【語学】英語の達人が社内公用語に賛成しないワケ
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グローバル化に対応しようと、英語を「社内公用語」とする日本企業が増えている。しかし導入でコミュニケーションにトラブルが起きることもあるようだ。英語とはどう関わるのが正解なのか。NHKラジオ「実践ビジネス英語」講師を務めている杉田敏さんに、イーオンの三宅義和社長が聞いた――。(後編、全2回) 【三宅義和・イーオン社長】ラジオというのは、依然として英語・英会話学習に役立つメディアです。テレビもそうでしょう。最近では、ITやAIといったテクノロジーの進歩によって、いろいろな学習方法が選択できるようになりました。 日本を訪れる外国人観光客も急増し、2020年には東京オリンピック・パラリンピックがあります。それに伴って、英語への関心も高まってきています。 【杉田敏・NHKラジオ「実践ビジネス英語」講師】世の中には、英語の学習熱が高くなるタイミングがある気がします。自国でのオリンピック開催はその典型でしょう。20年近く前、カルロス・ゴーンさんが日産自動車にCEOとしてやって来た時には、銀座地域一帯の英語学校が満員になったと言われました。 外国人がトップになったら、まずやるべきことは英語でのコミュニケーション能力のアップだというわけです。おそらく、スクール以外にも、オンライン英会話とか、やはり手近なところでラジオやCDを活用した人もいることでしょう。 私は、英語の学習のためには「サンマ」、つまり3つの「間」が必要だと、近著『成長したければ自分より頭のいい人とつきあいなさい』に書きました。それは「時間、空間、仲間」のことで、この3つ間を利用して努力することです。とにかく、勉強するための時間をつくり出さなくてはならない。そして、英会話学校に行くか、自宅なのか、あるいは勉強をするのに適した「第三の空間」(例えばスターバックス)を見つけなければならない。そして一緒に学ぶ仲間も大切です。私の番組のリスナーの集いなどもあり、同じ教材で勉強している人たちが一緒に勉強に取り組んでいます。 英語を学ぶ学習者もいろいろ変わってきています。ラジオの魅力も再評価されています。いろいろなものを組み合わせて、その人にあった勉強法を見つけるべきです。もちろん英語学校にいって勉強をしたほうがいいという人は学校に行くでしょうし、時間がないから電車の移動中しかできないという人もいます。 【三宅】まったく同感です。どうも日本人というのは、何事も二者択一になりやすい。つまり、英語の勉強なら英会話学校に通うのがいいか、家で独習するのがいいか。外国人の先生か日本人教師かといったようなことです。そうではなく、いろんなやり方があって全然かまわないわけです。講師と向き合って会話することも力がつきますが、ゲーム感覚で英語にチャレンジするのもいいでしょう。要は、どれだけ本気になって、あきらめずに続け、英語の実力を身につけられるかが大事でしょう。 【杉田】その通りです。 【三宅】ところで、杉田さんはずっとビジネスの最前線で英語を使い続けてこられました。そこで、お聞きしたいのですが、いくつもの日本企業が英語を社内公用語にし、英語資格試験を昇格・昇級の条件にしています。その動きは東京だけではなく、地方にも拡大しているようです。こうした動向をどう見ていますか。 【杉田】私はあまり賛成しません。例えば、中国に進出している日本企業の中にも、英語を「公用語」にしているところがいくつかあります。日本人と中国人がいるから、英語を共通語にして、仕事をはかどらせようということだと思います。ところが、それでどれだけコミュニケーションが達成できているかとなると非常に疑問です。 拙い英語に日本語と中国語が混じり合って、かえって意思の疎通を阻害している。一番の弊害は、英語の不得意な人はまったく蚊帳の外に置かれてしまうことです。これは人材を活用するという面からも残念なこととしか言いようがありません。 やはり母語としての言葉が、ビジネス上で戦略的思考をするための重要な武器です。日本語できちんと考え、正確な文章を組み立てるということがまずは大事ではないでしょうか。 以下ソース http://president.jp/articles/-/23613 >>665 けっきょくたどり着くのは移民労働者か。 2 beer or not 2 beer, that is a question 酒は大関 → Sake is Ozeki. ??? >>800 >んじゃ、どう捉えているの? レスをよく読んでね。 >SCVの構造に見えるかもしれないが >題目 範囲限定対象 存在 という構造である。 と書いた。 >どこがしっくりこないか、そこを詳しく頼む。 私が書き込んでいるのは、ほとんどがしっくりこない部分についてだよ。 何でしっくりこないのか、それについて私はどう思っているのかを 書いてるつもりなんだけど。いろいろ例まで上げてね。 >「我が輩は猫である」にしたのは俺じゃ無いぞ 「我が輩は猫」は明らかに「吾輩は猫である」から持ってきているでしょ。だから 引用が不正確だと指摘したまで。ここも違和感があった例だね。 で、あなたの言う「我が輩は猫」については「我が輩は猫である」とか「我が輩は猫が好き」 などが省略されたものなので、 >>[i am cat]しかないことはない。 >>状況によって「I like cat」になったりする。 と書いた。で、くどい説明を付け加えると、「我が輩は猫」はあなたの解説ではSVOに 見えるかもしれないが省略した部分を元に戻すとSVOに見えなくなるでしょと >>それは日本語の構造がSVOで表せないからだ。 と書いたんだ。 >古典的表現でも現役だよ。 だから>>765 で >古い用法として痕跡的に用いられているだけである。 と書いている。これをどう取ると現役じゃないになるんだ。 >「君が代、我が家、わが闘争、我が母校…」 これらは痕跡的に使われている所有を表す「が」の用法。だから 現在の、所有を表す「の」で置き換えても不自然にならない。 >「逃げるが勝ち、ビールが美味い、明日が山…」 「明日が山…」については意味不明(あすがやまって何?)だが これは排他的限定を表す現代の「が」の用法だ。。だから >これらの「が」に、一律に「の」を当てはめると、意味が変わる。 は当たり前。それをあなたは一律に機械的に置き換えようと無理をするので >「逃げるが勝ち = 逃げる 持つ 勝ち = SVO」 >「ビールが美味い = ビール 持つ 美味い =SVC」 >「明日が山 = 明日 持つ 山 = SVO」 というバタ臭い(日本語はこのようなイメージから発せられない)説明になる。 >こう置き換えると、意味が通る。 意味が通る様に解釈したのだから当たり前。で英語風に翻訳した文を >「日本語はSVC、SVO」だと主張している。 わけだ。 言うまでもなく、これもしっくりこないあなたの主張に対する私の考えだ。 >>805 >>「我が輩は猫である」にしたのは俺じゃ無いぞ >「我が輩は猫」は明らかに「吾輩は猫である」から >持ってきているでしょ。 >だから引用が不正確だと指摘したまで。 >ここも違和感があった例だね。 >で、あなたの言う「我が輩は猫」については「我が輩は猫である」 >とか「我が輩は猫が好き」などが省略されたものなので、 いったい何を根拠に引、用だとか、不正確だとか言えるの? 提示している「我が輩は猫」に集中しなよ。 もともと「俺はコーヒー」と言ってきたから それに対して、同じ文形で「我が輩は猫」と書いただけだよ。 「猫が好き」なんてどこにも書いていない。 「である」とも書いていない。 「俺はコーヒー」には、「好き」とか「である」と書いてないよな。 そう自分で書いていて、不自然に思わなかったか? >>>[i am cat]しかないことはない。 >>>状況によって「I like cat」になったりする。と書いた。 >で、くどい説明を付け加えると、 >「我が輩は猫」はあなたの解説ではSVOに >見えるかもしれないが省略した部分を元に戻すと >SVOに見えなくなるでしょと >>>それは日本語の構造がSVOで表せないからだ。 >と書いたんだ。 省略してもしなくても変わりない。 「である = にてある = だ」、関西では「じゃ」だそうだ。 取りあえず、これが本当だと仮定して 「我が輩は猫である」=「<我が輩> あり ねこ にてある(だ)」 「にてある」は「である」、「だ、じゃ」に変化する一体の言葉だ。 「にてある = である = だ、じゃ」 室町時代に変化を起こし始めて、 しかも「だ」は助動詞になって活用まである。 主に体言に接続する、体言を受けるそうだ。 なんでこんな変化を起こすかというと、 「にてある」が話者には一体に感じるからだ。 これも何度か書いたと思うが 「<我が輩> あり ねこ にてある」 = 「SVSV」 この文章は二通りの見方があり、それぞれ 「<我が輩> あり ねこ + にてある(だ)」 = 複文 「<我が輩> あり + ねこ にてある(だ)」 = 重文 複文に分ける見方・考え方は時枝文法だったと思うな。 いずれの見方・考え方でも、 「<我が輩S> ありV + ねこS にてある(だ)V」=「SVSV」 となってしまう。因みに 「我が輩」=「我 持つ 輩」=「SVO」 なのは、すぐに分かるはずだ。 この例はSVSV…の入れ子になっているんだな。 >>805 >>「逃げるが勝ち、ビールが美味い、明日が山…」 >「明日が山…」については意味不明(あすがやまって何?)だが >これは排他的限定を表す現代の「が」の用法だ。。だから 「明日が山(山場)、昨日は初日、今日は二日目」と言うだろ。 これらは、それぞれ 明日が山(山場) = 明日 持つ 山(山場) = SVO 昨日は初日 = 昨日 持つ 初日 = SVO 今日は二日目 = 今日 持つ 二日目 = SVO 「が=持つ」の方が、<排他的限定を表す現代の「が」>よりも、 しっくりきて、わかりやすいし、 日本語を統一的に、深く理解できるだろ。 その理由は、もともとの日本語の作りが、そうなっているからだ。 >>808 ×昨日は初日 = 昨日 持つ 初日 = SVO ×今日は二日目 = 今日 持つ 二日目 = SVO ○昨日が初日 = 昨日 持つ 初日 = SVO ○今日が二日目 = 今日 持つ 二日目 = SVO >>807 >いったい何を根拠に引、用だとか、不正確だとか言えるの? ん、引用じゃないの?ww >提示している「我が輩は猫」に集中しなよ。 しているよね。下のように >>で、あなたの言う「我が輩は猫」については「我が輩は猫である」 >>とか「我が輩は猫が好き」などが省略されたものなので、 と、「我が輩は猫」について書いてある。「我が輩は猫」についての叙述 であって「吾輩は猫である」についての叙述ではない。 >もともと「俺はコーヒー」と言ってきたから >それに対して、同じ文形で「我が輩は猫」と書いただけだよ。 だから何で見え透いたことを言うかな。まあ、同形だから書いたというなら それでいいよ。>>790 で >「俺はコーヒー」と単独で言われたら[i am coffee]で正解だよ。 を正当化するために >「我が輩は猫」と単独で言われたら[i am cat]しかない。 と書いたのは明らかに漱石の「吾輩は猫である」が想起させる俺は猫という存在である という意味を利用しようとしているからだろうに。 引用だろうが同形文だろうが、 「俺はコーヒー」と単独で言われたら[i am coffee]で正解だよ という主張はおかしいことに変わりはない。理由は>>799 で >なんでこういう返答をするかな。何、コーヒーが自分の視点から >人間社会を風刺する小説でも書くのか? >どちらにせよどういう状況でこのような言葉が発せられるのか >知りたいよ。 と書いた。これもしっくり来てないことについて書いたものだ、と 当たり前のことをくどくど指摘するのは疲れる。 >「猫が好き」なんてどこにも書いていない。 >「である」とも書いていない。 省略されているんだから書いてないのは当たり前である。と 当たり前のことをくどくど指摘するのは疲れる。 >「俺はコーヒー」には、「好き」とか「である」と書いてないよな。 >そう自分で書いていて、不自然に思わなかったか? もう、子供の反撃だな。痛くも痒くもないよ。 「俺はコーヒー」と単独で言われたら[i am coffee]で正解だよ。と 自分で書いていて、不自然に思わなかったか?と初めの疑問に戻す。 >省略してもしなくても変わりない。 変わりある。あなたの説によると「我が輩は猫」はSVCであるらしい。 で、「我が輩は猫である」をSVCに準じた型だと言いたいために、あさっての 方角に長い説明をして、何とか「SVSV」とそれらしき結論に導いただけ。 これで変わりないとはよくぞ言う。 >>808 >「明日が山(山場)、昨日は初日、今日は二日目」と言うだろ。 ああ、山って山場のことね。了解。じゃ、これも排他的限定を表す現代の「が」だ。 >明日が山(山場) = 明日 持つ 山(山場) = SVO >昨日は初日 = 昨日 持つ 初日 = SVO >今日は二日目 = 今日 持つ 二日目 = SVO だからバタ臭いと何度も言ってるでしょ。日本人に「明日 持つ 山」なんて 言ってまともな返事が返ってくるか? それは「明日が山場」の意味を英語風に表現したものだ。だからSVOに見える。 何度も言っているように「明日が山場」の文型ではなく「明日 持つ 山」の文型だ。 文法は用法の規則の学問である。解釈ではない。 俺がもし英語公用のキチガイ会社に入ったら なだきみたいなアホ外人のりで上司に接するな 完全に馬鹿にして表情とかもコントの外人みたいにして >>811 ww文法なんて要らねえよ。会話が出来りゃ金が儲かる、と言うスレだからね。 くだらない議論がダラダラ続いているな 英語をじゃっぷ語に置き換えている時点で負けだから 日本に来たネイティブの英語講師が驚くことは 日本の英語教師が英会話ができないこと 英文法の本を出している英語で食っている人間ですら英会話ができないこと >>810 >>>で、あなたの言う「我が輩は猫」については「我が輩は猫である」 >>>とか「我が輩は猫が好き」などが省略されたものなので、 >と、「我が輩は猫」について書いてある。「我が輩は猫」についての叙述 >であって「吾輩は猫である」についての叙述ではない。 何を言ってるのか、もう全然分からないw 繰り返し確認すると… 「吾が輩は猫」≠「我が輩は猫である」≠「我が輩は猫が好き」 この三つは文章が違うよ、それは分かるよな。 「我が輩は猫」=「<我が輩S> ありV 猫O」=SVO 「我が輩」=「我S 持つV 輩O」=SVO この文章はSVOが入れ子で、二重になっている文章だ。 かたや 「我が輩は猫である」=「<我が輩S> ありV 猫O にてあるV」 =SVOV=SV+SV=SVO+V こういう構造になっている。 SV+SVだと重文だ。 SVO+Vだと複文だろうな。 因みに、「にてある>である>だ、じゃ」 と室町時代から変化しだしたとのこと。 こう変化を起こした理由は、 話者が「にてある」が一つの動詞と感じているからだ。 こういう一体感の例は、他に多数ある。 「俺はコーヒー」と単独で言われたら [i am coffee]がその英訳だ。 わかったかw 同様に 「我が輩は猫」と単独で言われたら[i am cat]しかない。 「我が輩は猫」と言われて、漱石の「我が輩は猫である」とか 「我が輩は猫が好き」を思うのは勝手だが、 それはお前の妄想・夢想だ。 >>822 「あり」は自動詞だね。 英語でもbe動詞は自動詞だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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