【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒(まき)向(むく)遺跡で見つかった桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、おおむね西暦135〜230年に収まることが分かり、市纒向学研究センターが最新の研究紀要で報告した。女王・卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)が邪馬台国をおさめたとされる年代と重なり、「畿内説」を補強する研究成果といえそうだ。
同遺跡では平成22年、中心部にある大型建物跡の南側にあった穴から、2千個以上の桃の種が土器とともに出土。名古屋大の中村俊夫名誉教授がこのうち15個を放射性炭素年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個をのぞき、西暦135〜230年のものであることが分かった。徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纒向遺跡は初期ヤマト政権の首都で、魏(ぎ)志(し)倭人伝に登場する邪馬台国の有力候補地。桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1・5キロに及ぶ。昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡とも考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、運河跡のほか、東海地方や吉(き)備(び)(岡山県)、出雲(島根県)など全国各地の土器が確認され、当時の中心地だったことが明らかになっている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100〜200年との分析結果が出ているという。
同市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果だ。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
〈纒向遺跡〉奈良県桜井市の三輪山西部に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの巨大集落跡。弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。邪馬台国の有力候補地で、大和王権発祥の地とされる。卑弥呼の墓との説がある箸(はし)墓(はか)古墳など最古級の前方後円墳6基が集中。3世紀前半の大型建物跡、物資輸送用の運河が見つかっており、インフラが整備された都市だったと考えられている。また、関東から九州で作られた土器も出土。全国から人が集まってきたことを裏付けている。
https://www.sankei.com/images/news/180514/wst1805140063-p1.jpg
■動画
https://youtu.be/ZTYsOcOxnDg
産経ニュース
https://www.sankei.com/west/news/180514/wst1805140063-n3.html
★1が立った日時2018/08/04(土) 14:33:56.88
前スレhttps://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1535958697/ >>851
一大率は刺史のごときと書かれてるだろ?
刺史とは地方の役人のことだよ
つまり一大率が置かれた伊都国は邪馬台国から遠いということ
もし伊都国が邪馬台国から近かったら、一大率は司隷校尉のごときと書かれていないとおかしい
魏使は遠いという認識をもっていたから一大率を刺史に例えたわけだ
水行二十日、水行十日陸行一月の記述とも整合性がある
伊都国は邪馬台国の近くにあると勝手に思い込んでたようだが
実際は伊都国や一大率の記述は九州説にとってものすごく都合が悪い >>854
で
江頭説と篠原説とやらでは肝心の一里はメートル法換算でいくらになるの? >>858 私の意見です
日本列島の成立の頃から 南方海上よりの黒潮海流は常に日本列島を巻き込み北上し流れてきた
日本列島に初めて漂着したのは北方から徒歩で来た人々では無く 南方より黒潮に乗り米作と共に漂着した人々だった 黒潮は休む事無く常に日本へ流れており
漂着する人も三々五々の如く常に日本へ流入し続けた 琉球 九州 四国 本州の順で
北方は21世紀の今も人の生存状況は厳しく 此処を超えて多数が来たとは思えない
南方より漂着した人々は石器時代には黒曜石を産出する地域に集まり米作で生活し1万5千年前頃には人類初の土器を製造し始めた
石器時代は徐々に銅器時代へと移行し始める この時の日本には大阪には銅鐸文明が栄える 銅から鉄へ移行する時
九州北部に鉄を持った天孫降臨族は発生し博多を拠点とし九州を支配下に治め倭国(チクシ)と称する
勿論大陸との外交は重要で周や漢や魏と交流する その間の出来事は 金印(カンノイトコクオウ)同じくヤマイチ国のシンギワオウ(ヒミカ)場所は福岡県春日市スクオカモト(絹の出土)
倭の五王(都督府を大宰府へ) 岩井天皇の律令制度 サチヤマ白村の戦いでの敗戦などがあり700年まで続いた
100年頃今の糸島市で不遇を囲っていた神武兄弟は新天地を求め大阪侵略を思い立つ
勿論神武兄弟以前にも多くの侵略者が行ったがまだ成功は見なかった
大阪の銅鐸文化圏へ天孫降臨族の不断の圧力が今の岡山県あたりで前哨線となっていた
当然銅鐸圏の東鯷国ナガスネヒコの防御は明石や淡路島で堅かった 為に神武兄弟は鳴門をとおり大阪湾へ突入したが散々に負け神武の兄は死ぬ その後熊野をとおり奈良へ侵入し殺戮の限りを尽くすがその後スジンまでは奈良に逼塞する
北陸へ半島より渡来した継体は神武五代の末という触れ込みで奈良政権を奪う 本来であれば神武の正統は大勢存在したが内紛に感けて継体の侵略を許した
奈良政権を奪った継体は次に倭国簒奪を狙う モノノベノアラカイへ九州を与え本州は自分がとるとの密約は周知の事実
半島の高句麗との戦いの援軍を装い岩井天皇を暗殺したが 九州の肥後の軍勢に追われ倭国奪取は出来なかった
倭国由来の血統の絶えた継体以降は敵地同然の奈良の居心地は悪く 半島由来の多く住む滋賀京都を目指した
700年以後同じく半島由来の藤原一族と共に日本列島の支配者となる
この時テンムが倭国の文書(日本旧記を始めとする)を集め日本書紀に内容を剽窃した 水行二十日、水行十日陸行一月かけて畿内から派遣された一大卒
鏡40枚に鉄の宝剣に数多のメノウやら勾玉で着飾った伊都国の女王を見て何を思ったんだろうw
畿内の一大卒は鏡勾玉を買うために汚い土器を売りに来た商人ではないかな
考古学的には土器を売りに来た一大卒は伊都国で相手にされなかったようだけどw >>567
紀記に名前の無い神様が御神体の神社の神様は
みな大国様にさせられたらしい
九州の女王に統治される前は
近辺のクニは大国主が統治でもしてたのかな
>>714
宮崎に大日霊女の古墳 >>865
遺跡、出土品、楽浪土器、全国各地の土器、地名
通説に逆らう理由はまったくないし 本来アマテラスは男王で大和の大王
それを紀記で日女尊にスライドした >>868
「紀記」って漢字変換ででないんだけど、どうやって出したの? >>867
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國(於國中有如刺史)」
を解釈してみて >>868
>本来アマテラスは男王で大和の大王
半可通はこれだからw
天照大神以前の、天照神として男神を想定する説は割りに人気のある説だけれど、
天照で「アマテル」と読むんだよ >>870
女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。
諸国はこれを畏れ憚っている。つねに伊都国に治めている。 畿内宗教の夢解釈はいいから
桃の種以外裏付けないの?
汚い土器だけ? >>872
だと女王国の以北が伊都国なんだから伊都国の南が邪馬台国になるってこと? >>874
はあ?
方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
先入観でどっちが正しいかと決めつけない
あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの >>875
>方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと小学校で習ったはずだが
習ったことないんだが
アナタの行った小学校はどこ?
>あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
じゃつきあわせてのプロセスを説明して邪馬台国の所在を決定してみて >>874
言いたいことは分かるが、伊都国は女王国に属す、だぞ
以北は朝鮮半島の可能性がある。あまり誰も言ってないが
陳寿は女王国と邪馬台国を使い分けてるよね >あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
畿内説の物証出せよ
まったく無いだろ >>877
ID:S3609ez+氏は>>861で伊都国は糸島三雲と言ってんだから >>876
覚えてないなら小学校からやり直せばいいだろ?
根拠は前方後円墳体制
伊都国や奴国が前方後円墳体制に組み込まれる動きが3世紀前半から始まってる
畿内系土器の分布でとくに奴国は畿内勢と真っ先に手を結んでいる
その年代を土器編年だけでなく、科学的に裏付けたのが今回の研究発表 >>879
俺の言い方がまずかったかな
陳寿が女王国と言ってるのは邪馬台国じゃなく
邪馬台国連合全体(仮)を言っているんじゃないかなってこと
推測だからスルーしてください >>881
>方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明だと
どこの小学校に行けば教えてくれるの?
具体的に学校名教えて
>あくまで物証と他の史料と突き合わせて決めるもの
全くつきわせがなされていないのだが 比定のための条件があるじゃまいか
・対馬や壱岐や福岡は邪馬台国の北にある。
・南に狗奴国という宿敵がいる
・漢の時代から中国と交易がある
・温暖な土地であり阿蘇山がある
・墓は棺有り槨(石室など)は無しで土を盛ってつくられる
・戦争が頻発していた
・鉄剣や鉄の矢じりを使っていた
・鵜飼の文化がある
・馬は居ない
・卑弥呼のいる宮殿の警備は厳重である
・女王国から見て東に倭人の住む島がある
・女王国から見て南に小人が住む島がある
・遺跡から鉄器や青珠、絹が出土する
・年代は3世紀である >>883
小学校を教えろとか本気で言ってるのか?
まず自分が書けよ
その小学校で教えてないか電話して聞いてやるから
>全くつきわせがなされていないのだが
理解できないのかな?
今までこのスレで佐々木論文は何度もリンクが貼られているけど読んだ?
読まずに文句付けてるだけならまず読んで理解してからにしてくれ 畿内説の本質
・前方後円墳体制ができるまで畿内が日本
・漢倭那国王は天皇と無縁で、むしろ漢に関りがある国
・弥生後期に天皇が九州に侵略するまでは九州沖縄は中国領土で対馬は韓国領土
さすが憲法9条の会の畿内説と言える >>885
@紫野小学校
Aつきあわせできてないアナタが応えるべき
佐々木に責任を押し付けるなよ ネット上のことなのでどこまで信憑性あるかわからんがこんなのもある
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/小学校社会_6学年_上巻 >>888
>何年卒の誰?
そこはできない
問うからにはまずあなたが何年卒の誰と答える義務がある
でオマエが習ったとかいう小学校はどこなんだ?
習ったという先生名を教えて連絡先付きで >>890
それじゃ問い合わせできんから聞いてるんだよ
で、どうやら小学校で教えているのは確実のようだ>>889
ただの落ちこぼれだっただけじゃないか? >>866
>宮崎に大日霊女の古墳
宮崎のどの古墳? 具体的に教えてよ! >>874
>だと女王国の以北が伊都国なんだから伊都国の南が邪馬台国になるってこと?
陳寿の認識、陳寿の記述ではそうなるというだけで、実際の地理の方角とは一致していない
それだけのこと >>882
>陳寿が女王国と言ってるのは邪馬台国じゃなく
>邪馬台国連合全体(仮)を言っているんじゃないかなってこと
それで正しいよ
ただ、二箇所だけ、女王国を邪馬台国の意味で使っている
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國
この二箇所以外は、女王国=卑弥呼の共立に参加した国全体(≒前方後円墳体制) >>884は何度も貼ってくれてるけど、それできが悪いんだわ
侏儒國、裸國、黒齒國は、山海経、淮南子の伝説をそのまま書いているだけだから、
実在しないし、そんなのを探すだけムダ
太平洋の向こうのエクアドルだとか言い出すのがオチ
既にこちらも何度も貼っているけれど、これが正解
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人 >>891
ちゃんと習ったとおりに書くか教科書通り書かないで
>>875 >方角が正しいか、日数(距離)が正しいか不明
と書くからおかしくなるんだよ
そんなふうに教えてるかどうかその先生に問い合わせてみたいな ・邪馬台国の発音に近い地名
⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積
広い範囲からの人が集まっている証拠
⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、
この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると
誤解した可能性がある 九州説だと
・邪馬台国の発音に近い地名
一応、山門あたりが候補になるが、次の戸数7万戸とみなせる遺跡はない
・戸数7万戸
奴国二万戸を超える国が、北部九州にはない
九州中南部にもない
・30近くの国々の盟主
奴国にはいろんな地域の土器が来ているが、港町・大陸との玄関口として
人が集まった結果であり、盟主的ではない
また、奴国は邪馬台国ではない
・宮室、楼観、城柵
吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国の想定に寄せて復元しているだけ
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国とは時代が合わない
・卑弥呼の墓径百歩
候補すらない
九州説お気に入りの平原1号墓は漢魏尺の度量衡だと10歩に満たない
無理に百歩だと言い張ると、複歩で12センチ、単歩(現代の一歩)で6センチになる
・徇葬百人
これは、日本中探してもない >>896
小学校で習った証拠を突き付けられて、一字一句同じでないとイチャモンつけてるだけだな
おまえが小学校で習ったはずのことも知らなかったのが判明した 日本國者、倭國之別種也。
日本国=畿内政権
倭国=九州邪馬台国政権
畿内と邪馬台国は並立していたことがちゃんと記録に残ってる。 畿内をヤマトという地名は無かった。
邪馬台国の名を踏襲してるだけ。
畿内の誰かが朝貢してるが礼儀がなっておらず叱られたw
この件は恥ずかしい事なので日本書紀には書かれていない。 ・邪馬台国の発音に近い地名
一部地域山門に残るが、大陸半島福岡平野から那の内陸側を読んだ呼称ヤマト
・戸数7万戸
那国北九州北岸諸国で25000、那国以南の筑紫筑後で27国で45000
・30近くの国々の盟主
畿内説は東海とか伊勢とか出雲とかめちゃくちゃ、某国に出てくる鬼国も志摩国も北部九州に名称が残っている
・宮室、楼観、城柵
九州では吉野ケ里があるが畿内では一つもない
・卑弥呼の墓径百歩
大きさも出土物も平原1号古墳が最有力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
・徇葬百人
前方後円墳に徇葬の例はない にっぽん!歴史鑑定で邪馬台国の再放送(たぶん)やってたね
やっぱりかなり纏向有利っぽいけど、確定ではないと慎重な意見
平原遺跡1号墓埋葬された人が女性シャーマンだったのは確実
ただちっちゃいんだよね 倭人伝の記述なら卑弥呼の墓おおきい >>899
責任回避か
一字一句同じでないといけないとか全然
自分の説明の拙さを棚に上げて ちなみに>>902の時点で日本は統一政権が出来ているようだが、すでに7世紀のこと。
卑弥呼の時代から300年も経ってるわけで、当然トヨも居ない。
朝貢の礼儀を知らないのもうなずける。
この辺りが畿内大和政権のスタート地点だよ。 >>905
小学生レベルの知識もないと証明されたやつが吠えてるだけだな
南は正しいとずーっと言い張ってろ
もう雑魚は相手にしない >平原遺跡1号墓埋葬された人が女性シャーマンだったのは確実
周りの柱の穴から当初は大きな構造物の中に塚があったようだ
構造物の建物の周囲で図ったのかもね ID:yuH/zlOz >>856 >>860 の回答まだ〜?
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 ∧_∧
ヽ___\(\・∀・)
\_/ ⊂ ⊂_)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
| 桃の種桜井 |/ つまり畿内でも統一政権を構築すべく活動を展開していたかもしれないが、九州邪馬台国とは全く別系統の話。
九州説しかなかったのになぜ畿内説が出て来たのか?
慰安婦の件と似たような話だ。 >>907
ID:S3609ez+を担当した小学校の先生がカワウソ過ぎる >>893
>それだけのこと
それだけのこと(捏造畿内説では)
と正確に書いとけ 卑弥呼の時代は九州政権の他にも各地域の政権が並立していた。
九州政権は漢や時代から朝貢を行うなどして中国との関係を深めていった。
他の政権の記録は無いが、出土品などから国内中心の交易が盛んだったと思われる。
卑弥呼の死去後、台与が後を継いだが狗奴国との争いは続き両国とも滅びる。
国内政権はようやく統一政権確立の目途が立ち、九州を含め各国に合併を促す。
〜空白の150年が経過〜
無事列島各国が合併し統一国家「日本」となった。
中国との関係が深く大国をよく知る邪馬台国の名を借りて、これを伝えに大陸へ朝貢する。
態度がデカい上にわけ分からん事を言い出すので帰される。
日本国統治はなかなか難しく上手くいかないので、再び大国統治のノウハウの伝授をお願いに朝貢する。
中国から来たコンサルの指導のもと、無事に日本国誕生。
このとき時代は既に7世紀。 >>835
水深1メートルを越える川は灌漑に利用できないから筑後川下流部の開拓は遅れる
これって「現在の筑後川」のことを基準に言ってないですか?
1700年以上前はもっと浅かったのでは?
あるいは海岸がもっと内陸なのでは? >>819
>畿内第V様式甕(弥生時代後期)が奴国中枢で見られるため、
その頃には、北部九州の中心の奴国と邪馬台国(畿内第V様式の範囲の勢力)は
協調関係にあったと見てよい
すると庄内甕時代以降の急激な浸透は何でしょうね。 >>914
どこかに「平地は少なく潟が多い」と書いてあった。
有明海周辺のことと思われる。 >>828
>畿内説の柱は土器編年だけかよ
土器編年すら解釈だけの話で
「畿内第V様式甕」は「弥生時代後期」であり
畿内や各地首長関係者が巻向に集結した「弥生終末期」の土器は「庄内土器」。
それをわざと1段階ずらして「畿内第V様式甕」を畿内連合時代の土器としている。
しかし,楽浪土器や馬韓土器の変遷とリンクさせると
それでは説明できない。
というか九州説では普通に説明できるが畿内説では説明できない。 >>893
> 陳寿の認識、陳寿の記述ではそうなるというだけで、実際の地理の方角とは一致していない
ではその「実際の地理の方角」とやらは
三国志の記述なしでどうすればわかるの?
(どうすれば決めることができるの?) >畿内や各地首長関係者が巻向に集結した
見てきたような言い方だな
やっぱり水滸伝の影響かw .
邪馬台国は、宮崎県 西都原(さいとばる)で決まり。 都萬神社(つまじんじゃ、都万神社)は、宮崎県西都市にある神社
創建
創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる[1]。
なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある 九州説なんか相手にしないでC14とか本来のスレに沿った話題にしたいね >九州説なんか相手にしないでC14とか本来のスレに沿った話題にしたいね
c14?
どうぞご自由に
そういえば桃の種は何年だ? 九州で卑弥呼が朝貢の準備に追われている頃、纏向の人々は3時の休憩に桃食ってました。
ただそれだけ。 日本という国は、三輪山の下に全国の代表者が集まって、話し合いによって作られた国だったんだね
まさに和を以て貴しとなす
古代の日本人達はなんて優しくて素晴らしいんだろう!
ヤマトの国は、姫御子様の前から日本の中心的な国だったのだろうけど、それはいつ頃まで遡れるのだろうか
姫御子様のご先祖様はいつ吉備に来たのだろうか
その前は日向にいたのだろうか .
j神武天皇は、もともと日向(宮崎・鹿児島)の誕生である。 >>655
奴国から筑後平野を水行する理由がないだろ?
福岡平野から筑前平野の弥生遺跡の多くは御笠川の左右にあります。
拠点間は川でつながっており,陸路は舗装されているわけでもなく
後背湿地や池,沼地のぬかるみもあるでしょう
馬の一頭もいない状況で船が使えるのに「魏の使節団に歩かせる」のでしょうか?
それは「大名を籠に乗せずに歩いていけ」というようなものでしょう。
例え舟を綱で引いても(舟が使える限りは)歩かせたりはしないのではないでしょうか。
それに筑後川から有明海,山門の海岸まで舟を使いますが途中でチャーターできるものではなく,
人荷は最初から舟に積んでおくでしょう >>659
>使節団の報告書の記述が東と書いてあった可能性は排除しないが、
陳寿の記述が「南」ってこと
「 位置に関わる重要情報」で「現地に行った使節団が東と報告した」のに
「陳寿が南と改ざん」した?
現地からもたらされる情報が無かった時代ならともかく,それは話になりませんね。
「使節団の報告書の記述が南だった」から「陳寿も南と書いた」というのが正常な判断でしょう。 >>928
これって後世にはばれるのが確実で
そうなると「陳寿」は「現地にわざわざ使節団まで送ったのに,こいつ間違えてやんの」
と言われ続けるのを覚悟していたということですね。 九州説の主張のように「糸島付近が伊都国」、「宮崎西都市都萬神社付近が投馬国」と比定するなら、
邪馬台国は、鹿児島よりかなり南の海の方でなきゃならない。
だから、沖縄、奄美を主張するのが冷静な考えじゃないのか。
なのに、なぜ、九州島内の宮崎や北部九州を主張するのか、そこが愚か過ぎる。
結局、おらが村が邪馬台国であってほしいという願望を言っているだけ。
魏志倭人伝の記述を素直に読めば、「東」を「南」と書き間違えた畿内説か、
「東」をそのまま「東」とする沖縄・奄美説の2つのうちの一つだ。
畿内説がいやなら、海に潜って卑弥呼の金印を探せ。 >>900
>倭国=九州邪馬台国政権
>畿内と邪馬台国は並立していたことがちゃんと記録に残ってる
そんなことを言ってるからトンデモなんだよ
旧唐書のネタ本の唐会要で、畿内大和王朝の藤原氏の遣唐使が、倭国伝に載ってるんだよ
唐会要99巻の倭国伝全文、日本伝は100巻にあるから紛れはない
倭國古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中。世與中國通。其王姓阿每氏。
設官十二等。俗有文字。敬佛法。椎髻無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵為冠飾。
衣服之制。頗類新羅。腰佩金花。長八寸。左右各數枚。以明貴賤等級。
貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠。遣高表仁持節撫之。表仁浮海。數月方至。
自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。
表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絕。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。
仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。
倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。
其琥珀好者。云海中湧出。
咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。
蓋惡其名不雅而改之。
大歷十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
薛原朝常嗣は、藤原北家の藤原常嗣
固有名詞まで一致していてこれが別人とは言わないだろ?
大和王朝そのものが号を改めるまで、倭国なんだよ
九州王朝の倭国なんてない >>901
>今後は畿内説は無視して九州限定で比定しろ
九州限定の倭国は、其山有丹だけで破綻する 九州説の人ら、ど素人ばかりで夢見とらんと、地元の九州大学あたりに応援頼んだらどうや。 >>699
>投馬国と邪馬台国への水行の起点を帯方郡にする読み方は、
東南にならないからおかしい
ええ,それはおかしいでしょうね。
そんな説は今まで聞いたことがありませんでしたが。
>本当に水行の起点が帯方郡で里数と日数の二通りの書き方がされているなら
「東南」至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月でなければならない
「直線的な海路や陸路」では「方角も里数も記載可能」ですから,
この記述は「単純に東南ではない複雑なルートを辿ったから」でしょうね。 南でなきゃならないとするのは畿内説の勝手な解釈
那国まで10500なら12000の残り1500の範囲が九州北部説
畿内説の妄想解釈押し付けるなよ邪馬台国は筑紫筑後平野の30国の共立女王 >>930
最近、南九州では、高速道路を拡張するなか、
霧島から大隅半島までの都市があったみたいだし、9500年前の縄文時代は、
日本最大都市だったと鹿児島県が書いている。
↓
霧島(きりしま)市の上野原
(うえのはら)には、
約9,500年前の縄文(じょうもん)
時代初めの、
日本最古・最大規模(きぼ)の
定住集落跡(あと)があります。
竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、
集石、連結土坑(れんけつどこう)、
土坑(どこう)、道跡(みちあと)
など多数の遺構(いこう)が
見つかっています。
連結土坑(れんけつどこう)では
肉の薫製(くんせい)が
作られていたようです。 >>908
>周りの柱の穴から当初は大きな構造物の中に塚があったようだ
>構造物の建物の周囲で図ったのかもね
墓坑の周りに柱穴と呼ばれるものがあるが、細すぎて建物を支えられるものではない
現在は杭穴と考えられている
墳丘の軸線方向にある大柱のことを言っているなら、それは独立の柱で建物の柱ではない
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓にも軸線方向に立柱が立てられており、さらにその延長上に
祠堂と呼ばれる小型建物がある
平原1号墓の大柱の延長上にも異形建物と呼ばれる小型建物があることから、同様な
墳墓祭祀があったと考えられる
なんにしても、平原1号墓を径百歩の墓と主張してたら、笑われるだけだよ >>910
>九州説しかなかったのになぜ畿内説が出て来たのか?
九州説はすぐにこういう嘘をつくw
九州説の方が新参だぞw >>912
>それだけのこと(捏造畿内説では)
>と正確に書いとけ
捏造はnn氏をはじめ、九州説の得意技だよ
まあ、九州説はいろいろ捏造しないと成りたたないのところまで追い詰められてるのは分かるけどさw >>914
>これって「現在の筑後川」のことを基準に言ってないですか?
流域面積が変わらない(分水嶺は動かない)んだから、
水量はそうそう変わらないと何度言えば
筑後三郎と呼ばれたほどの暴れ川で、江戸時代まで治水に悩まされていた地域に
弥生時代から安定した農地があったと考えるのは妄想以外の何ものでもないし、
そんなところに大国などあり得ない
弥生時代の遺跡分布も本流を離れた支流の扇状地にあるって話は何度もしてるだろうが!
nn氏の相手をするのは徒労だな 霧島あたりには、まだ、発掘されていないものが、沢山ありそうだね。
高速道路の拡張で、発見されだした
古墳群もあるみたいだね。
ここなら、投馬国より南になるから、
なるほど、合点いきますね。
えびの、都城、霧島から大隅までやね。
あ、会稽の東にも当たりますね。
霧島山麓の古墳の特徴
霧島山麓には、前方後円墳、
ホタテ貝古墳 、五段環状の古墳、
円墳等、地下式横穴墓がある。
えびの市の島内地下式横穴群は、
現在300基。推定1000基とも
いわれている。
えびの市島内古墳人は、
頭蓋計測値の分析結果、縄文的な要素を
残しながら、渡来系の遺伝子を
受け入れた集団という
報告書がある。 縄文人と弥生人。
渡来人と縄文人。
彼らの交流が積極的に行われていたことは、
南九州では青銅器文化がなく、
鉄器の文化から急速に発展。
それは、えびの市の島内地下式横穴墓の139号に、銀装円頭大刀があり、
その柄間にまかれたところに
鮫皮巻(さめかわまき)装飾がある。
これは、
国内最古という聖武天皇の遺品
政倉院の太刀より200年遡るかな?
また高級織物の経錦(たてにしき)で飾った
太刀もあり、長さが142センチ
国内最長かな。
あらためて霧島山麓の文化を
みてみては、いかがかな? >>918
>ではその「実際の地理の方角」とやらは
>三国志の記述なしでどうすればわかるの?
>(どうすれば決めることができるの?)
文献史学では決められないのは明らか
あとは考古学的出土物、遺跡や遺構から考えていくことになる
古墳時代には日本列島の広い範囲で前方後円墳を作るという合意が為されており、
それが事実上倭国の範囲そのものと見なせる
そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
前方後円墳体制の盟主があることは明白
ここまでは、「ごく一部の九州説(九州王朝説:古田史学の一派)」以外は認めること
邪馬台国論争は、邪馬台国の絶対年代が古墳時代に入っているかどうかに焦点がある
そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
考えられるようになっている
これが全てだよ
既に決着済み このスレの発端の「科学ニュース」も、この焦点となっている
古墳時代の絶対編年の最新のデータも、古墳時代の開始が
卑弥呼の時代よりも前になることを示すもの
桃の種が邪馬台国の証拠なんて誰も言ってない 卑弥呼の時代は九州政権の他にも各地域の政権が並立していた。
九州政権は漢や時代から朝貢を行うなどして中国との関係を深めていった。
他の政権の記録は無いが、出土品などから国内中心の交易が盛んだったと思われる。
卑弥呼の死去後、台与が後を継いだが狗奴国との争いは続き両国とも滅びる。
国内政権はようやく統一政権確立の目途が立ち、九州を含め各国に合併を促す。
〜空白の150年が経過〜
無事列島各国が合併し統一国家「日本」となった。
中国との関係が深く大国をよく知る邪馬台国の名を借りて、これを伝えに大陸へ朝貢する。
態度がデカい上にわけ分からん事を言い出すので帰される。
日本国統治はなかなか難しく上手くいかないので、再び大国統治のノウハウの伝授をお願いに朝貢する。
中国から来たコンサルの指導のもと、無事に日本国誕生。
このとき時代は既に7世紀。 >>751
某漫画の山の王みたいなイイ女だったらロマンあるよな 日本?史地圖 最終版
https://www.youtube.com/watch?v=6Z0avSjgtHo
中国人が邪馬台国は北九州だと主張している
中国は北九州が邪馬台国であるほうが九州支配に有利だから >>940
>筑後三郎と呼ばれたほどの暴れ川で
ナイル川のように広範囲に肥沃な土と塩分濃度低下をもたらすということですね。
ちなみに「筑後川流域」というから誤解されるようなので「筑後川水系流域」と言い換えましょうか。
当然支流も含んでいます。
>弥生時代の遺跡分布も本流を離れた支流の扇状地にあるって話は何度もしてるだろうが!
つまり筑後川の支流流域で稲作も行っていたということです。
また筑後川に合流する「宝満川」流域や福岡平野・筑前平野を流れる「御笠川」流域に「弥生遺跡」が集中しています。 >>945
そういう説もどきを書くなら証拠くらい示したらどうだ?
証拠出せないならラノベ板にでも行った方がいい >>939
この捏造とは「那珂古墳がIB期である」ことから
「IB期を古墳開始期とみなした」ことですね。
IA期:終末前期 邪馬台国(北部九州)が魏と通交した時代
IB期:終末後期 北部九州が畿内勢に浸透され吸収された時代
IIA期:古墳開始期
と訂正しています。
畿内説では楽浪土器や馬韓土器の経緯も説明できず成立しません。 邪馬台国の話しは、話が持つなあ。
関連本も売れるはずや。 九州説は、もう少し、普通の学者に味方してもらわないと話にならんな。
いつも佐賀の引退した教授の、反論になっていない反論だけでは、いかにも心もとない。 >>932
>九州限定の倭国は、其山有丹だけで破綻する
北部九州には長崎にも大分にも水銀鉱床が存在します。
(丹は水銀と硫黄の化合物)
弥生時代は自然に湧き出し溜まった丹を集めたものでしょう。
本格的に採掘が行われるようになったのは古墳代以降のようです。
ちなみに現在でさえ北部九州では水銀が自然に湧き出ているようで
中学生が湧き出した水銀を牛乳瓶で集めて遊んだりしたようです。
https://blogs.yahoo.co.jp/big_lagoon/32557832.html 決め手は「馬」やな。 邪馬台国ゆえな。
たぶん、宮崎か徳島やろ? 畿内に近いという
ことで、徳島の剣山周辺でしょな。 これは秘密な。 >>941
なかなか面白そう
縄文文化から鉄器文化というのは水軍主体の倭寇を想像するね
朝鮮南部ではなく中国本土にアクセスし海賊や交易を主体とした集団
本来中国から認知され恐れられていたのはこういう人々だろう
邪馬台国はこのような人々を制御することを期待されていたはずだ >>854の論文読んでも著者たちが一里を何メートルに設定してるのか皆目わからない
スマンけどかわいそうなオレに誰か教えてくれ >>57
倭国≠邪馬台(臺)国かつ倭国⊇邪馬台国と仮定すると
訓みはどうなるんだ?
倭「ヤマト」と邪馬台「ヤマト」じゃ区別できなくなる
倭「ヤマト」で邪馬壹「ヤマイチ」もありということなのか? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。