の一人を、もう一人の利益の為に殺すか、又は二人共殺すか、どちらか一つにする決心でゐた。 従兄はその檜の下に立つて、うす明い夜空を眺めてゐた。 それは此様な怖しい存在は続けられる事も、堪へられる事も出来なかつたからである。 そこで僧院長セラピオンは鶴嘴と挺と角燈とを整へて、わし達二人は真夜中に場所も位置も彼のよく知つてゐる―― 信子は荒れた庭を気味悪さうに、怯づ怯づ彼のゐる方へ歩み寄つた。 暗い角燈の光を五六の墓石の碑銘に向けた後に、わし達は遂に、半大きな雑草に掩はれて、其上又苔と寄生植物とに侵された大きな板石の前に出た。 そして其上に、わし達は下のやうな墓碑銘の首句を探り読む事が出来たのである。 暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」 二人は肩を並べながら、ゆつくり其処まで歩いて行つた。 しかし蓆囲ひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。 そして角燈を地上に置くと、石の端の下へ挺の先を押入れて、其石を擡げ始めた。 俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」 石が自由になると彼は更に寄生植物を取除けにかゝつた。 わしは夜よりも暗く、夜よりも更に語なく、傍に立つて、ぢつと彼のする事を見戍つた。 信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。…… 其間に彼は其凄惨な労働に腰をかゞめて、汗にぬれながら喘いでゐる。 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。 わしには彼の苦しさうに吐く息が、末期の痰のつまる音のやうな調子を持つてゐるかと疑はれた。 翌朝俊吉は一張羅の背広を着て、食後々玄関へ行つた。 外から誰でもわし達を見る人があつたなら、其人はわし達を神の僧侶と思ふよりは寧ろ涜神の痴者が経帷子を盗む者と思つたに相違ない。 何でも亡友の一周忌の墓参をするのだとか云ふ事であつた。 セラピオンの熱心には、執拗な酷烈な何物かがあつて、それが彼に天使とか使徒とか云ふものよりも却つて邪鬼の形相を与へてゐた。 其大きな、鷲のやうな顔は、角燈の光で、鋭い浮彫りを刻んでゐる。 峻厳な目鼻立ちと共に、不快な空想を誘ふやうな、恐る可き何物かを有してゐるのである。 が、彼女は華奢な手に彼の中折を持つた儘、黙つて微笑したばかりであつた。 わしは氷のやうな汗が大きな粒になつてわしの顔に湧いて来たのを感じた。 照子は夫を送り出すと、姉を長火鉢の向うに招じて、まめまめしく茶をすすめなどした。 隣の奥さんの話、訪問記者の話、それから俊吉と見に行つた或外国の歌劇団の話、―― わしの心の底では、辛辣なセラピオンの行が、憎むべき神聖冒涜の如く感じてゐる。 その外愉快なるべき話題が、彼女にはまだいろいろあるらしかつた。 わしは、頭上に油然と流れてゐる黒雲の内臓から、火の三戟刑具が迸り出でて、彼を焦土とするやうに祈祷しようかとさへ思つてゐた。 糸杉に宿つてゐた梟は、角燈の光に驚いて、時々それに飛んで来る。 彼女はふと気がつくと、何時も好い加減な返事ばかりしてゐる彼女自身が其処にあつた。 しかも其度に灰色の翼で角燈の硝子を打つては悲しい慟哭の叫び声を揚げるのである。 それがとうとうしまひには、照子の眼にさへ止るやうになつた。 野狐は遠い闇の中に鳴き、数千の不吉な物の響は、沈黙の中から自ら生れて来る。 妹は心配さうに彼女の顔を覗きこんで、「どうして?」 其板に触れた響は、深い高い音を、打たれた時に「無」 しかし信子にもどうしたのだか、はつきりした事はわからなかつた。 柱時計が十時を打つた時、信子は懶さうな眼を挙げて、「俊さんは中々帰りさうもないわね。」 照子も姉の言葉につれて、ちよいと時計を仰いだが、これは存外冷淡に、「まだ――」 わしは其時クラリモンドが大理石像のやうに青白く、両手を組んでゐるのを見た。 彼女の白い経帷子は、頭から足迄たゞ一つの襞を造つてゐる。 信子にはその言葉の中に、夫の愛に飽き足りてゐる新妻の心があるやうな気がした。 しかも彼女の色褪せた唇の一角には、露の滴つたやうに、小さな真紅の滴がきらめいてゐるのである。 さう思ふと愈彼女の気もちは、憂欝に傾かずにはゐられなかつた。 「あゝ、此処に居つたな、悪魔めが、不浄な売婦めが、黄金と血とを吸ふ奴めが。」 信子は頤を半襟に埋めながら、冗談のやうにかう云つた。 彼は聖水を屍と柩の上に注ぎかけて、其上に水刷毛で十字を切つた。 が、自然と其処へ忍びこんだ、真面目な羨望の調子だけは、どうする事も出来なかつた。 憐む可きクラリモンドは、聖水がかゝると共に、美しい肉体も忽ち塵土となつて、唯、形もない、恐しい灰燼の一塊と、半ば爛壊した腐骨の一堆とが残つた。 照子はしかし無邪気らしく、やはり活き活きと微笑しながら、「覚えていらつしやい。」 決然として僧院長は此悲しい残骸を指さしながら、叫んだ。 「是でもお前は、お前の恋人と一しよに、リドオやフシナを散歩しようと云ふ気になるかの。」 わしは、無限の破滅がわしにふりかゝつた様に、両手で顔を隠した。 クラリモンドの恋人ロミュアル卿も、今は長い間不思議な交際を続けてゐた、憐れな僧侶から離れてしまつたのである。 が、唯一度、其次の夜にわしはクラリモンドに逢つた。 彼女は、教会の玄関で始めてわしに逢つた時にさう云つたやうに「不仕合せな方ね、何をなすつた?」 「何故、あの愚かな牧師の云ふ事をおきゝなすつたの? それだのに貴方は私の墓を発いて、私の何もないみじめさを人目にお曝しなすつたのね。 彼等は柱時計の時を刻む下に、長火鉢の鉄瓶がたぎる音を聞くともなく聞き澄ませてゐた。 私たちの、霊魂と肉体との交通はもう永久に破られてしまつたのよ。 その声の中には明かに、気の毒さうな響が籠つてゐた、が、この場合信子の心は、何よりも憐憫を反撥した。 彼女は新聞を膝の上へのせて、それに眼を落したなり、わざと何とも答へなかつた。 新聞には大阪と同じやうに、米価問題が掲げてあつた。 その内に静な茶の間の中には、かすかに人の泣くけはひが聞え出した。 信子は新聞から眼を離して、袂を顔に当てた妹を長火鉢の向うに見出した。 わしの霊魂の平和は、高い代価を払つて始めて贖ふ事が出来たのである。 神の愛は彼女のやうな愛を償つて余りある程大きなものではない。 照子は姉にさう慰められても、容易に泣き止まうとはしなかつた。 信子は残酷な喜びを感じながら、暫くは妹の震へる肩へ無言の視線を注いでゐた。 それから女中の耳を憚るやうに、照子の方へ顔をやりながら、「悪るかつたら、私があやまるわ。 そして外へ出る時には、何時でも視線を地におとして歩くがいゝ。 私は照さんさへ幸福なら、何より難有いと思つてゐるの。 何故と云へば、如何に信心ぶかい、慎みぶかい人間でも、一瞬間の誤が、永遠を失はせるのは容易だからである。 暑いフロックを夏の背廣に着換へて外の連中と一しよに上甲板へ出てゐると、年の若い機關少尉が三人やつて來て、いろんな話をしてくれた。 僕は新米だから三人とも初對面だが、外の連中は皆、教室で一度は講義を聞かせた事のある間柄である。 云ひ続ける内に、彼女の声も、彼女自身の言葉に動かされて、だんだん感傷的になり始めた。 だから、僕は圈外に立つておとなしく諸君子の話を聞いてゐた。 すると突然照子は袖を落して、涙に濡れてゐる顔を挙げた。 すると其少尉の一人が横須賀でSとSの細君と二人で散歩してゐるのに遇つたら、よくよく中てられたと見えて、其晩から腹が下つたと云ふ話をした。 彼女の眼の中には、意外な事に、悲しみも怒りも見えなかつた。 外の連中はそれを聞くと、あははと大きな聲を出した。 が、唯、抑へ切れない嫉妬の情が、燃えるやうに瞳を火照らせてゐた。 唯新婚後間のないSだけはその仲間にはいらなかつた。 照子は皆まで云はない内に、又顔を袖に埋めて、発作的に烈しく泣き始めた。…… 自分は、夕日の光を一ぱいに浴びた軍港を眺めながら、新らしい細君を家に殘して來たSに對して憐憫に近い同情を感じた。 二三時間の後、信子は電車の終点に急ぐべく、幌俥の上に揺られてゐた。 さうしたら、何故か急に旅らしい心細い氣もちになつた。 彼女の眼にはひる外の世界は、前部の幌を切りぬいた、四角なセルロイドの窓だけであつた。 標的を曳いてゐる艦は、さつきから二隻の小蒸汽に艦尾を曳かれて、方向を右に轉じようとしてゐる。 其処には場末らしい家々と色づいた雑木の梢とが、徐にしかも絶え間なく、後へ後へと流れて行つた。 素人眼には、小蒸汽の艫に推進機が起してゐる、白い泡を見ても、どれほどその爲にこの二萬九千噸の巡洋艦が動いてゐるかわからない。 もしその中に一つでも動かないものがあれば、それは薄雲を漂はせた、冷やかな秋の空だけであつた。 先に錨をあげた榛名は既に煙を吐き乍ら徐に港口を西に向つて、離れようとしてゐる。 が、その静かさを支配するものは、寂しい諦めに外ならなかつた。 それがまた、梅雨晴れの空の下に起伏してゐる山々の鮮な緑と、眩ゆく日の光を反射してゐる水銀のやうな海面とを背景にして、美しいパノラミックな景色をつくつてゐる。 照子の発作が終つた後、和解は新しい涙と共に、容易く二人を元の通り仲の好い姉妹に返してゐた。 この光景を眺めた僕には、金剛の容易に出航しさうもないのが聊かもどかしく思はれた。 しかし事実は事実として、今でも信子の心を離れなかつた。 そこで、又外の連中の話に加はつて、このもどかしさを紛らせようとした。 彼女は従兄の帰りも待たずこの俥上に身を託した時、既に妹とは永久に他人になつたやうな心もちが、意地悪く彼女の胸の中に氷を張らせてゐたのであつた。―― すると、すぐ側のハツチの下でぢやんぢやんと、夕飯を知らせる銅鑼の音がした。 その音は軍艦の中とは思はれない程、古めかしいものであつた。 その時セルロイドの窓の中には、ごみごみした町を歩いて来る、杖を抱へた従兄の姿が見えた。 僕はそれを聞くと同時に長谷にある古道具屋を思ひ出した。 そこには朱塗の棒と一緒に、怪しげな銅鑼が一つ、萬年青の鉢か何かの上にぶら下つてゐる。 彼女は動悸を抑へながら、暫くは唯幌の下に、空しい逡巡を重ねてゐた。 僕は急に軍艦の銅鑼が見たくなつたから、ほかの連中より先にハツチを下りて、それを叩いて行く水兵に追ひついた。 が、俊吉と彼女との距離は、見る見る内に近くなつて来た。 所が追ひついて見るとぢやんぢやんの正體は銅鑼と云ふ名を與へるのが僭越な程、平凡なうすべつたい、けちな金盥にすぎなかつた。 彼は薄日の光を浴びて、水溜りの多い往来にゆつくりと靴を運んでゐた。 僕は滑稽な失望を感じて、すごすご士官室の海老茶色のカアテンをくぐつた。 士官室では大きな扇風器が幾つも頭の上でまはつてゐた。 実際俊吉はその時もう、彼女の俥のすぐ側に、見慣れた姿を現してゐた。 その下に白いテーブル掛をかけた長い食卓が二側にならんで、つきあたりの、鏡を入れた大きなカツプボオドには、銀の花瓶が二つ置いてあつた。 食卓につくと、すぐにボイが食事を持つて來てくれる。 その暇に何も知らない彼は、とうとうこの幌俥とすれ違つた。 薄濁つた空、疎らな屋並、高い木々の黄ばんだ梢、―― 僕は生鮭の皿を突つきながら、Sに「軍艦のボイは氣が利いてますね」 後には不相変人通りの少い場末の町があるばかりであつた。 信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。 事によると、これは軍艦のボイより、細君の方が氣が利いてゐると思つたからかも知れない。 外の連中は皆同じ食卓についた八田機關長を相手にして、小林法雲の氣合術の事なんぞを話してゐた。 いそいそと燕もまへりあたゝかく郵便馬車をぬらす春雨 元來この士官室なるものへは、副長以下大尉以上の將校が皆な來て、飯を食ふ。 さうしてそれと同時にシイメンの顏には、一種のタイプがある事を發見した。 戯奴の紅き上衣に埃の香かすかにしみて春はくれにけり 夕飯をしまつた後で、上甲板から最上甲板へ上ると、どこかから男ぶりの好い少尉が一人やつて來て、僕たちを前部艦橋へつれて行つてくれた。 なやましく春は暮れゆく踊り子の金紗の裾に春は暮れゆく 軍艦の中で艦首から艦尾を一目に見渡す所と云ふと、先づここの外にない。 春漏の水のひゞきかあるはまた舞姫のうつとほき鼓か(京都旅情) 僕たちは司令塔の外に立つて何時か航行を始め出した艦の前後に眼を落した。 片恋のわが世さみしくヒヤシンスうすむらさきににほひそめけり 眼分量にして、凡そ十五六呎の高さにゐるのだから、甲板の上にゐる水兵や將校も、可成小さく見える。 恋すればうら若ければかばかりに薔薇の香にもなみだするらむ 僕にはその小さな水兵の一人が、測鉛臺の上に立つて青い海に向ひながら、長い綱の先につけた分銅を、水の中へ投げこんでゐるのが殊に面白かつた。 投げこんでゐると云ふだけでは、甚だ振はないが、實はまるで昔の武藝者が鎖鎌でも使ふやうな調子で、その分銅のついた長い綱をびゆうびゆう頭の上でふりしながら、艦の進むのに從つて出來る丈け遠くへ勢ひよく抛りこむのである。 五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ 上から見てゐると、抛りこむ度にその細い綱が生きもののやうに海の上でうねくつた。 刈麦のにほひに雲もうす黄なる野薔薇のかげの夏の日の恋 その先につけてある分銅が、まだ殘つてゐる日脚に光つて、魚の跳ねるやうに白く見えた。 うかれ女のうすき恋よりかきつばたうす紫に匂ひそめけむ 僕はへえ危いねと思ひながら、暫の間は感心して、そればかり眺めてゐた。 それから司令塔の内部や海圖室を見て、又中甲板へひき返した。 君をみていくとせかへしかくてまた桐の花さく日とはなりける すると、狹い通路にはもうハムモツクを釣つて、眠つてゐる水兵が大勢ある。 君とふとかよひなれにしあけくれをいくたびふみし落椿ぞも 中にはその中で、うす暗い電燈の光をたよりに、本を讀んでゐるものも二三人あつた。 広重のふるき版画のてざはりもわすれがたかり君とみればか 僕たちは皆な背をかがめてそのハムモツクの下を這ふやうにして歩いた。 いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしへし桐の花はも 病室のまどにかひたる紅き鳥しきりになきて君おもはする これはペンキの臭ひでもなければ、炊事場の流しの臭ひでもない。 夕さればあたごホテルも灯ともしぬわがかなしみをめざまさむとて さうかと云つて又機械の油の臭ひでもなければ、人間の汗の臭ひでもない。 草いろの帷のかげに灯ともしてなみだする子よ何をおもへる くすり香もつめたくしむは病室の窓にさきたる芙藍の花 青チヨオク ADIEU と壁にかきすてゝ出でゆきし子のゆくゑしらずも その日さりて消息もなくなりにたる風騒の子をとがめたまひそ こんな事を考へながらふと頭をあげると、一人の水兵の讀んでゐる本の表紙が、突然僕の鼻の先へ出た。 いととほき花桐の香のそことなくおとづれくるをいかにせましや すがれたる薔薇をまきておくるこそふさはしからむ恋の逮夜は 香料をふりそゝぎたるふし床より恋の柩にしくものはなし にほひよき絹の小枕薔薇色の羽ねぶとんもてきづかれし墓 夜あくれば行路の人となりぬべきわれらぞさはな泣きそ女よ それでもハムモツクの下を通りぬけたあとで、バスにはいつたら、生れかはつたやうな氣になつた。 其夜より娼婦の如くなまめける人となりしをいとふのみかは わが足に膏そゝがむ人もがなそを黒髪にぬぐふ子もがな(寺院にて三首) それが白い陶器の湯槽の中で、明礬のやうに青く見えた。 ほのぐらきわがたましひの黄昏をかすかにともる黄蝋もあり Tの語を借りると、「躯が染まりさうな氣がする位青い。」 僕は湯槽の中で手足をのばしながら、Tに京都の湯屋の講釋を聞いた。 それからこつちでは淺草の蛇骨湯の話をしてやつた。―― かりそめの涙なれどもよりそひて泣けばぞ恋のごとくかなしき それ程僕たちのバスのはいり心は泰平なものだつたのである。 うす黄なる寝台の幕のものうくもゆらげるまゝに秋は来にけむ 湯から上ると副長の巡見がすんでゐたから、浴衣に着かへて、又士官室へ行つた。 薔薇よさはにほひな出でそあかつきの薄らあかりに泣く女あり 都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと すると僕の隣へ來て、「二十年前の日本と今日の日本とは非常な相違です」 幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと その人はシイメンのタイプに屬さない、甚だ感じの好い顏をしてゐた。 憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも かなしみは君がしめたる其宵の印度更紗の帯よりや来し 二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな ともしびも雨にぬれたる甃石も君送る夜はあはれふかゝり ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往にけむ と、その人は、醉はない者にはわからない熱心さを以て、僕の杯と自分の杯とに代る代る酒をつぎながら、大分獨りで氣焔をあげた。 が、生憎僕もさつきから、醉はない者には解らない眠氣に襲はれてゐた所だから、聞いてゐる中にだんだん返事も怪しくなつて來た。 それがどうにか、かうにか、會話らしい體裁を備へて進行したのは、全く僕がイエスともノオともつかない返事をして、巧に先方の耳目を瞞著したおかげである。 その瞞著した相手の憂國家が、山本大尉とわかつた今になつて見ると、默つてゐるのも可笑しいから、白状してしまふが、僕には、二十年以前の日本と今日の日本と、何がどうちがふんだか、實は少しも分らなかつた。 尤もこれは山本大尉自身も醉がさめた後になつて見ると、あんまりよくは分らなかつたかも知れない。 そこで好い加減に話を切りあげて、僕は外の連中と一しよに、士官室をひき上げた。 外では暗い空と海との間に榛名の探照燈が彗星のやうな光芒をうす白く流してゐる。 僕はハンドレエルにつかまつて、遙か下の海面を覗込んだ。 「かうやつて下を見てゐると、ちよいと飛込みたくなるぜ。」 するとMはそれに答へないで、近眼鏡をかけた顏を僕の側へ持つて來ながら、「おい、俳句が一つ出來た」 さうしてもう一度海を見て空を見て、それから靜にケビンへ寢に下りて行つた。 エレヴエタアが止つたと思ふと、先へ來てゐた八田機關長が外から戸を開けてくれた。 その開いた戸の間から汽罐室の中を見た時に、僕が先づ思ひ出したのは「パラダイス・ロスト」 かう云ふと誇張の樣に聞えるかも知れないが、決してさうではない。 眼の前には恐しく大きな罐が幾つも、噴火山の樣な音を立てて並んでゐる。 その狹い所に、煤煙でまつ黒になつた機關兵が色硝子をはめた眼鏡を頸へかけながら忙しさうに動いてゐる。 うつゝなきまひるのうみは砂のむた雲母のごとくまばゆくもあるか 八百日ゆく遠の渚は銀泥の水ぬるませて日にかゞやくも きらゝかにこゝだ身動ぐいさゝ波砂に消なむとするいさゝ波 それが皆罐の口からさす灼熱した光を浴びて、恐ろしいシルエツトを描いてゐる。 しかも、エレヴエタアを出た僕たちの顏には、絶えず石炭の粉がふりかかつた。 むらがれる海女らことごと恥なしと空はもだしてかゞやけるかも 僕は半ば呆氣にとられて、この人間とは思はれない、すさまじい勞働の光景を見渡した。 うつそみの女人眠るとまかゞよふ巨海は息をひそむらむかも その中に機關兵の一人が、僕にその色硝子の眼鏡を借してくれた。 荘厳の光の下にまどろめる女人の乳こそくろみたりしか それを眼にあてて、罐の口を覗いて見ると、硝子の緑色の向うには、太陽がとろけて落ちたやうな火の塊が、嵐のやうな勢で燃え立つてゐる。 いさゝ波かゞよふきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ それでも重油の燃えるのと、石炭の燃えるのとが素人眼にも區別がついた。 きらゝ雲むかぶすきはみはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ 雲の影おつるすなはちふかぶかと弘法麦は青みふすかも ここで働いてゐる機關兵が、三時間の交代時間中に、各々何升かの水を飮むと云ふのも更に無理はない。 雲の影さかるすなはちはろばろと弘法麦の葉は照りゆらぎ すると、機關長が僕たちの側へ來て、「これが炭庫です」 さうしてさう云ふかと思ふと、急にどこかへ見えなくなつてしまつた。 昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。 よく見ると、側面の鐵の板に、人一人がやつと這ひこめる位な穴が明いてゐる。 「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」 そこで僕たちは皆一人づつ、床を嘗めないばかりにして、その穴から中へもぐりこんだ。 亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。 中は高い所に電燈が一つともつてゐるだけだから、殆ど夜のやうな暗さである。 まづ坑山の竪坑の底に立つてゐるやうな心もちだと思へば間違ひない。 僕はごろごろする石炭を踏んで、その高い所にある電燈を見上げた。 「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」 ぼんやりした光の輪の中に、蟲のやうなものが紛々と黒く動いてゐる。 雪の降る日に空を見ると、雪が灰をまくやうに黒く見える―― 亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。 僕はすぐに、それが宙に舞つてゐる石炭の粉だと云ふ事に氣がついた。 もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」 此中で働いてゐる機關兵の事を考へると殆ど僕と同じ肉體を持つてゐる人間だとは思はれない。 婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。 現にその時も二三人、その暗い炭庫の中で、石炭をシヨヴルで下してゐる機關兵の姿が見えた。 「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。―― そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」 外に海があつて、風が吹いて、日があたつてゐる事も知らない人間のやうに働いてゐる。 亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。 さうして、誰よりも先きに、元の入口をボイラアの前へ這ひ出した。 が、ここでもやはり、すさまじい勞働が、鐵と石炭との火氣の中に、未練未釋なく續けられてゐる。 それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」 エレヴエタアで艦の底から天上して中甲板の自分のケビンへ歸つて、カアキイ色の作業服を脱いだら、漸くもとの人間になつたやうな心もちがした。 「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。 それがどこへ行つても、空氣が息苦しい位生暖かくつて、いろんな機械が猛烈に動いてゐて、鐵の床や手すりが油でぴかぴか光つてゐて、僕のやうな勞働に縁の遠いものは、五分とそこにゐると、神經にこたへてしまふ。 何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」 が、その間に絶えず或る考へが僕の頭にこびりついてゐた。 亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、 それは歐洲の戰爭が始まつて以來、僕位の年齡のものが大抵考へるやうになつた、或る理想的な考へである。 その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。 今このケビンの寢臺の上にころがつて、くたびれた足をのばしながら、持つて來たオオベルマンの頁をはぐつてゐる間もやはりその考へは、僕をはなれない。 が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。 これは其の後の事だが、夕飯をすませて、士官室の諸君と話してゐると、上甲板でわあと云ふ聲が聞こえた事がある。 何だらうと思つて、ハツチを上つて見ると、第四砲塔のうしろに艦中の水兵が黒山のやうに集まつてゐた。 ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。 さうしてそれが皆、大きな口をあいて、「勇敢なる水兵」 ケエプスタンの上に、甲板士官がのつてゐるのは、音頭をとつてゐるのであらう。 恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。 こつちから見ると、その士官と艦尾の軍艦旗とが、千人あまりの水兵の頭の上に、曇りながら夕燒けのした空を切りぬいて、墨を塗つたやうに黒く見えた。 今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」 下では皆が、鹽辛い聲をあげて、「煙も見えず雲もなく」 女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。 勇ましかる可き軍歌の聲が、僕には寧ろ、凄壯な調子を帶びて聞えたからである。 「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。 お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」 主計長の案内で吃水線下二十何呎の倉庫へはいつたり、軍醫長の案内で蒸し暑い戰時治療室を見たりしたら、大分足がくたびれた。 ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。 そこで上甲板へ出て、水兵の柔道を見てゐると、機關長が氣合術をやつて見せるから來いと云つて人をよこした。 その後で、士官次室へ招待されて皆で出かけたら、浴衣がけで、ソフアにゐた連中が皆立つて、僕たちの健康とSの結婚とを祝してくれた。 恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。 「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。 中でも、色の黒い、眼の大きい、鼻のつんと高い關西辯の先生の如きは、赤木桁平君を想起するやうな勢ひで、盛んにメートルをあげた。 誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。 僕に自來也と云ふ渾名をつけたのも、この先生である。 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。 これは僕の髮の毛が百日鬘の樣だからださうだが、もし夫れ人相に至つては、夫子自身の方が遙かによく自來也の俤を備へてゐた。 それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。 そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。 鏡にさへ向へば、先生自身にもすぐにわかる事である。 あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」 この先生は、僕にハムだのパインアツプルだの色んな物を呉れた。 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。 支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? とか何とか云つて、僕のコツプへ無暗にビールを注いだ。 あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」 「今日靴下一つになつて、檣樓へ上つたのはあんたですか。」 と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。 彼と僕とは今朝雨の晴れ間を見て、前部艦橋からマストを攀のぼつて、檣樓へ上つて來たのである。 が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。 僕はこの先生とこんな話をしながら、ニコチンとアルコオルとをちやんぽんに使つた。 まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」 支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。 所が、その痛みは士官次室を失敬した後でも、まだ執拗く水おちの下に盤桓してゐる。 すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。 そこで僕はTに仁丹を貰つて、それを噛みながらケビンのベツドの上へ這ひ上つた。 日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。 僕が檣の上へ帽子をかぶつてゐる軍艦の夢を見たのは、その晩だつたやうに記憶する。 そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。 明くる朝、飯も食はずに上甲板へ出て見たら、海の色がまるで變つてゐるのに驚いた。 昨日までは濃い藍色をしてゐたのが、今朝はどこを見ても美しい緑青色になつてゐる。 が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。 そこへ一面に淡い靄が下りて、其靄の中から、圓い山の形が茶碗を伏せたやうに浮き上つてゐる。 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。 僕は丁度來合せた機關長に聞いて、艦が既に豐後水道を瀬戸内海へはいつた事を知つた。 して見ると遲くも午後の二時か三時には山口縣下の由宇の碇泊地へ入るのに相違ない。 日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。 「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 僅か何日かの海上生活が、僕に退屈だつたと云ふのではない。 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。 やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黄いろい褄黒蝶が一つとまつてゐる。 「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。 驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。 機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。 陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである。 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。 さもなければ、芸術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。 たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、単に説教を聞く事からも得られる筈だ。 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、―― 芸術に奉仕する以上、僕等の作品の与へるものは、何よりもまづ芸術的感激でなければならぬ。 それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。 しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。 このスレッドは1000を超えました。
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