2019年08月20日

日刊SPA!取材班

 反日運動が盛り上がる一方で、韓国パッシングを決め込む日本。今や日韓関係は修復不可能と思えるほどこじれている。きっかけは徴用工訴訟問題を巡って、韓国の裁判所が日本企業の資産差し押さえに動いたこと。その対抗措置として、日本政府が7月に韓国に対する輸出管理を強化したことで反日感情が高まった格好だ。

 そんな最中に、日韓関係を“裏テーマ”にした異書が発刊された。『殺しの柳川〜日韓戦後秘史〜』(小学館)。大阪の在日社会で身を立て、山口組きっての武闘派としてその名を轟かせた柳川組初代組長、柳川次郎の半生を追った一冊だ。  「殺しの」という、あまりにも物騒な通り名が知れ渡ったきっかけは、1958年2月に起きた大阪・鬼頭組との西成抗争だった。
〈西成を縄張りとし、飛田新地での管理売春をシノギとする鬼頭組といえば、当時は100人を超える組員を抱える大組織である。「泣く子も黙る鬼頭組」と恐れられた。その鬼頭組の縄張りに手を突っ込んだところ、かえって、仲間のひとりを拉致されてしまう。  それでもひるむことなく、柳川はわずか八人で日本刀を手に鬼頭組の事務所に殴り込みをかけた。〉(本書より)  
このとき柳川が仲間にかけた「どうせ失うのは命だけ。みんなで一緒に死のうや」は、ノンフィクション作家の山平茂樹氏の著書や柳川をモデルにした映画でも使われたあまりにも有名なセリフだ。  死闘を制した後の同年11月に、柳川は大阪・キタに柳川組と柳川興業の二枚の看板を掲げて柳川組を正式に立ち上げ。任侠映画ならば、その後、柳川が暴力にものを言わせて成り上がっていくさまが描かれるところだろうが、本書では紙幅を割いていない。そこに、日韓関係を裏テーマにした本書の真骨頂がある。  
元『週刊文春』記者で本書の著者である竹中明洋氏が話す。 「週刊誌記者時代に某政治家の贈収賄ネタを摑んで、一時期、集中的に関西で取材をしていたときに仲良くなったのが在日の人たちでした。以来、関西出張のたびに飲むようになると、みんな面白い昔話をしてくれる。そして、しまいには『わしらのこと本にしてや』と。それから在日の歴史について書きたいなと思い始めたときに、大阪の親しい警察官から柳川次郎が韓国の情報機関のエージェントのような役回りを果たしていたという話を聞いて、柳川次郎を中心に日韓関係や在日社会について書こうと考えたんです」  
実際、本書では柳川組解散後にフォーカス。柳川が韓国のエージェントとして暗躍した場面が詳述されている。  

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://nikkan-spa.jp/1598010

次のページ
在日が抱える葛藤
https://nikkan-spa.jp/1598010?page=2